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記憶喪失の花嫁〜悪魔な王宮教師と甘々な王子殿下に愛され放題の日々〜

立花実咲 / 著
ことね壱花 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2020/02/28

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内容紹介

「愛される快感を覚えてください」
湖で溺れてしまい記憶を無くした伯爵令嬢のミレーネ。王子のアンドレと婚約していたけれど、記憶を無くしている間に実家のトラブルで破談したと告げられる。婚約解消の責任のため花嫁メイドとして王子の世話係を命じられるけど、イジワルな王宮教師トリスタンから、王子のためにと、エッチなレッスンを受けさせられて!? 更になぜか教師と王子の二人から溺愛される日々が始まってしまい!? 蕾を開花するべく、めくるめく官能を与え続けられて……。二人の幼馴染みに翻弄される乙女の溺愛ラブ!

立ち読み

■序章 恋の残り火


 鏡に映る自分のドレス姿を見たミレーヌ・ドルイユは、着付けをしてくれている使用人に気づかれぬよう、やりきれない想いをため息に変えた。そのつもりだった。
「お体の具合がどこかよろしくないですか? 大丈夫でしょうか」
 ミレーヌのため息は思いの外大きく、夜の帳(とばり)が下りた静かな部屋に響いてしまったらしい。
「ごめんなさい。晩餐会(ばんさんかい)でお腹いっぱいに美味しいものを頂いたから……ただ、それだけよ」
 ミレーヌは慌てて取り繕(つくろ)う。
「然様(さよう)でしたか。殿下とご歓談を楽しまれたようで何よりです」
 使用人はホッとしたように微笑んだ。
「ええ、とても楽しかったわ」
 嘘ではない。けれど、本当とも断言できない。それがミレーヌにとっては苦しくて、せめて悟られないように、ただ笑顔を浮かべるだけだった。
「今宵は風がとても冷たいようです。もし外へ出られるときは、こちらをお召しくださいませ」
 使用人は言って、木製のハンガーに外套(がいとう)をかけてくれた。
「ありがとう」
 ミレーヌが返事をすると、使用人は失礼しますと一言添え、部屋を出て行った。
 ミレーヌは一人になってから、思う存分にふうっとため息を吐いた。
 今夜は、婚約お披露目の名目で、王族の晩餐会に出席をした。これから、婚約者である第一王子アンドレ・フォン・エメルディアと二人で会う約束をしている。今ごろアンドレは国王と今後のことを話しているのかもしれない。
 アンドレのことは好きだ。愛してくれる彼を支えていくと決めた。幸せになりたいと思う。じきに結婚式の日取りも決まることだろう。
(けれど……)
 ミレーヌの心には、どうしても一つだけ消せない残り火がある。それが、彼女を悩ませていた。
 しばし一人の時間を許されたミレーヌは、ぼんやりと今までのことを振り返っていた。

 第一王子であるアンドレとは、国王と父が王立学園時代からの古い友人であることから、幼い頃から交流があった。アンドレとミレーヌもまた同じ学園に通っていた。
 そして、ミレーヌとアンドレが共に王立学園に通っていた頃、自分を妹のようにかわいがってくれる二つ年上のいとこ、トリスタン・ラスペードも一緒だった。
 三人はいわゆる幼馴染の関係だった。学園時代よく三人で一緒にお茶を飲んだり、音楽やダンスを楽しんだり、遠乗りにでかけたり、仲良く過ごしていた。
 誕生日には、アンドレは薔薇の花束を、トリスタンは百合の花束をそれぞれくれた。春から初夏にかけて美しく咲き誇る花、その美しい花々の姿や甘やかな香りが恋しい。
 ミレーヌはいつしか、博識なトリスタンに憧れ、恋をしていたのだった。いつか結婚するなら彼がいい、などと思っていた。
 しかし、彼らとの距離もだいぶ違ったものになってしまった。
 トリスタンはというと、王立学園を主席で卒業した後、王家に仕えるようになり、やがて王宮教師として宮廷に召し抱えられた。
 彼の生家ラスペード家は、代々王家と深く関わりがある公爵家である、これまでも優秀な人材を輩出し、重要な地位に就いている。主席で卒業した彼ならば出世を約束されたも同然だ。
 今ではアンドレ王子の教育係をしていて、将来的には王子の右腕となり、王子が王位を継いだ暁(あかつき)には、彼は宰相の地位を約束されているという噂だ。
 大人になれば、身分や地位によって、それぞれの役割を担うようになる。昔のように三人でいたくても、ずっと変わらない関係ではいられない。だからこそ、過去を愛おしく思うのだろうか。
 ドルイユ伯爵家が傾きつつあった時、アンドレとミレーヌの縁談の話が持ち上がった。恩義を感じながらも、けっして甘えようとしない伯爵のことを慮った国王が、アンドレとミレーヌの結婚を提案したのだ。それを条件に援助をする形はどうかと持ちかけたのだった。
 王家からの援助ではなく、あくまでも国王の友人としての気持ちだと国王は言った。それに、大事な息子と娘が一緒になるのなら、幸せな選択ではないかという話だった。
『どうかね。よい話だと思うのだが』
 伯爵は断れなかった。伯爵家のこと以上に、アンドレがミレーヌに恋をしているということが、周知の事実だったからだ。王子の想いを無下にすることなどできはしない。
 国王と父を立てることを考えたら、ミレーヌだって断れない。アンドレのことは仲の良い友人としてしか見ていなかったけれど、彼の想いに気づかないほど鈍感ではないつもりだった。
 それから、ミレーヌはアンドレと一緒に過ごす時間を作った。周りにお膳立てされ、アンドレの誘いに度々応じるうちに、やがて結婚を前向きに考えるようになっていった。
 そして、伯爵家の事情と国王からの提案により、ミレーヌはアンドレの婚約者になった。トリスタンへの想いは、永遠に叶わぬ恋になってしまった。
 ミレーヌがアンドレと結婚して妃という立場になれば、当然ミレーヌもトリスタンに面倒を見てもらうようになるだろう。それが、ミレーヌには複雑だった。
(こんなことなら、好きだと伝えていたらよかったのかしら)
 ミレーヌの心の靄(もや)はそれだった。
 朗らかで誠実でまっすぐな性格のアンドレのことは好きだ。一緒にいて居心地がいい。大切にしてくれて、愛してくれる彼を大切にしたい。その気持ちは本物だと、ミレーヌは思っている。
 ミレーヌにとってトリスタンは初恋の人だったのだろう。だから、いつかはこの未練も跡形なく自然に消えていくものだと思っていた。
 それなのに、アンドレと二人一緒の時間が増えれば増えるほどに、彼の側に仕えているトリスタンのことが視界にちらつく。ミレーヌに親切にしてくれる彼との一線を超えられないもどかしさに胸が苦しくなってくるのだ。
 アンドレ以上に近い存在であるはずなのに、どうしてこんなに遠い関係になってしまったのだろう。幼い頃は、兄のように慕って、可愛がってくれたのに。そんなはがゆい感情はいつしか、未練に火をつけはじめた。
 王宮の中ですれ違うだけで、側にいるだけで、胸がざわつく。視線が交わるたびに、彼の姿を目で追ってしまう。ミレーヌは、結局、トリスタンのことが忘れられなかった。
 こんなことではだめ。結婚する前にどうにかしなければ。そんな焦りを感じていたのだった。
「はぁ……」
 ミレーヌは鬱屈(うっくつ)した気分を追い払いたくて、再び大きなため息を吐いた。
(本当にどうしたらいいかわからない……)
 途方に暮れ、窓の外を見た。今夜は細い三日月が夜空に浮かんでいた。
 いつまでも感傷に浸っていたって仕方ない。風に当たろう。ミレーヌはそう思い立つ。
 アンドレは話に時間がかかっているようだし、ここから出かける場所といえば、庭園くらいだ。
 ちょっとした気分転換のつもりでミレーヌは部屋を出た。



     ***



 月明かりの下、のんびり庭園を歩いていると、昔のことが思い出された。
(結婚前は……感傷的になるものだって、よくいうものね)
 冷たい夜気が体温を奪っていく。ミレーヌは身震いをした。使用人に言われていたのに、考え込んでいたら、うっかり羽織るものを忘れてきてしまった。
 明るいときに王宮から見えた山々は白く染まっていたし、まもなくこの地にも雪が降るかもしれない。
(でも、あたたかい季節がやってきたら……私は、結婚するんだわ)
 アンドレと正式に夫婦になって、いつかは子どもも生まれて、妃としての務めを果たすうちに、この甘い感傷もいつかは溶けて消えていくだろうか。
(その間、ずっとトリスタンの姿が側にあったとしても……?)
 今はまだ、想像ができない。
 足音が聞こえてきて、ミレーヌは我に返った。
 アンドレが迎えにきたのかと思ったが、見たら違った。長身のすらりとしたシルエットがこちらに延びてくる。その姿を想像して、胸のどこかが波を打つ。
「ミレーヌ様、こちらにいらしていたのですか」
 燕尾服(えんびふく)を着たその男性は、今まさにミレーヌが思い馳せていた王宮教師、トリスタン・ラスペードその人だった。
「少し、月光浴をしたくて」
 鼓動が速まっていくのを感じながら、ミレーヌは言った。
「それはいいですが、その格好では、お体が冷えてしまいますよ。使用人に外套を渡されませんでしたか」
 トリスタンがミレーヌの前に上着を差し出す。
「あ、ありがとう。うっかりしてしまっていて……」
「気をつけてください。もう、お一人の身体ではないのですから」
 ミレーヌは彼の気遣いが嬉しいと思う一方、もどかしく思った。
 以前までなら、肩を引き寄せて羽織らせてくれるくらいはしてくれたかもしれない。そうしないのは、王子の婚約者となったミレーヌに遠慮しているのだろう。それが、彼女にとっては寂しく感じたのだ。その感情を振り払うように、ミレーヌは外套に袖を通した。
「そんなことより、ミレーヌ様、だなんて。なんかくすぐったいわ」
 襟元を両手で交差して首をすぼめながら、ミレーヌはおどけてみせた。
「慣れてください。そのうち、いやでも慣れますよ」
 低く、落ち着いた声は、ミレーヌの痛んだ胸にやさしく染み渡っていく。彼の側から、花が咲いているわけでもないのに、百合の香りがした。ひどく、懐かしい匂いに、遠い記憶が蘇ってくる。
「この香り……」
「ああ。あなたに、これを」
 ポケットの内側から、一輪の小さな百合を差し出され、ミレーヌは驚いてトリスタンを見た。
「この季節に、百合が……?」
 目を丸くするミレーヌを尻目に、トリスタンは愉しそうに微笑む。
「今は通年でも育てることができる技術があります。そうでなくとも、季節を間違えたように狂い咲く花もありますし。たまたま見つけたのです。澄んだ夜に一輪の凛とした百合。まるで月夜に佇む可憐(かれん)な貴方のようではないですか」
 どうぞと差し出され、ミレーヌはおずおずと一輪の百合の匂いをかいだ。
 トリスタンはミレーヌが百合を好きなことを知っている。きっと日々落ち着かない彼女のことを慮って、用意してくれたのかもしれない。
「綺麗……」
「今の流れでは、自画自賛になりませんか」
「もうっ。そんなことを言うなら、どうして褒めるの」
 ミレーヌが拗(す)ねると、トリスタンは愉しげに目を細めた。
 彼の気遣いに、嬉しいはずなのに胸が苦しくなってくる。忘れようとしていた気持ちが漣(さざなみ)のように押し寄せてくるのを感じて、ミレーヌは少しだけ俯(うつむ)いた。泣きそうだったから顔を見られるのは困ると思ったのだ。
「トリスタン。ありがとう。あなたとお話ができて嬉しい。少し、気持ちが落ち着かなくて、自分を見失っていたから」
 静かな夜だからか、感傷的になっているからなのか、ごく自然と、ミレーヌはそう口にしていた。
 しかしそこから先は躊躇(ためら)われた。言葉にしたら取り返しがつかないことになるかもしれない。相手を困らせることにしかならない。自分の想いが止められなくなるかもしれない。そういう理性の傍(かたわ)ら、トリスタンの気持ちが知りたいという欲求も僅かにそこに在った。
「何かお悩みでしたら、遠慮なくおっしゃってください。解決に向けて、手助けできることもあるかもしれません」
 心配してくれるトリスタンを前に、ミレーヌは首を横に振った。
「……それは無理よ。あなたには絶対にできないことだもの」
「おっしゃってくださらないと、断言はできませんよ」
「いいえ。あなたは困るだけ。私もいたたまれなくなるだけ。アンドレには……叱られてしまうわ」
「我儘(わがまま)のひとつくらいなら聞きましょう。私はあなたのいとこという立場でもあるわけです。さあ、今なら誰も聞いていませんよ。言ってごらんなさい」
 急に兄のような顔をするトリスタンを見て、彼を恋しく思っていたミレーヌは、それ以上我慢をすることが無理だった。
「じゃあ、絶対に困らないって約束してくれる?」
「ええ。どうぞ」
 トリスタンは鷹揚(おうよう)にうなずいた。
 言ってはいけない。言わなければ、何もないまま時が解決するだろう。自分さえ我慢すれば、それで済む話なのだ。トリスタンを巻き込んではいけない。アンドレを傷つけることにもなってしまう。だけれど、それでも……今日、言わなければ二度と、この想いは伝えることができなくなる。
 葛藤に心が揺れる。冗談で済ませればいい。さっきみたいなやりとりをして終わればいい。ミレーヌはひりつくような胸の痛みを必死に我慢しようとした。けれど、トリスタンのやさしい眼差しを見たら、どうしようもなくなってしまった。
「私、あなたのことが……ずっと、好きだったの。ずっと、好きで……それで、悩んでいたの」
 言葉にした瞬間、その場に崩(くず)折(お)れてしまいそうだった。せめて、冗談交じりに言えていたらよかったのに、今にも泣いてしまいそうだし、唇は震えてしまっている。
 トリスタンは面食らった顔をし、それから押し黙ってしまった。困っているのか、それともはぐらかすつもりで何か考えているのか、表情は読めない。
「ねえ、困ったでしょう?」
 ミレーヌはいたたまれなくなり、深刻になりかけた空気を持ち直すように、ふふっと笑って、おどけてみせた。
「ミレーヌ様……いたずらが過ぎますね」
 トリスタンは冗談っぽくそう言いつつ、困った顔をしている。めったに表情を崩さない彼が、珍しい。これは本当に困っているのかもしれない。
 彼が何かを言ってくれることを期待したわけではない。ただ、告白したことで、少しだけ重荷がおりた気がした。
「あのね、私、幼い頃、あなたと結婚したいって思ってたことがあったわ。それからずっと三人で一緒にいられる未来に憧れていたの。だから、今……ちょっとだけ寂しい気持ちなの」
「それは、初恋……のようなもの、ですか」
「そうね」
「好きだった、ですか……」
「そう。好きだったの。過去のことよ。思い描いていた未来と違ったから、戸惑っているだけ」
 吹っ切るように言うミレーヌに、トリスタンは何かを言いかけようとしたのをやめ、彼女の手を自分の方に引き寄せた。その強引さは、いつもの彼とは違った。
 弾かれたように、ミレーヌはトリスタンを見る。
「一緒に逃げましょうか」
 真剣な顔でこちらを見つめるトリスタンに、ミレーヌは言葉を失う。
「……え」
 頭が真っ白になる。まさか、彼がそんなことを言うなんて思いもしなかった。
 ミレーヌは、心残りであることを告白したかっただけで、本当にトリスタンと逃げたいと考えているわけではない。ただこの感情をどうしたら整理できるかわからなくなっていただけなのだ。
「どこか遠いところで……二人で生きていきましょう」
 指を搦(から)められ、ミレーヌの鼓動が激しく乱れはじめた。呼吸するのが苦しいくらいだ。
「そんな……待って。でも、私……」
 どういったらいいかわからずに黙り込むと、トリスタンはふっと微笑みをこぼした。
「冗談ですよ」
 と、トリスタンが言う。ミレーヌは思わず胸のあたりを押さえた。
「……っ心臓に悪い冗談だわ」
 本気にしかけた自分を心の底から恥じたい。そんなことがあるはずもないのに。彼がミレーヌだけのために人生を棒に振るようなことをするはずがない。
「申し訳ありません。過去のことだというので、私も寂しい気持ちになってしまいました。ちょっとした意地悪でした」
 トリスタンは開き直ったように言った。つまり、彼はお互い様だと言いたいのだろう。確かに、ミレーヌも言っていいことではなかったと反省する。
「もうっ」
「お気持ちは嬉しく受け取らせていただきます。ですから、どうか、幸せになってください」
 トリスタンはそう言い、やさしく微笑みかけてくる。そんな表情を見たら、泣きたくなってしまいそうだった。
「トリスタン……私」
「結婚前は、色々と考えてしまうものでしょう。ご不安もあるかと思いますが、これでさよならというわけではありませんよ。私も側で支えられるように努めて参ります。そして、誰よりも、あなたの幸せを願っていますよ」
 誰よりも、幸せを願ってくれている……その言葉に、ミレーヌは打ちのめされる。
「ええ。ありがとう。私の方こそ、あなたがそう言ってくれると心強いわ」
 自分はさっき、何を言いかけただろうか。
「……っ私、もう少しだけここにいるわ。アンドレを待っていたいから」
 そんなふうに言葉を繋げるだけで精一杯だ。表情に出てはいないだろうか。ごまかした笑顔は引きつってはいないだろうか。今にも涙がこぼれてしまいそうだ。
 告白してすっきりしたはずの気持ちが、また渦を巻いていく。心の奥にしまい込んだはずの、どうしようもない愛しさに、胸が詰まってしまう。トリスタンはさよならではないと言うけれど、初恋の残り火はちゃんと消しておかなければならない。夫になるアンドレに誠実でありたいから。愛してくれているアンドレの想いに応えたいし、大事にしてくれているトリスタンの今後の関係も良好であり続けるためにも。ミレーヌは必死に自分に言い聞かせる。
「……わかりました。戻りましたら、一度、様子を見て、殿下に声をかけてまいります」
「ええ。お願い」
 ミレーヌは一輪の百合をそっと手に持ち直して、トリスタンが立ち去るのを待った。目尻から流れてくる涙の感触に、ミレーヌはホッとする。
 トリスタンの目の前で泣いてしまわなくてよかった。心配をかけたくないし、敏(さと)い彼に傷ついていることを知られたくない。結果的に、彼を傷つけることになってしまう。
(私、なんてことを口にしてしまったの……)
 こぼれてくる涙を、震える指先で何度も拭った。幼い頃に、彼が代わりにそうしてくれていたことを思い出したら、また泣けてきてしまった。
「ミレーヌ、遅くなってすまなかった」
 アンドレの声が届いて、ミレーヌは慌てて目尻の涙を拭った。
 向こうからアンドレがやってくる。ちょうどトリスタンとすれ違うところだったようだ。
「殿下、これからお二人でお過ごしになるのは結構ですが、ミレーヌ様のお身体冷えてしまっていますから、お部屋でお過ごしください。メイドにあたたかいものを用意するように伝えておきますから」
「ああ。頼んだ」
 彼らがすれ違い際に話をしている間、ミレーヌは後ろ髪引かれるような想いで、トリスタンに視線をやった。けれど、トリスタンは何事もなかったかのように紳士然とした表情を崩さなかった。まっすぐ伸びた背筋が、遠ざかっていく。少女だったときのように追いかけて、引き止めることはもうできない。
「どうした、ミレーヌ」
 アンドレが不思議そうに問いかけてきた。
 雲に隠れていた月が顔を出し、その場が少しだけ明るくなったようだった。
 金色の髪が風になびいて、意志の強いアンドレの眼差しがはっきりと見えてくる。と同時に、ミレーヌは現実へと引き戻された。
(私が好きなのはこの人。愛してくれるのはこの人)
 そんなふうに心の安寧(あんねい)を求めながら、アンドレに寄り添う。
「なんでもないの」
「ミレーヌ、改めて想いを伝えたい。おまえをこれから一生かけて大事にする」
 アンドレが手を伸ばし、ミレーヌの冷えた頬を包み込む。彼の温かい手にミレーヌはホッとする。まっすぐに見つめてくれるアンドレが好きだ。
「……ありがとう。私もあなたを大事にするわ」
 その言葉には嘘偽りはないつもりだ。それなのにどうしてこんなに悲しいのだろう。目をつむって、唇が重なるのを感じる前に、瞼の裏には、トリスタンの姿が浮かんでいた。
 そして、
『一緒に、逃げますか』
 そういった彼の言葉が——いつまでも鼓膜に響いていた。



     ***



 いつも朗らかなミレーヌの表情が曇っている。アンドレは鈍感ではないつもりだ。彼女の心が揺れている。結婚を迷っている。そんなふうに感じるのだ。
 アンドレと結婚したくないわけではないようだ。だが、しなければならない状況でなければ、彼女はしたいと思っていないのではないか。王家と伯爵家の間に挟まれ、我慢しているだけではないのか。
「ミレーヌ」
 アンドレは自分の部屋にミレーヌを招き入れ、彼女の温もりを求めるように、唇を重ねた。いつもの軽く交わす口づけとは違う。もっと深くまで搦めとるような。彼女の気持ちがほしい。自分の方を見てほしい。
 いつかは……心から愛している、と言わせたい。
「ん……」
 焦らずに、彼女の気持ちが追いつくのを待つつもりだった。初夜を迎えるまでは……。
 だが、今夜アンドレの心はかき乱されていた。
 ミレーヌから花の香りがした。それは、彼女がつけている香水や庭園の薔薇とは違う。百合の芳(かぐわ)しい匂いだ。
 彼女は大事そうに一輪の花を持っていた。彼女の好きな花の一種だ。その贈り主が誰か、アンドレは検討がついている。
(トリスタンと……会っていた、か)
 どのくらいの時間、二人は一緒にいたのだろうか。身体が冷えてしまうくらいの時間、側にいたのか。
(……いや、考えすぎだな。あいつが側にいたなら、身体を冷やすようなことはさせまい)
「……ん、っ……」
 別に怪しんでいるわけではない。トリスタンは大人の男だ。ミレーヌにとってだけではなく、アンドレにとっても兄のような存在だ。彼女の心が不安定なことに気づき、励ましたのだろう。
 だが、今はその匂いが邪魔だ。それならば、なぜ薔薇の花を用意させようとしなかった。八つ当たりだと解っている。ただ、自分がそこまで気が回らない愚鈍なことを思い知らされるようで、いたたまれないのだ。
 言うまいと、抑えてきた言葉が、高ぶった感情と共にこぼれ落ちていく。
「ミレーヌ、お願いだ。俺だけを見てくれ……」
 ベッドに押し倒し、ドレスを脱がせて、彼女の無防備な首筋に唇をうずめ、それから、肌にいくつもの痕(あと)をつけた。
「あ、……アンドレ………待って……っ」
 ミレーヌはいやいやとかぶりを振りながら、必死に訴えてくる。か細い声で、力の入り切らない手で、アンドレの熱を押し返そうとする。けれど、アンドレは逃げるミレーヌを逃がそうとしなかった。彼女の細い両の腕をベッドに押し付け、耳朶(じだ)や首筋、ドレスを脱がせながら、あらわになった胸にキスをする。
「いや、……だめ、っ……」
「待てない。おまえを離したくないんだ」
「や、あ、……あっ……だめ、……おねがい、今夜はっ……許して」
ミレーヌの抗(あらが)う声を、アンドレは無視するつもりはなかった。いつもならば、彼女を第一に考えて身を引いてきた。だが、彼女があまりにも愛おしかった。
 誰にも渡したくない。こんな彼女を見せたくない。自分から離れている彼女の心を掴んで、どうしても自分のものにしたい征服欲の方が勝ってしまったのだ。
「ほしいんだ、ミレーヌ……おまえの全部が……」
 性急に暴いた、やわらかな膨らみへと手を伸ばす。
 彼女にまとわりつく他の男の匂いを消したい。自分の痕を残したい。その一心で、可憐にツンと蕾んでいる胸の先端を口に含む。
「あっあ……だめ、……アンドレ……やっ」


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