書籍詳細
薄幸の伯爵令嬢は侯爵の愛で花開く
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/02/25 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 運命の出会い
「リネット、今日からおまえには奉公に出てもらうことにしたからね。迎えの馬車がそろそろくるから、そのつもりで」
——買い物にでも行ってこいというような気安さで、継(まま)母(はは)ジェシーは告げてきた。
なにかつらい用事を言いつけられるのか、理不尽な言いがかりをつけられるのか——そうおびえていたリネットは、予想外の言葉にぽかんと口を開けて立ちつくしてしまう。
そのせいか、ジェシーはたちまち目尻をつり上げ、手にしていた扇を投げつけてきた。
「いっ……!」
扇がひたいにあたり、リネットは思わずよろめく。
憤(ふん)怒(ぬ)の形(ぎょう)相(そう)のジェシーは謝るどころか、耳がキンキンするような怒声をぶつけてきた。
「まったく、なんて反抗的な目をしてくるんだい!? 愛人の娘であるおまえを引き取って育ててやっただけ、ありがたいと思わないのかねぇ! 愛人の娘が本家にいるというだけでも恥ずかしいのに、おまえときたら感謝するそぶりすら見せないんだから!」
リネットは軽くくちびるを噛みしめて「申し訳ありません……」と消え入るような声で謝った。
しかしジェシーの嫌味は止まらない。これ見よがしにため息をついた彼女は、靴先で床を叩きながらイライラと言葉を続けてきた。
「旦(だん)那(な)様もどうしておまえみたいなぐずを引き取ろうと思ったのかねぇ。わたしが奉公に出ろと言ったら、『はい、わかりました』と言えばいいだけの話だろう。その程度のこともできないなんて、本当に役に立たないのだから!」
リネットは込み上げる涙をこらえ、もう一度「申し訳ありません」とつぶやいた。
なんともひどい言われようだが、この手の言葉は、八年前に本邸に引き取られてからいやと言うほど言われてきた。今さら傷つきはしない。本当は胸の奥がしくしくと痛むのだが、いちいちかまっていては、ここでの生活は成り立たなかった。
とはいえ、いきなり奉公に出ろというのはさすがにひどすぎる。せめて理由を教えてほしいと言おうとしたとき、居間の扉がノックされて、華やかなドレス姿の娘が入ってきた。
「入るわよ、ママ。……あら! リネットったらまだそんなところにいたの? もう迎えの馬車はきているっていうのに、のろまなんだから」
くすくす笑いながら入ってきたのは、この家の奥方であるジェシーの娘、ナタリアだ。
リネットよりひとつ年下なのだが、本妻の娘である彼女にとって、リネットは異母姉ではなく厄(やっ)介(かい)な居候(いそうろう)認識である。
いや、母親と同じく、体(てい)のいい下働きとして見ているほうが正しいのだろうが……。
そのナタリアも、リネットが奉公に出ることは承知しているらしい。「いつまでも頭を下げてないで、さっさと行けば?」と辛(しん)辣(らつ)だ。
「あ、の……っ。ど、どうしてわたしは、奉公に出されるのでしょうか? なにか、奥様のお気に障(さわ)る失敗でもしたのでしょうか……?」
せめてそれだけは知っておきたい。すがる思いで問いかけると、ジェシーもナタリアもそろってにんまりとほほ笑んだ。
「そろそろ社交期がはじまることは、ぐずなおまえでも知っているわよね?」
おそるおそるうなずくと、ナタリアが母親の腕に抱きつきながらにっこりほほ笑んだ。
「うちにはわたししか娘がいないから、跡継ぎとなる婿(むこ)を迎える必要があるでしょう? そのためにわたしはめいっぱい、おしゃれをしないといけないのよ!」
ナタリアしか娘がいない……という点は置いておいて。ナタリアがおしゃれをすることと、リネットの奉公がどう関係するのかがわからない。
とまどうリネットに対し、ジェシーが「ちっ」と舌打ちを響かせた。
「ぐずなおまえは一から十まで説明してやらないとわからないのかね? この家に素敵な婿を迎えるためには、ナタリアが人一倍着飾って多くの殿方の目に留まるようにしないといけないのよ。そのためにお金がいるってわけ」
だからリネットをよそで働かせて、その給金でナタリアのドレスや宝石を調(ととの)えようということらしい。
「すでに先方からは三ヶ月ぶんの給金を先払いで受け取っているからね。しっかり働きな」
呆(ぼう)然(ぜん)とするリネットにそう言い捨て、ジェシーは卓上のベルを鳴らす。するとすぐに従(じゅう)僕(ぼく)たちが飛んできた。
ジェシーは使用人に厳しく、少しでも遅れたり逆らったりすれば鞭(むち)を振るってくる。
そのため、「その子をさっさと連れ出しな」と命じられた従僕たちは、リネットを気の毒そうな目で見つめながらも、彼女を問答無用で連れて行こうとした。
「ま、待って……! せめてお父様に会わせてください。わたしが奉公に出ることは、お父様も承知していらっしゃるのですか!?」
「旦那様のことを父と呼ぶんじゃないよ、愛人の娘風(ふ)情(ぜい)が! 承知しているに決まっているだろう。ほら、さっさと行きな! 少しでも遅れて相手の心証を悪くしたらただじゃおかないよ!」
ジェシーに怒鳴られ、リネットはびくっと萎縮(いしゅく)してしまう。その隙(すき)に、従僕たちは彼女を居間から連れ出した。
ずるずると引きずられていくあいだも絶望感は拭(ぬぐ)えず、リネットは思わず涙目で叫んでしまう。
「こんなの、あんまりだわ。いきなり奉公に出ろなんて……! せめてお父様に会わせていただきたいのに」
「おれたちもそう思うよ。だが奥様には逆らえないし、旦那様は家に寄りつかないからな……。だが、案外あんたも、この家より外で働くほうが楽かもしれないぞ? ここにいても奥様に毎日殴られるだけだろう」
うなだれるリネットの両脇で、従僕たちが同情混じりに声をかけてくる。
かくいう彼らも、リネットほどではないとは言え、ジェシーやナタリアにつらく当たられる日々を送っている。きっと心からリネットの身を案じているのだろう。
それがわかるから、リネットもそれ以上は不満を漏らさず、歯を食いしばった。
「……ここまででいいわ、ありがとう。あとは自分で馬車まで行きます」
「いや、見送らせてくれ。あんたはこの家のお嬢様だが、ここに引き取られてからずっと、おれたちと同じく下働きをさせられていただろう? おれたちにとっちゃ仲間みたいな気持ちもあるんだよ」
従僕の言葉に思わず涙が出そうになる。
彼らの言うとおり、リネットにとっては使用人たちこそが本当の家族みたいなものだった。
リネットの父は、この屋敷の主人であるアルバートン伯(はく)爵(しゃく)だが、彼は基本的に家族に対して無関心だ。いつもどこかに出かけていて、屋敷に寄りつくことすらない。ジェシーやナタリアのことを気にかけている様子もなかった。
唯一、リネットの母には興味があったようで、愛人宅である別宅には週に一度は顔を見せていた。おかげで母が亡くなる八年前まで、リネットも不自由ない暮らしを享(きょう)受(じゅ)していたのだ。
しかし母が病で亡くなって、本邸であるこの屋敷に引き取られてからは、まさに苦労の連続だった。
正妻であるジェシーは愛人の娘を家族として迎え入れることはなく、屋根裏の一番狭い部屋を彼女の私室とした。そして、用事を言いつけるとき以外は屋敷の奥で、下働きをするように命じたのだ。
仕事は厳しかった。使用人の中でも下級の者や新入りがやるような仕事を割り振られて、最初のうちは失敗ばかり重ねていた。
井戸から汲(く)んだ水を、重さに耐えきれずぶちまけたり。火起こしの加減を誤り、火傷(やけど)しそうになったり。暖(だん)炉(ろ)掃除で灰を頭から被(かぶ)ることになったり……。
そしてなにか失敗をするたび、ぐずだ、のろまだと罵(ののし)られ、ひどいときは鞭を振るわれる始末——。
食事を抜かれるのもしょっちゅうだ。なにが気に障ったかわからないが、昨日もジェシーに『食事抜き』の罰を与えられていて、夜明け前にパンをかじって以降、水しか口にできていない。
そんなジェシーの厳しさには、ほかの使用人もいたく同情してくれた。
ジェシーの見ているところでは無理だが、それ以外のところでは水汲みを代わってくれたり、怪我したところを手当てしてくれた。
可能な範囲で助けてくれる使用人たちは、リネットにとっては継母や義(ぎ)妹(まい)より、ずっと『家族』を感じられる存在だったのだ。
「あんたは働き者だし、新しいところでも上手くやっていけるよ。なんならいい相手でも見つけて、駆け落ちしちまえ。奥様みたいな人間に義理立てする必要なんかねぇよ」
玄関ホールに出ると、従僕の一人がぼそっとささやいた。もう一人もその通りとばかりにうんうんうなずく。
リネットはほんの少し温かい気持ちになって、小さくうなずいた。
「ありがとう……。ほかのみんなにも、よろしく伝えてね」
そうしてリネットは従僕たちの見送りのもと、玄関前に停まっていた馬車に乗り込むのだった。
手を振って見送ってくれる従僕たちに手を振り返し、込み上げてくるものをなんとか呑み込んだリネットは、御(ぎょ)者(しゃ)にそっと声をかける。
「あの、この馬車はどちらに向かうのでしょう? 時間はどれくらいかかりますか?」
つまらなそうな顔で馬車を走らせていた御者は「一時間半くらいでつきますよ」と気のない返事をした。
一時間半……結構な距離だ。リネットが知る場所と言えば、この周辺以外は別宅があった街だけなので、そんなに遠くになにがあるのかもわからない。
「あの、わたし、奉公に行けと言われただけで、どこでなにをするか知らないのです。なにかご存じではありませんか?」
「そんなもん、着けばいやでもわかるだろ。悪いがおしゃべりに付き合ってる暇はないんだ。このあたりは道が悪い、集中しないと車輪が溝にはまっちまう」
道が悪いのは馬車の振動からも感じられることで、リネットはしぶしぶ引き下がった。
これがただの旅行であれば、街の外に出られることに気持ちも浮き立ったかもしれない。
だが見知らぬ場所に奉公に出ると思うと、売られる家畜もかくやという悲しみしか湧いてこなかった。
(でも、従僕たちの言っていたとおり、伯爵家より働きやすい職場かもしれないわ。せめてそうであることを祈りましょう……)
悲しんだところで戻れないのだからしかたない。継母はすでに三ヶ月分の給金を受け取ったらしいから、三ヶ月はしっかり働こうと前向きに考えた。
しかし、リネットのそんな気持ちは、いざ奉公先に到着するとみるみるうちにしぼんでいった。
到着したのはどこぞの大きな街だ。その中でも一等大きな建物の前で、リネットは馬車から降ろされる。
御者にせっつかれるまま中に入った彼女は、でっぷりと肥(こ)え太った男と対面することになった。
「ほ〜! 伯爵夫人から聞いていたよりずっと器量よしではないか! これはいい! ……だが、ちぃと細すぎるな。向こうに到着するまでに食べさせなければいかんのぅ」
顎(あご)をさすりながらリネットの周囲をぐるりと回った男は、機嫌よく腹を揺らして笑った。それに合わせて首や腕の宝飾品もじゃらじゃらと音を立てる。
建物の大きさや豪華さといい、彼の装いといい、かなりのお金持ちであることは間違いなさそうだけど……。
「は、はじめまして。リネット・アルバートンと申します……。ご奉公にまいりました。これからよろしくお願いいたします」
「おおっ、礼儀をよく心得ているな。言葉遣いも発音も問題ない。これは掘り出し物だぞ! 先方も気に入ってくれるだろう」
(先方?)
リネットはぎょっと目を瞠(みは)った。
「あ、あの、わたしはこちらで働くのではないのですか?」
「うむ、働くのは別の場所だ。おまえを買ったのはわたしで間違いないがな」
(買った、ですって?)
リネットは大いに混乱する。
だが男はそれ以上説明する気はないらしい。背後に控えていた男たちに「あとを任せる」と言って、奥に引っ込んでしまった。
「お、お待ちください」
「ほら、さっさとこい」
男を追いかけようとしたリネットの腕を、屈強な男たちがぐいっと引っぱっていく。
振り払うこともできずに引きずられていったリネットは、建物の裏口から外に出て、今度は倉庫のような建物に乱暴に押しやられた。
「きゃあ! なにをするのですか!?」
「騒ぐな。すぐに食事を持ってきてやるからよぅ。ほかの連中と仲良くしてな」
リネットはそこでようやく、倉庫の中に何人もの人間がいることに気づいた。二十人ほどだろうか? 全員がリネットと同じく、まだ年若い娘たちだった。
彼女たちに気を取られているうちに、倉庫の扉がバタンと閉まる。あわてて飛びついたものの、重たい扉はびくともしない。
そのうち、娘の一人が「無駄よ。やめなさい」と声をかけてきた。
「外から鍵がかかっているわ。扉自体重たくて、女の力じゃ開かないわよ」
「そんな……どうしてこんなところに入れられるの? わたし、ここに奉公にきたはずなのに」
すると声をかけてきた娘も、ほかの娘たちも、なんとも言えない顔になった。
「そう、あんたはそうやってここにきた感じなのね。あたしは親に、借金の形(かた)に売られたわ」
「えっ……」
「そっちの子は道を歩いていたところを連れ攫(さら)われたって。で、そっちの子はあんたと同じく、奉公先を紹介すると言って連れてこられて、それ以来ずっと閉じ込められたままだって」
リネットは真っ青になった。
「ど、どういうこと? じゃあ、奉公の話は最初からうそだったの……?」
自分も目の前の娘と同じように、継母に売られたのだろうか? 社交に出て行くナタリアの支度(したく)のために?
そう思うと目の前が真っ暗になる思いだったが、連れ攫われた被害者らしい娘が泣き出したので、はっと我に返った。
「売られたんならまだいいじゃない。わたしなんて買い物帰りに、いきなり攫われたのよ!? さっきのいかつい男たちに……っ。おまけにこれから海の向こうに連れて行かれるっていうし。いったいどうなっているのよ!?」
「海の向こうに? ちょっと待って、どういうことなの?」
動揺するリネットに対し、ほかの娘たちはすでにあきらめ顔で説明した。
「どうやらわたしたち、このあと船に乗せられて、ハドーノに連れて行かれるようなのよ」
「ハドーノって……確か今、内乱が起こっているはずじゃ……」
リネットは思わずぶるっと震える。
捨てられる新聞にざっと目を通した程度の知識しかないが、確か海の向こうの隣国ハドーノは、王(おう)弟(てい)と王子による王位争いの真っ最中だったはずだ。
おかげで人々の暮らしは逼(ひっ)迫(ぱく)している一方、あやしい薬や武器を売る闇商人が跋扈(ばっこ)しているという。
(若い娘が連れて行かれるのも、そのせいなのかしら……?)
わからないが、とにかく、内乱中の国に連れて行かれて無事で済むはずがない。
「なんとか逃げ出さなくちゃ。このままでは死にに行くようなものよ」
「そうは言っても、どうすればいいのよ。扉はそこしかないし、奴らは食事のときしかやってこない。用足しのときだって、奴らが監視するって言って、中にまでくっついてくるのよ? 本当に最悪!」
それがいやで、排(はい)泄(せつ)は倉庫の隅でこっそりするしかないのだ、と言う娘たちを見て、リネットは胸を痛める。
彼女たちの顔色は一様に悪く、憔(しょう)悴(すい)している様子が見て取れた。倉庫は広いのに、明かりは高いところにある窓から入る光だけで、昼間なのに薄暗い。排泄物のせいでひどい臭いも漂っているし、体調を崩している子も多かった。
一番長い娘はもうここに十日もいるという。精神的な限界も近いのだろう。この上で船旅などしたら、それこそ命に関わる。
(なんとか逃げなくちゃ。船に乗り込む前に。でもどうやって? あの男たちに力で勝つのは無理だろうし、土地勘もないから、逃げてもすぐに捕まっちゃう……っ)
なんとも絶望的な状況だ。リネットは必死に頭を働かせるも、妙案はちっとも浮かんでこなかった。
そのうち日が沈んで、倉庫の中も暗くなってしまう。月明かりだけでは歩き回ることもできず、娘たちは誰ともなく寄りそって床に座った。
「そろそろさっきの男たちが食事を運んでくる時間なんだけど……」
「食事はわりと豪華なのよ。パンとチーズと腸詰め、それとワイン。いっぱい食べて、もっと太れって言われるのよ」
「そう言われてもねぇ。こんなところに閉じ込められていちゃ、食欲も出ないわよ」
それでも、食事はしっかりしておいたほうがいい。いざというときに力が出なくなる。
そうリネットが言おうとしたとき、扉のほうからガチャンと音がした。次いで重たい扉が左右に開けられる。
「食事の時間だ。全員食べろ」
娘たちの言うとおり、男たちが食事を運んできたところだった。
「用足ししたいやつはこっちにこい。連れて行ってやる」
リネットはとっさに立ち上がった。彼女の意図に気づいた娘の一人が、リネットのスカートを引っぱりながら「やめておきなよ」と忠告する。
「言っただろ? あいつら厠(かわや)の中にまで入ってくるんだ。逃げ出す隙はないし、それでなくてもひどい目に遭うよ!」
「でも、建物の位置取りだけでも把握しておきたいの」
リネットも小声で返し、そっと娘の手を振り払う。娘は目を見開き「どうなっても知らないよ!」と吐き捨てた。
「ほぅ、じゃあ行こうか」
進み出たリネットを男たちがにやにやしながら引っぱっていく。リネットは従順なフリをしながら、周囲に目を走らせ、逃げ道はないかと探った。
しかし思いのほか早く手洗いについてしまう。娘たちが行っていたとおり、男たちは本当に中まで入ってきた。
「ほら、さっさとしろよ。見ていてやるからさ」
おまけに下(げ)卑(び)た笑いを浮かべながらうながしてくる。リネットは屈辱感と羞恥(しゅうち)心にくちびるを噛みしめた。
あくまで偵(てい)察(さつ)が目的だったので、尿意が引っ込んだと言って戻ろうと思ったが——。
突如、大きな建物のほうがさわがしくなり、男たちが「何事だ?」と振り返った。
それと同時に、建物から「助けてくれー!」と言いながら、何人かがあわてて逃げ出してくる。建物の中からは、なにかが壊れる音や怒号が聞こえてきた。
「ちっ! なにが起きた? 襲撃か!?」
男たちは舌打ちしながら騒ぎの中へ走って行く。突然のことに驚きながらも、リネットは「今だわ!」と倉庫に走り出した。
強盗が入ったのかと思ったが、それにしては物音が派手だ。なんにせよ早く逃げないと、娘たちまで危ない目に遭うかもしれない。
必死に倉庫まで走ったリネットは、こぶしで扉を叩き、中の娘たちに呼びかけた。
「男たちが離れた! 今なら逃げられるわ! そっちからも扉を開けて! わたし一人じゃ無理だから!」
幸い、男たちは鍵をかけていなかった。一人では無理でも、十人も集まれば女の細腕でも扉を開けられる。
娘たちと協力して扉を開けたリネットは、すぐに「あっちへ!」と娘たちを先導した。
「建物のほうがさわがしいの。とりあえず逆方向に逃げましょう! こっちへ——」
しかし少しも行かぬうちに、建物の中からわぁっと何人かが飛び出してくる。
捕まると思った娘たちは恐慌をきたして、蜘蛛(くも)の子を散らすように方々(ほうぼう)に逃げた。
リネットも逃げようとするが、うしろからやってきた人波に突き飛ばされる。足下はちょうどなだらかな下り道になっていて、彼女は坂を転がり落ちてしまった。
「きゃあ……!」
さらに運の悪いことに、右足がなにかに引っかかって、グキッといやな感触が襲ってくる。
最終的に茂みに受け止められる形で止まった彼女は、全身の痛みとめまいに襲われ、すぐには動くことができなかった。
(に、逃げなきゃ……)
それでも必死に身体を起こそうとすると、坂の上から「こっちに娘がいたぞ!」という声が響いてくる。
リネットは恐怖に襲われ、四つん這(ば)いになって茂みから離れようとした。
しかしこまかい枝が服に刺さって、なかなか抜けない。もがいているうち、一人の男が坂を下ってやってきた。
「動くな」
その上、月明かりを帯びて銀色の光る剣の先を、リネットの眼前に突きつけてくる。
ギラつく刃物にひゅっと息を呑んで、リネットはおそるおそる顔を上げる。
そこにいたのは、屈強な男でも、肥え太った男でもない——背の高い黒髪の青年だった。
逆光で顔はよく見えないが、鋭いまなざしがひたとこちらに向けられているのは、視線から感じる圧力でわかる。
「あ——」
まるで本物の剣のように、鋭く容(よう)赦(しゃ)ないまなざしだ。
リネットは金縛りに遭ったように、彼の視線から目が離せなくなり……。
恐怖が頂点に達するままに、ふっと意識を手放してしまった。
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