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政略婿入り物語〜愛の押し売りはご遠慮致します〜

橘柚葉 / 著
Ciel / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2020/10/30

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内容紹介

奪いたかった、君の何もかもを全部
「俺に溺れさせたいのに、俺の方が溺れていく」大手ゼネコンの社長令嬢・小美濃姫子は、『婿取りして家を継ぐ』ことが決められていたせいで、結婚に魅力を感じず、憧れることさえなかった。祖父が決めた相手、大手メーカーの御曹司・一関史哉との結婚に絶望する姫子。“一関は私を好きで結婚するわけではない、それを忘れてはいけない”と姫子は自分に言い聞かせ、初夜の晩、仮面夫婦を提案するが、「君の本性なんてとっくにバレバレだ。俺流の愛し方を手取り足取り教え込む」と野性的な史哉に押し倒され、優しい愛撫で熱い想いを挿入され、縋ることしか出来なくて……。草食ぶった肉食系男子×本当の恋を知りたい乙女の溺愛ラブ

立ち読み

プロローグ


(これで、着納め……かな?)
 曾祖母から受け継がれている、世界に一つだけしか存在しない振り袖を着た小美濃(おみのう)姫(ひめ)子(こ)は、伏せ目がちに背筋を伸ばす。
 有名な作家が手がけたというこの振り袖は手描き辻が花で、煌(きら)びやかな紺地に施された辻が花模様が染め上げられている。気品と艶(つや)が魅力的な振り袖だ。
 成人式を始め、その後も何度か大事な席では着ている振り袖だが、結婚したらもうこの着物を着ることはなくなる。
 本来なら、祖母から母、母から私に受け継がれたように、私の子供に譲り渡すのが慣わしだろう。
 だが、残念ながらその機会は私の代で途切れる予定である。それは、どうしてかというと……
 視線を少しだけ上げ、目の前に座る男性を見つめた。
 現在、私は都内にある老舗料亭に来ている。所謂(いわゆる)、お見合いの席だ。
 しかし、お見合いなどと言っていても、すでに結婚は決定事項。若い二人の意見など、何も通りはしないだろう。これは世に言う、政略結婚だからだ。
 今回、この政略結婚が持ち上がったのには理由がある。競技場建設だ。
 小美濃建設が入札で勝ち取った国内最大の競技場のコンセプトは自然との融合。
 地域社会における環境を保全し景観に配慮した空間を目下の目標としており、そんな設計をするランドスケープアーキテクトという建築の専門職が必要となった。
 国内で特にランドスケープアーキテクトに力を入れているのが、一関(いちのせき)ホームだ。
 そして、そのトップデザイナーが目の前の男性らしい。
 色々な賞を取っている、この業界ではかなりの有名人なんだとか。
 昨今、環境保全の注目の高まりにより、今後は特にランドスケープアーキテクトが重用されていく。
 そのため、小美濃建設としては一関ホーム、ひいてはその血縁者である彼と関係が密になることは大歓迎なのだ。
 それは、一関ホームも同じことが言える。小美濃建設のバックグラウンドが魅力的なのだろう。
 そんな意図もあり、この婚姻はお互いが利益を得ることができる最良の手段でもある。
 家のことを考えれば、退けることができない婚姻というわけだ。
 ジッと目の前の彼を見つめていると、視線が絡み合った。
 墨痕のような鮮やかな髪は、清潔感に溢れている。前髪はサイドに流していて、形のよい額(ひたい)とキリリとした眉が見える。大人の色気が半端ない。
 ニッコリと穏やかな笑みを浮かべて私を見つめている。柔らかい物腰に、優しいほほ笑み。見目麗しく、とても素敵な人である。きっと、いい人に違いない。
 草食系男子の代名詞のような彼となら、穏やかな結婚生活を送ることができるのだろう。
 しかし、私としては強引なぐらいの男性の方がいい。頼りがいがある。
 今は私の男性の趣味など、どうでもいい。私が何を言おうと、この人と結婚することは決定事項なのだから。
 目の前の彼は素敵な人ではあるのだが、心は動かない。今から、私は未来のない絶望の道を歩んでいくのだから結婚に夢は見ない。
 結婚相手である彼は、うちの会社を継ぐために小美濃家の入り婿になるだけ。それだけだ。
 恐らく、私が彼に心を開くことは一生ないだろう。
 それは、目の前に座る彼にも同じことが言えるはずだ。彼も私と同様で、ある種の被害者なのだから。

 

1 愛のない夫婦に歩み寄りは必要か?


 大安、吉日。
 猛暑が落ち着き、どこか爽やかな風がそよぐようになった十月初旬。
 都内某老舗ホテルの大広間では、大手ゼネコン企業、小美濃建設の一人娘である小美濃姫子と、国内大手のハウスメーカー一関ホーム社長の次男である一関(いちのせき)史(ふみ)哉(や)の結婚披露宴が恙無(つつがな)く執り行われている真っ最中だ。
 先ほどお色直しを終えてカラードレスを身に纏(まと)っている私は、キッチリと良家のお嬢様然を崩さずにこやかな笑みを浮かべている。
 色白でスレンダーな身体。アーモンド型の目は黒目がち。薄い唇は紅く、大和撫子だと称讃されるような容姿をしているらしい。
 背中に伸びる髪は黒く、艶(つや)やかでまっすぐだ。だが、今は、その髪をキレイに結い上げていた。
 端から見れば、この良き縁談の主役である二人は仲睦まじく見えることだろう。
 だが、私の心は冷め切っていた。早く終われ、と何度心の中で呟いたことだろう。
 隣に座る一関さんを見ると、結納の席で見せていた柔らかいほほ笑みを絶やすことなく浮かべている。
 三十歳の彼は、私より五つほど年上で、本当に人が良さそうな人物だ。だからこそ、少しだけ申し訳なさを感じてしまう。
 貴方(あなた)の隣に座っている妻は、共に歩もうなどとは一切思っていない、とんでもない女なのだ。本当に申し訳ない、と平謝りしたくなる。
 その上、一関さんは私のお嬢様然とした顔しか見ていない。そして、今も私はお行儀良くお嬢様風情でいる。だからこそ、彼は私が従順な妻になると疑っていないはず。
 しかし、それは外面(そとづら)もいいところなのだ。本当の私は、なかなかな跳ねっ返りである。ごめんなさい。
 詐欺師もビックリするほどギャップが激しいのだが、一関さんが私の本性を知ったら……騙された! などと言われてしまうかもしれない。
 そんな跳ねっ返りな私の理想の男性像は、ワイルドで強引なぐらいの男性だ。はっきり言って、一関さんは私の好みではない。
 そんな失礼極まりないことを考えている私を妻にする一関さんが不憫で仕方がないし、早々に妻への理想は捨て去ってもらいたいと思っている。
 私は、可憐でおしとやかな大和撫子には到底なれないのだから。
 そんな現実を一関さんが知ったら……どんな顔をするのだろう。
 この穏やかな表情が、怒りに滲んでしまうのだろうか。とてもではないが、想像はできない。
 とにかく、彼は運がなかった。その一言に尽きるだろう。他人事のようで申し訳ないが、本音だ。
 小美濃家と関わりを持ってしまった己を恨み、許してもらえたらありがたい。
 そんな都合のいいことを考えつつ、私は再び正面を向いてほほ笑み続ける。
 時折横に座る一関さんからの視線を感じつつも、それに気がつかないふりをしながらこの数ヶ月を思い出す。
 結納からこの式まで、一関さんとは一度たりとして二人きりで会うことはなかった。
 いや、意図的に会わないようにしていたと言った方が正しいだろう。
 答えは簡単だ。私はこの結婚に乗り気ではなかったので、一関さんと親睦を深めようという気持ちが全くなかったからである。
 そんな私たちは結婚式当日、ようやく約二ヶ月ぶりに顔を合わせた。
 そういうところは、やっぱり政略結婚のなせる業だろうか。結婚する二人が会わずとも、滞りなく儀式は進んでいくのだから。
 そんな二人が今朝、顔を合わせて交わした会話は「天気がよくて良かったですね」「ええ、本当に」という、なんともまあ実のない話だった。
 あまり関わりのない人間とコミュニケーションを取るときに使う常套句だ。
 どこからどう見ても、大安吉日の今日この日、結婚式を執り行う二人とは思えない会話だろう。
 それは、こうして披露宴が行われていても同じ調子である。
 余所(よそ)々々(よそ)しい二人だが、それをいかに世間様には幸せいっぱいの新婚夫婦に見せるか。技量が問われる事態だ。
 しかし、私の化けの皮のおかげか。人のいい雰囲気を常に醸し出している一関さんのおかげか。周りには仲良し新婚夫婦に見えているようだ。
 これにて、ようやく堅苦しい披露宴も終了。
 祖父と父への義理立ても済んだことだし、一関さんにはこのあときちんと説明をしておかなければならない。
 そう、私たちは仮面夫婦になるべきです、と。

 結婚式のあとは、新婚旅行にも行かずに小美濃家の離れにやってきた。
 今日から一関さんと私は、この離れで暮らすことになっているからだ。
 一関さんが鍵を開けて玄関の引き戸を開くと、新築らしい木の香りがした。
 何もかもが新しいその家の玄関に立ち、キョロキョロと見回してしまう。
 考えてみれば、新築の家に住んだことがないし、こうして新築のお家に上がることは初めてかもしれない。だからこそ、思わず興味深く見てしまう。
 パンプスを脱いで家に上がるのも、なぜかドキドキとしてしまった。
 一関さんと祖父が中に入っていくのを見届けたあと、私もそのあとに続く。
 あまり乗り気ではないのだが、祖父が一緒にいる以上、新居に上がらないわけにもいかない。
 今はまだ、楚々(そそ)とした新妻を演じ続けなければならないからだ。
 重い足取りで彼らに続いて、ピカピカで真新しい廊下を進む。
 やっぱり物珍しくてワクワクしてしまう。好奇心というものは、時になかなかに厄介だなとこっそりと小さく笑った。
 都内郊外にある小美濃家の敷地には、両親、そして祖父母と一緒に住む屋敷がある。
 先祖代々が住んできただけあって年季が入った武家屋敷といったところか。
 当初はそこで新婚生活を送るはずだったのだが、「若い二人であるし、新婚夫婦なのだから」と祖父が気を回して敷地内に一棟家を構えてしまったのである。
 余計なことを、と喉元辺りまで出てきそうになった言葉を呑み込んだのは誰にも内緒だ。
 そんな新居は、一関さんのご実家である一関ホームが主体になって建てた。
 設計の際に一関家の方から要望を聞いてはくれたのだが、私は一関さんと家族たちの目を欺くために住み、ゆくゆくは実家にある自分の部屋に戻ろうと考えていたので、「私個人の部屋があれば、あとは一関さんのお好きなように」とだけしか言わなかったのだ。
 もちろん、そこでもお嬢様の仮面は外さない。
「一関さんの妻になるのですもの。夫の意見には、すべて従いたいと思っております」と一歩下がって歩く妻の鑑みたいなことを言ったら、一関さんのご両親はいたく感激していた。
「さすがは、小美濃家の娘さんだ」と、いい人が義理の娘になってくれたと手放しで喜んでいるのを見て、とても申し訳なく複雑な気持ちになったものだ。
 まさか、「息子さんには全然興味がないし、新居にも長く住むつもりはないので別にどうだっていいんです」とはとても言えなかった。
 そんなわけで、実家である本邸の目の前でずっと工事をしていても一度も見に行ったことがない。どんな間取りなのかも全然知らないのである。
 新居が出来上がり、一関ホームの社員から鍵を渡されたが「一関さんと一緒に見たいので、その日まで楽しみにしておきます」と大和撫子っぽいセリフで躱(かわ)しておいた。
 苦し紛れの言い訳なのだが、このセリフのおかげで一関家での私の評判はうなぎ登りらしい。
 本当にごめんなさい、こんな嫁でと平謝りをしたくなる。
 そんな妻の鑑とは真逆な私と結婚した一関さんは、この縁談が決まった時点から小美濃建設に移っていて、後継者教育を受けていたのだという。
 私とお見合いをしたときには、すでに小美濃に移っていたらしい。彼がいたからこそ、競技場工事を落札できたというのだからさすがである。
 だが、やはりあのお見合いは出来レースだったんだとため息をついたものだ。
 その関係で忙しくしていて新婚旅行は延期となり、結婚披露宴が終わったあとにすぐ小美濃家に帰ってきたというわけだ。
 皆が皆、私に同情してくれたし、一関さんも「申し訳ないです」と以前電話で謝ってくれた。
 だが、私としては好都合だ。お気になさらず! と笑顔で言いたいくらいである。
 万が一、新婚旅行になんて行くことになってしまったら、危険極まりないだろう。それこそ、貞操の危機が訪れてしまう。
 一関さんは、一応私を妻にしようと決意して婿入りしてくれたのだと思う。
 同時に、彼にはうちの家業である小美濃建設を継ぐこと。そして、跡取りを作るという任務も任されたということだ。
 私と一関さんは、本日めでたく結婚をした。ということは、私に手を出してくるに違いない。
 なんと言っても、彼には後継者を作るという大事な任務があるからだ。
 だが、私は彼に抱かれるつもりは毛頭ないし、子供を作るつもりも端(はな)からない。
 祖父や父は、小美濃家直系である私の子供を跡取りにしたいと考えているはずだ。
 だからこそ、婿として一関さんを小美濃家に招き入れたのだから。
 しかし、今の時代、血筋で会社経営者を決めるのはナンセンスだろう。力がある者が継げばいいのだ。
 もし、どうしても血筋を重んじるのであれば、他にも候補はいる。
 父の年の離れた弟。私から見たら叔父だ。
 その叔父には、二人の息子がいる。五歳と二歳のかわいい盛りだ。
 年齢的にもバッチリ合うし、彼らに継いでもらえば何も問題はないだろう。
 だから、私と一関さんは無理に跡取りを作らなくてもいいのだ。
 となれば、私と一関さんの間に存在する〝跡取りを作る〟という使命はなくなったも同然である。
 この時点で、一関さんに与えられた使命の一つが消え去ったということだ。
 彼に与えられた使命は〝小美濃建設を立派に継ぐ〟ということだけが残った形になる。
 一関さんには、とにかく体裁だけ整えてくれればそれでよし。小美濃建設を盤石安泰にしていただければそれでいいのだ。
 きちんとした妻になれない慰謝料として、彼が欲しがっているであろう地位と名誉は差し出すつもりだ。これで手打ちにしてもらえればありがたい。
 あとは、お互い外に愛人でもなんでも作って楽しく人生を謳歌すればいいだろう。
 私は今夜、彼にこの計画を打ち明けるつもりだが、全く心配はしていない。
 一関さんも同意してくれるはずだと確信しているからだ。
 なんと言っても、彼が欲しいのは小美濃建設だけ。私のことなんて実はどうでもいいと思っている可能性が高い。
 彼の実家である一関ホームは実兄が継いでいるので、次男の一関さんはお呼びではない。そんな関係で、一国一城の主になるためには小美濃家に婿入りする必要があったのだ。
 彼は、私のことを小美濃建設についているオプションみたいなものだと考えているに違いない。
 私は長女としての責務である跡取り問題の解決、一関さんは企業のトップに立ちたいという欲望。
 この結婚をすることにより、二人が抱えていた問題が解消されたのだ。
 その時点で、お互いこの結婚は成功したと考えてもいいはず。だからこそ、私の計画に一関さんは乗ってくるはずだ。
 仮面夫婦になる計画は、必ずやお互いのためになる。私は確信を持って、この結婚に乗り出したのだ。絶対に成功させてみせる。
 そんな意気込みを持ちつつ、リビングへと足を踏み入れた。
(うわぁ……!!)
 さすがは大手ハウスメーカーの人気シリーズの家だ。それに、センスのいい家具やファブリックで統一されたリビングは私の好みドンピシャでワクワクしてしまう。
 とはいえ、この家に長く住むことはないので、残念と言えば残念だ。
 視線をあちこちに巡らせていると、一関さんがにこやかにほほ笑んで私を振り返った。
「いかがですか? 姫子さん」
「え? あ、えっと……。素敵な部屋ですね。ありがとうございます」
 センスのいい部屋だとは思う。だからこそ素直な答えが出た。
 だが、本当のところ彼とこの部屋で過ごすつもりはない。しかし、祖父がいる手前、新居に喜んでいる様子を見せておかないとマズイだろう。だからこそ、一関さんにお礼を言っただけ。
 しかし、一関さんは私の顔を覗き込み、射貫くような視線を向けてきた。
 なんとなく後ろめたく、私は視線をそらしたくなる。だが、ここまで貞淑な妻を演じてきたのだ。最後の最後まで力を抜くことはできない。
 何より祖父が近くにいる以上、化けの皮を脱ぐことはできないのだ。
 なんとか笑顔を向けて小首を傾げると、一関さんは柔らかくほほ笑む。
 だが、目の奥が笑っていないように感じてドキッと胸が高鳴ってしまった。
 こんな目を一関さんがするとは思わず、身体がビクッと震えてしまう。
 私の思惑を否定してくるような、強い視線を感じて及び腰になる。
 だが、グッと気持ちを持ちこたえ、負けじと笑顔を返す。
 すると、彼は小さく笑い声を出して問いかけてきた。その表情には、いつも通りの一関さんが戻っていてホッと胸を撫で下ろす。
 先ほどの彼の目は、きっと私の見間違いだろう。
「お気に召していただけましたか?」
「は、はい」
 小さく頷いたあと、私は慌てて視線を落とす。
 何もかもを見抜かれそうな強い瞳に、恐れをなしてしまったのだ。
 見合いのとき、そして先ほどの結婚式のときも、彼はとても穏やかな人物に見えた。
 しかし、そうではないのだろうか。これは、なかなかに厄介なことになるかもしれない。
 冷や汗をかいている私だったが、祖父の目からしたらイチャイチャしているように見えたのだろう。
 嬉しそうに何度も頷きながら、私たち二人を見つめた。
「仲がよさそうで安心した。夫婦になったばかりだ。ゆっくりと関係を深めていけばいい」と、満足げに頷いたあと、「じゃあ、おじいちゃんは家に帰るからな」と言って部屋を出て行ってしまった。
 それじゃあ私も、と逃げ出したくなったのだが、そういうわけにもいかない。
 大事な相談を一関さんにしなくてはならないからだ。それに、このまま本邸に戻ったら祖父や父に何を言われるかわかったものではない。
 引き留めたい気持ちで祖父の後ろ姿を見送っている私に、一関さんは穏やかで優しい声をかけてきた。
「姫子さん」
「は、はい!」
「今日は疲れたでしょうから、早く休みましょうか。お風呂は溜めますか?」
 私を労(いたわ)るように柔らかい視線を向けてくる一関さん。穏やかな彼がいて、ホッと胸を撫で下ろす。
 やっぱり先ほど見た彼は、私の見間違いだったに違いない。
 安堵している私を余所に、一関さんはバスルームに向かおうとしていた。それを、私は慌てて止める。
「いえ、シャワーで充分です」
「そうですか?」
 遠慮はいりませんよ、と労(ねぎら)ってくれる彼は、やっぱり優しい。第一印象通りの人の良さが滲み出ている。
 きっと彼なら私の言い分をしっかりと聞き、理解し、そして承諾してくれるはず。
 そんな確信めいたものを感じた。私は背筋を伸ばし、彼に対峙する。
「シャワーの前に、相談というか……お話があるのですが」
 ソファーに座ってじっくりと、などと思っていたのだが、それを一関さんは首を振って制止してくる。
「相談は、また後日伺いますよ」
「え?」
 驚く私の背中を押して促してくる。だが、それに慌てたのは私の方だ。
 彼を振り向き、首を横に振る。
「いえいえ、ぜひとも聞いてもらいたいことがあるんです!」
 こんな大事な話、伸び伸びにしていたら大変な事態に陥りそうだ。
 本来なら結婚式を挙げる前に話しておきたかったというのが本音ではあった。
 だが、仮面夫婦になりたいなどと籍を入れる前に言って、万が一婚約破棄をされてしまったら計画はパーだ。
 それだけは避けたかった。結局は私のエゴが招いた事態だ。
 とはいえ、勝算はあると思う。一関さんは、必ず私の計画に乗ってくるはず。
 しかし、ほんの少しだけ臆病風が吹いてしまったのは否めない。
 その迷いのせいでこの事態に追い込まれることになろうとは、思いもしなかった。
 必死になって一関さんに話そうとしたのだが、彼は私の言うことを聞いてくれない。
 私を強引に、バスルームへと押し込んできたのだ。
「顔色が悪い。早くお風呂に入って休んだ方がいいですよ? 姫子さん」
「えっと、あの!」
 確かにお嬢様を演じるのに疲れてはいたが、そんなに心配するほどでもない。
 そんな内情を隠しつつ、「大丈夫です」と毅然と対応したのだが、一関さんは首を横に振るばかりだ。
「しっかり温まって、ゆっくりしてきてください」
 有無を言わせぬ笑顔とは、こういうことを言うのだろう。
 いい人のお手本みたいにほほ笑む一関さんを見て、私は何も言い出せなかった。
 仕方がなくシャワーを浴びてバスルームに置いてあったナイトウェアを着たあとリビングに行くと、一関さんもシャワーを浴びた様子で髪をガシガシとタオルで拭いている。
 どうやらこの家にはバスルームが二つあるようだ。そんな間取りについても全然知らないでいた私だったが、すぐさま不安が襲ってくる。
 大事なことを事前に確認するのを怠っていたと今更ながらに気がついたのだ。
 寝室の有無である。もし……もしも、この家にベッドが一つしかなかったら、どうすればいいのだろうか。
 考えてみたら、設計時に私からお願いしたことは一つだけだ。個人の部屋が欲しい、ただそれだけしか伝えていない。
 もしかしたら、個人の部屋にはベッドがなく、主寝室にしかなかったとしたら……?
 仮面夫婦をしようと思っている相手と同じベッドで眠らなくてはならなくなる。
 サァーッと血の気が引いていくのがわかった。冷や汗が背中を伝う。
 これは、一大事だ。慌てて混乱を極めている頭をなんとか落ち着かせ、この緊急事態をどう乗り越えようかと必死だ。
 もし、この家にベッドが一つしかなかったとする。そうしたら、本邸に逃げ帰ろうか。
 いや、それはできないだろう。今夜は確実に祖父も、そして両親も在宅だ。
 結婚したての娘が実家に戻ってきたとなったら、さすがに大目玉をくらってしまうだろう。
 祖父と両親は、一関さんに絶対の信頼を寄せている様子だ。
 物腰が柔らかく、いつも笑みを絶やさない彼だが、仕事の面ではキレ者らしい。
 仕事にはとてもうるさい祖父が、かなり褒めちぎっていたから間違いないだろう。
 婿様々だと小美濃家が諸手を挙げて迎え入れている中、私の味方をしてくれる人はここには誰一人としていない。それだけはわかっている事実だ。
 となれば、私は本邸に逃げ込むことはできない。
 しかし、さすがに一関さんと一緒に眠るのは無理だろう。それこそ、貞操の危機だ。
 新婚旅行が流れて大喜びしていたのに、まさかの事態に頭が痛くなる。
 ソファーで眠ります、と言ったとしても、聞いてくれそうにもない。
 なんと言っても、私はまだ仮面夫婦うんぬんについて、彼に相談をしていないのだ。
 ここは一つ、今この場で仮面夫婦の提案をするべきだろう。
 一人動転している私に、一関さんは目を細めて二階を指差す。
「さぁ、寝室に行きましょう」
「えっと、あの」
 未だに挙動不審な私を見て、一関さんの眉がクイッと上がる。
 どうしたのか、と不安を抱いた瞬間だった。一関さんが私に近づいてきたのだ。
 何が起こるのかと慌てる私に、彼は有無を言わせぬ笑みを浮かべる。
「失礼」
 彼が断りを入れたことに疑問を抱いていると、私の身体がフワッと宙に浮いた。
「きゃっ!!」
 一関さんが私を抱き上げてきたのだ。これには驚いて、目を見開いてしまう。
 慌てて仰(の)け反ろうとしたのだが、それを彼に止められる。
「ダメですよ、姫子さん。大人しくしていて」
「で、でもですね!?」
 彼の腕の中で今も尚ジタバタと暴れる私に、一関さんはフッと笑う。
 その表情がとてもセクシーで、ドキッと胸を高鳴らせてしまった。
 仮面夫婦提案のことで失念していたが、一関さんは男性としての魅力溢れる人だ。
 私の好みとは違うとはいえ、イケメンはイケメン。素敵なものは、素敵なのである。
 それを目の当たりにし、私はますます慌ててしまう。
「大丈夫。こう見えて、私は男なんですよ?」
「し、知っています!」
「そうですか?」
 グイッと顔を近づけられ、私の胸は再び大きく高鳴った。
 そんなキレイな顔を近づけられたら、心臓がいくつあっても足りなくなってしまう。
 バクバクとうるさい胸の鼓動に気を取られていると、彼はどこか私を試すように視線を送ってくる。
「それなら良かった」
 何が良いというのか。目を何度も瞬かせる私に、彼は楽しげに眉を上げた。
「姫子さんのように華奢な女性を抱き上げることぐらい、たいしたことないですよ」
「そ、そうですか?」
「ええ。ですから、安心して捕まっていてください」
「いえ、あの……私、歩けますけど?」
 シャワーを浴びた一関さんはTシャツにスウェット姿だ。身体のラインを見る限り、男性らしい体つきをしていて、鍛えてあるようにも見える。
 軽々と私を持ち上げている様子を見ても、彼が言っていることは本当なのだろう。
 しかし、私は落とされる心配をしているわけじゃない。こんなふうに密着している状況に驚いているのだ。
 確かに今朝、私たちは籍を入れて夫婦となった。挙式だってしたし、披露宴も行って世間にも周知されたはずだ。
 だけど、私と一関さんは今の今までお互いの身体に触れたことはなかった。
 いや、まともに話したこともない。お互いのことを何も知らない状態だ。
 それなのに、こんなふうに急に距離を縮められたら戸惑ってしまう。
「下ろしていただけませんか?」
「心配はいりませんよ。きちんと姫子さんをベッドまでお連れしますから」
「えっと、そういう意味ではなくて」
「安心してください。姫子さんに怪我など負わせませんから」
「……」
 何を言っても無駄な様子だ。小さく息を吐き出した私を見て、一関さんはニコニコと人畜無害な笑みを浮かべてくる。
 一関さんは、もしかしたら私と夫婦になろうと本気で思ってくれているのだろうか。
 もし、小美濃建設の社長の椅子が欲しかっただけじゃなく、私と愛ある家庭を作りたいと思っていたとしたら……?
 そんな考えが頭を過(よぎ)ったが、私は必死にそれを打ち消す。
 あり得ないだろう。私のことは、どうせ付属品だと思っているはずだ。
 小美濃家との関係を良いものにし、今後の地盤を確固たるものにしようと思っての行動のはず。
 私との仲を友好なものにしておけば、祖父と両親は一関さんに信頼を寄せるだろう。
 それを計算した上での行動のはずだ。
 私に優しくしておけば、自分の地位も盤石。そう思っているに違いない。
 暴れるのを諦めた私は、彼の腕の中でただ大人しくしつつそんな結論に達した。
 一関さんは私を抱き上げたまま階段を上り、二階に辿り着く。そこにはいくつかの扉が存在しているが、どれがどの部屋なのかわからない。
 それに、今から一関さんはどの部屋に私を連れて行こうとしているのか。それが一番の気がかりであり、問題でもある。
 もし、主寝室だったらどうしようか。腹痛でも訴えて逃げてしまえばいいだろうか。
 逃げることばかり考えていると、一関さんは私を労るように優しく声をかけてきた。
「結婚式では、花嫁さんは重労働だったと思います。朝も早くから着付けなどをして大変だったでしょう?」
「……はい」
 考え込んでいた私は素直に返事をすると、彼は一つの扉の前に立つ。
「ノブを押していただけませんか?」
「あ、あの! 下ろしていただけませんか?」
 彼と一緒に部屋に入るのは危険が伴う。だからこそ必死に扉を開くことを拒否するのだが、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「いえ、ここまで来たんです。ベッドまでお連れいたしますよ?」
「っ!」
 一関さんはあまりに自然体で、どうして私がこんなに拒んでいるのかわからないといった様子だ。
 一人慌てて困惑を極めている自分が、かえって恥ずかしくなってきた。
 彼は純粋に、私をベッドに寝かそうとしているだけのように見える。
 根負けした私は小さく息を吐き出したあと、扉のノブに手をかけた。
 もし、個人用の部屋ではなく、主寝室だったら殴ってでも逃げてやろう。
 そんなことを考えていると、一関さんは部屋の明かりを付けた。
 急に明るくなった室内に視線を向けて、胸を撫で下ろす。どうやら、私の個人部屋に連れてきてくれたらしい。
 それに、ベッドが用意されていてホッとしてしまった。
 安堵しきって身体から力が抜けた私をベッドに下ろしたあと、一関さんは見下ろしてくる。
 しかし、ホッとしたのもつかの間。個人の部屋にいたとしても一関さんは自由に入ることが可能だろう。
 そうなれば、彼と一緒のベッドに寝ていなかったとしても危機的状況は同じだ。
 先ほど掴んだノブの辺りに内鍵はあっただろうか。
 視線を泳がせて扉を見つめていたのだが、彼の身体が邪魔で確認できない。
 ベッドの上で硬直していると、彼は部屋にあった時計に視線を向けたあと、私を見つめてくる。
「私はちょっと仕事が残っていますので、先に寝ていてください」
「え?」
 まずは貞操の危機を脱することができたのだろう。それについては安堵したが、私は彼に言いたいことがあるのだ。
 仮面夫婦計画について話しておきたいのは山々だったが、仕事が残っていると聞いて口ごもる。
 仕事の邪魔をしたくないし、煩(わずら)わせてしまったら申し訳ないだろう。
 だが、早めに彼には相談しておきたい。揺れ動く気持ちを抱きながら当惑してしまう。
 何か言いたげな私を見て、彼は勘違いをしたようだ。
 困ったように眉を下げて私を見つめてくる。
「大丈夫ですよ」
「え?」
 どういう意味なのかと目を丸くして何度か瞬(まばた)きをする私を見て、一関さんは真剣な面持ちへと表情を変えた。
「疲れている貴女(あなた)を襲うような無粋な真似はしませんから」
「っ!!」
 先ほど私が心配していたことを一関さんは見抜いていたようだ。
 ばつが悪くて視線を泳がせていると、彼はクスッと声に出して笑った。そして、そのまま背を向けて部屋を出て行く。
 パタンと扉が閉められ、私は一人ベッドの上で硬直したまま深くため息を零(こぼ)した。


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