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氷の瞳を溶かすのは 〜冷酷騎士とおざなりの婚約者〜

水上涼子 / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/07/30

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内容紹介

俺の持てるすべてを君に捧げる
「あなたに触れてはいけないと思っていた」
元婚約者を戦で亡くし、その弟マクシムの婚約者となった伯爵令嬢のサラ。大切な人を喪った悲しみは癒えず、二人が十年間で顔を合わせたのはたった一度きり。王宮にあがり王妃の侍女となったサラは、無慈悲で冷酷な『氷の騎士』と恐れられるようになったマクシムと再会する。王妃に思いを寄せているという彼のため、名ばかりの婚約を解消すると決めたサラだが…。「やっとあなたが手に入る」長い間隠し秘めていた情欲が溢れるまま、深くまで楔を刻みつけられる。孤独な騎士と、彼を遠くから見守る令嬢の、究極の純愛。第一回ジュリアンパブリッシング恋愛小説大賞受賞作。

立ち読み

初恋との別れ


 庭に植えたブルースターを見ながら、サラは婚約者を待ちわびた。強い陽射しを浴びた蕾(つぼみ)は淡いブルーに色づき、今にも開花しそうだ。
 久々にやってきた彼は、ずいぶん長いこと父と話をしている。今日はゆっくりしていけるのだろうか。もしも泊まれるならば、明日、咲いたばかりの花を渡せるかもしれない。可憐な星形の花が戦場で戦い続ける彼の癒やしになればいいのに、と思う。
 今、我がオーランド国は暗黒の時代だ。
 歴代皇帝が無謀な戦争を続けてきたせいで、国民は疲弊しきっていた。大陸統一を旗印に侵略戦争を続け、今なおそれが続いている。その上、現皇帝は放(ほう)蕩(とう)の限りをつくす暴君だ。宝玉で溢(あふ)れる金庫、酒池肉林の宴(うたげ)、美女が集う後宮。少しでも反抗する者は処刑されてしまい、今や皇帝を諫(いさ)める者は誰もいない。
 サラの父は病気を理由に、そんな皇帝一派から距離をとるようにひっそりと暮らしている。兄が戦争で片腕を失って戻ってきてからは、ますます引きこもっていた。そのため、王都の混乱も国境の戦火も、王都から離れたここバクスター伯爵領ではそれほど切羽詰まって感じられない。
 サラの婚約者ハインは、領地が隣接するクラーク伯爵家の領主である。流行(はや)り病で早くに両親を亡くした彼は、若くして伯爵位を継いだ。しかし、オーランドでは成人男子全員の従軍が義務づけられているため、幾多の戦いに赴いている。
「お怪我など、していなければいいけれど……」
 十歳年上のハインはいつもこちらの様子を案じるだけで、自分のことを何も言わない。彼にとってサラは子供だから、心情を吐露できないのだろう。辛(つら)いことはたくさんあるはずなのに。手あたり次第女に手をつける皇帝達からサラを守るため、両家の親達が早々に婚約を決めただけの、名ばかりの婚約者でしかないのだ。
 けれど、サラももう十五歳。少しでも彼に大人として見てもらいたい。役に立ちたい。今日の格好はおかしくないだろうかと、窓に映る自分を見つめる。亜麻色の髪を結い上げてみたが、垂れぎみの眦(まなじり)のせいでどうしても幼く見えてしまうのが恨めしい。
 ソワソワしながら椅子に座って待っていると、執事の案内でようやく彼が姿を現した。
 慌てて立ち上がり、彼を見つめる。淡いブルーの髪と瞳は記憶の中と少しも変わっていないけれど、いくぶん背が高くなっていた。短く刈り込んだ髪のせいか、ひどく大人びて見える。
 精悍(せいかん)さを増した容貌に見惚れてしまったのをごまかすように、サラはスカートをつまんで頭を下げた。優雅に、淑女っぽく。
 けれど、ハインは挨拶もなしに話を切り出した。
「ラトニアに出陣することになった」
 感情のない、平坦な声。優しい彼のものとは思えない。一瞬、誰の声だろうと思ったほどだ。そして、言われた言葉の意味がのみこめない。
 顔を上げると、ブルースターと同じ色の瞳がまっすぐサラを捉える。浮かれたサラとは違い、ハインは全く笑っていなかった。
 一瞬遅れて、言われた言葉が意味を成す。浮かれ気分は消え失せ、サーッと全身から血の気が引くのを感じた。
「な、にを……」
「今日はそれを伝えに来た」
「う……そ……ですよね?」
 呆然として見返せば、ハインは静かに目を伏せる。それ以上、何も言ってはくれない。
「ラトニアとの戦いなんて、勝ち目がないではありませんか!」
 大声を上げたサラとは対照的に、ハインは目を伏せたまま静かに首を振る。そんなことは彼自身が一番よく分かっていることだった。それを口にすれば皇帝への反逆になることも。
 だが、サラの口は止まらない。
「皇帝は、そんなにもジルコニア鉱山に執着されているのですか?」
 熱効率のいいジルコニア鉱石は、隣国ラトニアの鉱山からしか採れない貴重な資源である。それを狙って、オーランドは執(しつ)拗(よう)にラトニアへ攻撃をしかけてきた。
 だが、国境付近に鉱山があるとはいえ、両国の間には大きな山脈が立ちはだかっている。我が国自慢の騎馬隊は役には立たず、ラトニアの空撃を前に手も足も出ないのだ。
 淡いブルーの瞳を細め、目の前の婚約者がしっとりと笑う。彼の表情は、凪いだ湖のように穏やかだ。肩の力をそっと抜くと、長身の背が少しだけ小さくなった。
「ジルコニア鉱山もそうだが、皇帝はラトニアの王女も所望している」
「あの、女神のような美姫と名高い?」
「ああ。今の皇后陛下を廃して正妃にするとまで言ったがすげなく断られ、執着を強めた。……後宮に溢れるほど奥方を抱えているのに、まだ足りないらしい」
 いくら美姫とはいえ、確か王女はまだ十歳にもなっていないはずだ。子供相手にそんなことを言い出すなんて、正気の沙汰(さた)とは思えない。
 そんな戯言(ざれごと)のために、何故彼が命を懸けなければならないの? 国のために、ずっと戦ってきたというのに! サラはどうしても納得できなかった。
「司令官に任命されてね」
 その言葉は、サラを絶望に突き落とした。勝ち目のないラトニア戦の司令官は、皇帝の不興を買った者が任命される習わしである。そして、司令官となったからには撤退は許されない。死刑宣告に等しかった。
 周りの景色が大きく歪む。サラは立っていられず、よろよろと椅子に座りこんだ。
「何故……」
「マクシムも入隊し、やっと私の手を離れたと安堵したところなのにな」
 ふいに歳(とし)の離れた弟の名がこぼれた。そこに少しだけハインの悔しさが滲(にじ)む。
「何があったのです?」
「いや……」
 言葉を濁す彼に、すがるような視線を向けた。その視線を受け、ハインは重い口を開く。
「第三皇女様がマクシムを気に入ってね。もちろん、伯爵家の次男に嫁ぐわけなどない。ご自分の護衛に望まれたのだ。皇女様の護衛なんてどんな扱いか……君も知っているだろう?」
 サラは力なく頷(うなず)いた。皇族の慰み者になるのは女ばかりではないのだ。第三皇女は、母が正妃だったことを鼻にかけ、特にわがままがひどい姫であった。護衛とは名ばかりの男達を侍(はべ)らせて奴隷のように扱い、性的な奉仕はもちろん、体を傷つけて喜ぶ趣味まであると聞く。行方不明になった者も相当数おり、彼女に殺されたのではないかと囁(ささや)かれていた。
「正式な命令ではなかったから早々に手を打ち、マクシムは諜報(ちょうほう)部へ異動させた。あそこはその機密性ゆえに独立した機関だから、しっかり任務をこなしていければ皇女様だって手が出せないだろう。高度な能力を有する者だけが入れる部署だが、あいつは剣の腕も頭脳も申し分ない。十分やっていけるはずだ」
「ですが、そのせいでハイン様が睨(にら)まれたのでは……!」
 彼は、またゆっくりと首を振った。
「元々、私は皇帝一派に快く思われていなかったのだよ。おべっかは言わないし、貢物も差し出さない。面(めん)従(じゅう)腹(ふく)背(はい)であるのは明らかだった」
「でも、でも!」
「爵位はマクシムが継ぐ。けれど、領地の運営まで手が回らないだろう。あとのことは家令に任せてきた。父の代から仕えてくれているから、もういい歳になるが。先ほど、君の父上と兄上にも手助けをしてくれるよう頼んできたところだ」
 その言葉に、すべてが決まったことだと、もう手遅れなのだと知る。
 サラは何も言えなかった。じわりと涙が浮かび、立ったままの彼が滲んで見える。奥歯をぐっと噛みしめ、それがこぼれないよう懸命にこらえた。
「サラ、気を強く持ってほしい。今はこんな世の中だけれど、いつか明るい未来が来ることを信じるんだ。こんな横暴な世はいつか改善される。まっとうに生きている者が怯(おび)える国なんて、長くはない」
「ハイン様……」
「私が死んだ後は、遅滞なくマクシムと婚約してほしい。バクスター伯にもマクシムにも伝えてある。サラ、君だけでなくマクシムも守ると思って……あいつを頼む」
 嫌だ、行かないで。それを言えたらどんなにいいだろう。
 サラはよろよろと立ち上がり、ハインの胸に飛び込んだ。言葉の代わりに、背に回した腕にありったけの力を込める。ためらいなく抱き返された腕は痛いほど苦しかった。初めて感じた力強いぬくもり。息が止まるほど強く抱き合ったまま二人は動かなかった。
 トクントクンと二つの鼓動が重なる。このまま時が止まってしまえばいい。彼がどこにも行かなければいい。
 ……長かったのか、それとも一瞬だったのか。永遠を願った時間は不意に終わりを告げる。
 背に回した腕をほどくと、ハインはそっとサラの唇を塞いだ。
「幸せに」
 一言だけ残し、振り返りもせず出て行った。
 十五歳の夏に初めて味わった、触れるだけの優しいキス。
 それは……
 その後届いた婚約者の戦死の報(しら)せとともに、痛みを伴う思い出となってサラの胸に刻みこまれた。



二人目の婚約者


 新しく婚約者になったマクシムはサラより一つ年下で、幼い頃から剣の腕を買われた優秀な少年だった。深い藍色の髪と瞳を持ち、恐ろしいほど整った顔立ちをしている。性格は包み込むような優しさのハインとは真逆で、ぶっきらぼうでそっけない。どこか近寄りがたく、何度も接する機会がありながらも、サラはあまり話したことがなかった。
 しかし、ぶっきらぼうながらも優秀な彼は早くから兄の不在を補い、領民から頼りにされる存在だった。
 ハインにとってマクシムは自慢の弟だ。マクシムにとってハインは兄であり、父でもある。お互いに唯一の肉親として支え合って生きてきた。
 自分のせいで、その大切な兄が死地に追いやられた。マクシムはどれほどの咎(とが)を背負ったのだろう。次第に、皇帝達の横暴さに交じり、マクシムの冷酷さも噂(うわさ)として流れてくるようになる。敵と認定すれば女子供も容赦なく切り捨てる無慈悲な仕事ぶりのせいで、とうとう氷の騎士と恐れられるまでになった。
 その無慈悲さは彼の心を守る鎧(よろい)だ。しかし、そうと分かっていても、サラには心配することしかできない。『あいつを頼む』と言われたのに。
 せめてハインの愛した領地を守る手伝いをしようと、サラはできるだけ領内を見て回った。餓(う)えている人はいないか。寒さに凍えている人はいないか。そうしているうちに、何故か食料や資金を備蓄するのもサラの役割になる。お調子者の妹とどこかのんびりした兄の間でしっかり者にならざるを得なかったサラにはぴったりの役割だと、父が考えたのだろう。不自然なほどの備蓄量に首を傾(かし)げつつも、皇帝の目をかいくぐってやりくりするのはささやかな生きがいになった。
 大きな変化もないまま穏やかに日々は過ぎていく。
 あの十五歳の夏から十年と少し。気づくと、サラはいつの間にかハインの年齢を追い越していた。けれど、彼を喪(うしな)った心の痛みは少しも変わらない。
 あの夏からブルースターの栽培を欠かさないサラを、父は痛ましげに見る。
「サラ、いい加減にハインのことは……」
〝忘れなさい〟という言葉は出なかった。母が父の肩を叩き、首を振る。両親とも分かっているのだ。サラの心が十五歳の思い出を拠(よ)り所に生きているということを。淡いブルーの花を見ている時だけが、サラの幸せな時間だった。
 婚約者になってから、マクシムに会ったのは一度だけ。それも、ハインの命日に墓前で偶然会っただけである。彼は兄よりも背が高くなり、体格も立派になっていた。相変わらず整った顔立ちであったが、氷と称される瞳に幼い頃の面影はない。すっかり知らない男性だった。
 サラの手にあるブルースターの花束を見つめながら「元気ですか」と一言だけ尋ね、視線を合わせることすらなく、再会の時間は終わった。
 彼にとって自分がどういう存在なのか、サラには分からない。氷の騎士と恐れられるまでになった彼には名ばかりの婚約者など要らないように思う。兄の遺言を守っているだけなのだろうか。そう思うと、なんとなく申し訳ない気持ちになった。
 しかし、なんの前触れもなく変化は訪れた。
 ハインを喪ってから十一年目の春。なんと、王都でクーデターが起こったのだ。
 主導者は第三皇子オルウェイ。戦場の黒い狼(おおかみ)といわれる国民の英雄だ。異国出身の妾(めかけ)の子として不遇の子供時代を送っていたが、戦場に出るやいなや圧倒的な戦闘能力で瞬く間に戦果を上げ、名を馳(は)せた。将軍として軍の実権を握ると、有利な条件で各国と休戦協定を結び、戦争を終わらせる。そうして地盤を固め、機会を窺(うかが)っていたのだろう。まるでシナリオでもあったかのように、一夜にして王都を制圧した。そして、マクシムはオルウェイの側近としてクーデターの中心人物となっていた。
 拘束された皇帝一派は裁判にかけられ、横領、殺人等々、ありとあらゆる罪が暴かれた。処刑台送りとなった数は千を超える。処刑場が血に染まるほどの大粛清。その役割を担ったのが、マクシム率いる諜報部隊だ。あまりにも容赦ない仕事ぶりから、マクシムは簒奪(さんだつ)者であるオルウェイ以上に恐れられる存在になった。
 サラが遠い王都の出来事を父から聞いたのはすべてが終わった後だったが、その足ですぐにハインの墓前に報告に向かった。ブルースターが咲くには早い時期だったので、藍色のパンジーを持って。
「ハイン様に理不尽な戦いを強いた皇帝は処刑されました。あなたの弟が成し遂げたのです! これから平和な世になるでしょう。権力に怯えなくてもいい世の中になったのです。あなたの、予想した、未来が……」
 最後は声にならなかった。
 平和な世に彼はいない。どんなに願っても戻ってこないのだ。
 ひとしきり泣いた帰り道、サラはふと気づいた。
 おそらく、父はクーデターの計画を知っていたのだ。備蓄した食料や資金はその援助だったに違いない。何も知らされないまま、サラは何の役に立つこともできなかった。マクシムの心情を思うと胸がぎりぎり締めつけられる。ハインの時と同じく、自分がひどく無意味な存在に思えた。
 兄の仇(かたき)を討って悲願を達成したマクシムにとって、お下がりの年上女など重荷でしかないだろう。それでも、兄に強い責任を感じていた彼は、きっとサラを捨てることなどできないはず。サラは自分から婚約解消をした方がいいと思い、父に提案してみる。しかし、意外にもそれはダメだと強く反対された。
「お前まで離れてしまっては、マクシムの心が持たないだろう。あれだけの数の人間を粛清したのだ。まともな神経ではいられまい。元々優しい男なのだから」
 名ばかりの婚約者でいることがどう役に立つのか不思議に思ったが、それ以上食い下がることはしなかった。どうせ行き遅れ。焦ることもない。
「サラ。マクシムだけでなくオルウェイ様も、お前がここで食料や資金の備蓄を管理していたことを高く評価してくださっている。今回のクーデターを成し得たのも、お前の支えがあってのことだ。もっと自信を持ちなさい」
 父の言葉が、少しだけ気持ちを軽くしてくれた。
 しかし、クーデター後も国内はなかなか安定しなかった。前皇帝の放蕩と長く続いた戦争のせいで、国民生活はどん底だったのである。バクスター領民は食べていくのに困らない生活をしていたが、王都に近い街ほど困窮はひどく、食糧不足は緊急の課題だった。
 オルウェイは切羽詰まった食糧不足打開のために、豊かな隣国、ラトニアと国交を開くことを決めた。元敵国だが、持ち前の決断力と行動力でことを成し遂げてしまう。皇帝自ら足を運んで直々に話をつけ、大規模な食糧と燃料の輸入に成功したのだ。
 さらに、オルウェイが将軍になってからはラトニアに攻撃をしかけていないことも評価され、両国の関係は非常に良好なものとなった。前皇帝が欲しがっていた美姫、アリーチェ王女まで手に入れてくるというおまけ付きだ。
 オルウェイは王女に一目惚れし、攫(さら)うように連れてきたという。王女は男性遍歴が色々と噂されていたが、どうやらそれは彼女を貶(おとし)めるための陰謀だったらしく、実際は聡明で思慮深い女性だと瞬く間に評判になった。
 サラにとってラトニアはハインを殺した憎い敵国であるが、国民生活がみるみる改善した現状を思えば感謝しかない。困窮する国民に手を差し伸べてくれた国はラトニアだけだ。少しだけ抱いていた敵対心はすぐさま消えた。
 賢王と名高いラトニアの国王は、人柄も立派である。前皇帝もそんな人物だったら、ハインは死なずに済んだだろう。そんなどうしようもない考えが浮かび、やるせない思いが胸に広がった。
 目まぐるしく変わる王都の情勢が落ち着いた頃。
「サラ、ニーナ、ちょっと来なさい」
 妹と一緒に父に呼ばれて入った書斎で、サラは思いがけない提案を受けた。


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