書籍詳細
転性オメガの眠り姫 執着御曹司はベータを覚醒させる
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/07/29 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
1.
『——ご乗車、ありがとうございました。桜(さくら)浜(はま)、桜浜。JR桜浜本線、西急北桜(せいきゅうほくおう)線、桜浜市営地下鉄はお乗り換えです』
無機質な到着アナウンスと同時に、電車の扉が開く。車内でひしめき合っていた多くの人々が、どっと外へ降り立った。
佐久間(さくま)玲奈(れいな)もその中の一人だ。
背中を押されるように車外へ出て、人波に揉まれながら改札口へ向かう。
「ふぅ……」
八月のお盆明け——冷房の効いた電車から一度(ひとたび)外へ出れば、そこは残暑と呼ぶには暑すぎて。
軽く汗ばんだ首筋をハンカチで押さえながら、ゆっくりと歩みを進めていく。
ホームから階段を下りたところで人の流れが分散され、ようやく自分のペースで歩けるようになった。
「!!」
改札まであと十メートルほどとなった時、突然、前を歩いていた小柄な女性が地面に崩れ落ちた。
「はぁ……、はぁ……」
息が乱れ、顔は上気し、どう見ても普通ではない。おまけに——
(この匂い……)
「ちょ……っ、この匂い……もしかしてオメガ!?」
「ヤバイ、めっちゃエロイ匂いする……!」
「誰だよ、こんな匂いさせてるの! 自殺行為だろ!」
そこここからこんな声が聞こえてきた。
目の前でうずくまる女性から、確かに強烈に甘い匂いが香ってくる。
口の中にはちみつと練乳を一気に流し込まれたような、喉に絡みつく甘ったるさだ。
加えて、濃厚なフルボディのブランデーを含んだ時のように脳髄ごと溺れさせる酩酊感が、その匂いを嗅いだ者を支配してしまう。
しかし玲奈はベータで、女性で、おまけに念のため対オメガ対策の予防接種をしているので、匂いを感じ取ることはできるが、あてられることはない。
とはいえ、他の人間が全員彼女のような対策をしているかと言えば、決してそうではない。
「やべ……勃(た)ちそ」
「朝から盛(さか)ってんじゃねぇよ……。これから仕事なのにどうしてくれんだよ……」
「うぅ……なんかクラクラしてきた」
ごく小さな声ではあったものの、そういった不穏な発言さえ聞こえてきて、彼女に手を伸ばそうとする男性まで現れる始末だ。
(いけない、なんとかしなきゃ!)
一刻も早く女性をこの場から助け、嫌な空気を断ち切らなければという一心で、玲奈は動いた。
「大丈夫ですか? 私の背中に乗ってください」
(確か、駅にはオメガ救護室があるはず……!)
構内の看板を目視しながら、玲奈は男性を押しのける。
そして彼女の手を取り、背中に乗せた。小柄で細身な女性だし、玲奈は普段からスポーツジムで筋トレをすることもあったので、女の自分でも背負えると考えての行動だ。
心配で、男性には任せてはおけないと思った。
玲奈は女性をおんぶすると、彼女と自分の荷物を持ち、案内表示の通りに小走りで進みながら救護室を目指した。
女性が人を背負いながら、カツカツとパンプスの音を響かせて駅の通路を走る姿はそうそうお目にはかかれない。
周囲の人間は、珍しい光景と、道しるべが如く後を引くフェロモンの香りに、引き寄せられるように視線を注いでいた。
「……あった!」
改札の手前を右に曲がった奥に『オメガ専用救護室』と書かれた扉を見つけた。
病院でよく見るタイプの白く無機質な引き戸を開くと、中には女性駅員がいて、玲奈の姿を見るなりギョッとした。
「どうしたんですか!?」
「あのっ、この人が、いきなりうずくまって……多分、発情期(ヒート)じゃないか、って思って」
「あぁ、では、こちらのベッドに寝かせてさしあげてください」
駅員に促されるまま、玲奈はベッドの縁に腰かけ、それから背中の女性をそっと下ろして横にした。
「す、すみません……わ、私……予防接種効かない体質で……。どう、しちゃったんだろう……薬、飲んでたのに……っ」
はぁはぁと息を乱したまま、彼女がか細い声で告げてくる。
玲奈はブランケットを彼女にかけ、それから肩をすくめて笑った。
「私のことなら気にしないでください。ベータですし、念のため予防接種も受けてますので」
「——すみません。お手数だとは思いますが、一応規則ですので……お名前とご連絡先を、記入していただいていいですか?」
女性の背中を優しく擦っていると、後ろから声をかけられた。
駅員が紙を挟んだバインダーとボールペンを差し出してくる。
「あ、はい」
玲奈はそれを受け取り、名前や連絡先などを書き込んでいく。その間に、駅員はオメガの女性に事情を聞き、薬を飲ませていた。
(『バースタイプ』も念のため書いとこ……)
『性別』欄に『バースタイプ』として『アルファ』『ベータ』『オメガ』とあった。
公的な書類でなければバースタイプは記入必須ではないが、特に隠す必要もないので『ベータ』に丸をつけた。
記入の済んだ用紙を駅員に返す代わりに、一枚の紙を手渡される。
「オメガ救護遅延が適用されますので、必要があればこの用紙を会社に提出してください。遅刻にはなりません」
「ありがとうございます」
受け取った用紙には『オメガ救護遅延証明書』と銘打ってあった。救護した駅名、時間なども記載されており、桜浜駅長の印章も捺(お)してある。
(へぇ……この制度があるのは知ってたけど、自分が使ったのは初めて)
玲奈は一人頷きながら、用紙を折りたたんでバッグへしまい、立ち上がった。
「それじゃ、私はもう行きますね」
駅員と女性に軽く会釈をする。
「あの……本当にありがとうございました。とても助かりました」
ベッドの上の女性は緊急抑制剤が効いたのか、落ち着いている。緊急抑制剤は、突発的に起こったヒートを抑え込むために服用する薬だ。即効性がある分、身体(からだ)への負担が大きいので常用はできない。
女性を見ると薬の副作用などは見られないようで、彼女は安堵の笑みを浮かべながら、こちらに深々と頭を下げた。
「大事(おおごと)になる前にここに来られてよかったです。では」
玲奈は救護室のドアを開き、外へ足を踏み出す。
「っ!」
通路に出た途端、視線に飛び込んできた異質な塊に、驚いて声を上げそうになった。
救護室の扉脇の壁に、誰かが寄りかかっている。あえて目線を向けることなくぼんやりと認識してみれば、どうやら背の高い男性のようだ。
(び……っくりした……。あの女性の知り合いかな……)
そんなことを思いながら、通り過ぎようとすると——
「すみません、少しいいですか?」
彼が玲奈に声をかけてきた。まさか自分に用事があるとは思わなかったので、少し慌ててしまう。
「は、はい……っ」
振り返ってその人物を目にした瞬間、玲奈の体内はあからさまな変調を来(きた)した。
心臓が跳ね上がり、体内に稲妻が走る。ビリビリと皮膚が痺れて総毛立つ。
(わ……)
改めて焦点を合わせてみると——彼は、見たこともないような美しい男性だった。
艶々とした漆黒の髪で縁取られた顔の造作は、誰から見ても整っていると言える。
どのパーツも完璧なフォルムを象っていて、整然と配置されているからだ。
背は一六二センチの玲奈より、優に二十センチは高いだろう。スーツの着こなしがやたら堂に入っているのは、その体躯が一役買っているに違いない。
一見、エリートサラリーマンといった風貌なのに、左の耳につけられた小ぶりのリングピアスが、どこか違和感を覚えさせた。材質はシルバーかプラチナだろうか。
その身にはキラキラと輝く高貴で芳醇なオーラをまとい、素晴らしく目を惹く美貌と相まって、色気を放っていた。
玲奈の鼓動はますます強くなっていく。手の平には汗が滲んできて、ボッと火が点ったように身体の奥が熱くなった。
(どうしたんだろう……ちょっと息が苦しいかも)
こんな美形を間近で見たのでときめいてしまったのかと、初めは思った。しかしそれにしては、明らかに反応がおかしい。
動悸が一向に止まらないし、稲妻が発した熱が全身を巡って頭に上り、頬が火照(ほて)ってきた。
何より、身体は熱いのに、背筋にゾクゾクと寒気のようなものが燻(くすぶ)っている。いや、実際には寒いわけではない——なんだか底知れぬ畏怖のようなものがまとわりついてくるのだ。
特に、うなじを這い支配する感覚は、何故か狂おしいほどの至福を秘めていて、全身を疼かせる。
初めての感覚に、玲奈は戸惑うばかりだ。そわそわと視線を泳がせてしまう。
(怖い……)
鳥肌がくっきりと浮き上がった腕を押さえ、震え出すのをなんとか押し留める。
(落ち着け……きっと人をおんぶして走ったからだ……)
玲奈は大きく深呼吸し、つとめて平常心を保った。改めて目の前の彼に視線を引き戻すが、それはわずかに揺れている。
「突然声をかけてすみません、私はこういう者です」
男性は名刺入れから一枚取り出し、玲奈に差し出した。それをかすかに震える両手で受け取り、文言に目を通す。
(公益社団法人・日本オメガ保護機構——主任、結城(ゆうき)柊一(しゅういち)……。JOCOの人?)
「あ、あの……私に用ですか? 中のあの方じゃなくて?」
救護室のオメガの女性と間違えているのかと思い、玲奈は振り返ってドアを指差した。
「いえ、あなたにです。先ほど、あなたがオメガ女性を救護している場面を拝見しました。本当なら私のような立場の人間が率先して助けなければならなかったのに、間に合わず申し訳ないです」
オメガ保護——という名がついた組織に属しているのなら、罪悪感を覚えるのも仕方がないのかも知れない。
しかしそれで自分に謝罪する必要なんてまったくないだろうと、玲奈は慌てて胸の前で手を振る。
「あ、の……いえ、私が勝手にしたことですし、お気になさらないでください」
結城は玲奈に薄く笑い、彼女の手の中にある名刺を指差した。
「もし今後、何かありましたら、そちらにご連絡ください。裏に私個人の連絡先も書いておきましたので」
そう言われて名刺を裏返すと、電話番号とメッセージアプリのIDが手書きされていた。
「はぁ……」
(そんなアフターフォローまでするの? JOCOって……)
自分は目の前にいた女性がヒートを起こしたのをたまたま助けた、ただの通りすがりのベータでしかない。このままここを立ち去れば、今後はよほどの縁がない限り、顔を合わせることもなくなるだろう。
そんな女に個人的な連絡先を渡すなんて——
(一体どういうつもりなんだろう……)
訝しげにそっと見上げると、結城が視線のすべてを玲奈に注いでいた。
「……っ」
再び心臓が大きく反応する。鼓動が彼にも聞こえてしまいそうだ。
一寸たりとも逸らされることのない、全身を強く搦(から)め取られるような、それでいてひたむきな甘さを秘めた重たい眼差しに、身体がすくんでしまう。
手の平にまた汗が滲んできた。
「あ、あの……」
身の置きどころがないような感覚に囚われ、居心地が悪い。鼓動はますます速まって。
血液がお腹(なか)の底に集まり、熱くなっていく。
たまらず目を泳がせながら声をかけると、結城が我に返ったかのように目を見張った。
「……あぁ、すみません。中にいる女性については、私からもフォローをしておきます。私はワクチン接種していますが、オメガ救護室は基本的にアルファは入室禁止なのでここで待っています。あなたはどうぞ、行ってください」
ふうわりと笑う顔までもが色気に満ちていて、そこでまたドキリとしてしまう。
「わ、かりました……失礼します」
玲奈はぺこりと頭を下げると、彼からもらった名刺をバッグにしまい、改札口へと歩いた。
ちらりと振り返ってみれば、結城はやっぱりこちらを見ている。玲奈と目が合うと、微笑(ほほえ)んで手を上げてきた。
なんだか気恥ずかしくなり、最後に雑に会釈をし、玲奈は今度こそ前を向いて一心不乱に歩いた。
(……あの人、やっぱりアルファなんだ)
見るからにそんな気はしていた。アルファはおしなべて眉目秀麗で、周囲の目を惹きつけて止(や)まない存在だからだ。
結城柊一は、今まで玲奈が実際に見てきた数少ないアルファの中でも、最上級の美貌の持ち主と言っていい。
見た目はクールなのに瑞々しく煌めいていて、華やかで、立ち居振る舞いには品があった。立っているだけで周りに人が集まってくるタイプだ。
そんな男性からじっと見つめられ、ドギマギするなと言う方が無理だ。
きっとそのせいなんだ、このイレギュラーな鼓動は。そして、身体の底からじわじわと湧き上がる不安は——
(まだドキドキしてる……)
改札を出て会社に向かいながら、玲奈は高鳴る胸を押さえた。
「名刺なんかもらっちゃったけど……もう会うこともないんだろうな……」
あれだけ身体が「怖い」と反応したはずなのに、もう会えないとなると、どこか淋しく切ない気持ちが湧いたのは……気のせいだと思いたかった。
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