書籍詳細
未亡人聖女〜無垢な巫女は愛の深さを思い知る〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/11/13 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
『未亡人で聖女』
昔々、誰のどんな望みでも、思うように叶った時のことでございます。
真っ暗な瞼(まぶた)の裏で、星がチカチカと瞬いていた。
(ああ……まぶしい……)
目を閉じているはずなのに、突き刺すような刺激で、目元が震える。だが痛みと同時に、今この瞬間、待ち望んだ目覚めの時が来たことを、桐(きり)ケ(が)谷(たに)朔(さく)は理解していた。
(一年なんて、本当にあっという間ね……)
そんなことをぼんやりと考えながら、朔は両手に力を込める。
朔は日(ひ)ノ(の)本(もと)――冥(めい)慈(じ)政府によって任ぜられた、国を守るために存在する祈りの巫女(みこ)だ。
本来この国に訪れる荒(あら)魂(みたま)という災厄を、己の身の内側に封じ、眠りとともにそれを癒し、鎮め奉(たてまつ)る。
巫女の役目は、生涯にただ一度きり。
巫女になるために生まれ育てられた朔は、たった今その役割を全うして、目覚めようとしていた。
巫女にとって『祈り』は『死』に近い。他人から見ればただ眠っているように見えても、過去には、荒魂を鎮めることができず、力尽き、目覚めないまま命を落とした巫女も多くいるという。
(よかった……私は生きている……)
手の甲から指先に向かって脳内で指を開いていくと、脳からの命令に従って、肩や二の腕にも力が流れ始める。手、足、そして首――。呼吸とともに少しずつ眠っている体を揺り動かしていると、沼の奥深くに沈んだ体が、ゆっくりと浮上していく感覚があった。
「は……」
次に声を出そうとしたが、唇からは息が漏れるだけで、なかなか音にはならない。
仕方なく無言のままジワジワと上半身を起こすと、ちりん、ちりんと上品な鈴の音が響いた。天蓋を支える寝台の柱から、白衣と緋袴(ひばかま)という巫女装束(しょうぞく)に身を包んだ朔の両手足に、赤い紐が括(くく)り付けられている。
紐には小さな鈴が縫い付けられていて、それが朔が体を動かすたびに、涼やかな音を響かせるらしい。おそらく巫女に異変が起こった時に、世話役に知らせるためのものなのだろう。
それから間もなくして、ドタバタと遠くから、廊下を走ってくる音が聞こえた。
(忠(ただし)さまが、迎えに来てくださったんだ)
約束の一年のお務めを果たしたら、すぐに結婚しようと約束した、許嫁(いいなずけ)の佐伯(さえき)忠のことを思い出し、胸がざわめく。
ひんやりと冷たかった体にぬくもりが戻り、温かい気持ちに包まれる。
(忠さまは、私がいない間も、お元気に過ごされていただろうか)
朔の許嫁である忠は、政府の要職に多く名を残す名門、佐伯伯爵家の嫡男だ。
年は朔より八つ年上の二十六歳。東(とう)京(きょう)帝(てい)国(こく)大学を卒業した後、大蔵(おおくら)省に入省したエリートで、誇り高い青年だ。朔の巫女としての力をなにより大事にし、認めてくれる男だった。
「朔様……!」
バタンと出入り口のドアが開いて、女性が数人なだれ込んでくる。彼女たちは朔が育った桐ケ谷の使用人の装束を身に着けていた。見慣れた姿に、朔はホッと胸を撫で下ろしつつ、笑みを浮かべる。
「みんな……」
自然と朔の顔がほころぶ。
無事、自分は一年のお務めを果たしたのだ。生まれてこの方ずっと、俗世とかけ離れた生活をしていた朔にとって、家族をもつというのは夢物語だった。だからこそ朔は彼との結婚に夢を見ていたし、期待も大きかった。
胸の奥からじわじわと込み上げてくる喜びの中、朔は彼女たちの中に、忠の姿を探したが、残念ながらこの場にはいないらしい。
(来てくださると思ったのに……)
一瞬、気落ちした朔だが、
「朔様、さっ、朔様がお目覚めになった……!」
「なんということでしょう!」
「はよう、桐ケ谷へ連絡を!」
血相を変えた女性たちが、寝台の上でぼうっと座っている朔を取り囲んで、大騒ぎをし始める。朔は大きな目をぱちくりさせながら、彼女たちの顔を見回した。
「どう、した、の……?」
うまく声が出ないが、なんとか声を絞り出す。
彼女たちは朔の目覚めを喜ぶというよりも、ひどく動揺しているようだ。
朔は巫女である。日ノ本という小さな島国を守るために、星に選ばれ、役目のために育てられた。今、自分が目覚めたということはこの国に降りかかっていた災厄を、無事鎮めたということに他ならないはずなのに、皆の様子はどこかおかしい。
「ねえ……」
なにかまずいことがあったのかと、口を開こうとしたところで、
「十二年、十二年もお眠りになって……! もうお目覚めにはならないものと、諦めておりましたぞ!」
ひとりの老女が、滝のような涙を流しながら朔をかき抱き、朔は硬直してしまった。
「え……?」
老女は眠りにつく前、朔の世話役を務めていた松(まつ)生(き)という女性だ。その姿に見覚えはあるが、ずいぶんと老けている。白髪交じりだった髪は真っ白になり、顔にしわが増えていた。
そんな彼女が口にした『十二年』という単語に、朔は耳を疑った。
「じゅう、に……ねん、って。そんなの、うそ……でしょ……」
もしかしてまだ自分は眠っていて、恐ろしい夢を見ているのではないか。そうでなければ、一年の眠りのはずが十二年も経っているなんて、とても信じられない。
「嘘ではございませぬ。朔様が眠りにつかれてから、十二年が過ぎたのですよ!」
別の侍女がそう言って、それから朔の手をぎゅっと握りしめた。
「あれから十二年、経っているのです……!」
彼女たちの温かい手はまさに現実のもので、とても幻とは思えない。
(本当に……? 十二年……十二年……も、私は眠りについていたの……?)
衝撃のあまり、全身からサーッと血の気が引いていくのがわかる。
では自分の許嫁はどうなったのか。
役目を終えた後、家族になることを誓った許嫁は、今どうしているのだろう。
「たっ、だ、し……さま……は?」
なんとか気力で声を絞り出すと、松生が顔をあげて、首を振る。
「残念ですが……六年前……お亡くなりに……」
「――っ……」
朔の喉からひゅうっと息が漏れた。目の前が真っ暗になり、体から力が抜ける。
(やはりこれは夢だ……夢なんだ……)
こんなことが現実であっていいはずがない。
「あ……」
朔は軽く悲鳴をあげると、そのままプツッと糸が切れるように、意識を失っていた。
『美貌の女子爵』
「瑞(ずい)香(こう)の宮、おな~りぃ~」
小姓の少年の声とともに、中川(なかがわ)侯爵家の洋館の扉が、仰々しく左右に開けられる。
開け放たれたドアの奥へと足を一歩踏み入れると、天井から吊り下げられたシャンデリアのまばゆいばかりの光が目に飛び込んできた。同時に招待客の好奇の目が自分に注がれている気がして、朔は思わず逃げるように目を伏せる。
(私、やっぱり場違いだわ……)
人から注目されると臆してしまう。息が止まりそうになってしまう。こんな態度では、ここへ送り出すために朔を美しく着飾ってくれた、世話役の侍女たちから叱られてしまうのはわかっているが、いつまで経っても慣れそうにない。
一番年かさの松生は、今でも『桐ケ谷の巫女』という役目を大変誇りに思っていて、ことあるごとに『そのように自信なさげでは困りますぞ! あなたは桐ケ谷の巫女、帝(みかど)にすら頭を下げなくてもいい、尊い御方なのですぞ! もっと胸を張りなされ!』とうるさいのだ。
いくらその身が尊いと言われても、実感はない。すでに役目を果たし終えた自分は、巫女ではなく、ただの人だ。
だが長すぎる十二年の月日が、朔を普通の存在には戻してくれない。
桐ケ谷の千年に及ぶ長い歴史上においても、十年以上の眠りはかなり珍しいらしく、五十年もの間、桐ケ谷の巫女に仕えてきた松生も聞いたことがないという。それゆえに大変な役目を果たしたのだと、松生含め、周囲が朔を必要以上に崇(あが)め奉っているのが、窮屈で仕方ない。
(気が付けば十二年経っていただけで、私には覚悟なんてなかった……)
本来、自分はそんな立派な人間ではない。こういう場に出ると、人々のまっすぐな称賛が身に刺さって、うまく息ができなくなりそうになる。
(ああ……まぶしい……)
朔が長い眠りから目覚めて、すでに半年が経過しているが、いまだにこの世に体が追いつかない。
馬車に長い時間揺られるのも得意ではないし、そもそも上半身をきつく締め上げて着る夜会服のドレスも、髪を引っ張り上げて仰々しく結われる夜会巻きも、まったく好きになれない。許されるなら慣れた木綿の着物を着て、気に入った本でも読んでいたいくらいだが、朔の立場がそれを許してくれない。
(これもお務め……お仕事だから……)
長らく引きこもっていた朔だが、今日の夜会の招待客は中川侯爵だ。今回ばかりはむげに断れる相手ではないと周囲から助言され、イヤイヤながらやってきた。
シャンデリアの下、人々の視線を感じながらゆっくりと螺(ら)旋(せん)階段をのぼり、舞踏会が行われている二階の大広間へと向かう。
一歩一歩、転ばぬようにと足元に気を付けているだけだが、見ようによってはそれが優雅に見えるのかもしれない。腰まである艶やかな黒髪を結い上げ、深紅の薔薇を思わせるドレスを身にまとった朔がホールに姿を現すと、一斉に会場が色めき立った。
「瑞香の宮様! よくぞいらっしゃいました!」
人々の輪から、夜会の主催者である中川侯爵の妻――万喜子(まきこ)が、キラキラとした笑顔で近づいてくる。さすが侯爵夫人というべきか、優雅な所作で、ドレスの裾をひらめかせながら朔のもとにやってくると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「お目にかかれて光栄ですわ!」
「万喜子さま、本日はお招きありがとうございます」
朔もかつて教えられたように優雅に挨拶を返し、それから万喜子に伴われて、彼女の夫のもとへと向かう。
「わたくし、瑞香の宮様には、ずっとお会いしたいと思っていましたのよ。だから夫に甘えて、夜会にご招待してくださいって、お願いしましたの」
万喜子が朔を見つめて瞳を輝かせる。その瞳の光は純粋な好奇心で満ちている。裏表のない、表情の豊かな女性のようだ。
「もったいないお言葉です」
朔ははにかみながら、首を振る。
『瑞香の宮』というのは、叙(じょ)爵(しゃく)にあたって帝が朔に与えたふたつ名だった。
『不死』『不滅』を意味する沈丁花(じんちょうげ)の別名から、朔は瑞香の宮と呼ばれることになった。
御簾(みす)越しにそのお姿を拝見しただけの冥慈帝の気持ちなど、朔にわかるはずもないが、実際、『不死』も『不滅』もただの言葉遊びとしか思えない。
たった一年のはずの祈りが、十二年も経っていた。その間に許嫁だった男は死に、朔は年を取らず十八歳のまま目覚め、今はただ茫然(ぼうぜん)と日々をやり過ごして生きているだけだ。
(こんな情けないことがあるかしら……)
お役目も、将来の展望も、なにもなくなってしまった朔は、そう自分を評さずにはいられない。
「まぁ、ずいぶん謙遜(けんそん)なさっていらっしゃるのね。帝都では、大手新聞から大衆雑誌まで、あなたの話題で持ちきりだっていいますのに」
万喜子は三十代半ばくらいだと聞いているが、かつては新橋(しんばし)で一、二、を争う美貌の芸妓だったという。先妻を病気で亡くした侯爵が馴染みの芸妓を見受けした形だが、二回り年が離れていても夫婦仲は非常によく、ふたりの間には子供もいるらしい。
「しかも、あなたの髪には霊力が宿っていて、持っていると幸運に恵まれるとか」
「えっ……?」
巫女の髪に霊力が宿るなど聞いたことがない。
「そんな力、ありません」
慌てて否定したが、戸惑う朔を見て、万喜子は楽しそうに笑っていた。
「ふふっ……。すっかり信仰の対象になっていらっしゃるみたいね。こんなにかわいらしい方ですのに」
おそらく彼女もそんな噂など、信じていないのだろう。思わず本気で否定した自分が子供っぽく思えて、朔はしおれるようにうなだれた。
「いえ……。本当にお恥ずかしいことです」
祈りを終えた自分には、もう特別な力など宿っていない。
うら若き乙女の身でありながら、自身の結婚よりも国の平穏のために祈りの眠りにつくことを選んだ巫女――世にも美しい瑞香の宮。十二年の祈りのあと目覚めた朔は、国の宝だ、聖女だなんだと褒めそやされ、朔を夜会に招待することは華族たちの格式基準になっているらしい。
「あなた。瑞香の宮様がいらっしゃったわ」
万喜子が声をかけた先には、立派な髭(ひげ)を蓄えた燕(えん)尾(び)服の侯爵が、友人たちと歓談している。
中川侯爵は若かりし頃に幕末の志士として名を馳(は)せ、現在は政府の要職にもついている元勲(げんくん)だ。
「おお、これはこれは」
侯爵は目を輝かせながら朔へと向き合い、恭しく一礼する。
「巫女としてのお務めを無事果たされ、帝から爵位を賜(たまわ)り、女子爵になられたとか。おめでとうございます」
「ありがとうございます。身に余る栄誉をいただきまして……」
「なにをおっしゃる。本来なら伯爵夫人になっていたあなたです。当然でしょう。お役目を全うされた今世では、ぜひ夜会に咲く美しい花として、我々の目を楽しませていただきたいですな」
「ま! あなたったら本当に美人に弱いんだから」
万喜子は頬を膨らませて、夫の燕尾服の胸のあたりを手のひらでぱちんと叩く。
それを見て周囲の貴人たちは、「仲がよろしいことで」と笑い声をあげる。
親子ほど年の離れた夫婦だが、軽口をたたきあう様子は仲睦まじい。
そんな姿を見ていると、自分には決してもてない、ささやかでなんということもない夫婦のやりとりに、胸の奥がぎゅうっと締め付けられ、目がくらみそうになる。
(ああ……家族……。私はもう二度と手に入れられないもの……)
だが帝から名を頂戴(ちょうだい)し、聖女と呼ばれる自分が、そんなことを口にできるはずがない。
嫉妬を押し隠しながら周囲に合わせて微笑んで、朔はじっとふたりを見つめることしかできなかった。
それから朔は、求められるがまま名のある華族たちとダンスを踊った後、外の空気に当たりたいと言い訳をして、テラスへと向かう。
侯爵夫婦には供をつけると言われたが、遠慮させてもらった。
政府の要人である中川侯爵の夜会に、不届き者などいるはずがない。
そう言ってひっそりと退席する朔の後ろ姿を、夜会の列席者たちは、遠目ながら憧れに満ちた目で見つめる。
十二年眠りについていた桐ケ谷の巫女。
朔にはその逸話とともに人を引き付ける確かな魅力があるのだ。誰もが彼女を熱っぽい眼差しで、見つめずにはいられない。
「あれが『桐ケ谷の巫女』か……。確かに尋常でない雰囲気があるな。まるで絹と真珠でできた人形のようではないか」
侯爵の友人である財閥の長が、どこか熱に浮かされたようにつぶやく。
彼の言う通り、朔は美しかった。
白く輝く小さな顔には、青みがかった白目に、吸い込まれそうな漆黒の瞳がはまっている。上品な鼻筋に赤くて小さな唇。完ぺきなバランスの上になりたつ顔立ちを再現しようとしても、名のある人形師でも真似できまい。
その奇跡のような顔を支える、ほっそりとした首は、優雅な曲線を描きながらまろやかな肩へと続き、信じられないくらい細い腰へと繋がっている。癖のないまっすぐで艶やかな黒髪は、たっぷりとしていて、ほんの少しの乱れもなく結いあげられている。あの髪をほどいて、乱してみたいと思わない男がいたとしたら、その男は聖人君子か不能に違いない。
だが、彼女は普通の身分の女ではない。
十二年の長きにわたる祈りの功績を、帝に認められ叙爵された女子爵だ。
帝が特別に目をかけた、聖なる女に声をかける男などいない。いるとしたら、彼女が何者か知らない男だけだろうが、今や帝都の話題を独占している朔を知らぬ者はおらず、わが身かわいさに、遠巻きに見守るか、話のタネにとダンスを一曲申し込むのがせいぜいだ。
「桐ケ谷の巫女は眠りにつく間、この世の理(ことわり)から外れると聞いたことがあるが、その通りだな。あの美貌、十二年の間、時が止まっていたというのも本当なんだろう。まさに聖女だ」
侯爵は美しく整えた髭を指でこすりながら、うなり声をあげる。
「そうねぇ……。本当に不思議な雰囲気を持つ美しい方だわ。あやかりたいと思うけれど、お務めを果たして目覚めたら夫となるべき人が死んで、未亡人になっているなんて、わたくし、とても耐えられそうにないわ」
万喜子はそう言って、甘えたように夫の腕に軽く触れる。
「ああ……そうだな」
侯爵はうなずきながら、この場からいなくなった朔の後ろ姿を思い浮かべた。
千年以上昔から、日ノ本を霊的に支え守る『桐ケ谷』の一族。その桐ケ谷で育てられたのが、『桐ケ谷の巫女』だ。代々の桐ケ谷の当主が星見で選び、国中から集めた少女たちである。
桐ケ谷の巫女はどんな存在か。国の行く末を日々占っている陰陽(おんみょう)省の人間なら、彼女たちがどんなものか知っているだろうが、政府のそれなりの要職についている侯爵たちでも把握していない。
だが『桐ケ谷の巫女』は人にあって、人にあらず。
生まれてすぐに親から引き離され、国から命じられればどこにでも行き、その身を神に捧げる。言葉を尽くしたとしても、その本質は人(ひと)身(み)御(ご)供(くう)だ。
その昔、日照りが続いた時に、若い娘を龍神に生贄(いけにえ)として捧げたという寓話と、なにも変わっていない。非現実的でおぞましい、過去の因習だと侯爵は考えていた。
彼女たちは陰陽省にうまく使われている、ただの駒(こま)でしかない。そのほとんどが役目を終えればそれまでだ。家と金を与えられて、あとはつつましやかに暮らすことを強要する。
瑞香の宮は十二年のお務めの長さで帝に目をかけられたが、それだけだ。
哀れと思うことはあっても、彼女たちと深くかかわる気にはなれない。
若かりし頃、刀と知力で幕末を駆け抜けた侯爵は、自分にもたれかかる妻を見て、その人らしいぬくもりを愛しく思った。
「なんにしろ、我々下界の人間には、縁遠い御方だな」
妻の肩を抱き、フロアの中央へと向かうと、それきり朔の存在をさらりと忘れてしまっていた。
「はぁ……」
一方、自分がそんなふうに話題にあがっていたこともつゆ知らず、朔は深いため息をつき、バルコニーの手すりにもたれかかり、涼を取っていた。
たとえ世間が自分をほめそやしてくれたとしても、朔の心にはなにひとつ響かない。
物心ついた時から特殊な環境で育ち、世間とは隔離されていた。社会的な教養や常識は、佐伯忠との婚約が決まり、眠りにつく前の一年でなんとか身につけたものだ。
(私は、人として劣っている。世間の当たり前のことがわからないし、理解もできない……人の心の機微もわからない……)
コルセットでぎゅうぎゅうに締め上げたドレスには熱がこもっていて、宝石で飾られた髪も重かったが、広大な庭の間を通り抜ける夜風は涼しく、火照(ほて)った体を冷やしてくれた。
春が終わり、そろそろ梅雨の時期だ。
季節の移り変わりは肌で感じているが、時折まだ夢を見ている気分になる。
実際、朔にとって、眠りについたのはほんのひと時のことだった。
今でもまだ、あれから十二年経ったということが、信じられない。
〝ほんのひと時〟というのは、朔に眠りにつくように告げた佐伯忠の言葉だ。
【なぁに、眠るのはたった一年。ほんのひと時のことだ。次に目を覚ました時、君は伯爵夫人だよ】
伯爵夫人という身分などどうでもいいと思っていたが、夫となるべき人とその両親に、『国のために、今すぐ祈りの儀についてほしい』と言われれば、そうするのが自分の役目だと思った。
すぐに五穀を断ち、精進潔斎(けっさい)し、佐伯家が用意した屋敷で祈りのための深い眠りについた。
(荒魂を鎮める。それが私に与えられた役目だったから……)
国を治める帝を陰から霊的に支え続けているのが、朔が育った桐ケ谷一族である。
一族と呼んでも、巫女たちに血の繋がりはない。
代々の主(あるじ)が星見の結果、日本中のどこかに生まれてくる赤子を、桐ケ谷の一族と定めて迎えにいく。桐ケ谷が決めてしまえばそこに拒否権はなく、どんな身分であっても、引き取られた赤子は巫女として、育てられることになる。
朔は東北の小さな漁村で生まれたらしいが、当然その頃の記憶はない。
生まれてすぐ、乳を与えられるよりも早く政府の役人がやってきて、そのまま朔は桐ケ谷家へと召し上げられたらしい。
だが桐ケ谷の屋敷にいる巫女は、朔ひとりではなかった。日本中からそうやって集められた少女たちが、屋敷には何十人もいて、しかるべき教育を受けた後、それぞれがお役目を頂戴して、桐ケ谷家を出ていくことになる。
ある者は九州(きゅうしゅう)へ、またある者は海を渡った琉球(りゅうきゅう)へ。
その土地の荒魂を鎮め奉るために、祈りの眠りにつく。
朔は十七になる頃、政府の要人を多く輩出している、佐伯伯爵家の嫡男の妻になることが決まった。
佐伯家は、帝が東京に都を移した時、京の都から一緒にやってきた、由緒ある十二の貴族のうちのひとつである。天門――魑(ち)魅(み)魍(もう)魎(りょう)や怨霊が出入りするといわれる、北西の方向を守る役目を与えられている。
この国には、帝都だけではなく、地方地方に、霊的に日ノ本を守るお役目を持つ家がある。当然、朔は巫女としての力が求められたわけだ。
桐ケ谷の巫女が結婚するというのは珍しいが、相手はただの人ではない。なにより桐ケ谷のお館様がそれを『是』としたのなら、従う以外ない。
嫁入りは朔が十八歳になってからと決まった。
それまでの一年、佐伯家と桐ケ谷家を行ったり来たりして、華族らしい行儀見習いを学びつつ、佐伯家と交流を深めていたのだが、ある日突然、天門を脅(おびや)かす災厄が降りかかることがわかり、朔は婚姻よりも先に、役目を果たすことになったのだ。
(そう……だから、私は与えられた役目を果たしただけ)
佐伯家の当主と嫡男である忠に、『天門へ災厄が降りかかると、陰陽省の卦(け)でわかった。巫女である君なら一年で鎮められるだろう』と言われたのだ。彼らもまた、帝の命によって天門を守る一族である。お役目と家の存続を何よりも大事にしていた。
だが気が付けば十二年の月日が流れて、夫になるべき男は死に、佐伯家とは縁が切れてしまっていた。
巫女としての力が弱かったのだろうか。
だから十二年も目覚めなかったのだろうか。
あれこれと思い悩んだが、結局答えは見つけられないままだ。
佐伯家と連絡を取りたい、せめて忠の墓参りをさせてほしいと手紙を書いたが、手紙も使者もその場で突っ返されてしまった。
佐伯家の対応には『恩知らずなことですよ!』と松生は、激怒していたが、忠が死んだのは、もしかしたら荒魂を一年で鎮めきれなかった自分のせいなのではとも思っていたので、朔はそれ以上、何も言えなかったし、佐伯家へ連絡をとるのを諦めるしかなかった。
だったらせめて、慣れ親しんだ桐ケ谷の屋敷に戻れたらよかったのだが、生涯一度きりの役目を果たした巫女はもう巫女ではないため、帰ることは許されなかった。
役目を終えた後、佐伯伯爵家の跡取り息子の妻になっていたはずの朔は、夫となるべき人を失い、どこにも身の置き所がない、宙ぶらりんの存在になってしまったのである。
だがその境遇を哀れに思った冥慈帝から、爵位と『瑞香の宮』というふたつ名が与えられた。
朔は贅沢な屋敷と、一生食うには困らないであろうたっぷりの恩賜金を与えられて、女子爵として生きることになったのだ。
幸い松生や、眠っている朔の世話をしてくれていた女たちが、本郷(ほんごう)の屋敷で朔と一緒に暮らすことを選んでくれて、本当の意味で孤独になることはなかったが、目覚めてからずっと、朔の心には虚しさが、濡れた落ち葉のようにべったりと貼りついて離れない。
(役目を終えた私になんの価値があるの……?)
巫女の役目は終わったのに、もう誰の家族にもなれない。
このままではいられない。何かを見つけたい。
生きる意味が欲しい。
だがただの人となった自分に、そんな機会は訪れるのだろうか。
朔はまた「ふう……」と息を吐きながら、そっと忍ばせていたハンカチーフで口元を押さえる。
人の多いところはまだ慣れない。目覚めて人々の注目を浴びるようになってからは特にそうだ。劣等感を刺激されて、消えてしまいたくなる。
(もう、帰ろうかな……)
とりあえず侯爵への最低限の義理は果たしたはずだ。
その瞬間、強い風が吹いた。口元を押さえていたハンカチーフが、ひらりと手から離れる。
「あっ」
とっさにハンカチーフを追いかけて、バルコニーの手すりから身を乗り出したところで、
「あぶないっ!」
背後から凛と響く低い声がして、次の瞬間、朔の体はふわりと宙に浮いていた。
一瞬の出来事に、なにが起こったかわからなかった。
ただ自分が着ていたドレスの裾がひらりと舞い上がり、履いていた絹の靴のつま先が視界に入る。
「え……?」
驚いて顔をあげると、ひとりの男と目が合った。
いや、目が合ったどころの距離ではない。吐息が触れるような至近距離に、絵巻物から飛び出てきたような、端整な男の顔がある。
年は二十代後半だろうか。
黒髪の上側だけをひとつにまとめた一部が、風に煽(あお)られて形のいい額にこぼれ落ちている。鼻筋は高く、すっきりとしていて、意志が強そうな唇は固く一文字に結ばれていた。
小柄で華奢な朔より頭一つ分背が高く、濃紺の燕尾服を身に着けているその体は、かなり鍛えられているようで胸板は分厚くたくましい。
そして何よりも朔の目を引いたのは、右目を覆う眼帯だ。
その黒い革の眼帯さえなければ、誰もが彼を貴公子だと思ったに違いない。だが同時に、傷物であるはずのこの男に、退廃的な魅力を感じて目が離せない。
「あ、の……」
今まで何度も夜会には出たが、こんなことは初めてだった。
朔はしどろもどろになりながら男を見上げる。
「ん?」
男があらわになっている左目を柔らかく細めて朔を見つめ返す。
声も、視線も、あまりにも近い。
男性と近づく経験など、ダンス以外にない朔は完全に気が動転してしまった。しかも相手は見知らぬ男だ。こんなことなら、さっさと帰ってしまえばよかった。
いや、そもそも来たことが間違いなのだ。途端に朔の全身が恐怖に包まれる。
「や、やだっ……下ろしてっ……!」
朔は目に涙を浮かべつつ、力が入らない手のひらで、ばしばしと男の肩や胸を叩いたが、いくら押してもビクともしない。
(さ、さ、攫(さら)われる……!?)
あまりの恐ろしさで気が遠くなった瞬間、
「飛び降りないと約束するなら、下ろしてあげますよ」
と、男は落ち着いた様子で朔の耳元でささやいた。
「えっ?」
「危ないことをしないと言うのなら、放してあげますって言ってるんですよ、〝朔ねえさま〟」
どこかいたずらっぽい響きの声色と、〝朔ねえさま〟という言葉に、朔の恐怖は少しずつ色を失っていく。
誰かと間違えられているのだろうか。
だが彼は確かに名を呼んだ。『朔ねえさま』と言った。聞き間違いだとは思えないが、桐ケ谷で育った朔に身内はいない。
「ねえさま……って?」
おそるおそる尋ねると、
「朔ねえさまが、そう呼ぶようにと言ったんじゃないですか。もしかして、もう俺のことを忘れたんですか?」
青年は眼帯で隠されていないもうひとつの目を甘く輝かせながら、腕に抱いたままの朔を食い入るように見つめる。
(誰……?)
朔の閉じられた世界に、男性などほとんどいなかったのだが――そういえば朔はかつてひとりの少年に、自分を〝朔ねえさま〟と呼ぶように、言ったことがある。
その瞬間、朔の脳裏に、色鮮やかによみがえる景色があった。
『あなたは私の弟になるのですから……私のことは、「朔ねえさま」と呼んでもらえたら嬉しいです』
年上ぶって、そう告げた相手は……誰だった?
唐突に記憶の扉が開く。
「あっ!」
朔は小さく息をのんだ。
「まさか……まさか、陣(じん)さま……?」
恐る恐る名前を呼ぶと、たくましい青年の顔がパッと明るく輝いた。
「そうですよ、俺です、朔ねえさま。俺です、陣です!」
そして腕に朔を抱いたまま、その場をクルッと一回りする。
「きゃーっ!」
体がぐわーんと持ち上がって、思わず口から悲鳴が漏れた。
振り落とされまいと、とっさに慌てて彼の首にしがみついたが、陣の腕はしっかりと朔を抱いて離す気配はないようだ。
「朔ねえさまは、まったく変わっていませんね!」
茫然とする朔をよそに、陣はくったくない笑みを浮かべて朔に顔を摺(す)り寄せる。
「ちょっと待って、ほっ、本当に陣さまなの!?」
「そうですよ!」
彼の名は佐伯陣。忠の一回り近く離れた弟で、眠りにつく前の彼は、朔の三つ年下の十五歳の少年だった。当時から陣は非常に顔立ちの整った美しい少年だったが、目の前の青年は長身でたくましく、精悍(せいかん)な面持ちの美丈夫だ。とても同じ人物だと思えない。
「そんな、でも、こんなに大きくなっているなんて……信じられない……!」
「当然でしょう。俺は今、二十七歳です。もう子供ではありません」
「にじゅう、なな……さい?」
朔の唇から、子供のようなたどたどしい言葉がこぼれ落ちる。
十二年経っているのだから、彼が成長しているのは当然なのだが、あまりにも人が変わりすぎて、朔は自分の目がどうしても信じられなかった。
「俺の顔をよく見て、思い出してください」
陣は戸惑う朔の顔をじっと見つめる。
確かに顔立ちはあの頃の陣が大きくなれば、こうなるかもしれないという雰囲気はあるが、朔を軽々抱き上げて平気そうな姿からは、かつての線の細い美少年の姿はどこにもない。兄の忠よりずっと存在感のある、凛とした美丈夫へと成長していた。
(本当に、陣さまなんだ)
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