書籍詳細
帝都純愛浪漫綺譚 〜お狐様の恩寵は、最愛を輪廻する〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/06/24 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序
――大正、某年。厳寒極まる二月の朔日。
凛々(りんりん)たる冬空に真っ白な雪花が舞う、帝都の夜。
有(あり)馬(ま)朔(さく)夜(や)は決死の覚悟で駆け出したが、冷えた空気を吸った瞬間に小さく咳(せ)きこみ、手のひらに血がべったりと付着する。
それは不治の病に罹(かか)っている証。彼女はもう長くない。
だが、たとえ血を吐こうが足を止めなかった。
朔夜が走り出した直後、橋の近くで物陰に身をひそめていた覆面の男が、腰の太刀を抜いて駆け出した。
「死ねっ、有馬ァ!」
住宅区へ続く石橋の欄(らん)干(かん)に凭(もた)れながら、細雪の舞う空を仰いでいた男性――朔夜の夫、有馬慧(けい)が奇襲に驚き、間一髪のところで襲撃者の斬撃を避(よ)けた。
しかし靴底が雪で滑ったのか、身体の均衡を崩して片膝を突いてしまう。
覆面の男が今度こそ慧を斬(き)り捨てようとした時、すんでのところで間に合った朔夜は夫を守るために両手を広げ、二人の間へ飛びこんだ。
直後、右肩(かた)から左わき腹(ばら)にかけて灼熱の痛みが走り、血飛沫が舞った。
夫の腕に抱き留められた朔夜は、閉じていく瞼(まぶた)の隙間から目撃した。
別の方向から黒っぽい服に身を包んだ青年が駆けてきて、覆面の男が逃走する――。
そうして再び目を開けた時、温かい腕に包まれながら寒空を見上げていた。
「何故だ……何故、君がこんな場所にいるんだ……」
呻(うめ)くような呟(つぶや)きが聞こえて視線を横へ流すと、そこに慧の顔があった。端整な面はくしゃくしゃに歪んでいて、黒曜石みたいな瞳に大粒の涙が溜まっている。
涙の一粒が慧の頬(ほお)をつうっと流れていき、ぽたり、と朔夜の顔に落ちた。
「俺を庇(かば)って、こんな怪我をっ……もうすぐ、医者が来るから……それまで、持ちこたえてくれ……っ」
慧は覆いかぶさるようにして朔夜を抱きしめ、ぽろぽろと涙を流している。
朔夜は口を開いたものの、ひゅーひゅーという苦しげな呻き声しか出なかった。
正面から袈(け)裟(さ)斬(ぎ)りにされた身体は激しい痛みを発していて、大量の血液がまっさらな雪道に血だまりを作っている。
自分は間もなく事切れるのだろう。おそらく助かる見込みはない。
朦(もう)朧(ろう)とする意識の中で、それだけは理解していた。
朔夜は力なく瞬(またた)きをすると、のろのろと手を持ち上げた。慧の頬に添え、涙を拭うようにして愛おしげになぞる。
「……わた、し……あな、たに……あいた、くて……」
それが限界だった。ごほっと咳きこんだ瞬間、多量の血を吐く。
慧が大きく肩を震わせ、消え入りそうな声で懇(こん)願(がん)する。
「ああ……全て、俺のせいだ……頼む、逝(い)かないでくれ……君がいなければ、俺の生きる意味なんてない……俺は、君のことを……ずっと、愛しているんだ……っ」
朔夜は唇を動かそうとする。
最期に、私もあなたを愛していると伝えたかった。
しかし、もう自分の意思では唇どころか指一本動かせない。
どくどくと滴り落ちる血と一緒に、命の燈火(ともしび)が消えかけていた。
全身が急激に冷えていくのを感じながら、朔夜は最後の力を振り絞(しぼ)り、抱きしめてくる夫の髪に頬を押し当てた。
慧に一目逢(あ)いたくて帝都へ行こうと決めた時から、死への恐怖は薄れていた。
それよりも、今は彼を置いて逝かなければならないことのほうが怖かった。
「……すまない……俺では、君を救えない……本当に、すまない……朔夜っ……」
――そんなに泣くほど、あなたは私を想ってくれていたのね……それなのに、愚(おろ)かな私は……あなたと向き合うことから、目を背けてしまった。
慧との思い出が、淡い走(そう)馬(ま)灯(とう)のように脳(のう)裏(り)を駆け巡っていった。
帝都を離れろと言われた時、自分は妻として必要なくなったのだと思った。
けれど、もしかすると慧には何か事情があったのかもしれない。
咽(むせ)び泣く彼を見ると、そんな気がしてならなかった。
――ああ、もっと早く……彼と話すべきだった。あなたを愛しているから、ずっと側にいたいと伝えて、仲(なか)睦(むつ)まじい夫婦でいられるよう努力できたはずなのに。
だが、朔夜はその努力を怠った。
本心を秘めて従順なのが良き妻だと勘違いし、慧との間にできた溝を埋めるのをやめた。勝手に心を閉ざして彼を締め出したのだ。
その結果、今(いま)わの際(きわ)になって、ひどく悔(く)いている。
何故もっと早く……手遅れになる前に、自分は行動しなかったのか。
後悔、やるせなさ、哀しみ。何故、何故……と、嵐の大波のごとく様々な感情が押し寄せてきて目尻から涙が溢れた。
と、その時だった。
――チリン――
どこからか、玲瓏(れいろう)たる鈴の音が響く。
朔夜は音の聞こえたほうへ目線だけ動かした。
いつの間にか、少し離れたところに狐が座っていた。体毛は雪白、尾は八本、黄金色の瞳。
神の遣(つか)いか、あるいは神そのものか――死の間際に見るには神々しすぎる美しい白(しろ)狐(ぎつね)だ。
【――愛しき子よ。そなた、最期に望みはあるか】
頭の中で、抑(よく)揚(よう)のない低めの声がした。
あの狐が自分に話しかけているのだと察した朔夜は、血まみれの唇を震わせる。
薄い靄(もや)がかかって朦朧とする頭で必死に考えて、問いかけに心の中で答えた。
――慧と歩む人生を、もう一度やり直したい。
狐がゆるりゆるりと尾を振りながら、小さく首を傾げた。
【そなたは、その男のせいで死ぬ。だのに、その男と歩む人生をやり直したいのか】
視界が霞み、身体に酸素が回らなくなって脳が死んでいく。
朔夜が辛うじて是と応じれば、狐はゆっくり立ち上がった。真っ白な前足を突き出してうーんと伸びをすると、鷹(おう)揚(よう)に踵(きびす)を返す。
【あい分かった。愛しき子の恩に報いて、望みを叶(かな)えてやろう】
――チリン――
また、鈴が鳴った。まるで死出の道へ誘う呼び子のように思えて、朔夜は瞼を閉じる。
死別の悲しみや苦悩、やるせない後悔、それら全てが冷たい雪に覆われていく。
時刻は夜半、日付はぎりぎり変わっていない。
静(せい)寂(じゃく)に包まれた寒空には、葬列の花のごとく氷の結晶が舞っていた。
厳しい冬の最中で春が待ち遠しい〝二月一日〟――朔夜は夫を守り、死んだ。
過去ノ話 出会い、そして再会に至る
朔夜が〝彼〟と出会ったのは、九歳の頃。残雪がある春先のことだった。
当時、朔夜は母の実家、生駒(いこま)家のある信(しん)州(しゅう)の片田舎で生活していた。
祖父母と共に暮らす山間の集落には、月(げつ)影(えい)寺(じ)という寺があり、朔夜はその寺へ続く階段に座って一人、泣いていた。
「うっ……ううっ……」
ぽろぽろと頬を零(こぼ)れ落ちる涙を小さな手で拭う。
母の瀧(たき)子(こ)が結核を患(わずら)い、容態が芳(かんば)しくないらしい。もって年内ではないかと祖父母が話しているのを立ち聞きしてしまったのだ。
検査入院の時、瀧子は悲しい表情で「ごめんね、朔夜」と娘を抱きしめた。
まだ診断が下る前だったが、自分が不治の病に罹っていると薄々察していたのだろう。
結核は罹(り)患(かん)すれば根治が難しく、飛沫感染するので隔離病棟に送られる。幼い朔夜は見舞いも許されなかった。
ひとけのない階段で丸くなって泣いていたら、急に後ろから肩を叩かれた。
驚いて後ろを振り仰ぐと、月影寺の尼僧、緑(りょく)蓮(れん)が微笑んでいた。
「こんにちは、朔夜」
「あっ……こ、こんにちは。緑蓮さま」
朔夜は慌てて涙を拭い、すっくと立ち上がって頭を下げる。
緑蓮は週に一度、寺の一室を使って近所の子供たちに写経と礼儀作法を教えていた。
朔夜をはじめとする子供らは山向こうの尋(じん)常(じょう)小学校に通っているが、文字の読み書きや算術は習っても、写経や礼儀作法まで教わることはない。
緑蓮は学費も取らず、わんぱく盛りの子たちを集めて根気よく指導し、時には大人の相談にも熱心に耳を傾けてくれるから、村の者たちは人徳ある緑蓮を慕っていた。
緑蓮は朔夜が泣いていた理由を尋ねることはせず、自分の背後に語りかける。
「これ、いつまで隠れているのですか。前に出てご挨拶なさいな」
その呼びかけで、緑蓮の後ろから見知らぬ子供がおずおずと顔を出した。
朔夜と年が近そうな子供は紅色の振袖を着ていて、おかっぱの髪をした少女だった。
少女のぱっちりとした瞳と整った顔立ちに目を奪われていたら、緑蓮が紹介してくれた。
「朔夜。この子の名前は、けい。身体が弱くて、あまり外を出歩けないの。月影寺に預けられて、私が面倒を見ることになったのよ。仲良くしてあげてちょうだいね」
緑蓮は時折、帝都からやって来た子供を預かることがあった。
大抵が良い家柄の出でありながら、並々ならぬ事情を抱えた子供たちだ。
「階段で泣いている子がいると、けいが教えてくれたの。私は寺の掃除があるから戻るけど、よければ話をしてみたらどうかしら」
穏やかに笑んだ緑蓮は、けいを置いて寺に戻っていった。
朔夜は着物の袖で濡れた顔を拭いてから、居心地悪そうな振袖の少女の顔を覗(のぞ)きこむ。
「えっと……はじめまして。わたし、朔夜っていうの」
「……うん。はじめまして」
「あなた、ここで暮らすのね。わたしも、おじいさまやおばあさまと一緒に近くに住んでいるのよ。仲良くしてね。年はいくつ?」
朔夜がにこりと笑うと、けいも緊張で強張っていた肩の力を抜いた。
「十一」
「わたしは九つなの。あなたのこと、おけいちゃん、って呼んでもいい?」
「おけいちゃん……まぁ、いいけど」
「わたしのことも、好きに呼んでいいからね」
朔夜は手を差し伸べる。けいが戸惑いがちに手を重ねてきた。
「じゃあ、来たばっかりのおけいちゃんに村を案内するね」
「あ、うん」
けいの手を引いて、朔夜は階段を駆け下りた。
新しく来たばかりの友だちに村を案内する。悲しみを紛らわすには十分だった。
朔夜の母の実家――生駒家は大地主で、信州では有名な豪商だ。
曽祖父の代から人を雇(やと)って味噌や地酒を造るようになり、商才に長けた祖父に代替わりしてからは帝都に出荷して成功を収めた。
特に地酒は好まれて、日本(にほん)橋(ばし)に支店を出せるほど事業は成長している。
やがて伯(お)父(じ)夫婦が商いを引き継ぎ、祖父自身は彼らを「本家」と呼んで、経営から完全に手を引いた。隠居後は、平穏な田舎暮らしを望んだのだ。
商いを通じて帝都の資産家、相良(さがら)家と繋がりができた際は、母の瀧子が当主の相良藤(とう)助(すけ)のもとへ嫁いだ。
しかし、瀧子は朔夜を生んで数年後に離縁状を突きつけられた。
理由は跡継ぎの男児を産めなかったことと、朔夜が難産で、生まれてまもなく疱瘡(ほうそう)に罹りほうぼう手を尽くす結果になったこと。
何よりも、瀧子の身体が幾度もお産に耐えられるほど強くなかったことが大きかった。
生駒家は信州の大地主とはいえ、所詮は田舎の豪商。
帝都に地盤を持つ相良家のほうが家柄としては格上で、嫁としての役目が果たせないと判断されれば離縁されるのも仕方なかった。
娘を連れて地元に帰った瀧子は出戻りで居場所がなく、離れた集落で隠居生活を送っていた祖父母のもとへ身を寄せたが、まもなく結核に罹患して入院したというわけだ。
母に会えない寂しさを埋めるように、朔夜はけいと遊ぶようになった。
月影寺の境内で毬突きをして、飽きたら軒先であやとりをし、お喋(しゃべ)りもした。
けいは身体が弱いからか地元の尋常小学校に通わなかった。
普段は寺の外へ出ることもなかったが、緑蓮から勉学を教わっていて、田舎でわんぱくに育った子供たちにはない落ち着きと品があった。
近所の男子は「お高くとまりやがって」と言いながら遠巻きにけいを見ていたが、けいは気にしていなかったし、朔夜もけいと遊ぶために足繁く寺へ通った。
年の近い同性の友人ができたのが嬉しかったからだ。
「朔夜。その額(ひたい)はどうしたの?」
ある日、寺の境内であやとりをしていた時、けいに尋ねられた。
朔夜は手を止めて、自分の額に触れる。そこには薄らと〝あばた〟が残っており、指でなぞると皮膚がぶつぶつしている。
「わたしね、赤ちゃんの頃、疱瘡になったの。死ななかったけど、このあばたが残っちゃった。おばあさまは、疱瘡神さまがわたしを気に入って助けてくださった。あばたも額だけで済んだから、運がよかったんだよって言うの。でも、あばたがあると〝嫁のもらい手〟がないかもしれないって。疱瘡にかかった、ってだけで嫌われちゃうの。おばあさまとおじいさまが、今からすごく心配しているわ」
「疱瘡に罹ったのかな、とは思っていたけど……聞いちゃってごめん」
「ううん、いいの。でも、このあばたのこと、気持ちわるいって思わない? それで、よく男子にいじめられるから」
声を沈ませたら、けいが肩を抱いてくれた。
「そんなふうに思わない。あばたがあっても全然気にならないよ。男子に何か言われたって気にする必要ない。勝手に言わせておけばいいんだから」
「そうかな……」
「そうだよ。それに、男子は朔夜をいじめているわけじゃなくて、からかっているんだ。朔夜がいつも笑っていて、すごくかわいいから。つい理由をつけて構っちゃうんだよ」
けいが真剣な顔で言うので、朔夜は「え?」と呆(ほう)けた声を上げてから、照れくさそうに破顔した。
「おけいちゃんったら……わたし、かわいいなんて褒(ほ)めてもらったこと一度もないのに。えへへ、ありがとう。でも、そういうおけいちゃんのほうが、ずっとかわいいと思うの」
その途端、けいが顔を歪める。褒めたはずなのに、なんだかとても嫌そうだ。
「朔夜。前から思っていたんだけど……もしかして君、ぼくのことを――」
「二人とも、ちょっと手伝ってちょうだいな。書物の整理をしたいのよ」
緑蓮に呼ばれて会話が途切れた。快活に返事をした朔夜はけいの手を取ると、小走りで緑蓮のもとへ向かう。
けいは何か言いたそうにしていたが、複雑な表情で口を噤(つぐ)んでしまった。
夏が訪れて暖かくなると、寺に引きこもっていたけいも外を出歩くようになった。
その日も、朔夜が寺の裏手にある小川へ遊びに行こうと誘ったら快諾(かいだく)してくれた。
山頂から流れてくる小川は浅く緩やかで、子供が遊ぶにはちょうどいい。
朔夜は小袖の裾(すそ)をたくし上げ、川に入って遊んだが、けいは川辺で丸い石を拾いながら彼女の姿を眺めているだけだった。
「おけいちゃんも川に入ればいいのに。水が冷たくて、気持ちいいよ」
「やめておく。あとで風邪を引いたら困るし」
けいは口を尖(とが)らせながらそう応えて、にこやかに手を振る朔夜を眩(まぶ)しげに見ている。
ひとしきり遊んだあと、朔夜は川から上がって濡れた小袖を見下ろした。
木綿の生地が肌にぺっとりとくっついていて気持ち悪い。日の当たる場所で乾かしたほうが良さそうだ。
朔夜がするすると着物の帯を解き始めたら、けいが慌てたように駆け寄ってくる。
「朔夜! こんなところで着物を脱いじゃだめだよ!」
「濡れちゃったから、おてんとうさまに乾かしてもらおうと思ったの」
けいは朔夜の帯をぎゅっと巻き直すと、自分が着ていた薄手の半(はん)纏(てん)を肩にかけてくれた。
そして形のよい眉をきりりと吊(つ)り上げて、いささか棘(とげ)のある口調で言う。
「女の子なんだから、もっと恥じらいを持たなきゃいけないよ。日当たりのいいところに移動しよう。日向ぼっこをすれば乾くよ。お願いだから、ここでは脱がないで」
「あ、うん……分かった」
やや乱暴に手を引かれて、朔夜は困惑顔でついていく。手元に目線を落とすと、朔夜の手はけいの手に包みこまれていた。
――そういえば、おけいちゃんの手って、わたしの手よりも大きいのよね。年が二つ離れているだけなのに、すっぽりと包みこまれてしまうくらい。背丈も、わたしより大きいし。
不思議に思っている間に、けいが小川の向こうにある山道まで朔夜を連れて行き、危なっかしい足取りで上り始めた。山道を少し上ったところに日当たりのいい高台があるのだ。
しかし、手を繋いで山道を進んでいた時、不意にけいが足を止めた。
「おけいちゃん、どうしたの?」
「あそこに、白い子ぎつねがいる」
けいの指さした先、茂みの奥にある木の根元に子狐が倒れていた。毛並みが真っ白なので、深緑の木々の間にいても目立つ。
朔夜はけいと顔を見合わせると、茂みをかき分けて子狐のもとへ向かった。
子狐は全身が雪白の毛に覆われていて、衰(すい)弱(じゃく)しているのか動かない。
二人でおそるおそる覗きこむと子狐は薄目を開けたが、すぐに瞼を伏せてしまった。
「この子ぎつね、すごく弱っているみたいだ」
「もしかしたら、けがをしているのかも。お寺に連れかえって、手当てしてあげたほうがいいかな」
「うーん……近くに親ぎつねがいるかもしれないし、手を出さないほうがいい気がするけど」
二人で周りの様子を窺(うかが)ってみるが、木々の梢(こずえ)が揺れてさわさわと葉がこすれ合う音しかしない。獣の気配もなかった。
途方に暮れていたら、子狐が小さく尻尾(しっぽ)を振った。ふりふりと二回揺らし、きゅうん、と弱々しい鳴き声を上げた子狐は、差し伸べた朔夜の手をぺろりと舐(な)める。
「この子、とってもつらそう。ねぇ、おけいちゃん。このまま放っておけないよ」
「そうだね……親ぎつねがいる気配もないから、このままだとかわいそうだ」
二人は顔を突き合わせて考えてから、衰弱した白い子狐を寺へ連れて帰ることにした。
見かけの割に、かなり重たい子狐を代わりばんこに抱っこして、けいが生活している寺の離れにこっそりと連れ帰る。掛け蒲団(ぶとん)を寝床にし、そこに寝かせてあげた。
「おけいちゃん。この子のこと、緑蓮さまに言う?」
「今は内緒にしておこう。寺の離れに獣を入れるなって叱(しか)られて、山に返してこいって言われたら困るし」
「じゃあ、とりあえず、少し様子をみてみようか」
子狐は見たところ外傷はないが、かなり弱っていて自分の足で立つこともままならない。水は飲んでも食べ物の類は一切口にせず、ずっと蒲団の上で丸くなっていた。
そんな子狐が哀(あわ)れで、子供ながらにできることを全て試みたあと、朔夜は両手を合わせて祈った。
地元の集落には山神信仰があり、朔夜も祖父母から、山に棲(す)む神様が人や動物を見守ってくれているのだと教えられていたのだ。
「山の神さま、山の神さま。どうかこの子を治してください」
熱心に祈っていると、けいも手を合わせて一緒に祈り始めた。
すると、ほどなく子狐の目がぱちりと開く。その瞳はきらきらと輝く黄金色。
子狐はふさふさの尻尾を振りながら嬉しそうに「きゅうん」と鳴いた。心なしか元気になったようだった。
その日、朔夜は祖父母と緑蓮の許しを得て寺に泊まることにして、けいと共に一晩中、子狐の隣で山神様に祈りを捧(ささ)げ続けた。
そして、翌朝――。
「朔夜、朔夜。起きてよ。子ぎつねがいなくなっちゃったんだ」
けいに揺り起こされ、二人は手分けして寺の敷地を探し回った。
しかし、あれだけ弱っていた狐の姿はどこにも見当たらず、意気消沈して離れに戻った二人は、子狐が眠っていた蒲団の上で不思議な置き土産を見つけた。
揺らすとチリンチリンと涼やかな音を奏でる、純白の鈴が二つ。
「この鈴、もしかしたら子ぎつねがお礼にくれたのかな」
「そうかもね」
朔夜とけいは白い鈴を一つずつ分け合って、子狐のことは秘密にしようと約束した。
山が秋色に染まり始めた頃、母の瀧子が結核で急逝した。
朔夜は病院へ急行したものの、顔に白布をかけられた母の遺体と対面して身も世もなく泣きじゃくった。
母の葬儀には、けいも緑蓮と共に弔問に訪れたが、気遣う言葉をかけられても朔夜は泣いていて口も利けなかった。
それからというもの、朔夜は家に閉じこもった。
食事が喉(のど)を通らない日が続き、祖父母は孫娘を心配して外へ連れ出そうとしたが、彼女はそれも拒絶した。
そして、母が亡くなって二週間あまり経過した頃だろうか。
突然、けいが一人で家を訪ねてきた。
『けいだよ、朔夜』
障子の向こうから声をかけられて、蒲団を被って泣いていた朔夜はそろりと顔を出す。
「おけいちゃん……?」
『うん。部屋に入ってもいい? 朔夜と話がしたいんだ』
「……いいよ」
けいが障子を開け、蒲団に包まって蓑(みの)虫(むし)みたいになっている朔夜を見るなり顔を曇らせる。
「ご飯もろくにたべていないんだって? だめじゃないか、朔夜」
腕組みをして叱りつける友人の顔を見たら、また無性に泣けてきて、朔夜はぽろぽろと涙を流した。
けいが足早に近づいてきて、泣きじゃくる朔夜を抱きしめてくれる。
「おけいちゃん……わたし、かなしいの……かなしくて、いつまでも涙がとまらない」
「うん」
「おかあさまが、わたしをおいて、死んじゃったなんて……しんじたくないの」
「うん、うん……」
けいは短い相(あい)槌(づち)を打ちながら、大人びた口調で言う。
「悲しい時は、たくさん泣いていいんだ。だけど、お願いだからご飯はたべよう。朔夜のおばあさまとおじいさまも心配している。ぼくも、朔夜をずっと心配していたんだよ」
朔夜がくすんと洟(はな)を啜(すす)ったら、けいが顔を覗きこんできた。
「おかあさまのこと、すごく悲しいと思うけど、君には少しずつでいいから元気になってほしい。たくさん泣いたあとは、また一緒にあそぼうよ」
「おけいちゃん、ありがとう……おけいちゃんは、急にいなくならないよね。これからもわたしの側にいてくれるでしょう?」
けいは頷いたが、すぐに「うーん」と唸(うな)って頭をかく。
「あのさ、朔夜。君が悲しんでいる時に言うのは、ちょっと卑怯(ひきょう)かもしれないけど……将来、ぼくのお嫁さんになってよ。そうすれば、ずっと一緒にいてあげられる」
「おけいちゃんの、お嫁さんって……えっ、どういうこと?」
言葉の意味が分からなくて、朔夜は涙の残る目をぱちぱちと瞬いた。
けいが目元を薄らと赤く染めながら「ぼく、君を娶(めと)りたいんだ」と続ける。
「あの……わたしたち女の子でしょ。結婚はできないのに」
「ああ、やっぱりね。朔夜は誤解しているよ。だって、ぼくは男だから」
一瞬、時が止まった。
朔夜が口をぱくぱくしていたら、けいが深々とため息をつき、着物の帯を緩めて襟(えり)を開く。
「こんな格好をしているけど、本当に男なんだよ。それに、はじめから自分のことを〝ぼく〟って言っていたじゃないか。ほら、胸もぺったんこだし」
けいは、十一歳。女であれば、わずかなりとも体形に変化が起こり始める年齢だが、着物の襟を広げて見せられた胸はぺったんこだった。
穴が空くほど見つめていたら、けいが恥ずかしそうに顔を伏せる。
「もし、これでも男かどうか疑うようなら……下も、見せるけど……」
「……えっ、えええぇっ―――!?」
我に返った朔夜は、家中に響き渡る声で叫んでいた。
けい――漢字で書くと、慧。
その漢字は〝かしこい〟という意味を持つのだとか。
慧は華族の鷺(さぎ)原(はら)伯爵家に生まれたが、病気がちで跡継ぎになれないと判断され、追い出されるようにして緑蓮のもとに預けられたらしい。
当時、一部の地域では疱瘡が流行していて〝疱瘡神は赤色を嫌う〟と人々は信じていた。
男子には女児の格好をさせると病が避けて通り、強く育つという迷信もあり、慧は物心ついた頃から女ものの赤い振袖を着せられていたようだ。
慧の見目も、おかっぱの髪に端整な顔立ち、身体つきも華奢で声変わりもしていないとなれば、麗しい少女にしか見えなかった。
朔夜は驚いたものの、今までと同じように接してほしいと慧に頼まれたので態度は変えなかった。
やがて時の流れと共に、母を亡くした心の傷が少しずつ癒(い)え始め、比例するように朔夜と慧の関係に変化が生じていった。
ある時、寺の離れでおはじきをして遊んでいた朔夜は、いきなり慧に口づけられた。
唇の表面をちょんと押し当てるだけの、たどたどしい接(せっ)吻(ぷん)だ。
「っ……」
「いきなり、ごめん。いやだった?」
声をひそめて問われ、朔夜は顔を火照(ほて)らせながら首を横に振った。
「じゃあ、もう一回したい」
甘い声でねだられて、朔夜の心臓がとくんと高鳴る。
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