書籍詳細
今日からあなたの護衛です 〜王太子殿下の十年目の執愛〜
定価 | 1,320円(税込) |
---|---|
発売日 | 2020/11/27 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
プロローグ
——ミッドランド王国北西にレイス島という島がある。
一年を通して強風が吹き荒(すさ)んでいるので、一見人の暮らしにくい過疎地に思える。だが、実は気候を生かしたウイスキーの製造が盛んで、島には職人とその家族のためのいくつかの村が点在し、狭い島にもかかわらず人口は百人近くに及んでいた。
セレストと息子のリックが暮らす小さな古家は、村の一つである西のフール村の片隅にあった。
親子の一日は、手作りの祭壇に安置された、十字架に祈りを捧げることから始まる。両膝をついて両手を組んで目を閉じ、主に感謝するのだ。
リックが生まれてから四年半、欠かさず続けられてきた習慣だった。
セレストは天上の存在にひたすら願う。
まず、リックが健やかに育つように。その未来が明るいものであるように。そして、愛するあの人が幸福であるように——セレストの願いに自分についてのことは何もなかった。
母の祈りがあまりにも長いので、隣のリックは退屈になってきたらしい。瞼(まぶた)を片側だけ開けてエメラルドグリーンの瞳を覗(のぞ)かせ、指先でつんつんとセレストの脇腹をつっついた。
「なあ、母ちゃん、まだ終わらないのか? さっさとメシにしようぜ」
「ダメ。神様にちゃんとお祈りしなさい」
「ちぇっ」
セレストは再び瞼を閉じたリックを横目で眺める。
月足らずで生まれたのだとは信じられないほど、リックは元気に逞(たくま)しくすくすく育っていた。貧しい生活にも泣き言一つ言わない。
通称リック——リチャードの髪の色は銀、顔立ちもどちらかといえば自分似で少女のようだ。だが、純粋なエメラルドグリーンの瞳は、この先一生会うことはないだろう、父親から受け継いだものだった。
愛しい人の面影をリックに見つけるたびに、セレストは幸福を噛み締めるのだった。
ようやく祈りを終えて立ち上がる。
「さて、終わり。何か食べようか」
「あっ、母ちゃん、オレ昨日の夜、麦(むぎ)粥(かゆ)作っといたんだ。それから村長んちから分けてもらったカブのパテが余ってる」
「いつの間に……。リックはすっかり料理上手になったね」
「そりゃあ、母ちゃんに任せておくと、消し炭か生ゴミしか食えないもんな」
「もう、一昨日のことは忘れてよ」
実は一昨日だけではなく、セレストが料理をすると、毎度物体エックスとでもいうべき代物ができあがる。料理だけではなく家事全般が極端に苦手なのだ。
特殊な生い立ちのせいで、この島に来るまでは炊事、掃除、洗濯とは無縁だったからだろう。また、母親になるまで自覚していなかったのだが、女としてはどうも不器用で要領が悪いらしい。覚えようとわたわたする間に、リックの方が早く上達したというわけだ。
もっともリックが齢(よわい)四歳にして、こうもしっかりしてしまったのは、セレストに生活力がないことだけが原因ではない。もう一つ、より深刻な理由があった。
セレストは「生意気なのは誰譲り?」とぼやきながら、素早く身を翻(ひるがえ)して玄関に向かう。
「おい、母ちゃん、どこへ行くんだよ」
「せめて水でも汲(く)んでこようかと思って。そろそろ飲み水なくなる頃でしょ?」
母の言葉にリックは大きく首を横に振った。
「まだいいよ。だって重いだろ」
「大丈夫、大丈夫。母さんが力持ちなのはリックもよく知っているでしょ?」
セレストが使い込まれたせいで黒ずんだ木の扉の取っ手を掴んだその時だった。急に目の前が真っ暗になり、吐き気を催すのと同時に気が遠くなる。
「母ちゃん!」
危うく後ろから倒れそうになったところを、飛び出してきたリックが支えてくれた。
「ほら、言わんこっちゃない。風邪引いたばっかりなのに」
子どもとは思えない力強さである。
「ごめんね……ありがとう」
セレストは礼を言いながら、最近また背が伸びたリックを見下ろした。
リックは成長するにつれ、次第に父親に似てきている。姿形だけではなく、優しい心の在り方もだ。
いつのことだったか、愛する人が——エドワードが軽々と自分を横抱きにし、驚いたのを思い出す。腕の力強さと厚く逞しい胸のかたさを、今でも肌と体でよく覚えていた。そして、男性に守られる安心感も——
あの時エドワードは抱き上げた腕の中のセレストを、愛おしげに見下ろしてくすりと笑った。
『セレスト、お前は随分軽かったんだな。まるで羽根のようだぞ』
違う。自分が軽いのではなく、そちらが成長したからだと訴えようとしたのだが、エドワードは先手を打ってセレストの額に口付けた。
『餌付(えづ)けが足りなかったな。明日からもっと食わせなければ』
『餌付けって私は馬や豚ではありませんよ』
照れくささにそっぽを向くセレストが可愛かったのだろうか。エドワードは「当たり前だ」とまた笑って、細い体をそっとベッドに下ろした。
『馬や豚はお前ほど可愛くはない』
——リックは思いに耽(ふけ)るセレストを抱き起こし、「もう今日は寝ていろよ」と訴えた。
無理を押してリックを出産して以来、息子の生命と引き換えにしたかのように、セレストの体はすっかりひ弱になり、頻繁に貧血で倒れるようになった。病にもかかりやすくなったようで、風邪を一度引くとなかなか治らない。肺炎で死にかけたことも一度や二度ではなかった。
それでも、なんとかリックを育ててこられたのは、村民らの協力によるところが大きい。皆、島生まれの子であるリックを大層可愛がってくれ、食料の援助や家事の手伝いを惜しまなかった。
いつかなんらかの形で恩返しをしなければと思うが、貯金は島に渡るのと生活費にほとんど使ってしまったし、身を粉(こ)にして働こうにもこの体ではかえって迷惑をかけるだけだ。かつては「疾風のグレン」と呼ばれ、手(て)練(だ)れとの評判をほしいままにしていたのに、すっかり役立たずになってしまったと思うと悲しかった。
リックに付き添われ寝台に身を横たえる。
リックはセレストに毛布を掛けると、「今麦粥持ってくるから」と腰を上げた。
「母さんはいいからリックが全部食べて」
「ダメだ。食わなきゃ治るもんも治らないだろ」
「……そうだね」
セレストが倒れるたびに、リックは必死になって看病しようとする。たった一人の家族である、母を失うのを恐れているのだろう。その姿を見るたびに心が痛んだ。
リックが成人するまで、生きていられるのかどうかと、近頃不安で仕方がない。いくらしっかりしているとはいえ、まだ母親が必要な年頃なのだ。万が一自分が死んでしまった場合、リックはどうやって生きていけばいいのだろうか。
ふとエドワードの顔が脳裏に浮かぶ。何を考えているのかと溜め息を吐いた。
逃げ出した自分が彼に頼る権利などない。すべてを背負う覚悟でリックを産んだのではないか。
リックを腹に抱えてこの村に流れ着き、命がけの出産を迎えたあの日を思い出す——。
この村では毎年大麦の収穫期や酒造りの時期には、村民だけでは人手不足となるので、村はそれぞれ出稼ぎ労働者を雇うことになる。五年前、事情があったセレストはその中に紛れ込み、村長に頭を下げて村に住み着いた。
村は家族連れや若者の移住を歓迎している。特に独身の若者は労働力となるだけではなく、村人の伴侶となることもあるからだ。
セレストの場合は、事情を打ち明けることはできないが妊娠しており、更に行くところがないのだと言葉少なに語ると、同じように訳ありでやってくるミッドランド人は多いのだろう。村長は若い娘さんなのにと大いに同情してくれ、小さなぼろ屋でもよければと、空いた古屋を一軒割り当ててくれた。
この島には移住者を歓迎する以外に、もう一つの特徴があった。百年前までは独立しており、島独自の文化と民族があったのだが、ミッドランドの侵略により領土の一部となったのだ。
先祖代々レイス島に暮らす村民らは、そうした歴史的背景があるからか、いまだにミッドランドに対する反感が根強い。とはいえ、反乱を起こすほどの力があるわけではない。
王家もそうした傾向を把握しているからか、決まった税金を納めさせる以外は、極力干渉せずにいようとするところがあった。要するに、面倒なので金以外の関係を断ち切っているのだ。
セレストにとってこの状況は都合がよかった。どこの馬とも知れぬ者でも受け入れてもらいやすいだけではなく、宮廷の捜索の手が及びにくい。また村民は情に厚くセレストを温かく迎え入れ、女一人では大変だろうと何かと気遣ってくれた。
セレストは村の仕事を手伝いながら日々を過ごし、出産の準備を進めていたのだが、まだ予定よりも一ヶ月も早いある冬の日、激しい腹の痛みを覚えて自宅で倒れた。セレストの様子を見に来た産婆が発見した時には、顔から血の気が引いているだけではなく、呼吸すら儚(はかな)くなっており、一刻も早い処置が求められた。
——体が冷たく心も凍り付いてしまいそうだった。
セレストの遠くなりゆく意識の中で、人生で最も幸福だった日々の記憶が、次々と通り過ぎていった。エドワードと初めて出会った日、アルファベッドを教えられた日、鹿肉のパイをもらった日、初めての夜を過ごした日——愛しい人との日々はすべてが幸福の象徴だった。すべてが懐かしく愛おしかった。
同時に、どこからか老女と少女の話し声が聞こえた。
『まずい。これは逆子になっているよ。おまけにへその緒が赤ん坊の足に絡み付いている』
『助かりそうなの?』
『このままではセレストも赤ん坊もどちらも死んでしまうね』
赤ん坊という言葉にたちまち意識が蘇(よみがえ)り、死にかけている場合ではないと、気力を振り絞って瞼を開けた。
古屋のたった一室しかない部屋の片隅にある、干し草でできた寝台に寝かされているらしい。気絶しているうちに日は落ち、室内は薄暗くなっていた。
『あっ、セレストが目を開けたよ』
顔に見覚えのある少女が弾んだ声を上げた。確か、産婆の孫娘のアンナのはずだった。将来、自分も産婆になりたいと志願して、祖母の仕事を手伝っているのだ。
『大丈夫? 気分はどう?』
『ここは……』
孫娘に代わって産婆が答えた。
『あんた、家で倒れていたんだよ。出血がひどくて意識を失ったんだ』
産婆と孫娘は揃(そろ)ってセレストの顔を覗き込み、赤ん坊の現状について説明した。産婆の顔が悲しそうに歪む。
『残念だけど、赤ん坊は諦めた方がいい。このままじゃあんたが死んでしまう』
まだ若いのだから赤ん坊を産む機会はいくらでもある。どうか決断してくれと溜め息を吐いた。
『あきらめる……?』
エドワードとの愛の結晶の命を諦める——そんな選択ができるはずがなかった。
腕を伸ばし産婆の手首を掴む。有り得ない力強さに驚いたのだろう。産婆はぎょっとしてセレストを見下ろした。
『ちょっと、こんな時に何をするつもりだい!?』
セレストの顔色はすでに青よりも白に近く、脈拍も徐々に遅くなっていたが、それでも、澄んだ瞳が強い意志の光にまばゆく輝いた。
『……おばあさん、私は、血が流れるのには慣れています。お腹を切ってもいい。私は構わないから、赤ちゃんを取り上げてください』
『だけどね……!』
『どうかお願いします』
本当は死んだ方が楽だと思うほど苦しい。だけど、赤ん坊はもっと苦しいのだ。母親である自分が守ってやらなければならないのに。
おのれの強さを思い出せとみずからを叱咤(しった)し、額に脂(あぶら)汗(あせ)を浮かべながらも、不敵に微(ほほ)笑(え)み産婆を見上げた。
『私は、死にかけるのには慣れています。だから、平気です。地獄からの帰り道は、よく知っていますから』
『あんた……』
死を乗り越えて命を生み出そうとする覚悟と、ただ者ではない空気を感じ取ったのだろうか。産婆は目を見開きセレストを凝視した。やがて、心を決めたのだろう。
『……わかったよ。私にだって産婆としての誇りがある』
唇を引き結んで強く頷き、孫娘に「ウイスキーを持ってきな!」と命じた。
『えっ、ウイスキー?』
『消毒に使うんだ。この島には腐るほどあるからね。それと、小ぶりのナイフと火と針と糸だ』
『う、うん!』
孫娘が飛び出すのを見送ると、再び横たわるセレストに目を向け、予言者さながらの口調で重々しく告げた。
『この世のものとは思えないほどの痛みになるよ。だからといって、赤ん坊が無事に生まれるとは限らない。親子共々あの世行きの可能性の方が高い。……それでもいいんだね』
『はい』
迷いなく頷いた直後に、孫娘が籠を抱えて戻ってきた。
『お祖母(ばあ)ちゃん、全部用意してきた!』
『よし、こっちへ来なさい。お前もよく見ておくんだ。今からやる方法は、この島の産婆だけが知る手術法だ。昔、東の果ての国から来た賢者が伝えてくれたんだよ』
産婆はセレストに布を噛ませ、両手を寝台に括(くく)り付けた。痛みで暴れないようにするためだ。最後にナイフにウイスキーを振りかけると、「さあ、始めるよ」とセレストと孫娘に告げた。
間もなく襲ってきた激痛に悲鳴を上げそうになる。敵に斬り付けられるよりもはるかにひどい痛みだった。それでも、歯を食いしばって堪(こら)える。手術を見守る孫娘の方が辛そうに見えた。
『おっ……お祖母ちゃん……。セレスト、すごく痛そうだよ……』
それでも、産婆は決して手を止めない。
『アンナ、目を逸(そ)らすんじゃないよ。生まれるとはこういうことだ。母にとっても子にとっても最大の試練なんだ。この試練を乗り越えて生まれてくるからこそ人は強くなる』
セレストは産婆の言葉を聞きながら、まだ見ぬ我が子の顔を思い浮かべ、生まれて初めて神に祈った。
どうか無事に生まれてきて。私の何を引き換えにしてもいいから、どうかこの子を助けてくださいと。
——あなたはまだ心躍る喜びも、胸を刺すような悲しみも、大切な人を失った絶望も、生きていてよかったと思える愛も知らない。日の光も、夜の闇も、空の青さも、花の香りも、争いの果てに傷付いて流された血の色も知らない。私はあなたに美しいものも醜(みにく)いものもすべて見てほしい。
それからどれだけの時が過ぎたのだろうか。遠くなりかけた意識の向こうから、弱々しい、だが確かな産声(うぶごえ)が聞こえた。
『……レスト、セレスト、聞こえるかい?』
『はい……』
ああ、生まれたのかと安(あん)堵(ど)の息を吐く。
体力を使い果たしたからか、視界が霞(かす)んで、産婆が胸に抱く赤ん坊の顔がはっきり見えない。
『頑張ったね。ほうら、元気な男の子だよ。月足らずにしては大きいし、体つきもしっかりしている。髪の色はあんたにそっくりだね。目の色は……』
産婆はにっこりと笑うと、セレストの胸におくるみに包まれた赤ん坊を置いた。
『自分で確かめた方がいいね。この綺麗な色の瞳はお父さん似かい?』
世界を見定めようとするかのように、真っ直(す)ぐに自分に向けられたその瞳は、エドワードにそっくりの混じり気のないエメラルドグリーンだった。
『エドワード様……』
震える手で赤ん坊の頬を撫で、二度と会えない愛しい人の名を呼ぶ。頬に一滴、彼と別れて以来流していなかった涙が零れ落ちた。
あれ以来、自分に涙は許していない。とにかく、リックを立派に育てなければと必死だった。なのに、体は思うままに動いてくれない。また、体調以外にも気がかりがあった。
島には数ヶ月に一度、ミッドランド本土から、商人がウイスキーの買い付けに来る。その際リックの父親——王太子エドワードについての噂(うわさ)を聞かされたのだ。
エドワードは五年前、有力貴族であるヒューム伯爵家の令嬢と婚約していたのだが、結婚直前に令嬢が不治の病で亡くなってしまったのだそうだ。ちょうどセレストが王宮から出ていった頃のことだった。以降、口数が少なくなるだけではなく、人間不信になり、以前の情け深さが消え失(う)せてしまったのだという。
軍人からは甘さが消えたと歓迎されているそうだが、以前のように側近に相談することがなくなり、何事も独断で物事を決めるようになってしまったのだとか。しかも、それが無慈悲ではあるが、国益を追求した結果なので、臣下らは困りながら何も言えないらしい。
セレストはエドワードの笑顔を思い出しながら、どうか過去に囚われず、人を信じる心を取り戻してほしいと願う。
確かに、いずれ国を導く者にとっては、過ぎた甘さよりもカリスマや的確な判断力が必要だ。しかし、人を拒む権力者は、恐れられはしても慕われることはない。恐れられるあまりにやられる前にやれと、命を奪われることすらある。
セレストはエドワードにそうなってほしくはなかった。ともに過ごしていた頃のエドワードのように、かつてのおのれの弱さを知るからこそ、他者に情け深くあれる彼であってほしかったのだ。情け深さと甘さとは、似ているように見えるが、違った性質であるはずだった。
エドワードと過ごした五年の月日を思い出す。セレストにとっては光に満ち溢れた日々でもあった。
この続きは「今日からあなたの護衛です 〜王太子殿下の十年目の執愛〜」でお楽しみください♪