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昨日までとは違う今日の話 ドSな彼は逃がさない

すがみや / 著
なま / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/09/27

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内容紹介

俺の形以外、全部忘れさせてやる
「どうしようもなくあんたが欲しくてたまらない」
平凡なOLのあかりは、満員電車でのやりとりで痴女に間違われたまま、さわやかな年下リーマンの緒方さんと身体をつなぐようになる。「これが欲しいんだろ?」意地悪な言葉ばかりかけてくるのに、彼がくれるキスは恋人のように優しく、快楽は味わったことのない極上のもの。不器用で口下手な彼を知るほど惹かれ、このまま溺れたくないと逃げ出すあかり。しかし——『見つけた。もう俺から逃げるなよ』奥深くまで届く楔にとらわれ、もうありふれた日常には戻れなくて…?

立ち読み

 高校を卒業してすぐに実家を出て、この春で七年目になる。
 昨夜ポストから持ち帰ったダイレクトメールの類(たぐ)いが無造作に置かれているのは、玄関の靴箱の上。「楠(くすのき)あかり」とわたしの名前が書かれたそれらは、美容室や行きつけの洋菓子店からの案内はがきに公共料金の明細書などだ。
 靴箱の扉を開き、わたしは一段目右端のパンプスに手を伸ばす。一段目は通勤用の靴を並べると決めており、飾り気のないシンプルなものが三つ並ぶ。その下には普段使いからおしゃれにきめたいとき用までたくさんの靴が縦に四段並んでいた。
 二段目の左端には、冬のボーナスで買った真っ赤なヒールがつやつやと輝いているけれど、まだ一度も履いてない。履く機会に恵まれなかったからだ。
 心躍るイベント目白押しになるはずの冬だけれど、残念ながら去年のわたしはそういった楽しいイベントとは縁遠かった。おひとりさま同士女子会を楽しもうと約束した友達が土(ど)壇(たん)場(ば)で彼氏をゲットしてしまったことが大きいだろう。
 まあ、おめでたいことだから、特に恨(うら)み辛(つら)みのようなものはないけど。
 わたしはパンプスを履き、玄関横の姿見に全身を映す。
 実にシンプルな装いだ。肩を越える長さの髪をひとつにまとめて前に流し、白いシャツに紺色のジャケット。そして、膝丈のスカートから覗(のぞ)くのはストッキングに包まれた淡いベージュの足。その先にはさっき履いたばかりの黒いパンプス。
 鏡に顔を近づけて、身だしなみの最終確認をする。
 派手にならない程度に施(ほどこ)された化粧。口紅ははみ出していないし、マスカラも落ちてない。眉毛の書き忘れもないし、髪だってはねてない。
 よし、大丈夫。
 わたしは靴箱の上に置いていたキーケースを握りしめて、玄関のドアを開いた。
 エレベーターに到着するなりボタンを押し、ゆっくりと階数を変えていくパネルを眺める。
 就職が決まったとき、会社へ通いやすいこのマンションに引っ越した。学生の頃はワンルームだったけれど、今は違う。寝室とは別にもうひと部屋あることもキッチンがあることも、わたしを自立した大人の女にしてくれたような気がして嬉しかった。
 すっかり慣れてきた最近では、もう少し広い部屋に住みたいなんて欲も出てきたけれど、次に引っ越すときはきっと将来をともに過ごす伴侶(はんりょ)と出会ったときだろう。
「……結婚、かあ」
 溜息とともに漏れ出た言葉は、ひとりきりのエレベーター内で弾けるようにして消えていく。
 去年あたりから学生時代の友人からそういった連絡が届くようになった。二十代前半最後の年になる二十四歳とはそういった時期なのかもしれない。結婚式にも数回出たけれど、しあわせそうなふたりを見ることにより自分もいつかは、と思わずにいられないようにできているようだ。いつも感動のもらい泣きで泣きに泣いてしまう。
 とはいえ、結婚とはひとりきりでできるようなものではなく、今現在のわたしには全くと言っていいほどそういった予定がない。
 マンションの出入り口で住人とすれ違い、会(え)釈(しゃく)を交わす。
 屋外は朝だというのに日差しが強く、やわらかく優しい春の終わりを感じずにはいられなかった。
 駅までの移動手段は徒歩。わたしと同じように駅へ向かう人が同じく徒歩、または自転車で進んでいく。ほんの少し前には思わず足を止めて見入ってしまうほど咲き誇っていた桜並木が、今では数えるほどの花を残すばかり。枝の先には青々とした新緑が覗き、夏の訪れを今か今かと待ち望んでいるように見える。
 駅までの道のりは実に穏やか。朝特有の清涼な空気を楽しむ余裕だってある。
 しかし、問題はここからだ。
 四方から集う人々はみな一様に改札を抜ける。これでも通勤ラッシュの一番きつい時間はさけているというのに、わたしは人の多さに辟易(へきえき)してしまう。
 わたしのような会社員ばかりではない。学生もいれば、休日を満喫する人もいる。それらの並ぶ列に混ざり、電車の到着を待つ。
 いつも決まって並ぶのはここ。四両目の右端の列だった。ここが一番降りる駅の改札に近い。
 この時間帯、電車を一本見送ったところで五分と待たずに次の電車が現れる。だから、あまりにも車内が混み合っているときは見送るのだけど、一本や二本ずらしたところでたいして変わりはない。一体これだけの人がどこから湧いて出てくるのかと不思議に思うほどだ。
 電子音が鳴り響き、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。途端に周囲の動きが慌ただしくなり、わたしは気合いを入れるようにぎゅっと唇を引き結ぶ。
 まずは降りる人が優先だ。しかし、ごった返した車内から脱出する人はほとんどいない。降りる人数と乗る人数の比率がおかしい。まあ、主要な駅以外なんてどこもこんなものだ。
 奥へ奥へつめてもらって、なんとか乗り込む。
 少しばかり時間が早いおかげでぎゅうぎゅうに押し潰される満員電車とまではいかないことが救いだろう。
 一駅、二駅と進む中、わたしはぼんやりと車窓を流れる景色を見つめる。
 遠く離れた地元とは違うこの景色。幼い頃眺めていた景色とは緑の比率が違う。わたしの生まれ育った場所は、ここよりもずっと緑が多かった。どこにいても視界に入り込む稜線(りょうせん)をまるで塀のように感じた頃もあったけれど、離れた今となっては懐かしく思い出す。とはいえ、この路線を通勤に使うようになって丸二年。この緑少ない景色にもだいぶ慣れてきた。窮屈ささえ覚えたあの景色を懐かしく思うように、いつかはこの景色を懐かしく思う日が来るのだろう。
 がたん、ごとんと電車が揺れる。カーブにさしかかって少し大きく車体が揺れたとき、わたしの鼻先に微(かす)かな匂いが漂(ただよ)ってきた。
 いつからだろう。この匂いを感じるようになったのは。
 人の多い車内なのだから、整髪料や香水の香りを感じることは多い。時には混じり合った匂いで具合が悪くなることだってある。そんな中、この香りは好ましくわたしの記憶に残った。
 しかし、周りの誰から香ってくるのかわからない。近づかなければわからないほど薄いのだろう。
 なんだかこの香りを感じると不思議と気分が良くなる。今日はラッキーだったなと思いながら、わたしはたくさんの人を運ぶ電車の揺れに身を任せた。
 ほどなくして会社の最寄り駅に着き、たくさんの人たちとともにホームへ降り立つ。改札へ向かう人の流れに逆らうことなくわたしも歩く。まるで小川に落ちた木の葉のようだと思うこともある。すいすいと運ばれていつしか水門に辿(たど)り着く頼りない木の葉。
 改札を出てからたくさんのビルが建ち並ぶ大通りを歩いて行けば、自社のビルへ辿り着いた。今度は同じように出社してきた人たちの流れへわたしは乗る。
「おはよう、楠さん」
 自席へ着けば、わたしより先に出社していた同僚に声をかけられる。
「おはようございます。早いですね」
「まあね」
 わたしの一年先輩にあたる椿(つばき)さんは、なぜか意味ありげににっこり笑った。椅子ごとわたしに近づいて、こそこそと声を潜(ひそ)めて話しかけてきた。皆が揃(そろ)う前のフロアは静かではあるけれど、こそこそ話さなければならないほどではない。
 不思議に思いつつ、椿さんへ耳を傾ける。
「今日ね、デートなの」
「はあ」
「でも、この前頼まれたやつ今日締めだからさ、早めに終わらせようと思って! 早く来ちゃった。ずっと行きたがってた店予約したよって言われたから絶対遅れずに行きたいんだ」
 ぱちんとウインクまで投げられて、わたしは思わず吹き出してしまう。
「かわいいとこありますよね、椿さん」
「どういう意味よ」
 椿さんには学生時代から続いている彼氏がいて、わたしはよくのろけなのか愚痴(ぐち)なのかわからない話を聞いていた。「もう五年も付き合ってるんだよ。そろそろさ、はっきりしてほしいよね」なんて椿さんが溜息交じりに言っていたのはいつのことだろう。
 世間話もそこそこに、わたしはデスク上に置いている卓上カレンダーに目を向けた。今の優先順位は、今月半ばまでに用意しなければならない資料の作成だろう。あらかたとりまとめはすんでいるから、必要な資料の抜けがないか確認して完成させてしまおう。
 わたしの仕事は、周りの人たちの補佐的なものが主だ。地味な仕事だと思うときもあるけれど、まとめておいてくれと頼まれた資料作成ひとつとってもどれだけ見やすく丁寧にまとめられるかなど意外に頭を使う。わかりやすかったよと褒められたりすればわたしだって嬉しい。
 華やかなものではなくても、やり甲斐はある。
 あれこれと考えながら動いている内に時刻はあっという間に正午を告げる。昼休みには椿さんとランチに出かけ、午後からも事務作業に精を出す。
 毎日同じことの繰り返しのような気がするけれど、一日一日緩(ゆる)やかに時は流れ、季節は巡っていく。
 朝のルートを逆に向かい、わたしはまた電車に運ばれていく。
 帰りの電車は、朝のごった返した車内の半分くらいの密度だろうか。座ることはできなくても両側を知らない人に挟まれたりすることはない。
 がたごと揺れる電車の窓から日の落ちた景色を見つめる。
 明日もまたわたしは小川を流れる木の葉よろしく職場へ運ばれ、いつもと同じ一日を過ごすのだろう。
 こうした日々を退屈だと言う人もいるだろうけれど、わたしは存外悪くないのではないかと思っている。
「ただいま」
 最寄りのスーパーで買ってきた食材を置き、誰もいない部屋に声をかけながらパンプスを脱いだ。それを靴箱に戻し、キーケースを靴箱の上に置いた。ポストに入っていたはがき一枚と昨日放置したダイレクトメールをまとめてバッグに突っ込んで、スーパーのビニール袋を持ち上げる。
「今日の夕飯は生姜焼きかな」
 キッチンにビニール袋を置いて、ひとりごとを言いながらわたしはうーんっと伸びをした。


 今日もまたわたしは人の波にもまれながら電車へ乗り込んだ。
 いつも通りと言いたいところだったけれど、カーブに差し迫って大きく車体が揺れた瞬間、体勢が変わって大きな身体(からだ)に押し潰されてしまう。
 逞(たくま)しき胸と硬い扉の間で一瞬呼吸が止まった。今日はいつも以上に人の多さを感じる。つり革も掴んでいないわたしには自身の体勢を立て直す支えがない。このままよろけて倒れてしまうかと思ったけれどそうならなかった。
 どうにか真っ直(す)ぐ立とうと目の前に見えた銀色のポールに片手を伸ばす。なんとか姿勢を立て直した一瞬の後(のち)には呼吸が楽になった。
 がたんとまた車体が揺れる。わたしは支えから手を離し、また人の身体に押される。
 しかし、今度は呼吸が止まったりしなかった。
「すみません」
 頭上から男性の声が落ちてくる。
 どうやらわたしを押し潰している身体の持ち主が、扉とわたしの間に手をついてわたしが呼吸できるようにわずかな隙間を作り出してくれたらしい。
 しかし、人の多い車内に変わりはなく、あちこちからぎゅうぎゅうと押されるおかげで、できた隙間はほんの少し。わたしと彼の身体はぴったりと密着している。
 少しでも彼の負担にならないようにと身体を動かすけれどうまくいかない。扉と彼の身体に挟まれて、下げていた手が少し痺(しび)れてきた。
 両手が自由になるよう上に掲(かか)げておかなかったことを今さらながらに後悔する。
「…………あ、ッ……」
 なんとか抜けないものかと悪戦苦闘しているわたしの耳に掠(かす)れた艶(つや)っぽい声が落ちた。
 おや? と思って目線をあげれば視界に入るのはごくりと上下する喉仏。もう少し上を確認したいとわたしはさらに首を後ろへ傾ける。
 わたしよりも背の高い男性の顔が目に入る。
 男性は少年めいた幼さを残した顔立ちをしていた。ふわふわした猫っ毛は人波に押されたせいかくしゃくしゃになっていて、くりっとした大きめの目は少しばかりつり上がった猫目。それが困ったように少し目尻を垂らしている。同じように眉も下がっており、目元は赤い。そして、唇をぎゅっと引き結んだ顔は何かを耐えているようで艶を感じさせる。
「あの、ちょっと」
 電車がまた揺れた。普段ならば揺れとも感じないような軽微な揺れがとても大きな振動のように感じられた。
 さっきよりも近い場所へ彼の顔が近づき、わたしの耳のすぐ側に彼の声が落ちた。
「手、動かすのやめてもらっていいですか」
 わたしの手は休みなくもぞもぞと動き続けていて、彼とわたしの間でますます痺れを強くしていた。さっきよりも動かせる範囲が狭まってきている。
 引き抜きたいだけなのに。そう思いながらも、わたしは彼の指示に従って手を動かすことをやめる。
 目に見えてほっとしたように息を吐く彼。吐息が髪にかかって、どきりとした。
 ほんのりと甘さを含んだ爽やかな香りは香水だろうか。息をするのも苦痛な車内で、彼の側だけは清涼な空気を漂わせているように感じた。
 どこかで嗅(か)いだことのあるこの香りは、わたしが時折感じていた好ましい香りによく似ていた。いつも同じ車両に乗っていたのはこの彼なのだろうか。それとも、偶然?
 わたしはじっと彼の顔を見つめた。
 スーツ姿で電車に乗る姿を見るに、大学生ではないだろう。きっとこの春から勤めはじめた社会人一年目の新入社員君だ。初々(ういうい)しいスーツ姿ではあるけれど、このひと月でずいぶんと着慣れたに違いない。
 かわいい男の子でよかった。朝っぱらから汗びっしょりのおじさんに押し潰されるのはけっこうきついものがある。現金にもわたしはそんなことを考えてしまう。
 愛らしい顔に似合わず逞しい胸板に時折潰されるのも、こうなってくると役得のような気がしてくるから不思議だ。
「……あ」
 などと不(ふ)埒(らち)なことを考えていたからか。わたしは潰された右手が触れているものがなんなのか唐突に気づいてしまった。
 一気に顔が熱くなっていく。
 ちょっと待って。心なしか、やわらかいとは言いがたい感触がするような……。
 スラックスの滑らかな布地とジッパーの硬い感触。わたしの手にはすっかりチャックの痕が付いてしまっているに違いない。
 そう、ジッパー。この痛みを伴う硬い感触は、スラックスの正面についているジッパー以外の何物でもない。
 そうなってくると彼がさっき見せた色っぽい顔と艶めいた声の正体にも気がついてしまう。
「……言っておきますけど、わざとじゃありませんから」
 赤くなっていくわたしを見た彼は、自分の状態にわたしが気づいてしまったことを察したようで気まずそうに呟いた。
「わ、わたしもわざとじゃ……」
「わかってますから。じっとしててください」
「……はい」
 うん。わかる。わかるよ。大事な場所で手をぐにぐに動かされていたら、それは、まあ、そうなっても仕方ないよね。うん。そう。仕方ない。刺激に弱い部位だもの。生理現象よね。
 自分を納得させようとわたしは頭の中で繰り返す。
 駅に到着した瞬間、乗り込もうとする人たちの波がわたしたちを押す。
「……い、っ!」
 ぐにっと思い切り握ってしまった。しかも、動かせない。手のひらに逞しき男性のシンボル的な何かを感じて、わたしはいよいよ顔を真っ赤に染める。心なしかそれは先ほどよりも質量を増したように思う。
 目線だけで彼を見上げれば、これまた真っ赤な顔をして目にはうっすら涙まで浮かべている。
 それはそうだろう。「この人、痴漢ですっ!」なんてわたしが叫びだそうものなら死活問題だ。違いますなんて言い逃れできようはずもない。だって、スラックスの前がテント張ってるんだもんね。
 可哀想にと思う反面、自分より年若い男の子の泣き顔にぞくりと嗜(し)虐(ぎゃく)心が誘われる。
 そっと手を上下に動かしてみる。
「……な、ッ」
 ぎゅっと唇を引き結び、歯を食いしばっている姿を見てぞくぞくした。
 手の中のものはどんどん硬度を増していく。
 彼の姿を観察して、わたしは思いを巡らせる。これは、嫌なのに感じちゃう! みたいな感じなんだろうか。それとも、刺激されると気持ちいいとかそういうのは別にして勝手に硬くなっちゃうもの? どちらにせよ、その気もないのにこうなっちゃうなら男の人も大変だ。このままだと痴女だなと考えて、わたしは手を動かすのをやめた。
「……次、降りますから」
「え?」
「次の駅で降りますよ」
 彼がわずかに腰を引いた瞬間、わたしは手を引っこ抜いた。
 じっと見つめてくる彼の薄い色をした瞳を見つめ返す。
「あなたも降りますよね」
 両脇につかれた腕は動かない。
 この狭い範囲に閉じ込められていることが急に不安になってきた。さっきまでは役得なんて思っていたくせに。
「痴漢で突き出されたくなかったら」
 にっこりと笑う彼の目は少しも笑っていなかった。
「降りてください」
 電車は少しも揺れていないのに、扉と彼の間でわたしの身体は押し潰される。逃げ場なんてどこにもないんだよと言われている気がした。
 逞しい彼の身体にわたしの胸が押し潰されて少しだけ苦しい。彼の胸に顔を押しつけるようにして、わたしはごくんと唾を飲み込んだ。
「……やわらかい」
 思わずといったように呟く彼の声は、最初に聞いた声よりもずっと掠れてた。
 やわらかいとはなんのことだろう。まさか彼に押し潰されているわたしの胸のことだろうか。急に彼との間に性的なものを感じて、わたしは不安でたまらなくなる。
 なんて馬鹿なことをしてしまったのかと後悔しても時すでに遅しだ。
「あ、あの」
「ほら、もう着きますから。はぐれないように、手」
 彼の片手が下りてきて、わたしの手を掴んだ。
 意外と自由に動くんだなと思うと、さっきまでのは逃げようとしてなかっただけなんじゃないかと疑念が浮かぶ。
 それでも、握られた手の熱さと向けられる視線の熱には勝てなくて。
「逃げないでくださいね」
 そう言う彼に、わたしは「はい」と小さく頷(うなず)き返した。
 同じ車両からわたしたち以外に降りる乗客の姿はなく、閑散とした駅の中を彼に手を引かれて歩く。
 辿り着いたのは、駅構内のトイレだった。男子用トイレに彼が向かったときには足が止まりかけたけれど、気がつけばわたしは彼とともに個室の中にいた。当たり前だけど個室というのはひとりで使うものであり、大人がふたりも入ればぎゅうぎゅうだ。
 しかも、個室の真ん中にはどーんっと便器が自己主張しているわけで、異空間に迷い込んだような不可思議な感覚がわたしを呑み込んでいく。
 押し込まれた個室の中、わたしの心臓がうるさいくらいに跳ね回る。彼にもこの鼓動の音が聞こえているかもしれない。
 彼は後ろ手に鍵をかけ、わたしを腕の中に閉じ込めた。確かめるようにわたしの背中を彼の手のひらが這(は)っていく。
 思わず熱い吐息が漏れる。
 どうしよう。これ、絶対いかがわしいことをされるパターンだよね。そりゃあちょっとうっかり刺激しちゃったけど、でも、大きくなりかけのあれが手の中にあったらさすっちゃうじゃない。女の本能、みたいな?
 そんな言い訳じみた思いがわたしの中に浮かんでは消えていく。
 見知らぬ男の手のひらが身体を這い回っていく感触に、否が応でもわたしの官能が刺激される。
 彼氏と別れて約一年。その間、こういったことともご無沙汰(ぶさた)で、人肌のぬくもりが恋しくなってきていた時期でもある。
 流されてしまいそうでマズい。かといって、こんなところまでついてきておいて、いまさら「やっぱりいやです」が通るとも思えない。
 彼が一言も言葉を発さないことが怖かった。表情を確認することもできず、わたしは少しだけ視線を下げて、彼のネクタイをじっと見ている。
 互いの少し速くなった息づかいだけが場を支配していた。
 背に触れていた手が腰を撫で下ろし、スカートをたくし上げる。ストッキングに包まれたわたしのお尻を彼が撫で回した。
 たまらなくなって、わたしは彼のスーツの胸元をぎゅっと握りしめる。
「……ぁ、ん……っ」
 声が漏れそうになる度にぎゅっと唇を噛みしめる。
 だめ、だめ。誰か入ってきたりしたらどうするの? 男子トイレなのに。声だけは絶対我慢しなきゃ、だめ。
 我慢しなきゃと思うと身体は敏感になるようで、ただ撫でられるだけの刺激で、わたしの大切な場所は大洪水を巻き起こしていた。
 今日知り合ったばかりの名前も知らない男の子とトイレの個室でいやらしいことをしている。非現実的な状況に興奮しているのかもしれない。
 お尻を撫でる手がもっと下へ下りてきたら、太ももの付け根に触れられたら、すぐに気づかれてしまうだろう。それが恥ずかしくて、足をぴたりと閉じて太ももに力を入れた。
「顔、あげて」
 囁(ささや)かれた声に誘われて顔を上げれば彼の顔が近づいてくる。
 彼の前髪がわたしの額に触れる。間近で見る彼の目は、さっき電車で見たときとは瞳に宿る熱量が変わって見えた。鼻先が触れあいそうな距離だ。
 キスされると思った瞬間、わたしは反射的に顔を逸らして彼の唇から逃げていた。
「……嫌なんだ?」
 低い声がまるで独り言のように小さく落ちた。
 何を今更純情ぶってと自分でも驚いた。名前も知らない初対面の男にたやすく尻を揉ませているくせに、唇だけは許さないなんて。
「キスは嫌、か……」
 彼もそう思ったようで、熱に浮かされているようだった瞳が急に色を変えた。
「勝手だな」
 ぞくり、と背筋を何かが走る。
 彼の纏(まと)う雰囲気が変わる。これはなんだろう。怒り……?
「そこに、コンビニあるから」
「え?」
 聞き返そうと口を開いたのと絹を裂(さ)くような音が聞こえてきたのはほとんど同時だった。
 ストッキングが股間に食い込むような感触がしたと思ったらすぐに楽になる。わたしのストッキングを彼はためらうことなくびりびりと引き裂いた。
 彼は引き裂いた部分をさらに引っ張って、露出する面積を増やす。
「な……っ」
 言葉もなく、わたしは彼をじっと見つめた。
 目が合った瞬間にごくりと唾を飲み込む。
 あ。本気だ。この人、本気で、こんなとこで、最後までしようとしてる。わたし、抱かれちゃうんだ。
 抱かれる? 抱かれるの?
 違う、犯されちゃうんだ。無理やり、ストッキングを引き裂かれて、男子トイレで、下着ずらしただけの格好で、わたしが大きくしちゃったものを突っ込まれちゃうんだ。
 ぞくぞくっと何かがわたしの身体を震わせる。
 その感情は、どこか期待に似ている気がした。
 非現実的な状況は刻一刻と悪くなる。それなのに、不思議と危機感は薄かった。状況が悪くなればなるほどにわたしの中の正常な判断力は麻痺し、気分が高揚していった。
 彼はネクタイの先を胸ポケットに押し込んで、顎(あご)をしゃくってわたしに背を向けるよう指示する。そうしながら、かちゃかちゃとベルトを外しはじめた。
 立ち尽くして彼を見つめるわたしに冷えた目が「早くしろ」と視線だけで急(せ)かしてくる。
「……んっ……」
 彼に背を向けた途端、スカートをまくられる。下着を横にずらしただけで露出した秘裂に彼の指が触れた。
 そこは彼にそっと指でなぞられただけで、湿った音を立てる。自分でも信じられないくらい、蜜が溢れて止まらなくなっていた。
 彼がふっと息を漏らしたのが聞こえる。笑ったのかもしれない。
 恥ずかしくて涙がこみ上げてくる。
 やっぱり、こんなこと、やめよう。どうしてもっていうなら、手でなんとかしてあげるからそれで勘弁してくださいってお願いしてみよう。
 でも、わたしがそれを口にするよりも先にわたしの秘裂を割って硬いものが侵入してきた。
「っ、ぁ……!」
 悲鳴が漏れそうになって慌てて口を両手で塞ぐ。
 がっしりとわたしの腰を掴んだまま、角度を調節したらしい彼がずぶずぶとわたしの襞(ひだ)をかき分けて押し入ってくる。
 信じられないくらい、気持ちよかった。
 今にも誰かが用を足しに現れるのではないかという恐怖も、見知らぬ男に身体を許しているという罪悪感も、すべてが官能をより美味(おい)しくするためのスパイスにしかならない。
 押し進む彼のものは小さくもなく、大きくもなく、わたしの身体にはちょうどいいサイズに思えた。
 物足りなくもなければ苦しくもない。これでいっぱい突いてもらったらさぞや気持ちよくなれるだろうと期待で胸がいっぱいになってしまうような素晴らしいものだった。
「ぁ……んッ……」
 でも、すぐにわたしの期待は打ち砕かれる。
 止まらないのだ。
 え? うそ? まだなの? と不安になるくらい、彼のものが奥まで入ってくる。この辺で止まるだろうと予測する場所を越えてくるのだ。
 少なくとも今までわたしの中に楔(くさび)を打ち込んだ男たちは、こんなに奥まで入ってきたりしなかった。
 怖くなって顔だけを後ろに向けると、彼と目が合う。
「んんっ!」
 にやりと口角を歪(ゆが)めた彼が、勢いよく腰を打ち付けてきた。
 一気にすべてを埋め込まれて、わたしは呆気(あっけ)なく果てた。
 信じられないことに、いれられただけでイってしまった。ぎゅうっと彼のものを締め付け、足をがくがく震わせる。倒れ込んでしまわなかったのは、単純に個室が狭くて倒れ込むだけの空間の余裕がなかったせい。
「はぁ……ぁ、やっ」
 数拍おいて、彼がおもむろに腰を揺らした。
 ゆっくりと中を擦られていく。久しぶりに呑み込んだ男根はそれはもう美味だった。
 これ、これ、これが欲しかったのと歓喜に泣き喘(あえ)ぐように、わたしの膣は喜び勇んで彼を締め付け奥へと誘う。
 まるで、自分の身体が自分のものではなくなったよう。
 ぱんぱんと腰を打ち付ける音の合間に、ぐちゅぐちゅといやらしい音がする。どんなに声を我慢したってこの音で周りにバレてしまうのはもはや必然だ。
 でも、やめて欲しくない。気持ちよくてたまらない。もっと、もっととお腹の奥で子宮が泣く。
 だから、どうか、お願いだから、誰も入ってきませんように。
 大きく動くことができない分、彼の動きは単調だ。それでも、奥を小刻みに突いたかと思えばぐるりと腰を回してみたり、できうる限りで変化をつけてくれる。自分だけではなく、わたしのことも気持ちよくしようとしているのかもしれない。単に自分の快楽を追っているだけなのかもしれないけれど、気遣われていると思うと嬉しくなる。
 だからわたしは、彼がわたしのことを多少なりと気遣ってくれているのだと思うことに決めた。
「は、っ……ん、んっ」
 声が抑えきれなくなってくる。
 彼の動きが今までと変わる。リズミカルに打ち付けられる腰。始まりの頃よりも硬く感じる内部の異物。時折漏らす、呻(うめ)きに似た彼の吐息。終わりが近いのだと知らされて、わたしはますます膣の締め付けを強くしていった。
「でさ、俺は言ったんだよ」
「ふーん」
「お前、信じてないだろ。マジな話さ――」
 突如聞こえてきた声に驚き、わたしはびくんっと身体を震わせた。
 そして、これ以上ないくらいに彼のことをきつく締め上げてしまう。
 ぐいっと持ち上げられるようにして体勢が変わる。蓋(ふた)を下ろした便座に腰掛けた彼の上に座らされ、さっきよりも深く彼の楔がわたしの中に潜(もぐ)り込んできた。
「っ……は、っ……」
 息が詰まる。
 それでも、声だけは漏らすまいとわたしは必死になって唇を引き結ぶ。
 湿った音を立てて、彼の舌がわたしの耳に触れた。耳の先を口に含まれ、舌を這わされる。ぞくぞくっと震えが走る度、中の彼自身を締め付けてしまう。
 密着した下半身は少しも動いていないのに、屹立(きつりつ)を包み込む肉襞だけが意思を持っているかのように蠢(うごめ)いていた。
「ぁ……や、ぁッ」
 彼の手が下半身に伸び、結合部に触れた。引き伸ばされた入り口をなぞり、茂みに隠された敏感な突起に触れる。
 外からはまだ男たちの声が聞こえていて、わたしは両手で口を覆って首を振る。
 だめ、そこはだめ。
 そう言いたくてたまらないのに、声を出すことはかなわない。背後に向けた視線は簡単に彼の目線と絡むのに気持ちは少しも伝わらない。
 懇願を込めて見つめると彼はふいっとわたしから視線を逸らす。
 ねっとりとした蜜をすくい取り、彼はそれを突起に塗り込めるようにして触れた。
 びくびくっと身体が跳ねる。
 ただ入っているだけの陰茎がひどく内部を刺激する。
 声にならない声を上げて、わたしは快感に耐えた。
 叫びだしたいくらいに気持ちいい。
 気持ちいい。気持ちいい。もうだめ。おかしくなる……!
「はぁ、っ」
 個室の外ではまだ談笑が続いている。
 息を止めて、気配を殺す。
 早く、早く、早くここから出て行って。
 願うことはそればかり。それなのに、背後の彼はわたしの耳朶(じだ)に舌を這わせはじめた。声が漏れてしまいそうになって、わたしはぶんぶん首を振る。
 そうすると彼はわたしの首を甘く噛む。
「んーっ」
 太ももに爪を立てて抗議すると、ふっと彼が笑ったのが空気の震え方でわかった。
 こんなの、バレたらどうするつもりなのか。
 絶対嫌だ。バレたくない。
 しばらくして外の気配は消え、わたしはぐったりと彼の胸に背をもたれさせた。そうすると彼の手が伸びてきて、服の上からわたしの胸をぐにぐにと揉んだ。ゆっくりと腰の動きが再開される。
 上下に揺すられるだけで彼の先端はわたしの奥をぐりぐりと刺激した。閉じていた場所を開かれる感覚は、わたしに得も言われぬ快楽を与えてくれる。苦しくて、気持ちよくて、深く深く満たされていく感覚。
「声、我慢できる?」
 ふと彼が抑えた声で問いかけてきた。
 不安げに首を傾げるわたしに、彼は「ちょっとだけ激しくするから」などと淡々と口にする。
 彼が身体を起こすからわたしも立ち上がらざるを得なくって、不安なまま彼に導かれていく。
 一度彼のものがわたしから抜け、個室の壁を背にするように体勢を変えられる。ずっと背中を向けていたから、彼と正面から向き合う形になってしまっては目のやり場に困る。
 こうしてわたしを抱いている相手の顔を見てしまうと、恋人でもない人とセックスしてるんだと改めて思い知らされる。このお兄さんがそこそこかわいい顔をしていることだけが、本当に救いだ。
 とはいえ、イケメンが相手だったら初対面でセックスしていいってことにはならない。
 わたしはいつからこんな尻軽女になったんだと頭が痛くなる。
 貫かれていないからか思考がだんだんと正常に戻っていく。こんなのはだめだと思いはじめたわたしの中へ、そんな思考を遮(さえぎ)るかのように彼の長いものがまた押し入ってきた。
 彼に持ち上げられるままに便座に片足を置き、わたしははしたない格好で彼を受け入れた。
「あっ!」
 また奥の奥まで入り込まれる。
 そうなると思考はあっという間に快楽に染め上げられてしまって、わたしはまたしても正常な判断能力を失った。
「んっ、ふ……ぁ、ああっ」
 我慢しなきゃいけないのに、我慢できない。
 不安定な体勢をどうにかしたくて彼の首に腕を回して胸にしがみつく。そうしてしまうと口元を押さえることができなくて、わたしは突き上げられるままに喘ぎを漏らす。
「ぁ、あんッ! やぁッ、ぁ、ぁッ」
 彼は場にそぐわない、妙に真剣な眼差しでわたしを見ていた。
 恥ずかしさから視線を下げる。ネクタイをしっかりと絞めた首元は窮屈そうで、首にはうっすらと汗が浮いてる。女性とは明らかに違う太い首を見ているだけで、わたしはいやらしい気持ちでいっぱいになる。
「ぁ、ぁッ! んんっ、ああッ! やっ、ふかい……ッ」
 ずんっと強く突き上げられて、最奥(さいおう)への責めに抗議の声が出る。
 顔をあげれば、すぐにわたしを見下ろす彼の視線とかち合った。はしたない姿を見られている。髪を振り乱して、涎(よだれ)を垂らしそうなくらいだらしなく口を開いて、馬鹿みたいに喘いでる顔を。
「声、出てるけど」
 そう言って彼は腰の動きを変えた。
 突き上げるのではなく、緩く円を描くように動かしながら、わたしの口の端を舐(な)める。
「塞いでやろうか」
 にやりと笑うその表情からは、電車の中で見た少年めいた雰囲気は欠片も見当たらない。騙(だま)されたと思うけれど、別に彼が騙したわけじゃない。あれはわたしが勝手に受けた彼の印象なんだから。
 わたしの唇の輪郭をなぞるように動く舌。
 ついつい自分の舌を突きだしてしまいそうになり、わたしは自制心を総動員してそれを止める。
 キスは、なんとなくだけど、キスは、しちゃだめな気がした。
 だめ。だめ。だめ、だめだめ。
 頭の中でその二文字だけを繰り返す。
「……そんなに嫌か」
 彼はそんなわたしをじっと見つめていたけれど、急に興味をなくしたように顔を離すとわたしの身体を抱え直して壁にぐいっと押しつけた。
 さっきよりも強い力で押さえつけられて、彼の激情に触れた気がした。キスを拒(こば)まれることが嫌なんだろうか。そんな疑問を抱くのに、身体が宙に浮いてしまう怖さがそれをかき消してしまう。
 わたしの身体は意思とは裏腹に、彼の腰に両足を絡みつける。落ちることへの恐怖からのことなのに、まるで離れたくないと言っているかのようにも思える。
「あっ、あっ、ああッ!」
 じゅぷじゅぷと隠しようもないほど大きな音を立てて彼は腰を叩(たた)きつけてくる。
 もう、声を抑えようなんて理性はわたしの中から消えていた。
 壁と彼の間で押し潰される。その感覚がさっきの窮屈だった電車の中をわたしに思い起こさせる。本当なら今頃わたしは電車に揺られて会社の最寄り駅へ向かっていたはずだった。
 そうして、今日も昨日と同じ代わり映えのない一日を過ごすの。くたくたになるまで働いて、家に帰ってからは疲れたなあなんて言いながらひとりで缶チューハイを開ける。そんな一日。
 それなのに、まだ出勤前なのに、もうこんなにも昨日までと違う。
「あっ、や……あっ、だめ、もう……ッ」
 こんな、知らない駅の男子トイレで、知らない男の人に抱かれて、はしたなく絶頂に向かおうとしてる。こんなのちっともわたしらしくない。こんなの知らない。こんなの……!


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