書籍詳細
クールなCEOと初恋契約マリッジ
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2021/01/29 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 初恋の人と再会した日
宮(みや)田(た)愛(あい)沙(さ)は電車を降り、駅を出たところで大きな溜息をついた。
もう夜は更けている。当たり前だが辺りは暗い。もちろん街灯はついているけれど、そんなことは関係ない。暗いのは、本当に苦手だ。どんな危険が潜んでいるか判らないと思ってしまうからだ。
けれども、自分はここから二十分も歩かなくてはならない。そうしなければ、家に辿り着けない。
そう。こんなところでぼんやり立ち止まっている暇はない。
愛沙は明るい駅を背にして、重い足を引きずるように歩き始めた。
仕事中には結んでいる長い髪は背中まで垂れている。少し細すぎるくらいの華奢(きゃしゃ)な身体つきで、たまに友人には心配されることがあった。とはいえ、胸は豊かなので、体重は見かけよりあった。
会社は制服などないので、派手には見えない服装を心掛けている。だいたいブレザーにブラウス、膝丈のスカートといった格好をしていた。
目が大きいせいで、可愛いと言われることもあるが、自分では容姿は十人並みだと思う。よくも悪くもない。その程度だ。メイクも下手で、華やかな雰囲気もなかった。
しかし、愛沙は自分の容姿などに構っている暇はなかった。
愛沙は未婚の二十四歳で、会社で事務員をしている。小さな会社であるせいか、事務員といっても、一般的な事務だけをしているわけではない。主な雑用も請け負っている。
今日は子供のいる事務員が早退してしまい、その分の仕事が愛沙に回ってきた。そんなわけで、残業をすることになってしまった。
もっとも、愛沙は仕事自体、嫌いではなかった。
愛沙が疲れているのは、そういったこととはまったく関係がなかった。愛沙が嫌でたまらないもの、それは両親だった。
愛沙の家族は両親と父方の祖母で、兄弟姉妹はいない。もし兄弟姉妹が一人でもいたら、愛沙は救われていたかもしれない。少なくとも、今のような気持ちにはなっていなかっただろう。
愛沙の両親はギャンブル好きだった。家庭に一人ギャンブル好きがいるだけでも困るのに、二人、しかも両親がそうだなんて最悪以外の何ものでもなかった。
二人は父の給料と祖母の年金をギャンブルに注ぎ込み、生活費は愛沙の給料に頼っていた。愛沙がどんなに仕事を頑張っても、もらった給料は日常の生活の維持に、そしてたまに両親のギャンブルや飲み代に右から左へ消えていく。
時々、神様はなんて試練を自分に与えているのかと思うことがある。
それくらい、愛沙はつらい毎日を送っていた。
とにかく、どんなにつらくても家には帰らなくてはならない。家事は愛沙の役割でもあったからだ。
やっと家に辿り着いて、また溜息をつく。窓から明かりは漏れていないから、両親は今日もギャンブルにでも行っているのだろう。もしくは、儲けたお金で酒でも飲みに行っているのかもしれない。
元は亡き祖父のものだった古い一軒家だ。家の補修をしていないので、外観はくたびれているし、庭の植木の手入れもできていない。雑草が伸び放題だ。なんとかしなくてはならないと思いつつ、そんなお金も時間も愛沙にはなかった。もちろん両親がそれを気にすることもなかった。
「ただいま……」
愛沙はドアを開けて、小さな声を出した。
両親は帰宅していなくても、同居の祖母はいる。きっと自室で寝ていることだろう。祖母を起こさないように足音を忍ばせてみたが、後で帰ってくる両親はそんなことはお構いなしで音を立てるので、あまり意味はないかもしれない。
暗いリビングの明かりをつけると、散らかっているのが目に入る。
近頃、母は片付けもしない。食べてしまったお菓子の袋くらい、ゴミ箱に捨てればいいのに。そう思いながら片付けていると、物音がして、パジャマ姿の祖母が壁伝いにゆっくりと現れた。
「お帰り、愛沙」
祖母は五年前に脳梗塞で倒れ、身体が少し不自由だった。一時期は半身が麻痺していたが、リハビリでずいぶんよくなっている。以前のようには片方の手足が上手く動かないものの、自分の身の回りのことくらいはできていた。
五年前までは家事をしてくれていて、両親に文句を言うことすらあったが、今はそんな気力もないようだった。身体が自由に動かないという事実が、祖母の生きる活力を奪ったのかもしれない。小柄な祖母がより一層、小さくなった気がして、思わず愛沙は祖母の不自由なほうの手を取り、自分の手を重ねた。
「おばあちゃん、ただいま。まだ起きていたの? それとも起こしちゃった?」
「愛沙に言っておかなくちゃいけないことがあってね」
祖母が声を潜めて言った。きっと両親に関することだろう。二人が帰ってくる前に、愛沙に伝えておきたいという意味が込められているように思えた。
「え、何?」
「今日、あんたが仕事に出かけたすぐ後、あの二人が平気で嫌な話をしていたんだよ。あたしの耳が遠いか、ぼけているとでも思って侮っているんだろうね」
祖母は両親にはもう何も言わないどころか、なるべく顔も合わせないようにしている。黙っているから侮られているのは、確かだ。その点では、愛沙も同じようなものかもしれない。あの二人にとって、生活費を稼ぐロボットのような存在なのだ。
「お父さん達が何を言おうと平気よ。いずれはなんとかお金を貯めて、出ていきたいとは思っているけど……」
「すぐにでも逃げなくちゃダメだよ。あの二人はもう親としての心を失っているからね」
「それは判ってる。でも……」
そう言いかけた愛沙を、祖母は遮った。
「あいつらはね。あんたを夜の仕事に就かせようとしているんだよ。昼間は今までどおり会社で働かせて、夜は飲み屋で男の相手をさせようって。もう知り合いの店に話をしたって言うんだよ」
さすがの愛沙も驚いて声が出なかった。
「今だって、家に帰って家事をして、朝からご飯やお弁当を作って。もう、くたくたの限界だろうに……。このままじゃ、あんたは倒れてしまう。それに……飲み屋で働くだけならまだいいよ。あいつらはもっとひどいことを言っていた。いざとなったら、あんたを売ろうって……。そういう店にもツテがあるって笑いながら言ってたんだよ」
それって……。
わたしに身体を売らせるって意味なの?
愛沙は愕然としながらも、なんとか声を振り絞った。
「も、もしかしたら冗談かも……」
「冗談でもそんなことを口にする親はまともな人間とは言えないよ。もしかしたら、無理やり店に連れていかれて、働かされるかもしれない。愛沙、とにかくできるだけ早くこの家を出なさい」
「じゃあ……おばあちゃんも一緒に……」
祖母は厳しい顔で首を横に振った。
「あたしは足手まといだ。あんた一人なら、なんとか逃げられる。泊めてくれる友達くらいいるだろう? ここから逃げれば飲み屋で働くにしても、少なくとも自分の金になる。もうこれ以上、あんたがあいつらに踏みつけにされて、つらい目に遭うのを、あたしは見たくない」
「でも……わたしがいなくなったら、この家はどうなるの? 誰も家事をしない。ご飯もないし、洗濯物は溜まるし、生活費だっておばあちゃんの年金だけじゃ……」
家賃はいらないとしても、光熱費と食費と日用品費は最低限かかる。両親のことはどうなっても自業自得だが、身体が不自由な祖母はどうやって生きていけばいいのか。愛沙は祖母を置いて出ていくことは考えられなかった。
「あたしは弟のところへ行こうと思っているんだよ。相談したら、うちにおいでと言われたから」
「それは……本当?」
息子である父でさえ、こんな扱いなのに、弟である大(おお)叔(お)父(じ)が身体の不自由な年寄りを、そんなに簡単に引き取ってくれるとは思えなかった。
「あんたはよく知らないだろうけど、弟は実は金持ちなんだよ。年寄りの一人や二人、どうにかなるって言われたんだから。それに、年金のこともなんとか取り返してくれるって。なんでも、知り合いに弁護士がいるらしいんだよ」
確かに、祖母の年金が入る通帳が、両親に握られていることが問題なのだ。もちろん高額な年金をもらっているわけではないにしろ、それが自分の自由に使えるなら、祖母も弟の家で肩身の狭い思いをしなくて済むかもしれない。
いずれにしても、この家にいては、それはどうにもならない問題だった。
「とにかく、あんたはこのままここにいたら結婚もできない。家を出て、できれば今の会社も辞めたほうがいい。あいつらに搾取されないように、逃げ出すんだよ。そうしてくれれば、あたしも気が楽になる」
愛沙ははっとした。
自分は祖母のことを考えているつもりだったが、祖母は祖母で、愛沙がいるから逃げ出せなかったのかもしれない。
そうよね。おばあちゃんだって、もう少しましな老後を過ごす権利があるはずよ。
もちろん、わたしだって……。
愛沙が子供の頃はまだ祖父が生きていて、祖父の援助もあり、なんとか生活が成り立っていた。というより、祖父の存在がまだ歯止めとなっていたのだ。
ところが、愛沙が高校二年のときに祖父が亡くなってから、一気に家の中がおかしくなっていった。両親は祖父の遺産をあっという間に食いつぶし、祖母の年金が入る通帳とキャッシュカードを取り上げた。愛沙はバイトをするように言われ、その給料も生活費に消えるようになったのだ。
大学なんてとても行ける状況ではなく、高校卒業後、すぐに今の会社に就職した。祖母が通帳を取り上げられたのを見ていたから、給料の振り込みはオンライン口座にした。とはいえ、結局、自分が自由に使えるお金は残らなかった。
何しろ、お金を渡さないと借金してくるような人達なのだ。そんなこともあって、給料は入社当時から比べると上がっているが、生活はなかなか楽にならない。
以前はパート勤めをしていた母も、祖父の遺産が入ってきたのと同時に辞めてしまった。父は今まで何度も仕事を辞めているし、最近も退職を口にするようになっていた。
愛沙の給料と祖母の年金だけでは、ギャンブル好きの両親を含む四人家族を養うことは無理だと忠告したものの、暴力的な父に殴られて、それからは何も言わないようにしている。正直、父がいつ今の仕事を辞めてもおかしくないような気がしていた。
いや、仕事を辞めるつもりがあるから、愛沙を昼も夜も働かせようと言っていたのだろう。だとしたら、祖母の懸念は杞憂とは言えない。抵抗したら、また父に殴られるだろうし、そこまでギャンブルに依存しているなら、愛沙をどこかに売り飛ばしかねない。
本当に、今逃げなくてはまずい。
愛沙はやっと逃げることを現実的に考え始めた。
ああ、自分の親から逃げなくちゃいけないなんて……。
しかし、嘆いても仕方がない。
子供の頃から、自分の親が友達の親とはまるで違うことは気がついていた。けれども、その頃は祖父母が親代わりとなってくれていたので、なんとか普通の暮らしができていたのだ。祖父が亡くなってからは何もかも滅茶苦茶になってしまった。
それでも家を出るわけにはいかないと、ずっと思っていた。自分一人だけなら出られても、祖母を連れていくとなると用意が必要だ。まず、それだけの資金を貯めなくては、どうにもならないと思い込んでいた。
もし祖母の弟が引き取ってくれるなら、なんとかなる。たとえ一時的でもいい。ギャンブルにはまり、借金をしてくるような両親と離れられるなら、一人暮らしでもなんとか貯金できるだろうし、貯められたら祖母を引き取ってもいい。
祖母は続けて言う。
「今日中に荷物をまとめておいて、明日にでも逃げたほうがいい。連れ戻されないように気をつけるんだよ。会社だって安全じゃないからね。あんたが逃げられたら、あたしはすぐに弟に迎えに来てもらうから」
愛沙は祖母の手を両手で握りしめて、強く頷いた。
「ありがとう、おばあちゃん……。わたし、お金を貯めたら、おばあちゃんを迎えにいくから」
祖母は一瞬泣きそうな顔になったが、首を横に振ってきっぱりと言った。
「年寄りのことは心配しなくていいからね。あんたは幸せになりなさい」
愛沙は両親の愛情をほとんど感じたことはなかったが、祖父母の愛情だけはいつも自分に注がれていたことを知っている。
愛沙の胸は温かい気持ちで満たされていく。
祖母がなんと言おうと、いつかはきっと祖母を引き取るつもりだ。まずは両親から逃げることだ。そして、生活の基盤をしっかりと築くこと。経済的なこともしっかりクリアすれば、祖母とまた暮らすことができるだろう。
もう両親と縁を切る。
そうしなければ、自分の未来さえ危ういのだ。本当に無理やり怪しいところに連れていかれる前に、できるだけ早く出ていこう。
愛沙は強くそう決心していた。
愛沙の予想どおり、両親はギャンブルで儲けたお金で飲みに出かけていたらしい。そういうところだけは、夫婦二人、とても仲がいいようだ。帰ってきたかと思えば、すぐに眠ってしまい、愛沙はその間に荷物をまとめた。幸い荷物は少ない。服やらなんやらを買う余裕もそんなになかったからだ。泊めてくれそうな友人には心当たりがある。友人に許可をもらえれば、すぐに出ていくつもりで、荷物をクローゼットの中に隠しておく。
朝になり、いつものように愛沙は朝食と弁当を作っていた。洗濯機も同時に回しているし、かなり忙しい。掃除まではなかなか手が回らず、平日は適当になりがちだった。
母は働いていないのだから、せめて洗濯や掃除をしてもらいたいところなのだが、まったくしようとしなかった。昼頃までゴロゴロダラダラした後、ギャンブルに出かけていくのだ。
父は一応、会社勤めはしているようだが、何かと理由をつけて休みがちだった。母が好きなように暮らしているのを見れば、父も自分だけ働いているのは割に合わないと思うのかもしれない。
いや、だからといって、やはり会社を辞めてしまうのはおかしいと思うのだが。
愛沙が祖母の部屋に食事を持っていき、洗濯物を干してから、キッチンに戻って自分の分を急いで食べようとした。そのとき、父がふらりとやってきて、ダイニングテーブルについた。
「おはよう。お父さん、ご飯食べる?」
愛沙が自分の食事を中断して、父の食事の用意をした。朝の時間は一分一秒も惜しいけれど、無視していたら文句を言われるのは目に見えている。父は礼を言うでもなく、もちろん『いただきます』も言うはずがなく、黙々と食事を口に運んだ。もはや父親が家族とはもう思えなかった。
愛沙はまたテーブルにつき、食事を始める。
ふと、父が顔を上げた。
「おまえ、今日は何時くらいに帰ってくるんだ?」
普段の父は愛沙に話しかけたりしない。こうして話しかけられたことに驚いたが、同時に、昨夜聞いた祖母の言葉が頭をよぎる。
「……さあ。判らないわ。昨日は残業で遅かったし、今日も忙しいかも」
愛沙はごまかすように言った。
「今日は用があるから、早く帰ってこいよ」
「用って何?」
硬い声でそう尋ねると、父がテーブルの上をバンと大きな音を立てて叩いた。愛沙はその音にビクッとする。
「いいから早く帰ってこい!」
普段の父は愛沙の行動に無関心だ。黙って家のことをして、生活費を出すなら文句はないという感じだった。
それなのに、今日は変だ……。
やはり、祖母の言っていたことと関係があるのだろうか。祖母の言うとおり、夜の店に自分を連れていくつもりなのかもしれない。
愛沙は父にどうして早く帰ってこいと言っているのか訊きたかったが、これ以上、食い下がったら、殴られかねない。
「判ったわ……。それより、もう会社に行く時間じゃないの?」
「会社か……。まあ、あと少しだからな」
「あと少し?」
「おまえには関係のないことだ!」
また怒鳴られてしまった。都合の悪いことを訊いてしまったということだろう。恐らく父は退職するつもりなのだと思った。それくらいギャンブルにのめり込んでいる。愛沙に夜も働かせればいいと思っているに違いない。
でも、どうしてわたしがそこまで犠牲にならなくちゃいけないの?
愛沙が出ていかないのは、祖母の存在があるからだった。祖母はそれを知っているからこそ、自分もここから出ていくと言ったのだ。
正直、祖母がいないなら、愛沙もここにいる理由がない。
よかった。昨夜、祖母に聞いていたから、荷造りは済ませている。どのみち、愛沙の持ち物は少なくて、どうしても持っていきたいものもないし、当面の生活に必要な着替えだけを大きめのバッグに詰めておいた。
母はまだ起きてこない。父はだるそうにしていたが、家を出ていった。愛沙は祖母の部屋へ食器を下げに行った。
祖母の部屋は和室だが、寝起きしやすいようにベッドを置いている。その横に小さなテーブルと椅子があり、祖母はいつもそこで食事をするのだ。ダイニングテーブルまで移動できないわけではないが、少なくとも朝はそうしている。父と顔も合わせたくないのかもしれない。
朝食を食べ終えて、ベッドに腰かけている祖母に、愛沙は声を潜めて話しかけた。
「ねえ、おばあちゃん。さっきお父さんが今日は早く帰ってこいと言ってきたの」
「じゃあ、もう戻ってこないほうがいいね。あたしも弟のところへ行くからね。何も心配しなくていいよ」
そうは言うが、やはり祖母のことが心配だ。
「大丈夫? 一人で行ける?」
「弟に連絡するから大丈夫だよ。あたしのことは気にしなくていいからね。とにかく逃げるんだよ」
祖母は愛沙の手を握って、真剣な表情で言った。
一瞬、もう祖母とは会えないのではないかという予感めいたものが頭をよぎったが、慌ててそうではないと思い直す。
「大叔父さんの連絡先、教えてくれる? わたし、会いにいくから」
「後でこちらから連絡するよ。それより早く出かけないと。荷造りはしたんだろう?」
「うん……。絶対、連絡してよ」
祖母は携帯を持っていない。祖母は愛沙の携帯番号を知っているから、連絡しようと思えばできた。ただし、祖母がそうすることは滅多になく、愛沙は少し心配だった。
しかし、祖母はにっこり笑って頷く。
「もちろん約束するよ」
愛沙は追い立てられるように祖母の部屋を出た。確かに、もう出かけなくてはいけない時間だ。祖母の食器を洗うと、自分の部屋に入る。
生まれたときからこの家にいるから、思い出はある。しかし、大半が嫌な思い出だったので、名残惜しいというわけではなかった。それでも、長年過ごした自分の部屋には、少しは愛着がある。
両親が普通の両親だったなら、どんなによかったことだろう。しかし、そうではなかったのだから、今更嘆いても始まらない。せめて祖父母がまともだったことに感謝するべきだろう。
最後に仏壇を拝んでから、愛沙は会社に行く用のバッグと荷物を詰めたバッグを持ち、家を後にした。
母はまだ夢の中だ。祖母が出ていくのは、母が出かけた後になるだろう。母はいつだって家にいないのだから。
それでも、祖母が無事に脱け出せるように祈って、愛沙は駅へと向かった。
愛沙は会社の休憩時間に親友の梨(り)絵(え)に連絡を入れた。
愛沙は泊めてもらえるだろうと当てにしていたのだが、応答がない。焦って、他の友人にも連絡してみたが、泊めてもらえそうになかった。
どうしよう……。
とにかく、今日はもう家には帰れなかった。帰れば、父に夜の店に連れていかれる。もちろん連れていかれても、後で自分が店を辞めれば済むことだ。
とはいえ、もし常識が通じないような変な店だったらと思うと怖い。まさか父の知り合いがその筋の人だとは思わないが、ギャンブルでよからぬ人と繋がっていないとは限らない。
だとしたら、やはり今日から先、家には帰らないほうがいいだろう。
定時は過ぎたが、今日も残業があり、早くは帰れない。愛沙は梨絵と連絡がつかないままだったので、落ち着かないまま仕事をした。何しろ今日泊まるところの確保もできていないのだ。
やっと仕事が終わり、帰り支度をしているところでスマホに電話が入る。てっきり梨絵からだと思ったが、よく見たら父からだった。早く帰ってこいという催促だろう。
いつもなら父からの連絡を無視することはない。だいたい碌(ろく)でもない用事なのだが、無視したら怖いからだ。
でも、わたしはもう帰らないんだから……。
愛沙はビクビクしながらも無視した。いっそ電源を切ってしまいたいが、梨絵とは連絡が取れていないから、そういうわけにはいかない。
とりあえずお腹が空いたので、愛沙はなるべく安そうな食堂を探して、食事を注文した。
このまま梨絵と連絡が取れないなら、彼女のマンションに行っても無意味だろう。もしかしたら、彼女も残業で疲れ切っていて、愛沙と連絡を取るどころではないのかもしれない。
梨絵が応答してくれない理由をいろいろ考えてみたが、本当のところはよく判らない。まさか無視されていることはないと思うのだが。
どうしよう。今日はどこに泊まろうか。
一日くらいならホテルに泊まることはできる。だが、いつまでもホテル住まいというわけにはいかない。早急に住むところを探すのは当然だけれど、やはり金銭面のことを考えると、ネットカフェにでも泊まったほうがいいかもしれない。
愛沙はスマホでいろいろ検索して、安いホテルを探してみた。その間にも、父から何度も電話が入って、ドキッとした。もちろんマナーモードにしているけれど、音はするから、その度にバッグの中に仕舞う。
なんだか悪いことをしているような気がして、そんな自分が嫌になりそうだった。
でも、これは正しいことなんだから……。悪いことをしようとしているのは、わたしじゃないんだから。そう自分に言いきかせる。
とりあえず今日はネットカフェにでも行って、新しい住まいを探すことにしよう。
愛沙は食事をして、外に出た。雨の音にはっとして、足を止める。
ついてない……。
いつも自分はそうだ。懸命に生きているのに、何故か運が悪い。何も悪いことをしていないのだから、いつかは運が向いてくると思ってみても、現実には決してそうはならない。
いつもいつも、わたしはひどい目に遭ってばかり。
愛沙はひどく自分が惨めに感じられて、泣きそうになった。しかし、こんな場所で泣いていても仕方がない。
とにかくコンビニで傘を買おう。いや、そこまでひどい雨でもない。こんな雨なんか無視して、ネットカフェに駆け込もうか。
ふと、愛沙は子供の頃に店の軒下で雨宿りしたことがあるのを思い出した。あのときも惨めで悲しかった。同時に、あのとき受けた人の善意や優しさも甦ってくる。
ぽつんと雨宿りをしていた愛沙に声をかけてくれた『お兄ちゃん』……。
彼は愛沙の初恋の人だ。もう何年も会っていない。あのとき高校生だった彼も、今頃は三十三歳か、三十四歳くらいだろう。
笑うとクールな目元が柔らかく優しくなって、とても格好いい人だった。前髪をかき上げる仕草が印象的で、髪の生え際に傷跡があった。
今はどんな人になっているのかしら……。
想像してみようとしたが、上手く思い浮かばない。きっと素敵な大人の男性になっているとは思うが、再会しても判るかどうかは自信がなかった。
あのときみたいに、自分に声をかけて慰めてくれる人がいたらいいのに。
愛沙は首をゆっくりと振った。
そんな都合のいいことを考えても上手くいくはずがない。現実的に考えなくては、路頭に迷ってしまいそうだ。
愛沙は雨の降る中、足を踏み出した。雨が顔にかからないようにうつむいて、速足で歩いていく。
そのとき、誰かとぶつかり、一瞬よろけた。
「すみませんっ」
謝って、通り過ぎようとしたのだが、相手に腕を掴まれる。はっとして顔を上げると、そこには若い男性がいた。どうやら酔っぱらっているようで、連れらしき男性も隣にいた。こちらも酔っているようで、だらしなく笑っている。
「大丈夫? 怪我してないかなあ?」
「大丈夫です。すみません。あの……」
「あんたさ、なかなか可愛いじゃん。暇ならちょっと一緒に飲まない?」
「そうそう。俺達も雨宿りしようと思っててさ。あんたもそうだろ?」
ぶつかった相手にいきなりナンパされても困ってしまう。愛沙にはもちろんそんな気はなかった。それより、雨に濡れるから早く腕を離してほしい。
「ごめんなさい。わたし、急いでますので」
「いやいや、ちょっとだけだから」
そう言いながら、彼は愛沙の腕を引っ張っていこうとする。
「やめてください。困ります。本当に……」
「いいから、ね」
抵抗するものの引きずられていきそうで、愛沙は危機感を抱いた。
「嫌だってば……!」
大声で誰かに助けを呼ばなくてはならないかと思ったそのとき、後ろからまったく別の男性の声が聞こえてきた。
「嫌がってるじゃないか! やめなさい!」
愛沙の腕を引っ張っていた男性の力が緩んだ。素早く腕を振り払い、助けてくれた男性のほうに身を寄せる。すると、彼は持っていた傘を投げ出して、両手を広げ、愛沙を庇うような仕草をしてくれた。
この人のほうが信用できるかどうかは判らないが、少なくとも今は助けてくれそうだからだ。
愛沙を強引に誘おうとしていた若い男性は、助けてくれたほうの男性をじろりと睨みつけた。だが、相手のほうが体格がいいこともあって、手を出すことなく、何かぶつぶつ言いながら去っていく。
よかった……。
愛沙は胸を撫で下ろした。
ここで殴り合いなんかになって、自分を庇ってくれた人が怪我したら申し訳ないからだ。何事もなくてよかった。
庇ってくれた男性も息をついて、傘を拾い、濡れている愛沙にそっと差し掛けてくれた。
「大丈夫だった?」
「はい、ありがとうございました。おかげさまで助かりました」
愛沙は彼を見上げて、はっと目を瞠る。
この人、どこかで見たことがある。どこだったろう。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。背が高く、肩幅が広い。仕立てのいいスーツを着ていて、全体的に身なりがいい。顔立ちは整っている。涼しげな目元に鼻筋が通っていて、引き締まった唇に意志の強さを感じた。
静かな佇まいで、まっすぐこちらを見つめている彼が、ふと前髪をかき上げる。すると、髪の生え際に見覚えのある傷跡が目に入った。
この人は……!
愛沙はもう一度、彼の顔全体をまじまじと凝視した。
そのクールで穏やかな雰囲気とまっすぐな瞳を見て、愛沙はやっと確信した。懐かしい思い出が一気に甦ってきて、胸がいっぱいになってくる。
彼こそが、雨宿りしながら惨めな思いをしていた子供の頃の愛沙を救ってくれた人だった。
彼のことを思い出したら、すぐに再会できるなんて……。
愛沙は喜びを噛みしめながら、そっと尋ねた。
「あ、あの……琉人(りゅうと)さん?」
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