書籍詳細
王妃のプライド 1
ISBNコード | 978-4-86669-435-1 |
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サイズ | 四六判 |
定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2021/10/15 |
レーベル | ロイヤルキスDX |
お取り扱い店
内容紹介
人物紹介
ティルダ
大国ローモンドの王女。ローモンドから独立したばかりのアシュケルドに同盟の証として嫁ぐが、忘れられた王妃として不遇を強いられる。
カーライル
複数の部族をまとめるアシュケルドの王。父をローモンドの王に殺された。ティルダを傷つけたことを深く反省し、償おうとする。
立ち読み
1 プロローグ
アシュケルド城、離れの館の一室、石壁に美しいタペストリーがかけられたその部屋で、アシュケルド王妃ティルダは一言も口を利かずに食事を口に運んでいた。
鼻が高く怜悧な印象を与える横顔は、正面から見ると十八歳らしい幼さの残る顔立ちになる。肌は雪のように白く、女性らしい柔らかな曲線を描く顔の輪郭。化粧をしているわけではないのに唇は紅く色付いていて、長くてたっぷりとしたまつげが陰影を落として、アイスブルーの目を強調している。亜麻色の細い眉。眉と同色の艶やかな髪を、一本の三つ編みにして左肩から垂らしていた。
頭上に輝くのは、青の宝石がはめ込まれた銀のサークレット。母の形見で、母国ローモンドから持ってきたものだ。
身に着けているのは、アシュケルド女性のチュニックワンピースではなく、ローモンドの貴婦人がよく着用する、絹でできた女性用ブリオー。袖は椅子に座ると床につくくらいに長く垂れ、身頃は背中で紐綴じすることで、豊かな胸を持つティルダの身体にぴったりと沿っている。腰のところまで引き絞られたブリオーは、その下に細かい襞ができ、床に引き摺るほど長いスカートに優美なドレープを生み出した。
ティルダの所作も優美だ。十二の年までローモンド王女として作法を叩き込まれてきた。
硬いパンをちぎって質素なスープに落とし込み、野菜や肉の欠片と共にスプーンですくう姿でさえ、まるで洗練された食事に口をつけるかのように上品だ。
白いリンネルのテーブルクロスがかけられた縦長の食卓には、その他にも、肉や魚を焼いたり蒸したりしたものや、新鮮な野菜や果物、卵やはちみつをたっぷり使った焼き菓子など、アシュケルドでは最上級の料理が所狭しと並んでいる。が、ティルダは硬いパンと質素なスープ、それに湯冷ましで薄めた果実酒しか口にしようとしない。
斜向かいに座る夫、アシュケルド王カーライルは、贅沢な料理のほうに手をつけながら、頑ななティルダの態度に困った笑みを浮かべた。
緩やかに波打つダークブロンドの髪。切れ長の目にヘーゼルの瞳。通った鼻は高く、髭は生やしていないが野性味のある精悍な顔立ちをしている。アシュケルドの民の中でも大柄なほうで、小柄なティルダは彼の胸辺りまでしか身長がなく、肩幅は倍近く違う。六年の歳月を経て二十九歳となったカーライルは、以前にも増して男らしい。
腿の中ほどまである長袖チュニックに生成りのブレーを履き、ブレーの裾の上に革のゲートルを巻いて革靴に留めている。チュニックの腰には革のベルトの他に剣帯もつけているが、剣は今、空いている椅子に立てかけてあって、その椅子には喉元に留め金のある膝丈のマントが掛けられている。
アシュケルドでは騎士の装いであるそれらを王であるカーライルも身に着けているのは、彼が今なお戦場で戦う戦士だから。
アシュケルドは、六年ほど前にローモンドから独立したばかりの新しい国だ。
独立の際に結ばれた同盟には、「同盟国に有事ありしとき、救援の要請あれば兵を出し加勢すべし」という条項がある。それを理由に、ローモンドは安易に加勢を求め、カーライルはそのたびに兵を率いてローモンドに赴いた。
その他にも、カーライルは何かと口実を作っては城を空けた。この六年間、城にいた時間より、外に出ていた時間のほうがずっと長い。
なのにこのひと月、カーライルは一歩も城の外に出ず、時間のある限りティルダと共に過ごそうとする。
カーライルは飽きもせず、ここ一カ月近く毎日毎食繰り返している言葉を口にした。
「他の料理も食べてみないか? 美味いぞ」
言うだけでなく、取り皿によそって差し出してくるものを、ティルダは眉をひそめて一瞥した。
「……要りません」
言わなければ、今手にしているパンやスープを取り上げてまで食べさせようとする。
それがわかっているから仕方なく口を開けば、何が嬉しいのか、カーライルは相好を崩した。
「そなたが粗食を重んじることはここ一カ月でよく理解したが、たまには滋養のあるものを食べないと良い子を産めないぞ」
冗談めかして言うカーライルを、ティルダは怒りを込めて睨みつけた。
「わたくしには関係ありません」
結婚してから六年間、カーライルに蔑ろにされて味わった屈辱と苦難。今更優しくされたからといって、忘れることなどできない。
数多の苦難を乗り越えられてきたのは、一つの矜持を支えにしてきたからだった。
ティルダは、十二の歳にアシュケルドへ嫁いできた。にもかかわらず、結婚式の翌日から六年もの歳月、夫と一度も顔を合わせたことがなかった。
夫は結婚式を終えると、すぐに妻の存在を忘れて愛人を自分の寝室に引き入れた。妻に一言もなく城を空け、帰ったら帰ったで妻に会いにこようともしない。
王たる夫に顧みられないティルダに、与えられた離れの館以外に居場所はなかった。『ローモンドのお姫さん』と揶揄され虐げられたティルダに、王妃としての立場などあるはずもない。
王族の誇りを教えられて育ったティルダは、泣き寝入りを選ぶなど矜持が許さなかった。幼いながらも策を講じた。その策を実行するにあたって、ティルダは己の矜持を守るため、一つの誓いを立てた。
夫たる王に、決して身体を許さぬと。
その誓いが守られなければ、ティルダの立場は地に落ちてしまう。カーライルがこれまでのティルダへの仕打ちを悔い、心を入れ替えてもそれは同じだ。
今頃になって、王に王妃らしい扱いをされたって遅い。
ティルダは自らの矜持のため、その誓いを絶対に破れないのだ。
六年の歳月の間に変わったのは、カーライルだけではない。むしろ、ティルダのほうが大きな変化を遂げていた。十二歳の稚い少女は十八歳の大人になり、固いつぼみが膨らみ大輪の花を咲かせるように、見目麗しい女性に成長した。
一カ月前、六年ぶりに再会したカーライルは、欲望にぎらついた目で舐め回すようにティルダを見た。そんなカーライルに自尊心を慰められるのと同時に、大の大人が好い様(ざま)だとほくそ笑んだ。どんなに謝罪されようが機嫌を取られようが、決して許さない。指をくわえて見ているがいい、と。
ここ一カ月、ティルダは夫を拒絶し続けてきた。
妻とはいえ、王が小娘にここまで虚仮にされたら腹の一つも立てそうなものだ。なのにカーライルはティルダの拒絶を許し、相変わらず強固な壁を崩そうとしない彼女を面白がっているようにさえ見える。
この一件に関してはティルダのほうが優位に立っているはずなのに、拒絶されても平然とした様子で食事を続けるカーライルを見ていると、落ち着かない気分にさせられる。
無視するのも耐え難くなり、ティルダは断固とした口調でカーライルに告げた。
「どれほど機嫌を取られようと、わたくしは貴方と褥を共にするつもりはありません」
すると、カーライルは残念そうに言った。
「どうあっても俺を許す気はないか」
「もちろんです」
ティルダはきっぱりと言い返した。どんなに謝罪されようとも、カーライルの逆鱗に触れたとしても、ティルダは己の意思を曲げるつもりはないのだから。
決意を込めて睨みつけると、カーライルは俯き溜息をついた。
「ならば仕方ない」
これを聞いて、カーライルは諦めたのだとティルダは思った。知らず詰めていた息を吐く。そろそろ懐柔策を捨て強攻策に出るのではないかと警戒し通しだったので、思っていた以上に神経をすり減らしていたらしい。
これで、カーライルはまたティルダに見向きもしなくなるだろう。それでいい。もはや和解という選択肢がないのだから、互いに今まで通り暮らせば良い。
だが、ティルダは読み違えた。
カーライルは顔を上げながら、不敵な笑みを浮かべる。そしてヘーゼルの瞳を挑戦的に煌めかせ、こう宣言した。
「王妃よ、よく聞け──我々の婚姻は両国の同盟の証。我らが真の夫婦にあらざる今、同盟は締結されたとは言えない」
2 十二歳の花嫁
アシュケルド王国は、六年前にローモンドから独立したばかりの新しい国だ。
古くは、盆地の平野部に居住していた一部族に過ぎなかったところ、次第に勢力を伸ばして周辺の九部族を従え盆地と周辺の山々を支配した。
だが、それから程なくして、南方で勢力を拡大していた大国ローモンドに攻め込まれる。当時圧倒的な力を誇っていたローモンドには太刀打ちできず、アシュケルドと九の部族は、アシュケルドという一豪族としてローモンドに下った。
その後、長い年月が過ぎ、大国の名に胡座をかいていたローモンドは、次第に衰退してゆく。侵略をやめた軍は、時代が下るにつれて弱体化し、搾取されるばかりの支配に耐えかねた豪族たちは、独立を求めて次々蜂起する。反乱が起こるたびに鎮圧のための兵を駆り出されていたアシュケルドも、ついに反旗を翻した。それが、カーライルの祖父の代のことである。
戦いは二十年以上の長きにわたって続いた。その間に大勢の犠牲が出た。カーライルの父と祖父もそのうちの二人だった。
戦死した父の跡を継いでアシュケルドの長となったカーライルは、長の死によって動揺する兵をまとめ上げ、戦略を用いてローモンド軍を次々撃破した。そのせいで大きく戦力を減らしたローモンドは、アシュケルドのみならず、反乱を起こした他の豪族たちの独立も認めた。
独立の際には、各国とローモンドの間で同盟が結ばれた。
同盟が結ばれた直後、十二歳だったローモンド王女ティルダは、その同盟の証として、アシュケルド王国の若き王、カーライルのもとに嫁ぐことになった。
* * *
十二歳になったこの年、ティルダは初めて異国の地を訪れた。ただ訪れたわけではない。これからこの国で暮らすことになる。
ティルダの心は不安でいっぱいだった。
ローモンドがアシュケルドの独立を認めてからひと月足らず。その直前まで行われた戦いの記憶は、未だ鮮明にアシュケルドの民の記憶に残っているはずだ。近親者を戦いで亡くし、ローモンドを恨んでいる者もいるだろう。その恨みは、十中八九ローモンドの王女であるティルダに向く。同盟の証として嫁いできたティルダに危害を加える者はさすがにいないだろうけれど、憎しみを向けられることは覚悟しなくてはならない。
そういった意味では敵国に嫁ぐようなものなのだが、ティルダには頼りにできる者が誰一人いなかった。
母は数カ月前に亡くなった。婚姻の話を聞かされたのと同時に、それまで仕えてくれていた者たちからも引き離された。父ローモンド王が選んだ侍女たちに始終監視されながら、ティルダは馬車に押し込められ、追い出されるように母国を出た。
国境のある緩やかな峠を越えると、開けた盆地が見えてくる。その盆地と、周囲を取り囲む山々が、アシュケルドの領土だ。
開けているといっても、盆地の底は起伏に富んでいる。それをいくつも乗り越えて、盆地のやや中央にある堅牢な城に辿り着いた。
小高い場所にあるその城は、入り口が狭くてローモンド製の馬車は通ることができなかった。仕方なく門の外で馬車を降りると、老齢の男性に出迎えられた。
黄色味がかった白髪、面長の顔には深い皺が刻まれた、少し腰の曲がった男性は、ティルダに礼儀正しく挨拶した。
「城代のホプキンと申します。カーライル様はあいにく城を空けておりまして、私がティルダ様のお世話を仰せつかっております。なんなりとお申しつけください」
小さなティルダに配慮するように、城代は何度も振り返りつつゆっくりと歩いた。
跳ね橋を渡り、石造りの城壁にぽっかりと空いた城門をくぐる。城壁の中には、これまた石造りの建物がそびえ立っていた。
「これがアシュケルド城本館になります」
簡単に説明しながら、城代はその建物に入っていく。
入ってすぐ、三方に通路が分かれた。正面の広めの通路と、左右の細い通路とに。城代は左手の細い通路へと入っていく。その通路は天井も低く、昼間だというのに暗くて不気味だ。身がすくむような怖さを覚えるが、これからは慣れていくしかないのだろう。そう思いながら突き当たりの角を右に曲がると、少し先に光が見える。十歩ほども進めば、狭い通路を抜けた。
そこは、石の柱で天井を支える回廊になっていた。廊下に四角く囲まれた場所は畑になっていて、様々な野菜が植えられている。
今まで住んでいたローモンドの離宮では見られなかった光景に気を取られていると、城代に「こちらです」と声をかけられた。
振り返ったティルダは、目を瞬かせた。
廊下を挟んだ中庭の反対側には、野の花の寄せ植えと思われる花畑があったからだ。広さは寝台一つ分といったところだろうか。種類も花の高低もばらばらで、言ってはなんだが、計算されて整えられた、母国の広い花壇と比べてみすぼらしい。
何故このようなものがあるのか。ティルダは幼い顔に困惑を浮かべ立ち止まる。
花畑を見つめるティルダに気付いて、城代は振り返った。
「この花壇は、カーライル様の指示で急遽作られたものです。ローモンド人は広大な庭に花や木を植えて散歩をしながら花を愛でるそうですが、アシュケルドにはそのような風習はないもので。少しであっても身近に花を愛でられる場所があれば、母国を遠く離れたティルダ様も心慰められるのではないかという、カーライル様のご配慮です」
それを聞いて、ティルダはみすぼらしいなどと思った自分を恥じた。この花畑は、アシュケルド王の歓迎の印なのだ。ティルダを元敵国の王女ではなく、同盟国の王女として扱ってくれるようだ。そのことが嬉しくて胸が詰まる。
「カーライル王に使いを出すことがあれば、わたくしからの伝言もお願いしたいです。お会いしたときに改めてお礼申し上げますが、『お心遣いに大変感謝しております』と」
城代は目を細めて微笑んだ。
「ティルダ様が無事到着なさったことをお報せしようと思っておりますので、その際にティルダ様のご伝言も届けるようにいたしましょう。──花壇は後からでもご覧いただけます。長旅でお疲れでしょうから、先にお部屋へご案内いたします」
城代に先を促され、ティルダはもう少し見ていたい気持ちを抑えて、後に続いた。
離れの館は、どこかローモンドを思い起こさせた。本館と同じ石造りだが、窓が大きい。中に入ってみると、間取りは広く、天井も高かった。
「ご結婚までの六日間は、こちらの館でお過ごしいただくよう、カーライル様から申しつけられております。この館は、五代前の当主が建てたものです。大事な客人をもてなすために、ローモンドの建築様式を真似たものです」
道理で目に馴染むわけだ。館の中を案内されながら、ティルダは幾分気が楽になる。これから六日間は、本館の不気味さに怯えて過ごさなくていいというわけだ。
ティルダが強張っていた表情を和らげたのに気付いてか、城代は朗らかに言った。
「ローモンドと全く同じというわけにはいかないでしょうが、快適にお過ごしいただけるよう、城の者一同お世話させていただきます。今日はゆっくりお休みいただき、明日にでも城内を案内いたしましょう」
翌日、ティルダは侍女を一人連れて、城代に城を案内してもらった。
アシュケルド城は要塞で、敵が攻めてきたときには近隣に住む民もこの城に立て籠もって戦うのだそうだ。畑は万一籠城することになったときのために常に何かを植えていて、平時は城で出される食事に使われるだけでなく、十日に一度開かれる市場でも売られているという。畑の他に鶏や牛などの家畜も育てていて、それらの場所を最初に見せてもらい、それから本館の中に入った。
どこもかしこも石でできていて、窓が小さいために薄暗い。大広間は天井が高く、詰めれば数百人が入れそうなくらいに広いが、通路はやはり狭くて圧迫感を感じる。階段は狭いうえに急で、一階の案内が終わって二階に上がる際、ティルダは怖々と上った。
二階には集会室と、客室がいくつか並んでいた。その途中、三階に上がる階段の前で城代が立ち止まる。
「この上が王の執務室と私室になっていて、ご結婚の後はティルダ様にもこちらにお住まいいただくことになっています」
そう言って上がっていかずに通り過ぎようとした城代を、ティルダは遠慮がちに呼び止めた。
「あの……踊り場に飾られたあの肖像画はどなたの……?」
これまで案内された場所にも肖像画はいくつか飾られていたが、その肖像画だけは別物だった。
他の肖像画が胸のところまでしか描かれていなかったのに、その肖像画は足先まで描かれた等身大と思われるほど大きな画だった。
城代は戻ってきて、嬉しげに説明する。
「ああ、あれはカーライル様の肖像画です。肖像画家がカーライル様を描く際に、『美しいお身体をしていらっしゃるのに、それを描かずはもったいない』と懇願し、カーライル様がそれをお許しになったのです。そこに飾ってあるのは、侵入者を防ぐためです。ご本人ではないにしろ、カーライル様が見下ろしている階段を許可なく上る愚か者はいまいと仰って。城の者たちは恐れ入って無闇に近付きませんし、客人は階段の先を見てぎくっと立ち止まります。画家の腕が良かったせいもありますが」
「……近付いて見てもよろしくて?」
「ええ、どうぞ」
気もそぞろに許可を得て、ティルダは魅入られたように階段を上がり、踊り場に立って肖像画を見つめた。
そこには、若い男性が描かれていた。
ダークブロンドの髪。切れ長の目にヘーゼルの瞳。通った鼻は高く、髭は生やしていないが野性味のある精悍な顔立ちをしている。
身体も、画家が頼み込んで描かせてもらったのがわかるくらい立派だった。
アシュケルドの伝統的な衣服だろうか。短い毛織物の臀部を覆う長さしかない袖なしのチュニックに、下はブレーを穿き、編み上げ式の短靴を履いている。ゆったりと着こなすもののようだが、その衣服の下に均整の取れた逞しい身体があることは、絵画からよく見て取れた。肩や胸は筋肉で盛り上がり、腰に向けてすっと引き締まる。腿は驚くほど太く、筋肉の筋が浮かび上がるほどブレーを圧迫している。アシュケルド王は、手前の地面に突き刺している大剣の柄に両手を掛けている。その手は大きく、この絵画が実物大であれば、ティルダの頭を一掴みにできそうだった。絵画なのだから、実物より多少見栄えよく描かれているということもあるだろう。だが、それを割り引いても、きっと美しい姿をしているだろうと察せられた。
ローモンドの王侯貴族のように洗練されていない、野蛮な姿。その荒々しさにティルダは恐れを抱きながらも、何故か惹きつけられていた。この男性が自分の夫になるのだと思うだけで、頰が熱くなり、心臓が早鐘を打つ。
そろそろ次の場所へご案内しましょうと城代に言われるまで、ティルダはしばしの間、その肖像画に見入っていた。
それから五日経っても、アシュケルド王は戻ってこなかった。
結婚式は明日に迫っているというのに、いつ帰るという連絡もない。
けれどこの日、結婚式の準備は大詰めを迎えていた。染み一つないリンネルや大鍋、たくさんの花などの荷物が城内に運び込まれ、人々の間で結婚式がどうのこうのという会話がひっきりなしに交わされている。
ティルダと共にアシュケルドに残った四人の侍女たちも、母国から持ってきた花嫁衣装の手入れやアシュケルドの者たちとの打ち合わせなどで大わらわだった。
ティルダは彼らの手を煩わせないよう、離れの館前にいると告げ、付き添いを断って外へ出た。
特にすることのないティルダは、ここ五日間、頻繁に花壇を眺めて過ごした。ティルダのために作られたという花壇を見ていると安心するからだ。
ティルダの考えていた通り、アシュケルドの民に簡単には受け入れてもらえそうもなかった。現在、城の中で好意的に接してくれるのは城代だけで、他のアシュケルド人はティルダを避けた。ティルダに気付くなりそそくさと立ち去ったり、離れたところで数人集まってティルダを見ながらこそこそ内緒話をしたり。歓迎とは程遠い彼らの態度に傷付いても、花壇を見れば心落ち着かせることができた。
聞けば、アシュケルドは草花の豊かな土地ではなく、遠方にまで足を運んで咲いている花を見つけだし、根ごと土ごと掘り起こして集め、寄せ植えたのだという。野に生えている草花を短期間でこれだけ集めるのには、多くの人手を割いたことだろう。戦いが終わったばかりで、真っ先に国を立て直すべきときにここまでしてくれたのだから、少なくともアシュケルド王はティルダを歓迎してくれている。そんな王が城に戻れば、ティルダに対するアシュケルド人たちの態度も少なからず改善されるに違いない。
花壇の側に用意してもらった小さな腰掛けに座り、アシュケルド王の帰りを待ちわびる。
日が西に傾き始めた頃、城門のほうから騒がしい声が聞こえてきた。ティルダが到着した日は本館を通って離れの館に案内されたが、実は城壁沿いの脇道を使えばさほどかからずに行き来できる。
何があったのだろうと思って立ち上がったそのとき、城門と離れの館を隔てる建物の陰から、一人の男性が姿を現した。
午後の日差しを浴びたダークブロンドの髪が、風を切って歩く彼の頭上でなびく。逆光によってよく見えなかった顔は、彼が近付いてくるにつれてはっきりとしてきた。
切れ長の目をした、野性味のある精悍な顔立ちをした男性。
一目でアシュケルド王だと思ったものの、ティルダはすぐに考え直した。肖像画と比べて肩幅が広く、洗練された雰囲気がある。別人かもしれないと思いつつも、他人の空似にしては似すぎているとも思う。
ティルダがまごついているうちに、その男性はすぐ側まで来ていた。そして身を屈め、小柄なティルダの背中と腿に腕を回して抱え上げる。気付けば男性の左腕に座り、彼の首にしがみついていた。
心臓が高鳴るのは、自分を軽々と抱き上げた男性の力強さに、圧倒されたからだけだろうか。
一体誰なのだろう。混乱するティルダの耳に、焦ったような城代の叫びが聞こえてきた。
「カーライル様!」
ティルダは首にしがみついていた腕を緩め、身体を少し離して男性をまじまじと見た。
この人物が、本当にアシュケルド王なのだろうか。信じられない思いで見つめていると、彼は精悍な顔にぱっと太陽が輝いたような笑みを浮かべて言った。
「ははっ、驚かせてしまったか。遠路はるばるよく来たな。お前の姉様はどこだ?」
ティルダは再び戸惑った。姉などいない。兄が一人いるだけで、その兄はローモンドにいる。
彼は一体なんの話をしているのか。
城代の叫びがまた響いた。
「カーライル様、違います! その方がティルダ様です!」
それを聞いた瞬間、彼の笑顔が凍りついた。まじまじとティルダを見たかと思うと、そっと下ろしてから城代を振り返る。
「どういうことだ、これは!? ちっぽけな子どもではないか!」
その怒りの咆哮は、ティルダを震え上がらせ、物見高い人々をこの場に多く集めることとなった。
城代は王を宥めながら、集まってきた者たちに仕事に戻るよう言った。そしてティルダのお付きの者たちに、ティルダを離れの館へ連れていくよう指示を出す。
促されるまま離れの館に入っていくティルダの耳に、王の憤った声が届いた。
「子ども相手に結婚し、世継ぎを産ませよと!? ふざけるな!」
王は、ティルダの年齢を承知の上で結婚に同意したわけではないらしい。
王族の結婚は、ほとんどが政略的なものだ。同盟や友好、時に人質代わりに婚姻を結ぶ。だが、政略結婚が必要なタイミングに、適齢期を迎えた男女が揃うとは限らない。そのため、ティルダくらいの年齢の王女が、政略の駒として他国に嫁ぐことなどままあることだ。
相手が承知ではない事実が含まれるこの結婚、一体どうなるのだろう。
居室に籠もって不安を募らせていると、城代が人を使って一枚の絵を運んできた。
「これは母様の肖像画。何故これがアシュケルドに?」
そのことが思いがけず、ティルダは動揺してつい責めるような口調になってしまう。
城代が悪いわけではないだろう。けれど、城代は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ローモンドから送られてきたのでございます。ティルダ様の絵姿だという手紙が添えられて」
ティルダは唇を噛んで苦い思いに耐えた。
アシュケルドに経つ数日前に、亡くなった母の肖像画を父に取り上げられたのは、このためだったのだ。
父は母の肖像画をティルダだと偽り、ティルダの年齢をアシュケルドに報せなかった。
肖像画を見て結婚を承諾したのなら、王が怒るのも無理からぬことだ。妙齢の女性が嫁いでくるのだと思っていたのに、到着したのは小さな子どもだったのだから。
城代は遠慮がちに言った。
「カーライル様は、まだ子どもであるティルダ様を利用したローモンド王に、腹を立てただけです。ティルダ様のことは、大層気にかけておいででした」
「そう、ですか……」
とてもそうは思えなかった。ショックを受けたティルダを慰めようと、城代が耳触りのいい言葉を選んで話しているとしか。
城代を寄越したということは、王はティルダに会いに来ない。王が城代に伝言を託した様子さえない。
ティルダは、涙を堪えて訊ねた。
「明日の結婚式はどうなりますか?」
城代は驚いた様子で答えた。
「もちろん、予定通り行われます」
もちろん……それはそうだろう。二人の結婚は同盟の証。アシュケルド王に不服があろうとも、取りやめなどしたら、同盟のみならず独立の話もなくなってしまうかもしれない。
心配せずとも、結婚がなくなるわけがなかったのだ。
「わかりました。──母の肖像画は、この部屋のどこかに掛けておいてくださる? わたくしは、明日のために少し休みます」
ティルダはそう言って、居室を後にした。一人になりたかった。情けない顔を誰にも見られないように。ローモンドの王女として生まれ育った矜持が、他人に弱味を見せることを許さなかった。
寝室に向かいながら考える。
アシュケルドの独立は、ローモンドにとっては歓迎できない事態だった。やむを得ず独立を許すことになったが、父王は不本意だったに違いない。
父は、自分に似た兄を可愛がり、母に似たティルダには僅かな愛情もかけたことはなかった。それでも他国を侮辱するための道具にされるほど、ティルダは疎まれているとは思ってもみなかった。
ティルダが意図したことではないとはいえ、侮辱を受けたアシュケルド王はティルダに好意的ではいられないだろう。結婚そのものはなくならないけれど、昨日まで希望の光が見えていた将来に、暗雲が垂れ込めてくる。
抱き上げてくれたときに見た、彼の輝かんばかりの笑顔。あの笑顔が二度とティルダに向けられることはないと思うと、泣きたくなるほど悲しかった。
翌日の結婚式は、祝い事に似つかわしくない、緊張を孕んだものとなった。
儀式の間中、花婿は花嫁を見なかったし、花嫁は花婿の不機嫌を感じ取って始終俯いていた。
列席者が、花婿の半分ほどの年齢しかない花嫁に視線を送っては、隣同士ひそひそと囁き合っている。そのことも、花嫁を萎縮させる一因となっていた。
続く宴会では、列席者が歌い踊り旅芸人が芸や楽を披露したが、場は一向に盛り上がらなかった。
原因は上座に座る二人だ。王は不機嫌そうに酒を飲み、ティルダはその左隣で身を固くしていた。並べられた料理にも、杯に注がれた果実水にも手をつけられない。
ティルダの頭の中は、先刻のことを後悔する気持ちでいっぱいだった。
──アシュケルドの結婚式は、花婿と花嫁が揃って祖先の墓に結婚の報告をするというものだ。そのため、墓前に二人一緒に向かう。
昼下がりにカーライルが迎えに来ることになっていたので、ティルダは支度を調えて離れの館二階の居室で待っていた。
小さいサイズながらも、ローモンドの伝統的な花嫁衣装を身に纏って待っていたティルダは、カーライルが広間に入ってくるなり、呼吸をすることも忘れて見入ってしまった。
豪華な黒い毛皮のマントを肩に着け、額飾りの左右に大きな茶色の飾り羽。アシュケルドでは花婿自らが狩った獲物で装飾品を作り、結婚式の際に身に着けるという風習がある。マントも飾り羽も、王が身に着けるのに相応しい、見事なものだった。それらと、宝玉があしらわれた上等なチュニックを身に着けたカーライルは、昨日の旅装や踊り場に飾られた肖像画のような簡素な服装とは違って、花婿らしい美しく威厳ある姿だった。
ティルダはその姿に圧倒され、しばし我を忘れた。
現実に戻ったのは、カーライルに声をかけられたからだった。
「参ろう」
夢から覚めるように我に返ったティルダは、掠れた声で返事をした。
「……はい」
カーライルが踵を返して居室を出ていった。ティルダは慌てて後を追う。
階段に差しかかったところで、カーライルはふと振り返った。
「手を……その裾では転びやすいだろう」
差し出された手に、ティルダは信じられない思いで自らの手を重ねた。
気遣ってもらえるなんて思ってもみなかった。昨日あれほど怒っていたのだから、好意的な態度など取ってもらえないものと。
もう一方の手で裾を引くスカートを持ち上げ、慎重に階段を下りる。カーライルはティルダの足元に目を向けて、安全に気を配ってくれている。
思っていたように嫌われていなかったと感じ、嬉しかった。潰えたと思っていた希望が、再び膨らんでくる。
だから迂闊なことを口にしてしまった。
階段を下り切ったところで、ティルダはカーライルを見上げた。
「ありがとうございました──あっ、あの、母の肖像画を返してくださったことも──」
その瞬間、カーライルは息を呑んで、振り払うようにティルダの手を離した。そして顔を背け、さっさと歩いていってしまう。
小走りで後をついていきながら、ティルダは失敗したのだと悟った。
カーライルの態度を見ているうちに、つい誤解してしまった。ティルダの母の肖像画だと気付いて、返してくれたのではないかと。
でも違った。きっと、侮辱に使われた肖像画を見るのも嫌で、突き返してきただけだったのだ。
──あれ以来、カーライルはティルダに目を向けようとしない。
運ばれてきた料理を少しずつ取り皿に載せたが、食べ物はろくに喉を通らなかった。嗚咽が喉を塞ぐし、そんな状態で食欲があるわけがない。
祝宴の半ば、カーライルが不機嫌な声をかけてきた。
「どうして食べない? アシュケルドの田舎料理など、口に合わぬのか?」
ティルダははっと顔を上げ、慌てて首を横に振った。
「い、いいえ……っ、そのようなこと思っていません!」
言いがかりに傷付きながらも、ティルダは料理を口に運び、涙と一緒に無理矢理呑み込む。
どうしてそんな言われ方をしなくてはならないのかと心の中で嘆く一方で、仕方ないと諦めていた。ティルダは、カーライルを侮辱したローモンド王の娘だ。ティルダは父王に利用されただけだが、カーライルからすれば同罪なのだろう。
肖像画を返してもらったお礼を言う前に、父がしたことを謝罪すればよかった。そうすれば、何かが違っていたかもしれない。
取り皿の料理を食べ終えて少しした頃、城代がカーライルに声をかけた。
「そろそろ退室されては……」
ティルダの身体に緊張が走った。
祝宴から退いた後にあるのは、新婚初夜だ。カーライルはどうするつもりだろう。花嫁が適齢に達していない場合、適齢に達するまで初夜を延期することもままあることだ。だがそれは花婿の良心に依るもので、明確な決まりというわけではない。
父がしたことに負い目があるので、カーライルに求められたら、ティルダは延期を求める事はできそうにない。子どもの自分に大人の男性が受け入れられるか不安だが、一方で彼と完全な夫婦になることを望んでいる自分もいた。
男女は契ることで情が深まると聞いている。情が深まることで二人の関係を一からやり直せたらと期待していた。
だが、そんな期待もカーライルの一言に打ち砕かれた。
大広間を出て大股に歩いていたカーライルは、階段の手前で立ち止まり、早足でついてきていたティルダに一瞥をくれて言った。
「──今宵も、離れの館で過ごすとよい」
カーライルは初夜を拒んだだけでなく、妻が夫婦の部屋に入ることも拒絶した。
ティルダには、彼のその言葉が「お前のような妻など要らぬ」と言っているように聞こえた。
その場に立ちすくんだティルダに見向きもせず、カーライルは早足で階段を上がっていく。
どのくらいそうしていたかはわからない。
我に返ったのは、足音が近付いてくるのを耳にしたからだった。
ティルダは、逃げるようにその場を後にした。
今にも涙が零れそうだったが、泣き顔を他人に見られるわけにはいかなかった。
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