書籍詳細
捨てたはずの婚約者 〜因縁の御曹司と現世で二度目の恋〜
ISBNコード | 978-4-86669-402-3 |
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サイズ | 四六判 |
定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2021/06/15 |
レーベル | チュールキスDX |
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内容紹介
人物紹介
田中加奈(たなか かな)
大手商社の事務員。28歳。 前世で婚約者に手ひどく振られた記憶を持つ。
中田悠理(なかた ゆうり)
加奈の上司であり、会社の御曹司。29歳。 自分を避ける加奈が気になり…。
立ち読み
目の前の美しい騎士が頭を下げて、私に告げる。
「どうか、あなたから婚約破棄をしてほしい。格下の我が伯爵家から公爵家へ申し出ることなど、とてもできないのだ。分かってくれるだろう? 愛がないまま結婚しても、お互いに不幸になるだけだ」
『愛がない』とは、なんと残酷なことを言うのだろう。分かってはいても、面と向かってはっきり言われたことがショックだった。
取り縋っても余計惨めになるだけ。私は黙って頷くしかなかった。
幼い頃に決められた婚約者は、天使のように美しい顔をした少年だった。一目で恋をした。
しかし、淡い恋に浮かれたのも束の間。幼い子供でも、どんぐりまなこの地味な自分が彼の隣に立つのは不釣り合いだと、すぐに理解した。二人で並ぶたびに、くすくすと周囲から嘲笑が漏れるのだ。
そして、成長するにつれて、私たちの差は開いていった。美形なだけでなく、騎士団一の剣使いとして頭角を現していった彼。一方、家柄だけは申し分のない平凡顔の私。
地味な婚約者の相手をさせるのも気の毒になり、私はできるだけ彼から距離を取った。顔を合わせずにいれば辛い思いをしなくて済むと思ったからだ。しかし、恋多き彼の噂はすぐに耳に入ってきた。親切を装って噂を教えてくれる人、彼との夜を自慢する人、贈り物を見せびらかす人。
胸が痛んだが、それでも結婚するのは私だと思っていた。
そんなわずかな希望も、簡単に砕け散った。美しい男爵令嬢と本気の恋に落ちた彼が、婚約破棄を願い出てきたのだ。淡いブロンドで、遠目にも美しい女性だった。
彼は、彼女と結婚したいのだろう。公爵家の後ろ盾を蹴ってまで、男爵令嬢を選ぶのだ。自分は政略結婚の価値もないということか。
どうやって父に伝えたものかと思案しながら馬車で帰路につく途中、突然の雷雨に見舞われた。ガタン、と道を踏み外す音が聞こえる。あ、これはマズイわ。そう思った瞬間、私は馬車ごと崖の下へ転落していった。最後に思ったのは、これで婚約破棄をしなくて済む、ということだった。
私、田中加奈は二十八歳のOLだ。語呂合わせが悪い名は、両親のネーミングセンスではない。母が離婚して旧姓に戻ったためだ。まあ、覚えてもらいやすいという利点はある。
地味以外に形容のしようがない私は、黒髪平坦な純日本人顔。勉強が好きだったため、それなりの高校・大学へと進み、大手商社に就職できた。恋とは無縁な人生である。一人で生きていくためにも、就職先に恵まれてラッキーだった。
これと言って特筆することのない毎日。
あえて他の人と違う点を挙げるなら、〝前世持ち〟ということか。それも、婚約破棄を懇願されるという、なんとも情けない記憶だが。もっと楽しいものだったら、私の人生も違ったかもしれない。なにせ、物心ついた時には、男に裏切られた記憶があったのである。十歳の時、父の浮気が原因で両親が離婚したことも追い打ちとなり、男をすっかり信用できなくなっていた。
別に、このご時世、一人だって生きていける。処女だって恥ずかしくなんかない。趣味のヨガを楽しみながら、私はおひとり様人生を謳歌していた。
「田中さん、ハンコ貸してくれない?」
そう言ってやってきた彼は、田中ではない。中田さんだ。くるっと印鑑をひっくり返して押印する。
「いい加減、ご自分のを買ってください」
「うう~ん。そうだね。日本はまだまだハンコ文化だから、必要かな。結婚する時にも要るもんね」
片手を上げてウインクしながら「ありがと!」と立ち去る彼を、無表情で見送った。こんな無愛想な女にも、米国仕込みの気安さで声をかけてくる彼は、ニューヨーク支社から一か月ほどの予定で出張してきているエリート社員だ。
毎日入れ食い状態の彼が結婚用の印鑑を心配するなど笑えない冗談でしかないのだが、総務部にいて都合がいいからと言って、私の印鑑をいつまでも使われてはたまらない。さっさと用意してほしいものだ。
出張してきて一週間。すでに彼は数人の美女と浮名を流していた。それも、人事部のマドンナ、高嶺の花と言われた社長秘書、読モ出身の新人受付と、お相手もきらびやかな顔ぶれだ。今も、総務部の女豹――と勝手に私が呼んでいる肉食美女と親しげに話をしている。どう見ても、仕事の話をしている雰囲気ではない。
母親が米国人の彼は、マリンブルーの綺麗な瞳をしている。明るめのブラウンの髪、高い鼻梁、切れ長の目とすべての造作が整い、ちょっとそこらでは見ない美形だ。背も百九十センチはあろうかという長身で、肩幅が広く、スーツの上からでも引き締まった体つきなのが分かる。本当に日本人の血が入っているのかと首を傾げたくなるほど、日本人離れしたルックスをしていた。……中田さんだけど。
さらに、英語はもちろん、仏独語も堪能なエリートとあっては、女が群がるのも無理はない。今夜の相手はあの女豹か、などと下世話なことを考えてしまった。
手元の書類に視線を戻しながら、ぼんやり考える。
それにしても、何の因果なのか。
彼は……古い記憶にある、前世の元婚約者だ。騎士服からスーツに変わっただけで顔は全く変わっていないから、すぐに分かったのだ。初めて見た時は、息が止まるかと思った。まさか、現世で再会するなんて夢にも思わなかった。神様のいたずら? そんな可愛いものじゃない。私にとっては恐怖ですらある。きゃあきゃあ騒ぐ周りの声が遠くに聞こえ、彼の挨拶も全く耳に入らなかった。
それ以来、前世の記憶が夢となってたびたび現れる。より鮮明に蘇る記憶に、気持ちは混乱するばかりだ。だが、こちらの顔はさらに地味になっているので、向こうは全く分かっていない様子である。そもそも、彼には前世の記憶などないのかもしれない。だからこそ、気安い笑顔を向けてくるのではないか。前世では、笑いかけてもらったことなど一度もなかったのだから。
何故、自分にこんな忌まわしい記憶が残っているのか。前世の記憶といっても、どこか遠い世界の夢物語のように思っていたのに。彼が現れたことで、急に現実味を帯びてしまった。彼を見るたび、あの時の気持ちが蘇る。
軽く首を振って、思考を遮った。今更関係ない。彼は完全に別世界の人だ。再会したからって、何があるというわけでもあるまい。第一、前世の婚約者などと口走ってしまったら、妄想癖のあるおかしな女だと思われるのがオチである。彼には関わらないのが一番だ。出張で来たエリートなど、そう長くはいない。
中断した仕事を再開した私は、周りの雑音をシャットアウトし、書類に集中していった。
毎週金曜日はヨガ教室に行く日だ。合コンに来ないか、と同期が呼び止めてきたが、即座に首を振った。
「私にまで声をかけてくるなんて、よっぽど人数が集まらなかったの?」
「いやー、バレちゃってる? でも、加奈だって、そろそろ婚活しないといけないかなーと思って」
くすくす笑う彼女、日向麻衣は、同期の中でも気の合う存在だ。裏のないさっぱりした性格で、男女問わず人気がある。
「婚活ねぇ。その前に、彼氏の一人もいたことがないけど」
何げなく言うと、麻衣は声を潜めてこそっと注意してきた。
「そうやって処女ってことを口にしない! 変なのに好かれちゃうよー。ほら、やもめ課長とか」
「なんで課長が出てくるの?」
「うわ、無自覚? あの人、加奈のこと狙ってるよー! 大人しくて従順そうに見えるからじゃない? 処女なんて知られたら、結婚申し込んでくるかも」
「やだ、変な冗談言わないでよ」
課長は五十歳を過ぎたぐらいで、奥さんを亡くしている。人はいいが、さすがに倍近い年齢の人にそんな目で見られては笑えない。
「加奈は天然記念物だから。気をつけなよー」
そう付け足して、彼女はいそいそと出ていった。他の面子を探しに行くのだろう。
天然記念物? 処女が? ネットで見ると、二十代後半の処女率は三人に一人とあったが、単なる都市伝説だったのか?
どちらにしろ、自分は一生処女でかまわない。今更誰かに合わせて生活などできないし、おひとり様計画もきっちり立てている。老後だって大丈夫だ。
会社を出ようとしたところで、エントランスがやけに静かなことに気づいた。いつもの金曜日なら、帰りを急ぐ人たちでごった返しているのに。不思議に思いながら歩いていくと、視線の先に中田さんがいた。恰幅のいい外国人の紳士と話をしている。客を見送りに来たのだろう。皆、ちらちらと窺うような視線を向けながら遠巻きに通り過ぎていく。静かだったのはこのせいか。
加奈もその流れに沿って近づくと、彼の声が聞こえてきた。笑い声を交えながら、何語かも分からぬ言葉を流暢に話している。力強いアクセントから、ドイツ語だろうか。英仏独語が堪能という噂は事実だったらしい。その姿は、確かにできるビジネスマンだった。
視線を落として通り過ぎようとした時、うしろから女子社員の悲鳴が上がった。なんだろうと思って顔を上げると、中田さんがこちらに向かって片手を上げている。誰かに挨拶でもしたのだろうか。何げない仕草も洗練されているな、と思いながら足早に会社を出た。
加奈は入社以来、自宅の最寄り駅近くにある会員制ジムに通っている。ひそかに芸能人も通う人気の場所で、インストラクターの質が高いことはもちろん、設備も充実していた。ヨガの後にラウンジで飲み物を飲んだり、スパやジャグジーを自由に使用できたりする。それなりの会費はするが、質素倹約を心がける加奈が、唯一お金をかけていることだ。
美魔女インストラクターの真似をして、ゆっくり息を吐きだしながらポーズを取っていく。かれこれ五年続けているから、一応上級者クラスだ。ヨガは体だけでなく、心のバランスも整えてくれる。汗とともに鬱々とした気分も吐きだすことができ、レッスンを終える頃には、心まですっきりした。
中田さんに会ってからの一週間、本当に気が重かった。それでなくても、先月からチーフになった女豹――倉木さんにいびられ、居心地が悪くなっているのだ。彼女は私が嫌いらしい。私も嫌いだけど。
社会人として、感情を仕事に持ち込んではいけないと分かっている。来週からは、また気持ちを切り替えて集中せねば。
ジャグジーでくつろいでから、帰路につく。ジム帰りはすっぴんでTシャツ短パン姿だが、自宅まで十分もかからない。表道には出ず、裏道を縫うようにして、そそくさと歩いていった。
しかし、今週はとことん運が悪い。そのわずか十分の道のりで、また嫌なものを見てしまった。くだんの中田さんがブロンド美女と正面から歩いてきたのだ。女性の腰に手を回し、楽しげな笑顔だ。先ほどの営業用の顔とは全く違う。こんな裏道で会う確率など、ゼロに等しいだろう。偶然を通り越して、神様の嫌がらせとしか思えない。……神様など信じたことはないが。
はぁっと溜息をついて周りを見るが 狭い裏通りに逃げ場などない。ダッシュで引き返すのも挙動不審すぎる。そうだ。もしかすると、すっぴんだから気づかれないかもしれないと思い直し、顔を伏せて通り過ぎる作戦を選んだ。
「あれ、田中さんじゃない」
期待空しく、あっさり気づかれてしまった。なんて目ざとい! こんな地味女に注意を向けなくてもいいものを。いや、むしろ、気づいても気づかぬふりをしてくれていい場面だ。
美女の腰に手を回したまま、彼はにこやかに話しかけてきた。
「どこかに行ってきた帰り? エントランスで手を振ったのに無視されたから、ずいぶん急いでたのかと思った」
「え! あれは私に向かってだったんですか」
「ああ、自分じゃないと思ったわけ。よかった、無視されたのかと思った」
全くよくない。人前で手を振るほどの関係ではないはずだ。
「それは失礼しました」
無愛想に答えて早々に立ち去ろうとしたが、何故か彼は話をやめようとしない。
「どこかで運動でもしてきたの?」
「ええ、まあ」
「家がこの近く? それにしても、ラフな格好だね。そんな無防備な格好で女の子がこんな時間に出歩くなんて、ダメじゃない」
加奈の足に視線を向けながら、中田さんは感心したように言う。
ブロンド美女がクスクス笑った。
「彼女だからじゃない? 私にはちょっと無理だわ」
「ハハ、まあ、そうかな」
何? この人たち。加奈の胸にチクリと針が刺さった。地味な女だから、こんな格好で歩いても安全なのだと言いたいのか。
「そうですね、じゃあ」
ペコリとお辞儀をして、足早にその場を立ち去った。こんな中傷に付き合う義理はない。
背を向けたとたん、涙がじわりと浮かんでくる。
容姿を馬鹿にされるのは、今に始まったことではない。いつもなら軽く受け流せる。たったあれだけのことで泣くなんて、どうしたというのか。自分でも驚いてしまう。
……そうだ。
彼は前世でも、綺麗な令嬢たちが私を馬鹿にするのを否定もせず聞いていた。自ら嘲笑に加わることはなかったが、婚約者を馬鹿にされて平気なのかと悲しく思ったものだ。でも、私が地味なのは事実に違いない。それをフォローしろという方に無理があるか。
なんだか余計なことまで思い出してしまった。こんな記憶、要らないのに。きっと、この胸の痛みは前世のものだ。
ごしごしと目をこすり、両手で頬をパンッと叩いた。
大丈夫。今は、接点の薄いただの〝会社の人〟だ。そんな人の言葉なんて、気にすることはない。すぐに私の世界からいなくなる。関わらなければいい。それだけだ。
「まあ! 公爵家に伝わるエメラルドのネックレスの見事なこと。……でも、茶色い瞳には似合いませんわねぇ」
「そうだね、エメラルドは君のような翠の瞳に合うよね」
「舶来の翡翠の髪飾りとはお珍しい。でも、麦わらのような髪の上では、一瞬、ただの石ころかと思いましてよ」
「君の絹糸のような金髪なら映えそうだね」
「繊細なレースで仕上げたドレスも、背の低い方が着ると、潰れてしまうのですね。デザイナーが気の毒ですわ」
「君のようにスラリとした体型なら似合いそうだね。次のドレスはぜひそのレースを使ってみてはどうだろう」
令嬢とにこやかに話す彼がこちらを向く。綺麗なマリンブルーの瞳に嘲りが浮かんでいた。
『公爵家が金に物を言わせて用意したアクセサリーもドレスも、そんな地味な容姿じゃ全く似合わないんだよ』
憎々しげに吐きだした言葉が胸を抉った。じっとこちらを見つめる表情がだんだん歪み、黒い影になって渦を巻いていく……
夢でうなされた加奈は、パッと起きあがった。慌てて辺りを見回す。そこには、いつも通り、物の少ない自分の部屋が広がっていた。
ほーっと息を吐きだすと、手の甲に雫が落ちる。その冷たさで、自分は本当に泣いていたのだと気づいた。
何故、こんなに前世の記憶が夢に出てくるのか。また余計なことを思い出してしまったではないか。どこまでが記憶で、どこからが夢なのかはっきりしない。さすがに、あんなに憎々しげな顔を向けられたことはなかったと思うが……
手の甲で涙を拭って時計を見ると、まだ六時前であった。休日にしては早いが、窓の外はすでに明るい。天気もいいようだし、早めに起きてしまおう。
気持ちを吹っ切るように、えいっとベッドから飛び降りた。サーッとカーテンを開けて太陽の光を吸い込む。これだけで元気が戻ってくるようだ。
軽くストレッチしながら、ふと気づく。
……ん?
いや、待てよ。
よく考えると、かなり失礼な話だった。彼にしろ、令嬢たちにしろ、とても格上の公爵令嬢に対する態度ではない。
あの時の自分はいくつだっただろうか? とにかく、何も言い返せない小娘だったのだ。せめて父に告げ口でもすればよかったものを!
あー、なんか腹が立ってきた。
大丈夫。今の私なら、言われっぱなしになんかならない。自立したいい大人なのだ。あんな夢は忘れてしまおう。
洗濯機のスイッチを入れてから、朝食の準備に取りかかる。一人の食事など簡単だ。トーストを焼き、サラダ菜とトマトを洗って、果物を剥く。今日は、買い置きしてあった夏ミカンだ。一房ずつ丁寧に剥き、皿に盛りつけた。熱い紅茶を淹れれば、一人前の出来上がりだ。
一人用のローテーブルに簡素な白い食器を並べ、「いただきます」と手を合わせた。寂しいと思う気持ちもあるが、気楽さの方が大きい。世の男女は、よく相手に合わせて生活できるものだ。
紅茶を飲みながら新聞を読んでいると、携帯に母からメッセージが入っていることに気づいた。
『新しい恋人と一か月イタリアに行くから、留守をよろしく~!』
またか。思わず加奈の口がほころんだ。
両親は父の浮気で離婚したが、母もたいがいである。私が知るだけで、すでに五人目の恋人だ。顔立ちは自分と似て普通なのに、なぜだか母はよくモテる。しかも、相手は高スペックの人ばかりというのがすごい。今の相手はイタリア人の経営者で、しょっちゅう海外旅行に連れていってもらっている。今度は一か月か。海外に行ったことのない自分としては、少しだけうらやましい。
もちろん加奈が小さい頃は、何よりも加奈を優先し、大事にしてくれた。いつも笑顔で、疎遠になった父親の分まで愛情を注いでくれたと思う。大好きで自慢の母。自分が自立した後は、楽しそうに人生を謳歌してくれて何よりだ。
さて、留守を頼むということは、観葉植物の世話をしに行かなくてはならないということだ。電車で一時間ほどのところにある母のマンションには、所狭しと植物が置かれている。暑い時期だし、週に一度というわけにもいくまい。平日は水曜日にでも一度寄ればいいか。仕事が忙しい時期でもないから、大丈夫だろう。
今日は早めに家事を済ませ、買い物のついでに寄ってみることにした。
加奈が今住んでいるのは、会社が一棟借り上げているアパートの一室だ。マンションと違って最新のセキュリティがあるわけではないが、建物入口にはオートロックの門が付いており、住人以外は基本的に立ち入れないよう配慮されている。
二階建てのこぢんまりした建物に、真ん中の階段を挟んで左右に二部屋ずつ、合計八部屋ある。間取りは1Kとやや狭いが、一人で暮らすには十分だ。加奈の部屋は二階東側の奥で、隣はしばらく空室だ。壁が薄いので、隣がいないのは正直ありがたかった。
しかし、玄関を出ると、隣の部屋に業者が来ていた。ベッドや洗濯機などの家具を運び入れている。人事異動の時期ではないのに、今頃入居する人がいるのかと首を傾げたが、まあ、何か事情があるのだろう。誰でもいい。ここに住む人達は、皆、お互いに干渉しないようにしている。
加奈は鍵を閉め、買い物に出かけた。
母のマンションに入ると、また植物が増えていた。小さな鉢植えばかりだったのに、加奈の背丈ほどの〝幸福の木〟まである。どうやって運んだのだろう? すごい。
えーと。これはあまり水やりをしない方がいいのだっけ……?
あまり植物には詳しくない。スマホで世話の仕方を検索しながら、水をやっていく。手間のかかるものはなかったから、それほど時間もかからなかった。
ついでに掃除をしていこう。窓を開けて掃除機をかけ、簡単に水拭きを始めた。母はあまり家事が得意ではない。かつて一緒に住んでいた頃、ほとんどの家事は加奈の役割だった。父からの慰謝料はこのマンションだけだったから、加奈が大学を出るまで、必死に働いてくれたのだ。
自分の部屋だったところをのぞいてみると、まだ家を出た時のままだった。いい加減処分してもいいと思うが、いつでも戻ってこられるように、帰る場所を用意してくれているのだ。母の気持ちがありがたい。
おひとり様人生を目指す加奈を誰よりも心配しているのは、母だった。
「私が死んだら、あなたは一人ぼっちになっちゃうのよ」
親として、もっともな心配だ。孫を抱かせてあげることが一番の親孝行だということも、分かっている。だが、それだけは母の望みでも、叶えてあげられそうになかった。
加奈の男性不信が自分の離婚のせいだと思っている母は、あまり結婚をせっつかない。少しだけ心苦しいが、さすがに母にも前世の記憶など話せなかった。
帰りがけ、〝田中〟の印鑑を一本もらっていこうと思いついた。どうせ何本も余っているのだ。大事なものは別のところにしまってあるから、問題ないだろう。
きちんとした字体の印鑑なら、ひっくり返して利用されることもない。今度、彼が借りに来たら、使っているものをあげてしまえばいい。節約志向で印鑑まで安い物を使っていたばかりに、あの人と変な縁ができてしまった。
食料品の買い出しをして、えっちらおっちらと荷物を抱えてアパートに戻った。安いからと、つい買い込んだじゃがいもがやけに重い。
門を開けるのがきついな、と思っていると、ラッキーなことに中から門が開いた。ちょうど誰か出てきたのだ。
「あ、そのまま開けておいてください! 入ります」
声をかけてから、加奈は固まった。
出てきたのは……中田さんだった。
「あれ、田中さん。やっぱりここのアパートだったんだ。昨日近くで会ったから、そうじゃないかと思ったんだ」
そうか。昨日は、このアパートを見に来た帰りだったのか。あんな裏道で会ったことにも納得した。なんでブロンド美女と一緒に見に来たのかは分からないが。
「……こんにちは」
どう返事をしていいか分からず、とりあえず挨拶をした。
「えー、それだけ? もっと喜んでくれてもいいのに。オレにそんな塩対応する人、田中さんぐらいだよ」
ククク、と笑いながら返事をしてくる。夢の中とは全く違う顔に、少しだけ安堵した。そうだ、前世の彼と今の彼は、全く関係ないのだ。今はただの〝会社の人〟だ。混同しないようにしなければ。
「はあ、そうですか。塩対応なんて言葉、よくご存じですね」
「総務の課長が言ってた。あの人にもそうなんだって?」
にこやかに話をしながら、加奈の荷物に手を伸ばしてくる。
「重そうだね。持ってあげるよ。部屋はどこ?」
「いえ、けっこうです!」
加奈はとっさに身を引いた。
「ハハ、そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。取って食ったりしないから」
「そんなこと考えてません」
「そう? いつも、オレのこと敵みたいな目で睨んでるじゃない」
そんな風に思われていたのか。自分では普通に接していたつもりだったが。
「別に、普通ですよ。目がハートの女性ばかり見慣れているから、普通の目が睨んでいるように見えるのでは?」
「うーん。そうかな。あんな目で見てくるのは、田中さんと……過去に一人いたぐらいだけど……。ま、いいか。普通だって言うならさ、この辺のこと教えてくれない? ついでに、おすすめのお店で食事しようよ」
いきなり話がぶっ飛んだ。
ふいに向けられた甘い笑顔に、心臓がドクンと跳ねる。長めの前髪からのぞくマリンブルーの瞳が、優しげに加奈を映し出していた。なんだ、これは。女性たちをとりこにしてきた笑顔を自分に向けるなんて反則だ! 一歩だけ近づいてかがみこんでくると、ムスクの香りが鼻をくすぐる。前世でも大好きだった香りだ。
加奈は一歩後ずさって、荷物を持つ手を握りしめた。
「……店なんて分かりません。外食はしませんから」
「ええ? そんな言い訳はいくらなんでも……」
彼が困惑した表情を見せる。ただ食事に誘っただけで、こんなに狼狽する女などいないだろう。
うまく返事ができない。なんてみっともないのだ……
「ネットでいくらでも検索できるでしょう? じゃあ!」
早口で言い捨てると、彼の横をすり抜けて、階段を駆け上がっていった。ドアの前で一息つき、振り返る。中田さんの姿は見えない。そのまま出ていったようだ。
鍵を開けて部屋に入り、へたりこむ。今朝、隣の部屋に入居準備していたのは彼だったのだ!
出張で来ていただけの人が、なんで借り上げアパートに!? すぐ帰るのではなかったのか。しかも、こんな狭いアパートに来なくてもいいではないか。家賃は上がるが、マンションだってあるのだ。
どうして、なんで、彼との接点ばかり増えていくのか。偶然と呼ぶには、あまりにひどすぎる。
このままでは……捨てたはずの気持ちまで思い出してしまいそうだった。
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