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自分がオカズにされた回数が見える呪いと紳士な絶倫騎士団長

木陰侘 / 著
旭炬 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/08/26

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内容紹介

悪い男に捕まったと諦めてくれ
ごく平凡なポンコツ事務官・ラウラは、品行方正なエリート騎士団長・ディルクを尊敬してやまなかった。「ラウラ君はよくやってくれている」真面目な彼は魔力無しの自分にも優しかった。しかし、あろうことか泉の女神に祝福(という名の呪い)を授けられ、【相手が自分をオカズにした回数】が見えるようになってしまったラウラは、清廉潔白そのものに見えた団長の股間に浮かぶ、桁違いの数字を目にしてしまい!? 「俺の浅ましい思いを、どうか、赦してくれ」絶倫×激重感情は何もかもが規格外です!?

立ち読み

第一章 女神の呪い

 大陸の端、ユグネシア王国の辺境に位置する都市、ローグ。深い森を挟んで他国に面しているこの地は、王国にとって国防の要(かなめ)である。……とはいうものの、過去百年を遡(さかのぼ)っても隣国の侵略があった事実はなく。先年、この国の王女が隣国の王太子へ輿(こし)入りした件も相まって、二国の関係は極めて良好であった。
 そんな平和な時勢といえど、守りを解くことはもちろん不可能。獰猛(どうもう)な魔物や竜の侵入を防ぎ、辺境伯の反乱を抑える意味からも、この地に駐屯する第七騎士団には王国中の精鋭騎士が集められていた。
「目が覚めたようだな」
 頭痛に悩まされながら仮眠室のベッドから身を起こした私に、ローグの周りに広がる深い森のような、落ち着いた声がかかった。
「団長……」
「今日はもう帰りなさい」
 ぼんやりとしたまま頭を押さえ込んだ私を心配そうに見つめる偉丈夫。柔らかく波打つ黒髪と、夜が明ける前の空のような色の瞳をした紳士こそが、団長付きの事務官を務める私の直属上司、テオドリック・フォン・クラウゼヴィッツ第七騎士団団長閣下である。
 優雅すぎるその名前をひとたび口にすれば、私のような庶民では舌を噛むこと請け合いだ。
 騎士といえば、福利厚生良好、地位良し、印象良し、お給金も良しの人気職であるが、テオドリック団長——ディルク団長といえば、その騎士の長の肩書きに恥じないほどに完璧だ。
 清廉潔白、品行方正、容姿端麗、質実剛健、温厚篤実(とくじつ)、四捨五入。
 貴族出身で士官学校を首席でご卒業、新任早々近衛騎士団で王都の魔物討伐や治安維持でめざましい成果をあげ、最年少で要職である辺境警備の騎士団長に就任したという超絶エリートなご経歴の持ち主だ。
 普通、少しぐらい傲慢になっても許される立場だろうに、団長はいつも謙虚で真面目で、庶民出の私にも分け隔(へだ)てなく優しい。
 第七騎士団の構成は、七つの部隊に七人の部隊長。若干の文官の中に事務官が十四人、そして各部隊に適正な数の騎士が配備されている。十四人いる事務官は各々が部隊長と副部隊長に付いて事務作業を担当しており、分不相応にも団長付き専属事務官の座に収まっているのが私、ラウラ・クラインである。
 第一部隊の部隊長は私の直属の上司であるディルク団長が兼任しているから、私の肩書きは正しくは第一部隊長付き事務官ということになる。
 ——それにしても、どうしてこうなってしまったのか。
「ラウラ君?」
 思わず顔を覆った私に、団長が気遣わしげな声をかける。
 ローグの森の第七騎士団、一度はおいでよ良いところ。今朝までは純粋にそう思っていた。
 我が王国でも女性騎士の登用が始まり久しいが、辺境の騎士団ともなるといまだに男性の比率が女性のそれを遥かに上回る。入団試験を通るにはそれなりの訓練や教育が必要なことから、どちらかといえば家が裕福な人が多く、ローグ城下の女の子たちは第七騎士団のみなさんを見かけてはきゃあきゃあと黄色い声をあげて歓迎してくれる。
 けれど、辺境の地。言ってしまえば、ど田舎である。
 むくつけき筋肉たち……失礼、歳(とし)若く健康な成人男性がどっと押し寄せることで、男女比は崩壊。団内の世間話といえばやれモテない、それモテない、可愛い女の子とお近づきになりたーいが主である。
 私含む、周辺の村出身の女の子は結婚相手を見つけたいならローグに行け、と言われているほどである。
 だから、今まさに、目の前でこんな悲劇が起きているのだろう。
 私はちらり、と団長の足元に視線を落とした。
「少し、ぼんやりしているようだが……」
 私の淡い初恋を掻(か)っ攫(さら)っていった団長。いやいや、庶民の雑種に手が届くわけがないと諦めていた団長。今日の今日まで私の尊敬を一心に集めていた団長。くしゃみが可愛い団長。意外と几帳面な団長。完璧すぎて三日に一度は実在を疑う団長。
 けれど、悲しいかな、今日の私は今までの私とは何もかもが全然違っていて、今まで通りの目で団長を見ることなどできないのである。
 無類の紳士にちょっと天然が入っているのも相まって、私は今まで、団長にそういう、人間的生々しさがあるとは思っていなかった。
 副団長と違って、城下町の女の人と遊んだりもしないし、ご飯も二の次、三の次。いつ寝ているのか? と疑うほどの仕事中毒ぶりを間近で見ていて、三大欲求から一番遠い場所にいるのが団長なのだと、そう思っていた。
でも、違った。
「ごせんよんひゃくろくじゅうよんかい」
 5464回。団長の股間のあたりにぼうっと浮かび上がっている数字である。
 さらに言うと私が泡を吹いて倒れ、団長の胸に飛び込む前は5462だったと記憶する。
 なぜ増えているのか。なにゆえか。
「ラウラ君?」
 心配げに首を傾(かし)げる団長はむきむきなのに愛らしい。
 だが5464回。
 何が?
 団長が私をオカズにして自慰をした回数が、である。
 もう一度言おう。団長が、私をオカズに、自慰をした回数である。
「うわあああああああ!」
「ラウラ君⁉︎」
 おめでとう四桁。新記録。すごいぞ!
 物語の中の王子様のように清潔で、淡白だとばかり思いこんでいた団長の、恐ろしいまでの性豪ぶりにいっそ気が狂いそうだ。
 仮眠室のベッドでじたばたとのたうちまわり出した私にどん引きもせず、団長はただ心配そうな視線だけをくれる。
 だが絶倫。
 だが、私をオカズにしていらっしゃるのである。
 私はまるで穢(けが)れを知らないというような、古代の神々を象(かたど)った彫刻のように美しい団長のお顔と、とんでもない数字がずらりと並んでいる股間とをぶるぶると震えながら見比べた。
 平和だと思っていた騎士団内で、自分がオカズにされた回数について信じられない数字を見せつけられ続け、一(いち)縷(る)の望みを抱いて逃げ込んだ先の敬愛する上司の股間に浮かぶ数字が、平均の百倍を遥かに超える新記録だった私の気持ちがわかるだろうか。
 否、わかろうはずもない。
「すぐに医務官を呼ぼう」
「だ、大丈夫です! 大丈夫なので!」
「しかし……」
 珍しく動揺を隠せない様子の団長の股間のあたりをもう一度見つめる。
 5464。
 見間違いではない。
 見間違いであってほしかった。
 数字の下に書き込まれた、性癖の内容が文字が小さすぎてもはや読めないことは、恐ろしすぎるので考えないことにする。
『自分がオカズにされた回数と性癖が見える祝福(呪い)』
 私がなぜこんな特殊すぎる呪いをかけられる羽目になったのか、話は数時間前に遡る。

      ◇

 第七騎士団の朝は早い。
 森へと続く駐屯所の道を下ると、朝靄(あさもや)と森の木々の湿った、いい匂いがした。
「おはよう、ラウラちゃん」
「おはようございます。副団長さん」
 どうやら朝帰りらしい、まだ眠そうな顔をした副団長に挨拶を返す。
 金髪碧(へき)眼(がん)。王子様みたいなすらっとした体格に優しげな風貌をした副団長は、案の定というべきか、大層おモテになるらしく、毎晩のように街のお姉様方に引っ張りだこと、もっぱらの噂(うわさ)だ。
「どこ行くの?」
「泉に。ベロニカさんの代わりです」
 神殿に供える花を摘みにいくのだと小ぶりの籐(とう)籠(かご)を見せると、そっかあ、とあくび交じりの声が返ってきた。
「ベロニカさんの腰、まだ良くならないんだ」
「はい、痛みは取れてきたらしいのですが」
 ベロニカさんは第七騎士団で働くお手伝いさんの一人で、私のことを孫のように可愛がってくれるおばあさんだった。
 ローグの森にある女神の泉に通うのはベロニカさんの長年の役割で生き甲斐だったのだが、春先に持病の腰痛が悪化してしまってからは私がお手伝いをしている。
「森に行くなら一人じゃ危ないよ。俺がついていこうか?」
「いえ、ギルが付き合ってくれるそうなので」
 騎士である幼馴染(おさななじみ)の名前を出す。
「ああ、ギルベルトくんか……。どうせ誰かに頼むなら、テオドリックに頼めばいいのに」
 直属の上司である団長の名前を口にされて、私は慌てて首を振った。
「とんでもない」
 激務をこなす団長に私なんかの付き添いをお願いするなんて畏(おそ)れ多い。副団長は団長と仲が良いからそんなことが言えるのだ。
 そう思って否定したのに、副団長にはあーあ、というようにため息をつかれてしまった。
「これ、全然伝わってないよね……。賢いし抜け目がないのに、なんでラウラちゃんに関することだけはこうなのかな……」
「副団長?」
「ラウラちゃん」
 両肩をがっしりと掴(つか)まれて、子供に言い聞かせるような顔をされた。心外である。
「くれぐれも、ギルベルトくんとは恋仲になったらいけないよ。万が一そうなる場合は、いや、相手が誰でも同じだけれど、新天地を探すことをおすすめする」
 うんうん、と一人で頷(うなず)かれて疑問符が止まらない。
「ディルクはあれで相当厄介だからね。俺は痴情のもつれってやつがこの世で一番嫌いなんだ」
 首筋にたくさんのキスマークを散らした副団長がそんなふうに言う。
 副団長は冗談が好きなので、これも何かの冗談かと思ってとりあえずへらへらと笑い顔を返しておいた。
 困った時はとりあえず笑っておけ。先祖代々伝わる我が家の家訓である。
「わかってないだろうなあ」
「ギルは大事な幼馴染ですから。恋人になるなんて一生ありえませんよ」
「……ありえない」
 後ろから聞き馴(な)染(じ)みのある声がした。
「あ」
 私の頭ごしに何かを見つけたらしい副団長。
 つられて振り返ってみると、幼馴染のギルがいつの間にかすぐそばに立っていた。
 何かショックなことがあったのだろうか、懐かしい故郷をそのまま映したような赤茶色の髪と緑の瞳が今は、どんよりとくすんでいる。
「ありえない……」
「うわー、ええっと、ギルベルトくん、あの、なんかごめんね?」
 ぶつぶつと呟(つぶや)くギルに、副団長が気まずそうな顔をした。
「…………別に、俺とこいつはそういうんじゃないんで」
 行くぞ、と籐籠を取り上げたギルが先を歩き出す。
 さっさと進んでしまう幼馴染を追いかけるべく、私は副団長に頭を下げた。
「……これはこじれそうだ」
 にこにこと手を振る副団長は、私たちを見送った後で何か、小さく呟いたようだった。

「——お前、いつまで団にいるんだよ」
 ローグの森。緑の濃い匂いを胸いっぱいに吸い込んでいると、相変わらず不機嫌そうなギルがぶっきらぼうに言った。
「いつまでって、ずっとじゃない?」
 厳しい登用試験に受かった甲斐もあり、第七騎士団はとても良い勤務先だ。
 直属の上司であるテオドリック団長をはじめ、騎士のみなさんは優しいし、事務官の同僚も気さくで楽しい。三食付いてくるご飯は美味しいし宿舎だって広々、お給金ももちろん良い。辞める理由が見当たらない。強いて生活の不満を挙げるとするならば、一向にできる気配がない恋人くらいのものである。
「ふーん、恋人ね……」
 そう言うと、ギルは面白くないとばかりに、ぶちぶちと道端の木苺(きいちご)を摘み出した。
 自分で聞いたくせに気のない態度にむっとする。
 地元の田舎で散々黄色い悲鳴を浴びていたギルには、恋人ができない私の気持ちなどわからないのだ。
 騎士団の男女比は八対二を軽く割り、ローグ全体を見てもその比率は崩壊寸前なことは領主様の頭を悩ませるほどだが、摩(ま)訶(か)不思議なことに、この私にはいまだに出会いの「で」の字もない。
 持たざる、ならぬモテざる者。その理由を深く突き詰めれば傷心することは確実なので、最近では怪現象だと思い込むことにしている。
「ギルだって、ここが好きでしょう?」
 私と同じ庶民出身のギルは私が事務官に配属された次の年に騎士団にやって来て、厳しい登用試験にあっさりと受かってしまった。
 俺は一生田舎で暮らすんだと言って憚(はばか)らなかった幼馴染との再会に私は目を丸くした。そんな私にギルは、まあ、ここも田舎だからな、とだけ言った。羊の数が人間の数よりも多い僻(へき)地(ち)の出身で大きく出たものである。
 だからてっきり、ギルだってこのローグ領が気に入っているとばかり思っていた。
「別に。俺は、ただお前が」
「私が?」
 ぽいぽいと木苺を籠へ投げ込んでいたギルが、不意に私の方を仰ぎ見た。
「…………お前が、このくそ田舎でうっかり魔物に食われないように見張りにきてやったんだよ。それだけだ!」
 手を出せ、と言われたので出すと、山ほどの木苺を載せられて慌てて両手で包みこむ。
 みずみずしく、つやつやとした見た目の木苺は頬張れば粒がぷちっと弾けて、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がること請け合いだ。
 けれど両手いっぱいに盛られていては食べようにも食べられない。豪快にかぶりつこうとしてもヘタが厄介である。
 持て余した結果、怪しい踊りのような動きを繰り返してしまう。そんな私を残念そうな目つきで眺めていたギルは、やがて何かに気がついたように前方を見つめた。
「あれ、何だ?」
 ギルにつられて首を向け、呟いた。
「黒い煙……?」
 普段は澄んでいる泉から、燻(いぶ)したような黒い煙が立ち上っていた。
「……ギル、ちょっと持ってて!」
 焦った私はギルに山ほどの木苺を押し付けるやいなや、泉の方に駆け出した。
「あ、おい! 馬鹿!」
 背後からギルの声がかかるが、止まれなかった。
「止まれ! お前は、ああ、くそ!」
 ベロニカさんの大切な泉。燃えてしまえばどれだけ悲しむだろう。神殿の人だって困るし、ローグの森が燃えてしまえば大変なことになる。
 そう思って木の切れ間に躍り出た私が見たものは、火に巻かれた花々でも、頬を舐める炎でもなかった。
「ひどい! ひどいわ! 私の泉になんてことするのよ!」
 泉といっても、ローグの泉は小舟を何艘(そう)も浮かべられるほどに大きい。鬱蒼(うっそう)とした森が途切れ、普段は見渡すばかりの鏡の水面と、色とりどりの花がぐるりと縁取るその場所には今、煙ではない、黒い靄が満ちていた。
「大丈夫ですか⁉︎」
 向こう岸さえ見えない風景の中、声をかける。
 私よりもほんの少しだけ背の高い女の人が泉の縁(ふち)から中心に向かって噴き出している靄を見つめて、地団駄を踏んでいる。
 不思議なのは、その女性が立っているのが地面ではなく水面であり、その体が霞(かすみ)のように薄水色に透けていたことだった。
「あなた!」
 新式の魔法か、はたまた新種の魔法生物か。
 彼女の正体を掴みかねて呆然とする私に、女性が声をかける。
「あなた、ちょうどいいわ! 全然魔力が無いものね」
「わ、私?」
「ラウラ! そいつから離れろ」
 風を切る鋭い音がして、背後からナイフが飛ぶ。
 追いかけてきたギルが投げたらしいそれは、私の腕を掴もうとしていた女性の顔に突き刺さった。そのまま女性と私の間に立ち塞がったギルにぐいと首根っこを掴まれて尻餅をつく。
「お前、魔物か?」
 警戒心を露(あら)わにしたギルは、腰元の剣を引き抜いて女性に向けて突きつけると、鋭い眼差しで誰(すい)何(か)した。
「やだ、なに? この子、嫌い」
 ナイフなど刺さらなかったかのように傷一つついていない女性は、子供っぽい口ぶりでそう言うと、ギルに向かって手を振り払うような仕草をした。
「いっ……」
「ギル!」
 その途端、目に見えない力で吹き飛ばされたギルが、そばの木に叩きつけられた。
「あなた」
 女性に呼びかけられると、体が軋(きし)むような感覚がして、ギルの方を見ていた私の首が何かに操られるように勝手にぐるりと回った。
「それ、取ってよ。お願い」
 尖(とが)った耳に、両生類のような印象のある、けれど美しい顔。さらに水かきのある手が泉の岸、水面下に転がる大きな黒い石を指さしていて、私は生唾を飲み込んだ。
 この人、人間じゃない。それから女性のさしているものの正体が、巨大な魔石だと気がついた。
 全身の毛が逆立つ。
 万物には魔力が宿る。古来から人はそれを法則に当てはめて使役する。起こす奇跡は魔法と呼ばれ、原始の魔法しかなかった古代ならいざ知らず、魔道具の発展した今の時代では、魔石は生活のあちらこちらに当たり前に存在していた。
 自然、人工問わず、高出力の魔力をごく小さな範囲に集中させることで結晶化を起こしたもの。それが魔石である。魔道具には大抵の場合はめこまれているので、見慣れてこそいるが、こんなにも大きく、禍々(まがまが)しい色のものは初めて見た。
「ね、いいでしょ? 私、それに触れないの。取って、ぽいってあっちに投げ捨ててくれたら、何でもお願い聞いてあげる」
 装飾のついた長い爪が、誘惑するように私の頬を撫(な)でた。
「ラウラに触るな」
 絞り出すようなギルの声が聞こえる。
「あなた、ベロニカの代わりに最近よくここに来る子よね? このままじゃ、水が駄目になっちゃうの。ベロニカだって悲しむわ」
『泉には女神様がいらっしゃるのよ』
 私は日頃ベロニカさんが口にしていた言葉を思い出し、それから目の前の女性を見つめた。
「女神様、ですか?」
「ご名答〜。ねえ、わかったでしょ? わかったらぽいってしてよ。泉が汚れちゃう」
「ラウラ!」
「うるさいなあ」
 強く咎(とが)め立てるギルに機嫌を急降下させた女神様の注意が向く。
「待ってください! 今、今拾いますから!」
 このままではギルにまた何をされるかわからない。
「本当⁉︎ あなたってやっぱり良い子ね!」
 焦った私が声を絞り出すと、ころっと機嫌を良くした女神様が私の体にまとわりついた。
「ほら、はやく」
 促されて、恐る恐る指先を水面にひたす。
 世の中には魔力の多い人間がそうたくさんいるわけではないが、魔力の全く無い人間というのはそれ以上に珍しい。少なくとも、私は自分以外にそんな人間を見たことがない。ただ一つわかっているのは私に魔石は使えない、ということだ。
 だから、これからどのようなことが起きるのかは見当もつかないけれど、女神様の言葉を信じるのなら現状を打破できるのはこの場で私だけなのだろう。
 いつもと変わらないひんやりとした水温に胸を撫で下ろし、もう少しだけ手をのばすと、あっさりと指先が黒い魔石に触れた。
(あったかい……)
 体温に近いぬくもりと、鼓動するような鳴動。
 ぞっとする感触に怖(おじ)気(け)づきそうな心をどうにか押し殺し、深く息を吸い込んでから一気に引き上げた。
「……!」
 水面から石が離れた瞬間、黒い靄は音もなく、私の目の前で魔石の中に収束していく。
 放り出したくなる衝動をどうにかじっと耐えていると、やがて視界は明るくなって、何事もなかったかのような静かな泉が現れた。
「きゃーかっこいい! 素敵! 大好き! 愛してる! あ、それはばっちいから早くどっかへやってよね」
 はしゃぐ女神様がくるくるとあたりを飛び回る。
 ひとまずほっとした私は、言われるがままに持ってきていた籠に魔石をしまい込んだ。
「ラウラ……無事、か?」
 立ち上がったギルが、お腹を押さえてよろよろと近づいてくる。
 それに頷いて慌てて肩を貸していると、女神様は無邪気な笑い声をあげながら、私たちの目の前で鹿や鳥、雲や花に次々姿を変えていった。
 最後に熊のような獣に姿を変えた後で、女神様はようやく元の美しい女性へと変化した。
「約束は守るわ。さあ、大好きなお嬢さん。あなたの願い事はなあに?」
 なんでも叶えてあげる、と泉の女神様は微(ほほ)笑(え)んだ。

 ——ローグの森の泉には女神がいる。
 民の間でまことしやかに伝わる伝承によると、泉には全知全能なる古(いにしえ)の女神様がいて、供物を捧げ、毎日お祈りを続ければ、その真心に応じて、まあ、出る時は出るんじゃないんですか多分。という。我が王国の国民性を反映したような、いかにもゆるい言い伝えである。
「願い事?」
「そうよ、なんでも叶えてあげるって言ったじゃない。こんな機会滅多にないんだから! 十日ぶりくらいよ」
 割とある。
「願い事かぁ……」
「おい、ラウラ」
 ちょいちょいと袖を引かれてギルの方を見上げる。
「まさか、本気で何か願うつもりじゃないだろうな」
「え?」
「え、じゃない。お前は、この……」
 はーっとため息をつかれてほっぺたをぶにぶにとやられた。中々挑発的だ。
「どう見ても怪しすぎるだろ。断言してもいい。面倒なことになる。お前の周りはいつもそうだ」
「いやいや、だってなんでもだよ?」
 なんでもといえばなんでもだ。王都で二時間待ちのケーキを一瞬で手に入れられるかもしれないし、王侯貴族が使うようなふかふかの羽布団だってもらえるかもしれない。
(それに……)
「恋人だってできるかも」
 やあ、と白い歯を見せて笑う恋人(仮)が頭の中に浮かび、私は思わず鼻息を荒くした。
 白い砂浜。森の中のピクニック。街での食べ歩きに博物館巡り……と理想のデートがぽんぽんと頭に浮かぶ。
 さらば、同僚の事務官に恋愛マウントを取られ続ける日々。
 羨ましいデートの話を散々聞かされた後で、ラウラには恋人がいないものね、とにやにや笑われる屈辱と、ついにさよならできるかもしれないのだ。
 悔しさからぎりぎりと歯(は)軋(ぎし)りをする私を珍しい鑑賞物として楽しむお茶会も、二度と開かれることはないだろう。
 同僚の事務官のみんなは楽しくて優しくて大好きだが、同時に揃(そろ)いも揃って大なり小なり意地が悪いのが難点だった。
「恋人って……。そ、そんなの、ここで願い事をしなくったって、俺が……」
 ギルが? まさか誰か良い人を紹介してくれるのだろうか。
 期待をこめた目でじっと見上げると、ごくりと唾を飲み込んだ後で、ぷいっと視線を逸(そ)らされた。
「…………俺が、お前がばあさんになっても、面倒見てやるよ。幼馴染だからな!」
「ギル」
 私は片眉を上げて首を振った。
 まるでわかっていない。ギルときたら幼馴染の関係がいつまでも続くと考えている。
 全く、しょうがないお子ちゃまだ。
「なんっだよ! その顔! ラウラのくせに腹立つな!」
「あだだだだ、待って、絞まってる、絞まってるから!」
 ふう、とため息をつき、ギルに向かって残念なものを見る顔をすると、それに腹を立てたギルが肩を貸していた私の首を絞め上げてきた。
 恩を仇(あだ)で返すとはまさにこのこと。
 許すまじ、ギルベルト・ミュラー。
 必死に抜け出す私の様子を、泉の女神様は白けた表情で見つめていた。
「なによ、こそこそ話しちゃって」
 そうしてつまらない、つまらないと両手足をばたばたし始める。
「私がお願い叶えてあげるんだから、もっと喜んでよ! それにそっちの子は嫌いなんだからね! 人間のくせにこの私にナイフなんか投げて!」
 気まぐれな女神様はそう言うとギルを指さし、危ない気配を出し始める。
 ギルの言う通り、確かにお願いを叶えてもらうのは早計だったかもしれない。
「よ、喜んでます! 喜んでますとも!」
「本当? ご機嫌取りの嘘じゃない?」
 この女神様、子供っぽいくせに中々鋭いじゃないか。
 ぎくりと身を強張らせた私をじとーっとした目で眺めた女神様は、むっと唇を尖らせた後で私とギルの顔を見比べ、それからにんまりと嫌な笑い方をした。
「そうだ! うふふ! いーこと考えついちゃった!」
 ばしゃんばしゃんと音がして、魚に姿を変えた女神様が飛び跳ねる。
 その波打った水面から再び女性の姿が立ち上るのを、跳ねた水のせいで濡れ鼠(ねずみ)になった私とギルが呆然と見上げていた。
 違う。二人とも、動かしたくても、もはや指先一つ動かせなかったのだ。
「すごいすごい! 私ってばやっぱり天才ね!」
 目に見えない力で縛り上げられた私たちの目の前でぐるぐると女神様が形を変えていく。
 その周りで飛沫(しぶき)が舞い、人の背丈を超すほどの巨大な魔法陣が象られていく。
 ほっぺたがびりびりするくらいの魔力が収束し、風があたりを巻き上げる。燐光(りんこう)をまとった魔法陣は何度か激しい明滅を繰り返した後で、渦巻く空気を巻き込みながら猫の額ほどの大きさに凝縮されていった。
 恐ろしい、嫌な予感がする。
「素敵な恋人! いいじゃない! でも、心を操って、なんて人間は嫌いなのよね? 二十回くらい怒られたことがあるから、私、もう、ちゃあんと知ってるのよ」
 この瞬間の私には、既に女神様の言葉に反応する余裕はなかった。凝縮した小さな魔法陣がぶれて、二つに分かれて、私の目の前、まさしく瞳の前で眩(まぶ)しい光を放つ。
 それがあんまり眩しいので、固く固く目をつむると今度は火傷(やけど)しそうなほどの熱さが両目の瞼(まぶた)を焼いた。
 悲鳴をあげたくても声が出ないという恐怖の中、女神様のはしゃぎ回る音だけが頭の中で反響していた。
「ね? だから、あなたに祝福をあげる! あなたのことが好きな人がわかるような素敵な目にしてあげるわ。そしたら選びたい放題だものね? ああ! 私ってなんて頭が良くて優しいのかしら!」
 最後の声が響いて、頭の先から爪先までを盥(たらい)で水をかけられたような冷たさが通った。それから右手が熱くなって……
「あ」
(——あ?)
「あ、あー! あ、えーっと。えへへ……」
 待て待て待て待て、何をした。
 完全に予定外ですと言わんばかりにこぼされた女神様の声に、私はカッと目を見開いた。
「女神様?」
「ま、まあ、おおむね成功したわ……」
 あからさまに気まずそうな顔をした女神様が明後日(あさって)の方向を向いている。
 なんかテンション下がっちゃったな……じゃない。さっきのサイコっぷりはどうしたのか。サイコでいい。サイコでいいから。こっちを向いて。そんな顔しないで。
 ヒューヒューと、下手くそな口笛を吹いている女神の前に回り込むと、すぐさまそっぽを向かれた。なんだろう。不安しかない。
「あの、私の両目、どうなってますか?」
「あ! 目は大丈夫よ! ばっちり! 完璧! 問題なし! 目は完璧!」
「目は?」
「まあ、目はね……」
 私は女神様の前に、先ほど意味不明に熱くなった右手をかざしてみせた。
「じゃあ、みぎて……?」
「ん! おぇっ、ふ!」
 可憐な見た目の女神様が、おじさんのような声をあげて喉を詰まらせる。
 しかもこの女神、信じられないことにぶるぶると肩を震わせて笑いをこらえ始めた。
「私の右手に何をしたんですか!」
「だ、大丈夫! 食べ物を金に変えたり、無(む)闇(やみ)矢(や)鱈(たら)に何かを腐らせたりはしないわ! ただちょっと」
「ちょっと⁉︎ なんですか⁉︎」
 例えが怖すぎてちっとも安心できない。
「ちょっと、あは、あはははは!」
 げらげらひいひいと笑い出した女神様が泉の水面を転がり出した。酷(ひど)すぎる。
「……教えてくれないと、ベロニカさんに言いつけます!」
 半泣きになった私がそう言うと、女神様はぴたりと動きを止めた。
「な、なによ……ベロニカが何だって言うのよ! いいことしたのに言いつけるなんて意味わかんない!」
 思った以上に動揺した女神様は、怒られた子供のようにぷうっと頬を膨らませる。
「説明を! 求めます!」
 また魔石を投げ込んだっていいのだ。そういう意志を込めて女神様をじっと見つめていると、ぶつぶつと口の中で不満を呟いていた女神様が、ギルの方を指さしてからその指先を一振りした。
「ラウラ!」
 心配そうな顔をしたギルがこちらに駆け寄ってくる。
 さすが我が幼馴染。永遠の友情を誓い合った仲である、と感慨にふける間もなく、私の視線はあらぬところに釘(くぎ)付(づ)けになった。
 まさか、そんな、いや、でもなんで?
「ギル」
「どうした? 何をされた⁉︎」
 ぱっと口を押さえた私を見て、ギルの表情がみるみるうちに強張っていく。
 心配してくれてありがとう。大好きだ。だけどごめん、それどころじゃない。
「ギル、そ、それ何?」
「それ?」
 震えそうな指先で様子のおかしい部分、花も恥じらう乙女としては視界に入れるのも憚られるその部分を指さすと、ギルは全くわからないという顔で自分の下半身に視線を移した。
「俺の足がどうした?」
 どうもこうもない。完全にどうかしている。
 いや、話の流れ的に私の目がどうかしている可能性の方が高いのだが、そう言わずにはいられなかった。
「——光ってる」
 深い森の中、燦然(さんぜん)と輝く股間。
 小さめのランプぐらいには眩しく光り輝く三桁の数字。その下に書かれた力強い文字。
 花も恥じらう乙女だが、申し訳ない、ガン見せずにはいられない。
「534 可愛い幼馴染といちゃらぶ孕(はら)まセックス」
「え? なに?」
 読み上げると、どうやら自分に見えないものが見えているらしいと気がついたギルが、さっと股間を隠した。
「お前今、なんて言った? せ……、はら……、え?」
 手からはみ出した5と4の数字の先っぽがやっぱりぴかぴか光っている。
 綺麗だね。
 これが股間じゃなければよかったのにね。
「ラウラ、お前、なんか見えてるのか?」
 状況が呑み込めていない私とギルがお互いを見つめ合う。
 とはいえ、ギルの方には何か心当たりがあるのか、だらだらとありえない量の脂汗(あぶらあせ)を流し、一歩一歩と距離をつめてくる。
「幼馴染……534?」
 ぶつぶつと呟くギルの様子は、こんなことを言うのはなんだが、少し怖い。
「やだ! やっぱり片想いなんじゃないかわいそ〜!」
 けらけらと笑い出した女神様が、ぺろりと舌を出す。その上には先ほど投げられたばかりのナイフが載っていて、宙に持ち上がったそれはギルのすぐそばの地面に突き刺さった。
「ねえねえ、それ、なんの数字かわかる? わかる?」
 正直わからない。年齢からはほど遠い、誕生日とも違う。
 首を傾げる私に、含み笑いを抑えられない女神がくすくすと喉を鳴らす。
「534?」
「534!」
 きゃーと耳元で大きな声を出した女神様が泉の中に飛び込んだ。
「幼馴染で片想いなのに意外と少ないのね! 本命には罪悪感があるタイプ? だとすると、逆に多いのかしら!」
「待て、ちょっと待て! お前、ラウラに何をした⁉︎」
「言ったじゃない! この子のことが好きな人が誰か、ちゃんとわかるような素敵な目にしてあげるって。大成功よね? ね?」
「ギル、意外と私のこと好きだったんだね」
「は、はあ⁉︎」
 534、基準はわからないがこれは中々良い数値なのではないだろうか。何事も多いに越したことはない。
 文字列のことは、孕ま……、など気になる単語があったが、まあ、記憶から抹消しよう。世の中見逃してあげた方がいいこともある。
 故郷の村では同世代はみんな幼馴染のようなものだから、私も全員の顔を把握している。ギルが好きなのは一体どの子のことだろうな、と詮索するのはこの際やめて……いや、面白いのでやめないかもしれないが、私の心の中に留めておこう。
「この数字、相手の好感度が見えるってことですか?」
 表示位置と、セッ……の単語こそ気にかかるが、予想よりもずっとマシな能力に私は胸を撫で下ろした。
「好感度? 賢い私がそんな基準もない、ふわふわしたものを使うわけないじゃない!」
 だとすると、私のことを好きな人がわかると言うなら、これは一体なんの数字だろうか? 呑気に考え込んでいた私の思考は、女神の次の一言で真っ白に消し飛んだ。
「それは、相手があなたのことを思って射精、または絶頂した回数よ!」
「しゃせい?」
 束(つか)の間の空白。
 小鳥が一羽、チュンと鳴く。
 そのまま、二人と一柱の間をてくてく歩いて飛び去っていった。
「しゃせい?」
 ギルと一緒に川辺で楽しく写生をした子供時代の光景が思い浮かび、ああ、これは現実逃避だな、と思った。
「え? 射精?」
「そうよ!」
「射精……?」


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