書籍詳細
将軍閣下は不治の病(自称)2
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2021/05/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
1 行き倒れの美形と迷子の少年
幸せとは、穏やかに流れる日々のことを指すのだろう。たとえばそれは、よく晴れた春の日——。
マリカは、夫のイライアスと遠駆けに出かけようとしていた。が、出発前にさっそくひと悶着(もんちゃく)起きている。
「三号! おとなしくしろ。二人乗り用の鞍(くら)をつけさせるんだ」
鞍を嫌がって、くるくるとその場を回って装着を拒んでいるのは、イライアスの愛馬三号だ。名前が数字なのは、イライアスが『愛着がわきすぎるから』と、わざと無個性な名付けをしたためらしいが、主(あるじ)に愛されているのはその艶やかな毛並みを見ればわかる。
「旦那様、そろそろ諦めてください。三号は旦那様しか乗せたくないのですよ。私は四号に乗せてもらいますから。ほら、四号も行く気満々です。置いていくのはかわいそうです」
マリカは、夫が馬に蹴られてしまわないか心配だった。彼の愛馬、三号はとにかくプライドが高く賢い。絶対にその鞍はつけないと、確固たる意志で抵抗している。
そして、マリカの愛馬となった四号は、優しく人懐こい性格だ。機嫌よく、早く出かけたいとマリカを待っている。
「しかしそれでは、私の計画が……」
がっくりと項(うな)垂(だ)れるイライアスは、二人乗りで遠駆けに行くつもりで、それを楽しみにしていたらしい。
それでも二頭の馬のつぶらな瞳を見て、しぶしぶ一人用の鞍を取りにいき、三号につけはじめた。
もちろん人間の言葉を話すことなどできない馬達だが、「やっとわかってくれた」と言っているような気がしてしまうマリカだった。
今日は二人きりでの外出だ。屋敷の料理人に手伝ってもらい、はりきってランチも用意した。軍の者達の何人かは護衛として付いていく気だったが、イライアスは「たとえ熊に遭遇しようとも、私には倒せる自信があるから必要ない」とそれを突っぱねた。これは、周囲に人がいることを、つい意識してしまうマリカを慮(おもんぱか)ってのことなのだろう。
日本から、この異世界の国に飛ばされてきたマリカは、保護され侍女として王宮勤めをしていた。いろいろな偶然と思惑が重なり、女王の命に従い、救国の英雄イライアスのもとに嫁いできたのは半年前のことだ。
はじめて会った時のイライアスは、顔色が悪く小食で、もやしのようにひょろりとした体型で、今にも死んでしまいそうだった。それは以前毒に倒れた影響と、中央に復帰したくないという本人の意思により、病弱侯爵を演じていたためだったのだが……。その後、イライアスはなんだかんだと言いながら、十二歳年下の押し付けられた妻、マリカを甘やかし、二人の関係は深まっていった。
そんな中事件は起こる。政敵関係にあり、イライアスの家族を暗殺した黒幕でもあるヒンシェル公爵が動き出したのだ。
イライアスはマリカを守るため、それまでの我関せずな考えを変え、ご飯をもりもり食べるムキムキで精悍(せいかん)な、三十二歳の健康体になってくれた。
女王に退位を迫った一連の公爵の企みは、イライアスと協力者らによって無事阻止され、ヒンシェル公爵への復讐は果たされることとなった。
褒美として、女王から王位継承をちらつかされたが、興味のないイライアスは別の人物に強引に押し付けてしまった。
それからは夫婦で領地ラナメルに戻り、二人は平和に暮らしている。
マリカと一緒に転移してきた妹のユリカと、その夫でありイライアスの部下であるフェリックスも、無事に結婚式を執り行うことができて、あとは秋に子供が生まれてくることを待つばかり。
優しい夫に愛されのびのびと暮らす。マリカはそんな楽しい日々を送っていた。
イライアスは常に過保護で、時々マリカを子供扱いする。でも、貴婦人ではありえない男物のような服装を容認してくれたり、こうやって遠駆けに誘ってくれたりと、寛大な一面も持っていた。
特にイライアス自身が側にいる時なら、多少の無茶は許されるのだ。
侯爵邸を出た二人は、それぞれの愛馬に跨(またが)り、ラナメルの中心部を抜けて森の中に入っていく。
結婚してから習得したマリカの乗馬技術も、今では軍で活躍する男性達にも引けを取らないと自負している。もともと故郷で陸上競技をやっていたから、身体を動かすのは得意なのだ。
やってきたのは、森と言っても侯爵家所有の森林公園だ。深く入り込まなければ馬が駆け足で走れるくらいの、整備された道が続いている。最終的には少し入り組んだ小道に入り込み、馬を引いてゆっくり徒歩で進んだが、そこからは五分程度で目的の場所に辿(たど)り着くことができた。
木々の間から青い湖面が見えはじめ、マリカはうきうきと心を弾ませた。二人は今、湖のほとりにいる。きらきらと陽の光を反射する水の色は、美しい青。水鳥のつがいが優雅に泳ぐ。湖岸には季節の花々が咲いていて、景色を明るく彩っている。
「素敵な場所ですね……綺麗」
「気に入ったか?」
「はい、とても。きっと、準備をしてくださったのでしょうね」
マリカは、桟橋に繋げられた手漕ぎの小舟を見つけて言った。
雨ざらしになっていない、綺麗な小舟だ。近くには船小屋らしきものもあるので、おそらく今日のためにイライアスが指示をしたから、そこに用意されているのだろう。
「あとで、一緒に乗ってくれるんですね?」
「ああ、もちろんだ。だが、その前に腹ごしらえをしなければならない」
イライアスは、マリカの持っていた籠(かご)に視線を向ける。
「食いしん坊の旦那様は、大好きですよ」
二人で仲良く敷布を敷いて、さっそく用意してきた昼食を並べていく。そよ風がとても心地よい。ゆったりと時は流れていった。
食事で腹を満たしてしばらくすると、イライアスは大きなあくびをした。
「旦那様、少し横になりますか? 時間はたくさんありますから」
「いや、これからボートに乗ったり、釣りをしたりと……まだまだやりたいことがある」
イライアスは、自分の手帳を取り出して眺めている。そこに今日の計画が書かれているらしい。夫婦で楽しい時間を過ごすために、いろいろ考えてくれたことについては嬉しく思う。しかしこの穏やかな場所では、計画を放棄するのも悪いことではないはずだ。
「そうですか。お疲れなら、膝を貸してさしあげようと思ったのに残念です」
「……なんだって?」
すぐにでもボートに乗りに行くつもりのイライアスだったが、それを聞いて態度を変える。手帳を放り投げると「食べたあとは、少し休むべきだった」と言いはじめた。
「もしよろしかったら、どうぞ」
敷布の端で横座りをして、イライアスが寝そべりやすい場所を作る。すると、彼はごろんと転がって、マリカの膝の上に頭を乗せてきた。
「……平和ですね」
「……ああ、平和だな」
マリカはイライアスの髪に触れる。高貴で屈強な夫を上から見下ろせるのは、妻の特権だ。頭に触れ、子供をあやすように撫でられるのも。
「君がいて、私は幸せだ……」
イライアスがそう言ってくれると嬉しくてしかたない。彼の穏やかな顔を近くで見ていられることがマリカの幸せだ。
この時間がずっと続けばいいのに。
そんなことを考えていたマリカの耳に、どこかからガサゴソという雑音が聞こえはじめる。
(——ん?)
最初は小動物かと思った。しかし、音がどんどんと大きくなってくるから、二人は警戒をはじめる。
「まさか……熊?」
イライアスが熊を倒す話をしていたから、そんな想像をしてしまう。
「あれはただのたとえ話で、実はこの森に熊はいない。せいぜい鹿だが……」
「それならいいのですが」
「あまりよくないぞ。枯れ木を踏みしめる音。これはあきらかに人間の気配だ。忌々しい」
イライアスが剣を手に立ち上がったのと、物陰から人が現れたのはほぼ同時だった。
「クソ! 騒がしいぞ。私と妻の時間を邪魔する者など、手打ちにしてくれる」
悪者かどうかもわからないのに、イライアスはいきなり排除しようとしている。確かにここは侯爵家の私有地ではあるが、門で閉ざされているわけでもないから、迷い人が侵入してしまうとも限らない。
「旦那様、落ち着いてください」
マリカに言われ、イライアスはその動きを止めた。
その時、姿を見せた不審な人物の身体がフラフラと揺れ、どさりと地面に倒れ込んだ。
「大変!」
おそるおそる二人で近付き確認する。倒れたのは、随分と綺麗な身なりの男だ。しかもどこか既視感がある。
「あれ? このかたはアーキス伯爵によく似ていらっしゃいますね」
「似てる……ではなく本人だな」
美しいプラチナブロンドの髪や衣服を、土と葉で汚して倒れ込んでいたのは確かに伯爵だ。意識はあるようで、すぐに顔を上げてイライアスのほうに手を伸ばしてきた。
「イライアス殿……どうかお助けを……とりあえず水……を」
彼、アーキス伯爵は、ヒンシェル公爵の謀(む)反(ほん)が終息した今、女王の後継候補をイライアスに押し付けられ、忙しくしているはずだった。
王都で別れて以来二ヵ月ぶりの再会だが、どうしてこんな場所で行き倒れになっているのか。
マリカはただ戸惑い、イライアスは「面倒事を持ち込んできたのか」と煩わしそうな顔をした。
そうしてマリカが行き倒れのアーキス伯爵に水を持っていこうとすると、イライアスに取り上げられてしまう。
「待て、マリカはこの男に触れてはならない。……私がやるから距離を取ってくれ」
彼が心配しているのは、弱っているかもしれない伯爵に対して、マリカが癒しの力を発動させてしまうことだ。マリカは能力を制御できない。使い方を間違えると倒れてしまうのだ。夫の懸念を理解して、素直にそれに従う。
アーキス伯爵はイライアスに渡された水をごくごくと飲み干した。ついでにあまっていたパンをイライアス経由で差し出すと、よほど空腹だったのか「かたじけない」と言いながら、かぶりついていた。
食料補給を終えたアーキス伯爵は、弱っていたのが嘘のように、みるみるうちに元気になっていく。
「レディの前で醜(しゅう)態(たい)をさらしてしまい、申し訳ありませんでした。麗しのマリカ殿、お久しぶりです。相変わらずおかわいらしい」
汚れた衣服には不釣り合いなきらきらとした笑みを向けられる。その瞬間、イライアスが殺気立ってするりと剣を抜いた。
「……イライアス殿! 待ってください! 私達は友人であり盟友でもあるはず。なぜ斬(き)りつけようとするのですか」
「妻に色目を使う男は、全員抹殺リストに載っている」
「色目など使っていません! 純粋なる敬愛の心です」
「そうか、無自覚とはもはや救いようがない。試しに一度死んでみろ」
本気なのか、実は仲がよくじゃれ合っているだけなのかが、マリカには判断がつかない。ただ、収束するのを待っていると日が暮れてしまいそうなので、時期を見計らって二人に声をかける。
「お二人とも、そろそろおやめください。あの……伯爵はなぜこちらへ?」
アーキス伯爵は現在、女王の補佐官という立場にある。常に女王の側にいなければならないはずの彼がここに姿を見せたということは、何か特別な事情があるはずだ。
マリカが尋ねると、アーキス伯爵は神妙な面持ちになる。
「とても大変な状況に陥っております。事態は一刻の猶予もありません。イライアス殿のお力をお借りしたいのです」
その真剣な眼差しに、イライアスも不承不承ながら話を聞く態度になる。そうして、アーキス伯爵は事情の説明をはじめた。
「実はこのたび、ベイジルをカルベール王国に送り届けることになりました。しかしあの子は何を思ったのか、カルベールには行きたくないと……この近くの街道を通りかかった時に逃走を図ったのです」
伯爵の話に突然出てきたベイジルという人物がわからず、マリカは話の間を狙って、遠慮がちにイライアスに尋ねた。
「あの、旦那様……ベイジルさんというかたは、どなたでしょう?」
貴族の名前は教育で一通り勉強したはずだったが、イライアスが社交嫌いなので、特に必要とされず、覚えたことを、すっかり忘れてしまっている。
「ヒンシェル公爵の孫にあたる子供だ、年齢は……」
イライアスも年齢まではっきり記憶していなかったのだろう。言いかけて、アーキス伯爵に視線を送ると、彼が代わりに詳しく教えてくれる。
「八歳です。公爵の子息はすでに他界していますので、公爵家の跡取りになる予定でした。しかし今回の事件でヒンシェル公爵家は取り潰しになり、ベイジルも我が国での貴族としての身分は剥奪(はくだつ)。本人は母親のいるカルベール王国で生活していくことが決まったのです」
「……そうだったのですね」
ヒンシェル公爵の事件は自分達も関わったことなので、他人事とは思えない。そのベイジルという子の今後の人生を考えると、胸が痛む。未来の公爵、そしていつか国王になってもおかしくない立場だったのだ。
しかしその子の祖父は、簒奪(さんだつ)を企(くわだ)てるという大罪を犯した。子や孫には罪が及ばないとは言い切れないのがこの国の規律だ。これでもかなり温情をかけた処遇だったのかもしれない。マリカの立場からは「かわいそう」とも「当然だ」とも言えず黙り込む。
一方のイライアスはこの話のどこかに気に入らない部分があったようで、怒りを露わにしてアーキス伯爵に詰め寄っていた。何を思ったのか、伯爵のこめかみのあたりを自分のこぶしでぐりぐりと攻撃しはじめた。
「ふざけるな! 王都からカルベール王国までの街道とこの地は、かすってもいないではないか」
イライアスの怒れる指摘に、はっとする。マリカでも、頭の中で簡単な地図を思い浮かべることはできる。カルベール王国は王都から北東の方向にある小国だ。西寄りにあるラナメルはそこまでの道のりの通過点ではない。
つまり、わざわざこちらに寄ったということなのだ。イライアスが不審に思うのも無理はなかった。
森の中には、イライアスのぐりぐり攻撃で吊(つる)し上げられたアーキス伯爵の、悲痛な声が響き渡る。
「痛っ! イタイ! イタイ! 本気はやめてください。……そ、それについては、じょ、女王……陛下より伝言がござ……いま……」
伝言と聞き、イライアスが余計に力を強める。もはやアーキス伯爵は、言葉を発することもできなくなった。
「誰が素直に伝言など聞くか。やはりどう考えても面倒事ではないか!」
ただでさえボロボロだった伯爵は、もう息も絶え絶えだ。夫が罪人になってしまっては困るので、マリカはイライアスをたしなめた。
「旦那様、おやめください。女王陛下の思惑はまずは置いておきましょう。子供が行方知れずということでしたら、放ってはおけません」
「むっ……君は優しいな。しかたない、妻に免じて協力してやる。……それで、ベイジルがいなくなったのはどのあたりだ? 状況を説明しろ。とにかく小僧を探して捕らえなければ。私と妻の憩いの時間を邪魔した罪は、本人に問う」
マリカは、会ったことのないベイジル少年に同情した。外に向けての口は悪いが、イライアスは優しい人だ。本当に罪に問うようなことはしないだろうが、おしおきはされるかもしれない。
とにかく自分が先に探し人を見つけなければと、マリカが密かな決意をしていると、アーキス伯爵がぐりぐり攻撃からどうにか復活した。
「ベイジルが逃走したのは、馬車がその先の街道を通りかかった時です。この森のほうに向かって走り出しました。だから私も彼を追ってここにいるわけですが……一昼夜かけても発見できず、他の者ともはぐれてしまいました……面目ない。実はイライアス殿より先に、護衛の方々に助けを求めたのですが……無視されてしまい……」
その時、森の中で一斉にごそごそと動き回る音がしはじめた。どうやらイライアスに隠れてこっそり警備をしていた者達がいたようだ。そして、彼らは今、逃走を図ろうとしている。
「お前達、最初からいるのはわかっていた。逃げても無駄だ。すぐに出てこい」
イライアスが声を張り上げると、屈強な兵士が十人ほど、茂みから姿を見せ一列に並んでいく。そして、マリカと目が合うと皆が気まずそうに視線を逸らした。
身分の高いイライアスは、デートの時に陰でこっそり警備されていても気にしない。それを気にするのはマリカであり、警護不要というのは、マリカのために言っていたことなのだ。
どちらかと言えば部下の面々ではなく、イライアスに上手く騙(だま)されていたような、なんとも言えない気分になる。
(膝枕……見られてたの!?)
慣れようと思っても、これは慣れるものではないのだ。強面の軍人達はいったいどんな気持ちで、自分の上司が妻の膝を借りて横になっている姿を見ていたのだろうか。生温かく見守られていたのだと思うと、立ち直れそうにない。今度からは私室以外でイライアスと密着するのをやめようと、マリカは密かに誓った。
ふくれているマリカの横で、イライアスは将軍の顔になる。厳しい表情で部下達の前に立ち、指示を出しはじめた。
「話は聞いていたな? 今すぐ八歳の小僧を探して捕獲せよ」
「はっ!」
部下達は敬礼をして応えたが、イライアスの中では、保護ではなく捕獲になってしまっていることが心配だ。
「あの、アーキス伯爵。ベイジル公子……いえ、ベイジル様の容姿の特徴は?」
「見かけは私とよく似ているプラチナブロンドの髪をした、ごく普通の八歳児です……が、ちょっとわがままで、いかにも貴族といった服装をした少年は田舎には二人といないはずですから、すぐにわかるかと。髪型は……ああ、そこにあるキノコのような形です」
アーキス伯爵の視線の先を辿ると、木の根元にマッシュルームが生えていた。ベイジル少年は、プラチナブロンドのマッシュルーム頭のおぼっちゃま。マリカはそう解釈して頷(うなず)いた。
「では、手分けして探しましょう」
マリカがやる気を見せて告げると、イライアスは、最後にちらりと準備してあった小船のほうに視線を送った。せっかくの予定が崩れてしまったことに心残りを見せる。
「旦那様、船遊びはまた今度にしましょうね」
マリカはそんな夫の手を引いて、森の奥へと入っていった。
ベイジル少年捜索隊は、いくつかのグループに分かれて活動することになった。
考えがあり、イライアスと別行動を願ったマリカだったが、当然のごとく却下されてしまう。
女王絡みの案件を持ち込まれた夫は、かなり不機嫌な様子だ。探し人を先に見つけ出すことは難しそうではあるが、まだ見ぬベイジル少年がイライアスに酷いおしおきをされないように、マリカはこのまま離れず見張っておくことにした。
アーキス伯爵が相手なら、彼はイライアスにかまってもらえて喜んでいるふしがあるので放置しておいてもいい。でも、八歳の子供はだめだ。先ほどのように「ぐりぐり攻撃」をしてしまったら、きっとベイジルは無事では済まないだろう。
「旦那様、あの……手を繋いで欲しいのですが」
「ん? いいのか!?」
暴走防止のためにマリカが提案すると、イライアスはご機嫌になった。後ろを歩く護衛数名には「あなた達も止めるのですよ!」と目配せをしてみたが、二人の仲を見守るように微(ほほ)笑(え)まれたので、きっと通じてはいない。
一行は森の奥を進んでいく。長く伸びた枝によって陽の光がかなり遮られ、少し肌寒く感じた。
「一晩森で過ごしていたのだとすると、心配ですね」
昨晩はかなり冷え込んだ。今までなに不自由ない生活をしてきた貴族の少年が、ここで迷子になっていたとしたら、心細い一夜を過ごしたことになる。
知らない場所、頼れる大人がいない状態で過ごす暗闇がどれほど恐ろしいものか。マリカはつい自分の経験と重ねてしまう。
ここはあの森ではないけれど、子供にとって安全とは言い難い。早く見つけてあげないと。
そしてもうひとつ気になっていることがある。ヒンシェル公爵家の跡取りだったというその少年は、現状をどう理解し、イライアスにどんな感情を向けてくるのかわからない。
女王に命じられ、アーキス伯爵が連れてきたのだとしたら、危険はないのだと信じたいが、確信は持てなかった。
もしイライアスに復讐心を持っているとしたら?
イライアスには、ベイジル少年となるべく関わって欲しくない。
「マリカ、何を難しい顔をしている」
歩きながらあれこれと考えを巡らせていると、イライアスに呼びかけられる。
「な、なんでもありません。大丈夫です」
「……まあ、君の考えていることは大体わかる」
「え! そうなのですか?」
イライアスには読心術があったのか、それとも自分がわかりやすいだけなのか。ドキッとしながら夫の瞳を覗き込むと、彼は自信満々に言った。
「私のことを考えていたのだろう」
「……正解です」
マリカが認めると、イライアスは嬉しそうに笑う。
「私もだ。寝ても覚めても、君のことばかり考えている」
照れもせずきっぱりと言い切られ、マリカは思わず顔を赤らめる。そしてはっとして、後ろにいる護衛の反応を確認した。
一人は顔を背け、一人はにやにやと笑い、一人は顔を赤くさせている。
マリカは恥ずかしさをごまかすように前を向き、イライアスに別の話を振った。
「ところで、旦那様はベイジル様と面識があるのですか?」
「うん? ああ、まあ一応。あれは確か四年以上前……まだベイジルの父親が生きていた頃に何度か。その頃は私も中央軍にいたから、王都で過ごしていた。今、ベイジルが八歳ならば三つ、四つの頃になるな。おそらく本人は私のことなど覚えていないだろう」
言いながら、イライアスは木々の間から覗く青い空を見上げた。
「ベイジルの父親、ジェフリーはいい奴だった。……公爵の息子とは思えないくらいに。気弱なところがあったが、博識で優しい男だったよ」
「ベイジル様のお父様は、どうしてお亡くなりに?」
「もとから丈夫とは言い難かったが、流行病であっけなく。しかし生きていれば……いや、たらればを言ってもしかたないな」
もしその人が生きていたら、その後の不幸な出来事は起こらなかった。イライアスの惜しむ表情から、そんな想いが伝わってくる。
繋いでいた手をもう一度しっかり握り直す。一行は森の随分奥までやってきていた。
「旦那様、見てください。あそこに洞窟があります」
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