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買われた花嫁の溺愛結婚事情

佐倉紫 / 著
ことね壱花 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2020/09/25

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内容紹介

ツンケンする態度すら、愛おしい
「初夜に眠りこけるとはいい度胸だ」伯爵令嬢のミレイユは、父親の借金返済のため、美容総合商社の経営者テオドールに身売り同然で結婚することに。高慢な令嬢と誤解され、冷たく押し倒されたミレイユは、初めての快感に溺れ、執拗な愛撫で純潔を散らされてしまう。ミレイユがテオドールの事業を手伝い、新作ドレスに得意な刺繍を施すと、その美麗な刺繍は多くの令嬢から高い評価を受け大評判となった。前向きなミレイユを見る眼差しが優しくなったテオドールだったが、ある日、ミレイユは彼の秘密を知ってしまい!?貴族嫌いの資産家テオドールと健気な令嬢の溺愛ラブロマンス

立ち読み

第一章 不本意な結婚、不機嫌な花婿


「――よし、できたわ」
 あまった糸を、とじ針で編み地の中に押し込んで、ミレイユ・アストリーはにっこり微笑(ほほえ)んだ。完成した品を両手で広げて、その出来映えにうんうんと頷く。
 目の前のテーブルはもちろん、腰掛ける長椅子やその回りまで、糸や針、布や木枠でいっぱいになっているが、彼女は別にお針子というわけではない。
 南向きの室内には重厚な本棚や可愛らしい鏡台、薄(はく)紗(さ)のヴェールがかかった寝台も置いてあった。それらは彼女がそれなりに裕福な家の令嬢であることを示している。
 いや……裕福というのは語弊がある、と、針と糸を片付けながらミレイユは苦笑した。
 傍(はた)目(め)にはわからないが、たぶん我が家は『お金持ち』という部類からは外れてしまっている。
 はっきり家の帳簿を見たわけでも、誰かに言われたわけでもないが、この家――由緒あるアストリー伯爵家の一人娘である彼女には、家の窮状が肌で感じられるようになっていたのだ。
(お父様はなにもおっしゃらないし、執事も管財人も『お嬢様はそのようなことを知らなくてよいのです』と言ってくるけど……)
 知らなかったことで、自分がのちのち窮地に立たされるのも考え物だと思うのだ。
 ――アストリー伯爵家は、建国の頃から爵位と領地をいただいてきた家で、社交界でも古くからの名家として認知されている。上質な麦や野菜が採れる平地を多く有しているので、領地経営をしっかり行っていれば、早晩傾くような家ではない――はずだった。
(問題はその『領地経営をしっかり行っていれば』の部分なのよね……)
 領地には代々アストリー家に仕える管財人の一家がいて、今も彼らに実質の経営をお願いしている状態だ。毎年それなりの実績が報告されているようだが、果たして領主であり伯爵である父が、それを理解しているかは疑問だった。
 なにせ父は最愛の妻――ミレイユの母を十年前に亡くしてから、悲しみのあまり、すっかりおかしくなってしまったのだ。
 悲しみや苦しみ、煩わしいことから逃れるように、酒や賭け事に熱中し、ミレイユの目から見ても、あまりよろしくない友人たちと付き合うようになっている。
 たまにふらりと帰ってくる父は、赤ら顔で陽気に振る舞うこともあるにはあるが、大抵は「あいつのせいで大負けだ!」とか、「またほら話に騙された!」とか、不穏なことを叫びながら暴れることがほとんどだ。
 そんなふうに悔しい思いをするなら、そのような友人と一緒に出かけなければいいのに……と、何度となく進言した。だが父は「これも貴族の付き合いなんだ」の一点張りだ。
(お金をたくさん使う賭け事に誘ってきたり、明らかに怪しい投資話を持ってくることが、貴族の付き合いですって?)
 そんなはずはないと思うのだが、正論を言えば父は逆上するか、女にはわからないんだよと鼻で笑ってくるかのどちらかだ。次第に、ミレイユも父を止めることに疲れてしまった。
 だがそんな状態が続けば、領地の経営が順調でも、この家の財政事情が順調であり続けることは不可能ではないか、と思う。
 だからミレイユは日がな一日自室に閉じこもり、得意のレース編みや刺(し)繍(しゅう)を生かして、たくさんの小物を作っているのである。
「今日はかなり進めることができたわ。やっぱり明日がバザーだと思うと気合いが入るものね」
 彼女が目をやった先には、ここ二週間で作り上げた作品が積み上がっていた。
 小さいものでは、レースで編んだコースターや鍋置きなど。ランチクロスやちょっとしたカバーなども作ってある。大きいものは膝掛けなどだが、こちらはさすがに時間がかかるので、二週間で一枚作るのがやっとだ。
 ほかにも女性が好む総レースのリボンやつけ襟、ちょっとしたポーチなども用意してある。刺繍を入れたハンカチも取りそろえた。
 これだけあれば、明日のバザーは盛況になるだろう。ミレイユはにっこり微笑んだ。
 ――伯爵家の財政がわからない以上、お金の問題は常にミレイユの意識するところだ。
 幸い、バザーに品物を出すのは慈善事業の一環になるということで、貴族の女性のあいだでは推奨されている。おかげでたくさん品物を持っていっても怪しまれないし、むしろ喜ばれるので、ミレイユとしてはちょっとした商売をしている気分になれた。
(もちろん手に入るお金は微々たるもので、使用人の一ヶ月分のお給金にもならないくらいだけど……)
 多少なりと稼ぐ手段を身につけておくのは悪いことではないはずだ。その思いから、彼女はとにかくレース編みと刺繍に情熱を傾けていた。
「幸か不幸かお父様は賭け事に夢中で、娘が社交界にデビューする年頃だというのも忘れているみたいだし」
 貴族の娘はだいたい十六歳から十八歳で社交界にデビューすることになっている。
 地方の令嬢たちはその土地の一番の権力者――だいたいは領主や、それに準じる者――の家で開かれるパーティーに参加することでデビューとなるが、王都住みの令嬢に関しては、位が高い親戚の家の舞踏会か、初夏に開かれる王宮舞踏会でデビューとなるのが普通だった。
 もし母が生きていたら、きっと張り切って一人娘のデビューをお膳立てしてくれただろう。
 今頃は仕立屋を家に呼んで、デビュタントの白のドレスを仕立てたり、靴屋や宝飾品店に足を運んで、最高の品を求めていたに違いない。
 が、母は亡くなり、それによって父もすっかり『気弱だけど真面目な伯爵』という枠から外れてしまった。こんな状態で社交界デビューするのはミレイユとて本意ではない。
 くる日もくる日も部屋に籠(こ)もって、レースや刺繍糸にまみれている生活はもはや職人ではないかと自分でも思うが……知り合いがいない社交界に出ても上手くやっていける自信もないので、これでいいのだ、と彼女は日々自分に言い聞かせていた。
「とにかく、明日のバザーに集中しましょう。これが全部売れればそこそこのお金になるはずだわ」
 明日の生活がどうなるかわからない漠然とした不安から、彼女は折にふれて執事や使用人たちに「生活を切り詰めるように」とお願いしていた。なので出される食事はパンとスープというような質素なものだし、新しいドレスももう何年も仕立てていない。
 今手元にあるドレスは、すべて母が娘時代に着ていたものだ。
 だが当時のドレスはバッスルを使い、スカートをうしろに大きく膨らませる形をしていた。
 現在ではこのタイプのドレスはすっかり廃(すた)れている。そのため余った布を切ったり、新たに縫い直したりと、手直しと言うより、ほとんど改造と言っていいような作業が必要だった。
 それでも苦労して仕立て直したから、それなりの愛着がある。襟にレースを足したり、ベルトもレース仕立てにすれば可愛くなったので、大切に着回していた。
 ミレイユの食事や衣服ですらそんな有様なので、使用人たちはもっと苦労しているはずだ。
(バザーでお金が入ったら、お菓子やワインでも買って、みんなに差し入れよう)
 ミレイユの希望は膨らむ。慣れた様子でテキパキと片付けを終え、品物をバスケットに詰め終えたところで、メイドが「お食事の時間です」と呼びにきた。
「ちょうど作業が終わったところよ。すぐに行くわね」
 ミレイユは明るく答えて、自室を出て一階の食堂へ向かう。
 だが玄関先から物音が聞こえて、彼女はハッと顔を上げた。
「馬車の音……? もしかして、お父様がお帰りになったのかしら」
 ミレイユは行き先をすぐに変更し、玄関まで小走りに向かう。
 父が帰ってくるのは何日ぶりだろう? 最後に帰ってきたときには、それなりに値が張るワインを開けながら「友人がいい投資先を紹介してくれた」と楽しげに話していたが……
 正面階段に出ると、父もちょうど馬車から降りて玄関から屋敷の中へ入ってきたところだった。ミレイユは膝を少し折って挨拶する。
「お帰りなさいませ、お父様――」
「そこをどけ、ミレイユ!」
 父アストリー伯爵は娘のことを突き飛ばすと、正面階段を駆け上がっていく。危うく尻餅をつきそうになったミレイユは、信じられない思いで父を振り返った。
「お父様!? なにをなさるのですか!」
「うるさい!」
 娘の当然の抗議を一喝し、伯爵は一目散に自分の書斎へ向かう。
 父の行動には、ミレイユだけでなく出迎えた執事も仰天していた。二人で顔を見合わせ、書斎に向けて走り出す。
 そうして見たものに、二人はそろって絶句してしまった。
「お父様……いったいなにをしておいでですか?」
 アストリー伯爵は書斎机の引き出しという引き出しを開き、書棚や飾り棚までひっくり返して、なにかを探していた。
 探し物は真(しん)鍮(ちゅう)の万年筆や懐中時計、宝石のついたタイピンなどのようだ。伯爵はそれらを片っ端から旅行用の鞄に詰めていく。
 それらがすべて換金できる品だと気づいたミレイユは、慌てて書斎に飛び込んだ。
「お父様、もしかしてお金に困っているのですか? 先日おっしゃっていた投資のお話はどうなって――」
「ええい、うるさい! わたしはこれから出かけねばならんのだ! おまえは部屋で大人しくしていろ!」
 とりつく島もない答えだが、ミレイユの本能は「父を行かせてはならない」と強く訴えている。執事も同じ気持ちだったのだろう。「旦那様、とにかく落ち着いてください」と止めに入った。
「何度も言わせるな! わたしはこれから出かけるところだ!」
 だがその執事すら振り切って、伯爵はとうとう衣装棚の奥へ手を伸ばす。
 そこになにが入っているか知っているミレイユはハッと息を呑んだ。
「それはお母様の形見の宝石です! お母様はわたしが社交界にデビューするときのために、大切に取っておくようにとおっしゃっていたのに……!」
 父が引っ張り出した宝石箱には、真珠のネックレスや耳飾りなど、デビュタントにふさわしい宝飾品が収められている。使う予定がないとは言え、この状態の父に持って行かれては、どうなることかわかったものではない。
 だが必死に手を伸ばすミレイユを押しやって、伯爵は宝石箱も鞄にぐいっと突っ込んだ。
「探したところでこんなものか……。わたしはしばらく出かけてくる。誰がきても無駄だと言っておけ!」
「お父様? それはどういう意味ですか?」
 鞄を小脇にさっさと出て行こうとする父に、ミレイユは懸命に追いすがる。
 だが正面階段を下り再び玄関に戻ったところで、ほとんど駆け足だった父の足がピタリと止まった。
「おやおや? その様子では夜逃げでも敢行しようとしていたのですか? 伯爵、それはいけませんな。いけませんねぇ」
 ミレイユはハッと玄関を見やる。戸口には、いったいいつからそこにいたのか、見覚えのない男が口ひげを撫でながら入ってくるところだった。
 その口調は丁寧ながら、相手の神経を煽るような不快さが滲(にじ)み出ている。おかげで一目で彼が父にとっての厄介者だと理解できた。
 だが父は反発するよりも大いに狼狽(うろた)えた様子で、鞄をぎゅっと握りしめる。
「よ、夜逃げなど人聞きの悪いことを言うな! それに、わたしから取り立てようとするのはお門違いだぞ。もとはといえばあいつが上手い投資話があるなどと嘘を言ったからで……!」
 精一杯胸を張って父は言うが、玄関口にいる男はわざとらしく肩をすくめる。
「あいにくわたしはあなたが誰に騙されたとか、そういう話に興味はないのです。関心の矛先は常に、自分が貸した金に対して向けられていましてね」
「だ、だから、予定では今日金が入るはずだったんだ! だがわたしは騙された! あいつはわたしの金を倍にして返すどころか、持ち逃げして行方をくらませて……!」
 父が唾を飛ばしながら弁明する。おかげでミレイユもなんとなく事態を呑み込めた。
(先日『友人がいい投資先を紹介してくれた』とお父様は言っていたけど……)
 どうやらそれは、最近よく聞く『投資詐欺』というやつで、父はつぎ込んだ多額の金を失うことになったらしい。
 そして『金を貸した』と言うからには、玄関口にたたずむあの男は、銀行員か金貸しか――とにかく、お金にまつわる仕事をしている人間なのだろう。
 ミレイユは脂汗を掻(か)く父の横顔を見ながら、小さな声で尋ねる。
「お父様、まさかとは思いますが、お父様はあそこにいる方からお金を借りたのですか? そして投資話を持ってきた方に、借りたお金を全部渡してしまったということですか?」
「だ、黙れミレイユ! なにも知らない箱入り娘が、父のやることに口出しするんじゃない!」
 父は血相を変えてそう叫んでくる。つまり、ミレイユの推測は当たりということだ。彼女は頭を抱えたくなった。
「おやおや、父親の行状を知らなかったのですか、お嬢さん? それはお気の毒だが、こちらも商売でやっていますからね。返済期限はきっちり守ってもらわないといけないのですよ」
 金貸しを生業(なりわい)にしているらしき男は、にっこり微笑むと同時にパチンと指を鳴らした。
 その瞬間、どこに潜んでいたのか、わらわらと屈強な男たちが現れる。彼らはあっという間に屋敷に入ると、方々に分かれて扉を片っ端から開け始めた。
 そしてあちこちに飾られている花瓶や絵画、家具などを次々に運び出していく。
「ま、待ってください! それらの品はすべて伯爵家に代々伝わるものです! なぜ持っていくのですか!?」
 ミレイユは仰天して、父を置いて階段を駆け下りる。
 息せき切って近づいてきた彼女に、金貸しの男は愛想のいい笑顔で説明した。
「あなたのお父上には、これまでもそうとうな金額を貸してきたんですがね。まるで返してもらう宛てがないので、仕方なく家具家財の差し押さえを行うのですよ」
「なんですって……?」
 ミレイユは慌てて父を振り返る。未だ階段の下にたたずむ父は青い顔をして、手すりにすがって立っているような状態だ。
「ご安心を、今日の差し押さえは家具だけだ。まぁ一週間後にはこの屋敷、二週間後には領地のお屋敷と領地自体を差し押さえる予定になっていますが。それまでにこれまで貸したお金を全額そろえてお返しいただけるなら、もちろん今日差し押さえたぶんもすべてお返ししますよ」
 金貸しはなめらかに告げてくるが、父の顔色を見る限り、そんなお金はどこにもないに違いない。ないからこそ金を貸した人間が差し押さえにやってきているのだ。
 屈強な男たちが次々と家具を運び出すので、使用人たちも慌てて奥から出てきた。彼らは驚きながらも、黙々と作業を続ける男たちに気(け)圧(お)されて立ち尽くすばかりだ。
 そのうち、男の一人が父に近づき、小脇に抱える鞄を取り上げようとした。父は必死に抵抗するが、体格差があるだけにあっさり鞄を奪われる。
 それは男から金貸しへと渡り、鞄の口を開けた彼は「ハッ」と小さく笑った。
「やはり夜逃げを企てていたようですねぇ。金になりそうなものをしこたま詰め込んで」
 彼は鞄の口を閉じると、興味がない様子でそれを男に渡す。男が鞄を外に持っていくのを見て、ミレイユはぐっと唇を噛みしめた。
「あの鞄も持っていくの? 中にはお母様の形見の宝石が……」
「おや、それはお気の毒だ。だが、それならなおさら差し押さえの対象になりますね。売り飛ばしたところでわたしが貸した金額の足しになるかは微妙ですが」
 母の思い出や願いが詰まった宝石をそんなふうに言われて、悔しくて悲しくて涙が出そうになる。肝心の父は成り行きを見守るだけなので、よけいにだ。
 腹立ち紛れに思わず父を睨み付けると、呆然としていた父はハッとした様子で身を強張らせた。
「……っ、か、家財を持っていくというなら好きにしろ! わたしはもう休む!」
「休むための寝台もそのうち引き取りにきますよ。今日は荷馬車の余裕がないので、あまり大きい家具は持って行けませんからねぇ」
 金貸しの男はあきれた様子で笑いながら、また肩をすくめる。
 その余裕の態度に父は真っ赤になって、足を踏みならしながら奥へ引っ込んでいった。
「さて、そろそろ作業も終わりかな。ではお嬢さん、今日はこれで――」
「ま――待って、待ってくださいっ!」
 帽子を軽く持ち上げて立ち去ろうとする金貸しの前に、ミレイユは立ち塞がった。
「い、一週間後にこの屋敷を差し押さえると言っていたのは、本気なの……?」
「もちろん。この屋敷も領地も、全部抵当に入っていますからね。とはいえ貸した金額が大きいので、それらすべてを回収してもまかないきれるかどうか……」
「ま、まかないきれなかったら、どうなるの?」
 いったい父はどれだけ借金しているのかとくらくらしながら、ミレイユは力が抜けそうになる足を必死に叱(しっ)咤(た)して、なんとか尋ねる。
 金貸しの男はそれを楽しげに見ながら、一応丁寧な口調で答えてくれた。
「値打ちのありそうなものをさらに売ってもらうだけですよ。たとえば、わたしの目の前には花も恥じらう美しいご令嬢がいらっしゃる。あなたを売り飛ばすのも、わたしのような人間には割と簡単なことでしてね」
 顎(あご)に指先をかけられ、顔をくいっと持ち上げられる。怖気(おぞけ)が走るが、この手を叩き落とすことで相手の不興を買ったら、と思うと動けない。それがひどく悔しかった。
「そ、それでも駄目だった場合は……」
「よくて破産。悪くて、あなたのお父上は債務者監獄行きとなるでしょう」
「さ、債務者監獄ですって!?」
 とんでもないことだ。目を見張るミレイユに、金貸しは表面上は同情に満ちた笑みを浮かべた。
(お父様がそんなところに閉じ込められたら、我が家は名実ともに終わりだわ……!)
 あまりのことに青くなっていると、家財を運び終えた男たちが「終わりました」と伝えにやってくる。
 金貸しの男は一つ頷き、「ではお嬢さん、ごきげんよう」と去って行こうとした。
 ミレイユは、それを再び止める。
「待ってください、まだ聞きたいことがたくさんあるんです!」
「ほう……」
 決死の面持ちのミレイユに興味が湧いたのか、金貸しは面白がるように振り返った。
「ふぅむ、確かに……差し押さえにきたわたしたちになにもできず、虚勢を張るだけ張って引きこもった伯爵よりも、あなたとのほうがよほど建設的な話し合いができそうだ」
 一度足を止めた金貸しは、懐から手帳とペンを取り出すと、何事かをさらさらと書き付けていく。
「だが、辺りはもう暗くなってしまった。客人として滞在する気はないので、明日、あなたのほうからわたしの事務所を訪ねてきなさい。なぁに、次の返済期限までは一週間ありますから、その場であなたをどこぞに売り飛ばす真似はしません。安心していらっしゃい」
 金貸しはペンを胸元にしまうと、書き付けたページをちぎってミレイユに差し出してきた。
「事務所の人間にはあなたが訪れることを知らせておきますよ。ではお嬢さん、よい夜を」
 今度こそきびすを返して、金貸しと彼が従えてきた男たちが引き揚げていく。
 彼らが乗る馬車に続き大きな荷馬車が出て行くのを忸(じく)怩(じ)たる思いで見送って、ミレイユは手にした紙切れをじっと見つめた。そこにはどこぞの住所が書き付けてある。きっと『事務所』とやらがここにあるのだろう。
(明日はバザーに向かう予定だったけれど……)
 もはやそんな悠長なことをしている余裕はなさそうだ。金銭的にも、時間的にも。
「お、お嬢様、我々はどうしたら……」
 成り行きをこわごわと見守っていた使用人たちがおびえた様子で近寄ってくる。
 あんな場面を見せられたら、すぐにでもここを出て行きたいと思っても不思議ではないだろうに、こうして意見を仰いでくれることをありがたく思った。
「この屋敷はあと一週間は使えるみたい。明日、わたしがさっきの方の事務所に行って話をつけてくるから、ひとまず普段通りに働いてくれるとありがたいわ」
「か、かしこまりました……」
 執事はそう頭を下げたが、背後に並ぶ使用人たちは不安げな面持ちだ。
 それはそうだろう。雇用主が借金まみれだと判明したのだ。ちゃんとお給金が出るか、不当に追い出されないか、心配ごとは尽きないはずだ。
 ミレイユが話したところで、丁寧ながら抜け目がなさそうなあの金貸しがどう出るかはわからないが……父が閉じこもってしまった以上、この状況をどうにかできるのはミレイユしかいない。
 ひとまず使用人を持ち場に戻らせ、ミレイユは父と話そうと一度書斎に戻る。
 だが内側から鍵がかけられていた上、ミレイユがなにを訴えても、父はうんともすんとも答えなかった。執事が食事の用意ができたと声をかけにきても、やはりなにも答えない。
 投資詐欺に遭った上に、金貸しに家財を持って行かれてショックなのだろう。そう判断してひとまず引いたが、ふがいない父の姿には憤りを覚えずにはいられなかった。
(お母様が生きていたら違ったのかもしれないけれど……)
 あいにく母は十年も前に亡くなっているし、ないものねだりをしたところで、状況がよくなるわけでもない。
「……しっかりしなきゃね、ミレイユ。とにかくちゃんと食べて寝て、明日に備えましょう」
 さながら戦場に踏み込むような気持ちで、ミレイユは密かに気合いを入れるのだった。


 金貸しの事務所は、屋敷からさほど離れていないところにあった。
 いつもなら迷わず馬車を使おうと思う距離だが、今はあまり目立ちたくない。ミレイユは動きやすいドレスに長靴(ブーツ)、頭にはスカーフを巻いて、目的地まで歩いて行くことにした。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「ええ。お父様のことをよろしくね」
 見送りに出た執事に念を押して、ミレイユは伯爵家の屋敷を出る。父は昨日からずっと書斎に籠もったままで、どんなに声をかけても出てこようとはしなかった。
(娘のわたしに対しては意地もあって出てこられないだけかもしれないわ。長年仕えてくれている執事が呼びかければ、お食事くらいは取ってくれると思うけれど)
 黙って借金をこさえてきたとはいえ、やはり父は父だ。食事も取らないで閉じこもっている状況を看過することはできない。
「もう。どこまでもひとに迷惑をかけるのだから」
 腹立たしさからつい愚痴をこぼしながら、ミレイユは目的地に向けずんずん歩く。
 金貸しを生業としている男の事務所だけに、怪しい門構えをしていたらどうしようかと思っていたが……周囲に広がるのは小綺麗な集合住宅だ。番地を確認しながらたどり着いた先には、意外と小洒落た扉があった。
 扉は緑色で、黒い取っ手とノッカーは綺麗に磨かれている。金文字で『ボルドー商会』と書かれた看板が打ち付けられていたが、派手と言うよりは品がいい飾りのように見えた。
 ミレイユは緊張で高ぶる胸を押さえ、ひとつ深呼吸してからノッカーを打ち付ける。
 さほど待たされずに扉が開き、髪を綺麗に結い上げた女性が出てきた。
「アストリー伯爵家のお嬢様ですね。お待ちしておりました。応接間にご案内いたします」
 受付を担っているらしい女性は流行りのドレスを品良く着込んでいて、ミレイユは自分のお古のドレスがひどく恥ずかしくなる。それでも胸を張って女性のあとに続き、応接間の長椅子に腰掛けた。
「やぁ、きたね。馬車も使わずにお一人とは、なかなか気骨のあるお嬢さんだ」
 出されたお茶を前に待っていると、さほど時間を置かずに、昨日の金貸しがやってきた。
 昨日は暗い時間帯の訪問だった上に帽子をかぶっていたので、その顔立ちを知ることはできなかったが……明るい中で見てみると、なかなかの優(やさ)男(おとこ)だ。年は父伯爵と同じくらいに見えるが、声が艶やかで大人の魅力に溢れている。
 だがうっとりする心の余裕はかけらもない。ミレイユは立ち上がって軽く頭を下げた。
「さて、さっそく本題に入りましょうか。こう見えてわたしは忙しい身なのでね。――そう言えば、まだ名乗ってもいませんでした。わたしは消費者金融業を営んでいるボルドーです。以後お見知りおきを」
「消費者金融……」
 そのような職種があることをミレイユは初めて知った。無知をさらすのは恥ずかしいが、きちんと情報を得ていないと、肝心なところでなにか失敗をするかもしれない。ミレイユは恥を忍んで尋ねた。
「ごめんなさい、世間知らずなもので、消費者金融というのがどういうものかわからないの。ご説明いただけます?」
「もちろんです。実際、あなたのような若いご令嬢が耳にする機会はほぼない職種でしょう。まぁ簡単に言えば、個人にお金を貸してあげる事業です。もちろんタダではなく、『お金は貸すけど、返すときには利子をつけて返してね』という感じですね。『金貸し』、悪い言い方だと『高利貸し』のほうが、馴染みのある言い方かもしれません」
 ――やはりこの男はそういう職種の人間だったのだ。彼は無知なミレイユに対しいくつかの書類を提示しながら、言葉を砕いて説明を始めた。
「……返す期限が遅れれば遅れるほど、利子は膨れ上がっていきます。あなたのお父様がお金を返す最初の期日は、昨日でした。昨日までに返していただければ、利子は貸したお金の一割程度でよかったのですが、ここからは一週間ごとに利率が上がっていきます」
 彼――ボルドーが示す表を見て、ミレイユはくらくらした。
 表を見る限り、一ヶ月もすると、利子は倍以上に膨れ上がる計算だ。まさに『高利貸し』と呼ぶにふさわしい利率である。
「しゃ、借金を返せなかった場合、父は悪ければ債務者監獄に送られるとあなたはおっしゃっていたわ」
「ええ、言いましたね」
「具体的に、この利率がどこまで上がったら、そういう事態になってしまうの……?」
「そうですねぇ。わたしが裁判所に申し立てをするのは、だいたいこのあたりですね」
 彼が示した日付は二ヶ月後だ。利率から察するに、この頃には返すべき金は借りた当時の倍額近くまで膨れ上がっている計算になる。
 なるほど、最初に領地や屋敷を担保に金を借りていたなら、最後にはそれらをすべて売っても、なお借金が残るという事態に陥るわけだ。
「もう! お父様はどうしてそこまでの大金を借りたりしたのよ……!」
 焦りと憤りのあまり心の声が口から飛び出してきた。ボルドーは同情めいた笑みを向けながらも「あなたのお父様のような方は割と多いのですよ」と肩をすくめてみせる。
「最初は領地の経営が上手くいかず、補(ほ)填(てん)するために借金をすることが多いのですが、結局返済の目処(めど)が立たなくて、今度は株や投資に手を出してみる。ですがそれも失敗して、さらなる借金を負うという――」
「あなたはわたしの父もそうなるとわかっていて、それでもお金を貸したのね」
 ミレイユは鋭く切り込む。恨みを込めてボルドーを睨み付けるも、相手は慣れているのだろう、にっこり笑って返してきた。
「それがわたしの仕事ですから」
 ミレイユは思わず唇を噛みしめる。
 破滅する未来が見える相手に金を貸すなんてどうかしている。相手が破産してしまったら、貸した金は回収できずに終わるではないか。
(それとも、必ず回収できる秘策でもあるのかしら?)
 ――金を貸すほうだって馬鹿ではない。商売でやっているのだから、当然儲ける手段を考えているはずだ。
 ミレイユは居住まいを正してボルドーを見据えた。
「あなたはどうやって貸したお金を回収する予定だったのですか? 我が家の領地や屋敷を得たところで、売却先が見つからなければ、不要な資産を抱え込むだけになるのでは? それとももう買い手がついているの?」
「あいにくと伯爵家のお屋敷は少々古めかしいですからね。鉄道が国中に敷かれ、自動車も見かけるようになってきたこのご時世において、いまだ電気も満足に引かれていない屋敷は、新たに売り出すとしても高値がつきにくい。それなりに改装しないと寄ってくる客はいないでしょう」
「ならばなおのこと、わたしはあなたがどういう手段で利益を得るのかがわからないわ」
 するとボルドーは「はっはっは!」と愉快そうに笑った。
「やはり、引きこもってただ時間が過ぎるのを待っているだけの伯爵より、あなたとのほうがよほど有益な話ができますね。本当に、あのぼんくらな父親から、どうしてあなたのような賢い娘が生まれたのか。不思議でたまりません」
「……父が未だ引きこもっていることをご存じなの?」
 まさか伯爵家に監視役でも送り込んでいるのかとぎょっとするが、ボルドーは「だいたい予想はつきますから」とこともなげに答えた。
「これまでのやりとりから、伯爵の性格はほぼ把握しています。特に彼は名門伯爵家の当主ということで、金貸しは貴族に対し金を出すのが当然で、そもそも返す必要などないと思い込んでいる節もあります。だから昨日みたいな事態になっても、時間が過ぎればどうにかなると本気で信じているのですよ。嵐がきたときと同じで、じっと家に籠もっていればそのうち過ぎ去り、また外に出られると本気で思っている。実に愚かなことです」
「……」
 ひどい言われようだが、ミレイユは一言も反論できなかった。父が書斎に籠もっているのはそういう理由かと、すんなり納得できたからでもある。
 だとしたら、父は本当に愚かだ。借りたものは返さなければならない。子供でもわかる決まり事なのに、自分は名門貴族だからその必要はないなどと、いったいどうして考えられたのか……
「ですが、こっちも親切心ではなく商売でやっていますからね。当然、金は回収させていただきます。貸したとき以上の金額をね」
「だから、それはどうやって……。お察しの通り父は部屋に閉じこもりきりで、どこかからお金を融通してもらうつもりもないようです。また別のところから借りられても困りますけど」
「ご安心を。わたしが伝手(つて)を持つ同業者には、伯爵に金を貸さないように言ってあります。言われずとも、誰も貸さないとは思いますけどね」
 それはありがたい、と言うべきところなのだろうか? ミレイユは眉をひそめ、小さく息をついた。
「さて、方法ですが。あなたはご自身の家において、なにが一番価値があるものだと考えていますか?」
 アストリー伯爵家にとって、一番価値のあるもの……
「……なにかしら。やはり、領地や受け継いだ財産くらいしか思い当たらないわ」
「生まれながらの貴族の方はそうでしょうね。だが我々平民からすれば、あなた方の一番の価値は『貴族であること』――つまりは『身分』、それを表す『爵位』そのものが、もっとも価値のあるものなんです」
 ミレイユはハッと息を呑み、たちまち青ざめた。
「つまり――あなたはわたしたちに、爵位を売りに出せとおっしゃりたいの?」
 とんでもないことだ。先祖代々受け継いできた爵位を、どこの馬の骨ともわからぬ輩に売り飛ばすなんて!
「現実問題、それしかすべての借金を返す手段はありません。十五年前に法が改正されて以降、この国では爵位を売りに出すことができるようになった。わたしはこれまでも、没落し、どうにも首の回らなかった家に爵位の売却を薦め、破産も監獄行きも免れた貴族たちの面倒を見てきましたよ」
「面倒を見たなんて……よくもぬけぬけと……」
 ――どうせミレイユの父にしたように、返す宛てのなさそうな貴族に大金を貸し付け、破産寸前まで落ちたところで、今のように爵位を売りに出せと迫ってきたに違いないのに!
「……そう、それがあなたのご商売のやり方なのね」
「理解が早くて助かる。あなたは本当に賢いご令嬢だ」
 感心したように言われたところで、少しも嬉しくない。ミレイユは思わずうめいた。
「確かに、古めかしい屋敷は誰も買い取らなくても、爵位となれば違うでしょうね……。この頃は豪商や実業家が爵位を買い付けて、社交界に出てくることも多いと聞くし」
「こういう時代です。古くからの領地経営だけで生き残っていく貴族は、むしろ少なくなっていくでしょう。先見の明がある者なら経済や経営を学び、事業を興すくらいはしそうですが、まだまだ貴族が労働に手を染めることへの偏見は強いですからねぇ」
 頷きたくないが、ボルドーの言葉はまさに世相そのものだ。
 そして生き残れなかった貴族のなれの果てが、今現在のアストリー伯爵家というわけだ。
 先祖代々の美術品や、母の形見の宝石を持って行かれたときもショックだったが……爵位を手放すというのはそれ以上の屈辱である。
(だけどそれくらいのことをしないと、お父様が借りたお金を完済することはできないに違いない……)
「でも、あなたの家は運がいいほうですよ。爵位を売りに出すと言っても、条件次第では完全に手放すことにはならないでしょうからね」
「……それはどういう意味です?」
 ミレイユはハッと顔を上げる。ボルドーは変わらぬ愛想のいい笑みで告げた。
「伯爵家にはあなたという未婚のご令嬢がいらっしゃる。つまり、あなたと結婚すれば、その相手は自動的に伯爵位を継ぐことになるでしょう? わざわざ売りに出さずとも、あなたは自分と結婚してくれる相手を探せばいいのですよ。無論その相手は、あなたのお父上が借りた金を、耳をそろえて返してくれる相手じゃないと困りますけど」
 ミレイユはすみれ色の瞳だけでなく、口までぽかんと開けて目の前の金貸しを見やる。
 ――確かに、それなら相手は爵位を得ることができるし、ミレイユと父は屋敷や領地を完全には手放さずに済む。
 問題は、父が作った借金をぽんっと返せる、未婚の男性がいるかどうかだ。
 だが、目の前のボルドーは余裕の笑みを浮かべている。ミレイユは一度息を吸い込んでから、確認の意味を込めて尋ねた。
「あなたはお仕事柄、たくさんの伝手や知り合いをお持ちなのでしょうね?」
「お察しの通り。こう見えて人脈の広さは、そんじょそこらの貴族の比ではないと自負していますよ」
「ならば、我が家の借金をすべて返せるような、独身の資産家の方もご存じよね」
「その条件ですと、該当者は何人かに絞られますが」
 それでも何人かはいるのだ。ミレイユはぐっと目を閉じ、覚悟を決めてから顔を上げた。
「ならば、その方たちの中から、多額の借金を返してでも伯爵家の婿になりたいという方を、わたしに紹介していただけませんか?」
 ボルドーの瞳がキラリと光る。それまでの愛想笑いが、面白いものを見つけたという感情により、本物の笑顔になる瞬間をミレイユは見た気がした。
「物わかりがよい上、頭の切れも覚悟の仕方も、あのぼんくら伯爵とは比べものにならない豪胆さだ。あなたがご令嬢ではなくご子息だったら、伯爵家もこんな道をたどることはなかったかもしれませんね」
「いいえ。伯爵家の領地からは、毎年それなりの収益が報告されていました。父が賭け事や酒に溺れず、領主として真面目に過ごしていれば、このような没落は決して迎えなかったはずです。だからこの結果に、わたしの性別は関係ありません。父の怠慢と、それを静観していたわたしの甘さが原因です」
 吐き捨てるように言ったつもりが、最後は自分自身の言葉にショックを受けて、ミレイユはつい悔し涙を滲ませてしまった。
 自分が男に生まれていたところで、この事態を阻止できたかはわからない。それよりも、母を失って自暴自棄になった父を止められなかったことを後悔するべきだと思った。
 当時は愛するひとを失った父の悲しみを思い、ある程度荒れるのは仕方がないことだと思っていたけれど……静観する時間があまりに長すぎた。
 家の経済状況が思わしくないことに、なんとなく気づいていたのに、具体的な対策はなにも打たずにのうのうと暮らしていたのだ。もっと父に強く働きかけていれば……そう思うと後悔してもしきれない。
 だが、過去を悔いてもなにも解決しない。幸い、解決策はボルドーが示してくれた。
 父に金を貸した張本人に助けを求めるのは癪(しゃく)だが、ミレイユの交友関係はかなり狭い。父にも母にも姉弟がいないし、その親たちも亡くなっているので、親戚づきあいも子供の頃に少しした程度。これといった友人もいないのだ。
 ならば、やはり目の前の金貸しに頼るのが一番現実的だった。
「紹介するのはいいのですが、独身の資産家となると当然、各方面から人気でしょうからねぇ。若くて美しい相手は望めないと思いますよ? 耄(もう)碌(ろく)した年寄りや、若い娘をなぶるのが好きな変態を紹介しても、わたしを恨まないと誓えますか?」
 ミレイユは口をへの字にひん曲げる。
(そもそもこのひと、昨日はわたしを花街に売り飛ばすとか言っていなかったかしら?)
 その上で善人ぶってくるなど、面の皮が厚いにもほどがある。
「――ええ、誓うわ。借金を全額返せる上に、爵位と使用人たちの暮らしを守れるなら、わたしにとってこれ以上望むことはありません」
「思い切りのいい答えです。あなたのお父上のことは『高慢ちきな勘違い野郎』と思っているわたしですが、あなたのことは気に入った。せいぜい素敵な相手を選んで差し上げますよ」
 父を笑顔でこき下ろされるのには閉口したが、それが紛れもない彼の本心であることは理解できただけに、ミレイユはなにも言わずただ目を伏せた。
 相手は次の返済日までには見つけてくると言われたので、ミレイユはひとまず事務所を出ることにする。馬車で送ろうかと言われたが、丁重に断り、ミレイユはきたときと同様、自分の足で帰路をたどった。


 帰る頃にはすっかり昼食の時間を過ぎていた。
 心配そうな顔で出迎えた執事に微笑んでみせて、ミレイユは昼食より先に父に会いたいと告げる。
「旦那様はずっと書斎に籠もられたままです。そろそろお食事だけでも召し上がっていただきたいのですが……」
「そうね。声をかけてみましょうか」
 ミレイユが出かけたあとで声をかけてみたが、放っておけ、入ってくるなと命じられたため、執事もほかの使用人も、それ以降は書斎に近づいていないという。
 夜逃げしようとしたままの散らかった書斎に籠もるなど、精神衛生上よくないことだろう。
 せめて片付けだけでもさせてもらえればと思い、ミレイユは書斎の扉をノックした。
「お父様? ミレイユです。そろそろお食事を取らないと身体に毒ですわ。開けてくださいませ」
 だが中からはうんともすんとも返事がない。不審に思ったミレイユはドアノブを回した。
 鍵がかかっていたはずなのにすんなりと開いて、執事と一緒に驚いてしまう。
「お父様? どちらにいらっしゃるの?」
 慌てて部屋に入るが、書斎はもぬけの空だ。どうやら使用人たちが近づかなくなった隙を見て出かけてしまったらしい。
 いったいどこへ、と血相を変えて外へ探しに出ようとしたとき、当の本人が「帰ったぞ!」と玄関口で意気揚々と声を張り上げた。
「お父様! 今までどちらにおいでだったのですか!?」
 ミレイユは慌てて正面階段を駆け下りる。ほっとする以上に、父が妙に明るく振る舞っているのが不審に思えた。
 父の足取りはふらふらしているし、顔も赤い。明らかに酒を飲んでいる。
「聞け、ミレイユ。新しい投資先が見つかったぞ! 今度こそ大儲け間違いなしだ! これで家財をかっさらって行ったボルドーの鼻を明かしてやれるというものだな!」
 がっはっは! と大声で笑う父に、ミレイユは膝から崩れ落ちそうになった。思わず腹に力を込めて叫んでしまう。
「――いい加減になさいませ!! 投資すると言ったって、どこからお金を借りるのですか!? ボルドーさんはもうほかの金貸しにも手を回して、お父様がお金を借りられないようにしているとおっしゃっていましたよ!?」
「なに? おまえ、あいつに会ったのか?」
 赤ら顔の父がぎょっとした様子で目を見張る。ミレイユは問いを無視して詰め寄った。
「その投資話もどうせ詐欺に決まっています! まともな投資家が、うちのようにお金のない――それどころか借金を作っているような家に、そんな上手い話を持ちかけてくるなんてあるはずがないでしょう! どうせまたお金を出すだけ出させて、持ち逃げされるに決まっています!!」
「お、おまえ、若い娘が、そんな、詐欺だの金だの、大声を出すな――」
「出さずにはいられませんわ!! そのお話はすぐに断ってください! そして新しくお金を借りるのも金(こん)輪(りん)際(ざい)やめてください!」
 軽い小言は言えど、たいていは箱入りの貴族令嬢らしく、穏やかで慎ましくしていたミレイユだ。そんな娘が唾をまき散らす勢いで怒鳴ってくるのを、アストリー伯爵は目を白黒させながら見つめていた。
 だが、すぐに我に返ったらしく、眉をキッと吊り上げてくる。
「娘の分際で父のやることに口を出すな! おまえはいつからそんな小賢しいことを言うようになって――」
「いいえ! お父様の傷心を思い、これまで口出しせずにいましたが、それが間違いだったとわかった以上、今後はなんでも言わせていただきます!」
 父を上回る怒声を響かせ、ミレイユは伯爵の胸元に指を突きつけた。
「これ以上借金を増やすような真似はわたしが許しません!! 返済の目処はついているのですから、お父様はこれを機に賭け事やお酒とは縁を切って、領主として堅実に働いてください!」
 伯爵は反論したげに口を開いたが、ふと気づいた様子で目を瞬かせた。
「おい、ちょっと待て、返済の目処がついている? どういうことだ? わたしは騙し取られた金を取り戻すために投資先を見つけてきたというのに……」
「ボルドー様と直接話をしてきました。我が家が苦境から逃れるためには、わたしが資産家と結婚することが一番だと教えていただきましたわ。今、我が家の借金を返済するに値する方を、ボルドー様が選んでくださっている最中です」
 アストリー伯爵は目をまん丸に見開いてぽかんとしていた。が、徐々に手足をブルブルと震わせ、顔をそれまでよりさらに真っ赤にして怒鳴ってくる。
「こ、こ、この……っ、恥知らずが! どこの馬の骨とも知れない男を婿に迎えるなど……それもあの高利貸しの斡旋でだと!? 馬鹿も休み休み言えっ!」
「馬鹿ではありませんわ! 現状ではもっとも最適な方法です! 本物かどうかわからない投資話に踊らされるより、よっぽど堅実ではありませんか!」
「なんだとぅ!?」
「どのみち次の返済期限は一週間後。それまでにお金を用意できなかったら、わたしたちはこの屋敷を追い出されるのですよ? お父様だって監獄に引きずられていくかもしれないのに!」
「ハッ! 馬鹿なことを。生粋(きっすい)の貴族であり、名門アストリー伯爵家の当主であるこのわたしを、債務者監獄などに入れられるものか。あんなのはあの金貸しのハッタリに過ぎぬわ!」
「お父様……本気でおっしゃっているの? だとしたらボルドー様の言ったとおり、お父様は本当に『高慢ちきな勘違い野郎』だわ」
「なっ!?」
 年頃の娘の口からとんでもない暴言が出てきて、伯爵は喉を絞められた雄鶏のような声を出した。
「な、な、なんだとぅ!? この頭でっかち娘め、そこまでわたしをコケにするか……!」
「ええ、ええ、しますとも! 借りたお金を返さずにいる上、返済期日から目を背けようとするなんて、愚か者の所業だわ! 脅しで家財を持っていく暇人がいるものですか。ボルドー様はお金が返ってこなければ、容赦なくお父様を監獄に引き渡すわ。そしてこの屋敷も、領地も、我が家は財産のすべてを失うのよ!」
「なにを馬鹿な。そんなことがあろうはずがない。栄えある伯爵家の当主にそんなことをしてみろ! 身の破滅を味わうのはボルドーのほうだ!」
 父は本気でそう思っているらしい。自分は貴族だから捕まらないなんて、その自信はどこから湧いてくるのだろう?
 ミレイユも話すのがだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。なにを言ったところで父は改心しないに違いない。大きくため息を吐き出し「とにかく」ときっぱりした口調で言い切った。
「ボルドー様にした借金の件は、わたしの結婚でなんとかします。だからお父様はもう無理にお金を稼ごうなんて考えないで、堅実に暮らしてください」
「おい、話を勝手に終わらせるな。結婚など許さんぞ! おまえは名門アストリー伯爵家の娘だぞ! 当然、しかるべき相手を得て家を守り立てて……」
「ええ、ですから、しかるべきお相手と結婚するつもりです! お父様が作った借金という恥をすべて拭い去ってくれるような、お金持ちな方と!」
 腹立ち混じりに叫んだミレイユだが、次の瞬間、頬に強い衝撃を感じた。
 ぱんっ! という打擲(ちょうちゃく)の音とともに痺れるような熱さが頬に走った。たまらず玄関の固い床の上に倒れ込んだ彼女は、なにが起きたかわからず呆然としてしまう。
 成り行きをハラハラしながら見守っていた執事が「お嬢様、大丈夫ですか!?」と青くなって顔をのぞき込んできた。心配そうな執事の顔を見て、ミレイユは自分が父に殴られたことを悟った。
「お父様……」
 信じられない思いで父を振り仰ぐが、伯爵も自分がしでかした暴力がショックだったらしく、手を振り下ろした状態のまま固まっている。
 とはいえ、娘と執事二人に見つめられて、そうとう気まずかったのだろう。「そ、そんな目で見るな!」と自棄(やけ)になった様子で叫んだ。
「当主であるわたしに逆らったおまえのほうが悪いのだ! わたしを怒らせたおまえが悪い……! まったく、最悪の気分だ。おい、酒を持ってこい!」
「お父様、お酒はもうやめてください――」
「うるさいッ!!」
 唾を飛ばしながら一喝して、父は足をドスドスと踏みならしながら正面階段を上がっていった。
 執事は苦々しい面持ちで主人の背を見送り、ミレイユの肩に手をかける。
「とにかくすぐに頬を冷やしましょう。口の中は切れていませんか?」
「……大丈夫よ。ちょっと一人にして」
 ミレイユは小さな声で囁(ささや)くと、執事の手を振り切って階段を駆け上がる。
 そして脇目も振らずに自室に飛び込んで、寝台に勢いよく突っ伏した。
「……なによ! いったい誰のせいで、わたしがしたくもない結婚をすることになったと思っているのよ……!!」
 拳で枕をぼふんと叩く。悲しみや怒り、悔しさを拳に込めて振り下ろしながらも、ミレイユの瞳からは耐えきれず涙がぼろぼろとこぼれた。
「わたしだって叶うなら、家柄も年齢も釣り合いの取れる貴族の男性に嫁ぎたかったわよ! それをできなくしたのはお父様じゃない。なのにどうしてわたしがその尻拭いをしなくちゃいけないのよ! おまけにそれを小賢しいだのなんだのと……!」
 ぼすぼすぼす、と枕に拳を叩き込むも、涙は涸れない。ミレイユは目元をゴシゴシと擦(こす)った。
「……いいわ、お父様に軽蔑されたって。この家と領地と、使用人たちを守れるならそれでいい。わたしは間違っていない」
 自分に言い聞かせるように呟(つぶや)いて、ミレイユは立ち上がる。泣き顔を隠すために顔を洗って、様子見にやってきたメイドに氷と布を頼んだ。
「こんなことで泣くなんて、それこそ馬鹿らしいというものよ」
 相手がどういう人物かはわからないが、これから望まぬ結婚生活が待っているのだ。この程度でくじけてはいられない。
 氷で冷やした布を頬に当てながら、ミレイユは静かな表情で前だけを見つめていた。

      *      *

 ボルドーから連絡があったのは、予定より三日ほど早い週末のこと。
 事務所にきてほしいと言われ、以前と同じように徒歩で事務所へ向かったミレイユは、相変わらず愛想のいい笑顔を浮かべるボルドーに「おめでとう」と言って迎えられた。
「あなたと結婚したいという人物が無事に見つかりましたよ。その人物は昨日のうちに、あなたのお父様がこしらえた借金を全額返済してくれました。こちらはその証明書類です」
 ミレイユは息を呑んで書類を受け取る。そこには確かに、利子も含め、全額が一括で返金された旨がしたためられていた。
「あれだけの金額を一括で……」
 いったいどれほどの資産家なのだろう。ミレイユはごくりと唾を呑み込んだ。
「わたしの顧客の中でも、かなりの資産家なのは間違いありません。将来性もありますし、結婚相手としては最適だと思いますよ。貴族でないという点以外はね」
 黙って書類を見つめるミレイユに微笑みかけ、ボルドーは懐中時計を取り出した。
「さて、その彼なのですが。なるべく早く結婚式を挙げたいということで、こちらに使いを寄越すことになっております。わたしの役目は花婿を探すことまでですので、これでお別れですね。あとはそちらで頑張ってください」
「え、使い? まさか、今ここにくる予定なの?」
 なんの心構えもしていなかったミレイユは、急な展開に目を白黒させる。
 噂をすればなんとやら、ノッカーが高らかに鳴らされる音が響いてきた。受付の女性がすぐに応対に出て、一人の紳士を連れてくる。
「時間通りでしたね。こちらが例の伯爵家のお嬢さんになります」
「承知した。ではご令嬢、ご足労願います」
 帽子を軽くあげて挨拶した気難しそうな紳士は、手袋をはめた手で「こちらへ」と促してくる。
 ミレイユは羽織っていたレース編みのショールをぎゅっと掴んでから、紳士について歩き出した。
 商会の前には馬車が停まっている。黒塗りの立派な馬車だ。ミレイユはいやな鼓動を打つ心臓をなだめながら、見送りに出たボルドーに軽く頭を下げた。
「今回はお世話になりました。できれば、もう我が家とは関わっていただきたくないけれど」
「留意しておきますよ」
 軽く肩をすくめるボルドーを一睨みして、ミレイユは紳士のエスコートで馬車に乗り込む。
 馬車の座面には贅沢にビロードが張られており、沈み具合も申し分なかった。足も充分に伸ばせる広さがあり、やはり資産家は持ち物も違う、と妙に感心してしまった。
「急ぎのことで申し訳ありません。わたしはあなたの結婚相手となる方の秘書をしている者です。以後、お見知りおきを」
「ミレイユ・アストリーです。どうぞよろしく。……あの、あなたのご主人はどのような方なのか伺っても? ボルドーさんはなにも教えてくださらなかったから」
「あいにくわたしは、あなたをお迎えに上がることしか命じられておりませんので」
 秘書というその男は、丁寧な口調ながらバッサリと返してくる。なにを聞いても同じ答えを言われそうだと思って、ミレイユは「そう」と頷き、座席に身を沈めた。
 馬車は軽快に町中を走っていき、王都の中でも一等地にほど近い区画に入っていく。アストリー伯爵家は王都とは言っても外れのほうにあるから、ここまで王城に近いところへやってくるのは初めてのことだ。
 どの建物もきらびやかで洗練されている……ミレイユがそう感じ始めた頃、馬車はとある店舗の前で停車した。
 どうやらこのあたりはショッピング街らしい。ドレスや宝石、靴や小物を売る店がひしめきあっている。
 馬車が停まったのはその中でもひときわ大きく、存在感のある店舗の前だ。看板には『金の女神』と店名が刻まれている。
(『金の女神』……! ここ数年で大人気になった、美容総合商社ね)
 ――ドレスや化粧品を扱う店は多々あれど、それらすべてを扱う店というのは、これまで存在しなかった。
 ほとんどの店が専門職としてそれらを別々に売るのに対し、『金の女神』は総合商社というだけあって、ドレスも靴も帽子も小物も、貴婦人が必要とするものをすべて扱っている。
 専属の化粧師や美容スタッフも抱えており、ドレスを仕立てる段階から実際に着付けるまでを、すべて同じ一つの店でまかなえるのだ。
 身一つで訪れても、お金さえ出せば、たった数時間で舞踏会に出席できる装いに仕上げてもらえる――その特異なスタイルは口づてに人気を呼び、今や知らぬひとはいないほどの大評判になっていた。
 古くから社交界に出入りしている家なら、お抱えのドレス商や宝石商がいて、化粧も使用人にやってもらうのが当たり前だ。
 だが時代は進み、これまで社交界に出入りを許されていなかった中流階級出身者や、新興貴族たちも、そういった場に顔を出す機会が増えてきた。
 お抱えの店や、化粧や着付けの技術を持つ使用人がいない彼らにとって、『金の女神』が提供するサービスは、大変魅力的に映ったのである。
 そのため、『金の女神』の顧客は主に、新興貴族や富豪、実業家の奥方たちだと言われていた。
(わたしの結婚相手も、やはりそういう階級に位置する方なのかしら……?)
 ミレイユの脳裏に、ブランデー片手に葉巻をくゆらせ、幾多の愛人を『金の女神』で着飾らせて悦に入っている柄の悪い男の絵が浮かぶ。
 実際にそういう人物がやってきても驚かないようにしなければ、と覚悟を決めて、ミレイユは秘書について、きらびやかな店舗の敷居をくぐった。
「――ようこそ『金の女神』へ! アストリー伯爵家のお嬢様ですね。ご来店をお待ちしておりました」
 店舗の奥へ奥へと案内されると、華やかな雰囲気の女性が軽く両腕を広げて出迎えてくれた。
 艶やかなワインレッドの髪が実に目を惹く女性だ。キリッとした目元と赤く紅を引いた口元が、気の強そうな印象を与えてくる。
 だが着ている藍色のドレスは、上品ながらもハッと目を惹くデザインで、カタログから抜け出してきたかのように洗練されていた。
 秘書が「ではわたしはこれで」と去っていくと、彼女はすかさずミレイユに歩み寄ってくる。
「初めまして。わたしは『金の女神』のデザイナー兼美容部門の部長で、ファビエンヌ・グローサと申します。どうぞお気軽にファビーと呼んでくださいな。堅苦しいのはあまり好きではないの」
 女性はにっこりと優しげに微笑む。ハキハキとした口調といい、親しげな言葉といい、まさに『働く女性』という感じがした。この頃は女性の社会進出も大きな話題となっているが、彼女はまさにそういう女性の筆頭なのだろう。
「初めまして、ミレイユ・アストリーです。あの、さっきの秘書の方に、こちらに案内されたのですが」
「ええ、聞いているわ。大丈夫、そんなに緊張しないで。わたしに任せて、どーんと大船に乗ったつもりでいらっしゃい!」
 自分の胸元をドンッと叩いて、ファビエンヌなる女性は「さ、こっちよ」とミレイユを手招いた。
「本当はあなたのお顔を見てからデザイン画を描きたかったのだけど――あの男ときたら『結婚式は一週間後にする』とか言うの! まったく、いやになっちゃうわよね。女にとって結婚式は一生に一度の晴れ舞台なのに――というわけだから、すでに完成している既製品からウエディングドレスを選んでもらうことになるわ。どうかそれを許してね」
 ……すっかり気安い口調になったファビエンヌの言葉から察するに、ミレイユの結婚相手と彼女は、気心の知れた仲らしい。そうでなければ、花嫁のウエディングドレスを注文した顧客を『あの男』呼ばわりはできないだろう。
(そしてわたしは、そのウエディングドレスのサイズ合わせのために急いで呼ばれた、ということね)
 挙式が一週間後なら、いきなり連れてこられたのも頷ける。
 既製品のドレスとは言え、細かいサイズ合わせは必要だし、それに合う小物も選ばなければならないのだ。一週間あっても足りるかどうか……
 とにかく、さっさとやろうということで、奥に控えていたお針子らしき女性たちが集まってくる。彼女たちの手を借りながら古いドレスを脱ぎ、下着姿になったミレイユは、さっそくあちこち採寸された。
(母のドレスを直すときは自分で測っていたから、誰かに採寸してもらうなんて、母が生きていたとき以来ね……)
「既製品のドレスとは言っても、まだ発表していないから新作とほぼ変わらないわ。すべて当店一番人気デザイナーのわたしが生み出したドレスよ! 希望のデザインはある? わたしはこれなんかどうかと思っているんだけど」
 トルソーに着せられたドレスの中から、ファビエンヌは一着をずいっと前に出してくる。
 スカートを膨らませたタイプのドレスだ。昔は硬い鯨(げい)骨(こつ)を入れて膨らみを作っていたそうだが、今は薄く軽いパニエを重ねることで、不自然ではない柔らかなカーブを作り出しているという。
 肩はオフショルダーになっており、袖から胸元まで繊細なレースで飾られている。花模様の緻密なレースに、ミレイユは自然と目を引き寄せられた。
「形は古風だけど、あなたは背があまり高くないから、流行りのマーメイドラインのものは合わないと思うの。でも首がほっそりしている上にこのラインがとても綺麗だから、オフショルダーが絶対に合うと思うのよねぇえええ!」
 このライン、と言いながら鎖骨のあたりを撫でられ、ミレイユは思わず跳び上がりそうになる。同性とはいえ、誰かに肌をさわられるのも久々の体験だった。
「ハイネックもいいとは思うけど、この頃は気温がぐんと上がってきてるから暑いでしょう。着慣れないドレスに緊張してたくさん汗を掻いた挙げ句、あせもになったら最悪だから、襟は開いているタイプのほうがいいわ」
「あの、このドレスで結構です。他の二つはマーメイドラインドレスとAラインドレスなので、背が低めのわたしには合わないかと」
「そうねぇ。デザイン次第でどうにでもできるところもあるけれど……でも、確かにわたしも、あなたにはこのドレスが一番似合うと思うわ。顔の作りが可愛い系だから、華やかなドレスが映えるのよ」
 トルソーから脱がせたドレスをミレイユの胸元にあてがい、ファビエンヌは重々しく頷く。
 口元こそ笑みを浮かべていたが、その瞳は真剣そのものだ。ミレイユはつい背筋を伸ばした。
「よし、これでいきましょ! 採寸は終わったわね? じゃ、とりあえず着てみてくれる? 髪型なんかも決めちゃいましょうか!」
 ファビエンヌの指示を受け、お針子たちがテキパキと動き出す。下着も新調しようという話になり、一度裸になったミレイユはコルセットを締めるところから着付けてもらった。
 幸い、ウエディングドレスは今の状態でもほぼぴったりだった。肩の部分を少し調整するのと、胸元を整えれば大丈夫だそうだ。
「見た目より胸が大きいのねぇ。なのにウエストがこんなに細いなんて、うらやましいわ! 普段からダイエットに励んでいるの?」
「え? えーと」
 粗食続きなので自然と痩せていったというのが本当のところだが、さすがにそれを口にするのは憚(はばか)られる。
 だがミレイユの沈黙を都合よく捉えて「いいの、いいの。言いたくなければそれで」とファビエンヌはにんまり笑った。
「どのお嬢さんにも一つや二つ、独自のダイエット法があるのは当然だものね。それを秘密にしておきたい気持ちはよぉくわかるわ。下手に喋って真似された挙げ句、その子が自分よりスタイルがよくなったら本当に面白くないもの! わかるわぁ~」
「はぁ……」
「とにかく直しがあまり必要じゃないのは助かるわ。挙式まで時間がないし……にしても、まったく。ホントになにを考えているのかしらね、うちの社長は。そりゃあ新作のウエディングドレスを宣伝したい気持ちはわかるわよ。でもモデルは自分の奥さんで、発表会場は自分たちの結婚式、なんて、頭の中どこまで商売一色なんだか」
 ウエディングドレスをチェックしながら、ファビエンヌが大げさにため息をつく。一方のミレイユは彼女の言葉にぎょっと目を見開いた。
「ちょっと待ってください。わたしの結婚相手って、こちらの社長さんなんですかっ?」
「そうよぉ。聞いていなかったの?」
 ファビエンヌも驚いた様子で目を瞬かせる。ミレイユは驚きの表情のまま頷いた。
 だが、あり得ない話ではない。『金の女神』の業績はうなぎ登りだ。顧客のほとんどが富裕層なだけに、経営者である社長自身も相当の資産家であるのは間違いないだろう。
 平民出身であるなら、爵位を欲しがるのにも納得がいく。単純に貴族を名乗って社交界に出入りしたいのかもしれないし、そこで新たな顧客を得ようという魂胆があるのかもしれない。
(もし後者なら、なんというか、抜け目のないひとなのでしょうね)
 爵位を買っただけで満足する富裕層は多いのだろうが、それを足がかりにさらなる仕事に繋げようとする人間はそう多くはあるまい。
 新作のウエディングドレスを宣伝のために花嫁に着せようと考えるくらいだ。商魂たくましいことは間違いないだろう。
「社長がどういう男か気になってきた?」
 じっと考え込むミレイユを見やって、ファビエンヌがニヤニヤと問いかけてくる。
 自社の社長を『あの男』呼ばわりするくらいだ。彼女はきっと長いことその男と働いてきたのだろう。
 そう思うとちょっと面白くないものを感じたが、それを表に出すのは無作法である。ミレイユは淡々と答えた。
「気にならないと言えば嘘になります。でも、自分自身が感じる第一印象を大切にしたいので、今はなにも聞かないでおこうと思います」
 拍子抜けしたのか、ファビエンヌは「あら」という表情で目を瞬かせる。なにか言いたげに口を開きかけるが、それを遮るように、扉がバンッ! と音を立てて開かれた。
「さすが、莫大な財産を使い果たす高慢なお貴族様の言うことは、平民とは違うな」
 ミレイユもファビエンヌも、作業をしていたお針子たちでさえ、ハッと顔を上げて扉を振り返る。
 そこに立っていたのは、シンプルながら上質な仕立ての背広(ラウンジスーツ)を着込んだ、背の高い黒髪の青年だった。
 片方の眉を吊り上げ、いかにも不機嫌という面持ちでこちらを睨んでいるが……その厳しい表情が様になる鋭利な美貌にこそ、ミレイユの目は釘付けになる。
(格好いい……)
 胸に浮かんだその一言に、ミレイユはハッと我に返った。
 よりにもよって、第一印象が『格好いい』なんて。
 確かに彼は背が高くすらっとしている。上質な背広はセンスもよく、なにより似合っているし、整髪剤で整えた黒髪も艶やかで、顔立ちも鑑賞に値するほど整っているが……
(……花嫁に向ける台詞としては、あんまりよろしくないことを言っていた、わよね?)
 確か、彼はミレイユのことを『高慢なお貴族様』と呼んだ。
 衣装合わせの場にノックもせずに入ってきた上、ウエディングドレス姿のミレイユのことを、上から下まで穴が空くほど見つめてきているのだから……
(少し……いや、かなり、失礼よね?)
 おまけに長々と見つめていた割に、「ふん……」と鼻を鳴らすような声を漏らしてくるし。
(いったいどういう意味の『ふん……』なの?)
 ――金で買った花嫁が好みじゃなくてがっかりした、とか。
 ありえないことではなさそうだ。ミレイユは肩を落とした。
 彼女のほうは、彼を一目見た瞬間に『格好いい』と思ってしまったのだ。別に勝負をしているわけではないが、なぜか『負けた』という感情が湧き上がってくる。
 とにかく一応確認しておこう、とミレイユは彼に向き直った。
「ごきげんよう。あなたがこちらの社長さんですか?」
「……相手のことを聞く前に、まず自分から名乗ったらどうだ?」
 つっけんどんに返され、ミレイユは少しむっとする。が、相手の言葉はもっともなので「失礼しました」ととりあえず殊(しゅ)勝(しょう)に謝った。
「アストリー伯爵家のミレイユと申します。以後お見知りおきを」
「……貴族らしい、すかした挨拶だな。結婚相手の前なのだから、もう少し愛想よくしたらどうだ?」
 どこまでも喧(けん)嘩(か)腰(ごし)に言われて、ミレイユも腹が立ってきた。だが初っ端から険悪な雰囲気になるのはよろしくない。
 大人にならなければ、と彼女はにっこり微笑んだ。
「おっしゃるとおりですわ。このたびはわたしとの結婚を決めていただき、ありがとうございました」
「笑顔が引き攣(つ)ってるぞ。無理な愛想笑いには反吐(へど)が出るな」
「……」
 ――そっちが『愛想よくしろ』って言ったのでしょう!
 と、叫ばなかった自分を褒めてやりたい。ミレイユはかろうじて笑みを浮かべ続けた。
「ふん、まぁいい。こっちも打算あっての結婚だ。いいか? この結婚の目的はあくまで爵位を手に入れることと、それに付随する特権を得ることにある。おまえに惚れたからではないことはよくよく肝に銘じておくように」
 ぴっ、と指先を突きつけられて念を押される。わかっているわよ、とミレイユは心の中で「べっ」と舌を出した。


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