書籍詳細
伯爵令嬢は英雄侯爵に娶られる〜溺愛される闇の檻の乙女〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/05/29 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
プロローグ
情けを知らない雨が激しく降っていた。
ヴィオレッタは意識を取り戻し、重たい瞼を開ける。
どうやら、彼女は地面に転がっているらしい。歪んだ視界に飛びこんできたのは、闇に染まった空だった。そこを眩い雷の光線が駆け抜けていく。
縦横無尽に空をかけ回る雷光を見て、ヴィオレッタはまるで苦しみのたうち回る光の蛇のようだと思った。数秒おいて轟音が響き渡る。それは、この世のものとは思えないほど恐ろしい音だった。
「あ……う……」
ヴィオレッタは恐怖のあまり小刻みに震える。冷たい、と感じた。地面も、身体も、全てが凍えそうなほど冷えきっていて、どうしても震えが止まらない。
地上に狙いを定めた雷が、ドーンッ! と、ひときわ巨大な音を鳴らした。
もしかしたら、どこかに落ちたのかもしれない。
「……うっ……うう……」
ヴィオレッタは呻き声を上げながら指を動かし、身体を起こそうとするが、足に激痛が走って顔を歪めた。力を入れてみても、満足に動かない。
呻き声を上げている間にも、降り注ぐ雨粒が硬い石(いし)礫(つぶて)のようになって彼女の身体を叩き、ぬかるんだ地面に大小さまざまな水たまりを作っていく。
ヴィオレッタは足を引きずりながら地面を移動し、視線を巡らせた。
「お母様っ……お兄様っ……」
今は夜で、雷雨のため視界が悪い。そんな状況下で、ヴィオレッタは手探りで必死に母と兄を捜し続ける。
そして、ようやく指先が柔らかいものにぶつかった。
ヴィオレッタは這うようにして、その柔らかいものに縋りつく。しかし、すぐ異変に気づいた。薄暗い中で顔を探り当てるが、雨と同じくらい冷たいのだ。
「……?」
周りが暗くて、よく見えない。雨音と雷鳴のせいで、他の音も拾えない。
ヴィオレッタが痛みを堪えながら、探り当てた相手を抱き起こそうとした時だった。
空に眩い光が散って周囲一帯を照らし出す。
そして、ヴィオレッタは何が起きたのかを理解した。
「あっ……」
御者が横転した馬車の下敷きになっており、近くには兄がうつ伏せで倒れている。どちらもピクリとも動かないから、生きているようには思えなかった。
再び、雷光が煌めいた。馬車の向こう側には、何か大きなものが滑り落ちてきた痕跡のある斜面が見える。
高台にある公爵家からの帰り道、山道が豪雨でぬかるみ、轍(わだち)に車輪を取られて馬車が横転したのだろう。そして、そのまま下の道まで斜面を滑り落ちた。
ヴィオレッタは腕の中に視線を落とし、青白い顔をして口から血を流している母の顔を見た。体温が感じられず、息をしていないのは明白だった。
「あぁ……あ……」
冷たくなった母を抱きしめると、ヴィオレッタは天に向かって慟(どう)哭(こく)した。
雷雨よ、早く鎮まって。お願いだから、この悪夢から目を醒まさせて。
ピカピカと空で光り続ける雷は、たった一人、生き残ってしまったヴィオレッタを断続的に照らし続ける。
「……こんなの、嘘よ……」
ヴィオレッタは瞼をきつく閉ざして、もう二度と動かなくなった兄と母の姿を視界から締め出した。
「いやっ……もう、見たくない……」
彼女の心は現実を受け止めきれず、壊れかけていた。
「見たくないっ……何も、見たく、ないのっ……!」
こんな残酷な光景を、私に見せないで。
心の底から絞り出した悲痛な声は、残酷な雨音にかき消されていき、やがてヴィオレッタも意識を失っていた。
いつ、どうやって救出されたのか、ヴィオレッタは覚えていない。
彼女は全身打撲に足の骨折、身体を冷やしたために高熱も出しており、救出されたあともしばらく意識が朦(もう)朧(ろう)としていた。
夢(ゆめ)現(うつつ)の状態で苦しむヴィオレッタの耳に届いてきたのは、妹のマルグリットの金切り声だった。
「お兄様とお母様が死んでしまったのは、お姉様のせいよっ!」
「やめなさい、マルグリット。あれは事故だったんだ」
「あんな雨の夜に、帰りたいと言ったのはお姉様だったんでしょう!?」
熱に浮かされたヴィオレッタは目を閉じたまま、父のトラモント伯爵に宥(なだ)められている妹の悲鳴を聞いていた。
やはり母と兄は亡くなってしまったのだ。そして、ヴィオレッタだけが生き残った。
ヴィオレッタは瞼を持ち上げようとするが、どうしても目が開けられない。涙が涸れるほど泣いたために、その涙が乾いて上下の睫毛がくっついてしまっているのだ。
「二人が死んでしまったのは、お姉様のせいだわ!」
マルグリットの言う通りだった。ヴィオレッタが屋敷に帰りたいと言わなければ、こんなことにはならなかった。
閉じた瞼の縁から、涸れたはずの涙が一筋、流れ落ちていった。今にも押し潰されてしまいそうな自責の念に苛(さいな)まれる。
母と兄が命を失ったのに、どうして私だけが、生き残ってしまったの?
「ああ……ああ……」
雨の中で叫びすぎて、とっくに喉は潰れていたが、ヴィオレッタは掠れた声を零して泣きながら、心の中で母と兄に謝り続けた。
ごめんなさい。私のせいで、二人を死に追いやってしまった。本当にごめんなさい。
どれほど悔いて、謝ったところで、死んだ人間は戻ってこない。頭では分かっているのに、どうしたって泣くことをやめられなかった。
「ヴィオレッタ! 意識が戻ったのか!」
父の駆け寄ってくる足音がしたが、感情の昂ぶりと全身の痛みにより、ヴィオレッタは再び気を失っていた。
瞼の裏には、亡(なき)骸(がら)となった母と兄の姿が焼きついていた。
あんな悲しい光景は、もう二度と見たくはないと、ヴィオレッタは心から思った。
そして、次にヴィオレッタが目を覚ました時、彼女の視界は闇に包まれていた。
最愛の家族を失った後悔と罪悪感により、心身ともに深い傷を負ったヴィオレッタの瞳は、世界を照らす光を失っていたのである。
第一章 物好きな求婚相手
戦場には地を揺るがすような大砲の爆音が響き渡っていた。
あちこちから硝煙の匂いが立ちこめていて、地面には敵も味方も関係なく死(し)屍(し)累(るい)々(るい)と兵士たちが倒れている。
昨日まで隣に立って笑っていた戦友が、物言わぬ屍(しかばね)となって地面に倒れているのを見つけるのは、戦場では日常茶飯事だった。既に息絶えた友を前にした時に味わう悲哀と虚しさは、言葉で形容しがたいものだ。
そんな想いを、今度は自分が戦友にさせるのかもしれない。ああ、くそったれが。
リヒター・ヘーゲンブルグは心の中で悪態をつきながら、敵国の陣地内にある古びた小屋で、鋭利な刃物をちらつかせて近づいてくる覆面の男を睨みつける。天井から吊るされた両手を動かそうと試みるが、じゃらじゃらと重たい鎖の音がするばかりだ。
覆面の男が刃物を振り下ろし、リヒターの身体を傷つけていく。胸や腹部に痛みが走ってもリヒターは顔色を変えず、一点を見つめて微動だにしなかった。
深手を負って死にかけていた部下の身代わりでリヒターは敵の捕虜となり、昼夜問わずに過酷な尋問を受けている。全身には鞭で打たれた痕があり、刃物の傷が走っていて、こけた頬には大きな裂傷があり、ぽたぽたと血が滴り落ちていた。
味方の作戦、兵士の数、兵糧の入手経路。何を問い詰められても、誇り高い軍人であるリヒターが口を割ることはない。苦痛に負けて味方を売るくらいなら、とことん苦痛を味わった末に口を噤(つぐ)んだまま死を選ぶ。彼はそういう男だった。
リヒターの強情さに覆面の男は手法を変えたらしく、今度は焼けた鉄の棒を持ってきた。次はそれを使って、彼をいたぶるつもりらしい。
リヒターは深呼吸をすると、心を閉ざして痛みを堪える準備をする。
こんなもの、どうということはない。たかが痛みならば、どれだけでも耐えられる。
覆面の男が血の滲む真新しい傷を目がけて、灼熱の鉄の棒を掲げてきた。
刹那、リヒターの全身を、これまでとは比較にならない激痛が襲って――。
「っ、は……!」
唐突に眠りから目覚めたリヒターは、呼吸を荒くしながら天井を見上げていた。
そこは戦場ではなく、王都にあるヘーゲンブルグ侯爵邸だった。
「……ああ……まったく、忌々しい夢だ」
戦場での悪夢。あれから何年も経っているというのに、未だに夢に見るのだ。首や脇から汗が吹き出していて、寝巻きのシャツが濡れている。
リヒターは長い前髪をかき上げながら、身体に張りつくシャツを脱ぎ捨てた。露わになった上半身には、所狭しと深い裂傷の痕がある。戦地で拷問を受けた時の傷だ。
彼は枕元の水差しから、グラスに水を注いで一気に呷(あお)った。冷たい水が喉を伝い落ちる感覚が心地よくて、悪夢の余韻が消えていく。
「はぁ……」
このまま寝たら悪夢の続きを見そうだと判断したリヒターは、書斎に向かう。書斎の壁一面には本棚があり、様々な本が並べられていた。
リヒターはその中から適当な本を手に取り、書斎の椅子に腰を下ろして読書を始めた。
眠れぬ夜のお供は本だ。戦場を駆け回っていた頃には、本の良さなど理解できなかったが、今は違う。本は知識の宝庫で、ページを捲(めく)るごとに新たな発見がある。
リヒターは読書をしながら時間を潰し、朝方にほんの少し仮眠を取っただけで、その日の支度を始めた。
今日は、昔から世話になっているハイデン公爵家の夜会に招待されていた。
その夜会に出席するために、リヒターは自身が治める辺境の地ヘーゲンブルグから、わざわざ王都まで足を運んでいた。
日が暮れると、彼は馬車に乗ってハイデン公爵家に向かった。
公爵家の広いロータリーには馬車がたくさん停まっている。どうやら、既に多くの招待客が到着しているようだった。
「おお、リヒター。久しぶりではないか。よく来てくれたな」
恰幅のいいハイデン公爵が、わざわざ玄関先まで出迎えてくれた。
「お久しぶりです、ハイデン公爵。このたびはお招き頂き、ありがとうございます」
「こちらこそ、こうして君に会えて嬉しいよ。しばらく見ない間に、父君によく似てきたな」
亡き父がハイデン公爵と友人だったこともあり、リヒターは若い時分から公爵と懇意にさせてもらっていた。戦場から帰って来た時も、わざわざ公爵家に呼んで慰労のパーティーを開いてくれたのだ。
リヒターは親しげに肩を叩いてくる公爵に、広間まで案内された。
広間へ入った途端、周囲からの視線を感じた。
「あれはもしや、ヘーゲンブルグ侯爵ではありませんこと?」
「あら、本当だわ。まさか、ガルドの英雄にこんなところでお目にかかれるなんて」
「領地から滅多に出られないと聞いておりましたもの。夜会に出席されるなんて、珍しいわ」
あちこちから、ひそひそ声が聞こえてきて、リヒターは鼻梁に皺を寄せた。
このガルド王国は、数年前まで周辺諸国と戦争を行なっていた。今は平和協定が結ばれて戦争は終わっているが、当時は爵位を持った貴族の子息たちも軍人としての教育を受け、従軍していた。
ヘーゲンブルグ侯爵家の跡取りだったリヒターも軍学校を出ており、軍隊長として最前線で戦っていたのだ。そこで多くの勲功を挙げ、自らの身を犠牲にして部下を助けたという話も美談として伝えられたせいで、何故か〝ガルドの英雄〟という呼び方をされるようになった。
しかし、リヒターはその呼び名が好きではない。戦場では多くの人が死に、彼の戦友もたくさん戦死している。
周りが英雄と呼ぶのは勝手だが、彼は自分を英雄だと思ってはいないし、あの頃の記憶を胸に秘めたまま、今は静かに暮らしたいという思いが大きかった。
そういう理由もあって、リヒターが領地のヘーゲンブルグからほとんど出ないため、たまに王都へ呼ばれて夜会に出席すると、こうして注目の的になってしまう。
「お顔に傷があるという噂は、本当だったのですね」
どこからか、そんな声が聞こえてきて、リヒターはそちらに顔を向けた。若い令嬢と目が合ったが、慌てたように視線を逸らされる。
リヒターは銀髪に深紅(スカーレット)の瞳を持ち、彫りの深い精悍な顔立ちをした美丈夫だが、目つきは鷹のごとく鋭かった。相手をひと睨みしただけで、その場に縫いつけて動けなくさせてしまうような眼力がある。
だが、リヒターが人目を惹くのは容姿や眼力だけではなく、顔の傷も理由の一つだ。彼の頬には縦に一本、拷問の折に鋭利な刃物で斬られた傷痕が残っている。
今は前髪を長く伸ばして左頬を隠しているが、それでも興味本位な視線を感じる時は多々あり、リヒターは何度も不愉快な思いをしてきた。それでますます目つきが鋭くなっていき、眉間にも皺が寄って人相が悪くなってしまったから、知人以外は怯えて近づいてこないのだ。
気の弱い令嬢ならば、リヒターに睨まれただけでも怖がって、その場で泣き出すかもしれない。
「リヒター。今夜は楽しんで行ってくれ。若いご令嬢も多いから、ダンスでも踊るといい」
ハイデン公爵は大らかに笑ってそう言い残し、他の招待客に挨拶をしに行く。
リヒターは一息ついて、シャンパンのグラスを手に取った。
今日の目的であるハイデン公爵への挨拶は終わり、これからどうするかと視線を巡らせていた彼は、ふと壁の一角で視線を止める。
一人の令嬢が、ひっそりと佇んで壁の花になっていた。
夜会に参加している若い令嬢たちは楽しげに談笑し、時には男性に誘われてダンスをしているというのに、彼女はそんな素振りもなく、壁に凭(もた)れて前を向いていた。
すると、近くにいた令嬢が、彼女のもとへ歩み寄って話しかけた。何げなく耳を澄ませたら、会話が聞こえてくる。
「貴女はトラモント伯爵家のご令嬢ですわよね」
今は亡きトラモント伯爵家の息子エドガーは、リヒターの戦友だった。そのトラモント伯爵家の令嬢となれば、エドガーの妹ということになる。
リヒターは手元のシャンパンを呷ると、空になったグラスをテーブルに置いて、彼女たちのほうへ近づいていった。
壁に凭れていた令嬢が小さくお辞儀をして、自己紹介する。
「ええ。トラモント伯爵家のヴィオレッタと申します」
「私はアルバト子爵家のナタリアです。先ほどからずっと、こんな壁際で何をしていらっしゃるの? よければ、あちらで一緒にお話ししましょうよ」
「お誘いはありがたいのですが、私は結構です」
控えめに断る彼女――ヴィオレッタを、ナタリアはじろじろと眺め回してから意地悪そうな表情で言う。
「貴女がずっと一人でいらっしゃるから、こうしてお誘いしてあげたのに、まさか断られるなんて思いもしませんでしたわ」
「っ……誘ってくださり、ありがとうございます。ですが、私は……」
「もういいですわ。二度と声はおかけしませんから」
ナタリアがツンと顎を反らして、くすくすと笑いながら様子を見守っている他の令嬢たちのもとへ戻っていく。一部始終を見ていたリヒターは、なんて不躾な娘たちだと顔を顰(ひそ)めた。
その時、ヴィオレッタがおそるおそる足を踏み出した。どうやら、ナタリアの後を追おうとしているようだが、さほど進まないうちにテーブルにぶつかって、派手に転んでしまう。
「あっ……!」
床に倒れたヴィオレッタが、困ったように周りを手で探っていた。その動きは明らかに不自然で、彼女の目線も落ち着きなくあちこち動いている。それを見ても近くにいる令嬢たちは手を貸そうとせず、顔を寄せ合って笑っていた。
リヒターは顔を険しくさせて歩調を速めた。周りにいる男性たちが見かねて助けに行こうとするのを視界の端で捉えたが、誰よりも先にヴィオレッタのもとに到着し、床を探っている華奢な手に触れた。ヴィオレッタの肩がびくりと震える。
リヒターは怖がらせないように、落ち着いた声で話しかけた。
「手を貸そう。立てるか?」
「っ……え、ええ」
顔を上げたヴィオレッタの瞳は大きくぱっちりとしており、緩くカールした睫毛に縁取られていて、突き抜けるような快晴の空を思わせる青色(シアン)だ。たまご型の滑らかな輪郭は女性らしく、印象的な瞳と整った顔立ちには楚々とした美しさがあった。
アイスブルーのドレスもシンプルなデザインのもので、癖のない黒髪は緩く編まれて肩に垂らされており、花を象(かたど)った髪飾りが挿されていた。
リヒターはヴィオレッタが纏う清楚な雰囲気と繊細な顔立ちに目を奪われたが、彼女と視線が絡むことはなかった。
トラモント伯爵家の長女ヴィオレッタが事故で視力を失ったというのは、社交界の事情に疎いリヒターでさえも知っている。彼女の視線はリヒターの顔を通り越した先に向けられていた。
華奢な手を握ったまま立たせてやると、ヴィオレッタが頭を下げてくる。
「どなたか存じませんが、手を貸してくださり、ありがとうございます」
「ああ」
ヴィオレッタの手を引いて壁際に設置された椅子まで案内してやり、彼は先ほど声をかけた令嬢たちを睥(へい)睨(げい)した。冷たい眼差しを受けて、一部始終を見ていた令嬢たちが身を強張らせている。
「何か飲み物でも取ってこよう」
「いえ、お気遣いなく。喉も渇いておりませんし」
「そうか。……付き添いはいないのか?」
「お義母様(かあさま)と来たのですが、知り合いに挨拶をしてくると言って席を外しているだけなので、そろそろ戻ってくると思います」
お義母様というのは、トラモント伯爵の後妻のことだろう。
椅子に腰かけて、ほっと息をついているヴィオレッタを見下ろしながら、リヒターは口端を歪めた。
トラモント伯爵家――今から四年前、伯爵夫人と跡継ぎのエドガーが馬車の滑落事故で亡くなり、当時の新聞が連日のように《トラモント伯爵家の悲劇》《雨の夜の惨劇》などと書き殴って、人々の注目を集めていた一家だ。
事故に巻きこまれた娘のヴィオレッタは一人だけ生き残ったが、精神的なショックを受けたことで視力を失ってしまっていた。
トラモント伯爵と、末娘のマルグリットは夜会に参加していなかったために事故に巻きこまれはしなかったものの、妻と息子を失った伯爵の嘆きようは見ていられなかった。
かく言うリヒターもエドガーは戦友だったので、訃報を聞いた時は葬儀に駆けつけて、弔いの花を捧げたのだ。
エドガーは生前、可愛がっている二人の妹の話をよくしていた。そのうちの一人、ヴィオレッタは今、誰からもダンスに誘われずに、ひっそりと壁の花になっている。令嬢たちからは冷たい仕打ちを受けて、付き添いだという義理の母親も帰ってこない。
リヒターはヴィオレッタに声をかけようとしたが、結局、気の利いた言葉が何も出てこなかったので、「失礼」と告げて彼女のもとを去った。
離れた場所からヴィオレッタの姿を見守っていると、肩をトントンと叩かれる。
「えらく怖い顔をしているな、リヒター。お前が来ていると聞いて捜していたんだよ。誰を睨んでいるんだ?」
「クラウスか。久しぶりだな。相変わらず軽薄そうな見た目をしている」
「久しぶりに会った友人に、酷い言い草だな」
傍らで苦笑している金髪碧眼の優男の名は、クラウス・ライヒシュタット。王国内でも有数の資産家の息子で、エドガーと同様にかつての戦友だった。
クラウスがリヒターの視線の先を見て、わずかに顔を曇らせた。
「ヴィオレッタか。最近、よく夜会で見かける。リヒター、お前は彼女と面識が無かったよな」
「ああ。エドガーの葬儀の時も、彼女は部屋から出られない状態だったからな。先ほど転んでいるところを見かけて、手を貸した時に初めて話をした」
「転んでいた? 付き添いは……っと、そういえば、向こうでトラモント伯爵夫人が男爵夫人と談笑していたな。娘を放り出して、楽しくお喋(しゃべ)りってわけか」
ヴィオレッタは椅子に腰かけていて、ぴくりとも動かない。前をひたと見据える目線も動くことはなく、近くを通り過ぎる客人たちから声をかけられることもなかった。
そこに居るはずなのに、まるで存在しないもののように無視されている。
「いつも、こうなのか?」
リヒターの問いかけに、クラウスが頭をかいて頷いた。
「俺が見かける時は、いつもあんな感じだ。ひっそりと壁際に立っていて、誰も声をかけないんだよ。俺が挨拶すると嬉しそうに話をしてくれるけど、他の連中は彼女を相手にしない。彼女を遠巻きに見て、嫁(い)き遅れの娘だと噂しているんだ」
「嫁き遅れ……彼女は、いくつだ?」
「確か、二十二だ。年齢的にも少し厳しいな」
「そうか。てっきり、彼女はもう誰かのもとに嫁いだのだと思っていた。あの事故から四年も経過しているからな」
「目のことがあるから、結婚相手が見つからないんだろう。社交界ってのは、そういうことを気にする連中が多いんだ。目が見えなくたって、ヴィオレッタは優しくて、いい子なのに。ああ……俺が独身だったらな」
妻帯者のクラウスが両手を頭の後ろに回して、ちらりとリヒターを見てくる。
「そういえば、奇遇にも、ここに独身の男が一人いるな。どうだ、リヒター。ヴィオレッタは本当にいい子だぞ」
「私に、彼女と結婚しろと言っているのか?」
「俺はアリだと思うぞ。お前がシャーロットの件で女を嫌っているのは知っているが、もう過去の出来事だ。あんな女ばかりじゃない」
「あの女の名を出すな、不愉快だ。それに、私は女が嫌いというわけじゃない。富と身分にしか興味がないような、分別のない女が嫌いなだけだ」
「だったら、俺はますますヴィオレッタを推したいね。あの子は利発で、自分の置かれた状況もよく理解している子だ。何より、お前はあれを見て、どうとも思わないのか?」
どうとも思わないのか、だって?
リヒターは顔を歪めると、顔を背けた。リヒターが王都に足を運ぶことは稀(まれ)で、社交界の事情には疎く、ヴィオレッタも既に結婚したものだと思いこんでいた。
しかし、先ほどの令嬢たちも然り、ヴィオレッタを無視する者たちや、彼女の噂をしている者がいるという事実を知って、腹の底から憤りがこみあげてくる。
――なぁ、リヒター。俺が死んだら、俺の妹たちを守ってやってくれないか。俺の妹は二人いるんだけどさ、どっちも可愛いんだよ。何だったら、どちらかを、お前と結婚させてやってもいいぞ。妹がお前を気に入ったら、の話だけどな。
戦場でたき火の番をしながら、エドガーとそんな話をしたことがある。戦場は死と隣り合わせの世界だった。いつ死ぬか分からない状況で、友人が語った遺言めいた台詞を、リヒターは今も鮮明に覚えている。
エドガーは軽口を叩くような気軽さで話をしていたが、その実、リヒターを見つめてくる目は、とても真剣だったのだ。
皮肉なことに、エドガーは戦場ではなく、事故で亡くなってしまったのだけれど。
リヒターはヴィオレッタを眺めながら目を細めた。
彼女は周りから声をかけられなくても気にしていないようだ。まるで、自分が無視をされるのは当然であり、全てを受け入れていると言わんばかりの達観した表情をしている。
そんな彼女の姿から、リヒターは目が離せなかった。
「リヒター。お前だって、いつまでも独身で居続けるわけにいかないだろう。侯爵家の跡継ぎを作らなきゃならない」
「そんなことは、お前に言われなくても分かっている」
リヒターは今年で三十二歳になる。領地に引きこもって女性とは縁(えん)遠(どお)い生活をしているが、さすがに妻帯しなければなるまいと考え始めていた頃だった。
だが、社交界で噂話に興じながら、小鳥のように囀(さえず)っている令嬢の中から結婚相手を選ぶつもりはなかった。そもそも大部分の令嬢は彼と目が合った途端に怯えて、露骨に避けるのだ。相手を探すどころではない。
しかし、ヴィオレッタは違う。リヒターの姿が見えないのだから、怯えたりしない。
こうして見ていると落ち着いた女性のようだし、二十二歳ならば十代の女より分別はあるだろう。本人の性格が良ければ、目が見えない点は些末な問題だった。
「彼女との結婚、か……考えてみよう」
「いい話だと思うぞ。ヴィオレッタは伯爵家のご令嬢だから、そういう点でも、侯爵家に嫁いでも問題ない身分だ。……さて、俺はヴィオレッタに挨拶してこようかな。お前も来るか? 紹介するぞ」
「いや、今日はやめておく」
リヒターは周りから注がれる視線を感じながら、クラウスの申し出を断る。
目立つリヒターが、これ以上ヴィオレッタに近づいたら、彼女に嫌な思いをさせるかもしれない。先ほど会話はしたし、今日のところは遠くから見守るだけに留めておこう。
クラウスがヴィオレッタに挨拶をしている姿を遠巻きに眺めながら、リヒターは気難しげな表情で腕組みをする。
久しぶりに王都の夜会に出席し、亡き友人の妹が社交界で邪魔者のように扱われているのを知ってしまった。エドガーの遺志もあり、このままヴィオレッタを放っておけない。
それに、清廉な空気を纏うヴィオレッタに、目を奪われているのも確かだ。
どうするのが一番なのか、リヒターの中では答えが出つつあった。
◇
馬車から降りて屋敷に入ったところで、ようやく退屈な夜会が終わったと、ヴィオレッタは肩の力を抜いた。
義母のキャサリンの声が聞こえる。
「ああ、久しぶりに楽しい夜会だったわ。……あら、あなた、まだそこにいたの? さっさと部屋に戻って寝なさい、ヴィオレッタ」
キャサリンの口調は冷たかったが、ヴィオレッタは慣れているので気にせずに、メイドのターニャを呼んだ。側に控えていたらしく、すかさず手を取られた。
「私はここにおります、ヴィオレッタ様。お部屋へ参りましょう」
「ええ、ターニャ。……おやすみなさいませ、お義母様」
その挨拶に返答はなく、キャサリンが階段を上っていく音が聞こえた。
今日の夜会は父のトラモント伯爵が仕事の関係で出席できなかったので、付き添いはキャサリンだけだった。後妻として伯爵家に嫁いできたキャサリンはヴィオレッタに冷たく接する。挨拶に返答が無いのは日常的で、ほとんど話しかけられることもない。
義母に疎まれているのが分かっているから、ここは生まれ育った屋敷のはずなのに居場所がないと感じる時もある。
しかし、それも仕方のないことだ。血の繋がりがなく、二十二歳になっても嫁ぎ先の見つからない目の見えない娘なんて、鬱(うっ)陶(とう)しいと思うのは当然だろう。だからヴィオレッタも、キャサリンと良好な関係を築こうという努力は、とっくにやめていた。
ヴィオレッタはターニャの手を借りて階段を上り、自室に向かう。
四年前の事故以来、彼女は視力を失った。原因は精神的なものだと診断を受けたが、一向に目は治らない。きっと一生このままなのだろう。
部屋に到着すると、ヴィオレッタはターニャの手を借りて寝る支度をしながら、夜会での出来事を思い返した。
転んだ時に、手を貸してくれた男性の名前を訊くのを忘れてしまった。
気づいた時には、彼は既に去った後だったのだ。
――手を貸そう。立てるか?
髪を梳かしてもらいながら、ヴィオレッタは耳に触れる。
少し掠れ気味で、聞き取りやすいハスキーボイス。あんなに素敵な声の持ち主には初めて会った。
「ターニャ。今日、久しぶりに知らない男性と話したの」
「まぁ。一体、どのような方だったのですか?」
ターニャは身寄りがなく、屋敷に住み込みのメイドとしてヴィオレッタの身の回りの世話をしてくれていた。信頼のおける、しっかり者のメイドだ。
「私が転んだところを助けてくれたの。とても素敵な声をしていたわ」
「素敵な声、ですか。どんな感じでしょう」
「声のトーンが低くて、話し方には落ち着きがあって、優しそうな感じかしら」
声の感じを言葉で説明するのは難しいが、ニュアンスは伝わったらしい。
「想像できました。その方のお名前はお訊きしたのですか?」
「名前を訊くのを忘れてしまったの。知らない男性とお話しするのなんて、久しぶりだったから緊張していて」
ヴィオレッタは両目を瞬(またた)く。目を開けたままでいると眼球が乾いてしまうから、定期的に瞬(まばた)きをするようにしているのだ。
「声の落ち着いた感じから判断して、きっと年上でご結婚されている方ね。しっかりとお礼を言いたかったのだけれど、お名前も分からないのだから仕方ない」
「キャサリン様は、ご一緒ではなかったのですか? お顔を見ていらっしゃるのでは」
「お義母様は、ちょうど席を外していた時だったの」
夜会の終わり間近まで、キャサリンはヴィオレッタのもとに戻ってこなかったが、そこは言わないでおいた。
髪を梳かし終えると、ヴィオレッタはターニャの手を借りてベッドに入った。
「今日も退屈な夜会だったわ。でも、ハイデン公爵様が気を遣って声をかけてくださったし、クラウス様もいらっしゃっていて、ご挨拶できたのは嬉しかった。楽しかったのは、それくらいね」
夜会は、いつも憂鬱だ。目の見えない彼女がどんな扱いをされているのか知っているはずなのに、社交場に顔を出せとキャサリンはうるさく言う。さっさとヴィオレッタの結婚相手を見つけて、厄介払いしたいのだろう。
父のトラモント伯爵は無理に出席する必要はないと言ってくれるが、嫁ぎ先のない自分の存在がどれほど外聞の悪いものか、ヴィオレッタは自覚していた。
ただ生きているだけでも、ヴィオレッタは伯爵家の重荷になる。誰かのもとに嫁ぐ将来も、再び目が見えるようになるという希望も、もはや見込みがなく、彼女には全てを諦めている節があった。このまま自分が生きていることに意味があるのかと、そんなことさえ考えてしまう。
ヴィオレッタは、気遣うように手を握ってくれているメイドの名を呼ぶ。
「ターニャ。昨日の続きを、お願い」
「はい、ヴィオレッタ様」
カサリ、と紙のこすれる音がした。本のページを捲る音だ。
昨日の続きから、本の読み聞かせが始まる。
「《全てを失ってから、永遠と思えるような時間を悔いて過ごした。その後悔の先で見つけたものを、私は何と呼べばいいか分からない。果たして生きていてもいいのか、その理由をずっと探し続けている――》」
ターニャの声に耳を澄ませながら、ヴィオレッタは眠りに落ちていく。
《果たして生きていてもいいのか、その理由をずっと探し続けている――》
耳に届いた一節が無性に心にしみた。
夜会からしばらく経ったある日、ヴィオレッタは父の書斎に呼ばれた。
屋敷の中は一人で歩けるので、壁伝いに書斎まで足を運んだら、どうやら父だけでなくキャサリンもいるようだった。
「お父様。お話って何ですか?」
「それがだな、ヴィオレッタ。お前に結婚を申し込んでくれた方がいるのだ」
ヴィオレッタは耳を疑った。嫁き遅れで目の見えない女と結婚したいなんて、一体どこの物好きだろう。伯爵家の持参金が目当てか、もしくは妻に先立たれたために貰い手のない若妻を欲しがっている、初老の男性という可能性もある。
ヴィオレッタが想像を巡らせていると、キャサリンが明るい口調で言った。
「これは素晴らしい話なのよ、ヴィオレッタ。お相手は、あのヘーゲンブルグ侯爵閣下なのですから」
ヘーゲンブルグ侯爵。その名前はヴィオレッタでも知っている。先の戦争で、軍隊長として武勲を挙げて英雄とまで呼ばれている人だ。
兄のエドガーが、彼とは友人なのだと話してくれたことがある。母と兄の葬儀にも来てくれたらしいが、その頃のヴィオレッタは心身を病んで部屋から出られなかったために、本人とは面識がない。
しかし、ヘーゲンブルグ侯爵は戦争が終わってから領地に籠もっていて、ほとんど王都に出てこないという話を聞いていた。
そんな人が、どうしてヴィオレッタに求婚してきたのだろう?
「夜会であなたを見初めたらしいわ。よかったじゃない、ヴィオレッタ」
「本当にヘーゲンブルグ侯爵が、私に結婚を申し込んできたんですか?」
「ああ。送られてきた書簡の署名(サイン)も、侯爵家のものだ。間違いない」
そう父は答えてくれるが、興奮しているキャサリンとは違って、その声は沈んでいる。
「書簡には、結婚を承諾するならば、お前に侯爵家の領地ヘーゲンブルグまで足を運んでほしいと書いてある。直(じか)に話をして、そのあと、向こうで婚礼を挙げるそうだ」
「侯爵家と繋がりができるなんて、素晴らしい話だわ。すぐにお返事を書きましょう」
「しかし、ヘーゲンブルグと言ったら、隣国に近い辺境の地だぞ。領土は広大だが、王都からは遠い。馬車に乗っても、数日かかる距離だ。そんな遠くへ嫁がせるのは……」
「あなた。この子が、これ以上の結婚相手を望めると思うの? これを逃せば、嫁ぐ先が見つからないかもしれないわよ。私は絶対に、この話を請けるべきだと思うわ」
キャサリンは強い口調で言い放つと、カツカツと足音を立てながら書斎を出て行く。
両親のやり取りを聞いていたヴィオレッタは、深く息を吐いた。
義母の言う通りだ。これを逃せば、嫁ぎ先が見つからないかもしれない。結婚を申し込まれる機会がほとんどないことを、ヴィオレッタは嫌というほど理解していた。
「ヴィオレッタ。お前の気持ちを聞かせておくれ」
父の声が近づいてきた。肩にそっと手を置かれて、ヴィオレッタはぴくりと身を揺らしたが、伯爵家の外聞や両親の想いを考えたら、迷う余地などない。
「私に結婚のお話が来ること自体が、ありがたいことだと思っています。ましてやお相手がヘーゲンブルグ侯爵閣下ならば、この家のためにもなることです。私はありがたくお請けしたいと思います」
ヴィオレッタは淡白な口調で答え、肩に置かれた父の手に触れる。腕を伝って肩まで移動していき、そこから顔に至った。
嫌がらずに触れさせてくれる父の顔を指で探ってみたら、口元が歪んでいる。
「お父様。喜んでくださらないのですか?」
「ヘーゲンブルグ侯爵とは、何度か顔を合わせたことがある。若くして侯爵家を継ぎ、戦争では武勲も挙げた素晴らしい方だ。エドガーとも仲が良かったそうだ。しかし、私の目から見ると気難しい方で、他家のご令嬢たちは彼を怖がっているようだ」
「怖がっている?」
「ああ。目つきや表情が、少しな……ヴィオレッタ。私は、お前が心配なのだ」
ヴィオレッタはトラモント伯爵の目元に触れる。いつの間にか皺が多くなった父の目尻は年を重ねて下がっていた。
「心配なさらないで、お父様。私なら大丈夫です。それに、私の目のことや年齢のこともご存じの上で、侯爵様は結婚を申し込んでくださったのでしょう?」
「ああ、書簡にはそう書いてある」
「ならば、私に断る理由などありません。お義母様の言う通り、私にはもったいないほどの良いお話ではありませんか。このまま結婚できずにいるよりも、このお話を請けることで、伯爵家に生まれた娘としての務めを果たしたいのです」
「それがお前の意思なのだな」
「はい。お父様」
父の唇が小さく動いたので、もしかしたら何か言おうとしたのかもしれない。
しかし、ヴィオレッタは身を引いて優雅にお辞儀する。
「すぐに荷物を纏めて、数日中に王都を発ちます。使用人の中から、供をつけて頂けるとありがたいです」
父の書斎を後にして、ヴィオレッタは壁に凭れながら天を仰いだ。
侯爵のもとに嫁ぐという不安や、どうして自分が選ばれたのかという疑問は渦巻いているけれど、安堵の想いが全てに勝っていた。
これでようやく、伯爵家の厄介者ではなくなるのだ。
出発を明日に控えて、ターニャの手を借りながら荷物を纏めていた時だった。
突然、部屋のドアが開け放たれて、慌ただしい足音が近づいてくる。
「お姉様! 一体どういうことなのですか!」
妹のマルグリットの声だ。彼女は既に子爵家へ嫁いでいるため、こうしてトラモント家を訪ねてくるのは珍しい。
ベッドに腰かけてナイトドレスを畳んでいたヴィオレッタが驚いていると、マルグリットの声がぐっと近づいてきて、手を握られた。
「マルグリット。あなたこそ、いきなりどうしたの?」
「お父様から、お姉様がヘーゲンブルグ侯爵のもとへ嫁ぐという話を聞いて、こうして駆けつけたのです。本当に嫁ぐつもりですか?」
「ええ、そのつもりよ。侯爵様のことは、あなたも知っているでしょう。戦争でも活躍されて、英雄とまで呼ばれている方よ」
「確かに、ヘーゲンブルグ侯爵の武勲は有名ですが、あの目で睨まれたら恐ろしさのあまり動けなくなるとか、そういう話ばかり聞きます。顔にも大きな傷があって、恐ろしい殿方として令嬢の間では有名なのです」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
ヴィオレッタは社交界に友人がおらず、そういった噂話には疎いのである。
「でも、私は睨まれても分からないし、顔に傷があるというのも見えないのだから気にならないわ。皆が言うように恐ろしい方だとしても、頭から取って食われるわけでもないでしょう。そんなに心配は要らないわ」
「危機感が無さすぎます。結婚ということは、一生を共にするということなのですよ」
マルグリットに肩を揺さぶられて、頭がぐわんぐわんと揺れる。
ヴィオレッタは妹の手を優しく叩き、落ち着かせた。
「マルグリット。私だってそれくらい理解しているわ。それに、侯爵様は私の年齢や目のことを知っていても、結婚したいと言ってくれているの。とてもありがたいお話なのだから、お断りする理由がない」
「ですが、ヘーゲンブルグ領と言ったら、王都から遠いではありませんか。お姉様の身に何かあった時は、すぐに駆けつけることができません」
マルグリットは父と同じようなことを口にする。嫁ぐからには、相手の領地で暮らすのは当然のことだが、父だけでなく妹までこの心配ようだ。
ヴィオレッタとて父と妹の気持ちは理解できる。四年前の事故を経験しているからだ。
あの日、事故の現場に居合わせなかった二人は、ヴィオレッタが遠くへ嫁ぐことを過剰なまでに心配している。目の見えない彼女が階段から足を滑らせてしまえば、打ち所が悪ければ死ぬし、道に出て馬車に轢かれたらそれで終わりなのである。
だが、気を遣いながら生活をしていれば、そんなことは滅多に起こらない。
「そんなに心配しなくても大丈夫。何も起きないわ」
「本気で嫁がれるつもりなのですね」
「ええ。侯爵家と繋がりができるのなら、この家のためにもなるし、それくらいしか、私にできることはないから。それに、私はもう誰にも迷惑をかけたくないの。このままじゃ嫁き遅れだと陰口を叩かれるばかりだし……分かってくれるわよね、マルグリット」
マルグリットの返答はなかった。妹はどんな表情をしながら話を聞いていたのだろうと、ヴィオレッタは想像しながら妹の手を撫でる。
――二人が死んでしまったのは、お姉様のせいだわ!
マルグリットが、あの時に口走ってしまった言葉を気に病んでいることを、ヴィオレッタは知っていた。ヴィオレッタがそれを聞いていたと知ったマグリットに、謝られたこともある。
大丈夫。気にしていないわ。そう答えたが、あの言葉は永久(とこしえ)の呪いのように、ヴィオレッタの心に刻みついていた。
「お姉様は、誰の迷惑にもなっておりません。お姉様が遠くへ行かれると、こうして会えなくなるのが寂しいだけで……それが、私の本心です」
「そんなことを言ってくれるのは、あなたくらいよ。ありがとう」
ヴィオレッタは抱きついてくる妹の背中を撫でてやった。会えなくなるのが寂しいと言ってくれる。その気持ちだけで、心から嬉しかった。
出発当日、旅支度をしたヴィオレッタのもとにメイドのターニャがやって来た。
「ヴィオレッタ様。ヘーゲンブルグまで、私がお供することになりました」
「旅の道中、あなたがいてくれるのなら安心ね」
「はい。ですが、お供をするのは旅の間だけではありません。私には身寄りもありませんし、今後もヴィオレッタ様にお仕えしたいと旦那様に直談判して参りました。お許しを頂いたので、ヘーゲンブルグでの生活においても、私がお世話をさせて頂きます」
ターニャはヴィオレッタの手から荷物の入った鞄を取り上げると、彼女の手を取って優しく引いた。
「ターニャ、本当にいいの?」
「もちろんでございます。ですから、何もご心配いりません」
ターニャは視力を失う前からメイドとしてヴィオレッタの側にいて、今では数少ない信頼できる相手だった。また、ターニャはヴィオレッタを疎むキャサリンを嫌っているらしく、そういう理由もあって一緒に行くと決断してくれたのだろう。
思いがけず頼もしい味方ができたことに、ヴィオレッタは内心ほっとする。
玄関まで見送りに来てくれた父との挨拶を済ませると、馬車に乗りこんだ。
これから長距離を移動して、辺境の地ヘーゲンブルグに向かうのだ。
馬車に揺られて数日。侯爵家の計らいで道中の宿泊地は手配されていて、特に不自由もなくヘーゲンブルグ領に入った。
領地に入ると、侯爵家の馬車が迎えに来ており、そちらに乗り換える。
乗り心地のいい馬車に揺られて、更に半日ほど走ると、ようやく侯爵家の屋敷が見えて来たようだ。
「ヴィオレッタ様。侯爵家のお屋敷が見えてきました」
ターニャが馬車の窓を開けてくれて、頬に風を感じた。木と草の香りがする。
「とても大きいお屋敷で、お城のようです。お屋敷の周りには鉄の柵があり、外は林に囲まれています。門をくぐるとロータリーまでは距離があって、これもお城みたいですね」
ターニャが屋敷の様子を説明してくれている。
ヴィオレッタはそれに耳を傾けながら、木と草の香りがするのは、林に囲まれているからなのねと納得した。
ほどなくして石畳を走る車輪の音がやみ、馬車が停まった。侯爵邸に到着したのだ。
ターニャの助けを借り、ヴィオレッタは足を踏み外さないように気をつけながら馬車を降りる。ヘーゲンブルグの地に降り立つのと同時に、男性の声が聞こえてきた。
「ヘーゲンブルグへようこそ。長い旅だっただろう」
ハスキーで聞き取りやすい声が耳に届いた瞬間、ヴィオレッタは息を呑んだ。聞き覚えのある声だったからだ。
――手を貸そう。立てるか?
まさか、あの人なのだろうか。期待と不安がごちゃ混ぜになったまま、ヴィオレッタは声のするほうに顔を向けていた。
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