書籍詳細
人違いで解雇されましたが、極上御曹司に拾われ溺愛されたので幸せです!
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2021/07/30 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
0.人違いから悪女にされて
お正月も終わり、新成人のニュースに目もくれず仕事し、なんとか月末を乗り切った翌週。
気がつけばバレンタインデー目前で、駅から会社へ至る道のりは、パティスリーやレストランはもちろん、雑貨店や花屋の広告にまで、愛だのチョコレートだのの文字が飛び交っていた。
白河(しらかわ)陽(はる)香(か)はそれらの広告を見る余裕もなく、出勤する会社員だらけの歩道を足早に進む。
急ぐ気持ちとは裏腹に、会社前の横断歩道で信号が赤に変わってしまう。
(ついてない。一分でも時間が惜しいのに)
白い息を吐き出しつつ、陽香は店のショーウィンドーで自分の姿を確認する。
髪の手入れがおざなりだったのを思い出したからだ。
幸いなことに、髪は、巻いたマフラーの下を通って、無個性なチャコールグレーのコートの上を流れていた。
特に跳ねたところはなく、まっすぐに背中で纏(まと)まっている様子に陽香はほっとする。
こんな時、祖母譲りの髪質がありがたいと思う。
寝癖や跳ねがつきづらく、仕事中に束ねていてもゴムの跡が残らない。
代わりにブローとはとことん相性が悪く、巻いても昼には取れてしまう。
大学生の頃は、多少なりともとがんばって美容室行脚をしたが、どこへ行っても苦笑され、バイト代をつぎ込んでも、高い施術料金の割にすぐ取れてしまうので、ゆるふわ巻き髪は諦めた。
今は毛先にグレーを入れて軽くしているだけで、そのまま手を加えずにいる。
二十六にもなって地味なことこの上ないが、仕方がない。
(髪がコレだから、メイクも地味に抑えるしかないのが辛(つら)いなあ……)
必要最低限のメイクは大体ベージュ系。
ナチュラルといえば聞こえはいいが、ようは時短と効率優先。適当に肌を整え、あとは眉にリップ、顔色が気になる時だけチークを入れるぐらいで終わらせている。
服だって無難と実用一筋で、悪目立ちするのが怖くてアイテムで遊ぶ勇気もない。
なにせ顔立ちが平凡なのだ。
一昔前の日本人顔とでもいうのだろうか。
輪郭も眉も優しげだが、色が黒々としているため、どこか垢(あか)抜けない。
目にしろ鼻にしろ、大きくもなければ小さくもなく、整っているが美点にも欠点にもならない。
人混みに紛れれば、きっと三分もたずに忘れられそうだ。
多少なりともましといえるのは、肌の白さと張りぐらいだろう。
『女の肌が白いのは七難を隠す』教の熱心な信者である祖母により、思春期に入るか入らないかぐらいから、柚(ゆず)と豆乳とへちまを原料とした手作り化粧水やら、洗顔用米ぬか袋などを使わされ続けたおかげだ。
けれどこれだけ寒い上、寝不足なまま叩き起こされた状況では、せっかくの美点もあまり活用できてない。
(出張って! 急に出張って言われても……! 準備なんか、全然、間に合わない!)
昨晩、風呂上がりに一息ついていると、日付が変わる直前になって電話が鳴った。
残業続きだったから、今日こそは早く寝たい。
迷惑だなと思いつつ画面を見た陽香は、次の瞬間、いそいそと通話ボタンを押す。
表示されていたのが、付き合い始めて三ヶ月の恋人である竜(たつ)野(の)諒(りょう)の名前だったからだ。
もっとも、恋人としての付き合いより、同僚――あるいは、相方として組んでいた時期が長いのだが。
香料輸入会社の同期で、同じ香料販売部にて、営業と営業補佐としてコンビを組まされて四年。
あれこれと仕事で関わるうちに他の同期より仲良くはなっていた。
けれど、恋というにはまだ遠い感情で、陽香が相手を異性として意識するより早く、去年の冬、相手――諒から告白された。
地方で開催された、食品香料展示会の打ち上げ後だったと思う。
長く付き合っていた彼女が、諒を振って他の男とお見合い結婚したと酔った勢いのまま愚痴られた上、「お前が好きだと気付かれたのかな」などと、意味深な発言を投げられた。
同僚かつ、気の合う相方としてしか見ていなかった諒から突然告白され、恋愛にうとい陽香は内心であわてふためいた。
いやいや、落ち着け。あれは酔っ払いの戯言(たわごと)。フラれた寂しさに違いない。
浮つきがちな心を深呼吸でなだめつつ、相手が酔い潰れたのを幸いに、返答を保留にしたままホテルの自室へ引き払った。
幸い、翌日は仕事が休みだったので、丸一日かけて考えた。
好きという言葉は嬉しいが、本気なら、フラれた勢いなどではなく、きちんと向き合うべきだろう。
仕切り直しを要求する。
だが、どこで? 諒は酔っ払っていた。万が一会社で聞いて、告白自体を忘れていたら――などと考え、難しい顔で出社した陽香をよそに、周囲はすっかり諒と陽香を恋人認定していた。
恋愛の始まりとはこういうものだろうか?
仲のいい異性はいたが、恋愛より友情の度合いが強い上、いい奴から脱却しきれない陽香は、恋愛相談はされるが彼氏なし、の典型だった。
高校時代がそうなら、希望していた香料関係の大学に入ってからはなおさらで、趣味と好奇心を満たすことに夢中になり、おかげで希望していた企業に通れた。
そこから先は、借りていた奨学金を返すことと、仕事に没頭していて、恋する余裕など一つもない。
ゆえに陽香の恋愛知識は高校一年あたりで停滞しており、大人の男女の恋愛スキルが低い。
女友達との会話や相談で多少の知識を得ていたので、告白なしに付き合いだすこともあるとはわかっていたが、まさか、自分がそうなるとは思いもよらなかった。
その上、二人の関係は、恋人というにはあまりにも甘さがなかった。
十年ぶりの彼氏という存在に、内心、嬉し恥ずかしな陽香をよそに、諒は相変わらず同僚の枠からでることなく、お昼は社食か近場のうどん屋で割り勘、デートの約束はするものの、大概は諒が仕事の足を引っ張ってしまい、二人で休日出勤し、社内デートだなと苦笑されつつ仕事に励む。
最初はこんなもの、仕方ない。
お互いに忙しいしと思っていたが、フレンチレストランでのクリスマスディナー以降、恋人らしいシチュエーションゼロの状態に、気持ちはどんどん冷めていた。
あまりのことに、私たち付き合っているんだっけ? などと、とぼけた冗談をかまし、恋人から逃げるように会社を退社したのは昨日。
照れるから、仕事がやりにくくなると困るから。同じ会社で相手の多忙もわかっているから。
そんな言葉で甘さ不足をごまかしていたが、やっぱり、このままではいけないと思ったのだ。
恋愛関係を確認する陽香の不意打ちな台詞に反省し、お休みの電話でもする気になったのか。
ドキドキしながら彼氏――諒からの通話ボタンを押し、ごめん、夜遅く、なんてしょげた声に、うん、いいよ? なんてかわいく明るく答えた途端。
――明後日から、シンガポールに出張なのを忘れてた!
などと言われてしまった。
陽香と諒が属する香料販売部は、香水や食品の匂いのもととなる材料の買い付け、値段交渉に品質確認、あるいは視察に向かうこともある。
とはいえ、営業の諒と異なり、営業補佐の陽香は日本でのバックアップばかり。
出張と言われてもあわてることはない。
――準備が全部終わっていれば。
取引先の重役を連れて、シンガポールにある自社のフレーバー・フレグランス工場を案内した後、アラブストリートを見学がてら、お土産に最適と女性に人気がある香油店へ連れて行くというのだ。
わあ、素敵。お土産楽しみにしているね――と笑えるほど、よい状況ではない。
というのも、諒はすっかり準備を忘れており、出張資料一式ができていないというのだ。
近年、オリエンタルな香りに注目が集まっている中、東南アジア方面を担当する諒や陽香のチームは、社の上層部はもちろん、品質がよく、安い香料をと願う取引先からも働きを注目されていた。
なのに、現地ガイド用の英語版と、視察組用の日本語版、おまけにホテルからの移動経路や地図、困った時の連絡先やホテルの電話番号などなど――が、まるで白紙。
幸い、チケットやホテルの手配は総務が代行してくれていたが、手元に資料の一つもなければ、観光接待として会計監査にひっかかる。
ダメ押しに、案内するのは還暦間近な得意先重役で、英語はもちろん海外旅行も初めて――と。手を抜くことも許されない状況。
肝心の諒が、営業仕事で出発まで社外と聞けば、アシスタントの陽香がやるしかない。
かくして陽香は、寝る間もないまま、家のパソコンで工場の位置や地図などの調査といった、守秘義務にひっかからない下準備で夜を明かし、打ち出した紙で重くなった鞄をかかえて会社へ急いでいたのだ。
途中、会社の同僚や先輩とすれ違うも、陽香の焦った表情を見て『また諒にやらかされたか』と苦笑されるだけで、挨拶で足を取ることはしない。
いつものことなのだ。諒の手落ちをフォローするのは。
営業補佐――アシスタントなのだから、後方支援が仕事とわかっているけれど、もう少し、余裕を持って思い出してくれまいか。
そんなことを考えつつ、自社ビルのドアをくぐる。
(写真や地図の配置は仮のまま、先に日本語版の文章を仕上げなきゃ。文章さえあれば、あとは翻訳ソフトと辞書で英訳して、校正室に構文チェック依頼。午前中にそこまでしないと間に合わない)
頭の中で、時間や仕事の段取りを最終確認しつつ、エントランスを歩く。
始業までの間に朝食を取ろうとでもいうのか、あるいは昼食用か、一階にテナントとして入っているコンビニから、おにぎりやサンドイッチなどの軽食の入ったビニールを提げた社員がエレベーター前にたむろっている。
他にも、待合ソファで別部署の同僚と雑談する人、来客用ブースで、朝一の客先プレゼンに備え打ち合わせするチームなど、エントランスは出勤時特有の喧噪に包まれていた。
受付カウンターには、もう来客がおり、化粧をきっちりとキメた受付嬢が、来客である女性へ申し訳なさそうな様子で対応している。
(うちのお客にしては、ちょっと見ないタイプ……かも)
一目でブランド品とわかる高そうなワンピースを着た来客女性の横を、陽香が通り過ぎようとした時だ。
それでしたら、あちらに――と、やや困惑気味に受付嬢が手で陽香を指し示す。
すると来客対応をされていた女性が、陽香の歩みを止めるように飛び出してきた。
「うわっ、とぉ!」
ぶつかりそうになった陽香は、奇声を上げつつ足に急ブレーキをかける。
つんのめった勢いで、肩から提げていた通勤用トートバッグが肘までズレ、手首から落ちかけ息を呑む。
落として、中にある社用タブレットを破損させたり、書類をばらまいたりするのはまずい。
とっさに両手でバッグを抱きしめ、顔を上げれば、砂糖菓子のようにふわふわした茶髪の、いかにも良家の令嬢といった女性が、目を涙で潤ませながら陽香を睨(にら)んでいた。
「貴女(あなた)が、シロカワハルカね!」
首から提げていたIDカードのケースと顔を二度見され、「はぁ……」と気のない声で返事をすれば、女性はますます顔を紅潮させて悲鳴じみた声を上げる。
「この、泥棒猫!」
一昔前に流行(はや)った、昼のメロドラマで使い古したような台詞に目が点になる。
「どろぼう、ねこ?」
問い返した瞬間、ぱんっと派手な破裂音がして左頬に熱が走った。
目を大きくしたのも束(つか)の間、次の瞬間、痺(しび)れるような痛みが頬から顔全体に広がった。
いよいよわけがわからない。なんだ、これはどういうことだ。
誰のことかと顔を左右に振って辺りを見渡すけれど、周囲を歩いていた社員たちはおっかなびっくり陽香と女性に視線を送るだけで、誰も動こうとはしない。
それどころか、関わりたくないが興味津々といった気配すら感じられる。
エントランスのざわめきが消え、静寂が拡がる中、陽香は頬の痛みも忘れ、ぽかんとした間抜けな顔で口を開く。
「あの……なんのことでしょうか?」
なるだけ取り乱さないよう、慎重に呼吸を重ねつつ相手を観察する。
女性というより女の子という単語が似合う、柔らかいカールの栗毛に、パステルカラーでまとめた品のよい、ふんわりとした化粧。
身につけている桜色のワンピースは、先週、陽香が美容室で流し読みした女性ファッション誌の表紙を飾っていたやつだ。
ブランドもので、陽香のボーナスで買えるかどうかという高価なものだが、女性はなんの違和感も気負いもなく身につけており――そのことから、普通の来客でないと読める。
(こんな知り合い、いないけど)
自慢ではないが、祖母と二人の慎ましい庶民暮らし。
お嬢様と噂(うわさ)される同級生や大学の有名人はいたが、友人になったためしがない。
個人的な関係でないなら仕事関係だが、彼女の服装も化粧も、働く場からあまりにも浮いていた。
一体なんなのだろうとぼんやり考えていると、女性は、愛らしくきゅっと唇を引き締めた後、容姿に似合わぬ激しい剣幕でまくし立てだす。
「とぼけないで! あなた、シロカワハルカなんでしょう?」
「あ、はい。白河陽香ですが」
正しくは、シロカワではなくシラカワなのだが、陽香の滑(かつ)舌(ぜつ)の問題か、あるいは語感の問題か、小学校からこちら、シロカワと間違えられて呼ばれることが多かった。
だから今も、ああ、発音を間違えられているな。――程度の認識で肯定したのだが。
それが、まずかった。
「なっ、なんて図々(ずうずう)しいの! こうして私に断罪されて、なにひとつ悪びれないなんて!」
大学卒業して一年か二年――というところだろうか。
企業という場を考慮することなく、空気を察せず、彼女は陽香を責め立てる。
が、泥棒猫と言われる覚えはもちろん、人前で断罪されるような覚えもない。
「ええと、人違いでは……?」
「シラを切らないで! 貴女が私の婚約者を寝取ったのは、もうわかってるんだから!」
「こ、婚約者を寝取ったぁ!?」
ものすごい勢いで疑問符が頭の中を回る。
人の婚約者を寝取るどころか、彼氏ができたのも十年ぶり。
その彼氏とも、お正月を挟んで三ヶ月満たない付き合いで、キス以上の接触はない。
お互い一人暮らしなら、クリスマスになにかあったかもしれないが、生憎(あいにく)と陽香は、祖母と平屋で二人暮らし。
お正月に至っては、祖母の家業を手伝っていたので初詣どころではなかった。
なにかあるとすればバレンタインデーぐらいだが、それだって、陽香の気持ちが追いつけばの話で――つまり、寝取るもなにも、綺麗さっぱり掛け値なしの処女なのだ。
だとすれば彼氏である諒が二股をかけていたという可能性だが。
(それはない)
陽香は頭の中できっぱりと断言しつつ、首を振る。
諒の元彼女は、いつまでたっても結婚の話をしない彼に愛想をつかし、別の男とお見合い結婚した。だから寝取るもなにも、縁は切れている。
だとしたら、まったく同時期に彼女を二人こさえて股にかけたか?
(いや、諒にそんな時間も器用さもないはず)
二人の女性と付き合いつつ互いに気取らせない、あるいは言いくるめるスキルとスケジュール管理能力があれば、営業補佐である陽香は、もう少し楽に仕事ができていたはずだ。
そもそも、陽香への告白も唐突で計画性がなく――つまり、恋愛においても才がないのは知れている。
(……ないな)
同期の容赦なさで彼氏の浮気を否定するが、目の前の女性は、黙り込んだ陽香に焦(じ)れて地団駄を踏む。
「とぼけようったって無駄よ! 私、知ってるんだから。貴女と藤(ふじ)春(はる)さんが一緒にホテルに泊まったって!」
「ふじ、はる……?」
彼氏とは違う男性の呼び名が、わずかに記憶に引っかかる。
「芳(よし)倉(くら)藤春様よ! 知ってるでしょう?」
飛び出した名前に首を傾(かし)げ、ああと声を上げる。
「藤春専務のことでしょうか?」
芳倉といえば、陽香が勤務している香料輸入会社の商標かつ、経営一族の名字。
その中で藤春といえば、社長の次男で役員でもある三十代の男を示す。
東南アジア関連事業の責任者で、しょっちゅう亜熱帯の国へ行くからか、一年中日に焼けており、常に髪を短くしている。その上、マリンスポーツが好きな体育会系男子でなかなかの体格。
故に、玉の輿(こし)を狙う女性社員も多いが、正直、インドア派の陽香には響かないタイプだ。
仕事で何度か話をしたこともあるし、コンペの打ち上げなどの宴席で、酒を注(そそ)ぐ程度のことはあるが、プライベートな会話はしたことがない。
つまり、会社の有名人だから名を知っている程度の雲上人。
なのに寝取ったとはどういうことだ?
「あの、藤春専務がなにか?」
興奮している様子の女性を気遣いつつ尋ねれば、彼女は嗚(お)咽(えつ)を堪(こら)えながら健気に訴える。
「藤春様と私が婚約者の関係にあり、初夏結婚という話で結納したことはご存じですよね?」
まったくご存じない。
(いや、専務が親の勧めでお見合いして、取引先の社長令嬢と結婚間近って噂は、食堂で小耳にしたことあるけど)
相手の名前はもちろん、顔だって知らない。
というか、興味もないので今の今まで忘れていた。
目の前にいる女性は、陽香の反応など最初から期待していないのか、まったく意に介する様子もなく、鞄から取り出したクリアファイルを叩き付けてきた。
衝撃で、ファイルにはさまれていた紙が空を舞う。
手に取ってみれば、ネットから予約された外資系高級ホテルのチケットペーパーだった。
英語だが、輸入関連会社に勤める以上、ホテルの予約表ぐらい読める。
ざっと目を通し、ローマ字表記で藤春専務と自分の名が記されているのを読み取り、あっと声を上げてしまう。
シロカハルカ。アルファベットで羅列されている文字に頭が真っ白になる。
一部に違いがあるが、陽香の名前に極めて近い。しかも、年齢まで同じ。
だが、まったく身に覚えがない。
(どういう、こと)
いたずらにしても酷すぎる。なんとか自分でない証拠を探そうと、書類を読み返していれば、女性がふん、と軽蔑もあらわに鼻を鳴らす。
「今更、言い逃れしようとしても無駄よ! 首を洗って訴状が届くのを待っていなさい」
「そ、訴状!?」
非日常的な単語に目を剥(む)くと、やっと溜(りゅう)飲(いん)がさがったのか女性は胸を反らす。
「婚約破棄の手続きおよび、私が被(こうむ)った精神的苦痛。および、貴女と藤春様の不義密通で被ったもろもろの不名誉に対する損害賠償を請求するんだから!」
一区切りごとに、陽香の首元を指で突きながら、鼻息も荒く述べ立てる。
「そんなことを言われても!」
悲鳴じみた声を上げつつ、助けを求めて辺りを見渡すが、知っている人物はみな、陽香が目を向けるや否や顔を逸(そ)らし、あるいは嫌悪の目で関わりを拒絶する。
(嘘でしょ……!)
頭から血の気が引いていく。鏡を見なくても自分が青ざめていると知れた。
完全に陽香が寝取り女だと――、楚々(そそ)としたお嬢様から婚約者を奪った悪女だと認識されている。
身体が震えて声が出ない。仮に声を出せたとしてもなにを言えばいいのだろう。
断罪の言葉を叩き付けるだけ叩き付けたら気が済んだのか、自社御曹司の婚約者を名乗る女性は、毅(き)然(ぜん)とした態度で陽香に背を向けエントランスから出て行く。
追いかけようとするが、足がもつれて転んでしまう。
だけど誰も大丈夫とは言ってくれない。
どころか、遠いところでは早速女性社員がひそひそやっている始末。
誰の助けも得られないまま、その場に膝をついて手の中の紙を見る。
グアムにある外資系ホテルの予約表には、ローマ字表記で陽香の名前と専務の名前が並んでおり、年齢までぴったりと同じだ。しかも質(たち)がわるいことに、宿泊したのは正月休みに重なっており、アリバイを証明してくれそうな相手は社内に皆無。
その日から、陽香が婚約していた男女をひきさいた悪女という噂が広がったことは、いうまでもなかった――――。
1.御曹司との思わぬ出会い
謂(いわ)れのない罪で泥棒猫と吊(つる)し上げられ、平手打ちを頬に受けてから二週間。
陽香は、「運が傾くと、人間、ここまでろくなことがない」というのを心底実感させられた。
婚約を破談にさせた寝取り悪女というだけならまだしも、相手は自社の専務ということもあり、愛人だから就職できただの、主任昇格が早かっただのと陰口を叩かれ、同僚から無視されるのは序の口。
帰り道でお気に入りにしていたパンプスの踵(かかと)がマンホールの穴に挟まって折れるわ、三ヶ月分の定期が入ったパスケースがスリに遭うわ、干した洗濯ものがずぶ濡れになるわと、ことの大小に拘(かかわ)らずついていない。
ともかく、職場の誤解だけはなんとかしたいと、当事者の藤春専務を探すものの、なぜか突然、中東への長期出張が入り不在。
その日に仕上げるはずだったシンガポール視察資料だけは根性で間に合わせたが、香料の値段が間違って伝えられ、現地で「まるで金額を把握していない。取引に不安がある」と得意先の部長の不信感を買ってしまい、大型商談の雲行きは怪しい。
しかも、値段を間違って伝えた犯人――営業として引率した諒からは、確認しなかった陽香のミスと騒がれ、悪女騒動もあってか、自分の責任でないことまで全部ひっかぶされて、ボーナスは出ないと思えと上司に言われる始末。
それに便乗してか、諒は、彼氏という立場を投げ捨てて他人を装いだし、誤解だと訴える陽香を鼻で笑い「二股とは思わなかったよ。最低だな」の捨て台詞で切り捨てて耳すら貸してくれない。当然、電話も即日着信拒否されて、上司にアシスタント変更を願い出ているとのこと。
――あんまりじゃない?
たしかに予約表に書かれていた名前は陽香のものだし、年齢も一致していたが、誕生日はまるで異なっていた。いたずらか、ミスやシステムエラーの可能性もあるのに、話も聞かずに後ろ足で砂をかけたあげく、自分も弄ばれた。二股被害者と吹聴するなんて。
噂は日に日に尾ひれを増して、年配の男性社員からは一晩いくらだとか、どうやって寝取ったのか身体で教えろとかすれ違いざまに卑(ひ)猥(わい)にからかわれる。
完全なセクハラだが、人事部も上司も見て見ぬふりを貫いていた。
悪女に罰を下す正義に酔っているのは態度からわかったが、それなら、こちらの弁解を聞いてからにしてほしいとも思う。
なにより、駄目押しとばかりに祖母が入院した。
上がり口の段差に躓(つまづ)き転倒し、大(だい)腿(たい)骨(こつ)を折ってしまったのだ。
若く見えるといっても還暦をとっくに超えた身体では、骨も簡単にくっつかない。
折れた場所に大腿骨転(てん)子(し)部(ぶ)という付け根も含まれているため、リハビリを兼ねて一ヶ月半か二ヶ月は入院と、救急車で祖母が運ばれた先の整形外科医に言われた。
両親を亡くし、祖母と二人暮らしの陽香にとって入院は大事だ。
動けない祖母に代わって役所での手続きに加え、買い出し、病衣の洗濯と家事の量も増えた。しかも祖母の年金と営業補佐である陽香の収入で、家計費に奨学金返済に医療費となるとかなりの負担で、貯蓄の心(こころ)許(もと)なさと、唯一の家族である祖母の不在が精神的に堪えてしまう。
結果、たった半月で五キロも体重が落ちたが、健康的な減り方でないため、顔はやつれ、肌と髪は荒れ、目の下の隈(くま)が日々濃さを増していた。
(仕事を、辞めようか)
ここ三日ほどで急速に現実味が増してきた選択を思う。
香料に関わる仕事をしたくて、農芸化学系大学に進んでまで入った会社だ。できることならばもっと長く勤め、自分が希望する調香部門で働けるようになるまでがんばりたい。
だけれど、心はすっかり折れている上、仕事の連絡も最低限、時には邪魔されるとあっては、会社の花形である調香部門への異動など夢のまた夢だ。
痛み出した胃を、内ポケットに入った辞表の上からなだめつつ廊下を歩く。
白(さ)湯(ゆ)を飲みたい。お茶やコーヒーを口にできないほど胃も腸も弱っている。
壁を伝うようにして、給湯室近くまで来た時だ。
同期の男性らがサボって煙草(たばこ)を吸いつつ雑談をしていた。
喫煙は全面的に禁止されているが、陽香のいるフロアの給湯室は昔調理場の一部だった名残で換気扇の力が強く、密かに、喫煙者の隠れ家(が)になっていた。
煙の匂いに顔をしかめ、別のフロアにしようかと踵(きびす)を返した時だった。
元彼の容赦ない発言が背中に突き刺さる。
「別に付き合いたくて付き合っていたわけじゃねえよ。だって、かっこ悪いだろ。クリスマスに彼女がいないなんて非モテみたいで」
「あー、まあなあ」
苦笑まじりに他の男性らが相づちを打つ。すると諒はさらに勢いづいて、陽香をけなす。
「それにアイツ、恋愛偏差値低そうだからチョロくセックスできそうな気がしてさあ。まあ、次にまともな彼女ができるまでのつなぎっていうか」
「地味だしな。連れ歩くにしてももうちょっと、こう、かわいいとか美人とか、巨乳とかオプションが欲しいよな」
「ばっか、巨乳はお前の趣味だろ。…………でも、あっちの具合はよかったんじゃないか? 専務の愛人だったんだしさ」
なんというか、一度格下、あるいは水に落ちた犬と認定すれば、どこまでも無礼を働いていいと考えているのか。当の陽香が聞いているとも思わず男たちは下品な声でああだこうだと、憶測で陽香のセックステクニックを聞きだそうとする。
頭を抱えたいほどの幼稚さだ。いっそうなり声を上げて、残念でした、処女です! と殴り込みでもかけてやろうか。
(信じる人なんて、誰もいないだろうけど)
ああ、嫌だ。最近へんに思考がひねている。こんな風に貶(けな)されても怒れないほど気力も体力もない。
クリスマスに独り身が格好悪いから。次のまともな彼女ができるまでのつなぎとまで言われたのに、ああ、そうかあ。だよなあ。変だと思ったんだ。という納得の気持ちしか抱けない。
(デートもろくにしなかった理由はそれかあ……)
ばっかみたい。
十年ぶりの彼氏とか浮かれていた自分に舌を出す。
給湯室での猥談はますます露骨になるも、諒は黙り込んだままだ。
「おい、もったいぶってないで教えろよ。どういう具合だったんだよ」
どういう具合もこういう具合も、セックスそのものをしていないのだから、諒に答えられるわけがない。
お生憎様。とそこだけほくそ笑んでいると、ちっと鋭く舌打ちの音が鼓膜に届く。
「うっせえなあ。……思い出したくねえぐらい引いたわ。あのビッチ。自分からズボン下ろしてしゃぶるは、またがるわ。どんだけ欲求不満なんだよ。そのくせゆるゆるで気持ちわりぃし」
は? と元恋人となった諒の台詞に目を丸くする。
頭の中が真っ白になる。なにを言われているのだろう。
恋愛に縁がなかったものの、陽香も二十六歳の成人女子だ。諒の愚痴が行為の過程に関するものだとあてはつくが、それは一体誰の肉体に対する印象なのか。
少なくとも自分ではない。未経験の処女なのだから。
適当に知ったかぶっているだけだろう。少し考えればわかる。だけどそうまでして貶(おとし)められる理由がどこにある。
浮気をしたことが悪い。婚約者を寝取った女が悪い。そういう論理だろうと推測もできる。けれど、それならせめて、陽香の無罪主張を一度でも聞いてからにするべきじゃないのか。
(……ああ、違う)
その場しのぎの間に合わせ、次が見つかるまでのつなぎ。
出張先で買った数百円のネクタイか使い捨て下着と同列でしかない陽香の言うことなど、諒に聞く気があるわけもない。
適当に使ってあとはポイする予定だったのに、予想外に早く〝ダメになってしまった〟のだから、事実をねつ造して貶しているのだろう。
そうだ。という風に、別の男性社員が合いの手を入れる。
「いやでも、これで堂々と今夜の合コンに参加できんじゃねえ?」
「そうそう。だから今夜は頼むぜ。ほんと。マジ期待してる!」
不機嫌な口調を一変させて、諒が笑うと、周りもどっと笑って合いの手を入れる。
「まかせとけって。あんな地味ビッチみたいなハズレ、そうそういないから」
「仕事ができるし、浮気しても怒らなさそうだからって、手近なところで妥協しすぎたんだよ」
悪気も他意もなく、陽香の人格を踏みにじる様子にふつふつと腹の底に怒りが溜まる。
悔しいのか辛いのか、よくわからない感情で手が震え、瞬きを忘れた目が熱く潤んでいく。
「ばっ……」
馬鹿にしてるんじゃない! そう叫ぼうとした時。
空気が揺れ動く気配がうなじをかすめ、すぐ側(そば)で革靴の踵が床を踏み切る音がした。
ついで黒くてしなやかなものが顔の横を走り抜け、次の瞬間、口と腰に絡みつく。
男の腕だ。気付いて、本能的な恐怖に襲われもがこうとした途端、耳元で静かに囁(ささや)かれる。
「申し訳ないけれど我慢して。……あんな奴らと同じ土俵に乗って戦うほど無駄な時間はない」
柔らかく落ち着いた声で願われ、返す早さで諒たちの下劣さを切り捨てる。
低く、鼓膜に触れるだけでどきりと胸が弾む美声に虚を衝(つ)かれ、息を止めていると、男は脇道にあった非常階段へのドアを開け、そっと――まるで危うげな幼子を誘導するような丁寧さで、陽香を引き込む。
階段しかない空間へ移動すると同時に鉄(てっ)扉(ぴ)が閉まり、小さな金属音を立てたが、仕事をさぼって雑談に励む男性社員らには届かなかったようだ。
特に誰に気付かれることもないまま、一分、二分と時間が経過し、扉越しに男性社員たちが去っていく足音が聞こえだす。
背後から抱き押さえ、口を塞がれるという異常状態に混乱していた陽香の頭も、非常階段の空気に当たるうちに徐々に冷えてきた。
呼吸が落ち着いてきたのを察知したのか、声を漏らさせまいと押しつけられていた男の手が浮き、同時に腰を抱いていた腕の力も緩み、二人の間に隙間ができる。
途端、ふわりと空気の流れが起こり、不思議な香りが鼻(び)腔(こう)をかすめた。
涼やかでドライな印象を含む香りだが、ほこりっぽさは一つもない。
どころか呼吸を重ね嗅ぎ慣れていくにつれ、清涼でツンとした――針葉樹を思わせる芳香となる。
スマートで都会的なオーデコロンの匂いではあるが、すんっと深く吸い込んだ時だけ嗅ぎ取れるアンバーの重厚さが、都会特有の軽薄さを押しのける。
ふと、頭の中に薄暗いバーの光景が浮かぶ。
限られた上質な男にだけ許されるセピア色の店内。聴覚の限界を試すようなクラシックのBGM。
会話は囁きだけで行われ、グラスに揺れる酒は、琥(こ)珀(はく)色を帯びた上質なもので、飲まずとも香りだけで非日常に酔える。
――そう。この一瞬で陽香の意識を非日常へいざなったように。
(こんな香りをする人、知らない)
どきりと跳ね、速さを増していく心臓を手で押さえ、音を立てないように吐息をこぼす。
背にあった男の身体が離れたのが熱でわかる。
安(あん)堵(ど)するべきなのに、どうしてか心が騒ぎ、陽香は思わず身震いする。
だが、不快なものではない。逆に、肌が粟(あわ)立(だ)った場所から心地よい興奮と熱が宿る。
未知の感覚に言葉を失っていると、陽香を男たちの侮蔑から引き剥(は)がしてくれた腕が肩を軽く叩く。
「大丈夫か」
「あ、はい……。ええと、ありがとうございました」
ひとまずお礼を告げながら振り向く。
非常階段に引き込まれる直前は、なぜ邪魔をするかといらだったが、落ち着いて考えれば彼の言に理があるとわかったからだ。
あの場で、馬鹿にするなと怒鳴り込み、元彼――諒の言ったことはデタラメだと主張してもなにもならない。給湯室で雑談に興じていた男性社員らは、端(はな)から陽香を尻軽な愛人女と決めつけていた。
ただでさえ立場が悪いところに、誤解であるという証拠も出せぬまま陽香が騒げば、ほらみたことか。やっぱりあの女は悪女だ。本当のことを言われたから逆上したのだと悪い噂を上塗りされただろう。
そうなれば、ますます夢から――調香部門への異動が遠のく。
(今更、かもしれないけれど)
苦笑しつつ振り返る。あらためてきちんとお礼をと考えたからだ。
だけど、男と向かい合った途端、お礼の言葉を言うどころか頭を下げることすら失念してしまう。
まるでギリシャ神話の若い神を具現化したような美貌が、目の前に現れたからだ。
いや、正確には現れたというのは違う。
振り返ったのは陽香だし、見上げた行為も自発的なものなのだから、〝見た〟というのが正しいだろう。
だけど、心情的に〝現れた〟としか言いようがなかった。
すっきりと秀でた額と綺麗な線を描く鼻梁(びりょう)。頬骨は高いが険しすぎず、耳の付け根から顎の線は、つい指を添わせたくなるほど流麗だ。
薄いけれど形のよい耳殻としっかりと結ばれた凜々(りり)しい唇。なにもかもが完璧な比率で配置されている顔に、白く滑らかな肌とさりげなく流し整えた栗色の艶髪がよく似合っている。
しかし一番印象的なのは男の目だ。
伏せがちなまぶたの奥に宿る、黄金がかった琥珀色の瞳が印象的で視線が外せない。
目を奪われるというのは、こういうことなのだ。陽香は心底思い知る。
顔立ちが美しいとか、日本人離れしているとか、そんな陳腐な理由を超えて、彼の瞳の色や輝きに――そこに宿る、決然とした意志の存在に心を奪われ声が出ない。
黙り込んでいる陽香が気になったのか、男は、困ったような面持ちをして見せた後に、陽香の頬へと手を伸ばす。
蛹(さなぎ)から羽化したばかりの若い蝶に、触れていいかどうか迷うように、男の指先がかすかにわななき、そして陽香の目元から頬へ、つぅ――っと滑る。
白い肌に覆われた長い指が肌に触れた途端、自分のものでない熱に身が震え、一拍置いて頬に血が集(つど)いだす。
(うっ……わぁ)
心の中で悲鳴を上げると同時に、陽香は焦り顔を逸らす。
初恋の男の子に見つかった小学生のような反応だ。まるで大人の女じゃない。そうわかりつつも、どうしても自分を助けてくれた男に顔を――怒りに泣きわめく寸前だった、みっともない表情を――見られたくなかったのだ。
「すっ、すみません。あの」
なにを言えばいいのか。自分でもよくわからないまま一歩下がる。
途端、また二人の間で空気の対流が起き、今度は強く甘い――花の芳香が鼻腔を満たす。
薔薇に鈴(すず)蘭(らん)、そしてピオニーと呼ばれる芍(しゃく)薬(やく)を束ねた香りは、若い軍神のような男にはまるで不似合いで――女性の優美さと上品さばかりが主張されていた。
のぼせかけていた頭に理性が戻ってくる。
(なんだ、残念)
身勝手な事を思いつつさらに男性から一歩距離を取る。
恋人か妻か知らないが、残り香が移るほど親密な女性がいると気付いたからだ。
これ以上、評判が落ちることなどないとわかっていても、やはり、心理的にはまだどこかで、自分の無罪を訴えたい。信じてほしいとの気持ちはあった。
さりげなく距離を取った陽香を見て、男性は二、三度口を開閉させ、それから取り繕うように咳(せき)払(ばら)いした。
「すまない。不躾(ぶしつけ)に触れすぎたかな?」
この続きは「人違いで解雇されましたが、極上御曹司に拾われ溺愛されたので幸せです!」でお楽しみください♪