書籍詳細 一覧へ戻る

愛に泣く黒騎士 〜導かれるふたりの想い〜

泉野ジュール / 著
森原八鹿 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/07/16

電子配信書店

  • Amazon kindle
  • コミックシーモア
  • Renta
  • どこでも読書
  • booklive
  • ブックパス
  • ドコモ dブック
  • ebookjapan
  • DMM
  • honto
  • 楽天kobo
  • どこでも読書

内容紹介

生涯かけて君を守ることを誓う
「ずっと君のことを想っている」孤児院という名の暗殺者養成組織『クロワ・ノワール』で過酷な人生を歩んできたエレノア。悪魔のような看守たちに与えられた使命“国王暗殺”のため、寵姫候補として王宮に送り込まれた先で出会ったのは、もう二度と会えないと思っていた初恋の相手ノーマンだった。逃走に失敗し、互いを失ったあの真っ暗な夜から十一年。愛、秘密、嫉妬が入り交じり、氷の檻の中に閉ざされていた心と純潔が彼という名の熱に溶かされていく。寡黙で一匹狼な漆黒の護衛騎士×氷の女王と呼ばれた美しき暗殺者のすれ違いラブストーリー!

立ち読み

   プロローグ

 森が闇に沈む時間はもうすぐそこまで迫っている。
 月はない。
 そういう晩を選んだからだ。
 エレノアは十四歳のしなやかな肢体を器用に曲げて、尖った葉の茂みに静かに身を潜めていた。そしてノーマンが追いついてくるのを、もどかしく待っていた。
(ああ、神さま……。どうか成功しますように……ふたりで逃げられますように)
 と、エレノアは祈った。この夜が終わって、明日の朝日が東の空に昇るころ、ノーマンとエレノアの運命はどうなっているだろう。
 計画通りに逃走して、自由の身になっているだろうか?
 それとも捕まって、再び、あの地獄のような孤児院とは名ばかりの牢獄に連れ戻されるだろうか?
 そうでなければ、最悪……逃亡を企んだ罪で、消されてしまうだろうか。そういう運命を辿(たど)った子供たちを、少なくとも五人、エレノアは知っている。
 遠くで狼の遠吠えが聞こえて、エレノアはギュッと目をつぶって不吉な想像を瞼(まぶた)の裏から払拭しようとした。
 きっと上手くいく。ふたりは幸せになれる。そうでなければ辛すぎる……。
 エレノアのきらめく金髪は身を隠すには不利だったから、後頭部にシニヨンにまとめて、目立たない焦げ茶色の布で頭を覆っていた。
 お前は隠せない、と孤児院の悪魔たちは言った。
 お前にはいつか、大きな標的を狙わせてやる。逃げも隠れもさせず、大舞台で、標的を惑わせて……毒蛇のように命を食(は)むのだ、と。
 そんな未来は欲しくなかった。
(だからノーマン……お願いだから早く来て。どこか遠くへ一緒に逃げるの)
 背後の森が、夕刻の風にざわつく。
 時計のような贅沢品がエレノアたちに許されるはずもなく、時を計るのは天体の動きだけだった。空の色は刻々と闇に近づき、エレノアの不安を煽(あお)る。
 計画では、完全に日が暮れるまでにこの森を抜け、その先にある小川を渡り対岸まで辿り着き、そこで夜を明かすはずだった。
 でも彼はまだ来ない。まさかノーマンは捕まって……。
 その時だった。
「きゃっ」
 予想もしていなかった背後から音もなく手が伸びてきて、エレノアの口を塞いだ。恐怖と緊張にエレノアは硬直し、もがいた。
「しっ……静かに。僕だよ、エレノア」
 耳元にささやかれたのは、最近声変わりしたばかりのノーマンのかすれた声だった。
 ノーマンの手はすぐに緩められ、エレノアを解放する。エレノアが背後を振り返ると、そこにいるのは確かにノーマンだった。喜びと安堵に、エレノアは水色の瞳に涙を浮かべた。
「ノーマン、よかったわ。いつまでも来ないから、捕まってしまったのかと……」
「危なかったんだ。でもなんとか巻いてきた。早く移動しよう。奴らはすでに犬を放っている」
「ええ……そうね」
 孤児院で飼われている犬たちがどれだけ凶暴か、ノーマンもエレノアもよくわかっている。何日も餌を与えられていない狂犬が、褒美をもらえる唯一の機会のために吠え狂うさまは地獄絵図だった。
 孤児院から逃げた子供を捕らえること。
 それが、ふたりを追ってくる狂犬たちの目的だ。
 ふたりはノーマンを先頭に、わずかな日の名残だけを頼りに走りはじめた。
 エレノアは数メートル先を行くノーマンの後ろ姿を追いかける。その時ふと、エレノアは、この黒髪の少年がどれだけ男らしく成長しているかを実感した。
 出会った時はまだ八歳の少年に過ぎず、気味悪いくらいに痩せこけていて、その黒曜石のような闇色の瞳だけがギラギラと光っていた。子供たちは皆恐れて、彼に近づかなかった。
 エレノア以外は。
 訓練の時間以外いつもひとりきりだったノーマンに、勇気を出して声をかけたエレノアに、彼は意外にも穏やかな優しさを示してくれた。
 君は変わっているね、とノーマン少年は言った。
 ──わたしは変わり者で、あなたも変わり者で、わたしたちはいい友達になれるんじゃないかしら?
 そう提案したエレノアに、ノーマンははじめて笑顔らしきものをうっすらと浮かべた。
 六年前のことだ。
 それ以来、ふたりは親友で、最も親密な理解者同士で、共に戦う仲間で……そして互いの初恋相手だった。
 でも孤児院は、そんな少年少女の淡い恋を許すような場所ではない。
 ふたりは引き離され、ノーマンは折檻を受けた。
 ノーマンとエレノアは「先生」と呼ばれる看守たちの目をあざむき、孤児院を脱走する計画を立てた。今が実行の時だ。
「……っ!」
 色素が薄いせいか、どれだけ訓練してもあまり夜目が利かないエレノアは、藪の中に隠れた木の根に足を引っ掛けて転んだ。
 声は漏れなかったが、ノーマンはすぐに気づいて戻ってくる。
「大丈夫かい、エレノア」
「え、ええ……ごめんなさい……」
「怪我がないか見てあげたいけど、今はできないんだ。ごめん……まだ走れるかい?」
 お互いにしか聞こえないささやき声だが、犬の耳は鋭い。これ以上の危険は冒せず、エレノアは無言でうなずいた。
 ノーマンに差し出された手を握り返す。それだけなのに。こんな時なのに、エレノアの鼓動は高鳴った。
 立ち上がろうとしてふらついたエレノアを、ノーマンは抱き寄せた。ふたりの距離が近づいて、エレノアは思わず彼に身を寄せる。
 するとツンとした血の匂いが鼻について、エレノアは驚きに顔を上げた。
「ノーマンこそ怪我をしてるわ。どこ?」
「大したことないよ」
「本当に大したことないなら、ノーマンは『なんでもない』って言うわ。これはまだ流れている血の匂いよ」
 夜目は弱くても、エレノアの嗅覚は人一倍敏感だ。
 加えて、孤児院が彼女に与えた知識。
 エレノアは手を伸ばして、指先で血の香りを辿った。ノーマンの左の頰に深い切り傷があって、そこからじくじくと鮮血が滴(したた)っているのがわかった。おそらく切り傷が二本、十字に刻まれている。
 エレノアは不安に身震いした。
 ノーマンも、いたずらにエレノアの不安を払拭しようとはせず、ぐっと顎(あご)をひき結んだ。血の匂いは犬たちを引きつける。
 おまけに計画よりもずっと闇が深くなってしまっている。
「エレノア……ここで別れて別ルートで行こう。僕は東寄りの回り道を使う。君はここから北西に進んで、すぐに川沿いを行くんだ」
「だめよ。そんなの許さないから。一緒に行くの」
 ノーマンが選んだ道は、エレノアのそれよりずっと危険が多い上に、捕らえられる可能性も高いものだった。
「行くんだ、君だけでも」
「いやよ、いや……。囮(おとり)になってわたしを逃がすつもりなの?」
「そんなんじゃない。僕の方が早く走れるし、目もいい。ふたり一緒じゃ捕まる可能性が高まるだけだ。二手に分かれれば、犬たちを錯乱できるかもしれない」
 違う。
 違う!
 ノーマンはエレノアだけを逃がすつもりだ。出血しているのは彼だから、おそらく犬はノーマンの方を追う。ノーマンの選んだ東寄りの道筋は、崖に面していて逃げ道も少ない。
「お……お姉さんはわたしよ。わたしに東を行かせて」
 ふたりは同じ年だが、エレノアが数ヶ月だけ先の生まれだ。背伸びしたい年頃のふたりは、ことあるごとにこの差を持ち出しては、強がったり、からかったり、笑い合ったりしていた。あの陰(いん)鬱(うつ)とした孤児院で、そういう無邪気な時間を見つけるのは難しかったけれど。
 でも、この脱走が成功すれば、ふたりはきっと幸せになれる。
 一緒に生きていける……はずだった。
「だめだ。今夜だけは僕の言うことを聞いてくれ、エレノア」
「いやよ……。わたしは……ひとりで逃げたくなんてないわ。ノーマンとがいいの。ノーマンが残るなら、わたしも残るから……」
「エレノア……僕の目を見て」
 顎を掴まれ、くいっと上を向かされる。
 視界の限られた薄闇で、それでもノーマンの漆黒の瞳は熱くきらめいていた。
 漆黒の髪と瞳に、小麦色の肌をしているノーマン。
 エレノアは金髪に水色の瞳と、抜けるような白い肌を持っている。でもいつだって、より華やかなのはノーマンの方だと、エレノアは思ってきていた。
 裕福だった下級貴族の生まれながら、幼少のころに母が夭折しているエレノアは、女としてのあり方を孤児院の歪(ゆが)んだ形でしか学んだことがなかった。
 でも、ノーマンへの慕情(ぼじょう)は純粋だ。
 そして深い。
 誰に教わったわけでもないのに、エレノアは誰よりもなによりも、ノーマンを己の半身として愛している。
「君は僕の命だ、エレノア」
 抑えられた、ノーマンのかすかなつぶやき。
 同時に遠方から、常軌を逸したように吠える犬の声が不吉に響く。ふたりはまだたったの十四歳だった。本来なら保護者たる成人に守られて、屋根と暖炉のある温かい家で、遊んだり学んだりするべきなのだ。
 でも、運命はふたりに厳しかった。
 エレノアの生家は凋落(ちょうらく)し、彼女は借金のかたに孤児院に売り飛ばされた。ノーマンは鍛冶屋の息子だったが、五人の息子を全員養うことができなかった両親が、口減らしのためにノーマンを商家の下働きに出した。そこで虐待を受け、逃げ出そうとしたところを捕まり、孤児院に入れられてしまった。
 だからノーマンにも、エレノアにも、お互い以外の家族はない。
 まさに命だ。
「あなたも、わたしの命よ。置いてなんていけないわ」
 声が震える。
 魂を覗くことができるなら、エレノアのそれは、今、血を流しながらふたつに引き裂かれようとしているところだった。痛かった。息苦しかった。
 恋しかった。
「可愛いエル、ひとつ覚えておいてくれ。たとえどんな形で僕たちが離れ離れになっても、僕はずっと君のことを想っている。ずっと」
「やめて……」
 ノーマンに顎を掴まれたまま、エレノアはひと筋の涙をこぼした。
 ノーマンはゆっくりと顔を近づけてきて、エレノアの頰に傷のない方の頰をこすりつけ、涙の跡をぬぐう。
 彼の息遣いを感じた。心が溶け合い、ふたりは、ふたつの体を持ったひとりの人間であるかのように寄り添った。
 やがて、ノーマンの唇がエレノアの息を奪う。
 交わされた口づけは不器用で性急だった。十四歳という若さに違(たが)わない、幼くて未熟な接吻。
 それでも、唇を押しつけ合うような親密な触れ合いは、エレノアの体の芯を熱くした。
「は……っ」
 吐息が重なる。
 また犬が吠える声が響いた。今度はもっと近く。
 もしかしたら、これが最後になるかもしれない。エレノアは受け入れたくない現実を受け入れなければならなかった。この期(ご)に及んで夢を見るには、エレノアの半生は厳しすぎた。
 すがるようにノーマンに身を預けると、まだ膨らみの青い小ぶりの乳房が、彼の胸元にぐっと押しつけられる。
 じわりと、甘いうずきが全身に広がった。
 ──いつか彼に抱かれたかった。
 エレノアの処女はきっとノーマンに捧げるのだと、ずっと信じていた。
 でも運命はまた、ふたりに苦い選択を与える。
「行くんだ、エレノア。後ろを振り返っちゃだめだ。川沿いをまっすぐに行って、渡れる場所に着いたら僕を待たずに渡るんだ」
「ノーマン……」
「行け、今すぐ! 走れ!」
 ノーマンがエレノアに声を上げたのはこれが最初で最後だった。
 小さくうなずくと、エレノアは言われた通りに無我夢中で走りはじめた。孤児院で与えられた粗末な靴はすぐにあちこちがほつれ、枝に引っかかったスカートの裾はボロボロに切れていく。それでもエレノアは走り続けた。
(逃げて、ノーマン。逃げて!)
(わたしは捕まってもいいから、あなただけは自由になって!)
 森を疾走するエレノアの願いを──皮肉なことに、この時だけ──神は聞き入れたらしかった。

     * * * *

 頰の生傷の痛みなど、エレノアと離れなければならない苦痛に比べれば、なんでもなかった。
 ノーマンは、汗とも血ともつかない頰のぬめりを手の甲で拭きながら、がむしゃらに走った。探索に放たれた犬たちの標的が、ノーマンであることを祈りながら。
 もちろん、むざむざ捕まるつもりはない。
 胸に忍ばせた短剣で戦うつもりだった。
 自惚れではなく、ノーマンの剣技はすでに孤児院の悪魔たちさえ持て余すほどの腕に上達している。できれば長剣が欲しかったが、持ち出すことは叶わなかったし、逃走に剣帯は不利になるから諦めたのだ。
 犬の咆哮が近づいてくる。逃げ切ることはできない。
 足場の安定する場所まで走り抜くと、ノーマンは胸元から剣を取り出した。
 その瞬間、闇を裂くように二匹の影が襲いかかってくる。
(二匹……くそっ! 三匹いるはずなんだ!)
 十四歳という年齢にしては長身なノーマンだったが、血に飢えた大型犬二匹が相手ではあきらかに分が悪い。まっすぐに喉元を目掛けて飛びかかってくる野獣を、一匹はすぐに仕留めた。しかし二匹目になぎ倒され、ノーマンは頭を強く打ちつけて地面に転がった。
(エレノア……)
 走馬灯という現象を聞いたことがある。
 死を前にして、人生の節目節目が脳裏に浮かぶという。喜び、悲しみ、慕情……。しかし、ノーマンの心に去来したのは彼の短い人生の全貌ではなく、ただひとつ……エレノアの姿だけだった。
 はじめてエレノアを目にした瞬間を、ノーマンは忘れない。
 飢えと暴力と死の影しかなかった孤児院に、突然現れた、真っ白い肌に金髪の天使。
 孤児院の子供たちは得てして──ノーマン自身も含めて──貧しい家庭の出自だったが、エレノアだけは裕福な下級貴族の令嬢だったという。
 家が没落したせいで、借金のかたに身売りされ、不幸にもノーマンたちの孤児院にたどり着いたのだと聞いた。そのせいもあって、孤児院の悪魔たちはエレノアを他の子供とは区別して扱った。
 エレノアは美しかったが、その美貌は冷たい氷のようであると、子供たちは噂した。
 ノーマンは噂になど耳も貸さなかった。
 なんて馬鹿な連中なんだろう? どうして誰も、エレノアの温かい心に気がつかないんだ?
 美しいエレノア。
 美しい心の、エレノア。
 凛とした仮面の下に隠した、繊細で優しい魂の持ち主、エレノア。
 ふたりが親しくなったのは、一匹狼のノーマンにエレノアが声をかけてくれた時からだったが、それ以降のふたりの関係は、ノーマンが彼女に尽くすものだった……と思う。
 尽くさずにはいられなかった。
 彼女を愛さずにはいられなかった。
 呼吸をせずには生きられないのと、同じように。
「ぐ……っ、僕たちの、邪魔を……する、な……!」
 低くうなりながら、唾液に濡れた鋭い牙を剥(む)く狂犬と相争う。
 なんとか仕留めた時には、ノーマン自身もあちこちから出血していた。しかし、興奮のせいか、痛みはほとんど感じない。
 体勢を立て直したノーマンは、また走り出そうとした。エレノアに追いつかなくては。
 ──ふたりで逃げよう。そして彼女を幸せにしよう……。
 その時だ。夜空をつんざくような少女の甲高い悲鳴が届いた。
「エレノア!」
 エレノアの悲痛の叫びを耳にした瞬間、ノーマンの理性は消えていた。
 夢も、自由への渇望さえも、どうでもよくなっていた。
 あの孤児院の悪魔たちが、脱走を企てたエレノアとノーマンを許すはずがない。壮絶な罰が待っているはずだ──もし、その前に殺されなければ。
 それでもノーマンは踵を返し、もうすぐ手に入るはずだった自由に背を向け、エレノアの悲鳴がした方角へ死に物狂いで走りはじめた。
 ただし、犬との乱闘で足元の危うい崖っぷちに移動していたことを、ノーマンは気づいていなかった。いくら鍛え抜かれたノーマンとはいえ、実際は十四歳の少年にすぎない。
 足元が崩れ、ノーマンは直角に切り立った崖から真っ逆さまに転落した。
 悲鳴を上げることさえ、叶わなかった。

     * * * *

 孤児院に連れ戻されたエレノアは、鉄格子のついた小さな窓しかない地下牢に幽閉された。
 蒸した苔の匂いと、天井から滴る水滴。
 底冷えのする湿った床が、疲れ切ったエレノアの体からさらに体温を奪った。
「本来なら、気を失うまでお前を鞭で打って、道義というものを教えてやるところだがな……エレノア。しかし、お前の体に傷が残っては困るのでね」
 悪魔のひとりが、ねっとりとした嫌な声で告げた。
「お前のお綺麗な顔と体は、今後の大きな標的のために大事にとっておかねばならないからな。お前はしばらくここに監禁するようにとのお達しだ」
 この時のエレノアに、反抗する力など残っていなかった。
「ノーマンは……」
「あの坊主は死んだよ。崖から転落したところを犬が見つけてきた。惜しいことをしたな。あれだけの腕を持っていたのだから、将来はいい仕事をしただろうに」
 なにがおかしいのだろう……。悪魔はくつくつと気味悪く笑い、靴音を響かせて地下牢を出ていった。
 せめて……ああ、せめて、ノーマンだけでも助かっていてくれたなら、生きていけたのに。耐えることができたのに。
 ノーマンだけでも……。

『たとえどんな形で僕たちが離れ離れになっても、僕はずっと君のことを想っている。ずっと』

 最後に聞いたノーマンの言葉が、いつまでも胸の中にこだまする。
 ──たとえどんな形でも。
(ええ。ええ……そうね、ノーマン。わたしも……)
 ずっとあなたのことを想っている。
 忘れることなんてできない。
 いつか散らなければならない命なのだから、ノーマン……もう一度会える日まで、わたしを待っていて。
 わたしを。
 わたしたちを。
 忘れないでいて。



   第一章 金と黒の再会

 それは嵐の前触れを感じさせる、初夏の宵だった。
 難攻不落と謳われる巨大な城(じょう)砦(さい)に囲まれたきらびやかな王宮には、華やかに着飾った老若男女が所狭しと集まり、ざわめいている。贅を尽くした装飾に、夢のような旋律を奏でる音楽隊、鼻腔をくすぐる料理と酒の香り……。すべてが豪(ごう)華(か)絢(けん)爛(らん)を極めた。
 それもそのはず。
 今夜は、この王宮の主にして賢王の誉れ高い、アロンソ王の誕生日を祝賀する大掛かりな舞踏会である。
「アロンソ王もそろそろ身を固めてよいお年よ。側近たちは、いっそわたしたちの中から寵妃候補がでてもよいとお考えなのですって」
 国中から選別されたよりすぐりの五人の美女たちが、各々の美を競う華やかなドレスに身を包み、控えの間に集められていた。
 黒髪、赤毛、金髪。
 幼さの残る十代の乙女から、女の旬を誇る艶(あで)やかな二十代まで、まさに男の夢を具現したかのような顔ぶれだった。
「陛下は明日で三十六歳になられるそうよ。まさに男盛りね。あの燃えるような赤毛といったら……今夜が楽しみですわ」
「まあ。陛下が誰をお選びになるかは、まだわからないわ。あなたのような年増など気にも留めないかも……」
「小娘っ、失礼な!」
「まあまあ、アロンソ王の豪傑ぶりは名高いわ。わたしたち全員をお召しになる可能性だってあるのよ……」
 くすくすくす。
 この五人は、宰相がこの舞踏会にかこつけて用意した、アロンソ王への貢物だった。
 その優れた容姿に違わず、どの令嬢も並々ならない自尊心と自負に溢れているが、うがった見方をすれば、寵妃候補の名を借りた娼婦といっても過言ではない。
 豪傑で知られるアロンソ王は、三十六歳を目前にしていまだに正妻を持たず、臣下はあせりはじめていたのだ。正妃が無理なら、いっそ寵妃に子を孕ませてしまうのも手だと考えはじめているらしく……五人はその先駆隊といったところだ。
 その五人の中に、ひとり、ひときわ整った優美な顔つきの、きらめくような金髪を持った乙女がいた。
 薄い水色の瞳。
 背はすらりとしているが高すぎない……。ぴんと張った背筋は踊り子のそれを連想させた。細い首筋は太陽にさらされたことが一度もないのではないかと思えるほど白く、五人の中で最も腰が細いのに、コルセットに持ち上げられた胸元は最もふくよかだった。
 年は二十歳を少し超えたくらいに見える。
 他の四人も十分に美しい……が、この金髪の令嬢の美貌は群を抜いていた。
 ただ美しいだけではない。まるで天から降ってきた、ひとならざる存在であるかのような、神秘的な麗しさだった。
「ねえ、エレノアさん、あなたはどう思うかしら? もっとも、あなたは陛下にお会いしたことなどないでしょうけど。ふふ」
 寵妃候補のひとりが、開いた扇子を口元に当てて冷笑を隠しながら、エレノアと呼んだ金髪の乙女に問う。
 なるほど、エレノアの容姿は明らかに一番美しかったが、身分は最貧だった。美貌で敵わないと判断すると、他の令嬢たちは地位をひけらかして、エレノアに対抗しようとするのだった。
 そんな嫌味にも、エレノアは眉ひとつ動かさなかった。
「すべては陛下がお決めになることですわ」
 冷ややかに答えると、エレノアは他の四人などには目もくれずにすっと立ち上がり、窓辺に向かった。
 ガラス窓の外には暗闇が広がっている。
 暗闇……。
 エレノアは記憶を振り払うように目をつぶった。思い出にほだされている場合ではない。
 ノーマンを失ったあの真っ暗な夜、エレノアの心は凍って、そのまま溶けることはなかった。この容貌のせいで氷雪のようだと揶(や)揄(ゆ)されていたエレノアは、名実ともに氷の女王として生きてきた。
 唯一、心を開いていたのが、孤児院の後輩に当たる少女たちだった。
(しっかりしなくちゃ……。エマとグレースを、これ以上あの悪魔たちに傷つけさせるわけにはいかないのだから)
 孤児院の悪魔たちは、エレノアが妹分として可愛がっていたふたりの娘たちを、今回の指令の人質として拘束している。
 ──さっさと使命を果たさなければ、この娘たちの命はないぞ。
 ──逃亡を企ててみろ。この娘たちはどうなるかな……。
 悪魔たちの脅迫の声が脳裏にこだまする。
 もうずいぶんと長い間、エレノアはこの時を待っていた。悪魔たちに与えられた使命を果たし、ノーマンのもとへ行くこと……。
 それでも今まで命を手放さなかったのは、まるで姉のようにエレノアを慕ってくれていた、不幸なふたりの少女たちを守るためだけだった。エレノアがこの使命を果たすことで、エマとグレース、ふたりの娘たちを解放する約束を取りつけている。
 悪魔たちが本当に約束を守るかどうかはわからない……。しかし、他に希望はなかったから、一(いち)縷(る)の望みにすがるしかなかった。
(わたしの命は、あなたの命だから……ノーマン)
 孤児院『クロワ・ノワール』……。
 巷ではこの名を「遊牧民のように国内を移動しながら、孤児を集めて世話をする集団」くらいの意味に据えている。慈善事業として有力者からの支援もあり、慈悲深い団体であると考えられていた。
 しかし実質は違う。
 実際のクロワ・ノワールは、秘密裏に暗殺者を育てるために組織されている。そこに集められる子供の多くは、本人の意思に反して身売りされたり、路上生活を余儀なくされているところを誘拐されたりして、地獄にたどり着く。
 そう。
 かつてのエレノアや、ノーマンのように。
 エレノアは空虚な瞳で窓の外の闇に浮かぶ月を見つめた。今夜は満月だった。


 宴もたけなわになったころ、エレノアたち五人は舞踏会室に呼ばれ、ついにアロンソ王の御前に差し出されることになった。
 あふれんばかりの招待客を前にして、エレノアはこの中でいったい何人くらいが、アロンソ王の誕生日を心から祝福しているのだろう……と思った。
 五人はそれぞれ、髪色や肌色に映える色合いのベールを被り、うっすらと顔を隠している。
 アロンソ王は、舞踏会室の最(さい)奥(おく)に備えられた玉座に、ゆったりと着席していた。
(この方が……アロンソ王)
 肖像画では、何度も確認していた。
 さらに、数え切れないほどの情報──例えば好みの女の種類、食べ物の好物、癖、性格、人間関係に健康状態など──を与えられていたが、実物を目にするのはこれがはじめてだ。
 肖像画でひどく人目を引いた鮮やかな赤毛は誇張だろうと思っていたが、とんでもない。アロンソ王の髪はまさに紅(ぐ)蓮(れん)だった。色だけでなく、癖のある巻き毛なので、その流れがまさに揺れ動く烈炎のようだ。
 体つきはたくましく、座った姿勢ではそれほど長身には見えないのに、大きな存在感を放っている。
 表面上、エレノアは冷静さを保ち続けたが、クロワ・ノワールがエレノアに与えようとした愚鈍なアロンソ王像とはかけ離れていることに、わずかな焦りを感じていた。
「ご覧ください、陛下。東西南北、我が国からありとあらゆる美女を集めてまいりました。どの女もそれなりの身分でありますゆえ、ご安心を……」
 今回の寵妃候補集めの旗振り役であるハーストン宰相が、誇らしげに五人を紹介していく。
 名を呼ばれると、ひとりひとりがベールを上げ、床にひれ伏してしまいそうなほど大仰なお辞儀をする。ハーストン宰相は各々の名前と出身、身分を告げていった。
「……そして最後に、こちらはノードストローム男爵の養女である、エレノアでございます。エレノア、ベールを上げなさい」
 エレノアは、言われた通りに白のベールを上げた。
 ゆっくりと。
 しかし、エレノアは他の令嬢たちのように大袈裟に頭を下げることはしなかった。ただまっすぐにアロンソ王を見つめる。
「ほう、これは面白い」
 ずっと顎を拳の上に乗せた格好で無言だったアロンソ王が、弾んだ声を響かせる。思わず耳を傾けずにはいられない、不思議な吸引力のある、低い声だ。
 父親である愚かな前王が傾けてしまった国を、急進的な改革によりわずか数年で立て直し、それどころか前代未聞の栄華をもたらそうとしているといわれる男の声だった。
「エレノアにございます、陛下。この度はおめでとうございます。もっとも、お年を召されることに喜びを感じられているなら、ですけれど」
 ハーストン宰相が蒼白になって叫んだ。「エレノア!」
 アロンソ王は首を反(そ)らし、舞踏会会場すべてに響き渡る豪快な笑い声を上げた。
「これは生きのいい女だ! 気に入ったな!」
 横から、他の四人が鋭い嫉妬の視線を投げてくるのを無視して、エレノアは愛嬌たっぷりに微笑んだ。
「光栄にございますわ、陛下。どうぞよしなに」
 非現実的なほどに整った顔立ちと淡い水色の瞳のせいで、エレノアの笑みはどこか冷ややかだと受け取られることが多かった。
 氷の美貌。
 冷たい美しさ。
 そんなふうに揶揄される。もしかしたら、炎を具現したようなこの王とは、興味深い組み合わせになるのかもしれない。氷は炎を消すか、それとも溶けてしまうか──。
 その時だった。
 エレノアは、アロンソ王の玉座のすぐ斜め後ろに、大きな黒い影があることに気づいた。
 その影はあまりにも暗く、微動だにしないので、すぐには察知できなかった。しかし明らかにひとの影だった。
 それも見上げるほどに大柄な、威圧感のある男の影。
 エレノアはちらりとその男に目を向けた。
 男の衣装は騎士のそれだが、国旗に倣った赤や青の刺繍を入れた正規の騎士のものとは違い、ひたすらに漆黒だった。手にしている長剣の柄さえ黒で統一され、抜き身のまま切っ先を床にして構えている姿は、まるで冥界の入り口を司る悪魔だ。
 エレノアの心臓はどくんと弾けるように跳ねた。
(そんな、はずが)
 男の黒曜石のような瞳が、じっとエレノアを見すえている。一度見つめられたら二度と忘れられない鋭利な視線に射られ、エレノアは思わず硬直した。
「どう思う、ノーマン? どの娘も悪くないが、この女は格別だ。美しいのもさることながら、わたしを前にしても臆さないのがいい」
 アロンソ王は黒の騎士を振り返り、からかうように尋ねた。
 ノーマン……。
 ノーマン!
 あるはずがない。そんなことはありえない。あの運命の夜、ノーマンは崖から転落して亡くなったのを確認したと、クロワ・ノワールの悪魔たちはエレノアに告げた。
(でも、この目で見たわけじゃないわ……)
 目の前にいる黒装束の騎士は、エレノアの覚えているノーマンよりも、頭ひとつ分以上の背丈がある。
 孤児院の劣悪な環境のせいでガリガリに痩せていた体躯は、見違えるほどのたくましさに変容し、幼さの残っていた柔らかい輪郭は男らしく変わっていた。
 目元に影が差すほど彫りの深い顔立ちに、秀でた額と、まっすぐに伸びた鼻筋。漆黒の髪は長いが、うなじあたりにひとまとめにされて背後に流しているので、どのくらいの長さなのかはわからなかった。
 そして、髯(ひげ)を剃った跡がわずかに残る頰には……。
(十字の傷痕……)
 なによりも、闇さえ飲み込んでしまいそうな漆黒の瞳は、変わらない。
 変えようもない。
 こんな瞳を、変えられるはずがない。
(嘘よ。こんな偶然が……あっていいはずがないわ。わたしは、夢を見ているの……?)
 一方のノーマンは、ひたすらに一途な視線でエレノアを凝視している。その眼差しは冷ややかとも、熱烈ともとれた。
 やがて形のいい肉感的な唇を開くと、ノーマンと呼ばれた男はゆっくりつぶやいた。
「さあ……。俺には女など皆同じに見えますから」
 十一年ぶりに聞くノーマンの声だった。


この続きは「愛に泣く黒騎士 ~導かれるふたりの想い~」でお楽しみください♪