書籍詳細
それなりに幸せです、たぶん 美しき公爵の盲目的執愛
ISBNコード | 978-4-86669-468-9 |
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サイズ | 四六判 |
定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2022/02/15 |
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内容紹介
人物紹介
イルザ
伯爵令嬢。とある事故により大怪我を負い、夫・アーベルに離縁を告げられる。
アーベル
異常な執着心ととてつもない美貌を持つ、公爵家嫡男。
立ち読み
■序章
体が重い。
酷く、だるい。
身を起こすどころか瞼を開けることさえ億劫だった。
寝起きは悪い方だが、そういうのとはまるで違う。二十年の人生の中で、これほど不快な目覚めは初めてのことだった。
自身に何が起きているのか考える。
考えて、思い出して。気づいて——。
そうしてから、イルザは重い瞼を開けた。
ベッドの傍に、見慣れた男が立っている。
艶やかな銀色の髪。切れ長の瞼の奥には、鮮やかな紫水晶の瞳。
染みひとつない白い肌と、通った鼻梁。
冷たげで美しい顔立ちは、異質なほどに整いすぎていて、どこかおそろしくもある。男は感情を削ぎ落としたような無表情で、ベッドに横たわっているイルザの顔を覗き込んでいた。
「君と離縁する」
シュテイツ公爵家の嫡男であり、一年前結婚した夫——アーベル・シュテイツの言葉に、イルザは笑ってしまいそうになった。
おそらく、この体の重さからして、『あの後』すぐ、というわけではないだろう。きっと何日か経っている。
なのに、病床で目を覚ました妻に掛ける最初の言葉が『離縁』とは。
もう少し気遣いはできなかったのだろうか。
イルザは呆れるが、できなかったのだろうな、とも思った。
わかった、と答えようとしたが、声が出ない。
気持ち的な理由ではなく、喉からは掠れた息しか出なかった。歯がゆく思いながらも、イルザは静かに頷いた。
八歳のときに出会い、婚約者になり、年月を経て夫婦となった。
婚約者、夫であったアーベルのことをイルザはよく知っていた。
どれだけ他者から間違っていると指摘されようとも、彼は自分の意志を曲げることはない。
彼の気持ちを変えようとしたって、どうにもならないことは、イルザが一番よく知っていた。
不思議なことに怒りはなかった。
少々悔しさはあるものの、大半は仕方がない、という諦めの方が強い。
ただ——。
イルザを見下ろす紫の瞳が、凍えてしまいそうなほどに冷たいのが切なかった。
■離縁後の生活
今日は祖父母の五十回目の結婚記念日である。
二人の贈り物にと、イルザは近くの商店へワインを買いに行った。
店主に相談しワインを選び、店から出ると、大通りに黒塗りの馬車が停まっているのが目に入る。馬車の小窓は分厚い黒いカーテンで覆われていた。
(大貴族がお買い物かしら。それとも……歌劇の役者とか)
王都と比べたら田舎だけれど、ロイマー街には有名な劇場があった。安い席でもわりと高値なので、頻繁に行くことはできないが、イルザはひと月に一度の娯楽として、劇場に足を運んでいた。
男性でも女性でも、美形を見るのは眼福である。
遠くから鑑賞するだけならば、美しければ美しいほどよいと思う。身近にいたら、いろいろ苦労もあるのだが。
「イルザ!」
いかにも怪しげな馬車を、好奇心を露にちらちらと見ていると、背後から大きな声で呼ばれた。
振り返ると、亜麻色の髪をした背の高い青年がイルザの方へと駆け寄ってきていた。
「ダリル」
「帰るのだろう? 送っていくよ」
ダリルは朗らかに笑い、手を差し出してくる。
「すぐそこだし……平気よ」
「ちょうど君の家にも用があるんだ」
少し迷うが、断るのもおかしい気がする。
「……ありがとう」
イルザは彼の厚意に甘えることにして、肩から斜めに提げている、ワイン入りのバッグを彼に渡す。
ふと、大通りの方へ目をやると、いつの間にか、黒塗りの馬車は、いなくなっていた。
イルザは二年ほど前、階段から落ちた。
全身を打ちつけ、五日もの間、昏睡状態だったらしい。
右手首と右足を骨折し、そう重大ではないものの後遺症が残った。
右手の指は強く握り締めることができないため、細かな作業や、重いものを持つことが難しくなった。特に苦労するようになったのは文字を書くことだ。
歩くときは足を引きずるようになった。
訓練により補助がなくても歩けるようになってはいたが、外出するときは念のため杖を持つようにしていた。
杖をつき、ゆっくり歩いているイルザを見兼ねてだろう。ダリルは会うと必ず、イルザに声を掛け、世話を焼いてくれる。
「イルザ、ワイン好きなのか?」
杖を使い、ゆっくりと歩くイルザに歩調を合わせながら、ダリルが訊いてくる。
「ワインは祖父母への贈り物なの。結婚記念日だから。わたしはワイン、というかお酒類は全くダメ」
「全く?」
「ええ。一口飲んだだけで顔が真っ赤になってしまうの」
「へー。可愛い」
可愛い。
さらりとした言い方だったので、深い意味はないとは思う。
けれど、「どこが?」とか「何が?」とか訊ねて、おかしな流れになっても困るので、反応はしないことにした。
「……ダリルはお酒、飲めるほう?」
「んー、普通かなぁ」
「そう。普通なのね」
妙に素っ気無い口調になってしまい、微妙な空気が流れた。
取り繕った方がよいのかな、と思ったが、面倒なのでやめる。
「イルザ、お酒がダメなら今度さ、食事」
「ダリル!」
ダリルの言葉を甲高い声が遮る。
「リンダ……」
ちょうど二人の目的地である屋敷の門から、金髪の少女が出てきたところだった。
少女の姿を見るなり、ダリルが舌打ちするのが聞こえた。
「ちょっと! 何してるのよ!」
金色の長い髪をなびかせて、リンダが駆け寄ってくる。白い頬は怒りのためか上気し、吊り目がちの瞳はいつも以上に吊って見えた。
「何って。イルザのワインが重そうだったから」
「あたしとの待ち合わせより、この人の介護を優先したってことっ!?」
どうやらダリルの『用』というのは、リンダとのデートだったらしい。
「一緒に暮らしている従姉妹に対して、この人はないだろう……」
「夫に捨てられて、うちの離れを間借りしてるだけの人よ!」
「失礼な言い方はやめろ」
「何よ! 本当のこと言って何が悪いの! おじいさまが同情して、どうしてもって言うから、うちに住まわせてやってるの。みんな迷惑しているんだからっ。行く場所がないなら修道女になればいいのに! 人の婚約者に色目使うなんて、最低よ、あなた!」
リンダはイルザをギロリと睨む。
ごめんなさい、と謝るのは簡単だ。しかし謝ればもっと怒り出すような気がしたので、イルザは目を伏せ、黙ることにする。
そんなイルザの姿は、ダリルの目には儚げに映ったのかもしれない。
「人を平気で傷つける君の方が最低だよ」
呆れと不快感を滲ませた声音で、ダリルが言った。
リンダは目をぱちくりさせ、一瞬の後、わああああ、と弾けるみたいに、大声で泣き始めた。
修羅場に気づいたのだろう。執事とメイドが、屋敷から飛び出してきた。
年配のメイドが、泣き喚くリンダの肩を抱き、屋敷の中へと連れて入る。
執事はダリルに、今日のところはお帰りくださいと、指示を出した。
「……ごめん」
ダリルがワインの入っているバッグをイルザに渡しながら、謝ってきた。
(それはいったい、何に対しての『ごめん』なのだろう。リンダの発言をリンダの代わりに謝っているのか。それとも単に修羅場に巻き込んで、ごめん、という意味なのだろうか)
「気にしてないから平気よ」
彼の気持ちはわからなかったが、イルザは適当に微笑み、礼を言ってから、バッグを受け取った。
どこかイライラしているような足取りで去っていくダリルの後ろ姿をイルザが見送っていると、執事が躊躇いがちに声を掛けてくる。
「その……お嬢様は、年齢のわりに無邪気すぎるところがありまして……」
リンダは今年で十五歳になる。
言葉遣いはともかく、癇癪持ちなところは従姉妹としては少々心配だ。彼女からしてみれば、余計なお世話だろうが。
(でも嫉妬ならば……ああいう態度になるのは仕方がないのかもしれない)
ダリルはリンダより四つ年上の十九歳。
爵位こそ持たないが、この辺りの商業を牛耳る商家の三男坊だ。
働き者で、頭が良く、見栄えが良い彼を、リンダが気に入り、婚約を望んだらしい。
リンダは一人娘のため、婿入りになる。三男坊の彼にとっては、これ以上ないほどの縁組だった。
けれど、好条件な縁組とはうらはらに、ダリル本人の気持ちはリンダに向いていないように見える。
だからこそ、リンダも苛立ち、嫉妬をするのだろう。
「私もリンダの気持ちを考えず、ダリルと親しくしてしまっていたから……行動に気をつけます」
微笑みながら見返すと、執事はなぜか苦痛を堪えるような、痛ましいものでも見るような表情を浮かべた。
リンダの父であり、イルザの伯父が跡を継いだヤンセン子爵家。その敷地内にある離れに、イルザは住まわせてもらっていた。
掃除も食事も、全て子爵家のメイドたちがしてくれているので、不自由は全くない。
リンダはみながイルザの存在を迷惑に思っていると言っていたが、執事を筆頭に、大半の使用人はイルザに同情してくれているのか、好意的だった。
祖父母はもちろんのこと、伯父も事情を知っているので、イルザに対して優しい。
風当たりが強いのはリンダ、そして——おそらくその口の軽さから事情を知らされていないのであろう、リンダの母であるヤンセン子爵夫人くらいだ。
もしかするとダリルのことだけでなく、屋敷内がイルザに好意的な雰囲気なのも、彼女を苛立たせる原因なのかもしれない。
「あ、イルザ様。カール様から手紙が来ておりましたので、部屋に届けております」
イルザがワインを執事に預け、離れへ戻ろうとしていると、執事が思い出したように言う。
カールはイルザの兄である。
「仲の良いご兄妹なのですね」
こちらに越してきてからというもの、週に少なくとも二回。多いときは連日、手紙が来る。
「心配性なんです」
イルザは苦笑した。
夫に離縁を言い渡されたイルザは、母方の祖父を頼りにロイマー街に単身で越してきた。
本来なら、実家に帰るのが筋であったが、祖父の跡を継ぎヤンセン子爵となった伯父が後見人となり、イルザを預かってくれることになった。
イルザの実家であるバーデン伯爵家は、父が隠居したため、兄のカールが跡を継いでいた。
離縁後、出戻らなかったのは、兄が新婚で、義姉や産まれたばかりの子どもに遠慮した。……というのが表向きの理由であったが、大半の人がそれが真実ではないことを知っていた。
アーベル・シュテイツ。
イルザの元夫はおそろしく華やかな容姿の持ち主というだけでなく、王位継承権は放棄しているものの王の甥っ子という身分で、幼い頃から文事と武事に秀で、王太子の信頼も厚い……社交界でその名を知らぬものはいない有名人であった。
イルザはというと、焦げ茶色の髪に黒い瞳、容姿は普通で優れた才能があるわけではない。そこそこ名門貴族なバーデン伯爵家の令嬢というだけ。
それ以外は没個性なイルザが、彼の婚約者であるというだけで、社交界で名が知れ渡るほどに、アーベルの注目度は高かった。
そんな彼が、幼い頃からの婚約者であり、一年前に妻になった女性と離縁した。
それも、元妻は転落事故で、寝たきりになっているという。
——噂にならないわけがなかった。
体が不自由になった途端別れるなど非道だ、と彼を軽蔑する者もいたという。
事故により子を孕めなくなったに違いない、とイルザに同情する者もいた。
跡継ぎを残せない女など存在する意味がない。公爵家の者、いや貴族として相応しい行動だと、彼を讃える者もいただろう。
そして、正式に離縁が認められたひと月後。
アーベルは、王の三女で彼の従姉妹でもあるカリーナ王女と再婚した。
彼と同じ魅惑的なすみれ色の双眸を持つ人。
おそろしく容貌の整った彼の隣に立っても、色褪せない美しさを持つ女性。
彼と王女は、まるで対の人形として最初から存在したかのごとく、お似合いであった。
カリーナ王女もまた、十七歳という若さだが再婚だった。
国の地盤を固めるため、幼い頃に辺境伯に嫁いだのだが、辺境伯は、まだ三十歳にもなっていないというのに病死したらしい。
そして出戻ってきた王女は、従兄弟のアーベルに恋をした——。
いや……アーベルとカリーナ王女は昔から想い合っていたが、国の事情で引き裂かれていて、イルザとは仮初の結婚であった——。
そういう『話』が社交界に流れた。
ようやくベッドから起きられるようになった頃、イルザは兄からその話を聞いた。
そして、その話の後——。
王都から離れ、ヤンセン子爵家に身を寄せることを勧められた。
イルザは体が動けるようになると、醜聞から逃げるように、王都から出た。
(本当は……修道女になりたかったのだけれど……)
イルザはあの頃のことを思い返し、溜め息を吐く。
イルザは疲れ果てていたのだ。
思うように動かない体のせいでもあったし、噂話好きの社交界のせいでもあった。
カリーナ王女の存在も深くイルザに傷をつくっていたし、元夫のアーベルに対するやり場のない気持ちもあった。
イルザは離れに戻ると、執事から渡された兄からの手紙の封をきる。
綺麗だけれど神経質そうな字が、日々の日常を綴っていた。
何も変化のない普通の日常を——。
■お茶会と噂
午後の柔らかな陽光が降り注ぐヤンセン子爵家の庭園では、二十人余りの淑女たちが、それぞれのテーブルを囲い、談笑を交わしていた。
イルザのテーブルには五人いた。そのうちの一人はリンダである。
「まあ。階段から落ちたの。それで足と手を骨折して、体が不自由に? それを理由に離縁されるなんて。お可哀相に」
上品そうな老婦人が、イルザに哀れみの視線を向けた。
「シュテイツ公爵は見目が麗しいらしいけれど、ずいぶんと薄情なお方らしいわね」
呆れたように言う四十前後の女性は、商家の夫人。ダリルの母だ。
ちなみにシュテイツ公爵というのはイルザの元夫のことである。アーベルは王女と再婚するのと同時に、公爵家を継いでいた。
「そうなのよ。だから私の夫は大層この子に同情して。それで、ここに引き取ったのよ」
ふふ、と優美な笑みを浮かべるのはヤンセン子爵夫人。イルザの伯母。そしてリンダの母親である。
「体は不自由だけれど、気立てはよい子よ。若くして離婚されたこの子がとても哀れで。どうにかしてあげないとと考えていたとき、ふいにベルツ男爵のことを思い出して」
「まあ。でもうちの息子とでは年齢が離れすぎているのじゃなくて?」
老婦人が驚いた風に言う。
「年下や同い年より、年上の方のほうが、この子を大事にしてくれるって思うの」
「うちは大歓迎よ。前妻との間に子どもがいるから、跡継ぎができなくとも、イルザさんが気に病むこともないでしょうし」
隣に座るリンダを盗み見ると、唇の両端が上がっていた。
こういう展開になるよう、彼女が母親に頼んだのだろう。
子爵家主催のお茶会はひと月に一回開催されていたが、イルザが招待されたのは今回が初めてであった。
先日のリンダとダリルの件もあって、誘われた時点で嫌な予感はしていた。
なので、一度は断ったのだが、子爵夫人が離れまでやって来て、是非参加して欲しい、と懇願を装った命令をされた。
ちょうど——というか、その日を狙っていたのか、伯父は不在。かといって、祖父に相談し、いらぬ心配をかけたくなかった。
嫌みくらいなら適当に流せばよいと割り切り、参加することにしたのだが……。
(こんな話になるなら、おじいさまに相談しておけばよかった)
イルザは激しく後悔していた。
「ねえ、イルザ。ベルツ男爵も離婚の経験がおありだけれど、だからこそ、お互いのことを理解できるし、想い合えるのじゃないかしら」
よい話でしょう? と笑みながらも、伯母の瞳は『断るなんて許さない』と言っている。
「……あの、急な話なので。いろいろと考えてから」
無理です、と即答するのは老婦人に失礼な気がする。
イルザはありがちな返答で逃げようとしたが……許されなかった。
「考えることなんてないわ! 悲観していたら何も進まないの! あなたのような人には勢いも大切よ!」
「そうよ、お姉さま! こんな素晴らしいお話を断るなんて失礼よ」
お姉さま。
一度として呼ばれたことのない呼び名をリンダが口にした。
どうやら二人は伯父がいない今、縁談を無理にでも、まとめてしまいたいらしい。
「孫はもう成人しているし、あなたが気を遣う必要なんて何もないのよ!」
ベルツ男爵とやらの母親である老婦人も、縁組を早めに決めてしまいたいようだ。
伯爵家と繋がりが持てることを期待してか、目が爛々としていた。
「そんなに急かされてはイルザさんも困るでしょう」
三人からの圧力に、どう逃げるべきか冷や汗をかいていると、意外なところから助け舟が出された。
ダリルの母である。
「結婚は女にとって一大事ですもの。じっくり考えてみるのも必要ですわ。イルザさんのように、一度失敗された方なら尚のこと」
妙に説得力のある物言いに、三人は押し黙った。
ほっとするが、リンダの顔が凄まじい形相になっている。ダリルだけでなく、ダリルの母まで懐柔していると思っているのかもしれない。
(本当に、勘弁して欲しい……)
リンダの疑念を払拭するには、ダリルを突き放すのが一番だ。
ダリルから何となく好意のようなものを向けられていることには、イルザも気づいてはいた。
けれどもダリルから愛の告白っぽいことを言われたのならともかく、今のところ、何も言われていない。それなのに、突き放すのは、少々勇気がいる。
好意だと思っていたものが厚意で、勘違いだった場合は自意識過剰で恥ずかしすぎる。
(リンダが誤解しているみたいだから、一緒にいるのは困る、話しかけないで……って言えばいいかしら)
リンダに原因を押し付けていることにはならないだろうか。
リンダの『せい』にして、よいものなのだろうか。
ダリルのリンダへの不満が溜まりはしないだろうか。
考えれば考えるほど、面倒になってくる。
伯父に相談して任せてしまうのが、一番楽な方法かもしれないが、そのことにより、将来の婿の株を下げてしまっては申し訳ない気もした。
イルザは二人の婚約にケチをつけたくはないのだ。
面倒だった。
イルザは無関係だ。なのに、こんなことまで案じなければならないことが、面倒くさかった。
(そういえば……彼以外のことで、こんなに悩んだのは初めてかもしれない)
面倒だが、何だか、とても新鮮な気持ちである。
——そんなことを思っていたせいなのだろうか。
「ねえ、聞いてらして?」
ダリルの母が、上の空のイルザを訝しげに見ていた。
「す、すみません。素晴らしいお話なのですが、どのような方とも、私は再婚するつもりはないのです。……それに、伯父様や伯母様にも迷惑をかけていましたが、体も良くなってきたので。近いうちに実家に、兄のもとに戻ろうと思っています」
ダリルの母のお陰で冷静になれたイルザは、適当な断り文句を口にする。
老婦人は残念そうな顔をしたが、子爵夫人とリンダは邪魔者がいなくなると知り、満更でもない顔になった。
今思いついたことであったが、良い案だと思う。
この煩わしい状況、ダリルとリンダの間に挟まれた居心地の悪い環境が嫌ならば、逃げてしまえばよいのだ。
ロイマー街も離れも住み心地が良かった。子爵家のメイドたちとも良い関係を築けていたし、劇場に行けなくなるのも寂しい。
けれど、まあ仕方がない。
実家に——王都に帰るつもりはないし、帰ることはできない。
しかし、こちらで少々問題が起こっていると相談すれば、兄が別の身寄り先を用意してくれるはずだ。
修道院に行きたいと思うが、たぶん反対されるであろう。
(牧場などがある、ここよりももっと長閑な場所で、ゆっくりするのも悪くない)
ぼんやりと平和な田舎の風景を頭に思い描いていたイルザだったが、次の瞬間、容赦なく現実に戻された。
「実家といえば王都でしたわね。あちらも離婚されて、社交界の方々も、あなたに同情的でしょうし。イルザさんも帰りやすいと思いますわ」
ダリルの母の言葉に、聞き捨てならない単語が交じっている。
「…………あの、離婚?」
「シュテイツ公爵よ。二週間ほど前、夫が取引で王都に行ったのだけれど、かなりの醜聞になっているみたいね。カリーナ王女、隣国の大使と不義を犯した上に、国の機密を流していたらしいわ。陛下は王女を庇ったらしいのだけれど、王太子殿下がおかんむりで。カリーナ王女は公爵と離縁させられ、王族の身分剥奪で、北の離島の修道院行き。シュテイツ公爵も妻の管理がなっていないとかで、謹慎中って聞きましたわ」
そんなことは聞いていない。初耳である。
先日届いた『兄』の手紙にも、そのようなこと、なにひとつ書いていなかった。
「大怪我で困っているあなたを捨てたのだから。天罰がくだったのでしょうね」
いくら見目が麗しくたって女の敵だわ、と言って、ダリルの母はくすくすと笑う。
(カリーナ様が不義……?)
信じられなかった。
二年間で結婚生活に飽きてしまったのだろうか。それで、不義を犯したのか。
元夫は妻の不義を、どう受け止めたのか。
考えても仕方がなかった。イルザが案ずることではない。けれど——。
イルザは込み上げてくる焦燥感を周囲に悟られぬように、ひきつった笑顔を浮かべ、話を合わせた。
この続きは「それなりに幸せです、たぶん 美しき公爵の盲目的執愛」でお楽しみください♪