書籍詳細
身代わり花嫁の溺愛クルーズ
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/07/31 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
フローラは思わず悲鳴を上げそうになった。
つい先ほどまで自分をエスコートしてくれた男性が、部屋に戻るなり燕尾服の上着を脱ぎ始めたのだ。
子爵家の令嬢として奥ゆかしく育ってきた彼女にとって、若い男性の肌を見ることは恥ずべきことである。慌てて顔を逸らすも、首筋まで真っ赤になってしまった。
「あ、ど、どうしてここで着替えを……」
緊張のあまり声が上擦る。明らかに狼狽えるフローラを、目の前の彼は面白そうに見つめていた。
「どうして? おかしなことを言う。わたしたちは結婚したのだ。当然、夜には本当の夫婦になるための儀式をするものだろう?」
「……――っ!?」
フローラはたちまち凍り付く。
確かに、フローラは昼間、目の前の彼と教会で結婚式を挙げた。
だが、実際に彼と結婚したのはフローラではない。
(わたしはあくまで、この方の花嫁になるはずの従姉妹(いとこ)のふりをしているだけ。わたし自身が、この方の花嫁になったわけではないのに――!)
だがそれを説明することはできない。あなたは本来花嫁となるべき人物とは違う人間と結婚した、などと、どうして教えられようか。
焦るあまりじっとりと脂汗を掻くフローラに気づいているのかいないのか。目の前の彼――従姉妹の花婿であるジェローム・ランス侯爵は、萌葱(もえぎ)色の瞳を細めながら、ゆっくりこちらに歩いてくる。
従姉妹のふりをしていることを悟られてはいけない。
けれどこのままでは、彼の花嫁となった者として純潔を捧げることになる。
(いったい、どうすればいいの――!?)
第一章 入れ替わった花嫁
「あなたにしか頼めないわ、フローラ! 一生のお願い! わたしのふりをして、ランス侯爵との婚前旅行に行ってきて!」
切羽詰まった顔の従姉妹を目にし、いったいなにがあったのかと心配になった途端にそんなお願いをされて、さしものフローラも目を見開いたまま固まってしまった。
ときは薔薇も見頃を迎える初夏。社交期と呼ばれる華やかな季節が迫っており、サーフィス子爵令嬢であるフローラも、家族とともに領地から王都へ移動していた。
領主として善政を行い、領民から慕われている父サーフィス子爵と、園芸が趣味の優しい子爵夫人。普段は離れて暮らしているが、大学に通う兄テッドは成績優秀で、月に一度は手紙や菓子、流行の雑誌などを送ってくれる優しいひとだ。
麦畑が広がる穏やかな土地で、穏やかな家族に囲まれて育ったフローラもまた、おっとりと優しい性格に育った。
普段は領地でのんびり暮らしている一家だが、社交期となればそうはいかない。貴族の義務である社交を果たすべく、王都の屋敷に移って、連日催(もよお)される舞踏会や茶会、音楽会に足を運ばなければならないのだ。
とはいえ、サーフィス子爵夫妻が参加するのは親戚や親しい友人が催す会ばかりで、積極的にあちこちに出かけていくわけではない。顔見知りに一通り挨拶して、王宮主催の舞踏会に参加したら領地に戻るというのが、毎年お決まりの流れだった。
「とはいえ、フローラも十七歳になったわけだし、そろそろ結婚について考えないといけないな」
「そうねぇ。本当はテッドに先に身を固めてほしいものだけど、まだまだ大学で勉強したいと言っているし……。フローラ、あなた自身はどなたか気になるお相手はいないの?」
領地から王都へ向かう馬車の中、両親から促されたフローラは、穏やかに微笑んで首を横に振った。
「これという方は特に……。でもわたしがお相手を決めなくても、お父様とお母様が良縁を探してきてくださるでしょう?」
「無論そのつもりでいるが、おまえの意思を無視して話を進めようとは思っていないぞ」
「ええ、お父様のおっしゃる通りです。だから気になる方がいたら遠慮なく教えてね」
「はい、お父様、お母様」
と頷いたものの、社交期に顔を合わせる相手はいつも一緒だし、子供の頃からの顔見知りばかりで、今更気になるもなにもない。
それに誰と結婚することになっても、こんなふうに言ってくれる両親が選んだひとなのだ。きっとそれなりの関係を築いていけるだろうと、フローラは楽観視していた。
そんなこんなで王都に到着し、荷解きをしてほっと一息ついた頃。
一足先に王都に入っていた従姉妹のエミリアから、急ぎ手紙が届けられた。
「お母様、王都に着いたらすぐに会いにきてほしいと、エミリアから手紙がきたの。まださほど遅い時間じゃないし、お出かけしてきていいかしら?」
「あらまあ、エミリアになにかあったのかしらね。ついでだからわたしも挨拶しておきたいわ。一緒に行きましょうか」
母ロレインは驚いた様子ながら、すぐに使用人に用意を言いつけ、自分も娘と一緒の馬車に乗り込んだ。
――手紙の主、エミリアは父方の従姉妹に当たる。彼女の父ベッジ侯爵が、フローラの父の実兄なのだ。
父親同士の兄弟仲がいいのはもちろん、母親同士も娘時代からの友人ということで、ベッジ侯爵家は昔から家族ぐるみの付き合いをしてきた家の一つである。
名門ベッジ侯爵家の令嬢らしく、エミリアは社交的で華やかで、男女問わず人気が高い。
おっとりとして控えめなフローラとはまるで正反対の性格なのだが、不思議と二人は幼い頃から気が合った。家族ぐるみで遊ぶときには決まって二人一緒にいて、あんなに性格が違うのに不思議なものねぇと親たちに面白がられていたくらいだ。
が、まったく正反対な二人には、同い年ということ以外にもう一つ共通点があった。
実は、二人の顔は双子と見間違うくらいにそっくりなのだ。
どうやら二人とも父方の祖母に似たようで、祖母を知る年配の方からは「あらま、先代の侯爵夫人が二人に増えたみたい!」などとからかわれることも多い。
幼い頃はそれを利用して、入れ替わって楽しんだりもしたものだが、長じてからはさすがにそのようなことはしなくなった。
顔はそっくりでも性格は正反対ということが周知されてきたし、二度と入れ替わるなんてことはないと思っていたけれど――
いざ王都の侯爵邸に到着し、エミリアと顔を合わせた途端、先の『一生のお願い』をされて、フローラはしばし絶句してしまった。
取り乱し気味のエミリアをなんとかなだめて、フローラは従姉妹を椅子に座らせる。
幼い頃から顔見知りの侍女にお茶を頼んで、「とにかく最初から説明してちょうだい」と穏やかに従姉妹に語りかけた。
「三日前にわたしの婚約が発表されたの。誤解しないで、わたしにとっては不本意な決定よ。お父様が勝手に決めてきちゃったものなの。それだけでも充分ひどいけど、もっと最悪なのは、わたしに知らせる前に新聞社に知らせて、婚約の記事を出させたことよ! こうなったらもうよほどのことじゃない限り破棄もできないわ」
エミリアが絶望的な面持ちで嘆く。王都に到着したばかりのフローラは記事が出ていたことも知らなかったので、目を丸くしてしまった。
「これがその新聞記事? ……まあ、本当。婚約内定の記事だわ。お相手のランス侯爵って、この国の方だったかしら?」
傍らに置かれていた新聞を取り上げたフローラに、「隣国ロベルデの方なのよ」とエミリアは沈んだ声音で告げてくる。
『ロベルデのランス侯爵』ならフローラにも覚えがあった。確か兄が送ってくれた雑誌に載っていた名前だったはずだ。
「確かその方って、実業家として名を馳せている方じゃない? あちこちに広大な葡萄畑を持っていて、ロベルデの王室に献上したワインが、王太子殿下のお気に召したと読んだ覚えがあるわ」
「そうなの? だとしてもどうでもいいことだわ」
吐き捨てるようなエミリアの言い方に、フローラはまた目を丸くする。
エミリアは昔から『資産も地位もあって、見目麗しい男と結婚する』と息巻いていた。
たくさんの男性と積極的に知り合っては、結婚相手として最適かどうか厳しく査定する一方、美容や立ち居振る舞い、会話には細心の注意を払い、自分をよく見せる努力を惜しまなかったのだ。
なのにランス侯爵との結婚を嫌がるなんて……
(ランス侯爵が見目麗しいかはわからないけれど、確か二十代だったはずだわ。資産家で侯爵という地位もあり、お国の王太子殿下にも一目置かれている方なら、これ以上ない結婚相手だと思うけど)
フローラの言いたいことがわかったのだろう。エミリアは気まずそうに目を逸らしたが、やがて腹をくくった様子でフローラをひたと見つめてきた。
「実はわたし、愛しているひとがいるの」
これまた驚きの告白だ。いつの間にそんなひとが、とフローラは息を呑む。
「彼を意識し出したのは去年の社交期の始め……ちょうど一年前くらいね。彼はさる伯爵家の次男で、存在自体は前々から知っていたの。でもぱっと見は冴えないし、気も弱そうだし実際に弱いしで、全然眼中になかったんだけど――」
一気に夢見る面持ちになったエミリアが語るところによると、かの伯爵令息はエミリアが悪い男に絡まれ、人気のないところへ引っ張って行かれそうになったとき、及び腰になりながらも割って入って、無事に彼女を会場に連れ戻してくれたそうだ。
それ以降、彼の見かけによらず勇敢で正義感が強いところが気になって、思い切って話しかけたところから交際がスタート。社交期が終わってからも手紙でやりとりするなど、かなり親密な関係を続けてきたらしい。
「一年もお付き合いしてきたなら、結婚を考えてもよさそうなものじゃない? 伯父様には言わなかったの?」
「言ったところで、お父様が交際をお許しになるはずがないわ。彼は次男だし、お父様から見れば『格下』になる伯爵家の人間だし。なによりお金がないもの」
エミリアはバッサリ吐き捨てる。
身分はわかるが、伯父侯爵がお金についてこだわるのは意外に思えた。侯爵家の人々はいつも最新のモードに身を包んでいるし、日常生活を送るこの屋敷も豪華な調度品であふれかえっている。とてもお金を必要としているように見えないが……
「こんなの、ただの見かけ倒しよ。我が家はもう何年も前から財政難よ。名門侯爵家の面子を保つために、あちこちから借金して必死にやりくりしているの。だからお父様はわたしに『持参金の必要のない相手に嫁げ』と口を酸っぱくして言ってきたってわけ」
――しかしエミリアが惚れた相手は財産どころか、将来的に爵位も受け継ぐことがない、伯爵家の次男坊。
エミリアが一人娘だったら、その彼が婿入りするという手段も執れただろう。が、あいにく侯爵家には跡継ぎであるエミリアの兄がいる。
爵位を受け継ぐだけなら、親戚に子供がいない家がある場合、その家に養子に入ることで跡継ぎとなることはできる。フローラの父はまさにその方法で爵位を受け継ぎ、子爵を名乗っているが……
(財産がない方との結婚は許さないと伯父様が言っているなら、婿入りも養子も、解決手段とはならないわね)
だが、その彼がこれから財産家になる可能性も、なきにしもあらずではないだろうか?
「その、財産がないとしても、その方はお仕事とかはされていないの? 貴族の家の次男や三男は、たいてい騎士になるか事業を興すか、医者とか聖職者を目指すものでしょう?」
「そうだけど、彼の家もそんなに裕福ではなくて、跡継ぎ以外に教育を施すことが難しかったみたい。わたしがお父様に言われてお金持ちを狙っていたように、彼も富豪の令嬢を掴まえてその婿に収まることを、ご両親から期待されていたみたいなのよねぇ」
エミリアがため息交じりに肩を落とす。フローラもつい「やれやれ」と首を振ってしまった。
「どのみち、お父様がお金も地位も爵位もない相手に、娘を嫁がせるとは考えられないわ。たとえ向こうが『持参金なんかいらない』と言ってもね」
うなだれたエミリアはそれまでより低いトーンでぼそぼそと続ける。
「お父様もいよいよ首が回らなくなってきたのか、近頃は『向こうが支度金を出すような相手でないと結婚はさせられない』なんて言い出しているの。『持参金はいらない、けど支度金はたっぷり出す、だからお嫁にきてほしい』なんていう、資産も身分もある男なんているわけないじゃないと思っていたけど――」
「そのすべてに当てはまるランス侯爵が、あなたに求婚してきたというわけね」
「正しくはお父様相手に、娘との結婚を打診してきた、よ。そしてお父様は大喜びで頷いてしまったというわけ。ひとの気も知らないで、お金に目がくらんで――」
よほど不本意なのか、拳(こぶし)を握るエミリアの声は震えていた。
「わたしだって、彼に会う前にこの結婚が決まったのなら、喜んで嫁いでいったと思うわ。ランス侯爵がどういうひとか知らないけれど、ロベルデの王宮では知らぬひとのいない有名人だというし」
でしょうね、とフローラは頷く。
が、その良縁を涙を流して嫌がるくらいだ。エミリアの恋人への思いは、そうとう強いものなのだろう。
「それに父とランス侯爵が交わした契約は結婚のことだけではないの。むしろわたしとの結婚はおまけで、ランス侯爵は我が領地の一部を借用したいと申し出たのよ」
「借用? 領地を?」
エミリアは重々しく頷く。
なんでもランス侯爵はすでに空きのないロベルデではなく、北の隣国であるこのウェルズ王国の土地に目をつけたらしい。そこに果樹園を作って、自社の商品を増やしたいと言っているそうだ。
「ランス侯爵が手がけているのはワインでしょう? 原料の葡萄は温かいロベルデだからこそ育てられると思っていたけれど……」
「葡萄ではなくて林檎を育てるらしいわ。ロベルデの王太子殿下はワインがお好きだけど、妃殿下はシードルを好まれるのですって」
「ああ、それで林檎なのね」
確かに林檎は寒い地方で栽培される果物だ。
ベッジ侯爵領があるのはウェルズ王国の中では南方になるが、南の隣国ロベルデから見ればかなり北のほうだろう。おまけに侯爵が目をつけた土地は山沿いで、冬はかなり冷える。林檎園を持つには絶好の場所ということだった。
「それにその場所は十何年前の大寒波で住民がいなくなっちゃったところで、もうずっと放置されていた土地なのよ。そこに果樹園と工場を建てて、従業員も多く移住させると聞いたものだから、お父様ったら大喜びで飛びついちゃって。借用だから、こちらにもお金が長く入ってくることになるわけだし」
「確かにね」
財政難に陥っているベッジ侯爵にとっては、まさに渡りに船だ。
おまけにランス侯爵は「娘さんを花嫁にいただけるなら、賃料も言い値でいい」と気前のいいことを言ったらしい。ベッジ侯爵にとっては一も二もなく頷く条件であっただろう。
「そういう事情だったら……結婚を断ることはできないわね」
「お父様が真っ先に新聞に記事を出させたのも、ランス侯爵の気が変わるのを恐れてのことだったと思うわ。この結婚は我が家にとって、絶対に反故にできないものなのよ……」
「エミリア……」
暗い顔でうつむく従姉妹に、フローラはなんと言葉をかけていいのかわからなくなる。
こう見えてエミリアには義理堅い一面があるのだ。愛するひとと結婚したいという思いはあれど、借金で今にも倒れそうな家を見捨てることもできないに違いない。
フローラの考え通り、エミリアはなにか諦めた様子で、細く長いため息を吐き出した。
「……ランス侯爵との結婚は受け入れるわ。家のためだもの。ここまで育ててもらった恩もあるし、お父様をこれ以上困らせたくないしね」
「伯父様、お金関係以外でなにかお困りになっているの?」
「お父様ったら世間だけじゃなく、自分の妻にも見栄を張ってるのよ。我が家が財政難だってこと、わたしとお兄様は耳にタコができるほど言われてきたのに、お母様はまったく聞かされていないの」
それはそれで驚きだ。が、エミリアの母である侯爵夫人には確かに浮世離れしたところがある。実家が裕福だったこともあって、お金とは湯水のように溢れるものだと疑っていないのかもしれない。
「ドレスでも宝石でも、夫に頼めばなんでも買ってもらえるんだもの。そりゃあ知りようがないわよね……。おまけにお母様は慈善事業が大好きで、孤児院や病院を訪問するたび寄付を繰り返しちゃってるし。侯爵夫人らしいって世間から尊敬を集めているから、お父様も止めるに止められなくて苦悩しているのよ」
「そ、それは大変ね……」
とはいえ、そのツケがすべて娘に回ったと考えれば、やはり一番気の毒なのはエミリアだ。
(わたしが助けてあげられることがあればいいけれど……)
と、フローラがつい考えたときだ。
エミリアが「それで話は戻るんだけど」と目をキラッと光らせた。
「ランス侯爵は結婚式を挙げる前に、わたしのことをお国のおばあさまに紹介したいらしいの。それで婚前旅行ということで、一緒にロベルデまで船旅をしようと言われているのよ」
「ロベルデまで船旅? 陸路のほうが早いでしょうに、わざわざ船を使うなんて」
「お互いの領地同士の移動ならそうなのだけど、おばあさまのお屋敷は王都から離れていて、船のほうが便利なんですって。しかもその船、ただの客船じゃなくて、半年前に竣工したばかりの豪華客船だそうよ」
「半年前に竣工と言ったら……ダイヤモンド社が造船した『ヴィクトーリア号』のこと!? 向こう三ヶ月は予約が取れないと言われている世界一の客船じゃない!」
領地の新聞にさえでかでかと載っていた最新鋭の客船だけに、フローラはつい大きな声を出してしまった。
「わたしだって、婚前旅行と聞かされていなければ得意満面で自慢して回っているところよ。『あのヴィクトーリア号に乗れるなんて夢みたい!』って。おまけに侯爵は一等よりさらに上の特別室を予約したんですって!」
「一等よりさらに上……」
一泊だけでもいくらになるのだろう。フローラはごくりと唾を呑んだ。
「そこでお願いよ、フローラ。この婚前旅行の期間だけ、わたしと入れ替わってほしいの」
エミリアはフローラの両手をぎゅっと握って、涙の滲(にじ)む瞳で懇願してくる。
「ランス侯爵との結婚は受け入れる。でも結婚して誰かのものになる前に、伯爵家の彼と二人で過ごす時間がほしいの。最後にいい思い出が作れれば、彼への気持ちを断ち切ることができると思う……! だからお願い、フローラ。わたしの代わりに船に乗って。そのあいだにわたしは彼とのお別れを済ませておくから……!」
「そ、そんなことを言われても……」
涙目で迫られたところで、おいそれと頷ける話ではない。及び腰のフローラに、エミリアはすかさずたたみかけてくる。
「婚前旅行はそう長いものじゃないわ。おばあさまに挨拶が済み次第、すぐこの国に戻って結婚式を挙げるそうだから、旅自体は長くても二十日くらいなものなのよ。わたしもあなたが戻る頃にはこちらに戻ってくるから。ね? お願い!」
両手どころか二の腕をきつく握られて懇願される。フローラは「む、む、無理よ」とぶんぶん首を横に振った。
「た、確かにわたしとあなたはそっくりよ。だけど、よく見れば違うところだってある。正面からまじまじと見つめられたら、すぐに別人だとわかってしまうわ」
――二人は確かによく似ている。顔立ちも背丈も話し声もうり二つで、髪質もまったく同じ。二人とも淡い金髪で、腰まで緩やかに波打っている。おかげで後ろ姿はどちらがどちらかわからないと、生みの親にさえ言われるほどだ。
だから二人とも同じ舞踏会に出席するときには、ドレスや髪型がかぶらないよう、事前に相談してから出かける必要さえあった。
だがそんな二人にも、性格以外に唯一見分けられる方法が存在する。
それが、二人の瞳の色なのだ。同じ青だが、エミリアが灰色がかった淡い青色なのに対し、フローラの瞳は透き通ったマリンブルー。
容姿は祖母に似た二人だが、瞳はそれぞれの母親に似たようで、唯一の見分け方だと貴族間で周知されていた。
ランス侯爵がそのことを知っていたら、早々に見抜かれる可能性が高い。
旅行のあいだはごまかせても、いざ結婚式に本物のエミリアと対面し、それまでと瞳の色が違うと疑問を持たれたら一巻の終わりだ。
「それに、もしわたしがエミリアになって旅行に行くとして、そのあいだあなたはどこでどうやって過ごすつもり? フローラとしてサーフィス子爵邸で過ごすの? それこそ早々に正体がばれてしまうと思うわ。顔も知らない婚約者ならごまかせても、わたしの家族を欺くのは至難の業よ?」
「その辺はすでに考えてあるわ。あなたが旅行に行っているあいだ、わたしが演じるフローラも、友人のところへ二週間ほど遊びに行く予定よ」
エミリアは「抜かりないわ」とばかりに強気に笑った。
「友人のところって、いったいどこなのよ?」
「わたしの友達にリラっていう伯爵令嬢がいてね。あなたも名前くらいは知っているでしょう? お父様が鉄道会社を経営してて、お金持ちな子」
「ああ、あの、そばかすが可愛らしい赤毛の子かしら?」
「そう! あの子の家が南方に別荘を買ったんですって。そのお披露目のためにパーティーを開くみたいで、わたしのところにも招待状がきているの」
エミリアはそのリラにとってよき友人の一人らしく、社交期が本格化するまでこちらで一緒に過ごさないか、という誘いをもらっているとのことだ。
「わたしも行きたいと思ってスケジュールを調整していたのだけど、お返事をする前に今回の婚約が決まっちゃってね。――だから、婚前旅行に向かうエミリアに代わって、フローラがお呼ばれしてくるという話にしちゃえばいいのよ!」
「さ、さすがに無理があるんじゃない? わたし自身はリラさんと面識もないのに」
「でもリラはあなたのことを知っているわ。わたしにそっくりだけど性格はわたしより素敵よ、って話したら、会ってみたいと言っていたし」
「どういう説明をしているのよ……」
「とにかく、いい機会だからお友達になりに行くわ、とでも言えば、叔父様たちも納得するはずよ」
「うーん、どうかしら……」
これまでお友達の家に泊まりがけで世話になることなどなかったから、娘がいきなりそんなことを言い出したら、どういう心境の変化だと訝(いぶか)ると思うのだが。
「それに、リラさんは騙されたような形になるから、気を悪くされるんじゃなくて?」
「その辺は大丈夫。リラは楽しいことが大好きだし、他人の恋は全力で応援してくれるタイプだから。わけを話せば、むしろ積極的に協力してくれると思うわ」
エミリアは片目を閉じて請け合ったかと思うと、ぐいっと顔を寄せて囁いてきた。
「どうせあなたも『そろそろ結婚相手を探さないと』とかって叔父様に言われているんでしょう? 社交界の情報通の令嬢たちが、リラの別荘には招待されているの。だから結婚相手の情報収集をそこでしてくると言えば、娘も結婚に前向きなんだなと思って、叔父様たちも許可してくれるはずよ」
「それもどうかしら……」
乗り気にならないフローラに業を煮やした様子で「とにかく!」とエミリアは声を張り上げた。
「そのあたりはわたしが上手く説明するから! あなたは遠出するための荷造りをして、お泊まりが楽しみ~って雰囲気を出しておいて! 船出は五日後だから、それよりちょっと前に入れ替わるようにしましょう。いいわね!?」
「いいわねって……よくないわよ! エミリア、わたしには無理っ、考え直して……!」
フローラは真っ青になって言い募るが、結局は「わたしのことを少しでも気の毒に思うなら協力して!」と泣き落とされてしまった。
叔母様がきているならちょうどいいわ、わたしが説明するから、とエミリアに引っ張って行かれて、サロンで談笑していた母親たちのもとへ強制的に連れて行かれる。
エミリアの母から婚約の話を聞いたのだろう。フローラの母ロレインはエミリアを見るなり「おめでとう」と真っ先に祝福してきた。
「ありがとうございます、ロレイン叔母様。それで少し相談なのですが、わたしの友達から別荘への招待がありまして――」
先ほどまでさめざめと泣いていたとは思えないほど朗らかな口調で、エミリアは自分の代わりにフローラに友人の別荘に行ってほしいと願い出た。
母ロレインは目を丸くして驚いていたが、情報収集できるというエミリアの言葉に思うところがあったのだろう、意外とあっさりと別荘行きに頷いた。
「いざ結婚が決まると嫁入りの支度で忙しくなってしまうでしょうからね。今のうちにお友達と思い出を作っておくのはいいことだわ」
母に笑顔で頷かれて、フローラは罪悪感に胃のあたりが重くなる。
しかしエミリアは「ですって、フローラ。よかったわね!」と満面の笑みだ。従姉妹の女優っぷりにいっそ脱帽してしまう。
「じゃあ、わたしはさっそくリラに手紙を書くことにするわ。あ、出発前にはわたしのところに寄ってね。リラに渡すお土産を見繕っておくから!」
「わ、わかったわ、エミリア」
「そうと決まれば、あなたもまた荷造りしないとね、フローラ。じゃあ今日は挨拶にきただけだから、そろそろお暇するわ。リリー、エミリア、またね」
「ええ、またお誘いするわね、ロレイン、フローラ」
エミリアの母である侯爵夫人リリーはにっこり笑って、義妹と姪を見送った。
侯爵邸を出る間際、フローラは「本当にやるの?」と目線だけで従姉妹に確認する。エミリアは表面上笑みを浮かべながらも、瞳は真剣な色を宿して、小さく頷き返してきた。
自分と違い、こうと決めたら曲げないエミリアのことだ。きっとどんな手段を使っても目的を成し遂げるに違いない。
一瞬、従姉妹の無茶な計画をこの場でばらしてしまおうかとも考えた。
だが、恋人を諦めると語っていたエミリアの悲痛な顔を思い出すと、とても言い出せたものではなく、フローラも結局頷きを返す。
とんでもない計画に加担してしまったという気持ちはあるものの、エミリアの助けになりたいという気持ちも確かにあるのだ。
こうなったら腹をくくるしかない。帰宅したフローラは別荘行きが楽しみだとはしゃいで見せながら、入れ替わるその日に備えていった。
* *
そうして五日後の昼――
前日のうちにエミリアと入れ替わり、ベッジ侯爵邸で夜を明かしたフローラは、旅装に最適なくるぶし丈のドレスに着替える。
十年くらい前まではスカートをうしろに大きく膨らませるスタイルが流行っていたが、この頃は身体に沿うすっきりとしたデザインのドレスが主流になっていた。
社交期以外は領地暮らしのフローラと違い、王都にしょっちゅう出入りするエミリアのドレスは、いずれも流行の最先端のものだ。
用意されたドレスも、実に洗練されたデザインだった。
「いつもゆったりしたワンピースばかり着ていたから、上半身がこれほどぴったりしたドレスは初めてよ……!」
「とてもよくお似合いですわ」
興奮で頬を染めるフローラに、控えていた侍女がにっこり笑った。
「それと、ドレスはすっきりしたものが流行ですが、帽子はこのように大ぶりで派手なものが流行っているんです。あらかじめ内側にヴェールを縫い付けて、目元が少し隠れるように細工をしてみました」
侍女が差し出した帽子にはたくさんの花飾りがあしらわれていた。
少し斜めにかぶるのが流行だというその帽子の内側には、侍女の言うとおり小さなヴェールが縫い止められている。
「このヴェールなら帽子の花飾りにもよく合うわね。ありがとう、リーナ」
フローラの言葉に、リーナと呼ばれた侍女はにっこり笑った。
リーナはエミリアに入れ替わりを提案されたときもそばにいた人物で、今回の計画の唯一の協力者だ。
いくらエミリアとフローラがそっくりと言っても、毎日そばにいて世話してくれる侍女の目を欺くことは難しい。そう考えたエミリアは、早々にリーナに入れ替わり計画を明かして、協力してほしいと泣きついたのだ。
もちろん最初はリーナも反対したそうだ。が、最後はフローラと同じく泣き落としに遭い、協力すると頷いてしまったらしい。
十歳で侯爵家に奉公に上がってから、ずっとエミリアの侍女として暮らしてきたリーナだ。フローラ以上に主人の願いを断ることは難しかったことであろう。
だがリーナはこの上ない協力者だ。エミリアの侍女という立場上、フローラも彼女のことは以前から知っているし、リーナも主人の従姉妹について以前からよく心得ている。
一人でいてはぼろが出るところも、リーナがそばにいてくれればしっかりフォローしてくれるだろう。というより、そうなることをフローラは真剣に願っていた。
とはいえ、こうして帽子に細工を施してくれるくらいだ。きっとフローラが言わずとも、リーナは愛する女主人のため、精一杯仕えてくれるはずだ。
「明るいところではなるべく帽子をかぶるようにするわ。日焼け対策と言えばわかってもらえるでしょうし」
「それと、髪型も工夫いたしましょう。エミリア様はいつも前髪を上げておいででしたが、フローラ様は下ろしておいでです。もし船内で顔見知りに会ったときに怪しまれないよう、考えさせていただきますので」
「ありがとう。入れ替わりがばれないように、二人で頑張りましょう」
フローラはリーナの手をぎゅっと握る。リーナも決意が滲む瞳で頷きを返した。
そのとき、部屋の扉が軽快にノックされる。
「エミリアや、支度はできたかい? そろそろ港に出発しよう」
「伯父様――ではなく『お父様』ね。はい、お父様、すぐ参ります」
扉の向こうへ、エミリアらしく溌(はつ)剌(らつ)とした声をかけて、フローラは一つ深呼吸した。
「この部屋を出たら、呼び名にも気をつけないとね」
「はい。わたしも今からフローラ様のことはエミリアお嬢様とお呼びしますわ」
二人は目を見交わし、それぞれ覚悟を決めてエミリアの私室を出た。
港へは馬車二台で行くことになった。先を行く馬車に乗るのはベッジ侯爵夫妻と、嫡男でエミリアの兄でもあるゴードンだ。同じ馬車に乗ったら正体がばれてしまったかもしれないから、リーナと二人で二台目の馬車に乗れたのは幸いだった。
二台目の馬車には、船旅のための荷物もたくさん積んである。
「……ねぇリーナ。あなたが荷造りしたトランクは三つだったと記憶しているけど」
「ええ、わたしも先ほどから不思議に思っていました。荷台を見る限りもう一つ、覚えのないトランクが載っているんですよね」
いったい誰の荷物かしら? と首を傾げながらも、運ばれるまま港へ進んでいく。
だが四つ目のトランクがなんなのかは、港に到着してほどなく判明することになった。
馬車が港ではなく少し手前の教会で止まり、なぜこんなところに……? と疑問に思いながら下車したフローラは、すぐに衝撃の事実を知ることになる。
「――い、今から結婚式が行われるですって!? わたしと、ランス侯爵様の……!?」
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