書籍詳細
聖王様に眠りをささげる姫〜癒しのスープを召し上がれ!〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/08/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
【序章】
エルフィリアは指先で持ったカップに口を付け、香り高いお茶を一口飲んだ。
「美味(おい)しい……」
呟いてもう一口。彼女の明るいブロンドが、早春の風に浮いてわずかに横へ流れる。
少し冷たい感触のする冴(さ)えた空気の中でお茶をするのは、非常に気持ちが良い。大好きだ。
ルベイン聖王国の十八歳の伯爵令嬢エルフィリア・ヴィドールは、王都屋敷の北側にある東屋(あずまや)で、兄のクリストファ・ヴィドール伯爵と一緒に外国の珍しいお茶を味わっていた。
クリストファはエルフィリアの十歳上になる。父親亡きあと領地と屋敷を継ぎ、つい一月前、聖王から伯爵位を賜(たまわ)った。
兄はいつも包み込むようなまなざしでエルフィリアを見ている。少しくすぐったい。
「エルフィは、このごろなんだか変わってきたね。外見の変化というより内面が。ほら、見掛けは昔通りのふわふわとした感じなのに、最近は目つきがね」
クリストファは子供のころ、幼いエルフィリアの髪に指を絡ませてよく遊んだ。
『タンポポ色だ。軽いなぁー』
『おにいさま、やめて』
『先の方がくるくるだよ』——と。
毛先が細かく巻いたようになっているエルフィリアの髪は、軽さもあってもつれやすい。そのためか、見た目がとてもふんわりしている。
いまは特に屋敷の敷地内なので、横髪を後ろで一つに括(くく)っただけで、後ろ髪は背中を覆うままにしていた。風が吹けばすぐに浮き上がる髪の軽さが『ふわふわとした』雰囲気に繋がるらしい。
しかも彼女はよく笑う。外から見たイメージが柔らかくなるのも無理はない。
エルフィリアは緑の瞳を兄に向けて軽く睨(にら)む。
「目つきだなんて、外側は変わらなくても内側が悪くなっていると言われているみたいです」
「違うよ。私へ向けるときも、周囲を見るときも、視線がしっかりしてきたって言いたいだけだよ。褒めているんだ。誰かに向ける言葉も、かなり考えてから口にしているんじゃないか? 地に足がついている感じだよ。前みたいにふわふわと宙に浮かんでいるようには見えない」
エルフィリアが纏(まと)う今日の昼間のドレスは、瞳と同じエメラルドグリーンの濃淡に、桜色の小花の刺繍(ししゅう)が散らされたものだ。
クリストファは彼女を上から下まで、優しげな目で眺めて笑った。
「美しくなったね。庭の新緑の中では、春の妖精のようだよ」
妖精云々は置いておいて、エルフィリアは一年前に衝撃的なことがあってから、人をよく見て相手がなにを考えているかを知りたいと思うようになった。それが視線に表れているのだろう。
兄は彼女の外見が昔と同じでも、内面の微細な変化を読み取ってくれる。
「お兄様の方こそ。私のことも含めてですが、周りをよく見ていらっしゃいますよね。最近やっとそれに気が付きましたの。……遅いですわね」
「ほら、そういうところがね、前とは違うな」
彼女が微笑して顔を向けると、クリストファは静かに笑い返してから、大理石のテーブルの上に用意されたカップを手に取った。とても優雅な動きに目を奪われる。
薄い金髪に白い肌、身体がたおやかで細めのクリストファは、どこか中性的でもある。いつも優しげでいっそ儚(はかな)い雰囲気まで醸(かも)し出していた。
母親は彼女が十二歳のときに、父親は半年前に、どちらも病気で亡くなっている。兄を見ていると、両親と同じように、若いうちに病に冒されるのではないかと心配になってしまう。
実際、クリストファはあまり身体が丈夫ではない。
ちなみに、エルフィリアは風邪一つ引かない健康体だ。
屋根があっても柱だけで壁のない東屋では風が冷たいと考えたエルフィリアは、久しぶりに持てた兄との時間だったが、そろそろ切り上げようと口にする。
「お兄様、屋内に入りませんか? 私にお話があると言われましたが、お部屋でいたしましょう」
「そうだね。だけど早い方がいいから話してしまおう。あのね、エルフィ。近々、聖王様が屋敷に来られることになった」
エルフィリアは、驚きの声を上げる。
「聖王様が! この屋敷へいらっしゃるのですか!」
王宮に居を構えるルベイン聖王国の統治者で最高位の者が、王都にある伯爵の屋敷へ来るというのは、あまり聞いたことがない——どころか、知っている範囲では一度もなかったはずだ。
——いまの聖王様は、二年前に即位されたギルファスト様。二十六歳でいらしたかしら。
彼女は十五歳のとき、王宮の舞踏会で社交界にデビューした。前聖王の隣に座っていたのがいまの聖王のはずだが、顔や姿など少しも思い出せない。とても強そう……といった印象がかろうじて残っているだけだ。
聖王ばかりか、実はそのとき出会った人たちの顔もほとんど覚えていない。
あのころは、過ぎてゆく一瞬をなにも考えずに安易に過ごしていたせいだ。
いまはもっと、細かな注意や緊張感を持って周囲を見ているつもりだ。人の顔もそれなりに頭に残っている。
兄は飄々(ひょうひょう)と続けた。
「お前の『秘密のスープ』をご所望なんだよ」
「スープ!」
一声上げて、口を薄く開けたままになったのを急いで閉じる。驚愕(きょうがく)で腰を浮かせたエルフィリアは、再びすとんと椅子に座った。
クリストファは、妹の驚きが楽しかったのか声まで上げて笑いながら付け加えた。
「一晩こちらでお泊まりになる予定だ。スープを飲んだあとは眠くなるからね」
「お兄様! 私のスープは、ただの、普通のスープですわ! お母様の直伝というだけで、『秘密』と言われてしまうのは、『作るところは誰にも見せてはいけません』という遺言があるからです。お言い付け通りにしていたら『秘密』になってしまっただけの話ですわ」
「普通だと思っているのはエルフィだけだよ。飲んだ者の中には『眠りを齎(もたら)す魔法のスープ』と言う者さえいる。聖王ギルファスト・ルベイン・デスター陛下は、不眠症でお悩みなのだよ」
「ふ、不眠症?」
この国の王が不眠症だとは、すぐには信じ難(がた)い。しかし、兄が質(たち)の悪い冗談を言うことはないので、本当のことなのだ。
——私が作るスープは、飲むとすぐに眠れるとか、気持ちが癒やされて心が軽くなったとか言う方がいらっしゃるけど、魔法じゃないわよね。だって私が飲んでも効果はないのですもの。
噂が流れて教会から調査も入ったが、結局なにも出てこなかった。
エルフィリアは、困り顔になって兄に主張する。
「聖王様なら、王宮で最高のご医師が付いていらっしゃるではありませんか。どれほど高価な薬でも手に入れられますよね。それなのに回復しないなんて、そのようなことがあるのでしょうか」
「王宮で手を尽くしてもどうにもならなかったんだよ。不眠はますますひどくなったそうだ。人には睡眠が本当に大切なんだ。眠れなくなるとそれが心底分かる。下手をすると心の臓を弱らせて死に至ることさえある。お前のスープが最後の手段というわけだ」
自分が作るスープに効能などあるとは思えないエルフィリアは、不安そうに兄を見るが、クリストファは落ち着いた口調で続ける。
「七日後の夜、来られる。騒ぎになっても困るから、王宮で晩餐(ばんさん)を済ませてからお忍びでいらっしゃる予定だ。こちらで用意するのは、宿泊される貴賓室と、翌日の軽いお食事だけで、午(ご)餐(さん)までには帰られると思う」
「七日後! ……スープに効力があればいいのですけど」
自信がないので語尾が小さくなった。
「気に病まなくてもいい。効果のほどは私が保証する。私もずいぶんお前のスープには助けられた。とにかく、心配せずにいつも通りに作ればいいからね」
クリストファはにこりと笑ってエルフィリアの不安を宥(なだ)めた。
彼女は、自分に作れるスープのメニューを頭の中で巡らせる。コーンスープに、ニンジンスープ、そして玉ねぎスープなど、カップで飲む簡単なものばかりだ。
——ジャガイモのポタージュスープが飲みやすいかしら。効力があると信じれば、ジャガイモだってきっと役に立つ……はず。ね。お母様。
これでジャガイモを使用することに決定だ。
兄はヴィドール家の当主であり、エルフィリアの保護者だった。クリストファ・ヴィドール伯爵が決めた以上、思い悩んでも仕方がない。
エルフィリアは、メイド頭と貴賓室の掃除の打ち合わせをしようと考え始める。
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【第一章 嵐は聖王様が持ってきた】
かつて、世界を覆うほどあった魔法エネルギーは、時と共に失われ、現在はほとんど残っていない。知識人の間では、魔法が完全消失する日も近いと言われている。
大陸に散らばる国々では、王家や高位の貴族家が血統を重んじることによって能力維持に努めてきた。そのかいあってか、それらの血筋の中では魔法を使える者がたまに現れる。
しかし減少が止まらないうえ、力そのものは小さくなるばかりだという。
ルベイン聖王国では、聖王家と三つの公爵家以外では、魔法を行使できる者は生まれなくなっていた。三つの公爵家は、永代地位として公爵位を約束された家系だ。聖王の補佐をする枢(すう)機(き)卿(きょう)を、それぞれの家系で一人ずつ輩出することができる。
聖王は、三人の枢機卿を頂点にした巨大な組織を動かすことで政務を取り仕切っていた。聖王も枢機卿も、各個人で魔法力を持っているらしいが、詳細を知る者は少ない。
エルフィリアの家庭教師は、知識の一つとしてこれらを教えた。
多くの貴族や庶民たちと同じで、彼女にとって魔法は身近なものではない。
スープを作るときに魔法的なものを意識することはなく、頼まれれば、母親の教え通りの手順で作って提供していただけだ。
美味しいと言ってもらえたら嬉しい。それだけだったのに。
クリストファに言われてから四日が過ぎた。あと三日で聖王の来訪日になる。
「お嬢様、いかがでしょうか」
エルフィリアがメイド頭に貴賓室の掃除を指示したので、確認をするのも彼女の役目だ。
廊下の大扉から入室したところが広いリビングで、その隣が寝室になる。侍従の待機部屋や、付き人の部屋も付属している。すべての部屋で、宿泊の用意が整っていた。
「十分だと思うけれど……。考えてみると、今までこれだけ豪華な部屋を空けたままにしておいたなんてもったいなかったわね。使用頻度をもっと上げるべきだったと思わない?」
メイド頭に同意を求めれば、笑いながら大きく頷いてくれた。
「いざというときのためのお部屋ですから、致し方ありません。今回は役に立っておりますよ。使い古した部屋に聖王様をお泊めするわけにはまいりませんから」
「そうね……。でも、こんなことこれっきりよ、きっと」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
貴賓室一帯の掃除を改めてしなければならないほど、頻繁に人を通すことはなかった。
数年前、父親がまだ存命だったころに、枢機卿の従兄(いとこ)の息子という人が宿泊したことがあるらしいが、それ以降はない。そんな程度だ。
これはどこの貴族も同じで、もっと高い身分を持っているか、王宮で重要な役職についているかなど、特別なことがなければ聖王や枢機卿を招待することもない。貴族の世界だけで社交に励んで交流しているのがほとんどだ。
——それなのに、聖王様だなんて。どういった用意をすればいいのかしら。
兄であるヴィドール伯爵の面目(めんぼく)を潰さないためにも手は抜けない。
エルフィリアは、後ろから付いて回っていたメイド頭を振り返る。
「よくできていると思うわ。ご苦労様です。あとは廊下とか、庭とかも、お願いね」
「かしこまりました」
初老の域に入っていても仕事をきっちりこなし、若いメイドたちの教育や配置指示ができるメイド頭は、忙しいはずなのになぜかすぐに動こうとはしなかった。エルフィリアの顔をじっと見上げている。
「どうしたの?」
「申し訳ありません、つい。……クリストファ様には奥方様がまだいらっしゃらないので、このお屋敷には女主人がおられない状態でしたが、エルフィリア様がその役をこなしてくださるのでとても助かります」
「できることをやっているだけよ。きっとたくさん手落ちがあるわ。カバーしてね」
ほぅ……と深く息を吐いたメイド頭は、エルフィリアが小さなときから屋敷に仕えている者だ。
母親のことも知っているし、もちろん父親にもずっと仕えていた。いまは兄の世話をしてくれている。
「お嬢様は、少し変わられましたね。屋敷の中を取り仕切ってくださるのは、私どもにとってありがたいことです。何でもおっしゃってください。メイドの総力を挙げて、聖王様をお迎えする準備を整えます」
エルフィリアは、ふふっと笑ってしまった。
「まるで戦いに出るみたいよ」
「屋敷内は私どもの戦場でございます」
はっとして笑みを消す。
「そう、そうよね。考えが足りなかったわ。茶化してごめんなさい」
「そこまで言っていただけるだけで、十分でございます。では、次の仕事へまいります。お嬢様もご無理はなさいませんよう」
深く頭を下げて、メイド頭はその場から離れていった。
エルフィリアが廊下へ出て、玄関ホールの様子を見に行こうと歩いていると、向こうから執事がやってくる。そして、聖王が泊まられた翌日に、ご要望があれば出すことになる軽い朝食メニューの確認をしてきた。茶葉なども選んでおかねばならないという。
メニューを連ねた紙を手に取って確認したあとは、候補として出されている茶葉の中から三種類ほど選んだ。
「軽食のメニューはこれでいいと思います。茶葉は、そのときの天候や聖王様のご様子で決めましょう。これらはすべて、お兄様に確認してね」
「かしこまりました」
そして執事も、身長の加減で高くなる位置から目線を落として彼女をじっと見つめる。そのまなざしがメイド頭と似た様相だったので、エルフィリアは笑ってしまった。
「私、そんなに前と違うかしら」
「はい」
メイド頭にしても執事にしても、一年前のエルフィリアだったら、こういうときはすべてを兄に任せて彼女は自分のことだけを考えていたと、思いを馳(は)せているに違いない。
エルフィリア自身もそう思う。一年前の、ヴィドール伯爵令嬢という外面だけを整えていた彼女であれば、聖王様への挨拶の口上とか、当日纏うドレスの算段とか、たぶんその程度のことしか考えていなかった。
クリストファは現在、領地の方で問題が発生したためにそちらへ行っていて、王都にはいない。
領地の管理や伯爵としての社交行事、その他もろもろの仕事が、父親が亡くなった半年前から兄の肩にどっと圧(の)し掛かっている。
エルフィリアは、兄にこれ以上の負担を背負わせたくなかった。
——せめて屋敷内の管理くらい私がしなくては。
それを考えられるくらいには、多少なりとも成長できているだろうか。少しは中身のある人間になっているといいのだけど——とエルフィリアは自らを振り返る。
「エルフィリア様?」
「あ、ごめんなさい。少し考えが逸れてしまったわ」
「お疲れなのではありませんか?」
「うーん、どちらかといえば、緊張かしらね。私ね、聖王様に会ったことがあるはずなのだけど、少しも覚えていなくて。……これは内緒よ」
笑いながら言えば、表情こそは変えなかったが、執事は力強く頷いてくれる。
廊下での立ち話になるが、彼女は執事に訊(き)いてみた。
「聖王様がどのような方なのか、知っていて?」
「お会いしたことはございません。即位式のときにバルコニーに立たれましたのでお姿は遠目で拝見いたしました。あとはお噂を聞く程度でございます」
「……そう。普通はそうよね」
「では、これで失礼いたします」
ごくわずかな微笑を口元に浮かべた執事は、しっかり腰を折って頭を下げてから立ち去った。
彼女が生まれたときすでにこの屋敷にいた執事が、表情を変えることもあるということに気が付いたのもつい最近だ。
周囲をよく見ているように心掛けるだけで、人も事象もすべてが常に動いていると実感する。
エルフィリアは玄関ホールが整っているのを確かめてから、次は母親が彼女に遺してくれた小さな厨房へ向かった。当日スープを作ることになるので、材料などを確認するためだ。
歩きながら、現聖王についての資料を頭の中で紐解いてゆく。
——聖王様のお名前は、ギルファスト・ルベイン・デスター陛下。三年前に私がデビューした王宮舞踏会のときに顔を見たはずなのだけど、うーん、やっぱり覚えてないわ。こんなことなら、王宮での催しにもっと参加しておくべきだったわね。……というのもいまさらだけど。
貴族の家の集まりには喜んで参加していた彼女だが、王宮で上手く身を処すことが難しかったので、招待状が届いても欠席していた。
——まさかこういう形でお会いすることになるなんて、思ってもみなかった。
知識として持っているのは、聖王家の男性は黒髪で透き通った青水晶のような瞳をしているとか、背が高い家系だとか、強い魔法力を持っている等々、公表されている内容しかない。
長い歴史を持つルベイン聖王国の始祖から続いている家系で、『デスター』は母方の家の名を示しているとか。そんなものだ。
つい独り言が零れる。
「聖王家や三公爵家の中でも、魔法力を持って生まれるのは、ほんの一握りしかいないのよね。他の家でそういう魔法力の話は聞かないから、本当に特別な家系なんだわ。……他には、なにかあったかしら」
噂もあれこれ流れている。
——ギルファスト様はご結婚前で、聖妃殿下はいらっしゃらない。ご年齢からいって、きっともうすぐ娶(めと)られると誰かが言っていたような……。
聖妃は三公爵家の中から選ばれるのが慣例らしい。魔法力は遺伝するから、次の聖王のためにも母親も何らかの力の持ち主でなければならないのだ。『デスター』も、三公爵家の一つだった。
ただし、現聖王の母君はデスター家の直系ではなく、ずいぶん離れた傍系の令嬢だったはずだ。魔法力は女性には受け継がれ難(にく)いといわれているから、家系を隈なくたどって探したのだろう。
エルフィリアは、聖王が兄より二つ下という年齢の近さから、枢機卿たちや縁戚の貴族などに『早く相手を決めていただきたい』と言って責められているところを想像して、ついくすくすと笑ってしまった。
クリストファも、叔父や叔母から持ち込まれる見合い話をどうやって断ろうかと、いつも苦慮している。
——もしかしたら、そういうストレスもあって、眠れない状態になられたのかもね。
なにが原因となるかは人によって違う。第三者の判断で問題の大小は決められない。小さなことのように見えても、人によってはとても大きな重荷になってしまう場合もある。
——そういえば、聖王様の不眠の理由は何なのかしら。お兄様と次に晩餐をご一緒するときに、お聞きしてみよう。
あれこれ考えながら目的の場所まで来たエルフィリアは、小ぶりで簡素な扉を開けて中に入る。
掃除も自分でやりたいのは山々だったが、侍女に『仕事をさせてください』と訴えられ、それもそうだと考えて、後片付けや準備は任せている。
厨房の中は綺麗にしてあるし、水も汲んであった。
この水は毎日取り換えるよう指示している。材料としてカゴに盛られたジャガイモを見た彼女は、また笑った。ぼこぼことしたジャガイモはとても元気そうだ。
当日に出す予定のスープを、一度は試しに作りたいが、そういうわけにはいかない。
母親の遺言は、『作るところを誰にも見せてはならない』というのと、もう一つあった。
エルフィリアは、厨房を見回しながら、ふっと息を吐く。彼女が母親にスープの作り方を教えてもらったのは十歳になったばかりのころだった。
十歳のエルフィリアは、母親に『スープの作り方を知りたい?』と問われて大喜びで頷いた覚えがある。母親がたまに籠(こも)っている小さな厨房に入れてもらえるのも大層嬉しかった。
『普通、伯爵夫人は調理などなされません。もちろん、伯爵令嬢も』と呆れて嫌味を言う使用人もいたが、少しも気にならなかった。
それから一年ほど過ぎて、エルフィリアがようやく一人で作れるようになったころ、母親は病を患い、瞬く間に逝去してしまった。
『スープを作るところを誰にも見せてはいけません』というのと、『作るのは一週間に一度くらいにしておくのよ』という二つの言葉が、遺言としてエルフィリアの中に残っている。
それ以来ずっと、彼女は、誰かにスープの作り方を教えてほしいと言われるとレシピを書いた紙を渡すだけで、どれほど強く要望されても、母親の言い付け通り作っているところは誰にも見せなかった。
料理長の作るスープはエルフィリアのものよりずっと美味しいのに、どうして皆は彼女のスープを飲みたがるのか分からない。自分で飲んでもなにもないから、本当に不思議だった。
母親が亡くなって数年過ぎたころ、彼女の髪を梳いていた侍女が、疑問の答えをそっと教えてくれた。
「お嬢様の『秘密のスープ』は、飲んだことのある方には『魔法のスープ』だと思われているようですよ。疲れも取れるし、よく眠れるのだそうです」
鏡を前にしていたので、自分が緑の眼を大きくして驚いたのが見える。
「普通のスープよ。魔法なんて、そのあたりに転がっているものではないのに。お母様の遺言があるから『秘密のスープ』になってしまうだけだわ。お母様は、貴族の令嬢が料理をしていては結婚相手を見つけ難くなるとお考えになられたんじゃないかしら」
母親の厨房はエルフィリアが譲り受けてそのまま使用していた。
結婚してから父親が母親に贈ったものだというから、エルフィリアとしては、料理をする妻を愛する貴族男性もきっとどこかにいると思っている。
もつれやすい彼女の髪を丁寧に梳きながら、侍女が眉を寄せたのが鏡に映った。
「そうですよねぇ……。お嬢様のところへ教会から判定者が来ましたけど、なにも見つからずに終了しましたし」
「そうなのよね。魔法だなんて、ただの勘違いだと思うのよ。……ね、私のスープを飲んでみる? どういうふうだったか、感想をちょうだい」
侍女は激しく首を横に振った。
「滅相もない。お嬢様が手ずから作られたものを使用人がいただくなんて、伯爵様に叱(しか)られます」
「そう……」
このときは父親が存命だったので、『伯爵様』とは父親のことだ。
小言を言われるなら無理には勧められない。彼女の提案はその場で消滅した。
『秘密のスープ』であろうと『魔法のスープ』であろうと、エルフィリアとしては、欲しいと言ってくれる人に渡せればそれでよかった。
あのころの彼女は、何事に対しても深く追及することはなかったので、なにもかもがそのまま通り過ぎていったのだ。
彼女は伯爵令嬢として、与えられるものを受け取り、決められたことを全うしてゆく。
そうした毎日に、自分は何の疑問も持たない。
エルフィリアにとって無意味に繰り返される日々は、人から渡されるものだけで構成されていても、滞(とどこお)りなく過ぎてゆくものだった。
一年前までは。
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