書籍詳細
うっかり事後(?)から始まる恋人契約
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/05/27 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章
私は今日、彼氏にポイ捨てされた。
酷い話だ。私の彼氏は最近メジャーデビューしたバンドのギタリストだったのだが、いつの間にかアイドルの女の子と浮気していて、しかもできちゃったのである。
「そういうわけだからさ、君とはこれでバイバイってことで」
話があるんだと言われてのこのこと彼の家に行ったら、先ほどの理由を口にして、別れを切り出された。
なにが『そういうわけ』なんだ。バカなの? それともアホなの!?
「浮気するくらいなら、私とは先に別れておきなさいよ! そのアイドルが私の存在を知って傷ついたらどうするのよ。可哀想でしょ! 頭の中にプリンでも詰まってるのか。あんたなんかこっちから捨ててやるわ! このクズバカプリン頭!」
私の怒りゲージは秒でマックスに到達し、噴火した。
そして悪びれた様子もなくスカした笑みを見せる彼に罵声を浴びせる。
「二度とそのツラ見せるな脳みそナルシスト野郎!」
私は力任せに玄関のドアを閉じて、その足でのしのしと仕事先に向かった。
私の職業は、フリーランスのピアニストだ。
依頼があればどこへだってピアノを弾きに行くのが仕事である。だが、ピアニストのギャランティだけで生活できるほどの売れっ子ではないので、複数のアルバイトを掛け持ちしているのが現状だ。
今日の仕事は、都内にあるバーでピアノの弾き流し。店の雰囲気をよくするための、BGM代わりである。
「いろいろ好きなように弾いてもらって構わないけど、バーだからって、ジャズばかり弾かなくてもいいからね。むしろ、ジャズ以外がいいなあ」
私の雇い主であるバーのマスターは、グラスを拭きながらそう言った。詳しく話を聞いてみると、バーでピアノを自由に弾いてくれと依頼したら、殆(ほとん)どのピアニストがジャズを弾くから聞き飽きたのだそうだ。
「わかりました。ではジャズ以外を」
バーの客入りは上々。客層は中年男性が多め。となれば、普段の私ならポップソングの懐メロメドレーを弾いただろう。
だが、今の私の気分は——。
ピアノの椅子に座って、両手を構える。
場の空気をガラッと変えるように、音を叩き込む。怒(ど)濤(とう)のレガテッシモ。奔流に似た左手の十六分音符に、お客さんがギョッとした顔をして私に注目した。
しかし、別に悪目立ちしたくてこの曲を選んだわけではない。
今の私は怒りの感情に打ち震えているのだ。そう、かつてこの曲を作り上げたショパンのように!
——『革命のエチュード』。
怒りと悲しみの感情が音楽になったような名曲。炎でも纏(まと)うかのような私の感情を曲にぶち込む。
左手で奏で続ける音は息をつく間もなく、右手で弾くのは力強いメロディー。
それはまるで感情という名の炎だった。台風によって炎は激しく煽(あお)られ、燃え上がる。荒ぶる炎の中で一際存在感を放つのは、怒りや嘆きのメッセージ。
自分の呼吸さえ忘れてしまうほど、勢いに任せて最後まで弾き抜いた。
「はあっ……」
難曲を弾いた達成感のあとに訪れるのは、苦々しい虚無感。
あんなに好きだって言ったくせに。
私だってすごく尽くしたのに。
結婚しようって約束したのに。
あの男は、私に甘ったるいセリフを吐いておきながら、その裏でアイドルを抱いていたのだ。
「くっ……」
胸にじわじわ広がる、悔しいという気持ち。あの男と過ごした三年は一体何だったんだろう。全部私の空回りだったのか。バカみたい。騙された。もうバンドマンなんか一生信じない。
様々な感情に打ちひしがれていると、突然、周りからワッと拍手が巻き起こった。
「すごいすごい!」
「他のも弾いてくれ!」
「今の曲、めちゃくちゃよかったよー!」
バーのお客さんが口々に称賛してくれた。好きな曲を好きなように弾いただけなのに、ありがたい。今はその温かい言葉が胸に沁みるよ。
チラッとバーのマスターを見ると、彼は満足そうな笑顔でグッと親指を立てた。
よし、このまま好き勝手に弾いてやろうではないか!
私は彼氏に捨てられた腹いせに、思い切りアップテンポでノリのいい曲を選び、次々に弾いていく。
お客さんのウケは上々だった。
私は普段よりちょっぴり色をつけてもらったギャランティを頂き、ほくほくとバーを後にする。
ふう……満足いく演奏をした日は、なんだかいつもより充実感に溢(あふ)れているな。
しかし、虚しい寂しさは消えない。私は今日、ひとりぼっちになってしまったのだ。
銀行のATMにギャランティを預け入れたあと、上着のポケットに両手を突っ込んで夜空を眺める。
月は見えない。ほうと息を吐くと、白いもやは暗い空に消えていった。
今の季節は冬。今日はクリスマスイブだった。街中の街路樹はイルミネーションでデコレーションされていて、キラキラと綺麗に光っている。
よりによって、どうしてこんな日に、私はこんな目に遭っているのだろう。
今頃、あの男はアイドルの彼女とヨロシクやっているのだろうか。
……想像したら、ムカムカと腹が立ってきた。
「よし、こんな日は飲もう!」
寂しい時、悲しい時、お酒は友達になる。
以前、友人にそう話したら『飲兵衛だね』と言われたけど、私がこのような酒好きになってしまったのは家族の影響が強い。
お父さんは車の部品工場を経営している会社の社長で、無類のお酒好きだった。酔うと陽気にお喋りするお父さんはいつも愉快で、面白かった。そしてお母さんは、自宅兼スナックのママである。
小学生の頃、宿題はスナックの店内で片付けていた。常連のおじさん、おばさんは私にお菓子をくれて、お酒の上手な付き合い方について詳しく教えてもらっていた。
かねてよりそういう下地があったので、成人したあと私がお酒好きになってしまったのは当然といえる。
今日は、適当なところで一杯やろう。
私は繁華街の路地にある立ち飲みの居酒屋に入って、とりあえずレモンサワーを飲んだ。安いお酒のいいところは、お手軽に酔えるところである。そのまんまだが、まあ、こういう日があってもいいじゃない!
どうせ私は捨てられた女。クリスマス直前にポイされた女なのだから!
ちょっとヤケになりながらレモンサワーを中ジョッキ二杯ほど飲み、いい感じにほろ酔いになったところで、お店から出る。
火(ほ)照(て)った頬に当たる冬の風は、どこか心地よい。
ふと、クリスマスソングが聞こえてきた。やっぱりこの時期はクリスマスにちなんだ曲が似合う。バーの弾き流しでクリスマスソングを弾いてもウケがいいくらいだ。
街を歩く人々は様々。会社帰りのサラリーマン。大学帰りの学生。客引きのお兄さん、そして仲睦まじく手を繋(つな)いで歩く恋人達。
そういえば、クリスマスイブを一緒に過ごしたいと彼氏に言ったら、その日は外せない打ち合わせがあるからと、断られたっけ。
あれもよく考えてみれば、フラグだったんだな。打ち合わせなんて嘘で本当は、浮気相手のアイドルちゃんと一緒に過ごす予定だったのだ。
それを知らなかった私は、今日この日に呼び出されたことにすごく喜んだ。
今年こそやっと彼氏とイブを過ごせるんだって、ハッピー気分でいっぱいになっていた。
今となっては、いかに自分が道化だったか、身に染みてわかる。
いつから私は、彼の『二番目』になっていたのだろう。
もしかして……最初から? アイドルが本命で、私が遊び相手だったってことかな?
ツン、と鼻の奥が痛くなった。思わず涙が浮かびそうになって、慌てて首を横に振る。
ダメダメ。あんな男のために泣くなんて絶対嫌だ。むしろ笑ってやる。あんな最低野郎、別れて正解だったのだ。いなくなってせいせいするのだ。
「はっはっはー! ……はあ」
ひとりで笑っても虚しい。あと、すれ違った通行人が不審者を見るかのような目で私を見てくるので、声を出して笑うのはやめよう。
こんな日はどう過ごしたらいいのかなあ。
とにかくピアノが弾きたいな。すべてを忘れて、ひたすら弾いていたい。
なんとなく足が向くままにトボトボ歩いていたら、いつの間にか繁華街を離れて、ビジネス街に入り込んでいた。
夜といっても深夜ではないから、まだまだ人通りはある。車の交通量も多い。
だけどやっぱり繁華街に比べると、もの寂しい雰囲気を醸し出していた。
ぶらぶらあてもなく歩いても仕方ないし、そろそろ地下鉄に乗って帰ろう。
そう考えていると、どこからか馴染みのあるメロディーが耳に届いた。
すごく古いけど、有名な洋楽のサビ部分。
口笛だ。しかも上手で、妙に聴き入ってしまう。
私はまるで誘われるように、ほろ酔いの浮ついた足取りで口笛の出所を探る。すると、まるで時代に取り残されたようにぽつんと古い公園があった。
ところどころペンキが剥(は)がれた街灯。冷たい質感のあるジャングルジム。そして錆び付いたブランコに座っている、ひとりの男性。
口笛は、彼が吹いていた。
メロディーがしっかり聴き取れる。これほど上手な口笛なんて、生で聴くのは初めてかもしれない。
思わずうっとり聴き入っていると、彼は私に気付いたのか、口笛をやめてしまった。
物陰に隠れてこっそり聴くべきだったかな。でもそれだと完全に私、不審者だよね。
このまま帰ろうとも考えたが、口笛をタダ聴きしておいて、黙って去るのは気持ちが落ち着かない。
「えっと、その……口笛、上手ですね」
挨(あい)拶(さつ)代わりに称賛の言葉をかけた。すると男性はブランコに座ったまま、私を見上げる。
彼の相貌が、街灯に照らされて露わになり、私は目を丸くして驚いた。
びっくりするほど顔が整っている。歳はだいぶ上みたいだけど、彫りの深い顔に顎(あご)髭(ひげ)がよく似合っているイケオジさんだ。ほんのり日本人離れした顔立ちをしているから、ハーフかクォーターなのかもしれない。りりしい眉に少し垂れた眦(まなじり)。目元のほくろがやけに色っぽい。
こんな寂れた公園でひとりブランコに座っているのが不釣り合いなくらいだ。
「ありがとう」
イケオジさんは優しく微笑んだ。
目を細める表情は柔和な印象を持つ。けれど、どこか儚(はかな)く寂しげで——思わずきゅんと心が痛くなった。
そういえばこの人は、どうしてこんなところでひとり、口笛を吹いていたのだろう。
「あの、差し出がましいことかもしれませんが、何か辛いことでもあったんですか?」
余計なお世話だと思いつつも、訊ねてしまった。
今にも隅(すみ)田(だ)川(がわ)に身投げしそう——と、そこまでの危機感はなかったけど、似た雰囲気というか、彼に危ういものを感じたのだ。
イケオジさんは、特に私を鬱(うっ)陶(とう)しがる様子は見せず、ブランコに座ったまま下を向いた。
「うん。実はね、友人だと思っていた人に裏切られてしまって、落ち込んでいたんだ」
「あら、それは——」
私は目を丸くする。
今の自分と似た境遇の人に出会うなんて、不思議な日もあるものだ。これもひとつの運命なのだろうか。
「許せないことですね!」
思わず私は両手を握り拳にして、力強く言った。イケオジさんが驚いたように顔を上げる。
「私も今日、彼氏に裏切られたんですよ。三年間付き合って、浮気されてた……っていうか多分、私が浮気相手だったんでしょうね」
私は隣のブランコに座って、キコキコと漕(こ)いだ。イケオジさんは不思議そうに私を見て、首を傾げる。
「話が見えないんだけど、自分が浮気相手だったってどういうこと?」
「私、とあるバンドマンと付き合ってたんですが、彼には私とは別にアイドルの恋人がいて、その人との間に赤ちゃんができちゃって、結婚するから別れてくれって言われたんです」
「それはまた、酷い男だね……」
イケオジさんは呆れ顔で目を丸くする。私はたははと笑って、ブランコを漕ぐのをやめた。
「本当に酷い男ですよね。そんな男に惚れていた自分が情けないです」
アイドルと付き合っていた上で私に手を出したのか、それとも私と付き合っている最中にアイドルと出会って乗り換えたのか、今となってはわからない。でも、メジャーデビューしているバンドマンとアイドルの結婚だったら週刊誌が黙っていないのは確かだ。ほどなく明らかになるだろう。
ようするに、彼は週刊誌の記者が私という存在を知る前に足切りしたのだ。まあ賢明な判断である。
いっそ自ら週刊誌に暴露してやろーかとも思っちゃうけど、そんな嫌がらせに時間を割くほど私は暇ではないし、やっても虚しいだけだ。
「それにしても同じ裏切られた者同士か。何だか不思議な偶然だね」
イケオジさんが困ったように笑った。私も苦笑いで返す。
「本当ですよね〜。でも、おじさんは……って、ごめんなさい」
ハッとして謝罪する。『おじさん』呼びはさすがに失礼だよね。
「はは、君からしたら僕は間違いなくおじさんだろうし、別に謝る必要はないよ。でも、名前くらいは名乗っておこうか。僕は冬(とう)賀(が)。冬賀雅(まさ)哉(や)っていうんだ」
「冬賀、雅哉?」
どこかでその名前を見たことがあるような……気のせいかな。
「私は発(ほっ)田(た)歩(あゆむ)です」
自己紹介すると、雅哉さんは右手を差し出してきた。どうやら握手をしたいようだ。私は素直に応じる。
その時、ぴゅうと冷たい風が首を撫でた。真冬ならではの寒さに、思わず身震いする。
「寒いですね〜」
「年の暮れだからねえ」
真冬の季節、夜の公園に大人がふたり、ブランコをキコキコ漕ぐ。なかなかシュールな光景である。
……せっかく名前を教え合ったのに、これでさようならというのも寂しい気がするなあ。
そうだ、どうせ今日限りの、一期一会の関係なら——。
「雅哉さん。よかったらお酒を飲みにいきませんか?」
「えっ?」
思ってもない提案だったのか、雅哉さんは驚いた顔をして、私を見る。
「落ち込んでる時は飲むに限りますよ。もしみっともなく酔っても、私達は今晩限りの『友達』だから、体裁も繕(つくろ)わなくて構いません。気兼ねなく飲めるしお得だと思うんですよね」
雅哉さんは「なるほど」と納得したように頷く。
「お酒に誘われることは多かったけど……そういう誘われ方をされたのは初めてだね」
そう言って、彼は嬉しそうに笑った。
「うん、いい提案だ。ここは寒いし、どうせなら楽しく飲もう」
「そうこなくっちゃ! じゃあさっそく移動しましょう」
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