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俺と結婚せえへんか? ~大阪オトコと下町オンナの義理人情~

東万里央 / 著
高山千 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/01/28

内容紹介

「それ、男をめっちゃ煽るの知っとる?」大手化学製品メーカーの営業部で働く飛鳥は、社長の甥・翔が上司として異動してきたせいで出世の座を奪われ、闘志を燃やしていた。しかし当の翔は飛鳥を気に入り、ところかまわず口説いてきて!? 相手にしていなかった飛鳥だが、気が付けばまっすぐで奔放な翔のペースにはまって…。「よう締め付ける。気持ちええか?」慈しむように組み敷かれ、愛を証明するかのように熱い楔を穿たれれば、生きている喜びに打ち震える。しかし、広く深い翔の愛情の裏には、壮絶な過去があるようで?

立ち読み

プロローグ

 翔(かける)は一日の中では朝が一番好きだ。
 日が昇りビルや家々の建ち並ぶ街をあまねく照らし出す。人々が目覚め、徒歩で、自動車で、電車で血流のように移動を開始し、やがて街全体が生き物のようにたちまち騒がしくなり動き出す。
 その様を眺めるたびに、今日も自分も街も生きている。新たな一日が始まるのだと、世界が愛おしくなった。四月の新年度ともなるとなおさらだ。
 ただし、今目にしている街はようやく通勤に慣れた梅(うめ)田(だ)の高層ビル街でも、実家のある天(てん)王(のう)寺(じ)でも、馴染みの店のあるミナミでもない。荒(あら)川(かわ)の向こう岸にある東(とう)京(きょう)都(と)墨(すみ)田(だ)区だ。
 翔が散歩する河川敷側には川と草むらを挟んで運動公園が設けられており、朝から中学生とおぼしきサッカー少年らが練習試合に励んでいる。川の流れる音に時折「吉(よし)田(だ)! シュートだシュート!」などと、変声期前の澄んだ声が混じるのもいいBGMになっていた。
 初出勤前、翔はゆっくりと草むらに腰を下ろし、膝に頬杖をついて少々タレ目がちの双(そう)眸(ぼう)を細めた。あらためて向こう岸の景色を見渡す。
 一本の鉄の塔がそびえ立っている。翔には塔というよりは、春の青く澄んだ空に向かって真っ直ぐに伸びてゆく大木に見えた。なるほど、日本語に訳すれば「空の木」と呼ばれる理由がよくわかると頷(うなず)いた。
「思てたよりイケてるやん」
 やはり百聞は一見に如(し)かずだと思う。東京も好きになれそうだと心の中で呟(つぶや)いていると、背後の公園から「あーっ!」と甲高い悲鳴が聞こえた。
「なんやなんや」
 振り返ると一人の少年が蹴ったボールが敷地を飛び出してしまったらしい。ボールは宙に大きく弧を描いて落ち、トントンと公園外の道路へ転がっていった。
「おい! 取ってこいよ!」
 少年は「悪い、悪い」と謝りつつ取りに向かったのだが、途中、「あっ」と声を上げて立ち止まった。
 あちらも出勤途中なのだろう。パンツスーツにショルダーバッグを肩に掛けた、二十代後半くらいの若い女性が、ボールをひょいと足で止めたからだ。パンプスではなくスニーカーを履いているように見えた。
 軽く力を入れてボールを蹴り上げ、足の甲から膝へ乗せてしまう。素人目にもボールの扱いに慣れているのだと見て取れた。
「おーい! このボール君たちの?」
 朝の空気を貫くよく通る声が気持ちいい。それだけで明るく元気な女性なのだとわかった。
「そうでーす! お姉さん、返してくれますか?」
「オッケー! 構えていなさいよ!」
 女性はボールを再び足で道路に置くと、数メートル斜めうしろに下がり、軽く駆け出し流れるような動きでボールを蹴った。セミロングの茶の髪が彼女自身の起こした風に靡(なび)く。
 特に力を込めたようにも見えなかったのに、ボールはぐんぐんと距離を伸ばしていく。青い空に吸い込まれていくように見えた。
 ボールは数秒後に宙を突っ切って敷地内に戻り、少年たちが「すげー!」と騒ぎ出した。
「むっちゃいいロングキック! 何、おねーさん、サッカーやってんの!?」
「昔取った杵(きね)柄(づか)よ! 高校まで女子サッカーのキャプテンだったから!」
「どうりで! でも惜しいことがひとつ! スカートだったらよかったのに! 今日のパンツの色は何!?」
「バーカ! その煩悩をサッカーへのエネルギーに変換しなさいよ!」
 離れているので顔立ちと表情はわからなかったが、女性は満面の笑みに違いないと思えた。
「なんや、あの女」
 すっかり面白くなって観察していると、女性は腕時計に目を落とし、「あっ! 遅れる!」と叫んだ。
「じゃあね! 練習頑張りなさいね!」
「ありがとうございましたー!」
 少年たちのエールに送られ駆けていく。
(確かに踵(かかと)の高い靴じゃ走れんわな。朝からええもん見せてもらったわ)
 喉の奥から笑い声が込み上げてくる。
「……ええ女やなあ」
 翔は女性のすっと伸びた背筋を見送った。空に向かって伸びる木を思わせる潔い姿勢だった。
(顔なんてどうでもよくなるくらいええ女や)
 恐らく二度と会えないだろうと、残念に思っていた。東京支社に初出勤するまでは――



第一章

 飛鳥(あすか)にとって五センチヒールのパンプスとルージュは仕事のための武装だ。
 出勤してまず初めにロッカールームからパンプスを取り出し、スニーカーから履き替えたのちに化粧室でピンクベージュのルージュを引く。
 瞬時にして頭が仕事モードへと切り替わり、鏡の中の美人顔がきりりとなった。
 面長の輪郭はすっきりシャープなラインで構成されている。その中に丁寧に整えたいかにも意志の強そうな眉と、誰も逸(そ)らすことができないだろうと思われる二重のぱっちりした目。通った鼻筋と言葉がポンポン飛び出してきそうなくっきりと大きな唇があった。
 ダークブラウンのセミロングヘアはくせがなく、軽く動くだけでも肩でさらりと揺れる。
「よし。行くわよ」
 ポーチをバッグにしまうと、化粧室のドアを開け廊下を颯(さっ)爽(そう)と歩いていく。
 背が一六七センチと高めであるだけではなく、体幹が強いのか背筋がすっと伸びている。大股でリズミカルに足を動かすので、見ているだけで気分がいい。パンプスが踏み締める廊下は塵(ちり)ひとつないオフホワイトカラーで、更に窓から春の朝の日差しが差し込んでいるのでなおさらだった。
 その間、飛鳥は営業に必要なものはまず気合い、次に気合い、最後も気合いであると自分に言い聞かせていた。
(そう、気合いを入れて理性的になる!)
 たとえほぼ決まりだった係長への昇進が、大(おお)阪(さか)本社から異動の創業者一族のボンボンに横取りされてもだ。自分は大人であり社会人なのだから、不満を顔に出してはいけないと頷く。
 飛鳥は大阪に本社を置く空調機・化学製品メーカーの大手であるタイコー工業の東京支社で法人営業を担当している。ルートセールスはもちろんのこと、新規開拓も数割担当していた。
 元女子サッカー部キャプテンの体育会系のガッツを生かし、入社三年目でなんと七十五件の取引先をゲット。営業所内で首位を獲得したのは伝説となっている。
 その後もコンスタントに実績を上げ、二十六歳で最年少の主任に。三十代で係長になることを目指していた。
 飛鳥には自信があった。
 体力やガッツだけではない。自分のすべてのリソースを、仕事に注ぎ込んできたからだ。その熱意が認められ、昨年係長の座が空いた際、内々に昇進の打診があった。
 今度は最年少の係長だと意気込んでいたのだが、一ヶ月前になって課長から呼び出しを受け、申し訳ないのだが今回の昇進はなかったことにと告げられた。
 理由を問い質(ただ)したところ、社長が目をかけている甥を、幹部候補として育成するため、東京で修業させたいのだとか。
 つまり、コネでトンビに油揚げをさらわれてしまったのだ。
 この時にはさすがに落ち込んだ。体育会系の体力もガッツも人の十倍の努力も抜群の実績も、敵わないものがあると思い知らされたからだ。
 だが、すぐに昇進の機会は今後もあると気を取り直した。お坊ちゃまかつ将来の幹部候補となれば、早々に再び異動となる可能性があったからだ。
 それまでに更に新規開拓に邁(まい)進(しん)し、今度こそ次期係長としての座を、より確かなものにしなければならなかった。
 プライベートにかまけている暇はないと頷く。
(もう恋愛とか結婚とかはいいわ。というか、彼氏より旦那より嫁がほしいわ。マンションに帰ったら「お風呂? ご飯? それともあ、た、し?」って聞いてくれるような……。稼ぎはいいんだから専業主婦になってもらっても……)
 すっかりオッサン化した自分に気付くこともなく、営業第三課のオフィスの自動ドアを潜(くぐ)る。
「おはようございまーす」
 挨拶をするとすぐに同僚らから、「おっ、おはよう。元気だな」、「二日酔いになってないか?」、「新(しん)谷(たに)がへばるはずないだろ」などと様々な反応があった。
「私はサイボーグじゃありませんよ」
「いや、それに近いだろ。お前、ザルだよなあ。泡盛でも酔わないとか」
「東(とう)条(じょう)さんたちが弱いんですって」
 同僚の一人があははと笑う。
「お前はお持ち帰りされることは一生なさそうだな」
「あはは、私がお持ち帰りする側ですよ。このセクションにはそこまでしたい男がいないだけで」
「え~、俺って男がいるじゃないか~」
「ご冗談を」
 軽口を叩きつつ自分のデスクにつき、早速パソコンを立ち上げる。
 タイコー工業は社名こそ古風だが、オフィスの入るビルは数年前改築されたばかりで、デザインも機能も最新式である。
 グレーベージュを基調とした室内には、パソコンの置かれたデスクが整然と並べられていた。社員にストレスがないよう、デザイン心理学に基づいて、適度な間隔が取られている。もちろん、エアコンなどの空調はタイコー工業の新商品が使われていた。
 もっとも、社員同士の業務連絡用のホワイトボードだけはいまだに手書きのアナログだ。
縦九十センチ、横百八十センチあるローラー付きの脚付きで、課長のデスクの真横の壁際に設置されている。
 全員の目につきやすくなければ意味がなく、営業には必須なので仕方がなかった。パソコンやスマホだと見落としがちだからだ。そして、四月の第一月曜日の今日の欄には、「大(おお)久(く)保(ぼ)係長の異動。及び歓迎会」と書かれていた。
 ――大久保翔。
 それが飛鳥の直属の上司となる男性の名前だった。
「……」
 ホワイトボードを見てメラメラと怒りと嫉妬の炎を燃やす。
(ああ、いくら創業者一族とは言えやっぱりムカつくわ)
 大久保翔の年齢が二十九歳というところにも腹が立った。だが、ちょっと待てよと首を傾げる。
(でも、社長が期待しているってことは、世間知らずのお坊ちゃまってわけでもない? 一体どんなやつなのかしら。まだ課長以外には誰も会ったことがないみたいだけど……)
 いずれにせよ、十五分後の朝礼で顔を合わせることになる。落ち着いて待つしかないと頷いた。
 営業三課では午前九時から朝礼が始まる。始業五分前になると出勤していた同僚らが、それぞれのデスクの前に立った。空いた席は直行で取引先に営業に出掛けた社員らの席だ。
 飛鳥も同僚らに続く。まもなく課長と長身痩(そう)躯(く)の男性が、入り口の自動ドアを潜ってホワイトボードの前に立った。皆が一斉に「おはようございます」と頭を下げる。
「もう皆知っているだろうが、今日一人大阪本社から異動があったので、早速紹介したいと思う。三課の係長となる大久保翔君だ」
(こいつが……大久保翔!)
 飛鳥はぐいと顔を上げ、係長の座を奪ったその男を見据えた。
 まず、一六七センチの自分から見ても、長身と言える身長なので驚く。大久保翔――翔は身長一八三、四センチあると思われた。頭が小さく手足が長く腰の位置が高く、日本人離れした体型である。
 さらに、すっきり短い黒髪が気持ちよく、顔はといえばシャープな頬のラインとくっきりとした眉、潔く通った鼻筋に対し、切れ長の目は端がいささか下がっていた。愛嬌のあるタレ目になんとなく拍子抜けしてしまう。薄い唇にはニコニコと人のよさそうな笑みが浮かんでいた。
 営業事務の女性が「うわ……好み」と呟いている。
 確かに、翔はイケメンと呼べる部類の男性だった。それも、クールさなどは欠片もなく、老若男女問わず人好きのしそうなタイプだ。
 課長が「じゃあ、自己紹介を頼むよ」と翔に促す。
 翔は相変わらず笑いながらオフィスを見回した。
「えーっと、おはようございます。本日付けで営業三課に配属になりました大久保翔と申します。今年で入社四年目になります」
 翔は二十九歳なので、今年四年目ということは、二十五歳の頃入社したということになる。
(やっぱりちょっと遅れているのね。大学院に行ったとは聞いていないし、浪人でもしていたのかしら?)
 なら、ますます腹が立つというものだった。
 しかも、同期の伝手(つて)を辿(たど)って情報を入手したのだが、翔は大阪本社ではたいした実績を上げていなかったのだという。なのに、主任、係長とトントンと昇進したのだとか。
(やっぱり親族の七光のコネ入社ってやつよね。ああ、もう。いくら創業者一族でも、こんな男が係長になるなんて)
 苛(いら)立(だ)つ飛鳥をよそに翔が言葉を続ける。
「大阪本社でもルートセールスと新規開拓を担当しておりました。こちらでも即戦力となれるよう努力します。ちなみに趣味は、食うこと、寝ること、食うこと、寝ること……つまり、皆さんと同じですのですぐに仲良くなれると思います」
 冗談に軽く笑いが起きた。
「というわけで、今後ともどうぞよろしくお願いします。あっ、東京の美味(うま)いもんどころに連れて行ってくれたら嬉しいです。東京は味が濃いな! とか、なんでたぬき蕎(そ)麦(ば)じゃなくてきつねなんや! とか文句言ったりしませんので」
 社員の顔を覚えようとしているのだろうか。視線がデスクからデスクへと移動している。最後に飛鳥に行き当たり、その切れ長の目がわずかに見開かれた。
(えっ、なんなの?)
 翔は「あっ」と声を上げて唇だけでこう呟いた。
「あん時のサッカー女やないか」
 ――コテコテの大阪弁だった。

 タイコー工業の入ったビルは、高層ビルが建ち並ぶオフィス街にある。歩いて五分もすると最寄り駅があり、その周辺にはチェーン系のカフェやファミレス、牛丼屋などが点在しているので昼食に重宝していた。
 ちなみに、飛鳥の行きつけは牛丼屋である。先週の金曜日に続いての来店だった。
(昔はちょっと可愛い女の子ぶって、お弁当作ったりもしていたんだけどね……)
 すぐに仕事が忙しくなり、早々にギブアップした。それに、女子向けの色鮮やか、かつヘルシーな弁当ではボリュームが足りなかったのだ。やはり、気合いを入れるには肉類と白米、つまりタンパク質と脂肪と炭水化物と塩分である。
 二十代後半の女性の摂取カロリーは、運動量が少なければ千七百キロカロリー、普通なら二千キロカロリー、多ければ二千三百キロカロリーだと言われている。
 飛鳥は営業の外回りだけではなく、毎朝のジョギングでもカロリーを消費していた。おまけに、週末にはボランティアの一環で実家近くにある小学校で、女子サッカー部のコーチを引き受けている。小学生の体力に合わせるためにも、人一倍のカロリーを摂取しなければならなかった。
 店内は六割方席が埋まっていた。ほとんどが自分と同じサラリーマンとおぼしき男女だ。
 空席がないかとカウンター席の片端に目を向けぎょっとする。先ほど朝礼で挨拶をしていた翔がメニューをこの上なく真剣な眼差しで凝視していたからだ。
 サラリーマンの中で群を抜いて目立っていたのですぐに見つけられた。座っていてもそれとわかるほどスタイルがいいからだ。
(大久保係長?)
 そんなイケメンが「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」といった表情をしている。一体どんな人生の苦悩なのかと思いきや、メニューを迷っているのだからずっこけそうになった。
(創業者一族のお坊ちゃまが牛丼食べるの?)
 これが同僚なら気安く声を掛け合流していただろう。だが、翔が相手となると少々躊躇(ためら)われた。
 飛鳥は誰とでも積極的に仲良くなろうとする性格だ。営業に配属されたばかりの頃は、女だからと舐めてかかった同僚らにも、今では一部を除いて認められ、軽口を叩き合えるほど仲良くなっている。
 とはいえ、翔とそうなるまでには、少々の時間が必要だった。せめて午後からにしたい。
(媚(こび)を売っておいた方がいいとは思うんだけど、こっちにもプライドってものがあるのよね。……うん。ダイエットは明日から! じゃなくて、係長への気遣いは午後から)
 午後からは気持ちをさくっと切り替えよう――そう決めた次の瞬間、背に視線を感じたのか、翔がくるりと振り返り飛鳥に目を留めた。
「おっ、なんや、サッカー女やんか」
 やはり大阪弁だった。
(サッカー女って……私、学生時代のことまでは話していないわよね?)
 その後のチーム内の自己紹介では入社何年目だの、仕事での今後の抱負だの、趣味だの、当たり障りのないことしか語っていない。どこで知ったのかと狐(きつね)につままれた心境になる。
 翔はちょいちょいと手招きをし、自分の隣の空席のスツールを叩いた。
「旅は道連れ世は情け。せっかく同じところにきたんだから、一緒に食べましょう」
 今度は標準語である。しかし、ノリがなんとなく大阪っぽかった。
 一瞬、全国規模の牛丼チェーン店で出くわしたことの、どこが旅なのだとツッコミそうになったが辛うじて堪える。
(気を抜くと大阪弁になるのかしら?)
 飛鳥は首を傾げつつ、断るのもなんなので腰を下ろした。
 それにしてもなんとなく気まずい。口にこそ出していないが、先ほどまで心の中で、七光だのコネ入社だの悪態を吐(つ)いていたのだ。
 飛鳥には珍しく何を話していいものかと迷う。
 先に口を開いたのは翔だった。
「スタンダードな牛丼大盛りにするか、牛キムチ丼にするか迷っているんです。どちらも美味しそうで……」
 ハムレットほどではないが、昼時には悩ましい選択だと言えた。この牛丼チェーン店では飛鳥も時々迷う。どれもそれなりに美味しいからだ。
「確かに迷いますね。牛キムチ丼美味しそう……。でも、普通の牛丼も捨てがたいし……」
 翔は「なら」とカウンターに頬杖をついた。流し目を向けられ一瞬ドキリとする。
「シェアしませんか?」
「えっ」
「ただし、俺は大盛りになるので、無理でなければの話ですが」
「……」
 ここで一般的な胃袋のサイズの女性なら、「私、並でも残しちゃって……」、と可愛く答えるのかもしれない。
 だが、飛鳥は元々よく食べる上に、午後には得意先に訪問することになっている。省エネ性能の高い商品の商談があるのだ。無事まとめるためにも力を付けておきたかった。
「大丈夫です。私、大食いなので」
「よっしゃ!」
 また大阪弁だ。なんとなくおかしくなり、わずかに残っていた毒気も抜かれてしまった。
 翔は早速大盛りのスタンダードな牛丼と牛キムチ丼を注文した。
「ありがとうございます。僕は食べたいと思ったものは、絶対に食べたい男なんですよね。いつ食べられなくなるのかわかりませんし」
 いつ食べられなくなるのかわからない――飛鳥には聞き慣れない言い回しだった。
「……? この牛丼屋はチェーン店ですから、どこにでもありますし、閉店しても他の店で食べられますよ?」
 翔は一瞬はっとしたが、すぐに人のよさそうなタレ目に戻った。
「そうですね。お腹が空いてつい……」
「持ち帰って夕食にって手もありましたよ」
「ああ、なるほど。新谷さんはその道のプロなんですね? さすが詳しい」
(その道ってなんの道よ。牛丼道? いや、確かに牛丼は好きだけど)
 そうツッコもうとして口を噤(つぐ)む。
(この人の前ではなんか調子狂うわ……)
 牛丼は五分も経たないうちにできあがり、カウンターに小気味よい音を立てて二つの丼が置かれた。
「この店って取り皿がないな……」
「あっ、大丈夫ですよ。私そういうの全然気にしないので、半分食べたら交換しましょう」
(部下への気遣いはできるみたいね)
 飛鳥は心の中の翔へのチェック項目のひとつに○をつけた。
 早速スタンダードな牛丼大盛りを箸で掬(すく)い取る。一口目から甘くどい肉の味がいっぱいに広がって、ビールを飲んだあとの「く~っ」と同じ顔をしてしまった。白米に染み込んだタレもたまらない。
(あっ、卵を載せてもよかったわね。明日リベンジしようっと)
 翔がニコニコ笑いながら自分を見つめていると気付いたのは、牛丼の四分の一がなくなった頃のことだった。
「あの……係長、私の顔に何かついていますか?」
「いや、美味しそうだなと思いまして」
 翔も牛キムチ丼に箸を入れた。
「おっ、美味い。イケるわ」
(また関西弁のイントネーション……)
 感動した時にも大阪弁が出てくるようだった。
「係長は大阪ご出身なんですか?」
「ええ。生まれも育ちも大阪ですね。ですから、時々大阪弁をポロリとしてしまうのは許してください。新谷さんは東京出身ですか?」
「はい。父によると家(いえ)康(やす)が江戸に来る前から住んでいた一族だそうです。それをよく自慢しているんですけど、別に特別由緒ある家柄とかでもなく、小さな酒蔵やってるだけなんですよね」
 飛鳥は江戸時代以前からという自慢話は根拠が怪しく、酒の宣伝のための与太話に違いないと解釈している。だが、翔は違った見方をした。
「いやいや、すごいじゃないですか。二百六十年以上血を絶やさなかったってことでしょう? どんな高貴な血筋出身だろうと、子孫が絶えたらそこで終わりですよ。でも、侍だろうと、農民だろうと、職人だろうと、商人だろうと生き延びたら勝ちです」
 生き延びたら勝ち――なぜかわからないが、翔の言葉には妙な説得力があった。
「確かに……そうかもしれませんね」
 翔は「う~ん、美味かった」と唸(うな)り、きっちり半分になった牛キムチ丼を飛鳥に渡した。
「どうぞ。牛キムチ丼も美味しかったですよ。甘じょっぱい牛肉に辛いキムチの味のマリアージュと言いますか。うん、マリアージュって言葉は便利ですね。牛丼とキムチもフランスのワインとチーズの組み合わせみたいにお洒(しゃ)落(れ)になる」
「あ、あはは……」
 いや、ならねぇよとまたもやツッコミたくなったが我慢する。
(やっぱりこの人といると調子狂うわ……)
 飛鳥は密かに溜め息を吐きつつ牛キムチ丼を口に入れた。
 翔は相変わらず飛鳥をニコニコしながら見守っている。
「これで同じ釜の飯を食った仲間ですね」
「な、なんか意味がちょっと違いませんか?」
「まあまあ、ちょっとくらい違ってもいいじゃありませんか」
 牛キムチ丼は確かに翔の言った通りに美味しかった。

 ――人好きしそうという印象は正しかったようで、翔は三ヶ月も経つとあっという間に営業三課に馴染んでしまった。
 もう同年代の同僚らとはタメ口になっている。
 また、タイコー工業は地域を問わず体育会系で努力、根性を尊び、いまだに飲みニケーションで交流を図るところがある。翔は誰からのどんな誘いも断らずに付き合っているようだった。
 その日の飲み会には飛鳥も誘われ、隣駅の地下街にある居酒屋で一杯やることになった。
 庶民的な和風の居酒屋で値段も手頃なところだった。
 翔は皆からジョッキにビールを注(つ)がれながら、枝豆も唐揚げも刺身の盛り合わせも、美味い美味いと喜んで食べていた。アルコールにも強いらしくぐいぐい飲んでいる。
(コミュニケーション能力もありか)
 営業マンには必須の能力だ。
(でも、いくらコミュ力があっても、仕事ができないとねえ)
 翔が東京支社に異動してからまだ三ヶ月なので、仕事のできる・できないを決め付けるのは早計だろう。
 とはいえ、翔が営業として努力しているかというと、どうもそう見えないのが気になっていた。
(やる気があるのかないのか……)
 人の上に立つからには能力はもちろんだが、まずやる気を見せてほしかった。
 次第に考えるのが面倒になり、飛鳥もビールをぐいと呷(あお)る。
「おっ、新谷、一気飲みか。景気がいいねえ。ほら、もっともっと」
 途中、隣の同僚に耳打ちをされた。
「なあ、ちょっと係長のところ行ってビール注いでくれない? 一応さ、ほら……」
「ああ、うん、わかったわ」
 つまりは接待役ということなのだろう。
 大学卒業後タイコー工業に就職して六年。飲み会の際、上役へのホステス役に駆り出されるのは初めてではない。この辺りについてはもう割り切っている……つもりだった。
 飛鳥はビールのピッチャーを手に翔の隣に腰を下ろした。おどけた笑みを浮かべてみせる。
「係長、どうぞ。営業三課一の美女からの接待です」
 ちなみに、営業三課は今日来ていない営業事務を除くと、飛鳥以外女性社員はいなかった。
 翔は冗談が面白かったのか、あははと笑ってジョッキを差し出した。
「おおきに。十倍美味くなりそうやな」
 翔もザルなのかまったく酔った様子がない。何杯目かわからなくなったビールも元気に飲んでいた。
 とはいえ、いくらザルでもビールばかり飲んでいると、さすがに途中で口直しをしたくなる。だが、飛鳥も同僚から次から次へとビールを注がれ、グラスが乾く間がなくさすがに困った。
(ちょっと水かお茶がほしいんだけど……)
 翔が「ほな、俺からも」と新たなピッチャーを差し出す。体育会系の性(さが)で上司の酌は断れず、飛鳥は愛想笑いを浮かべつつ、「お願いします」とジョッキを差し出した。雰囲気を壊してはならないと、なみなみと注がれたビールを一気に呷る。
(えっ……)
 一口飲んですぐに気付いた。
(これって烏(ウー)龍(ロン)茶(ちゃ)……)
 ピッチャーから注がれたのでビールだと思い込み、中がなんなのかを確かめもしなかったのだ。
 思わずまじまじと翔を見つめる。
 翔は飛鳥の視線に気付き、「あんたも大変やな」と苦笑した。
「どうせもう皆ある程度できあがっとるし、気付いとらんからそれ飲んどけ」
「……」
 烏龍茶をちびちび飲みつつ茶の水面に目を落とす。
(……気遣いだけは◎かも)
 以降も飲み会は何事もなく進み、二次会のバーへしけ込むことになった。
「その前にトイレ!」という同僚が続出したので、時間を取って待つことになったのだが、飛鳥も化粧が汗で崩れているのに気付き、支払い後に断りを入れてトイレへ向かった。
 トイレは男女共用で二室あったのだが、どちらも使用中になっている。仕方なく順番を待っていると、背後に誰かが並んだので何気なく振り返った。
「あっ、係長」
「なんや、あんたもトイレか」
「いいえ。化粧直しなんですけど、ここって鏡と洗面台も個室ごとにあるので……」
「そっか。女は大変やな」
 個室にいる二人に気を遣わせてはいけないと、ひそひそ声で話していたのだが、中の二人は大分酔っているのか大声で話し出した。
「お~い、斉(さい)藤(とう)、聞こえるか」
「おう。ばっちり」
「係長と新谷は?」
「まだ席にいた」
「ふ~ん……そうか」
 係長と新谷と自分たちの名前が出たということは、中の二人はタイコー工業の社員なのだろう。声からして飛鳥と比較的仲のいい、同年代の同僚男性二人――松(まつ)本(もと)と斉藤だと思われた。
 ちなみに、斉藤は飛鳥のユニット営業のパートナーである。ユニット営業とは大企業相手や規模の大きな取引の場合、一人では手が回らないので二人一組で担当することだ。
 数年をかけて二人でいくつもの修羅場を乗り越え、営業三課でも好実績を上げてきただけに、飛鳥は斉藤に仲間意識ができていた。
 ところが、そんな信頼をぶち壊す会話が繰り広げられる。
「なあ、係長機嫌よかったか?」
「ああ。新谷に接待させたしな。あいつもそろそろトウ立ってきたけど、まだなんとか使えるし」
「……っ」
 表では決して聞けなかったであろう、同僚たちの剥(む)き出しの本音に絶句し、飛鳥は唇を噛み締めた。
(斉藤君、私のことをそんな風に思っていたの)
 二人は翔と飛鳥が聞いているとも知らず、ゲラゲラ笑いすらして話し続けている。
「今日の新谷って、あれ、ウケるよな。絶対女は自分一人しかいないっていい気になっているぜ」
「まあ、それはあのボンボンに任せておけばいいんじゃないか」
「あいつもムカつくよな。庶民派気取っているけど、いきなり係長とか、結局セレブのコネ入社じゃないか」
「まあ、俺たちも社会人なんだからその辺は我慢、我慢。せいぜいおだてて踊らせておけばいいって」
(私だけならともかく、係長の悪口まで……!)
 確かに、翔はまだ目立った実績を上げてはいない。それでも、見下されていいはずがなかった。
(ううん、待って。私だって係長をそんな風に見ていたじゃない。ボンボンのコネ入社だって)
 自分の醜さに気づき愕(がく)然(ぜん)とする。
(人のことを言える立場? 私だって最初の一年目は、結果が出ずに悔しい思いをしたのに……)
 たまらない気持ちになり、翔のスーツの上着の袖を引っ張る。
「……係長、行きましょう。トイレは他にもありますから」
 翔も二人のひどい話を聞いていただろうに、腹を立てた様子もなくニコニコ笑っていた。
「おっ、あんたなかなか大胆やな。でも、俺トイレのエッチは好きやないんだけど。それに、外で部下も同僚も待っとるしなあ。さすがに今その気にはなれんわ」
「……あのですね」
 もはやボケなのか本気なのかもわからない。
「そうじゃなくて! もう、とにかく行きましょう!」
 引き摺(ず)るようにして店を出てエレベーターで一階へ向かう。
「……トイレは一階の奥にもあります。案内しますから」
「あんた、気が利くなあ」
 飛鳥は翔をトイレ前まで連れて行くと、誰もいないのを確認し、「申し訳ございません」と頭を下げた。
「松本さんも斉藤さんも、酔った勢いだったんだと思います」
「いやいや、それはええけど、なんであんたが謝るんや。こんなところまで連帯責任とかありえんし、俺は別に怒っとらんで」
「ですが……」
「まあ、それに俺は実際ボンボンやからな。入社試験なんて顔パスのコネ入社やし」
 翔は怒るどころかカラカラと笑い、腰を屈めて飛鳥の目を覗(のぞ)き込んだ。少々タレ目がちの整った顔立ちが間近になり、一瞬だが飛鳥の心臓がドキリと鳴った。
(ちょ、ちょっと……近い!)
 翔は唇の端を上げた。
「真面目で責任感強いんやな。そういうところも好きやわ」
「えっ……」
 あっさり「好きや」と告白され絶句する。それに、そういうところ「も」とはどんな意味なのかと尋ねる前に、翔は言葉を続けた。
「多分自分が陰口叩かれ続けたから、俺も傷付かんかって心配してくれたんやろ? ……ありがとな。この会社、どうしてもまだ旧式のところがあるしな、でも、俺はああいうのを聞くと気持ちよくなるタイプなんや」
「き、気持ちいい?」
 戸惑う飛鳥に広い胸をムンと張って見せる。
「どMってわけやないで。金があるのも、実家が太いのも、いい男なのも全部ホンマで、そうや羨め! お前ら何ひとつ持ってないやろ! って気分になるんや。アハハ」
「松本さんも斉藤さんもいい男とは言っていない気がしましたが……」
 今回はつい口に出してしまった。翔は「おっ、いいツッコミや」と笑っている。
(まあ、確かにいい男なんだけどね)
 飛鳥は苦笑しつつ翔のタレ目を見つめた。
(それに、この人……大きいんだ)
 身長だけではなく心も大きくて広い。自分のように社会とはそんなものだと我慢しているのではない。生まれ持った気質なのだろうと思われた。
 そして、飛鳥は二十八年の人生で、仕事はある程度努力でどうにかなるが、気質は変えられないことをよく知っていた。
(ちょっと……見直してもいいかな。ちょっとだけだけど)
 翔が不意に笑うのを止め飛鳥を見下ろす。黒い瞳に光が瞬いていたのでまた心臓がドキリと鳴った。
「な、なんですか?」
「うん。あんた、やっぱりええ女や。なあ、俺と付き合わん?」
「……は!?」
「待て。部下に告白するのってセクハラになるんか? それとも告ハラか? あ~、面倒くさい世の中やな。そうや、結婚すればチャラになる! というわけで、俺と結婚せえへん?」
 もう一度「……は!?」と口走りそうになったが、すぐにそうか、これも大阪人のボケなのかと思い至った。トイレ前でプロポーズなどそうでもなければ有り得ないからだ。
「えーっと、係長、申し訳ございません。いいツッコミをしようと頑張ったのですが、どうもうまいこと言えそうにありません」
「いや、これはボケやなくてやな」
「どうぞごゆっくり大でも小でも頑張ってください。私は皆さんのいるところで待っていますので……」
「だからボケやないって!」


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