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堅物後見人のせいで今日も悪女は純情を捨てられない

戸瀬つぐみ / 著
森原八鹿 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/05/27

内容紹介

お前の甘い香りに、気が狂う。
「お前の甘い香りに、気が狂う」伯爵家の養女・ルジェは淫魔の血が混じっていることを隠して慎ましく生きてきたが、心に反して身体の「飢え」は強くなる一方。想い人で後見人、国家憲兵隊として働く伯爵のアレシュと結ばれることはない。一刻も早く、糧を分けてくれる結婚相手を探さなくてはならなかった。しかし、飢えを収めようとした淫らな姿をアレシュに目撃されてしまって…。「もう逃さないから覚悟しろ」熱く太い楔とともに、道ならぬ運命を共にする約束を、身体の奥にまで刻み付けられる。だがそんな日々も長くは続かなくて…。

立ち読み

 ルジェにとって結婚とは、生きていくための手段というだけでなく、とある人物との決別を意味している。
 知らず、羽根ペンを持つ手が震えていた。結婚相手は誰でもよかったはずなのに、なぜこうも不安になってしまうのだろう。
(なにもかも、あの人のせいだわ……)
 思い出しただけで腹立たしい。
 ルジェのことを嫌っているくせに、いつも邪魔ばかりする。しかもやたら顔がよい人。多感な頃にその人の顔ばかり見て育ったものだから、自然と造形美の基準が上がってしまった。
 そう……誰でもいいなんて嘘だ。本当はとても面食いなのだ。でも、もう時間がない。それに、相手を選ぶにはルジェには悪評が立ちすぎている。
 迷いを払拭すべく一度大きく深呼吸をして、羽根ペンの先にインクを付ける。――その瞬間の出来事だった。
 地震でも起きたかのような轟音(ごうおん)が、教会の静寂を打ち破ってくる。しかし、地震ではなかった。教会の扉を破壊しそうな勢いで開け放った者がいたのだ。
 急に入り込んできた光のせいで、ルジェの目は眩(くら)んだ。光を背負うようにして現れた人の顔を認識することは難しいが、シルエットだけで誰なのかわかってしまう。さっきまで心の中で腹を立てていた相手だ。
「何事だ! 神聖な儀式の邪魔をするとは!」
 バレイカ男爵は顔を真っ赤にして怒り狂うが、その赤ら顔がすぐに真っ青になっていく。
「国家憲兵隊だ、その場を一歩も動くなよ。すでにこの場は包囲されている」
 大勢の部下を従えながら近付いてくる人物は、ルジェのよく知っている男だった。
 いつも不機嫌そうな顔を向けてくるが、今日は不機嫌では済まない恐ろしい表情をしていた。
「あら、アレシュ……お久しぶり」
 彼、アレシュは国王の忠臣で、憲兵隊の一部隊を率いる優秀な軍人でもあり、そしてルジェの後見人だった。
 後見人といっても仲がよいわけではない。過去に間違いを犯したルジェを許さず、いつも汚物を見るような瞳を向けてくる関係だ。
 それでも一応後見人なので、結婚式の招待状は出した。彼の許可なしに結婚はできないから、人を介して承諾も得ていたはず。
 招待状への返事はなかったから、てっきり来ないのだと思っていたが、外聞が悪いから立ち会う気になったのだろうか。
「見届けにきてくれたの? どうもありがとう」
 ルジェにとって今日という日は、この人との決別の日で、苦みしかないこの感情を完全に切り捨てられるはずだった。
 心の傷を隠してルジェが微(ほほ)笑(え)むと、アレシュはあっさりとそれを否定してくる。
「違う。そこにいる男を捕らえにきただけだ」
 アレシュは祭壇までやってくると、ルジェからペンを取り上げた。インクが飛び散って、純白のドレスに黒いシミを落とす。
 それを見たアレシュは不機嫌な顔を一瞬だけ改めて、口の端を上げていた。「お前にはシミのついたドレスがお似合いだ」とでも言いたげに。
 彼は任務中で、ルジェには用などないのだろう。すぐに背を向け、バレイカ男爵に冷酷に告げる。
「バレイカ男爵。違法薬物密輸、販売の罪で連行する」
 国家憲兵隊の面々が、一斉に男爵を取り囲む。男爵はみっともなく尻餅をつきながら、それでも懸命に否定の声をあげていた。
「な、何かの間違いだ!」
「間違いではない。連れていけ」
 アレシュが一言指示しただけで、憲兵隊の男達は無駄のない動きで男爵を拘束してしまった。
「ルジェ! 私の花嫁! これは何かの間違いなんだ。待っていてくれ!」
 そのまま引きずられていくところで、バレイカ男爵は必死にルジェに手を伸ばしてきた。ルジェが一歩も動けなかったのは、アレシュに遮(さえぎ)られたからというより、行動を起こす意欲がなかったからだ。
 こういう時、自分の心の大事な部分が凍ってしまっていることを自覚する。
「耳障(みみざわ)りだ、その男の汚い口をどうにかしろ」
 アレシュがそう告げると、彼の忠実な部下達はバレイカ男爵の口を塞いで、外に連れ去ってしまった。
 ルジェはその様子を、視界の端でしか見ることができなかった。アレシュの背中でほとんどが覆われてしまっていたからだ。
 すぐに、教会に静寂が戻ってくる。
 アレシュが結婚式の中止を司祭に告げると、彼は怯えながらも納得したふりをして去っていった。泣く子も黙る国家憲兵隊の部隊長にたてつける者などいないのだ。
 ルジェもかつては、アレシュに従順な人間の一人だった。しかし今は、彼に対しての醜(みにく)くねじ曲がった感情が、ただひたすらに反抗心を燃やしている。
 司祭が消え、アレシュの部下達も外に消えてしまった。二人きりになった教会で、彼はようやくルジェとしっかり視線を合わせてきた。侮(ぶ)蔑(べつ)とあきれを携えて。
「婚約者だった男が捕まったのに、興味なしとは酷い女だな……」
「あと少し待ってくれたらよかったのに。そうしたら、あなたは私の後見人から外れることができたのよ?」
 なぜ婚姻成立後にしてくれなかったのかと、ルジェは文句を言ってみる。
 アレシュとルジェ、二人は同じリシカ伯爵家の人間だが血縁関係にない。
 ルジェの母親の再婚相手で、養父となった前リシカ伯爵には子どもがいなかった。養父亡きあと、当主となったのが彼だ。アレシュは前伯爵の甥(おい)にあたる。
 ルジェは伯爵家のお荷物だ。しかし婚姻さえ成立すれば、アレシュは面倒な後見人の役目から完全に降りることができた。成立後なら、何があったとしてもリシカ伯爵家とは無関係と言い張ることもできただろう。アレシュはその機会をみすみす逃したのだ。
「身内が罪人となってしまった時のほうが、差し支える。わかっているだろう? バレイカ男爵の罪はすでに明白だ。お前にも参考人として聴取を受けてもらう」
「あなたがそう言うのなら、尋問でも拷問(ごうもん)でもお好きにどうぞ」
「お前は俺を怒らせる天才だ。……なぜ、あんなのと結婚しようとしたんだ?」
 問われ、ルジェは自嘲の笑みを零して答えた。
「私のことを、好きだと言ってくれたから」
 結婚相手に多くは望めない立場だから、他の女性が目に入らないくらい自分に夢中な人なら、それでよいと思っていた。年齢も地位も関係ない。むしろ善良な人間ではないほうがいい。なぜならルジェもまた、善良な人間ではないから。
「他にいくらでもいるだろう。どうして人の仕事を増やす? なぜ毎回ろくでもない者ばかりひっかけてくるんだ」
「私のことをあばずれだって、あなたがそう言ったのよ。……だから、あまりいい人だと気後れしてしまうの。……おしゃべりはもうおしまい。牢獄でもどこへでも私を連れていって」
 アレシュといると、心も体も不調をきたしてしまう。他の人には覚えない感情をずっと抱いている。ルジェは飢えていた。
 この飢えから解放されたくてどれだけ必死に足掻(あが)いているか、彼は知らない。知らないのに簡単にすべてを壊して、ルジェの心を折る。

 ――アレシュはルジェにとって、憎くて愛しい初恋の人だ。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 教会を出ると、ルジェは押し込められるように馬車に乗せられた。
 アレシュと二人きりの車内は、重たい空気が漂う。蔑(さげす)む視線に傷つきたくなくて、彼を見ないようにずっとうつむいていたから、自分達がどこへ向かっているのかわからなかった。
 馬車が停車し窓の外に顔を向けると、慣れ親しんだリシカ伯爵邸がそこにあったので驚いた。ルジェが今まで生活していて、今日出ていったはずの場所だ。
「……家に帰してくれるの?」
 家、と言ってよかったのかわからないが、他に呼びようがなくそう呼んだ。
 屋敷の所有者は当主のアレシュだが、彼は官舎で生活しているので寄りつかない。だからルジェは今まで、少しの使用人に世話をされながら、ここで一人の生活を送っていたのだ。
 牢獄まではいかなくとも、国家憲兵隊の本部にでも連れていかれるのだと思っていたが、違ったようだ。「参考人として聴取を受けてもらう」と言っていたのは、結局ただの脅しだった。そう解釈したら腹が立ってきて、ルジェは軽く相手を睨(にら)んだ。
「自由にするわけではない。お前はこれから俺の監視下に。しばらくは外出禁止だ。どうせ恥ずかしくて出られやしないだろうが」
「監視? ……まさか、あなたもここに?」
「ここは俺の持ちものだ。何か問題が?」
 言いながら、アレシュは停車した馬車から降りていく。そして、凍(い)てつく瞳のまま、ルジェに手を差し出してくる。
 これは、ルジェを気遣っているわけではなく、紳士としての最低限のマナーだ。わかっていても、ルジェはすぐに手を取ることができなかった。
 アレシュは本気で屋敷で過ごすつもりなのだ。――ただ、ルジェを監視するために。
 さっと血の気がひいた。その手を振り払って逃げ出してしまいたい。彼のそばにいるのは、とても危険なこと。しかし、アレシュが決めたことを覆すなんて、この家では誰にもできやしない。
 アレシュが急(せ)かすように車内に手を伸ばしてきたので、震えながらその手をとる。
「どこか……具合でも悪いのか?」
 問われ、ルジェはすぐに首を横に振る。嘘だった。具合なら悪い。アレシュの姿を見た瞬間から、確実に悪化している。
 まるで本当に心配しているかのような彼の言葉は、ルジェの心を乱す。自分の中の人ではない部分が、今にも騒ぎ出してしまいそうだ。でも、だめだ。どうにか押しとどめなければならない。
「……折れてしまいそうだ」
 つぶやかれたひとことは無視して、ルジェは自分の部屋を目指して黙々と足を動かした。
 ルジェの早足は、アレシュの普通の速度だ。彼を振り払って部屋に逃げ込もうとしていたのに、それさえ許してもらえなかった。
 部屋に足を踏み入れてすぐに扉を閉めようとしたのに、閉まらない。ドアノブはアレシュがすでにしっかりと握っていた。
「湯の準備をさせる。入浴が終わったら食事の時間まで出歩くな」
「わかったわ。でも、食事も部屋でしたい。その……一人で。お願いよ」
「だめだ。話があるから、必ず食堂にくるように」
 アレシュはルジェの返事を聞かずに消えた。逆らわれることを、前提としていないのだ。本当に傲慢で困る。

 ため息を吐きながら寝台に身を投げ出すと、しばらくして母が生きていた頃から身の回りの世話をしてくれているばあやことベルタがやってきた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
 ベルタには今朝、泣きながら別れを言ったばかりだったので、少々気まずい。
「また、戻ってきてしまったわ……」
「そういう運命なのでしょう。私はきっとすぐに戻ってきてくださると信じていましたよ。お嬢様の夫となる人は、もっと完璧な紳士でなければなりません」
「あなたはひいきがすぎるのよ。私が世間からどんな目で見られているか、きっと知らないのでしょう」
「お嬢様こそ、どうしていつもろくでなしとわかっている人を相手に選ぶのでしょうか。ご自分をいじめていらっしゃるとしか思えません」
 自覚があるだけに、ルジェは曖昧(あいまい)にごまかすしかない。
 それから湯浴みのために、ベルタに手伝ってもらいドレスを脱ぐ。そのドレスをベルタが籠の中に雑に入れたので、ふと気になって問いかけた。
「ドレスはどうするの?」
「旦那様からは、焼却して処分するよう言いつかっております」
 潔癖なアレシュらしい考えだ。
 資産家の男爵は、ルジェのために高価なドレスを用意してくれた。胸元やスカート部分には宝石がいくつも取り付けられているのだが……アレシュはきっとそれらを回収しようとすら思わないのだろう。
 リシカ伯爵家の人間が、犯罪に関わっていたかもしれないものを身につけていてはならないのだ。

 言われた通り、食事の時間まではゆっくりと過ごし、頃合いをみてアレシュの待つ食堂に向かった。
 真っ先にテーブルの上を確認して、ルジェはほっとする。
 アレシュの前にはワイングラスが置かれていたが、ルジェのために用意された席にはそれがなかった。長らく屋敷に不在だったアレシュより、ここではルジェの意向が優先されたらしい。席に着くと、酒を嗜(たしな)まないルジェには、レモン水だけが提供された。
 アレシュの視線は、真っ先にその水の入ったグラスに向けられていた。なぜ、食前酒がルジェにだけ出されないのか疑問に思っている様子だ。
「実は私、お酒が飲めないの。体質に合わないみたいで……」
 この国では大人になれば、正餐の時には必ずといっていいほどワインを飲む。酔いやすい人はいるが、ルジェのように体質的に受け付けないと主張する人間はいない。
 二人が同じテーブルを囲むのは、ルジェがまだ少女と呼べる年齢だった頃以来だから、アレシュにはそのことをはじめて伝えた。
 アレシュは一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに無表情に戻り食事に手をつけはじめながらぼそりとつぶやいた。
「飲み物くらい、好きにすればいい」
 しかしそんな彼も順に運ばれてくる食事を前にすると、表情を曇らせていく。
 ルジェの食事はアレシュのものとは差がつけられていた。食が細いルジェは、彼と同じ内容のものは食べられないのだ。使用人達はそれを知っているので、いつも通りの量にしてくれていた。
 飲み物に関しては寛容だったアレシュだが、食事については、よほど気に入らなかったらしい。主菜が置かれると、ついにそれを指摘してくる。
「いつから、そんなに小食になったんだ?」
 はっきりと咎(とが)めるような口調にルジェが怯(ひる)むと、控えていた家令が代わりに返事をしてくれた。
「お嬢様は、いつもこの量を召し上がっておいでです」
「だから、こんなに痩せ細っているんだ……」
 ルジェは、家令や他の使用人が責められるのではないかとはらはらした。
 食べられないのには理由があり、使用人達のせいではない。
「やはりどこか、身体が悪いのか? 医者にはきちんと診(み)せたのか?」
医者という言葉に、ルジェの心は反応してしまう。でもここで焦った姿を見せてはいけない。自分は健康であると主張するように、ルジェは優雅な所作を心がけながら、出された食事を一口飲み込んだあと、違う話題を提示した。
「そんなことより、話があるって言っていたはずでしょう。……今どうぞ」
「……三度の失敗で懲りただろう。もういい加減おとなしくしていてくれ。頼むから」
「でも……いつまでもここにいたら問題があるわ」
 ここは、アレシュの家だ。なのに彼は官舎で寝泊まりをしていて、ここで暮らした期間はほとんどない。ルジェがここに居座っているせいだとわかっている。
 ルジェは二十二歳となり結婚適齢期だが、六つ年上のアレシュも、伯爵家の当主としては早く身を固めなければならない立場。近いうちに結婚して、妻とここで生活するのが正しい。
 妹ですらないルジェの居場所はどう考えたってありはしない。存在そのものが彼の人生の邪魔をしているのではないかとさえ思えてくる。
 だから自分で結婚相手を見つけようとしていたのだが、その努力を否定されるとむっとしてしまう。
「おとなしくしていてもいいけれど、そうしていれば、あなたはこの先のことを考えてくれるの?」
「……それは」
 言いよどみながら、アレシュの秀麗な顔立ちが見事に歪(ゆが)む。普段は判断を迷わない彼でも、決断できないことがあるらしい。
 アレシュの中で、ルジェはどうしようもなくふしだらな女なのだ。これは、世間の噂に惑わされているわけではなく、彼自身が身を以て経験した過去に起因している。
 彼は、ルジェが穢(けが)れていることを知っている。だからルジェに縁談をすすめられないのだ。だとしたら、最後に行く場所は決まっている。
「それとも、私は修道院に送られるのかしら?」
 醜聞(しゅうぶん)にさらされるなどの理由で、問題があり結婚できない貴族の女性が最後に送り込まれる場所なんて、そこしかない。しかし修道院では、本性を隠したまま生きていくのは難しい。ルジェの性質とは壊滅的に相性が悪いのだ。
 もし、彼がそういう判断をしたら、ルジェは生命と引き換えに逆らうしかなくなる。
「私、修道院には行きたくない!」
 これからのことを想像しただけで恐ろしくなる。ルジェは思わず席を立ち、拒否の姿勢を表した。
「そんなことをするつもりはない」
 アレシュは食事中に勝手に一人で怒りだしたルジェに驚いていた。これでもマナーは躾(しつ)けられたほうだ。アレシュもそれを知っているから戸惑ったのだろう。
「嘘……きっとそうなる」
 気分が悪い。目(め)眩(まい)がする。きっと全部彼がいけない。彼が、ルジェの心を乱す。
「ルジェナ!」
 久々に彼から名前を呼ばれた気がした。愛称ではく正式な呼び方をする場合、そこに何か意味があるのだろうか? 昔よく考えていた疑問の答えはわからないままだが、彼は今とても焦っている。そんなアレシュを見るのは嫌いじゃない。自分が原因ならなおさら。
 でも、目の前が真っ暗でなにも見えなかった。身体が傾(かし)いで自分が倒れていく感覚だけは残っていた。

 ――もう、お腹がすいて動けない。


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