書籍詳細
疑似恋愛アパート スパダリ彼氏の優しい嘘
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/06/26 |
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内容紹介
立ち読み
序章 うそ、ほんと、うそ
出会った瞬間に運命を感じるなんて、そんなロマンティックなことは簡単には起こらなかった。二人の出会いは、ごくありふれたものだったはずだ。
それでも彼は、紗千(さち)のぽっかりあいていた心の隙間に入り込んできて、隣にいることが当たり前になっていた。
コンプレックスを感じることもない。取り繕わなくていい相手。唯一の安らぎで、一番信頼している人。
自分のつまらない人生に、こんなにも穏やかに誰かと過ごせる日々がやってくるとは、思ってもみなかった。
二年間、二人は紗千のアパートで一緒に生活をしていた。
古くて狭いアパートなのに、居心地がいいと言ってくれた。布団はいつも一組で、身を寄せ合うように眠る。
母親にさえ抱きしめられた記憶がない紗千に、ぬくもりというものを教えてくれた人。
彼から家族の話を聞いたことはなかったけれど、てっきり自分と同じような境遇だと思い込んでいた。……自分と同じように、「孤独」を心に抱えているのだと。
だから惹かれた。慰め合いだとしても、とても心地よかった。
——でも違った。すべてが偽りだったなんて。
§
杉山(すぎやま)紗千がその日、その場所を訪れたのは、いくつかの偶然が重なった結果だ。
勤め先の設計事務所で受け持っている現場が、近くにあったこと。資材の発注トラブルが発生したせいで、普段は現場に出向くことのない紗千が、イレギュラーな対応をする状況になったこと。そして今朝、テレビから流れてきたあるニュースのせいで、清算したはずの過去を思い出してしまい、落ち込んで弁当を作りそこなったこと。
少しでもなにかが違っていたら、まだ知らないままでいられたのに。
職場からは、地下鉄で五つ先。他にも二つの路線が乗り入れているその地域には、有名企業が所有するビルが立ち並んでいる。
頼まれた荷物を現場の社員に渡したのは、昼過ぎ。このまま昼の休憩をとっていいと上司から言われていたので、紗千は一人で入りやすそうなカフェを探していた。
しばらく歩くと、見慣れたカフェチェーンの看板が見えてくる。そこでサンドウィッチとコーヒーを買って昼食を済ませることに決め、歩調を速めた。
その時、目の前にある大きなビルが、彼の勤め先の警備会社であることに気付く。
とはいえ、建物を見ただけで、紗千が彼の働く様子を想像することはない。この会社に所属する彼は、警備員として今日も派遣先で仕事をしているのだろうから。
ちょうどランチタイムが終わる頃だとはいえ、偶然会うことはないはずだ。
紗千がそこで立ち止まったのは、目の前を横切る形で、黒い車が警備会社に入っていったので、ただ避(よ)けるためだった。
後部座席の窓ガラスは黒っぽいフィルムが張られていて、車中はほとんど見えない。
もしこの会社の重役だったら、彼の上司にあたるのか。どんな人が車から降りてくるのか、少しだけ興味があって、停車した車のほうを何気なく眺めていた。
まもなくして、エントランスに横付けされた車から、背の高い人物が降りてくる。
(——えっ?)
若い男の人だった。しかも、紗千の知っている人と容姿がとてもよく似ていた。いや、似ているどころではない。彼そのものだ。
ほんの数時間前にいつも通りに送り出したジーンズ姿ではなく、質のよさそうなスーツを身に纏(まと)っていたけれど。
一緒に乗っていた男性と、出迎えた男性。二人を従えて、その大きなビルに入っていこうとした彼は、茫然(ぼうぜん)と見つめる紗千の存在に気付き、一瞬立ち止まって「まずい」という顔をした。
もし冷たい表情のまま、視線を合わせず立ち去ってくれたら、他人の空似で無理やり片付けられたのに。
「社長、どうかなさいましたか?」
出迎えの男性が、彼にそう声をかけた。彼よりずっと年上の人だ。突然立ち止まったのを不思議に思い、気遣ったのだろう。「しゃちょう」という言葉が紗千には違う言語に聞こえて、言葉と意味が素直に結びついてくれない。
「……いや、なんでもない。気にしないでくれ」
そう言って、彼は歩き出す。
彼の近くにいた二人も、付き従うように足並みを揃(そろ)えた。
その堂々とした姿は、人を従わせることが当たり前の存在なのだと紗千に知らしめてくる。
紗千の知っている彼と違っていたのは、服装だけではなかった。こんな人知らない。
例えば二人で入った飲食店で、彼は一度だって横柄な態度をとったことがなかった。どちらかと言えば無口で……でも、話す時は物腰が柔らかくて、必ず目を合わせてくれる。相手が年下だろうが、年上だろうが、基本は丁寧な言葉を使っていた。
紗千に対しても、そうしてほしいとお願いするまで、あまり砕けた口調で話しかけてくれなかった。
絶対に偉ぶらない。寛大で優しい人。弱い者に寄り添ってくれる人。そんな彼が好きだった。
だから「違う」と思った。心がその人を拒絶する。
だって、スーツを着たその人は、過去に紗千を苦しめ惨(みじ)めにさせた、大嫌いな人と同じ人種に思えたから。
『——紗千』
去り際に一瞬振り返った彼の唇が、自分の名前を紡いだ気がした。でもそれは、願望が生んだ幻覚だったのかもしれない。
立派なビルの中に入っていった彼の姿を、部外者の紗千が見ることは、もうできなかった。
なにが真実? なにが嘘? 一体彼は誰?
その場に立ち尽くした紗千の頭の中は混乱していた。
震える手でスマホの操作をする。この目の前の会社「S・ガーデンセキュリティー」を検索し、ホームページから企業情報を確認する。
S・ガーデンセキュリティー。かつて財閥とも呼ばれていた商社のグループ企業。そして代表の名前は——?
『鈴(すず)木(き)尊(たける)』
息が上手くできなくなった。なぜ、そこに彼の名前があるのだろう。気付かなかった自分が、おかしいのか。
紗千は、取り憑(つ)かれたように指先を動かした。
インターネットにはいろいろな情報が載っている。「鈴木尊」、その名前を検索しただけで、彼の経歴がわかってしまった。
名前は本名だ。年齢も紗千が知っていた通り、二十九歳で間違いない。しかし、それ以外はまったく知らない……紗千が知ろうとしなかった経歴が並んでいる。
名門私立大学出身。アメリカの大学に留学経験がある。三年前にこの会社の社長に就任すると、瞬く間に事業を拡大させた。インタビュー記事もあり、そこでは日本の未来を担う「若き経営者」として紹介されている。
父はグループ会社の社長。そして祖父は、テレビのニュースに出てくるような、経済界の大物だ。
鈴木という珍しくもない姓からは、自分の恋人がそんな有名な家と関係してるなんて想像できなかった。
『紗千といると、落ち着くんだ』
彼は、いつもそう言っていた。
『慎ましい生活をすることは、恥ずかしいことじゃない』
派手な遊びも浪費もしないのは、紗千に合わせているわけではなく、彼自身が同じ価値観を持っているからだとばかり思っていた。
『子供の頃、家にゲーム機なんてなかったから』
二人で過ごす一年目のクリスマスに、二人で奮発してテレビゲーム機を買った。
それから童心に返って、徹夜で遊んだこともある。今更テレビゲームにハマると思わなかったと、彼は少し照れたように言っていた。
紗千の前ではいつもラフな姿で、少し長い髪はボサボサのまま、眼鏡をかけていた。
『じゃあ、いってくるね』
朝は、紗千より早く仕事に出かけることになっていて、今日もいつも通りの彼の背中を見送ったはずなのに……。
あの人は誰?
紗千とは住む世界が違う人だと、一目でわかった。
名家の御曹司。冷たい顔を持つ男。それが彼の素顔だとしたら、紗千に見せていた顔は、すべて嘘だったことになる。
(ああ、なんだ……そういうことだったのか)
一度だけ、結婚について彼から聞かれたことがある。
『紗千は、将来のこと考えてる?』
『将来って?』
『その、結、婚……とか』
気まずそうに彼は言った。そして紗千はそこから話題を逸(そ)らしたくて、興味のないふりをした。
『考えてないよ。私には無理だもん』
紗千がそう答えると、彼は複雑そうな顔をしていた。いろいろな感情が絡み合った顔。でもその中に、安堵が存在しているのを確かに見た。
彼も結婚を望んでいない。意見が一致したのはよいことのはずなのに、不思議と紗千の胸はチクリと痛んだ。
もしかして尊は、夢中になってやっていたゲームと同じ感覚で、紗千との生活を現実逃避の場所にしていたのかもしれない。
リアルとは違う体験。日常から切り離してくれる場所。いずれ現実に戻る時は、電源を切って消去する場所として。
だから平気で紗千を騙(だま)した。
言葉では嘘をついていなかったとしても、自分を偽り続けたのだから、れっきとした嘘だ。
はたして、彼にとっての自分という存在は、心の通っている生身の人間だったのだろうか。
あのスーツを着た人は、自分が心を許した人とは違う。間違いなく本人だけど、そう否定したくなる。
だって、紗千の知っている彼なら、この状況を放置したりしない。追いかけてきて、泣きそうな顔で必死に言い訳をしてくれるはずだ。
それからの半日、昼食を食べずに会社に戻って、どうやって仕事をしたのかも覚えていない。
帰りの時間になっても、スマホにはメッセージも着信の知らせも入っていなかった。
「せめて、言い訳くらいしてよ……お願いだから」
ロッカールームで思わず漏らした悲痛な声は、他の女性社員達の楽しそうな会話がかき消してくれた。
たった五分、メッセージを送るための時間すら作る必要がない。彼にとって、紗千はそんな相手だったのだろう。
ここ最近、もうすぐやってくる紗千の誕生日を、本人以上に楽しみにしてくれていたのも、すべて嘘だったのか。欲しいものはないか、行きたい場所はないか、必死に探(さぐ)ってきた彼は偽りだったのか。
欲しいものを聞かれても、紗千はまともに答えられなかったけれど、それから彼はなにかを計画してくれているようだった。
家ではそわそわしたり、隠れてスマホで調べものをしたりしている彼の姿に、気付かない振りをしていた。隠しきれていない彼の正直さが、愛おしくもあったのに。
そんな彼と、さっきのスーツの男性がどうしても重ならないことが、不安をかきたてる。
会社から駅に向かって、とぼとぼと歩く。うつむきながら歩いていても、いつも通りの電車に乗ることができた。身体に染みこんだ習慣だ。
でも、心は昨日までの自分とは全然違ってしまった。
痛くて、苦しくて、何より不安でしかたない。
彼との生活が終わろうとしている。二人で過ごした大切な部屋が、ただいまも、おかえりもない孤独な場所に戻ってしまう。
「だから、言ったのに……」
出会ったばかりの頃、紗千は彼の手を取ることを一度はためらった。
憧れていた人並みの幸せが手に入るのではないかと、つい期待してしまう自分が怖かったからだ。もし彼と出会わなければ、孤独がこんなにも耐えがたいものだと知ることなんてなかった。一度手にしかけたものを失うくらいなら、何も知らないままのほうがよかった。
車両が急に揺れたわけでもないのに、紗千は手すりをぎゅっと掴んで、胸の痛みに耐えていた。今更どうにもできないとわかっていても、過去の自分を叱りたくなる。
誰かに心を許すこと。何度も失敗してきて、そのたびに後悔して……それでも彼だけは違うと思っていた。彼の隣は居心地がよくて、自分がずっと探し求めていた居場所をようやく見つけられたのだと勘違いしてしまった。
二年という歳月をかけて今、魔法はあっさりと解けていく。
電車が最寄り駅に停車しても、紗千は下車せず……そして、スマホの電源を切った。もしかしたら彼から届くのは、釈明ではなく別れの言葉かもしれないと気付いたからだ。
怖い。現実ではないどこかに行きたい。逃げ出したい。全部、見なかったことにできればよかったのに。
「……ほらね、やっぱり私は幸せになれない」
わかっていたはずなのに、なぜ勘違いしてしまったのか。
アパートには偽物の思い出がいっぱいありすぎて、どうしても戻ることができなかった。
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