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帝都初恋浪漫 〜蝶々結びの恋〜

蒼磨奏 / 著
森原八鹿 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/02/26

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内容紹介

一生懸けて愛したい、唯一の女性
老舗呉服店杉渓屋の娘・八重は、幼いころ親同士の約束で、名家葛城家の長男であり優秀な軍人・毅の許嫁となった。年の差があっても大切に扱われ、幼い恋心を胸に秘めていた八重。毅に思いを寄せている八重は、運命の赤い糸が毅に繋がっていると期待に胸を膨らませながら、彼に相応しい女性になれるよう努力していた。しかし、ある夜、八重は火事に遭い身体に火傷を負ったショックで塞ぎこんでしまう。疵物となった自分は嫁ぐ資格を失ったのだと、八重は毅との婚約を解消したいと申し出るが……。甘やかに純潔を散らされ、残酷な焔によって焼けた赤い糸が再び紡がれる、真実の愛——。

立ち読み

 地獄の釜が開き、残酷な焔(ほのお)が全てを焼き尽くしていく
 床を這い、とぐろを巻く酷熱の焔によりあらゆるものが跡形もなく灰(かい)燼(じん)に帰し
 恐ろしい地獄の底では、生殺与奪の凡(すべ)ては暴虐の限りを尽くす焔に委ねられて
 
 嗚呼、私の純真な恋心も、小指に結ばれた紅い糸ごと灰になった―




 序ノ章  八(や)重(え)と毅(しのぶ)


 時は大正。春先に一(いっ)時(とき)の栄華を誇る桜花が、葛城(かつらぎ)家の庭園で咲き乱れている。
 日当たりのいい軒先で二人の男が碁盤を挟み、向かい合わせで座っていた。
 そのうち一人は齢五十代半ばといったところで、松葉色の着流しに身を包み、煙管(キセル)を吸いながら悠然と胡坐(あぐら)をかいている。髪は短く刈り上げられていて、目つきの鋭さと精悍な面立ちには老いを感じさせない若々しさがあった。
 もう一人は齢四十くらいの男で、巷で流行している洋装姿だ。正座をしながら真剣な表情で碁盤を見つめている。
 対局は始まったばかり。碁盤には白黒の碁石がまばらに散っていた。
 年嵩で着流しの男―葛城家当主、葛城貞(ただす)が黒の碁石をパチンと置いて口を開く。
「弥(や)一(いち)。新しい商(あきな)いの調子はどうだ?」
「上々です。反物だけでなく日用品や洋装を取り扱うようになってから客足が増えました。華族や政界の方々からの発注も増えまして、この調子なら、近いうちに店舗を増やすことができそうです」
「ほう。どうなることかと思ったが、お前は、やはり商いの才があるな」
「貞様が出資してくださったお蔭です。他の大きな呉服屋も欧米の“デパートメントストア”なるものを模した店を次々と開業しておりますし、あれほど大規模な店でなくとも、銀座の端に店舗を建てることくらいはできるかと。この流れに乗り遅れるわけには参りません」
「ふむ。私も出資した甲斐(かい)があるというものだ。杉(すぎ)渓(たに)屋(や)とは長い付き合いだからな。お前の父……先代とも、よくこうして碁を打ち、語らったものだ。今後とも、よき関係を築いていければいいと考えている」
 貞が笑みを零し、弥一と呼ばれた男も微笑む。
「ありがたいお言葉です。当方も、葛城家の方々とは末永くお付き合いさせて頂きたいと考えております。ぜひ今後ともよろしくお願い致します」
 杉渓弥一。百年以上も前から続く呉服屋“杉渓屋呉服店”の当主だ。
 巷で“杉渓屋”と称されて親しまれているこの呉服店は、歴代店主の実直な人柄と堅実な商いにより贔(ひい)屓(き)にしている顧客が多かった。
 だが、先代の店主が亡くなった明治の終わり頃、それまでの好景気が嘘のような大不況が訪れて多くの企業が倒産する事態が起きた。
 杉渓屋も時流に飲まれて経営不振に陥り、新たな商いに手を出そうにも資金繰りがうまくいかずに店を畳むかとまで悩んだ時期があった。
 そこへ、古くから懇意にしていた葛城貞が出資を申し出てくれたのである。
 葛城家は家系図を辿(たど)っていくと、とある華族の分家にあたり、現在は当主の貞が陸軍中将の階級を得ていた。爵位は持っていないが、いわゆる名家と呼ばれる家柄であり、経営難だった杉渓屋に出資できるほど財力も豊かだ。
 弥一が白の碁石を置いた時、碁盤の真上をひらひらと舞う桜の花が横切っていった。
「時に、貞様。ご子息様が出世されたとお聞きしました。少尉になられたそうですね。おめでとうございます」
「ああ。出世は喜ばしいことだ。長男の毅(しのぶ)は優秀な軍人で、今後の軍にとって重要な人材となるだろう」
 煙管を吸い、白い煙を吐き出した貞の視線が桜の木へと移される。その横顔には、ほんのわずかな憂いがあった。
「何やら気がかりなことがありそうなお顔をされていますね」
「目ざといな、弥一。よもや顔に出ていたか」
「これでも客商売をしておりますから、相手の表情を読み、気持ちを汲み取るのは得意なのですよ。それに、もし気にかかったことがあれば遠慮なく物申してよいとおっしゃったのは、貞様ですよ」
「そうだったな。先代の頃から、杉渓屋の店主は私に対してずけずけと物を言う」
 貞が相好を崩して、黒の碁石を指で弄(もてあそ)ぶ。ほんのしばし、思考に耽(ふけ)ってから口を開いた。
「毅は、今年で二十四になる。しかし、本人は妻帯する気がないようなのだ。それが気がかりでな」
「毅様が? 一体、どのような理由で妻帯するのを拒んでおられるのですか?」
「離縁した私の後妻、冴(さえ)子(こ)のせいだ。仔細は言えんが、あやつが毅の心に瑕(きず)を残した。幼き頃から、毅には潔癖な部分があったが、冴子との一件がよほど耐え難かったのだろう。以来、女が疎ましくてならんようだ。女中頭の志(し)乃(の)以外は、使用人の女たちでさえ近づけさせん」
 貞は一人目の妻を早くに亡くし、とある良家の若い女性を後妻として娶(めと)った。その後妻が話に出てきた冴子という女だ。
 しかし、冴子は葛城家に嫁いできて間もなく離縁された。
 周囲には情報が伏せられているため詳細は分からないが、当時、まだ十代だった長男の毅と冴子の間で“何か”があったのだということは、弥一も聞いていた。
「そんな調子だから、見合いの席を設けようにも、本人が拒絶する。葛城家の跡継ぎとしての自覚を持てと叱ったことがあるが、妻など不要の一点張りよ。冴子の一件については、私にも責任の一端があるのでな。何ともうまくいかんものだ」
「なるほど。そのようなことが……」
「次男の恒(ゆずる)もいるから、跡継ぎの件はさほど心配はしておらん。私が憂いているのは毅自身のことだ。私も子供を作ったのは齢三十を越えてからだった。倅(せがれ)のことをとやかく言える立場ではないのだがな、この先、妻を娶らず子供も作らぬとなると―毅の人生は退屈で孤独なものになるかもしれん」
 パチン。貞が碁石を置く音が、やけに大きく響いた。
「ましてや、我ら軍人はいつ死ぬか分からん。有事の際は御国のために死ぬのが本望よ。それでも己の血を継ぐ誰かを遺したいと願うのは、人としての本能だ。ゆえに妻を娶って子を成すのが人としての道理だと、私は思うのだ」
「貞様がおっしゃりたいことは分かります。毅様の将来を案じておられるのですね」
「私も、もう若くはないからな。この身がいつ病に冒され、命を落とすか分からん。何かあった時のために後(こう)顧(こ)の憂いがないようにしておきたい」
 柔らかな東風(こち)が吹き、桃色の花びらがざああと舞う。甘い蜜に群れる蝶のように。
 その時、蝶の群れと見まごう花びらの向こうから幼い少女が一人、緋(ひ)色(いろ)の振袖を羽のようになびかせながら走ってきた。
「お父さま! 貞さま!」
「八(や)重(え)。母上と一緒に、お茶を頂いていたのではないのか?」
「お父さまとお話がしたくて来ました。貞さまも、お茶をご用意してくださり、ありがとうございました」
 杉渓家の娘―八重がお辞儀をして挨拶をすると、貞が笑って頷く。
「ああ。茶請けに用意させた豆大福は口に合ったか?」
「はい。甘くておいしかったです。あと、その……貞さま」
「これ、八重。貞様に抱っこをねだるなど……」
「よいよい。どれ、抱いてやろう」
 八重が両手を伸ばしてきたので、煙管を横に退(の)けた貞がにこやかに立ち上がって甘える少女を抱き上げた。
「申し訳ありません、貞様。抱っこをねだるほど幼い年齢ではないのですが、どうにも甘えたがりなところがありまして。重くはありませんか?」
「構わん。私とて軍人だぞ。子供など大した重さではない。しかし、八重は小柄なようだな。まだ五つ、六つの幼子のようではないか」
「おっしゃる通りです。よく食べるのですが、なかなか身長が伸びません」
 弥一が苦笑していると、人懐こい八重が嬉しそうに両手を貞の首に巻きつける。
 少女がすりすりと頬を押しつけたら、普段は厳めしい貞の顔が、ますます緩んだ。
「これから大きくなるだろう。女児がこれほどに愛(う)いものとは知らなんだ。私も一人くらい娘が欲しかったな」 
「お転婆で困りますよ。目を離すと木に登っていたり、勝手に遊びに行って泥だらけになって帰ってくることもありますから」
「ほほう。八重は、そんなに元気なのか。なぁに、家に籠(こ)もっているよりは、お転婆に外を走り回っているくらいがちょうどいいぞ」
「貞さま。あごが、ちくちくしますよ。おひげですか?」
「そうだぞ。男は髭が生える」
「あ、桜のはなびら」
 貞が八重を抱いたまま下駄を履き、桜の舞う庭へ出た。
 その間も八重はひらりひらりと蝶みたいに逃げる花びらを捕まえようと、一生懸命手を伸ばしている。
 二人を微笑ましく見守る弥一の耳に、ふと、確認の言葉が届いた。
「弥一。八重の年は、八つだったか」
「はい。今年で八歳になります」
 花びらに心を奪われる八重を腕に抱いた貞が、弥一に背を向けながら続けた。
「八重を、毅と会わせてみるか」
「毅様と?」
「女が疎ましくとも、子供ならば、おそらく問題あるまい。物は試しよ。様子を見てみようではないか」
「貞様。つまり、八重と毅様を許嫁(いいなずけ)にするということですか?」
「毅の反応次第だが……毅は二十四で、八重は八つ。年は離れているが、さほど珍しいことではない。それとも、何か不満でもあるか?」
「とんでもございません。葛城家と縁談を結ばせて頂くことは、当家にとってもありがたいお話です」
 葛城家は財力、家柄ともに申し分のない名家だ。その家と縁を結べるのは、弥一にとって願ってもない申し出だった。
 ただ、弥一の気がかりがあるとすれば肝心の八重が、まだ八歳という点だが―。
 貞が乗り気なようなので、弥一は余計なことを言う前に口を噤(つぐ)んだ。
 
     ◇

「いいわね、八重。お茶をお出しするだけですから、粗相のないようにしなさい」
 母の三(み)重(え)子(こ)に念を押され、杉渓八重は「任せて」と頷いてみせた。
 今日は、八重に会わせたい“大切な客人”が来ているのだと、父が言っていた。
 八重は二つの湯呑みをお盆に乗せ、ゆっくりと廊下を歩き出した。くれぐれも粗相だけはしないでくれと、後ろからついてくる母が何度目か知れない台詞を口にする。
 そんなに心配せずとも大丈夫だ。
 客人にお茶を出すのは、これが初めてではない。
「失礼いたします。八重です」
 客間の前で一声かけて、八重は障子を開けた。そっとお盆を持ち、客間に足を踏み入れた彼女の視界へ真っ先に入ってきたのは、葛城貞の姿だった。
 貞は杉渓屋の大事な顧客で出資者だが、八重にとっては“優しいおじさま”という印象が強かった。遊びに行くたびに美味しいお菓子を用意してくれていて、よく抱っこしてくれる。
 八重は貞に向かって笑いかけ、隣にいる青年へと目をやる。初めて見る人だ。
 瑠(る)璃(り)紺(こん)の着物に身を包んだ青年は、この状況が不満だと言いたげな仏頂面をしている。
 父が言っていた“大切な客人”というのは、おそらく彼のことだろう。
 そう思ったら緊張してきて、八重の身体に力が入った。
「八重。お茶をお出ししなさい」
「はい」
 母に小声で急かされ、八重はお盆を持って二人の前まで移動する。
 この人の前で粗相をしてはならない。できるだけ気を張り、転ばないようにと細心の注意を払って移動するが、いつもより緊張していたせいか足元から気が逸(そ)れ、八重は畳の縫い目で躓(つまず)いてしまった。
「あっ……」
 咄(とっ)嗟(さ)に体勢を立て直す余裕はなかった。八重は小さな悲鳴を上げて畳に倒れこみ、運んでいたお茶を零す。
 見守っていた両親の「ああ……」という呆れ声が聞こえて、八重が慌てて顔を上げると、畳にぶちまけたお茶の飛沫が青年の膝にかかっていた。
 そのまま視線を上に移動させたら、お茶をかけた張本人にぎろりと睨(にら)まれて―刹那、八重の視界が涙でゆらゆらと歪(ゆが)み始めた。
 ああ、どうしよう。大切なお客様にお茶をかけちゃった。
 これじゃ、きっと叱られちゃう。
 青年に睨まれた事実と、取り返しのつかない失態を犯したことで血の気が引いていき、終(しま)いには鼻の奥が熱くなり、緊張の糸がぷちんと切れた八重は泣き出した。
「ううっ……」
 ぽろぽろと涙を零し始めたら、すかさず両親が立ち上がって近寄ってきた。
「申し訳ありません。すぐに片づけさせます。……誰か、手拭いをお持ちして」
「毅様。火傷(やけど)はありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
 使用人の持ってきた綺麗な手拭いを青年に渡した母が、手際よく片づけを始める。
 八重は父の手を借りて起き上がったが、正面にいる青年とまたしても目が合った途端、再び雨のように涙が溢れ出した。
「お、お茶をこぼして、ごめんな、さい……っ……」
 泣きながら謝ると、苦笑していた貞が肘で青年を小突く。
「そう睨むでない、毅。相手は八つの子供だ。きちんと謝っておるのだし、この程度の粗相で腹を立てるな」
「睨んだつもりはありません。腹を立ててもいません。少し驚いただけで……」
 手拭いでお茶を拭いた青年が、小さく咳払いをして八重に話しかけてくる。
「その、私は怒っておりません。ですから、そのように泣かないで頂きたい」
「……怒って、いないのですか……?」
「ええ」
「…………」
「…………」
「ふ……うぅっ……」
 青年の顰(しか)め面と沈黙の間が怖くて、八重が再び泣き出すと、彼はぎょっとして身を引く。
「なっ、何故、また泣いて……」
「だから、お前の目つきが怖いのだろう。笑顔で優しく接してやらんか。八重も、そう泣くでない。毅はお前に怒っているわけではないぞ」
「八重、お客様の前だ。涙を拭きなさい」
 貞と父によって宥(なだ)められた八重は、母が貸してくれたハンカチーフに泣き顔を押しつけながら、泣きやむまでにしばしの時間を要した。
 ぽかぽかとした日射しが降り注ぐ軒先で、八重は青年と並んで座っていた。
 泣きやんだあと、二人で話をしてきなさいと半ば強引に客間を追い出されて、先ほどまで会話も少なく庭園をぶらぶらと歩いていたが、少し休憩をしようということになって今の状況なのである。
 青年の名前は、葛城毅。どうやら貞の息子らしい。
「……あの、さっきは、ごめんなさい」
 八重が、下を向いてもじもじしながら小声で言うと、毅がゆるりと首を横に振る。
「もう謝らなくていいです」
「でも、お着物を汚してしまいました」
「大丈夫です。すでに乾きましたし、お気になさらず」
 八重は、おそるおそる青年を見上げた。彼女には年の離れた兄がいるが、毅は兄よりも背が高くて大人っぽい。
 視線に気づいたのか、毅と目が合った。すると、彼が仏頂面を崩して笑う。
「本当に大丈夫ですから、気にしないでください」
 優しい表情、柔らかい声色。八重の肩から力が抜けていった。
 お茶を零した時は睨まれて怖いと思ったけれど、毅は思っていたよりも怖い人ではないのかもしれない。


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