書籍詳細
黒薔薇の乙女と美しき夜の王
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2020/12/25 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
Prologue
「わたしのことは放っておいてください」
そう言い放つと、王子はいきなり横面を張られたような顔をした。
苦々しい感情が胸に込み上げる。
後悔……? いや、違う。これは怒りだ。抑圧されて長年燻(くすぶ)り続けていた怒りが、王子の驕(おご)った命令口調で爆発したのだ。
傲(ごう)慢(まん)で自分勝手な王子に対する怒り。
そんな男に、たとえ一瞬でも惹(ひ)かれてしまった自分への怒り。
いくら美男子だろうが、見た目に惑わされて胸をときめかせた愚かな自分に腹が立つ。
その本性は王族の特権を笠に着て、ありがたく思えとばかりに命令する、鼻持ちならない男なのに。
わたしはそのような軽薄な人間ではないはずだ。そんな愚かな人間であってはならない。もしそうなら、ハゲタカのようなあいつらと同類になってしまう。
そんなことは断じて許されない。
亡くなった両親に対する裏切りだわ──。
「……今、なんと言った?」
気を取り直した王子が、聞き違えたはずだとばかりに尋ねる。
一呼吸置いて、胸を反らすように繰り返した。
「わたしのことは、放っておいてください。殿下は仰(おっしゃ)いましたね? わたしの願いはなんでも叶えると」
男らしく整った眉がつり上がる。白(はく)皙(せき)の美貌に血の色が上るのを毅然と見返した。
怒鳴られるのを覚悟した。
あるいは手打ちにされるかも。
ああ、わたし。すごく馬鹿なことをしたかもしれないわね……。
王子の口が、予想どおりに開く。
だが、いつまで経っても怒声は聞こえてこない。
怒りと悔しさと。混乱と懇願と。さまざまな感情がない交ぜになった目付きにちくりと胸が痛む。
握りしめた拳がわなわなと震えているのが視界の隅に映った。
口を閉じた王子は、ぎりっと歯噛みした。
「……それがおまえの願いか」
掠(かす)れ、軋(きし)んだ声音は、苦い失意に満ちていた。その声を聞いて初めて生じた揺らぎを即座に封印する。後悔なんてするわけない。
王子は口許を手で覆い、激痛をこらえるかのようにしばし眉根をきつく寄せていた。
やがて王子はのろのろと手を下ろし、途方に暮れたような顔で呟(つぶや)いた。
「そうか。それがおまえの『願い』か。……ならば叶えるほかあるまい。約束を違(たが)えるわけにはいかぬ」
王子はこちらを見ることなく、ふらふらと部屋を出ていった。窓の外で蹄(ひづめ)の音が鳴り、家臣たちが王子を呼びながら後を追う。静まり返った部屋で立ち尽くしたままそれを聞いていた。
細く長い溜め息が洩(も)れる。
これで、終わり。
泡沫(うたかた)の恋は終わった。
二度と会うことはない。
もう二度と。
きつく唇を噛みしめて、愚かな恋心を封印した。
第一章 常夜の森へ
屋敷の前に馬車が停まる音がした。
明るい二階の窓際で繕(つくろ)い物をしていたミカエラは、馬車から降りる壮年の男を認めて眉をひそめた。眉間のしわは、続いて若い女が降りてきたことでますます深くなる。
(……厭(いや)な人たちが来たわ)
いったいなんの用だろう。
この屋敷に金目のものが残っていないことはよく知っているはず。それともいよいよ先祖伝来の貴重な蔵書まで売り払うつもり?
(それだけは絶対に認めませんからね)
フン、と鼻息をつき、持っていた縫い針をぶすりと針山に突き刺す。
玄関のノッカーを打ちつける音が窓越しに聞こえ、溜め息をついてミカエラは立ち上がった。
階段を下りていくと、ちょうど上がろうとしていた弟のアーリンが困惑顔で肩をすくめた。
「叔父さんたちが来たよ」
「ええ、窓から見えたわ」
頷いて一緒に応接間へ行く。
がらんとした応接間の古ぼけた長椅子で、ふたりの人物がそれぞれ左右の肘(ひじ)掛(か)けにもたれていた。
叔父のアントンと、その娘のカタリナだ。
「ごきげんよう、叔父様」
軽く膝を折ってよそよそしく挨拶すると、アントンはクラヴァットを巻きつけた猪(い)首(くび)を窮屈そうに動かした。
アントンは現在、ミカエラたちが暮らすリール村の領主代理を務めている。父の実弟だが、顔立ちも体型もまったくと言っていいほど似ていない。
次いで、叔父の隣でつまらなそうな顔をしている従妹(いとこ)に視線を移す。
「こんにちは、カタリナ」
「どうなってるのよ、この家は? まだ子どもとはいえ、当主が自ら客の応対をするなんて。召使のしつけもできないの?」
「あいにく召使はおりませんの」
「ああ、そうだったわねぇ」
淡々と応じると、カタリナは高笑いした。もちろん、わかって言っているのだ。
ミカエラたちの父が亡くなり、その弟のアントンが領主代理を引き継いでから五年も経つというのに、未だに厭味を言い足りないらしい。どうしてこれほど敵意を抱かれるのか、理解不能だ。
まじめに相手をするのも馬鹿らしい。さっさと叔父に視線を戻し、ミカエラは切り口上で尋ねた。
「なんのご用でしょう」
「何、その言い方。偉そうに」
案の定、カタリナが眉を吊り上げてわめきだす。アントンは片手で娘を制しながら一見善良そうな笑みを浮かべた。だが、その目付きは狡(こう)猾(かつ)そのもの。
薄茶色の瞳は亡き父との唯一の共通点にもかかわらず、どうしてこれほど違うのだろう。父の瞳はいつも知的で静穏な光を湛(たた)えていたのに。
父が急な病で亡くなると、叔父は跡取りのアーリンが幼すぎると主張し、強引に領主代理の役職を我がものとした。父の生前は卑屈なくらい腰が低かったのに、強欲な本性を一気に剥(む)き出して情け容赦なく父の遺産を奪い盗ったのだ。
「よしなさい、カタリナ。ミカエラとは従姉妹(いとこ)同士じゃないか。一人っ子のおまえにとっては姉のようなものだ。仲よくしなければ、なぁ?」
父に諭され、カタリナはフンと荒々しい鼻息をついた。
言い返さない従妹にミカエラは不審を覚えた。カタリナの性分からしてありえない。そもそも叔父がミカエラと仲良くするよう諭したのは、父が健在だった頃以来ではないか?
アントンは愛想笑いを浮かべ、芋虫みたいな指をぼってりした腹の上で組んだ。
「ときにミカエラや。〈禁断の森〉を知っているかね」
「……王家が所有している禁猟区のことでしょう?」
予想外の問いに当惑しながら答える。叔父はもったいぶったしぐさで頷いた。
「そうだ。王家所有の禁猟区で密猟すれば問答無用で縛り首になる」
叔父は厳めしい顔つきで重々しく続ける。
「しかしな。おまえは知らないだろうが、〈禁断の森〉が恐れられているのは厳しい取り締まりのせいばかりではないのだ。その森は〈不帰(かえらず)の森〉、〈常夜の森〉とも呼ばれ、昔から妖魔が棲(す)まう土地と恐れられてきた。そのため王家専用の狩場とされながら、実際に狩りが行なわれることは滅多にない」
(おあいにくさま、それくらいのことは知ってます)
内心でミカエラは呟いた。口にすればまたカタリナが『偉そうに!』とわめきだすに違いないから、黙っているに越したことはない。
叔父は言葉を切ると目をぎょろつかせ、分厚い下唇を一(ひと)舐(な)めした。どうやら厚顔無恥な叔父であっても言いにくい事柄らしい。
「ミカエラや。その森へ、おまえに行ってもらいたいのだよ」
「────は?」
呆気(あっけ)にとられ、聞き間違いではないかと問い返した。
「わたしが、ですか? 何をしに」
「一角獣(モノケロス)の角を取ってくるのだ」
ミカエラはさらに唖然(あぜん)として、尊大に顎を反らす叔父を眺めた。
「一角獣?」
「あぁら、知らないの? 物知りなのをいつも鼻にかけてるくせにねぇ」
カタリナに当て擦(こす)られ、さすがにムッとする。
「知ってるわ。一角獣がとても珍しい、実在するのかどうかもわからない幻の生き物だということも」
「だったら四の五の言わずに取りに行きなさいよ」
高飛車に命ずるカタリナをミカエラは冷ややかに見返した。
「どうしてわたしが。一角獣の角が欲しいなら、自分で行けばいいでしょ」
「わたしに逆らう気!?」
「逆らうも何も、わたしはあなたたちの使用人じゃないわ。わけのわからない命令に従う義務などありません」
ぴしゃりと言い返すとカタリナは噛みつきそうな顔でミカエラを睨(にら)みつけた。
アントンはいきり立つ娘を制し、狡猾そうな笑みを浮かべた。
「まぁまぁ。落ち着きなさい、カタリナ。説明を聞かねばミカエラとて納得できまい。なにせ昔から強情な娘だからなぁ。──ミカエラや。一角獣の角を欲しているのはわしらではないのだよ。おそれ多くも国王陛下なのだ。唯一の御子である王太子エルロンド殿下をお救いするために、是が非でも一角獣の角が必要なのだ」
エルロンド王子──。
その名を耳にしたとたん、ミカエラの胸に不穏なざわめきが走る。
半年ほど前、ミカエラは偶然にも彼の危機を救った。村の上方にある渓谷で川に落ちた王子は、村外れの岸辺へ気を失った状態で流れ着いた。それを川に魚を獲りに来たミカエラがたまたま見つけ、必死に介抱して息を吹き返させたのだ。
王子はミカエラをいたく気に入り、城へ連れていってやると言い出した。だが、その傲(ごう)岸(がん)不(ふ)遜(そん)な態度は、王侯貴族なんてそんなものだとわかっていても、あまりに不快で耐えがたかった。
そこで、しおらしく『ひとつだけ願いを叶えてほしい』と願い出ると、王子は喜んで承知した。
そしてミカエラは願ったのだ。『わたしのことは放っておいてください』と。
王子は激怒して立ち去った。
それだけのこと。
身の程知らずの村娘が、王子様を袖にした。
ただそれだけのこと──。
「……王子様が、どうかなさったのですか?」
鈍い胸の痛みを感じながら尋ねる。
美しくも才走った、驕(きょう)慢(まん)な王子。ミカエラのことなど数日で忘れたに決まっている。
この国の跡取りである美貌の王子には数多(あまた)の取り巻きがひしめいているのだ。ミカエラよりもずっと美しく、身分の高い令嬢は大勢いる。
あれは熱病みたいなもの。
誘いを真に受けて王城へ行っても、みじめな思いをするだけで、打ちのめされて帰郷するはめになっただろう。
だから、あれでよかったのだ。
(美しい人だったけど、性格的に合いそうになかったもの……)
救えたときの安堵(あんど)だけ、覚えていればいい。息を吹き返したばかりの、傲慢さなど微塵(みじん)も感じさせない、夢見るような彼の美貌だけを。
それだけなら、綺麗な思い出として心の片隅にしまっておける……。
王子とミカエラの経緯(いきさつ)を知らない叔父は、得々と説明を始めた。
「三ヵ月前、殿下は家臣が止めるのも聞かず強引に〈禁断の森〉で狩りをなさった。その折り一角獣を目撃され、仕留めようと追って行かれたが……逆に角で胸を突き刺され、重傷を負ってしまわれたのだ。どうにか傷はふさがったものの、意識は戻らず未(いま)だ眠ったまま」
人の忠告を聞かないあたり、いかにもあの傲慢王子らしい。
とはいえ、さすがに気の毒になって言葉を失う。顎を撫でながらしたり顔で叔父は続けた。
「王室付きの卜(ぼく)占(せん)官(かん)によれば、一角獣によって付けられた傷は同じ一角獣の角によってしか癒せないという。しかし一角獣は非常に凶暴。狩りの名手である殿下でさえ、仕留めそこねた」
ミカエラは気を取り直し、そっけなく返した。
「でしたら、わたしになどなおさら無理です」
「いや、それがな……。なんでも一角獣は未婚の乙女だけは害さないそうなのだ」
「未婚女性ならわたし以外にもたくさんいるのでは?」
ちら、とカタリナに目を遣(や)れば、彼女はつんと顎を反らしてそっぽを向いている。
アントンはわざとらしい笑みを浮かべた。
「それが卜占官が言うにはなぁ、今回の凶事は王家が〈夜の王〉を軽んじた結果なのだとか。ゆえに、一角獣を捕らえるのは王族に連なる未婚女性でなければならない」
叔父の説明はひどく曖昧(あいまい)でわかりづらい。わざとぼかして誤魔化そうとしているかのよう。
何度も質問して、ようやく事情が呑み込めた。
王家に伝わる秘史によると──。
〈禁断の森〉はかつては〈常夜の森〉と呼ばれ、〈夜の王〉なる恐ろしい妖魔が支配していると信じられていた。
一角獣は彼の使い、もしくは愛(あい)玩(がん)物と思われ、森に入ってくる人間たちを害したり、狩りの邪魔をすることがたびたびあったという。
〈夜の王〉と一角獣の機嫌を取るため、代々のルプレヒト国王は定期的に王女をひとり『花嫁』として森へ送っていたが、何代か前の国王夫妻が一人娘を生贄(いけにえ)に差し出すことを厭(いと)い、それくらいならいっそ……と〈常夜の森〉への出入りや狩りを一切禁じた。
森に入らなければ人が襲われることもないはずだ。
そうして〈常夜の森〉は〈禁断の森〉となり、狩りが行なわれなくなったがゆえにルプレヒト王国で最も豊かな森となった。
当然ながら、獲物豊富な森で狩猟ができないことに不満を覚える者は世代を経るごとに増加した。
エルロンド王子もそのひとり。なかでも狩猟再開派の急先鋒だった。
機知に富む世継ぎの王子は怖いもの知らず。心配した父王や老臣たちが諫(いさ)めるのも聞かず、仲間を引き連れて意気揚々と〈禁断の森〉へ赴き──案の定──奇禍(きか)に遭った。
最愛の王妃が遺したたったひとりの王子を、国王は目の中に入れても痛くないほど溺愛していた。国中の医師を呼び集めて治療に当たらせ、王子は命を取り留めた。しかし、何日経っても目覚めない。
水だけはどうにか飲ませられるが、このままではいずれ餓死してしまうのは目に見えている。切羽詰まった国王は王室付き卜占官に占わせ、託宣に従って王族の未婚女性に一角獣の角を取りに行かせることにした。
ところが困ったことに、国王の子はエルロンド王子ひとり。
仲むつまじかった王妃を早くに亡くした国王は、家臣たちに再婚を勧められても頑として突っぱね、独り身を通していた。
国王に姉妹はおらず、兄弟はすでに全員没している。残された子どもたちも男ばかりだ。
家系図を遡(さかのぼ)り、複雑に枝分かれした系譜をたどりにたどって、ようやく捜し当てた未婚女子がカタリナだった。
国王はさっそくアントンとカタリナを宮殿に呼びつけ、一角獣の角を持ち帰ってエルロンド王子の意識が戻れば、カタリナを王太子妃にしようと持ち掛けた。
カタリナとアントンは驚喜した。ごく薄くでも王族と縁があるとなれば、単なる領主の家来ではないのだと得意になった。
とはいえ、妖魔の棲む森になど娘をやりたくないし、指名されたカタリナだって絶対行きたくない。
一角獣は未婚の乙女にだけはおとなしいと言われても、本当かどうか知る者はいないのだ。書物に書かれているからといって真実とは限らないではないか。
それに……森の支配者である、恐ろしい〈夜の王〉。
一角獣の角を持ち帰るには当然、彼の許可を得なければならない。勝手に捕まえようとすれば間違いなくエルロンド王子の二の舞だ。
「──冗談じゃないわ! そんな恐ろしいところ、誰が行くもんですかっ」
叫んだカタリナは大きく身震いし、親指の爪を噛んだ。
ミカエラは自分勝手で尊大なくせに子どもじみた従妹を横目で眺め、肩をすくめた。
「王子様の花嫁になりたいのでしょう? だったら覚悟するしかないんじゃ──」
「だからおまえに行けと言っているのだ! おまえにだって資格はある。このわしの姪(めい)なんだからな!」
いきなり叔父が怒鳴りつけた。
「下手に出ていればグダグダと理屈ばかり捏(こ)ねおって。昔からお高くとまった、いけすかない娘だと思っていた」
はからずも本音を洩らした叔父を無表情に見返し、ミカエラはぼんやりと想像した。
もしも父が生きていたら、この『王命』は最初からわたしに来たのかも……?
一角獣の角を取ってくること。
その報償としてエルロンド王子の花嫁としてお城に迎えられること──。
(あんな傲慢王子の花嫁なんて、わたしはごめんだわ)
カタリナは王子の性格を知らないが、たとえ知っていても王太子妃としてお城に住めるなら気にしないのだろう。
エルロンド王子は、少なくとも見た目においては文句のつけようがない美男子だ。
案外似た者同士で気が合ったりして……?
そう考えると胸の奥底がちりっと焦げるような感覚に襲われ、ミカエラは無意識に答えていた。
「──お断りします」
「なんですって!?」
カタリナが眉を吊り上げる。ハッと我に返ったミカエラは、うっすらと冷笑を浮かべた。
「王太子妃にはなりたいけど危険を冒したくない。ずいぶんと身勝手ね。仮にも王族に連なろうとする人が、そんなズルをしていいものかしら?」
「あんたさえ黙ってればバレやしないわ」
毒々しい悪意を込めてカタリナは言い返した。
「利口なミカエラは余計なことなど言わないさ」
嘲(あざけ)るような叔父の猫撫で声に、ぞわっと鳥肌がたつ。
嫌悪の目付きを向けられても叔父は気にも留めない。
カタリナが鼻にしわを寄せ、天敵を威嚇(いかく)する貂(テン)みたいな顔で毒づいた。
「利口ぶってるだけよ。たいしたこともない蔵書を受け継いだだけで偉そうに……。どうせろくに読んでもいないんでしょ」
「ちゃんと読んでます!」
「この屋敷の蔵書は危険だ」
唐突に叔父が言い出し、ミカエラは面食らった。
「危険? 何がですか」
「出所の怪しい禁書が交じっている。さっさと処分すべきだ」
「そんなものな──」
「まぁっ、大変! 王子様の花嫁になるというのに、そんな不埒(ふらち)な親戚がいたんじゃたまらないわ。屋敷ごと焼き払ってしまいましょうよ、お父様」
「そうだな。だいぶ古くなって目障りだし、倒壊の危険もある。そうなる前に取り壊すべきだ」
「ついでに川で魚を獲るのも禁止しましょう。最近、海まで下る魚が減っているそうよ。上流で乱獲してるせいだわ」
「それは大変だ。海から戻ってきた魚は特別なもの。王家の方々も召し上がる」
露骨な脅しに言葉を失う。
ミカエラが浅瀬で獲るのは自分と弟が食べるぶんだけ。それも週に一、二度だ。
父が亡くなり、嫡(ちゃく)子(し)である弟から領主代理の役目を叔父が横取りすると、カタリナもまたわけのわからない理由をつけてミカエラの持ち物をあらかた奪い取った。母の遺品まで、めぼしいものはことごとく奪われた。
だが、その横暴を訴え出る場所はない。訴訟を処理するのは領主代理の務め──つまりは叔父の意のままだ。
絶句するミカエラを、ふたりはニヤニヤと眺めている。
こんな人たちと血縁関係にあるなんて、おぞましいばかりだ。
親族の情愛などかけらもない。彼らにとってミカエラたち姉弟は、徹底的に収奪し、利用価値がなくなれば腹いせに踏みつける、ただそれだけの存在なのだ。
「────僕が行くよ」
それまで黙りこくっていたアーリンが、こわばった顔で言い出した。
「あんたじゃ無理よ。ひ弱でも一応男だもの」
カタリナが小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、さすがにおとなしい性格のアーリンもムッとした。
「誰がひ弱──」
「アーリン」
ミカエラが声を張ると、弟は悔しそうな顔をしながら引き下がった。
一呼吸置いて叔父に向き直る。
「……わかりました。カタリナの代わりに〈禁断の森〉へ行きます。ただし、今後一切わたしたちの生活に、口も手も出さないと約束してください」
「いいとも、約束しよう」
叔父は目を細めて頷いた。どっちに転んでも損にはならない。今までどおり捨ておけばいいだけのこと。
「出発は明日の夕刻だ。支度があるから午(ひる)までにはうちへ来い」
「目立たないように裏口から入るのよ」
どこまでも尊大にカタリナが命じる。
ふたりは満足げな面持ちで屋敷を去った。
「……本当に行くつもり?」
ふたりで書斎へ行くと、心細げにアーリンが尋ねた。
ミカエラは弟と並んで窓辺に座り、苦笑した。
「仕方がないわ。断ればあの人たち、本気でこの屋敷を燃やしかねないもの」
「僕がもっと強かったら……」
「何を言うの」
ミカエラは弟の顔を真剣に覗き込んだ。
「アーリンは強い子よ。カタリナの厭味なんか気にしちゃだめ。悔しいけど、今は我慢するしかないわ。いつか領主様に願い出て、代理のお役目を返していただくの。叔父様に言い負かされないよう、論理的に話せるようにならなくちゃね。お父様の遺した書物で勉強しましょう」
「……うん。わかった」
真剣な顔で頷く弟を、ミカエラは微笑んでぎゅっと抱きしめた。
翌朝、ミカエラは村の鍛冶(かじ)屋へ赴いた。
鍛冶屋の息子のバートはミカエラよりひとつ年上の二十歳。幼なじみで、父の没後も変わらず交流している数少ない村人のひとりだ。
しばらく留守にするので、ときどき弟の様子を見てやってほしいと頼むと、バートは目を瞠(みは)ってミカエラを見返した。
「どこへ行くんだ?」
「それはちょっと……言えないの。叔父のお使いなのよ」
「やめとけ」
「どうして?」
「ろくでもない用事に決まってるからだ。叔父だろうが領主代理だろうが、あんな奴に従う義理はない」
「そういうわけにもいかなくて……」
バートは苦笑するミカエラをじっと見据え、渋い顔で肩をすくめた。
「ちょっと待ってろ」
ぶっきらぼうに言って奥へ引っ込んだかと思うと、一振りの短剣を手に戻ってくる。飾り気のない鞘(さや)から引き抜くと、うっすらと青みを帯びた鋭い刀身が現われる。
「綺麗ね……」
村の鍛冶屋としてなんでも作るが、バートはとりわけ剣を打つのが得意で、領主やその家臣たちにも納めている。
「護身用だ。何があるかわからんからな」
「それじゃ借りるわ。ありがとう。……アーリンのこと、お願いします。叔父に頼もうかとも思ったんだけど……本人が絶対いやだと言い張るものだから」
「心配するな。メシはうちで食えばいい」
「でも」
「おふくろだってそうしろと言うに決まってる。旦那様にはずいぶん世話になった」
「ありがとう……」
ミカエラはホッとして微笑んだ。嫌いな叔父でも弟のためなら我慢して頭を下げるが、いいようにこき使われるのではと心配だったのだ。
無口で無愛想だが、バートはいつもミカエラたちに優しかった。アーリンもバートを兄のように慕い、彼の両親も何かと姉弟を気遣ってくれる。
礼を述べて去るミカエラを見送って、バートは頭をがりがり掻きながら憮然と溜め息をついた。
帰宅してわずかな着替えと生活用品を鞄(かばん)に詰め、せめて今日明日の分だけでも、と弟の食事を用意する。気がつけばそろそろ家を出なければならない刻限になっていた。
「……それじゃ、行くわね」
玄関で互いに抱擁とキスを交わす。
「気をつけて」
「アーリンもね。バートに頼んでおいたから、何かあったら相談するのよ」
「うん、わかった」
もう一度ぎゅっと弟を抱きしめ、額にキスして玄関を出る。
アーリンは村道へ続く庭木戸までついてきて、ミカエラの姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
ミカエラは外(がい)套(とう)のフードを深くかぶり、うつむきがちに急ぎ足で歩いた。
叔父の屋敷の前には大勢の村人たちが集まっていた。一角獣捜索の件はすでに村中に知れ渡っているようだ。
あるいは得意になった叔父が自ら吹(ふい)聴(ちょう)したのかもしれない。我が娘が王太子妃に選ばれたんだぞ、と。叔父の性分として、まだ確定していなくても黙っていられないだろう。
言われたとおり裏口へ回ると、厳めしい顔つきの家政婦が待ち構えていて、いきなり頭からすっぽりとショールをかぶせられた。手首を掴まれ、引っ立てられるように奥へ連れていかれる。
部屋に入ってショールを取ると、尊大に腕組みをしたカタリナが目の前に立っていた。
「遅かったわね。ま、逃げ出さなかったことは褒めてあげる」
刻限どおりに来たつもりだが、カタリナはミカエラのすることなすこと難癖をつけずに済まさない。
カタリナは家政婦に向かって横柄に頷いた。心得顔で家政婦がミカエラを衝立(ついたて)の陰に引っ張っていき、そこで用意されていた服に着替えさせられた。
貴婦人が外出時に着るような襟付きのジャケットドレスで、歩行の邪魔にならないよう裾はやや短め。ウエストから左右に広がり、アンダードレスを見せるデザインだ。カフス付きの七部袖にはレースがあしらわれている。
光沢のあるシルクタフタ生地で仕立てられたドレスは、すべてのパーツが純白だった。肘まである手袋も白。紐で編み上げるショートブーツも白。まるで花嫁衣装のようだ。あるいは死装束だろうか……?
ミカエラとカタリナの顔立ちに共通点はほとんどない。瞳の色はカタリナが毒々しいほど鮮やかなコバルトブルーなのに対し、ミカエラはかすかに黄色みがかった銀灰色だ。ただ、黒褐色の髪と背格好だけは似通っている。
差し出された鏡を覗き込み、かつて母がミカエラの瞳を『月光を透かす薄雲みたい』と言ってくれたのを思い出した。
鮮やかな青い瞳がご自慢のカタリナに、あんたの目は変な色だ、気持ち悪いと罵(ののし)られて泣いてしまったときのことだ。
カタリナはミカエラを泣かせてやったとご満悦だったが、彼女の前で泣いたのはあれが最初で最後。
ドレスの上から大きなフード付きの白いマントをはおって出て行くと、カタリナは妬(ねた)ましげにじろじろ眺めた。
「言っておくけど貸すだけだからね。国王陛下からドレス一式をいただいたのはわたし。このわたしなんだから!」
「だったらあなたが行けばいいでしょ」
とげとげしく言い返すと、いきなり頬が鳴った。力任せに平手打ちを食らわせ、カタリナは憎々しげにミカエラを睨(ね)めつけた。
「貧乏人が偉そうに、何様のつもり!? あんたは黙って従えばいいのよ」
貧乏になったのは誰のせいだと? だが、それ以上言い返しても不毛な掴み合いに発展するだけなのはわかっている。ミカエラが叩かれた頬を押さえることなく無表情に見返すと、カタリナはたじろいだように舌打ちした。
さすがに見かねたか、家政婦が小声でたしなめる。
「お嬢様、頬が腫れていては怪しまれるかもしれませんわ」
「フードをかぶれば大丈夫よ」
カタリナは気を取り直して尊大にうそぶき、くすんだ薔薇(ばら)色の優美な天鵞絨(ビロード)張りの寝椅子にどすんと腰を下ろした。
「角を手に入れたらさっさと戻って来なさいよ! わたしはそれまでこの部屋から出られないんだから。ああ、考えただけで息が詰まりそう」
身勝手にもほどがある言いぐさに呆(あき)れていると、部屋の扉がノックされ、叔父のアントンが顔を出した。
「用意はできたか? おお、ぴったりだな。──い、いや、サイズのことだ」
満足そうに頷いたアントンは、娘に睨まれて慌てて言い足した。
「これを渡しておく」
赤い封蝋の押された手紙を差し出される。
「国王陛下からの親書だ。〈夜の王〉に出会ったら渡すように」
「……どうすれば会えるんですか?」
「わしが知るわけないだろう。探すのはおまえだ」
当然とばかりに叔父は肩をすくめた。
ふと気付いた。もしかしたら叔父がカタリナを行かせたくないのは、この捜索が成功する見込みの乏しい大博打(ばくち)と見抜いたから……なのでは?
〈禁断の森〉にはもう何百年も人が入っていない。狩猟好きの貴族たちからいくら要望されても国王は応じなかった。
それを押し切って数百年ぶりの狩りを強行したのが愛息のエルロンド王子だったのは、皮肉としか言いようがない。そして図らずも王子は伝説を実証することとなった。
森の中がどうなっているのか知る者はいないのだから、〈夜の王〉が森のどこにいるのか誰にもわからない。一角獣が実在したからには〈夜の王〉もいるのだろうが……。
国王は愛息を助けたい一心で、藁(わら)にもすがる思いなのだ。どんなに見込みが薄くても、真偽不明の伝説に従って遠縁の者を送り込もうとするくらいに。成功すれば王子の妃にしようと約束するくらいに。
穿(うが)った見方をすれば、失敗しても処罰を躊躇(ちゅうちょ)しない程度の薄い縁でしかない。王子自身の過失を押しつけ、八つ当たりで処刑しても問題のない平民。
狡猾きわまりない叔父のこと、国王の腹の内もすでに見抜いているだろう。
王命に逆らうことなど許されない。だったら、なんら情を感じていない姪に愛娘の身代わりをさせ、成功すれば自分たちの手柄に、失敗すれば財産を持って他国へ逃亡すればいい。
(……たぶん、そんなとこね)
穿ち過ぎならよいが、これまでの仕打ちを考えればありえないこととも思えなかった。おそらくすでに抜かりなく手(て)筈(はず)を整えているはず。
残照の空の下、ミカエラは国王差し回しの豪華な馬車に乗って出発した。フードを深くかぶって父親に付き添われた姿を見れば、それがカタリナではないと疑う者などいない。
夕方になって人だかりはさらに増えていた。馬車に乗るとき、ふとアーリンとバートの姿が見えたように思い、ミカエラはひやりとした。
きつく口止めしておいたから、アーリンはバートに真相を話してはいないはず。一角獣捜索の件はすでに知れ渡っているから、カタリナの出発を見物に来ただけだろう。
ミカエラは急いで馬車に乗り込み、紗(しゃ)を下ろした窓からそっと外を窺った。やはり群衆の一番後ろにアーリンとバートが並んでいた。アーリンが話さなくても、バートは気付いたのだろう。
事情を察し、引き止めるのは無理と悟って短剣を持たせてくれたのだ。ミカエラには非常に頑固な一面があることを、彼はよくわかっている。
無表情にこちらをじっと見つめながら、バートは不安そうなアーリンの肩をしっかりと抱いていた。
大丈夫だ、と言われた気がして目が熱くなる。
(ごめんなさい。ありがとう……)
馬車が動き出す。
「こら、窓に張りつくな。バレたらどうする」
脅すように叔父が低声で叱咤(しった)する。ミカエラは黙って座席の背もたれに背中を押しつけ、腿の上でぎゅっと拳を握りしめた。
馬車の後ろからはリール村の領主であるリール伯爵とその私兵たちが監視兼護衛として付いてきている。
〈禁断の森〉は直線距離では村からさほど離れていないが、途中に深い渓谷があるので回り道をしなければならない。
その渓谷は風光明媚な場所で王侯貴族もよくやってくる。エルロンド王子もそこで足を滑らせて転落し、急流に押し流されて村外れの浅瀬に半死半生で流れ着いたのだ。
(……奇怪(おか)しな縁があったものね)
ぼんやりとミカエラは思った。
かつて溺れかけた王子を助け、今また瀕死の彼を救うことを強いられている。
まるで罰のよう。感謝すべきありがたいお誘いを撥(は)ねつけた、身の程知らずで不遜な自分に天が下した罰。王家が天帝の加護を受けているというのは本当なのかもしれない。
エルロンド王子を助けたい気持ちは、もちろんある。いくら嫌いだろうと、さすがに死ねばいいとまでは思わない。
もしも国王が家にやってきて直接頼まれたのなら、不安を覚えつつも承知しただろう。だが、指名されたのは従妹のカタリナだ。脅迫され、身代わりとして赴くことが、どうにも釈然としないのだ。
〈禁断の森〉に到着したときにはすでに真夜中を過ぎていた。馬車の中で仮眠を取り、空が白み始めた頃合いを見計らって、朝(あさ)靄(もや)が立ち込める中いよいよ森へと足を踏み入れる。
広く開けた草原の真ん中に、その森は黒々とした影を落としていた。
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