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溺愛結婚 〜交際0日!?突然はじまった結婚生活〜

立花実咲 / 著
ことね壱花 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/06/25

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内容紹介

偶然の出逢いが運命に変わる!?
「僕と結婚してほしい」ブライダル会社でアドバイザーとして働く嘉川凛は恋に悩む奥手女子。学生時代のトラウマから恋が出来なく、唯一憧れていた八重樫社長までもが、いつの間にか結婚したとの噂が! 落ち込む凛を見かねて、同僚が進めてくれたのはマッチングアプリだった。これも業界研究のためと半信半疑で登録してみると、偶然意気投合する相手が見つかり会うことに。しかし、そこで待っていたのは憧れていたはずの八重樫社長で!? しかもまさかの交際0日でプロポーズ!? 会社では冷静沈着な彼と家での情熱的な彼に身体も心もとろけていき——。有名大企業の御曹司社長×恋愛レベルゼロな奥手女子の大逆転ラブ!

立ち読み

■プロローグ~溺愛婚のススメ~


 恋愛ほど不条理で不合理なものはない。好きになった人が必ず振り向いてくれるとは限らないし、もうとっくに誰かのものになっているかもしれない。その人と結婚できる保証もない。傷ついた恋に疲れて、休憩して、いつかまた恋をして、別の誰かに振り向いてもらえたとしても、その人が結婚するまで好きでいてくれる保障なんてどこにもない。
 お互いに持続保障のない「好き」という感情を信じて、いつ訪れるプロポーズの時を見計らうなんて、運任せでしかないということだ。
 では、運任せのプロセスを省いて、お互いに「結婚からはじめましょう!」というスタートだったら? 相手のことをお互いにゼロから好きになる可能性があるということ。少なくとも期限を決めたらその間に足並み揃(そろ)えて結婚へとこぎつけるチャンスがあるということだ。そしてこれが一番大事なこと――結婚はゴールではなくはじまり、ということ。
 ずっとこの先も一緒にいたいと思えるパートナーを共に見極めていく、それこそが最重要課題だ。
 いつか王子様が……と憧(あこが)れる気持ちはだれにでもあるし否定はしない。でも、本当に運命の人を見つけて、その人と生涯ずっと一緒にいたいなら、自分から動くことだ。
 いつ来るかわからない運に身を任せるよりも、ずっと合理的で、最高にロマンチックな恋愛ができるかもしれない。
 この物語は、結婚相談所ハートフル・プランニングに在籍するブライダルアドバイザーに監修による「溺愛婚のススメ」となる教本(?)になるであろう、とある女性の婚活日記(?)である。


■1、憧れの人


「ツナ、いい子にしててね」
 月曜日の朝。マンションで飼っている茶トラの愛猫にしばしのお別れのキスをして、嘉(よし)川(かわ)凛(りん)は自宅を出た。
 最寄り駅から電車で二駅のところに会社があるのだが、凛は健康のために一駅手前で電車を降りて、そこからは徒歩で通勤している。
 ついこの間、桜が満開になったばかりだったのに、通勤コースの街路樹はもうすっかり若葉の緑一色になっていた。
時々どこからか薄紅色の花びらが風に乗って頬(ほお)を掠めていくのに目を細めると、木漏れ日の光が目に染(し)みた。空はどこまでも青々と澄(す)んでいて、初夏の訪れを感じさせる涼(さわ)やかな空気が心地よい。
 しばらく歩くと、チャペルが併設された迎賓館風の建物が視界に飛び込んでくる。そこが凛の勤務先である。
 結婚相談から挙式までトータルプロデュースを承っている、ハートフル・プランニングという会社だ。
 凛は企画部相談課に所属しており、ブライダルアドバイザーを務めている。
「おはようございます」
 オフィスのドアを開き、同僚や先輩に声をかけ、ロッカールームに向かう。出社したらまず制服に着替えて身だしなみをチェックする。
(いつ見てもこの制服好きだなぁ)
 凛は鏡に映る制服姿の自分にほれぼれする。彼女にとって一番大好きな日課といってもいい。
 制服は毎年二回支給される。女性社員が着ている制服はCAの乗務服をイメージしたデザインになっており、紺の生地にピンクの挿(さ)し色が入った幾何学模様のスカーフが特徴だ。
 会社は船舶で社員は乗組員(クルー)という意味を持たせたいという考えから、全員が同じ制服を着用している。外回りに出る営業以外の内勤の男性社員にも、グランドスタッフの制服をモデルとした制服が支給されている。すべては社長の拘(こだわ)りだ。
 さすがに社長がパイロットの制服を着るわけにはいかないが、その代わり社長室には航空機や船舶の模型が置かれているらしい。
「よしっと」
 首に巻いたスカーフの形をふわっと柔らかい印象になるよう整え、軽く化粧を直したあと、凛は自分のデスクへと向かった。
 制服の着こなしがきっちり決まると、自然と背筋が伸びて気が引き締まる。仕事モードオンにするための欠かせないルーティンワークだ。
 カフェコーナーでコーヒーを淹(い)れ、着席してすぐにパソコンを開く。予約をしている会員のリストとスケジュールを確認することから凛の仕事ははじまる。会員の面談の時間が来る前に、書類の作成をしなくてはならない。
 凛はコーヒーを口にしたあと、不意に卓上のカレンダーを見た。そして赤丸がつけられている日付を確認する。そこには企画案〆(しめ)切(きり)と記されていた。
(そういえば、新しいお見合いプランまとめておかなくちゃ)
 再来月にはジューンブライドが待っている。挙式や披露宴が増える傍ら、これから結婚したいお客様を刺激するような、様々なイベントを開催する予定を立てているのだ。そこで、具体的にどんな催しをするか、次の会議まで案をいくつか考えなければならなかった。
(久しぶりのプレゼンかぁ。がんばらなきゃ)
 凛は気分が高まるのを感じた。やることは沢山あるけれど、こうして業務に追われるのは苦ではなかった。この仕事が好きだからだ。
 凛は元々は挙式を演出するウエディングプランナーになりたかった。しかし配属されたのは婚礼部門ではなく、企画部の相談課だった。そこは、いわゆる結婚相談所の窓口業務である。その中でお客様と直接面談をするのがブライダルアドバイザーの仕事だ。
 配属された当初は、思い描いていた部門に関われないことを知って、正直残念に思ったけれど、実際に働きはじめたら存外にこの仕事が気にいった。
 結婚を決めたカップルの挙式に関わるアドバイスやプランを立てるのがウエディングプランナーなら、結婚したい人たちへ恋愛のアドバイスから結婚の成就、その先の挙式に至(いた)るまでサポートするのが、ブライダルアドバイザーといえるだろう。
 ウエディングプランナーとはアプローチの仕方が異なるが、よりお客様に寄り添ってできる仕事だと気付いたのだ。
 そんなふうに気付かせてくれたのは、社長の存在が大きかった。表面上だけではなく、社員を大事にしたいという考えを持つのと同様に、お客様のこともただの顧客イコール商品として考えているわけではない。人と人との出逢いを大事にしている。
 凛はそういう社長の生き方や仕事への姿勢に憧れた。やがて働いているうちに、いつしか社長に対しては上司への憧れという垣根を超え、密(ひそ)かに淡い恋心を抱くようになっていた。
 努力して結果を出して評価されたい。それが、凛の仕事のモチベーションにもなっている。
 社長の笑顔をぼんやりと思い浮かべ、凛はため息をついた。
「まーた、ため息ついてる。せっかく爽(さわ)やかな笑顔でデスクに来たと思ったのに」
 その声の主は、同僚の佐(さ)野(の)綾(あや)香(か)、凛と同じ相談課所属のアドバイザーの一人だ。
 彼女は理系でデータ分析が得意ということで相談課を希望した。相談課ではマーケティングの仕事を担当している。大学卒業のときの論文は、人はなぜ人を選ぶのか――生物学的、統計学的に。彼女がこの仕事を選んだ理由は、惹かれ合う人間の行動に興味があるからだという。
 彼女の独特の着眼点に、凛は同僚としてよい刺激をもらっている。しかし困ったこともある。彼女はとにかく……鋭いのだ。
「またって何よ。ため息くらいつくでしょう」
 凛はなるべく綾香と目を合わさずに言った。しかし納得いかないというふうに綾香は目の前に回り込んできた。
「ごまかさないの。わかってるんだから」
 じいっと眦(まなじり)の上がった目を向けられる、そのものすごい迫力に気圧(けお)される。我が家の女王様である茶トラの猫ツナにも匹敵するかもしれない。やはり綾香の前では隠し事はできない。凛は観念し、再びため息をつく羽(は)目(め)になった。
「だったら、どうしようもないことくらい、わかってるでしょ」
 軽く唇を尖らせつつ、凛は開き直ることにする。
「それはねーアドバイザーとしては、さすがに不毛な恋を応援はできないわよ。せめてこう言ってあげるしかないわ。よかったじゃない。本格的に恋がはじまる前で……ってね」
 それをいわれると何も言い返せず、凛は肩を竦(すく)めた。実際、綾香の言う通りなのだ。
 いくら社長に憧れても憧れのまま。恋をしても永遠に叶(かな)うことはない。なぜなら、社長の薬指には指輪が填(は)められている。それはもう誰かのものである証。
 入社した当初は、まだ二十九歳のほやほやの若社長と言われていたくらいだったから、てっきり独身だと思い込んでいた。しかし指輪の存在を認めたからには、もうどうしたって否定しようがない。
 結婚指輪じゃないかもしれない、という勝手な妄想は通用しないだろう。仕事中も左薬指につけられたままのリングはどう考えたって結婚指輪に違いないのだ。
 その事実を知ったとき、凛は結構落ち込んだものだ。そのときも綾香は今のようにからっと励ましてくれた。
『よかったじゃない。本格的に恋がはじまる前で』と。
 ここは割とアットホームな職場だが、社長は会社でプライベートの話は一切しないし、誰も奥さんの姿を見たことがない。目撃情報なんかもない。社長個人のSNSのアカウントもない。ただただ、きっとこんな人なんだろうという想像だけが毎日尾ひれのようについていく。未だにどこにも情報はなかった。
 それだけでも救いだったのかもしれない。余計な情報に振り回され、へたに傷つくよりはマシだった。
(そりゃそうよ。あんなに素敵な人だもの。とっくに誰かのものになってる……)
 ブライダルアドバイザーたる人間が社内不倫だなんて言語道断。本格的に恋がはじまる前で良かったと思うのが自然の感覚だ。
「うちは八割が女性社員だから、社内恋愛なんかも期待できないっていうか……」
 と綾香がまわりを見回す。
「たしかにそうだけど、別に期待しているわけじゃ……」
 同僚との恋愛なんてそれもそれでうまくいく気がしない。ラブラブなときもあれば喧嘩をするときだってあるかもしれないのだ。百パーセント公私混同しないでいられる人間なんているだろうか。
「そうそう! 聞いた? 営業部のエース、うちの新人と総務部の子とで奪い合いになったらしいよ。どうやらガチの二股っぽいわ」
 綾香がひそひそと耳打ちをしてくる。それを聞いて、凛は二日酔いになった時みたいに胃がむかむかした。
 営業部のエースの爽やかな笑顔を思い浮かべ、嫌悪感が増幅する。普段は人あたりがよく、その話術もお客様を親しませるものだったはずなのに。
 不純、不誠実、不愉快、不快。
「信じられない。どんな顔で営業に出てるのかしら」
「みんながそうとは限らないけど、まあ営業はどこも企業理念とかよりも成績優先だから。けど、社内一の爽やかエースがまさかね。あの人たらしの顔にはもう一つの裏の顔があったのね。新人ちゃんめちゃくちゃショック受けてたけど、修羅場中にきちんとお客様にアドバイスできるのかしら」
「フォローしてあげないと。仕事は仕事とはいえ……そういうのって隠していても敏感なお客様には伝わっちゃうから、新規の担当はしばらく様子を見た方がいいかもしれない」
「そうよね。あとで担当のスケジュール確認しておきましょうか」
 ブライダル関係の会社にいるからってすべて純愛が正義というわけではない。自分たちだってひとりの人間なのだ。人それぞれ恋愛事情は色々あって当然かもしれない。
 ただ、こういう仕事をしている以上、お客様にとって恥ずかしくない人間でありたいと凛は思う。
 けれど、凛にとっては色々あること自体がある意味羨(うらや)ましくもあった。
「ねえ、凛ったら、ちょっと羨ましいとか顔に出てない?」
 授業中に好きな子を見ていたことを友達に知られたときみたいに、どきりとした。
「も、もう、何度もいうけど、人の心を読むみたいなことやめて。心臓に悪いわよ。もし私が早死にするようなことがあったら恨(うら)むからね」
「わかりやすいんだもの。図星だから回答をもらうまでもないわね。凛だって、そろそろ自分の恋愛にも向き合わなくちゃって思ってるでしょ」
 返す言葉がなかった凛は、軽く綾香を睨(にら)みつけることでけん制するしかなかった。しかし綾香にはまるで効(き)いていない。すっかり彼女のおもちゃになってしまっているようだ。
 でも、実際、綾香の言うとおりなのだ。
 仕事にはやりがいを感じているが、自分の恋愛には無(む)頓(とん)着(ちゃく)のまま、ひとり暮らしの家にはマスコットのような猫のツナがいるくらい。
 学生の時に付き合った人は一人いたけれど、形式美を追い求めるみたいに、一通りの恋人ごっこを経験したあと、よくわからないうちに自然消滅していた。あれは恋に恋をしていただけだったんだと思う。彼が友達と初体験がどうだったとかいう会話をしているのを耳にし、凛はものすごく後悔した。
(私は私で好きだったのに、彼は……経験値が欲しかっただけっていうね)
 黒歴史を消したい。誰かと新しい恋をしたい。そう思ったこともあったけれど、慎重になりすぎていたかもしれない。学生時代に放棄した恋愛は、二十五歳の現在まで枯れたまま、新しい芽が出る機会すらない。
 社交的な綾香と一緒にいるのもあってまったく出逢いがないわけではないが、せいぜい仲のいい友人止まりで、恋に発展することがなかったのだ。
 ブライダルアドバイザーとして着実に実績を重ねている凛は、それなりに評価も高い。しかし唯(ゆい)一(いつ)弱点があるとしたら、ブライダルアドバイザーなのに男女の恋愛のいろはなどまったくわからない。見聞きしたことや仕事上得た知識や情報をフル活用することでアドバイスをしているに過ぎない。
 いってみればハリボテなのだ。いつボロが出るかもしれない。たまに凛は夜うなされることがある。恋愛経験されたことあるんですか? とお客様に指摘される怖い夢によって。
 お客様には安心してもらうために恋愛経験が浅いということだけは知られてはいけない。それが凛には後ろめたくて辛いところだった。
 親身になって話を聞くことに徹する。こうしたらどうだろうという提案をする。夢みがちだからこそ、叶えたい理想を一緒に作っていくことだってできる。
 女性の理想を男性に理解してもらうきっかけを作ってあげられる。凛の良さはそこに在るし、けっしてマイナスではないのだが、説得力という部分では、やはり実体験に勝るものはないだろう。
(だからといって、そのために恋愛をむりやりするのは違うと思うし……二股だとか浮気だとか、役に立つ恋愛じゃない場合だってあるし)
 頭の中でぐちゃぐちゃになった糸がさらに複雑に絡まり合って毛玉になるくらい思いつめたあと、とうとう凛は考えることを放棄した。
「とにかく仕事仕事。私はやれることを精一杯やるわ。今日はご成約まであと一歩のお客様がいらっしゃるの。アドバイザーとしてがんばらないとね」
 自分に言い聞かせようとしていることなど、傍にいる同僚にはとうにお見通しらしい。
「張り切るのはいいけど、仕事を逃げ道にしちゃだめよ」
「うっ」
 痛い所を衝かれ、凜は押し黙る。
 すると、綾香がスマホの画面を凛に向けてきた。
「ねえ、凛、あなたこれやってみたら」
「何?」
 凛は綾香のスマホを覗(のぞ)き込む。ハートマークの中には男女が向かい合って微笑み合うイラスト。それからテロップが流れてきた。
「これは、わが社が誇る会員数ナンバーワンの婚活マッチングアプリ『ハピマリ』」
「それはもちろん知ってるけど」
 そう。画面に表示されているのは、婚活マッチングアプリという文字だった。問題はそこではない。
 凛はぎょっと目を丸くする。
「まさか。私がアプリに登録するっていうこと? 冗談。会員のお客様に紛(まぎ)れるわけにはいかないでしょう?」
「まぁそうよね。だから、うちがやってるアプリじゃなくて、よそのアプリならいいじゃない? プライベートなんだし。ほら、これなんていいかも。お付き合い初心者向けだし」
 次に見せられたのは他社の『ピュアラ』という婚活マッチングアプリだ。綾香がいうように、恋愛経験者の多いハピマリよりピュアラの方が敷居は低いかもしれない。これ以外にも様々なマッチングアプリがあり、恋愛から結婚をはじめたい人向けとか、趣味のマッチングアプリから結婚へと結ばれた人の話なども聞いたことがある。
 知識として頭の中に情報はインプットしてあるが、自分が登録することなど考えたこともなかった。
「い、いいよ。遠慮しとく」
 まったく乗り気がしない。凛は首を横に振った。
「あと回しにしたままでいいの? 不毛な恋を続ける気? 恋愛経験が浅いこと気にしたまま?」
 三段階の問いは、ボディブローのようにじわじわと効いた。
「うっ……そうじゃないよ。そのうちやってみる。今はお客様優先でいいの」
「どっちかに比重を置く必要なんてないじゃない。両立するっていうことが大事なんじゃない?」
 おっしゃるとおり――綾香様。頭の上に重たい石が載(の)せられた気分だ。的(まと)を射(い)た同僚の意見に、返す言葉が見つからない。しかしそれが凛のハートに火をつけた。
「私はね、こう思ってるの。なんでもAI、スマホ、アプリ……三種の神器が変わりゆく今だからこそ、人間の私がアドバイザーとしてがんばらないといけないところなんだわ。AIになんて負けてられない」
 話題を変えるだけのつもりが、壮大な決意表明となってしまった。
 引っ込みのつかなくなった凛は、デスクに詰んでいた資料をかき集める。
「それじゃ、私会議室に行かないといけないから」
 綾香が呆れた顔をするのを尻目に、ささっと彼女から離れ、面談を行う会議室へと足早に向かう。
「もう、凛ったら」
 という声が後ろの方で微(かす)かに聞こえてきたが、凛は振り返らなかった。
(綾香なりに心配してくれてるのはわかってるけど……)
 凛の心の中に在る社長への想いが、彼女をがんじがらめにする。
 入社して三年。新人の時からずっと憧れていた人。雲の上にいる人。ふわふわとした淡い初恋なのだと思う。叶うことがないことなんてわかっている。この想いをどうこうしたいなどと我(わが)儘(まま)なことは言わない。道理に反することだってするつもりはない。
 ただ、もう少しだけでいいから、好きでいさせてほしいのだ。自然にいつか恋とは呼べなくなる日まで。
 綾香には、本格的に恋がはじまる前でよかったと言われたけれど、本当のところは、片足を突っ込んでしまっている。もうとっくに恋ははじまってしまっているのだ。
 凛はちりちりと痛む胸を思わず手で押さえた。せめて引き際は間違えないようにしたい。
 部署を離れて黙々と歩きながら、甘い感傷を抱きかけたとき、心臓をいきなり掴(つか)まれたみたいに凛は飛び跳ねそうになった。
 ちょうど目の前……凛が恋焦がれてやまない相手である社長が秘書を連れてこちらへやってくるのが見えたのだ。
 八重樫(やえがし)大和(やまと)、三十二歳。有名大企業である八重樫グループの総帥を祖父に持つ、彼はいわゆる御曹司だ。
 しかし約束された地位に甘んじることなく、仕事面に対するストイックさと情熱はとてつもない。その実力は折り紙付き。ハートフル・プランニングは彼が任された事業の一つに過ぎなかったのだが、瞬(またた)く間に会員数を伸ばしたことでヒットし、そのまま二十九歳という若さで社長の座に――。
 社員をクルーに見立てて、自分は舵(かじ)をとる『船長』ではなく『船』であると考えている。社内報の社長インタビューにはそう掲載されていた。
 凛が入社したばかりの頃、彼自身も社長になりたてで、もう少しだけフレッシュだった気がする。いまや堂々たる貫禄があるのは、それだけ彼が仕事に誠実に向き合ってきたからだろう。こうして見ていると、なんだか一気に遠い人になってしまったようだ。
 秘書の話に真剣に耳を傾けている怜(れい)悧(り)な面差しをしたトップの雄姿に見惚れていると、次の瞬間、感電したみたいに目が合った。
「やあ、おはよう」
 その声色はとてもやさしく、さりげない微笑みも、無意識に社員を気遣ってくれていることが伝わってくる。
「おはようございます。社長」
 挨(あい)拶(さつ)を交わした数秒だけで、雲の上に立っているような気持ちになるのだから、本当に困ったものだ。凛は落ち着かない気持ちになりつつも、姿勢をピンと伸ばした。
「この間のイベント企画とてもよかった。外部からも好評だと聞いているよ」
「本当ですか」
「ああ。次も期待してる」
「ありがとうございます。次もがんばります!」
 少し声が大きく出すぎたかもしれない。気合の入りすぎた凛を見て、社長はふっと表情を綻(ほころ)ばせた。その表情が、少しだけ懐かしく感じたのは、フレッシュだった頃の社長を思い出していたからだろうか。
 通り過ぎていく社長の背を見送ったあと、凛はひとり闘志に燃えていた。
 社長との恋が実らなくても、社長のためになることならがんばりたい。凛が恋よりも仕事を優先したくなる理由はそこに在るのだ。
(それに、私たちアドバイザーは、自分が幸せになるよりも、お客様が幸せになるために存在するんだもの)
 凛は自分の恋について悶々としていた思考を頭から押し退ける。そして昂揚した気分をモチベに変え、会議室へと向かうのだった。


     ***


「彼女は、ブライダルアドバイザーの嘉川凛さんですよね。社長があんなふうにお褒めになるのは珍しいですね」
 秘書の宮(みや)原(はら)清(せい)司(じ)の言葉に、大和は「ああ」と頷く。
「彼女は入社したときから努力家だったし、実際とても優秀だからな」
 大和はそう返事をしながら凛の仕事ぶりを思い返し、無意識に微笑んでいた。そんな大和の様子を、宮原はじっと観察するような目で見る。
「なるほど。社長は、あのような快活なタイプの女性が好みですか」
 勝手に納得したように頭を揺らす宮原に、大和は呆れた表情を浮かべた。
「どうしたんだ。仕事中にその発言はさすがに気をつけるべきじゃないか」
「失礼しました。ですが、お相手がここにいるわけではございませんし、けっしてマイナスの意味ではありませんし」
 含んだ言い方をする宮原を一(いち)瞥(べつ)し、大和は眉をしかめた。まるでちくちくとしたサボテンの棘(とげ)のようなもので肌を撫(な)でられているような居心地の悪さを感じた。
「何が言いたいんだ。さっきから歯切れが悪いな」
「いえ。先日、社長がおっしゃったことが気にかかっていまして」
「何の話だ」
 大和は首を捻(ひね)った。
「ご自身の結婚観を見直したいとおっしゃいましたよね。それで、ひょっとしていい人がいるのではないかと推察しておりました」
「まさか。彼女がそうだというのか?」
「ただの想像ですよ」
「なら残念なことだ。外れたな。彼女は部下の一人でしかない」
 大和は淡々と答えた。
「ですが……」
 宮原が何かを言いたそうにしている中、大和は薬指に填めているリングへと視線を落とした。自嘲したような表情を浮かべつつ、すぐに彼は社長の顔へと戻る。
「会議の資料すぐによこしてくれ。目を通しておく。それから週末の雑誌社とのスケジュール、悪いんだが少し調整してもらいたい」
「リスケですね。承知しました。すぐに確認いたします」
 秘書とのやり取りをしながら社長室に入った大和は、先ほどの彼女のきらきらと輝く瞳を思い出し、日々のモチベーションの向上を感じていた。
 たしかに彼女は魅力的だ。入社して三年目だが、いつまでも新人の時のようなフレッシュさがある。彼女が自分の仕事に誇りを持ち、常に新しい気持ちで打ち込んでいるからだろう。
 あのような社員がいるからこそ、この先もこの会社で頑張ろうと思えるのだ。それ以上の感情を抱く必要はない。邪な目で見ることは、彼女にとって失礼なことだ。
 そう結論づけたところで、大和はすぐにビジネスの脳へと切り替えたのだった。



■2、マッチングアプリの悪戯


(マッチングアプリかぁ)
 綾香に言われてから、凛はなんとなくマッチングアプリのことを気にかけていた。
 仕事では資料として扱うことはあるし、情報のひとつとして提供することもあるけれど、自分自身が利用することなど考えてみたことはなかった。
 凛だって自分の恋愛や結婚について、まったく気にならないわけではない。ただ、心の中に社長の存在がいる状態で、他の誰かと恋をすることが想像できなかったし、乗り気がしなかっただけだ。
 しかし結婚相談所を電子化したものがマッチングアプリと考えれば、実際に登録してみた方が何かと勉強になることがあるかもしれない。
(これって、サクラになったりしない? 真剣に探している人がいる中で迷惑じゃないかな……)
 そう思いつつ、個人で興味を持って登録するなら構わないだろうと言い訳をする。そうしてお昼の間に登録と条件設定を済ませたあと、放置していたのだが――。
「足がぱんぱんだ。疲れたー」
 今日は少し遅い帰宅だった。イベント準備の手伝いがあり二十時までかかってしまった。
 マンションのエントランスを潜(くぐ)り抜けたあと、何の気なしにアプリを立ち上げて驚いた。マッチングした相手から、けっこうな数のメッセージが届いてたのだ。
(えっ……こんなにメッセージってくるものなの?)
 数十件のメールを一通ずつ開封していき、その都度、相手のプロフィールを確認する。容姿について、職種、趣味、相手に望む条件、自己PRといった内容だ。それぞれ初々しさや必死さが伝わってくる。凛はさっそく申し訳ないような気持ちになってしまった。
 会員プロフィールには自分の写真を載せることができるが、凛は掲載しなかった。お試しではじめてみただけだったし、知らない人にどう見られているか不安だったからだ。
(うちのお客さんもこんなふうに緊張したり不安を抱えたりしながら、結婚相手を見つけようとしているんだよね。それなのにアドバイザーの私ったら)
 臆病で怠(たい)慢(まん)な自分を反省しつつ、凛は数あるメッセージの中から一人の男性のプロフィールに目を留めた。職種の欄(らん)に書かれていた内容に興味を引かれたのだ。
『結婚に一番近い職場』
 まるで天国に一番近い島……のような文字の並び。その言葉の続きにはこう書かれてあった。
『……が、実際は一番遠い場所にいる自分』
 言い得て妙だったので、凛は思わず「あるある」と声に出してしまっていた。
(ひょっとして、この人ブライダル関係者かな?)
 不意に、綾香から聞いた営業部のエースの二股事件が思い浮かんでしまい、頭を軽く振った。
 年齢は三十代前半。自(じ)虐(ぎゃく)的(てき)なワードを並べている時点で、結婚には誠実でありたいと思っているからこそアプリに登録したのではないだろうか。
 凛はそう見立てて彼にメッセージの返事を送ることにした。
 彼の名前は『山』さん。プロフィールの背景は富士山になっている。ちなみに凛は林(りん)檎(ご)という名前をつけた。アイコンは愛猫ツナの写真だ。お互いに自分の写真を掲載していないところもポイントだった。
 先入観を抱くことなく、相手がどんな人柄なのかを知りたいと凛は思ったのだ。


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