書籍詳細
エリート同僚の賭けに負けまして!
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/05/29 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 すったもんだの勝負の行方
株式会社グランツリヒト・東京(とうきょう)支社。その営業部では、毎月月末に、ミーティングで支社内での成績表が貼り出される。
猪(いの)田(だ)知(ち)代(よ)は、ホワイトボードの成績表を見て悔しそうに唇を噛みしめた。
(一位、鹿(か)嶋(しま)。二位、猪田……。また、二位だ!)
知代は今月九件の契約を取っていた。これなら勝てると確信していたのに、同僚の鹿嶋は月末の締め日に滑り込みでプラス三件。合計十二件も決めていた。
ぐぅの音も出ない完敗である。
「いや〜惜しかったね〜猪田さん。しかし九件も受注を取るなんてすごいことだよ!」
知代の隣に来た課長の瀬(せ)口(ぐち)がポンポンと知代の肩を叩く。
「なぐさめは結構です」
すげなく言うと、瀬口課長は寂しそうにすごすごとデスクに戻っていった。
知代がホワイトボードを睨(にら)んでいると、すぐ近くでは一位を取った同僚の鹿嶋が、営業や営業事務に囲まれて賞賛を浴びていた。
「ホント、飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだよな!」
「ドイツの本社でも話題になってるって聞きました〜」
「鹿嶋がいるおかげで、今回も東京支社が国内で一位だよ」
皆が手放しで褒める中、鹿嶋はあくまで奥ゆかしく、はにかんでみせる。
「僕ひとりの力で契約を取ったわけじゃありませんよ。先輩のアドバイスや、事務の皆さんの支えがあってこその結果です」
優しい声でそんなことを言うものだから、男女関係なく、皆が鹿嶋に感服した。
ただひとり、知代を除いては。
(胡(う)散(さん)臭い笑顔を振りまくんじゃない! ぬぁ〜にが『僕ひとりの力で契約を取ったわけじゃありませんよ』だ! 私だって先輩にアドバイス貰ったし事務の皆さんのお世話になりっぱなしだよ! でも二位なの! 何よこの差は。ええわかってる、実力ですよね。はいはい実力の差ですよね。うう〜悔しい!)
知代が憤(ふん)怒(ぬ)の表情で拳を握っていると、件(くだん)の鹿嶋が後ろから話しかけてきた。
「猪田、すごいな。契約九件なんて自己新記録だろ? 女性営業としては最高新記録だって部長が仰(おっしゃ)っていたよ」
「鹿嶋さんに勝てなきゃ、どんだけ数字を取ろうが同じですよ!」
地団駄を踏む勢いである。何よりもこの男に褒められるのが嬉しくないのだ。その爽やかな笑顔すら、勝者の余裕に見えてしまう。
「今月こそいけるって思ったのに。会心の手応えを感じたのに……」
「営業成績は、タイミングや時の運にも左右されるからね」
ポンポンと肩を叩かれる。
「気安く触らないでくださいー!」
知代が鹿嶋からサッと離れると、周りにいた営業たちが口々に知代をたしなめた。
「せっかく鹿嶋が褒めてんのに、そこまでつっけんどんな態度を取らなくてもいいだろ」
「営業は勝負事じゃなくて仕事なんだから。猪田はムキになりすぎだよ」
「あ、あなたたちは、圧倒的に向上心が足りないです!」
知代も負けじと言い返す。だいたいこの東京支社の営業は、全体的にやる気がないのだ。殺伐としている職場よりはマシだが、営業として何がなんでも数字を取ってやろうというハングリーさがない。確かに営業は仕事で、勝負とは関係ないのだが、営業は数字を取ってなんぼという考えを持つ知代には、彼らの暢(のん)気(き)さがどうにも気に入らない。
「だいたい、悔しくないんですか? 鹿嶋さんと私は同期ですけど、入社してからずーっとこの人が成績一位なんですよ。私は悔しいです!」
「え〜、だって、鹿嶋だもんな」
「そうそう。何やったって敵わないよ。頑張るだけ無駄じゃん?」
これである。知代はグヌヌと唇を引き結び、不満顔をした。
(この東京支社が、鹿嶋さんひとりの力で保たれていることに、どうして危機感を覚えないのよ!?)
もし、本社命令で鹿嶋が他支社に異動となったら、たちまち困るのは残された営業なのだ。だから今のうちに切(せっ)磋(さ)琢(たく)磨(ま)して、鹿嶋に追いつく努力をしなければならないのに。
(まあ私は、単に調子乗ってる鹿嶋さんの高い鼻をへし折りたいだけだけど)
それにしても、十二件とは。グランツリヒトは研究用の試薬や化成品、臨床検査薬、そして研究器材などを手がける企業だ。受注先は当然、大学や病院、研究所が主になる。
つまり、客幅が狭いのだ。その中で一ヵ月に十二件も決めてしまうのは、もはや神業にも等しい。
一体どんな手で契約を取っているのだろう。自分もあれこれ考えて頑張っているのにと、知代は力なく肩を落としてしまう。
すると、営業の先輩がわしわしと知代の頭を撫でた。
「まあ元気出せよ。うり坊」
知代がまだ新入社員だったころ、教育係としてもお世話になった津(つ)島(しま)だ。
「うり坊言わないでください! あと頭は撫でるなとあれほど!」
「いや〜ほら、丁度いいところに頭があるもんで、つい」
「もう、皆して私をチビ扱いして。まだまだ牛乳飲んでるんですからね。そのうち絶対、伸びますから!」
「二十六にもなって、未だ健気に牛乳飲んでるとか、笑えるからやめてくれ」
「もう〜! 津島先輩嫌いです」
知代がぷいっとそっぽを向くと、周りがドッと笑った。
「猪田のちっこさは、もはやアイデンティティーみたいなもんだしなあ」
「ま、今月も二位おめでとさん。来月も頑張れ」
「先輩たちも笑ってないで、数字取ってくださいよ!」
知代が怒ると「いやまあ、ほどほどにな」とはぐらかされる。
(ほんとに暢気な支社だなあ。確かに、鹿嶋さんがいる限りは安泰なんだろうけど)
のれんに腕押し状態の営業たちに、知代が小さくため息をついていると、鹿嶋と目が合った。
(何……?)
彼はなぜか、酷(ひど)く冷めた顔をして胡(う)乱(ろん)げに知代を睨んでいる。
思わず知代は眉をひそめた。しかしそれは一瞬で、鹿嶋はすぐに知代から目をそらし、話しかけてきた瀬口課長と親しげに会話し始める。
(気のせい、だったかな)
あんなに冷たい顔ができるのかと思うほど怖かった気がするのだが、いつもにこやかに笑顔を絶やさず、誰に対しても優しい鹿嶋だから、見間違いかもしれない。
だいたい、鹿嶋が知代を睨む理由がないのだ。今まさに知代を負かしたのは、他でもない鹿嶋なのだから。
猪田知代と鹿嶋利央(りお)の出会いは、三年前に遡(さかのぼ)る。新卒でグランツリヒトへの就職が決まった知代は、その入社日に初めて鹿嶋と出会った。
自分よりふたつ年上の同期。海外留学を経て、ドイツの大学を卒業してからの就職だったらしい。鹿嶋は今と変わらず、爽やかな笑顔を見せて挨拶をしていた。
『日本の高校を卒業してから、ドイツで六年過ごしました。久しぶりに帰った母国はめまぐるしく変貌していて、浦(うら)島(しま)太(た)郎(ろう)みたいになっています。仕事以外のことも色々教えてもらえたら嬉しいです』
さらさらの黒髪は光に当たると少し茶色く、前髪を軽く後ろに撫でつけた髪型は、整った彼の相貌によく似合っていた。
形のよい眉。涼やかな印象を持つ切れ長の目。薄い唇はにこやかな弧を描く。
あまりの見目のよさに、女性はもちろん、男性までもが彼の姿に魅入(みい)られた。
——しかし、知代だけはムッと眉(み)間(けん)に皺(しわ)を寄せていた。
なぜなら、新入社員は知代を含めて他にも数人いる。それなのに皆、鹿嶋に夢中で、他の新入社員のことなど眼中にないからだ。いや、同じ新入社員である同僚すら、鹿嶋に目を奪われている。
知代にしてみたら、これほどみじめな入社日もないというのに。
『ドイツの大学なんてすごいね。どんな研究をしていたの?』
『語学力も高そうだねえ』
『本社が将来有望だって太鼓判を捺(お)していたよ。君には期待したいねえ』
皆が口々に話すのは鹿嶋のことばかり。知代はまだ、自己紹介すらできていない。
知代が下を向いた時、鹿嶋の涼やかな声がした。
『僕のことより、同僚になる皆さんの紹介を先に聞かせてください』
柔和な笑みを浮かべた鹿嶋の一言で、ようやく他の社員たちの自己紹介が再開された。
しかし、知代は情けをかけられたみたいで嫌な気分に陥った。思えば、あの瞬間から知代にとって鹿嶋は『敵』となったのだろう。
『——猪田知代です。新卒で入社しました。よろしくお願いします』
笑顔のひとつも浮かべる余裕はなく、ムスッとしたまま簡潔に挨拶する。
『率直な意見なんだけど、君、すごく小さいね』
営業の誰かが発したデリカシーゼロの言葉に、知代の額にはビシッと青筋が立った。
『高校生……いや、中学生くらいに見えるって言われない?』
『確かに! 俺の姪(めい)っ子とそっくりだわ〜』
ビシビシ。心底言われたくなかった言葉の数々に、知代の怒りゲージが増えていく。
そして——
『小さくたって、いつかはトップの営業成績を叩き出してみせます!』
知代は入社初日にして、伝説に残る大口を叩いてしまったのである。
確かに、知代は小さい。むしろ小さいのが特徴のような人物である。
百四十六センチという身長に、ベビーフェイス。セミロングの毛先にパーマをかけた髪型は大人らしさがあるものの、知代がやると背伸びしてオシャレした子供のようだ。常に眼鏡をかけているのも、どこか愛嬌がある。
せめて、あと四センチあればよかったのにと、伸びない背に悪態をつく毎日だ。
それだけあれば、憧れの百五十センチに届くのに。成長期の頃から毎日かかさず牛乳を飲み、小魚を食べているが、知代の身長は十八歳の身体測定を最後に、一ミリも伸びてくれなかった。代わりに、なぜか胸が未だに成長している。今やFカップにまで育ってしまい、食べ物の栄養が全て胸に集約されているのではないかと思うほどだ。
しかし、そんな小さい見た目に反して、知代は大変負けず嫌いで、仕事に対してもポジティブな性格をしていた。
それはきっと、父親の影響が強いのだろう。
知代の父は、平社員から実力のみで役員まで登りつめた叩き上げの営業なのである。そんな父の背中を見て育った知代は、いわゆる『さとり世代』と揶揄(やゆ)される世代ではあるものの、割と昔ながらの熱血精神を持っていた。
一度物事に打ち込むと、とことん燃える性格で、知代の青春時代は殆(ほとん)ど勉強と部活の陸上を頑張る日々だった。
誰もが面倒臭がる朝練も毎日こなし、放課後は塾の時間までみっちり練習に明け暮れた。
そんな知代の強気な態度と、何事も諦めないバイタリティーの高さは、営業として適正があるようで、職場でもすぐに馴染むことができた。
『猪田』という姓と、猪突猛進な性格でひたむきな営業スタイルから『うり坊』というあだ名をつけられて、ちまっこいとか、子供みたいに可愛いなど、からかわれることも少なくないが、概(おおむ)ね、人間関係は良好である。
趣味は、ひとりカラオケと、お笑いライブを観に行くこと。
休日は思いきり歌ったり笑ったりするのが、知代のストレス発散法なのだ。
今や後輩もでき、営業テクニックをきびきび教える様はベテラン然としていて、教育係としても頭角を現している。
しかし、初対面の印象が最悪だった鹿嶋とは、なかなか打ち解けることができなかった。むしろ年々悪化する一方である。
大口を叩いた入社初日から三年——。
知代は未だに、成績トップを取ったことがない。もちろん、同僚である鹿嶋に取られているからである。
月末のミーティングで成績表が貼られた日から三日後。
全国の支社の中で、四半期の営業成績総合一位に輝いた鹿嶋は、ドイツの本社から記念品が贈られることになり、今夜はそんな彼の偉業を祝う宴会が予定されていた。
鹿嶋の独走状態が気に入らない知代は、朝からくさくさした気分である。
ピリリ。ピリリ。
知代が研究棟からサンプルを貰って営業フロアに戻る途中、廊下で、スマートフォンが着信音を鳴らした。
「はい、猪田です」
通話の相手は取引先の担当者だった。朝一番に連絡をしてくるなんて珍しい。しかし、先方の話を聞いて、知代は驚きに目を丸くする。
「え、試験用の血液試料がまだ届いていないんですか?」
慌てて鞄からスケジュール帳を取り出し、パラパラめくる。
(この取引先の納品日は昨日のはず。なのに、どうして試料が届いてないの?)
まずは卸売業者に連絡して、確認する必要がある。それと同時に、至急取引先に代替品を届けなければならない。
(ええと、確かこの取引先と契約した血液試料は、ウサギと……もうひとつ、なんだったっけ)
猪田が必死に思い出そうとしていると、後ろから声をかけられた。
「納品遅れの原因は、冷凍車の故障だよ。ウサギとウシの血液試料は、うちの地下冷凍庫に少数保管されているから、今すぐ届けると伝えて」
「えっ……?」
低く、滑(かつ)舌(ぜつ)のよい男性の声。振り返ると、そこには首を真上にしないと顔が見えないくらいに背の高く、見目のよい男、鹿嶋が立っていた。
「ほら、電話、途中だよ?」
ツンツンとスマートフォンを指さされ、知代はムッとしながらも、すぐに彼から背を向けた。
「……失礼いたしました。先ほど情報が入ったのですが、運搬用の冷凍車にトラブルがあったようです。代替品となりますが、弊社の研究棟で保管している試料をお届けいたしますので、今しばらくお待ちいただけますか?」
電話の相手は快く了承してくれた。「別でトラブルが起きても臨機応変に対応してくれて助かりましたよ、ありがとうございます」と礼を言われて、通話を終える。
(よかった……。なんとかなった)
ふぅと安堵のため息をついてから、後ろの気配がまだ消えていないことに気づく。
知代は眉間に縦皺を寄せたあと、グルッと振り返った。
——鹿嶋利央。知代にとって天敵でありライバルである。
憎たらしいほど顔がよくて、高身長で、営業成績トップを常にひた走る。おまけに誰に対しても親切で優しく、上司の覚えもおめでたい。
どこから見ても完璧超人。『優等生』を絵に描いたような男だ。
噂によると、一部の女性社員から『営業部の貴公子』と呼ばれているらしい。初めてその噂を聞いた時は思わず噴き出してしまったが、確かにそう呼ばれてもおかしくないほど、鹿嶋は所作が優雅で謙虚な性格をしている。
皆はそんな鹿嶋を聖人君子として褒め称えているが、知代は違う印象を持っていた。
世の中に、完璧な人間なんていないという持論を持つ知代にとって、鹿嶋は『できすぎ』なのである。あまりに隙がないゆえに、裏の顔を持っているんじゃないか、どこか胡散臭いなどと、つい穿(うが)った目で見てしまうのだ。
(鹿嶋さんにお礼を言わなければならないなんて、屈辱(くつじょく)も同然! でも、借りを作るのも嫌だし、仕方ない)
知代は悔しそうにギュッと目を瞑(つむ)ったあと、ぺこりと頭を下げた。
「フォローありがとうございました」
「いえいえ、同僚として当然のことをしたまでだから」
爽やかな笑顔でサラッと言う。さすが営業部の貴公子などと謳(うた)われるだけはある。だが、知代はムムッと彼を睨んでしまった。
「どうしてあなたが、私の取引先の納品が遅れていることや、トラブルの原因が冷凍車の故障であることを把握しているのか、色々問い質(ただ)したいですけどね?」
「うん。実は昨日の夜に、僕の取引先から冷凍車トラブルの連絡が来たんだ。というわけで、どちらも昨夜の時点で代替品の再配送は手配してあるんだよ。午前中には届くから、あとで取引先に確認するといい。ごめんね、すぐに連絡すればよかったんだけど、猪田の携帯番号を知らなかったんだ」
(確かに、鹿嶋さんには私の携帯電話を教えていなかった……。それにしても、相変わらずフォローが百点満点ですこと! でも、私だって先に知っていたら、ちゃんと動けていたのに……悔しい)
知代はしかめ面を浮かべた。すると鹿嶋は困った笑顔で遠慮がちに話す。
「猪田なら、これくらいのトラブルは難なく解決できたよね。お節介だったかな?」
「い、いいえ。助かりました」
苦渋の表情で礼を口にすると、鹿嶋は「よかった」と頷(うなず)いた。
彼は、時々こうやって知代のフォローに回ってくれる。もちろん知代だけではなく、誰に対してもこのスタイルだ。
しかし、知代は気に入らなかった。ついつい悪態を口に出してしまう。
「エースの余裕ってやつかもしれませんけど、他人のフォローばかりしていたら、いつか足をすくわれますよ。主に私に、ですけどね!」
猪田知代は、陰口は絶対に言わない主義である。だが、本人を前にして悪口は言う。世間では、それを『喧嘩を売っている』と言うのだ。
鹿嶋はニコニコ笑顔でそれを聞くと、はっきり返してきた。
「そっくりそのまま同じ言葉を返すよ。猪田も、最近は教育係として後輩の世話ばかり焼いてないかな。このままだと来月は二位も危ないかもしれないね?」
うぐっと知代は言葉に詰まる。まったくもってその通りだ。しかし今年入ったばかりの後輩は心配だし、できるだけサポートしてあげたい。でもそろそろ自分の仕事も気合いを入れていかないと、また月末の成績発表で悔しい思いをすることになる。
「よ、余計なお世話です! 私はすでに五枚も覚書をいただいていて、契約書を交わすアポも取り終えているんですからね!」
「へぇ〜、さすがだね」
「そのバカにした顔。信じてないですね!?」
「いやそんな、滅相(めっそう)もない。さすがは営業成績二位をキープされている、やり手の営業さんだと思ったんだよ」
「嫌みかコラ! 今月こそ一位を取ってやるんだからっ! 首を洗って待っててください!」
「うーん、それなら、今月は少なくとも八件は契約を決めないとだね?」
「はち……っ!?」
「まあ、頑張って」
ぽん、と知代の頭に大きな手が乗る。
「気安く頭に触るな! 背が低い私に対する嫌がらせか!」
「いや、丁度いいところに頭があるものでつい。肘(ひじ)置きにもなるし」
「肘を置くな〜! くぅ、今月こそ絶対に見返してやりますから!」
知代は前かがみになって鹿嶋の腕をかいくぐり、ずれた眼鏡を直してビシッと指をさした。そして営業部に向かって全速力で走る。
完全に尻尾(しっぽ)を巻いて逃げる図だ。
(悔しい、悔しい! 何よ人のことを子供扱いしたり頭を肘置きにしたり! あんなのどこが『貴公子』なの! 小一時間ほど問い質したいわっ!)
だが、鹿嶋は本当に、分け隔(へだ)てなく親切で優しく、頼りがいもある営業のエースなのだ。ただ唯一、聖人君子然とした鹿嶋が知代に対してだけは例外で、どこか挑発的なところがある。十中八九、知代がいちいち喧嘩を売るからだろう。
知代が鹿嶋にすぐつっかかるのは社内でも有名で、犬猿の仲、とまで言われていた。しかし同時に、営業成績トップツーを常に鹿嶋と知代が占めているため、ふたりの名字と知代の名前の響きから、『猪鹿蝶コンビ』とも呼ばれていた。
知代としては、勝手に変なコンビ名をつけるなと言いたい。あんな大嫌いなヤツと一緒にされるなんて、願い下げだ。
気に食わない。顔がよくて背が高くて仕事ができて、傲慢さはひとつとして見せず、常に謙虚な態度を取っているところがまったくもって気に食わない。
たいそう女性に人気があるが、お誘いは全て断っているらしい。だが、そのストイックな姿勢も人気に繋がっている。
(ああいうタイプは絶対、裏表が激しいに決まってる。だって私に対する態度が全てを物語っているもんね。紳士は普通、人の頭を肘置きにしないし!)
知代はぷりぷり怒りながら廊下を歩き、ふと、足を止めた。
「……でも、私がトラブルに遭(あ)うと、なぜかいつも、先回りして助けてくれるのよね」
今回のことだってそうだ。鹿嶋が知代のことを嫌っているのなら、最初から助け船なんて出さないはず。
鹿嶋の親切心なのだろうか。それなら余計に放っておいてほしいと思う。
(普通は助けてもらったら喜ぶんだろうけど、私からしたら、どうしても勝者の余裕に見えてしまうんだよね。悔しい!)
とにかく、鹿嶋よりもいい成績を取ってぎゃふんと言わせてやるのだ。
そしてあの憎たらしいヤツの鼻を明かしてやる。
「今度こそ絶対に勝ってやる!」
背中に炎を背負っているのが見えそうなほど熱い闘志をみなぎらせて、知代はのしのし営業部に戻った。
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