書籍詳細
完璧な王子様と運命の乙女 全年齢対象ゲームの現実が、R18の行き過ぎた執着だなんて聞いてません!?
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/11/27 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
◆完璧な王子様と初対面のわたし
バルバラって名前はいかにも悪役令嬢だと思う。「バ」が二つ入っている、濁(にご)った発音が良くない気がする。
わたしは小さな頃から、何度も不思議な夢を見てきた。その夢には便利な道具や楽しいものが色々と出てきて、幼いわたしは世話役の乳母(うば)や使用人に繰り返しそれを話して聞かせたのだが、どうしても理解してもらえなかった。
「それで、わたし、ゲームをやめてスマホでおはなししたの」
「お嬢様……『すまほ』……ですか?」
「スマホよ。みんなスマホは持ってないの?」
テレビは中の絵が本物のように動く額縁みたいなもの。馬のいない馬車が、いつもすごい速さで道を走ってる。遠くの人ともその場にいるように話ができる小さなテレビのようなものは、スマホ。スマホでは、自分の選択によって結末を変えられる物語を読むこともできる。その自分で変えられる物語——ゲームを専用に遊ぶゲーム機もあった。
現実にはない言葉を覚えてしまうほど繰り返し見た夢の内容を、一生懸命こちらの言葉で乳母たちに説明したけれど、どうにも意味のわからないおかしなことを言う夢見がちな令嬢だと思われていたようだ。だけど幼い頃はそれ以上他人との接触がなかったので、わたしの奇矯(ききょう)さは世に広まらなかったらしい。
乳母たちには「スマホ」って言ってもなんのことやら通じるはずもない。意味のわからない発音の、意味のわからない単語だ。
でも、わたしは侯爵令嬢として生まれて衣食住に困ることはなく外の世界を知らなかったから、幼い頃は夢に出てくる数々のものはわたしの生活の範囲にはなくとも、この世界のどこかには存在しているものだと思っていたのだ。
それらが現実にはないのだとやがて知ったけれど、それでも夢が自分の妄想のものだなんて思うこともなく、いつの間にか、生まれ変わる前の記憶なのだと思い込んでいた。誰かにそう吹き込まれたんじゃないかと思う。多分。
そしてそれが決定的になったのは、十の時だ。それまでも何度か夢で見ていた、前世のわたしがしていた乙女ゲームの中に、わたし自身がいることに気がついた。
悪役令嬢だった。ああ、バルバラって確かに悪役令嬢っぽい名前ね、と自然に思ったのは前世の感覚のせいだろう。わたしはその夢の自分たる異世界の女性の影響を受けていた。
今でも、わたしの意識はどこか高位貴族の令嬢っぽくないところがある。油断すると、言葉も考えかたも、砕けたものになる。
身近なものに影響を受けるってあると思うの。それはわたしにとっては、夢の中の自分だった。
幼い頃の夢にはゲームとは関係ない前世の女性の日常生活の姿も多々あったのに、長じるにつれてそのほとんどがゲームをしている姿とゲームの画面になっていった。
さらにその画面の大半は、わたしの出るシーン——「悪役令嬢バルバラの婚約者である完璧な王子様と、運命の乙女であるヒロインがハッピーエンドを迎えて、ヒロインをいじめたバルバラが婚約破棄されて修道院に送られるシーン」だった。
それがこの世界のわたしの未来なら、どうにかしなくちゃいけない。
まずゲームと同じことが起こるのなら、そもそも婚約なんてしなければいいと思いついたけれど、貴族の令嬢に親と国の決めた婚約に逆らう力なんてなかった。
ヒロインをいじめなければ、婚約破棄されたとしても修道院までは行かなくて済むかも……と思ってみたけれど、年齢が上がって社交界の情報が入ってくると、そう甘くもなさそうだと気がついてしまった。王子様に婚約破棄されたら、他にお嫁に行くのは絶望的だろう。そうすると穀潰(ごくつぶ)しの嫁(い)き遅れ令嬢は、修道院に送り込んでしまうしかない。
いっそ王子様の側妃にでもなってから、どこかの貴族に下賜(かし)されるってほうがお嫁に行けるだけマシ。でもわたしの場合、正妃になるはずの婚約者なのだから転落して側妃になるとかありえない。それって、我が家とお父様をかなり馬鹿にした話になる。
そもそも、よく考えれば婚約破棄も相当のことだ。正妃になるはずだった令嬢を理由なく婚約破棄などできないので、わたしがヒロインをいじめなかったら王子様はヒロインとハッピーエンドにはならないはず……。
でも、本当にならない? 完璧な王子様がどうしてもわたしを邪魔だと思ったら、無実の罪を被せて追いやるくらい簡単じゃない? 罪を被せるだけならまだいいほうで、死人に口なし、後腐れなく邪魔者はさっくりと……なんてことになったりしない?
現実はゲームじゃないんだから、わたしを追いやる方法など無限にある。
前世の記憶が、わたしの中の前世の女性の部分が、そう囁(ささや)いたような気がした。
なら、いっそ諦めて始めから修道院に入っちゃうっていうのはどう? 死ぬわけじゃないし、静かに生きていくのも悪くはないんじゃ……。
ヒロインをいじめて?
ううん、それは嫌。だって変に恨みを買って、婚約破棄で修道院に……以上の酷い目に遭(あ)ったら困るもの。
自分から修道院に?
それも無理。わたしが入りたいって言っても修道院には入れない。その願いが叶うくらいなら、最初から王子様と婚約したくないって言っても叶うでしょう。お父様もお母様も、そこまでわたしのわがままは聞いてくれない。貴族の娘は、自分の意思では未来を決められないのよ。
そこまで考えて、なんだか理不尽な気がした。わたしだけ貧乏くじだ。どうしても王子様の正妃になりたいわけじゃないし、贅沢(ぜいたく)したいわけでもないのに。修道院に行かずに済むならそれに越したことはないと思っていて、それ以上の酷い目になんて遭いたくないだけだ。普通の貴族の娘の人生がいいだけなのに……。
とはいえ具体的で確実な回避方法は思いつかない。結局わたしに思いつく対策は、やっぱり王子様と仲良くして、ヒロインをいじめない、というものだった。
王子様とヒロインがラブラブになったら、いっそ協力してもいい。円満婚約解消で、新しい婚約者を王子様に紹介してもらうのはどうだろう。罰を受けるような状況ではなく、穀潰しにならなければ、修道院には送られない。
ご都合主義すぎて上手くいかないかも、と前世の記憶が言うけれど、今のわたしにはそれしかなかった。
紹介が無理なら、どうにか円満に婚約解消して王子様からお父様にとりなしてもらい、お金がかからないように田舎で静かに暮らす。最悪修道院に入って暮らす……。それ以上は悪くならないように頑張る。
だから——。
「お嬢様、お時間でございます」
「今行くわ、リーナ」
支度はもうすっかり整っていたから、わたしは鏡の前で振り返った。
夢で見る画面の中の姿より、まだ鏡の中のわたしは幼い。でも顔かたちや髪の色などは、もう同一人物だと判断できる域だ。わたしは白っぽい金髪で、瞳の色は紫色。夢の画面の中の色合いと同じ。
そしてやっぱりわたしの意思の確認なんてないままに、滞りなくわたしと王子様の婚約は調っていた。
初めて王城に招かれた今日、婚約者でラウテナール王国の王子様であるひとつ年上のアルヴィン殿下に会うわたしは十四歳。夢で見る乙女ゲームが始まる歳は十六歳、終わるのは十七歳。約一年の恋物語で、その始まりまであともう二年だ。
物語に登場する人物は、わたしとアルヴィン殿下の他に五人いる。わたしが物語に関わるのはアルヴィン殿下がヒロインのお相手になった時だけだ。
ゲームの中のアルヴィン殿下は完璧な王子様。軽やかな金の髪、澄んだ青い瞳。容姿端麗で頭脳明晰(めいせき)な天才にして、努力を怠(おこた)らず、文武両道で芸術にも通じている。誰にでも優しく親切で、厳しくするべき時には厳しくする。
そして現実のアルヴィン殿下に関しても、ほとんど同じ評判を聞いている。
「バルバラ」
「お父様」
玄関ホールへ続く階段を下りていくと、お父様が待っていた。
この婚約を決めてきたのはお父様だ。夢に見る前世の女性の影響で、ちょっと普通の貴族の娘にしては擦(す)れているわたしのお父様評価は「権力志向型」だ。娘を王子の婚約者に決めてくるという事実だけでも、それは明らかだと思う。
ただ、お父様はそうなっても仕方がない生い立ちではある。お父様はお祖父様の愛人の子で、正妻であったお祖母様からいじめられて育ったらしい。お祖母様はかつて社交界の華と呼ばれた人で、とても影響力があり、長じてからもお父様はお祖母様におもねる人に蔑(ないがし)ろにされたようだった。
彼らを見返すために、お父様は権力志向に突っ走っていったらしい。努力の甲斐あって、自らの力で権力を手にしたお父様を表立って馬鹿にする人はもういない。お祖母様は数年前に他界されたので、本当にもういない。
ちなみにお祖母様はとても気位の高い方で、お父様の下(げ)賤(せん)の血がわたしにも入っているからと、侯爵令嬢として厳しく育てようとしていた。だけど前世の夢と現実の区別がついていない奇矯な発言を繰り返したせいで、頭のおかしな子だと思って諦めたようだ。
……頭のおかしな子だと思われたのも、悲しくはない。お祖母様に教育されていたら多分高飛車な悪役令嬢まっしぐらだったと思われるので、それを回避できたのは期せずして前世の記憶のおかげだ。だから、悲しくない……。
ともあれ、わたしを王子妃の地位に捩(ね)じ込むのが、お父様の理想を目指す更なる一歩になるのだ。
「しっかりとアルヴィン殿下にご挨拶してきなさい」
「はい、お父様」
「アルヴィン殿下はとても優秀な方だ」
お父様はアルヴィン殿下をよく褒める。婚約が決まった日にも、殿下の優秀さをじっくり語って聞かされた。アルヴィン殿下は今のわたしよりもいくつも幼い時に、周辺国の言葉はみんな話せたらしい。その国の生まれの人と変わらぬくらいの流暢(りゅうちょう)さだという。
勉学はもう貴族学院で勉強する範囲は全部修めてしまったらしく、もっと専門的なことを学んでいるそうだ。それは本当に本当にすごいと思う。
できればそのまま学問を究めて、課程を修了した学院に入らないでいただけると、わたしの未来も救われるのに……! と思わないではいられない。
能力もだけれど、お姿も同じ年頃や年齢が少し上の貴公子たちが束になっても敵わないほど素敵だそうだ。年若い侍女たちや貴族の娘などに、すごく人気らしい。
「公平公正で、お優しい方だ。血筋や身分だけで人を判断されない。人の能力と行いを見ておられる。おまえがきちんとしさえすれば、大切にしていただけるだろう」
特にここ、なにごとにも公平で公正であるというところに力が入っているのが、お父様らしい気がする。
お父様はもちろん、わたしが夢の中でアルヴィン殿下に婚約破棄されるなんてことは知らない。そんなことを話しても、やっぱり頭のおかしな子だと思われるだけだ。
……今、幼い頃のまま頭のおかしな子だと思われ続けていたら、この婚約はそもそもなかったのかもと気がついたけど。いや、おかしな子だったことはお父様も知ってるんだし、変わらなかったと思おう。
うん、今更よ、今更。
ともあれ、お人よしとは言い難(がた)いお父様がそこまで褒めるのだから、アルヴィン殿下は本当に完璧な王子様なのだと思う。だけど……。
わたしの脳裏に夢の中のゲームの画面がよぎって、心が沈んだ。アルヴィン殿下の運命の乙女は他にいる。その時、わたしはどうなるのか。完璧な王子様はどうするのか。今日まで何度も考えてきた答えの出ない疑問で頭がいっぱいになる。
わたしがきちんとしていたら、それだけで大切にしてもらえるのだろうか。愛されたいとか、そんなことは考えていない。ヒロインをいじめないで、身を引くと意思表示をすれば、お父様とわたしにそれほど不都合のないようにアルヴィン殿下は計らってくれるだろうか。
そして、お父様はわたしが捨てられることに怒るだろうか。それとも、アルヴィン殿下のご意向に従ったほうがよいと慮(おもんぱか)る?
凡人のわたしには、どれもきちんとは答えが出せない。でも、アルヴィン殿下がヒロインと出会うまでには、どうにかして答えを出さなくては。
「はい……お父様。行ってまいります」
しっかりとアルヴィン殿下を見て……この先のことを判断しなくては。
アルヴィン殿下は、乙女ゲームの中では完璧すぎて人に崇拝され、逆に遠巻きにされてしまい、心交わせる人がいなくて孤独だった。悪役令嬢は高慢で、王子様のうわべしか見ていなかった。ヒロインだけが王子様のそんな孤独を癒した、運命の乙女。
その運命に割り込むことはできなくても、完璧な王子様なら、罪のないわたしを酷い目には遭わせない……はず。
わたしは侍女のリーナと共に侯爵家の箱馬車に乗り込み、王城へ向かった。王城に着くと、少し広いサロンのような長椅子の置かれた私的な謁見室に通され、そこでアルヴィン殿下を待った。
この時までは、将来の安寧(あんねい)のために、わたしは頑張ってアルヴィン殿下と仲良くなろうと意気込んでいた。
先触れがあって扉が開き、ゲームの画面より少しだけ幼い感じのアルヴィン殿下が侍従を連れて部屋に入ってくる。先触れの時点で立ち上がって、わたしは入ってくるアルヴィン殿下を見つめていた。
夢のゲーム画面の絵と現実の姿は、まるっきり同じではない。でもゲームの中の悪役令嬢とわたしが同一人物だと判断できるのと同じように、ゲームの中のアルヴィン殿下と現実のアルヴィン殿下の特徴は一致していた。
どっちかっていうと画面よりも、現実のアルヴィン殿下のほうがキラキラしている。アルヴィン殿下は、今十五歳だ。同じくらいの歳の男の子なんて、家の従僕くらいしかちゃんと見たことないからかもしれないけど……本当にキラキラしている。これは、容姿も完璧な王子様だからなの……?
ドキドキする。
恥ずかしくなって、ちょっと俯(うつむ)いて、わたしは諸々の緊張を抑えて貴族令嬢の心得として仕込まれた礼をした。
「ルーグレンス侯コーネリアスの娘、バルバラと申します」
「僕はアルヴィン。君に会えるのを楽しみにしていた」
……この挨拶までは普通だった。
「君は……」
そう口ごもったアルヴィン殿下はすっと軽やかな足取りでわたしの前まで来た。そのまま手を取られ、指先に口づけられる……普通、初対面でここまでするだろうか。
まだわたしは社交界に出る前だから、最近の社交界のご挨拶の流行とかはわからない。昔話の騎士はしていたかも……でも、最近のお芝居ではこういう演出を見たことないし、礼儀作法と社交術の家庭教師もそんなことは言ってなかったから、多分、普通はしない……と思うけど、でもでも。
積極的なアルヴィン殿下にドキドキした。ときめきもあったけれど、もう緊張のドキドキの割合のほうが大きい。
そのまま軽く引き寄せられ、さらにアルヴィン殿下に近づく。婚約の初顔合わせにしては、少し近すぎるくらいだった。
至近距離で微(ほほ)笑(え)むアルヴィン殿下のキラキラ感がさらに増す。
「君は……いい匂いだね」
「は、はい……お好みの香りでしょうか」
今朝、侍女に念入りに洗われて、髪にも香油を揉み込まれていたから、その匂いかと思った。
「うん。とても好みだ」
さらにアルヴィン殿下は顔を寄せて、わたしの匂いを嗅(か)いでいる。ちょっと近すぎる。もう鼻先が触れそうなくらいだ。
殿下の侍従が殿下の後ろで青ざめている。多分、わたしの後ろでリーナも……。
「あ、あの」
逃げていいんだろうか。
いや、いけない。アルヴィン殿下と仲良くならなくちゃいけないんだもの! そうじゃないと、わたしは婚約破棄で修道院行きだ。もっと酷いことになるかもしれない。現実はゲームじゃないんだから!
「本当にいい匂いだ」
でも、もう耳とか頬とかに殿下の唇が触れそう。どうしよう。仲良くしなくちゃいけないけど、こういう時ってどうしたらいいの。
「ああ……たまらない」
「ひ……っ!」
唇どころか、べろんと首筋を舐(な)められて、わたしの頭は真っ白になった。
とりあえず、初対面でアルヴィン殿下を突き飛ばしたり逃げ出したりする失敗はしなくて済んだ。そのあと、どうしたらいいか考える必要もなくなった。
……アルヴィン殿下の前で気絶してしまったから。
◇僕と運命の日
僕を引き寄せるあまりにも芳(かぐわ)しい香りに、思わず彼女の首筋を舐めてしまった。いけないとちらりと思ったが、抑えきれない衝動だった。
それでも足りない。舐めるだけじゃない。もっともっと味わいたい。
だけど箱入りの令嬢であるバルバラには、それさえも意識を手放すほどの衝撃だったようだ。ふらっとよろめいたバルバラを支えて、彼女の後ろにあった長椅子に横たわらせる。そのまま僕も、彼女に寄り添って椅子に腰を下ろした。
完璧なんて言われているが、今の僕には貴婦人の重いドレスを着た少女を抱きかかえる腕力などない。バルバラはずいぶん華奢(きゃしゃ)なようだが、無理に不安定なことをするのはよくないだろう。僕が転んだり、万が一彼女を落としてしまったりしたら危険だ。
でも横たわらせると匂いが遠くなって、失敗を悟った。
ああ、もっと近くで……。
だけどバルバラの上に覆いかぶさろうとしたところで、襟首を掴まれて無理矢理上体を引き起こされた。
「何をするんだ、グリフィス」
不満を抑えきれずに、襟を掴んでいる僕の乳兄弟を振り返る。
「それは私の台詞(せりふ)です! 何をなさっているんですか、殿下!!」
「僕? 僕はバルバラのいい匂いを堪能しようとしていたよ」
「匂い……?」
グリフィスは、理解できないという顔をしていた。僕もこんなにいい匂いの女の子がいるなんて、ついさっきまで考えもしていなかったから、グリフィスが理解できないのも仕方がない。
「すごくいい匂いなんだ……もしかしてわからないのか?」
グリフィスには、そもそもこの匂い自体がわからない様子だ。僕の嗅覚が良いというだけでなく、個人差とか、好みとか、そういった違いによるもののようだ。
うん、それはよかった。バルバラの匂いが誰にとってもこんなにたまらないものだったら、大急ぎでバルバラをどこかに閉じ込めなくてはいけないところだった。
バルバラのことを何も知らないとは言わない。婚約者に決まる前から、あらかじめ調べられることは可能な限り調べた。だけど、それは本当にうわべの情報だったのだと今は思う。こんな素晴らしい匂いの女の子だなんて、どんなに調べてもわかりはしなかった。
バルバラを婚約者に選んで、本当によかった。他の女性と婚約して、あとからバルバラに出会ってしまったなら、僕は途方もなく絶望しただろう。
「その香りがお好みならば、同じ香油を用意させましょう。なので、バルバラ様の上から退(ど)いてください」
「違うぞ、グリフィス。香油ではないんだ。芳しいのはバルバラ自身の匂いだ。バルバラの体臭だ」
「……どちらでも構いませんから、退いてください」
「構わなくない。香油と違って、バルバラの匂いはバルバラにしか発せられないだろう。離れたら、感じかたが弱くなる。この全身より香り立つ、僕を駆り立てるようなたまらない匂い……」
「やめてください!」
ぐっと襟を引っ張られて、一瞬息が詰まる。グリフィス、ちょっと手荒すぎないか。
「人の目のあるところで言うようなことではございません!」
「人の目と言っても扉を守る近衛と、部屋付きの衛士がいるだけじゃないか」
「十分です! 人の目のある場所で、破(は)廉(れん)恥(ち)な……! このような姿が外に漏れればバルバラ様が傷物と扱われるだけでなく、殿下がそういったことにだらしがない人間だと思われるのですよ!」
正直に言えば、グリフィスがこんなに怒るとは意外だった。グリフィスは乳母の子で乳兄弟だけど、僕の侍従になった頃から、僕に意見するようなことはなくなっていた。
もう、僕を僕として見ることをやめたのだと思っていた。
でも彼の怒りが自分の都合ではなく、僕とバルバラのためのものだということは僕にも伝わってきた。だから後ろ髪引かれる思いというのはこういうものなんだなと思いながらも、僕はバルバラの上から下りた。
「わかったよ……グリフィス」
下りたけど、やっぱり不満だ。バルバラは僕の婚約者なのだから、もっと近くに寄り添っていてもいいのではないだろうか。
バルバラの匂いを十分に堪能する方法を考え、彼女の横に跪(ひざまず)いた。手を取り、そこに顔を寄せる。
……手も柔らかくていい匂いがするけれど、もっと強く感じたい。人の匂いというのは、どこからどのように香るのだろうか。それを真面目に考えたことがなかったことを、僕はここで知った。
なんだ……僕は完璧などとは程遠いじゃないか。褒められ煽(おだ)てられて、いい気になっていただけだ。僕は、まるで無知だ。
バルバラの、どこから、この芳しい香りが放たれているのかを僕はきちんと知らなくては……。
「殿下! 何をなさっているんですか!」
またグリフィスに襟首を引かれて、ぐっと息が詰まった。
「気を失ってしまったバルバラの看病だよ」
「看病というのはそんな風に体の匂いを嗅ぐことではありません!」
また叱られた。顔を寄せすぎたか。
でも、近づいたほうが、やはり匂いは強くなる。
「女性の匂いを嗅ぐだなんて……バルバラ様がお目覚めになってこのことを知ったら、とても辛い思いをされるでしょう」
「女性の匂いを嗅いではならないというのか? 僕はあまり好きではないけれど、みんな香油や香料を使うだろう。それは人に香りを嗅がせるためだと思っていたが」
「アルヴィン殿下は、バルバラ様の香油の香りがお好きなわけではないのでしょう?」
「いい匂いならば、同じじゃないか?」
「違います」
グリフィスが半眼で首を振る。グリフィスがあんなに怒ること自体めずらしいが、こんな顔しているのも初めて見るな。
「……今日の面会はこれで終わりにいたしましょう」
「そんな!」
バルバラの匂いをもっと嗅ぎたいのに。
「バルバラ様にはお休みいただいて、お目覚めになられましたらお帰りいただきましょう」
バルバラについてきた侍女が「かしこまりました」と礼をする。
「なら、僕の部屋で休めばいい」
「なりません!」
「人目があるからだめだと言ったじゃないか」
「殿下のお部屋なんてもっと悪いです」
額を押さえたグリフィスが、僕の襟首をもう一度つかみ、絞り出すように呪文を唱えた。
「あっ」
拘束された!
「……仕方がありません。私が殿下を押さえている間にバルバラ様を運び出してください」
拘束魔術を使うなんて……!
絡みつく魔力を解こうとするが、グリフィスの魔力が強くて力業では無理だった。どこかから弱らせないといけないが、その間にもグリフィスはバルバラを帰す手配を始めている。
間に合わない。
「このまま、お帰りいただきましょう。男がご令嬢の体に触れるのも担架で運ぶのもまずいので、女騎士か力仕事のできる侍女を呼んできてください。姿を覆える布かマントも一緒に用意を。お帰りの際、人目につかないように馬車を裏に回してもらってください」
衛士がグリフィスの命じたことを伝えに部屋を出ていく。
僕は油断したことを後悔した。バルバラが帰ってしまう……!
僕にとって、この日はあらゆる意味で運命の日だった。生涯の伴侶(はんりょ)となるバルバラと出会った日にして、僕があまりにも未熟だと思い知った日……。
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