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疎まれ皇女は異国の地で運命の愛を知る

イチニ / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/02/25

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内容紹介

壮絶で純粋。究極の愛の物語。
「あなたを見ると、自分が抑えきれなくなる」
マリーアは、〝冷たく暗い目をした黒髪の男〟に、獣のごとく組み敷かれていた。自分がこの男に抱かれるのは、彼からすべてを奪った贖罪のためなのだろうか? それともこれが愛? マリーアは、父親である皇帝からいない者として扱われていた、役立たずの皇女だった。マリーアに流れる王族の血だけが唯一価値のあるもの。ただ父と国の駒として、二度の結婚を強いられた。そして二人の夫を失ったあと。何もかもに絶望し、国を逃げ出すことを決意する。初恋の男と一夜だけの夫。逃げた先で待ち受ける、運命の分かれ目は…。「共に生きられずとも、あなたの幸せを願っています」壮絶で純粋な愛の物語。

立ち読み

   序章

 幼い頃、犬の交尾を見たことがあった。
 父の飼っている狩猟犬の血統を残すため、雌犬が連れて来られて交配していたのだ。
 庭を散歩していて、偶然目にしてしまったその行為は不可思議で、マリーアは隣にいた黒髪の男に「あれはなに?」と訊(たず)ねた。
 男は冷たげな視線でマリーアを見下ろした。そして……。
 ――彼は……交尾ですと言った……けれど、交尾が何かわからなくて……さらに訊ねたら、子作りしているのだと教えてくれた……。
 ハッハッと荒い息を吐きながら、背後から重なり、忙しなく尻尾を振る。子作りのためには、あのような真似をしなければならないのだと知り、マリーアは驚いた。
 ――教えてくれる人が、他にいなかったから……。
 あれが正しい子の作り方なのだと、人間もあのような格好で子を作らねばならないのだと、マリーアはずっと信じ込んでいた。
 けれど……犬と人の交尾は違うのだと、そう教えてくれた人がいた。
 彼の穏やかで優しげな眼差しを、マリーアは思い出す。
「あっ……あっ、んっ……はっ」
 人と獣は違う。
 しかし今の自分はどうであろう。まるで獣ではないか。
 四つん這(ば)いになり、背後にいる男の熱を感じながらマリーアは思った。
 半開きになった口から涎(よだれ)を流しながら、荒い息を吐いている。背後にいる男も、まるであの日見た犬のように、ハッハッと荒く息をしていた。
「あっ……んんっ……やっ」
 肌と肌がぶつかる音と、水気を帯びた音。
 淫音が激しくなり、身体の奥が熱くなる。
 マリーアは悦(よろこ)びに身を震わせ、敷布に爪を立てた。
「ひっ……んん」
 そうして何度か荒く揺さぶられたあと、マリーアの身体の中を穿(うが)っていた硬いものが抜かれ、尻にピシャリと粘ついたものがかかった。
 子種だ。
 身体の中でなく肌に子種を出されるのは、これが子作りではない証(あかし)のようであった。
 ――なら、この交わりは何なのだろう……快楽のため……? それとも……。
 男のかさついた大きな手がマリーアの腰を掴んだ。
 身体を返され、仰向けになる。
 端整な顔立ちの男が、黒髪の隙間からじっとマリーアを見下ろしていた。
 無表情の男の顔をぼんやりと見返していると、ポツポツという水音が聞こえてくる。
 視線を窓に移すと、ガラスに雨の滴(しずく)がいくつもできていた。
 性交に夢中で気づかなかったけれど、かなり前から雨が降っていたらしい。
 ――あの日も雨だった。そして、あのときも……雨だった……。
 マリーアは父に命じられ、隣国の王太子に嫁いだときのことを思い出す。
 厳かな神殿で行われた婚儀。優しい眼差しをした一夜だけの夫。
 己の身に何の価値もなかったと知ったとき、冷たい雨がマリーアの肌を濡らし、赤い火が揺れていた。
 そして二度目の結婚で夫を失ったあとも、雨の中、赤い火が揺れているのを見た。
 火は雨により、次第に弱まっていき、頼りなげな煙が風で揺らぐだけになった。
 マリーアはその白い煙に自身を重ね合わせ、己の身を哀れんだのだ。
 男の手がマリーアの頬を撫でる。
 男は何か言いたげに唇を開くが、言葉を発することなく唇を閉じた。
 マリーアもまた開きかけた唇を閉じ、言葉を呑む。
 訊(き)きたいことがある。伝えたいこともあった。言わねばならないこともある。
 けれど言葉にすれば、この幻のような逢瀬が煙のごとく消えてしまう気がして、何も言えなかった。
 ――彼も私と同じ気持ちなのだろうか……。
 マリーアは頬に触れた男の手に自身の手を重ねた。


   一章 婚姻

 コウル皇国からラトバーン王国への移動は、想像していたよりも過酷であった。
 舗装されていない山道を越えねばならないため馬車は使えず、移動中はずっと馬の上。長旅用の鞍(くら)を用意してもらってはいたが、尻と腰の痛みは、日に日に増していった。
 手綱が引かれ、マリーアたちの乗っている馬が歩調を緩め、止まる。
 帯同していた後方の馬が、横に並んだ。
「マリーア様、ラトバーンの王城が見えてきました。もう少しの辛抱です」
 その馬に騎乗していたアンナが、マリーアを励ますように言う。
 アンナは三十人余りいる一行の中で、マリーア以外では唯一の女性だった。
 異国で暮らすことになる娘のために、父が付けてくれた侍女だったが、旅の初日に会ったばかりなので彼女のことは名と顔以外知らない。
 侍女になり日が浅いのか、「慣れていなくてすみません」とよく謝罪の言葉を口にしていた。
 ぼんやりと見返していると、アンナは苦笑し、マリーアの背後を指差した。
「あちらです」
 指し示された方角に目をやる。
 白い尖塔(せんとう)がそびえたっており、木々の合間からは石造りの巨大な城門が見えた。
 ラトバーン王国の王城。マリーアたちの目的地だ。
 もうすぐ過酷な旅が終わる。
 疲れや尻の痛みから解放される喜びは一瞬で、すぐに胸の奥がじくじくと痛み始め、マリーアは陰鬱(いんうつ)な気分になった。
「ゲルト様。そろそろ交代いたしましょう」
「……そうだな」
 アンナの言葉に、マリーアの背後にいた男が答えた。
 マリーアは一人では馬に乗れない。そのため男は旅の間ずっと、マリーアを自分の馬に騎乗させていた。
 男は先に馬から降りると、マリーアの手を取り、腰を支えた。
 マリーアは自身の立場を理解していた。
 立場上、同乗するのは女性のほうがよいのもわかっている。
 けれど理性と感情は別で、男の体温が離れるのを寂しいと感じてしまう。もう少しだけ、彼といたいと思ってしまった。
 ――このまま一生、旅を続けていられたら。いっそのこと攫(さら)ってくれたら。
「……ありがとうございます」
 馬から降りたマリーアは、想いを胸に隠し、男を見上げて辿々(たどたど)しく感謝の言葉を告げた。
 漆黒の髪に闇(やみ)色(いろ)の瞳。精悍で冷たげな顔立ち。体格はいかにも軍人といった風で、背は見上げるほどに高く、体つきは逞しい。
 ゲルト・キストラー。
 マリーアより六歳年上の彼は、侯爵家の次男で三年前まで皇宮の護衛兵士を務めていた。
 一見冷たそうだけれど、思いやりのある優しい人だ。マリーアは少女の頃から、ゲルトに対し淡い恋心を抱いていた。
「こちらへ、マリーア様」
 低い声で、ゲルトが言う。
 マリーアはゲルトの手を借り、アンナの馬に乗った。
 ゲルトの大きな手には、剣だこがいくつもできていて、硬くかさついていた。マリーアは温かなその手が好きだった。
 彼の手を離すとき、闇色の瞳と目が合った。
 一瞬だけ交わった視線はすぐに外され、触れていた手もあっさりと離れる。
 ――もしかしたら、彼も私のことを想ってくれているのでは……。
 浅ましい期待をしてしまったのを恥じ、マリーアは心の中で自嘲した。

 マリーアはコウル皇国を治めるリードレ家の第一皇女である。しかし皇女ではあるものの、皇帝の前妻の子であるため、マリーアは複雑な立場にあった。
 マリーアが二歳の頃に病死した母は、我(わ)が儘(まま)で矜持が高い、鼻持ちならない女性だったという。
 政略結婚である父との仲は冷え切っていて、母が亡くなったとき、父は大層喜んだらしい。
 父は母の死後すぐ新たな妻を娶(めと)り、空いていた皇妃の座を埋めた。そして一年後、待望の嫡子が、その二年後には華のように麗しい姫が産まれた。
 他国からは血気盛んで残酷な君主と畏(おそ)れられている皇帝だったが、皇妃や皇太子、第二皇女の前では、愛妻家で子煩悩な父親なのだという。
 厳格で冷ややかな姿しか知らないマリーアは、子煩悩な父の姿は想像もできなかった。
 マリーアは物心ついた頃から、皇宮の一室でひっそりと暮らしていた。
 父はマリーアの存在など頭の片隅にもないのか、常にいない者として扱っていた。
 皇妃になった人は、会えば「健やかに暮らしていますか?」と声をかけてはくるものの、マリーアを見下ろす双眸は冷たかった。
 母の実家である伯爵家は、父の目を気にしてだろう。後ろ盾になるどころか、父と同調するようにマリーアの存在を無視した。
 侍女たちはマリーアの世話をひと通りはしてくれるが、極力関わりを持ちたくないようだった。
 淑女としての教育を受けていたが、皇族としての行事に呼ばれたことは一度もなく、建国日も皇族の誕生祝いの夜会も、マリーアは自室で過ごした。
 寂しいとは思わなかった。それがマリーアにとっては普通だったからだ。
 誰にも気にかけてもらえないのは当然だと、己の境遇を受け入れていた。
 着飾った心のない人形のように、マリーアはただぼんやりと日々を過ごしていたのだ。
 そんなマリーアに淡い感情が生まれたのは、十二歳のときだ。
 マリーアは皇宮の護衛兵士をしていたゲルトと出会った。
 ゲルトは誰からも相手にされない陰気な皇女を哀れんだのか、護衛を買って出て、部屋から連れ出してくれた。
 連れ出すといっても、皇宮の外へ行くわけではない。庭を散歩するだけだ。
 ゲルトは必要以上の会話はしないし、マリーアも『お喋り』ではない。けれども二人で黙って花を愛でながら庭を歩いていると、心が満たされ、温かな気持ちになれた。
 皇女という恵まれた立場にありながらも、幼い頃から孤独であったマリーアにとって、ゲルトはたった一人の、特別な存在になっていった。
 ゲルトに寄せる自身の思慕が、臣下に対する信頼ではなく、甘やかな恋情を伴うものだと気づいたのは、彼が皇宮の警備隊から、第一正規軍に配属され、顔を合わす機会がなくなってからだ。
 ゲルトは凜々しい顔立ちもあって、数いる優秀な兵士の中でも注目の的で、侍女たちの噂に上ることも多い。マリーアは侍女たちの会話に聞き耳を立て、ゲルトの話が出てくると興味のないふりをしながら、胸を高鳴らせた。
 皇宮の窓から外を眺めていると、父や弟の後ろに控えているゲルトの姿を見かけた。
 嬉しいけれど切なくて、寂しくなった。
 ――私はゲルトに恋をしている……。
 自覚したからといって、想いが報われるわけではない。
 けれど報われないとわかっていても、初めての恋心を捨て去ることはできず、マリーアは会えない相手に対し、悶々(もんもん)と想いを深めていった。
 十七歳になった頃。
 三歳年下の異母弟ヨハンがマリーアに会いに来るようになった。
 それと同時に、弟を通じてゲルトと顔を合わす機会が増えた。
 ゲルトは正規軍に所属しているが、ヨハンの護衛も受け持っていたからだ。
 ヨハンは不遇だと噂されている異母姉を哀れんだのか、会いに来るだけでなく、花や髪飾り、ハンカチーフなど、贈り物もしてくれた。
 ゲルトがその品を部屋まで届けてくれることもあり、使い走りをしている彼に申し訳なさを感じた。
 けれども第一皇女でありながら立場の弱いマリーアとは違い、ヨハンは皇太子である。ヨハンに気に入られているのは、ゲルトにとって有益に違いない。
 マリーアは国や父だけでなくゲルトにとっても、価値のある異母弟が羨ましかった。
 そして五歳年下の第二皇女クリスティーネのことも――仕方ないと理解していても、マリーアは羨んでしまう。
 自身に面影がよく似たクリスティーネを、父は目に入れても痛くないくらい可愛がっているという。
 父だけでなく、可憐で華やかな彼女は、侍女たちからも人気があった。
 そのクリスティーネが、ゲルトを大層気に入っていて、自分専属の護衛にするのだという噂を耳にしたこともあった。
 結局、ヨハンが反対し、彼女の希望は叶わなかったが、『欲しい』と簡単に口にできる異母妹に妬(ねた)ましさを覚えた。
 クリスティーネは頻繁に孤児院や病院などに慰問に行っていて、奉仕活動に熱心な皇女として、民からの人気も高いと聞く。
 一方マリーアは、奉仕活動の経験がない。外出を禁じられていたからである。
 役立たずな皇女と、民たちからはそう揶揄(やゆ)されているらしい。侍女たちが面白おかしく自分の話をしているのを、マリーアは偶然耳にした。
 自分は父にとっても国にとっても、価値のない人間なのだ。
 そんな風に思っていたのだが……一か月前、マリーアに転機が訪れた。
 十八歳になったばかりのある日、マリーアの元に、父である皇帝が訪ねて来たのだ。
 父の来訪を侍女に告げられたマリーアは、震えながら深く頭を下げ、礼をとった。
「そなたの嫁ぎ先が決まったぞ。数日後に王都を発つのだ」
 畏縮し怯えるマリーアに、父は機嫌よく声を弾ませて命じた。
「我が娘として、皇女としての務めを果たせ」
 マリーアが驚いて顔を上げると、父の背後には背の高い黒髪の男……ゲルトが控えていた。
 
 マリーアは隣国、ラトバーン王国の王太子に嫁ぐこととなった。
 今や大陸一の軍事力を有するコウル皇国だが歴史はそう長くない。地下資源の発見により、この百年ほどの間に繁栄を極めた国であった。
 対するラトバーン王国は長い歴史を持つ国だったが、ここ数年、災害が続き、民たちは困窮していた。民を見殺しにしていると、王家への不満も溜まっているという。
 縁談はコウル皇国からの援助欲しさに、ラトバーン側から持ちかけられたものらしい。
 ――いつかは父の、皇帝の命じた相手と結婚するのだろうとは思っていたけれど。
 たとえ父に疎まれていようとも、マリーアは第一皇女だ。マリーア自身に価値はなくとも、この身体に流れる皇族の血には多少なりとも価値はある。
 そのため、いつかはコウル皇国の、父にとって有益な貴族の元に降嫁するのだろうとは思っていた。
 しかし命じられた結婚は、隣国の王太子妃になることで……想像していた以上に重大な役目だった。
 今までいない者として自分を扱い続けた父に、皇女として、娘として認められたことは嬉しい。大役を与えられたことを誇らしくも思う。
 外交の役に立つことや、同盟の橋渡しができること、父のためになれることを喜ばしいと思うのだ。
 けれど――。
 ――どうして彼が護衛だったのだろう。彼以外の人ならばよかったのに……。
 ラトバーン王国へと、マリーアを送り届ける一行を率いているのは、マリーアが長い間恋い慕っているゲルト・キストラーだった。
 報われない想いだとは、恋を自覚したときからわかっていた。
 しかしラトバーンに向かう旅路をともに過ごし、マリーアはゲルトへの恋情がより強く、深くなっていくのを感じていた。
 ゲルトはマリーアの心など知りはしない。護衛として接し、守るべき皇女として気にかけてくれている。それだけなのに。
 しつこく想い続けるのをやめにしなければ。そう思っていても、彼の瞳を見ると胸が切なく痛み、ラトバーンに着かなければよいのに、と皇女らしからぬ身勝手な欲を抱いた。
 もちろんマリーアの願いなど叶うはずはない。
 花嫁を連れた一行は何事もなくラトバーンに到着し、そしてその翌日、婚儀が行われた。
 
 マリーアはラトバーン式だという花嫁衣装を身に纏い、粛々とした神殿の中で王太子ルカーシュ・ラトバーンの妻となった――。

   ◆ ◇ ◆

「では私たちは下がります。殿下がいらっしゃるまで、お待ちくださいませ」
「あの……アンナの、コウル皇国から連れてきた侍女の姿が見えないのですが」
 到着した日は傍にいたのだが、アンナの姿を今朝から一度も見ていない。婚儀の前もラトバーンの侍女たちがマリーアの身支度を調えてくれていた。
 ふと気になって訊ねると、侍女は首を傾け、ああ……と呟いた。
「コウル皇国の兵士たちが明日こちらを発つとのことで。手続きなどのため、彼らに会いに行っているようです」
「明日……」
 ゲルトが帰国するのは当たり前だ。だというのにマリーアは置いていかれるような寂しさを感じた。
「彼女はこちらに残ると聞いております。ご心配なさらずに」
 侍女はマリーアが表情を曇らせた理由を、アンナが帰ってしまうと勘違いしたからだと思ったらしく、朗らかに微笑んで言った。
「そう……。ならばよいのです……」
 マリーアが薄く笑み返し言うと、侍女は一礼して部屋から退出する。
 一人きりになったマリーアは、ぼんやりと部屋を眺める。
 棚の上に置かれた燭(しょく)台(だい)が、淡く部屋を照らしていた。
 ここは王太子ルカーシュの寝室だという。
 マリーアとの婚姻話が早く進んだため、夫婦の寝室はまだ準備が整っていないらしい。
 天蓋付きの広い寝台と、長椅子とテーブル。装飾品などは見当たらず、一国の王太子の部屋にしては、簡素な部屋だった。
 しばらくしてトントンと扉を叩く音がした。
 長椅子に座っていたマリーアはビクリと身体を震わせ、扉に目を向ける。
 ナイトドレスの上に羽織っていたガウンの合わせを、胸元でぎゅっと強く握り込む。
「……はい」
 小声で返事をすると、ガチャリという音とともに扉が開き、白銀の髪をした青年が姿を現した。
 ――この方が……。ルカーシュ・ラトバーン……。
 王太子とは婚儀のときに一度会ってはいた。しかしマリーアは重々しいベールを被り、始終俯(うつむ)いていたため、夫となる人の顔を見てはいなかった。
 穏やかで理知的な紺色の双眸に、通った鼻(び)梁(りょう)。かたちのよい唇に、滑らかな輪郭。
 燭台の炎に照らされた顔は精巧な人形のように、整っていた。
「こうして顔を合わせるのは初めてですね。マリーア皇女。ルカーシュ・ラトバーンです」
 ルカーシュは長椅子に座るマリーアに近づくと、その場に膝をつき、よく通る声で名乗った。
 マリーアは王太子を迎えるというのに無礼にも座ったままでいたことに気づく。慌てて淑女の礼をするため立ち上がろうとすると、腕をやんわりと掴まれた。
「そのままで構いません」
「ですが……」
「隣に座ってもよろしいですか?」
「……はい」
 マリーアは狼狽(ろうばい)を隠し、頷(うなず)く。
 王太子が自身と同じ十八歳なのは知っていた。けれど髪の色も顔立ちも、どのような性格をしているのかも誰も教えてはくれなかったし、マリーアも訊ねなかった。
 彼の容貌がハッと目を惹くほど整っていたことに気づくと同時に……自身が夫になる人に対して何の興味も抱いていなかった事実に気がつき、呆れた。
 夫になるのだ。ルカーシュの顔立ちがよいのは喜ぶべきことなのだろう。
 けれども――広い寝台でこれからする行為を想像すると、浮かれるどころか心は冷えていくばかりだった。
「マリーア皇女……いえ、マリーアとお呼びしてよいですか?」
 ルカーシュが、穏やかな声で問いかけてきた。
 マリーアは隣にいる王太子をそっと見上げ「はい」と返事をした。
 ルカーシュはしばらく黙ってマリーアを見返したあと、物憂げに瞬いた。
「……少し、話をしましょうか」
「……話、ですか?」
「ええ」
 異性と寝室で二人きりになるのは初めてなので、男性が閨(ねや)事(ごと)の前にどのような態度を取るのが『普通』なのかわからない。
 しかしルカーシュは床入りに乗り気ではないように感じられた。
 この婚姻はマリーアだけでなく、ルカーシュにとっても政略結婚だ。
 恋人、もしくは想いを寄せている女性がいるのかもしれない。もしくはマリーアの容姿が好みではなかったのか。
 ありふれた色合いの亜麻色の髪に、濁(にご)った緑色の瞳。醜くはないと思うが、鏡に映る自分は華がなく、陰気さがあった。
 五歳年下の異母妹クリスティーネは艶(つや)やかな金髪と、ぱっちりとした大きな碧眼(へきがん)の瞳の華やかな少女だった。成長したらもっと美しくなるに違いない。
 異母妹が結婚相手ならば嬉しかったのだろうに、とマリーアはルカーシュを哀れに思った。
「ご存じかもしれませんが……ラトバーンはこの五年間、大きな災害が立て続けに起き、多くの民が犠牲になりました。作物が被害を受けたことによる、餓死者も少なくはありません。そのうえ父……陛下は臣下の意見を無視するかたちで、治水費用のため税を上げてしまった。困窮した民の不満は王家に向けられています」
 ルカーシュはマリーアから視線を外し、壁を見ながら話した。
 ラトバーンに大きな災害があり、民たちが困窮しているのは知っていた。しかし詳しい内容、作物の被害や、餓死者。ラトバーン王の政策については初耳だった。
 マリーアは皇女ではあるが、他国どころか自国の国情にすら疎い。どう答えてよいのかわからず黙っていると、マリーアに構わずルカーシュは淡々と話を続ける。
「この婚姻……コウル皇国との同盟は我が国にとって、いえラトバーン王家にとって、何としても叶えたい重要なものでした」
「……ええ」
 コウル皇国は同盟を結ぶにあたり、多額の援助をラトバーン側に申し出たという。
 ラトバーンの国の事情は何となくわかったが、マリーアはどうして初夜を前にしてこのような話をするのか、ルカーシュの真意がわからなかった。
 この婚姻はあくまで政略結婚だと、国のためであり自分の意思ではないと、マリーアに主張したいのだろうか。
「あなたは恋をしたことがありますか?」
 居心地の悪い沈黙あと、ルカーシュが淡々とした口調のまま、問いかけてくる。
「……は……? 恋、ですか?」
 国の事情の話をしていたのに、がらりと話題を変えられ、マリーアは意味がわからず首を傾ける。
「恋。恋愛です。恋をしたことがありますか?」
 ルカーシュは重ねて問うてくる。
 なぜそのような質問をするのだろう。純潔であることを疑われているのだろうか。
 マリーアはゲルトへの片恋は誰にも明かしていない。
 ラトバーンに到着してからはゲルトどころか、他の男性とも会話すらしていなかった。
 戸惑いながらルカーシュを窺うと、彼は口元に柔らかい笑みを浮かべ、マリーアを見下ろしていた。
「……私は……わかりません」
 見透かすような眼差しを向けられ、マリーアは俯く。
 ありませんと、そう答えなければならないのはわかっていた。けれど脳裏にずっと恋い焦がれていた男の姿が浮かんでしまう。
 叶うことのない、誰にも知られてはならない、自分だけの秘密の恋。
 マリーアはゲルトへの恋心を、大切に胸の中にしまい、温めてきた。皇宮の代わり映えのしない寒々しい日々の中で、ゲルトへの想いだけが春の陽気のように暖かだった。
 マリーアはその想いを否定したくなかった。恋ではなかったと、その場限りの嘘であっても言いたくない。
 曖昧な答えを不審に思ったのだろうか。再び居心地の悪い沈黙が続いた。
 ――軽はずみに、答えてしまった……。
 幼い頃ならばあると、過去のこととして話せばよかった。しかしそういう答えすらも、純潔や不義を疑われる原因になるのかもしれない。
 ――政略結婚というのは……こういうものなのね……。
 互いの国の利益のための結婚だ。
 たとえ夫婦の会話であっても、国の不利益になることを話してはならない。自分の何気ない発言がコウル皇国の汚点になってしまう。
 己の置かれた立場に改めて気づき、マリーアは怖くなった。
 足をすくわれないように。決して隙を見せないように。誰にも心を見せず、これからずっと死ぬまで、異国の地で、気をひきしめ暮らしていかねばならないのだ。
 コウル皇国で役立たずな皇女として暮らしていたとき以上に、寒々しい日々が待っている。
 冷えた水を飲んだかのように、身体が奥から凍えていく。
「僕は……恋をしたことがないのです」
 ルカーシュは小さく息を吐いたあと、そう言った。
「かたちばかりの婚約者がいた時期もありますが、結婚には至らなかった。王族の嫡子として、国のために結婚しないといけないと幼い頃から言われていたのもあったからかな。愛とか恋とか、そういう気持ちを抱いたことがないのです」
 ルカーシュは穏やかな声音で続ける。
「王族であるならば国のために生き、民のために役に立たねばなりません。国益になる相手と結婚するのは王家に生まれた者の義務です。でも、だからこそ僕は……義務を果たし、僕の妻になってくれたあなたを大切にしたい」
 マリーアはハッとし、俯いていた顔を上げた。
 ルカーシュはマリーアを見ていなかった。何もない白い壁を――いやもっと先にある何かを、見据えているかのようだった。
「今の僕たちの間には恋愛感情はありません。けれどいつか……長い時をともに過ごすうちに信頼し合い、穏やかに想い合える。そんな関係を築けたらと思っています」
 ルカーシュはマリーアへと視線を移す。
「あなたを王妃として敬い、あなたの善き夫となれるよう努力します」
 真摯な眼差しで誓うように告げられ、マリーアはルカーシュを正視できず、顔を俯かせた。
 ――この方は王族として誠実に私に向かい合おうとしている、だというのに私は……。
 ゲルトへの想いを抱えたまま、異国の地で寒々しい日々が始まるのを恐れていた。皇女として仕方がないと運命を受け入れながらも、己の身を嘆き、哀れんでいた。
 ラトバーンに向かう旅路の中で、このまま旅が続けばよいのにと願った。ゲルトが自分を攫ってくれないだろうかと、淡い欲望すら抱いていたのだ。
 国や父、民、そしてゲルトの将来を考えるならば、決して望んではならない願いだった。
 思慮のなさを突きつけられた気がして、マリーアは自身を恥じた。
「私は……」
 口を開くものの、続ける言葉が出てこない。
「昨日、ラトバーンに到着したばかりですし、あなたも疲れているでしょう?」
 ルカーシュは重くなった空気を取りなすように、朗らかに言う。
「僕はここで休むので、あなたは寝台を使ってください」
 ルカーシュはマリーアの態度から何かを感じ取ったのだろう。マリーアとの共寝に猶予をくれるらしい。
 閨事は痛いと聞いていた。恐ろしいし、相手は今日初めて顔を合わせたばかりだ。
 先延ばしにしてくれるならば、そのほうがよい。けれど。
 ――我が娘として、皇女としての務めを果たせ。
 父にかけられた言葉を思い出し、マリーアは唇を噛む。
 ――私はコウル皇国の皇女として嫁いできたのだから……。
 役立たずの皇女として、誰からも期待されず、いない者として扱われてきた。そんな自分にようやく与えられた初めての務めなのだ。
 ルカーシュがラトバーンの王太子として義務を果たさねばならないように、マリーアもまたコウル皇国の皇女としての務めを果たさねばならない。逃げるわけにはいかなかった。
「いいえ…………疲れてはいません」
 マリーアは顔を上げルカーシュを見つめ、首を横に振った。
 愚かだとわかっていても、自分の感情を上手く処理できない。ゲルトを想うと切なくなった。だからこそ、ラトバーンで生きていくために、きちんとルカーシュの妻になりたかった。
「マリーア……これから僕たちは多くの時間をともにするのです。互いのことを知ってからでも遅くはありません。僕はあなたの気持ちが落ち着くのを待てないほど、せっかちな男ではありませんよ」
 ルカーシュは肩を竦め、おどけるように言う。
 異性との交遊はゲルトと異母弟のヨハンくらいだったけれど、マリーアは言動や態度から、ルカーシュは優しい人なのだと感じた。
「……殿下は……私のことがお嫌いですか?」
 訊ねると、ルカーシュは哀れみの籠もった目でマリーアを見返した。
「いえ……。あなたが、震えているから」
 膝に置いていたマリーアの手の甲に、ルカーシュの指がそっと触れる。
 ナイトドレスに爪を立てたマリーアの手は、小刻みに震えていた。ルカーシュに指摘され、自分が震えていたのに気づく。
 マリーアは手のひらを返し、勇気を出して、ルカーシュの指を握った。
 ルカーシュの指は冷たかった。
 すんなりと長く、節が骨張っているものの、皮膚は滑らかだ。剣など持ったことはないのだろう。その手は傷ひとつなく、美しかった。
「皇女として……いえ、あなたの妻としての務めを果たしたいのです」
 マリーアは迷いそうになる心を隠し、必死でルカーシュを見つめる。
 マリーアの覚悟と想いを受け取ったのか、彼の手がマリーアの手を握り返してきた。


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