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ここにいても、いいですか? 〜高潔なる騎士団長の最愛〜

碧貴子 / 著
春が野かおる / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/08/26

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内容紹介

君がいなければだめなんだ
禁忌を犯したことで重傷を負ったミリアは、目が覚めると、冷たく整った容貌と厳格なことで有名な騎士団長・ユアンの腕の中にいた。貴族で構成された青の騎士団のユアンと、平民で構成された赤の騎士団のミリアは、敵対していたはずなのになぜ? なんと彼は、触れた身体から自分の魔力を分け与えることでミリアの命を救ってくれたのだった。敵ながらも高潔で知られる彼に介抱をされるなんて、禁術などに手を出した自分にそんな価値はないと、ユアンを拒否するミリア。しかし、いくら断ってもユアンはミリアを放そうとはしなくて…。「君が私を置いて死ぬことは許さない」全てを失った人生の先で巡り合う純愛の物語。

立ち読み



「……絶対に、許さない……」
 重い腕を動かして、ず、と滴る血で床に文字を書く。
 自ら切った腕の深い傷口から絶え間なく血が溢(あふ)れ続けているも、焼けつくような胸の苦しみの前では、痛みすら感じない。グラグラと煮えたぎるような頭に対して、血を失いすぎて冷え切った腕には、伝う血の温かさが心地よくさえある。
 最後の最後に冷えた体を温めるのが、自分の血だとは。
 皮肉さに、乾いた笑みが浮かぶ。
「……こんなにも尽くしたのに、ね……。捨てるなんて……」
 幸せになるはずだった。
 いや、幸せになりたかったのだ。
 共に助け合い、家族になろうと言ってくれたのは、彼ではなかったのか。
 だから、その言葉を信じて、持てる全てを彼に捧げた。
 結果、平民出の一介の騎士に過ぎなかった彼は、瞬く間に出世の階段を駆け上がり、今や誰もが羨む赤の騎士団の団長だ。
「……どうして…………どうして、こんなことに……」
 走馬灯のように、彼と出会って過ごした十余年が脳裏を巡る。
 その中で不意に、過去、確かに愛し、愛されていたのだという記憶が蘇(よみがえ)り、ミリアの視界がぐしゃりと歪(ゆが)んだ。
「……ぐっ……」
 止めどもなく溢れる涙に、嗚(お)咽(えつ)が混ざる。ぽたぽたと落ちる透明な雫(しずく)が、床の血文字を赤く滲(にじ)ませていく。
 あと一文字。彼の名前を完成させれば、全てが終わる。
 でも、その一文字が書き込めない。
 震える指先から垂れる血が、床に血だまりを作っていく。
 すっと、全身から力が抜けるのがわかった。
 膝から崩れ落ちるようにして、糸の切れた人形のように床に倒れ込む。
 倒れた拍子に、魔力と生命力全てを注ぎ込んだ魔法陣の一部が消えてしまったが、それに構う気力も体力も、ミリアには残っていなかった。
 今や、何もかもがどうでもいい。
 とにかく、疲れた。
 このまま真っ白になって、消えてしまいたい。
「……寒い……」
 急速に冷えていく体だけが、やけに現実的だ。ああ、死ぬのだと、まるで他人(ひと)事のように思う。
 霞(かす)む視界が、徐々に落ちる瞼(まぶた)で暗く狭まっていく。
 しかしその時。
 何故かはっきりと、靴音と剣が金具に当たって擦(こす)れる音が、床を伝って響き渡った。
「イリヤ……!」
 会いに、来てくれたのだ。
 捨てた長年の恋人を憐(あわ)れんで、きっと最後に一目、会いに来てくれたのだ。
 どこにそんな力が残っていたのか知らない。無我夢中で立ち上がり、夢の中を泳ぐように玄関へと向かう。
 ノックの音が聞こえる前に倒れ込むようにして扉を開けたミリアは、しかしそこで、固まったように動けなくなってしまった。
「フィオーレ特級魔導師、殿……? その姿は一体……」
 目の前には、驚(きょう)愕(がく)に見開かれた、冷たく澄んだ青い瞳が。
 吸い込まれるようなその青さに、今度こそミリアの体から全ての力が抜けた。
「フィオーレ殿っ!!」
 崩れ落ちる寸前に抱き止められたような気がするが、もはやこの世の全ては遠い彼方だ。
 絶望と共に最後に目にした青い瞳だけが、ミリアの暗い脳裏に長く残像として残った。



 ミリア・フィオーレは、フィオーレ侯爵の私生児としてこの世に生を受けた。
 母親は貧しい平民出のメイド。当時まだ侯爵家の後継だったフィオーレ侯爵に、酒の席の戯れで手を付けられたのがきっかけで、たびたび寝所に呼ばれるようになったのだ。
 当然の結果、ミリアの母親は妊娠し、次第に膨らみ始めた腹で周囲も彼女の妊娠に気付くこととなった。
 だが、フィオーレ侯爵には婚約者がおり、結婚前にメイドに手を付けて子供を産ませたなど知られるわけにはいかない。そのため、多額の手切れ金と子供の養育費を払うことを約束に、ミリアの母親は泣く泣く侯爵家を出ることとなった。
 それでも、ただのメイドでいる時よりは、十分に恵まれた暮らしだっただろう。街の外れとはいえ一軒家を与えられ、しかも働かずともよい金が毎月振り込まれるのだから。
 裕福とまではいかないが、ミリアたちは贅沢さえしなければ、楽に暮らしていけるだけの生活を保障されていた。
 しかし、父親のいない子持ちの未婚女性の家庭に対して、世間の目は厳しい。
 貴族のお手付きということで、さすがに表立った嫌がらせを受けることはなかったが、ミリアたちが街の住人に受け入れられることはなかった。
 加えて母親の両親はすでに他界しており、ミリア以外に家族もなく頼る人間もいない母親は、寄る辺のない寂しさから次第に酒に溺れるようになった。
 ミリアが物心つく頃には、すでに母親は酒浸りの毎日を送っていた。
 酔って泣いて、くだを巻くだけならいい。日によっては、罵(ば)詈(り)雑(ぞう)言(ごん)を浴びせられ、ミリアの髪を掴(つか)んで振り回し、顔が腫れ上がるまで叩かれた。
「お前さえいなければ」という言葉は、きっと母親の未練だったのだろう。
 けれども、ひどく暴力を振るわれた翌日ほど、母親は優しくなった。泣いてミリアを抱きしめ、「ごめんね」と何度も謝るのだ。
 そんな母親を、憎めるはずもなく。
 定期的に訪れる嵐をやり過ごしつつ、ミリアは息を潜めるようにして幼少期を過ごした。
 転換期が訪れたのは、ミリアが十歳になった年だ。何の前触れもなく、ミリアに魔力が発現したのだ。
 視認できるほどの強大な魔力に、ミリアの母親は涙を流して喜んだ。
 魔力を持つ人間は少ない。しかもミリアは発現させてすぐに、自由自在に魔力を操ることができた。一般的な魔導師は、長年の訓練の末に魔力を操る術(すべ)を学ぶのだというのに、だ。
 明らかに膨大な魔力と稀(け)有(う)の才能、そんなミリアを父親である侯爵が放っておくはずがないと考えたのだ。
 母親の期待通り、ミリアに魔力があることを知った侯爵は、ほどなくしてミリアを迎えるべく人を寄越した。
 すぐにミリアは侯爵の娘として認知され、ミリアはその日からフィオーレ姓を名乗ることになった。
 だが、ミリアが父親である侯爵に会ったのは、認知のためにミリアの顔を確認したその日、ただ一度きりだ。ミリアと同じ黒に近い鋼色の髪に青とも緑ともつかない瞳を持つその人は、確かに一目で血の繋(つな)がりがわかる人物だった。
 しかし、初めて会う実の娘に対して父親であるその人は、「確かにフィオーレだな」と一言呟(つぶや)いただけだ。その後は、全く興味の失(う)せた顔で、家令にミリアを連れて行かせたのだ。
 翌日には魔力のある子供たちが通う寄宿制の魔術学校に編入させられていて、ミリアが父親に会ったのも、フィオーレ侯爵家で過ごしたのも、それ以降二度となかった。
 けれども、皮肉にも魔術学校で過ごす日々は、ミリアにとってこれまでで一番心休まる日々だった。
 見知らぬ場所に見知らぬ人間ばかりで、最初は確かに寂しかったが、もともとミリアは孤独に慣れている。それに、しばらくした頃には、会話をする年の近い仲間もできた。ミリアたち親子を遠巻きにしていた街の住人たちなどより、余程話も合う。首席を争うライバルだっている。何より、酒を飲んだ母親にいつ打(ぶ)たれるのかとビクビク怯えて過ごす必要もない。
 魔術学校でミリアは、とにかく学ぶことが楽しくて、乾いた土が水を吸い込むように教えられたことを自らのものとしていった。
 そんなある日、ミリアのもとに母親の訃報が届いた。
 驚いて家に帰るも、すでに葬儀も何も、全て終わった後で。
 死亡を確認した医師によれば、酒浸りの毎日で体が弱っていたところに、唯一の家族であるミリアがいなくなってしまったことで、生きる気力がなくなってしまったのだろうという話だった。
 加えてもともと医者嫌いで、体の不調があっても医者にかかることもせずに放っておいたことが災いしたのだ。
 それでも最後は、眠るように穏やかな顔だったらしい。一人酒を飲んで眠って、そのまま、だったのだと。
 不思議と、ミリアは泣けなかった。
 むしろどこかほっとしている自分に気付いて、ミリアは己の酷薄さにぞっとした。
 確かに良い母親ではなかったが、彼女はミリアが家族と呼べるたった一人の人間だ。暴力を振るわれた日々は辛(つら)かったが、それでも愛していたし、愛されていたと思う。
 なのに、その唯一の人が死んでしまったというにもかかわらず、悲しいと思うどころか、これ以上無為に煩わされることはないのだと安(あん)堵(ど)するなど、これでは自分は、人の情というものが欠片もないあの父親と同じではないかと、ミリアは心から恐怖した。
 同時に、急に生前母親が口にしていた言葉が、鮮やかに耳元に蘇った。
 ――ひとかどの人物になって、お父様に認められなさい――と。
 母親は、ミリアを通じてもう一度侯爵に会う夢を捨てきれなかったのだ。
 弄ばれた挙句に孕(はら)まされ、使い古しの雑巾のように捨てられたのだというのに、母親は一(いち)途(ず)に侯爵を思っていたのだ。毎月支払われる養育費だって、ただ単にフィオーレの血が流れているミリアを、もしもの時のための担保としたかっただけだというのに、だ。
 その時、ミリアは決意した。
 母親の言うひとかどの人物というものが、どれほどのものかはわからないけれども、この先必ず力を得て、母親とミリアを捨てた侯爵を見返すと。
 それがミリアにできる唯一の、母親への手向けであると思ったのだ。
 そこからミリアはがむしゃらに勉強し、最難関と言われる飛び級を経て魔術学校を首席で卒業、わずか十六歳で国の魔導師となった。
 魔導師として活躍し、名を馳(は)せれば叙爵も夢ではない。
 そうなった時、あの侯爵がどんな顔をするのか、見てみたかった。
 同時にそこで、ミリアはイリヤ・ノヴァクと出会った。

 魔導師として初めての任務の日、点呼で名前を呼ばれて返事をしたところ、ミリアと同時に返事をした人間がいた。
 それがイリヤだ。
 姓は違うものの、ミリアとイリヤ、名前の音が似ているため、間違えて返事をしてしまったのだ。
 イリヤは国に二つある赤と青の騎士団の内、主に魔物の討伐を行い、国防を担う赤の騎士団の騎士だ。ミリアが魔導師として配属された先も赤の騎士団であり、イリヤとは魔物討伐の任務で出会ったのだ。
 しかしその後も、任務に出る毎(ごと)に、同じ間違いが度々起こる。そのため二人は、外見の違いから、騎士団の中で赤のイリヤと青のミリアと呼ばれるようになった。
 ミリアの青とも緑ともつかない複雑な青い瞳に対して、イリヤは漆黒の髪に良く映える、鮮やかな赤い瞳だったからだ。
 その上、聞けばイリヤもミリアと同じ十六歳で、ミリアの初の任務が、イリヤにとっても騎士になって初めての任務だったという。
 それがきっかけとなって、次第に二人は親しくなっていった。
 出身階級が貴族で構成された青の騎士団と違い、主に平民で構成されている赤の騎士団の団員なので、当然イリヤも平民である。しかしイリヤの、どこか品を感じさせる立ち姿に整った顔立ちは、半分貴族の血が流れるミリアなどより余程貴族らしい。それに、イリヤは周囲が驚くほどの剣の才能の持ち主だった。
 同い年の同期という気安さもあって、急速に距離が縮まった二人が恋に落ちるまで、そんなに時間はかからなかった。
 最初ミリアは、まさかイリヤがミリアなんかを好きになるなど、微(み)塵(じん)も思っていなかった。
 華やかな外見と卓抜した剣の才能、努力家で人当たりも良く明るいイリヤは、性別を問わず誰からも好かれる。だからそんな彼が、生まれてからこの方外見に気を配ったこともなく、女らしさの欠片もないミリアなんかを好きになるなど、思いもしなかったのだ。
 好きだと言われ、キスをされて、ミリアは舞い上がった。
 人から好かれるのも、親しく名前を呼び合って触れ合うのも、ミリアにとってはイリヤが初めてだったのだ。ミリアは、あっという間にイリヤとの恋にのめり込んだ。
 初めて関係を持った朝、ミリアの十八歳の誕生日でもあるその日に、イリヤがミリアにプロポーズをした。
 二人が知り合ってすでに二年が経っており、ミリアが成年を迎えるその日まで手を出さずに大事にされていたのだという思いもあって、ミリアは感激してイリヤの申し出をすぐさま受け入れた。
 しかし同時に、何故イリヤが騎士になったかを告白されて、浮かれるミリアの胸に一抹の疑念がよぎった。
 イリヤは、ミリアと同じように、とある貴族の落(おとし)胤(だね)なのだという。
 黒髪に赤い瞳は、この国では珍しい。だからミリアも、もしやと思うことはあった。
 しかもミリアと同じように、養育費は支払われるものの、メイドの子であるイリヤに父親は会いに来たことも、連絡を寄越したこともないらしい。
 未だ認知を拒む父親に、実の子だと認めさせるために、イリヤは騎士となったのだという。
「――だから、協力して欲しい」
「それは、出世の手伝いをしろってこと?」
「ああ。騎士として活躍すれば、叙勲されて叙爵を願うことができる。そうすれば、さすがに親父も自分の子として認知せざるを得ないはずだ。それが親父に捨てられた挙句に若くして亡くなったお袋の、切実な夢だったからな。それに、お前も俺と同じ思いがあるからこそ、魔導師になったんだろ? だったらこれからは、お互いの目的のために、協力し合えばいいんじゃないか?」
「……そうね。わかったわ」
 ミリアは困惑しながらも納得した。
 人より抜きんでた才能のイリヤだが、その陰で血を吐くような努力をしていることを、ミリアは知っている。イリヤは誰よりも勤勉で努力家だ。時にはどうしてそこまで、と思うほどである。だが全ては、父親に認められたいがためだったのだ。
 初めて見せるイリヤのギラギラとした表情に不安を抱きつつも、それ以上にミリアは、イリヤにひどく親近感を覚えた。
 何故ならミリアもまた、父である侯爵をいつか見返したいと願って、魔導師になったのだから。
「それに。俺たちは家族になるんだ。これからは俺とお前、二人で一緒に支え合って生きていこう」
「イリヤ……」
 重ねて、これから自分たちは家族なのだと言われて、ミリアは感極まってしまった。
 母親を亡くして以来、家族と呼べる近しい存在もなく、その母親にすら子供時代は粗略に扱われて、イリヤに出会うまで孤独に生きてきたミリアは、世間一般の温かい家庭というものに、渇望に近い憧れがある。
 そんなミリアにとって、愛するイリヤが家族になって一緒に家庭を築くという未来は、何物にも代え難いものに思えた。
 それでも、もしかしたら、ミリアがフィオーレ侯爵の娘だからイリヤは近づいたのかもしれないと思わなくもなかったが、この二年でイリヤの人となりはわかっているはずだ。
 何より、もし侯爵の後ろ盾を目的としてイリヤが近づいたのだとしても、そんなことは気にならないほどに、すでにミリアはイリヤを深く愛してしまっていた。
 そこからの数年は、互いに忙しく大変ではあるけれども、非常に充実した毎日だった。
 ミリアの人生で一番、満たされていた時間(とき)だ。
 お互いに協力し合ってメキメキと頭角を現した二人は、出世の階段を駆け上がるようにして上っていった。
 この時、確かにミリアは愛されていたと思う。目的は出世のためだったかもしれないが、イリヤはミリアを大事にしてくれていたし、語る二人の未来に嘘はなかったはずだ。
 赤と青のピッタリ息の合ったコンビは、各地で華々しく手柄を上げ、着実に階級を上げていった。
 だがそれも、身分という大きな壁が立ち塞がるまでのことだ。
 この国では将校より上の階級は、爵位があることが必須条件となる。つまり、爵位のない平民が副長以上になるには、叙勲されて爵位を与えられなければならない。
 多分イリヤは、それを見越して侯爵の娘であるミリアと婚約したのだろうが、悲しいかな、むしろミリアとの婚約が、イリヤの叙勲の妨げとなってしまった。
 娘として認知はしたものの、ミリアにフィオーレ家への影響力を持たれたくない侯爵が、婚約者であるイリヤの叙勲を阻んだのだ。
 イリヤが叙勲されて爵位を持てば、本来平民のイリヤと結婚して貴族ではなくなるはずだったミリアが、そのまま貴族の階級に居続けることになる。さらにはイリヤが活躍などしようものなら、ミリアの持つ影響力も大きくなる。侯爵はそれを嫌がったのだ。
 加えて、イリヤが国の三大公爵家、ヴァドヴィセール公爵の落胤だったことも災いした。
 公爵は後継争いにイリヤが参加することを望まず、したがってイリヤが叙爵されることは、公爵にとっても都合が悪かったのだ。
 イリヤが、ヴァドヴィセール次期公爵の座を狙っていたのかどうかは知らない。
 しかし、イリヤに爵位を持たれたくない彼(かれ)等(ら)勢力によって、イリヤの出世の道は断たれてしまったのである。
 その頃から、次第にイリヤは荒れ始めた。
 表面上は変わりなく見えたが、私生活には確実に影が差していた。時にはやり場のない怒りをぶつけられたりもした。
 そんな中、結婚はしていないとはいえ、何年も一緒にいてほぼ家族のような状態だったミリアは、根気強くイリヤを支え続けた。
 しかしどんなにイリヤが活躍をしようと、昇級は兆しすらない。これまでが順調だっただけに、行き詰まった感覚は余計にイリヤを苦しめた。
 しかも間が悪いことに、ミリアだけは魔導師として昇級していく。それまでずっと一緒の階級で共に歩んできたのに、ミリアだけが先に進んでいくのだ。
 ミリアが国の中でも両手の指で数えられるほどしかいない、特級魔導師の資格を得る頃には、イリヤは誰の目にも荒(すさ)んでいることがわかるようになっていた。
 毎晩浴びるように酒を飲み、ミリアが止めても気絶するように寝るまで飲み続けるのだ。その様は、暴力を振るわないだけで、酒に溺れていたミリアの母親と同じである。時には、明け方になっても帰ってこないことも。
 何度目になるかわからない、酒場で酔い潰れて眠るイリヤを迎えに行ったその日、ついにミリアは決意した。
 折り入って話があると密かにフィオーレ家を訪れたミリアは、イリヤの正当な叙勲と叙爵を条件に、フィオーレ家に関する全ての相続権を放棄する取引を侯爵に持ち掛けた。
 もともとフィオーレ家は、四歳下の異母弟が継ぐことが決まっていたが、侯爵の血を引くミリアにも、その権利はある。しかも弟は、フィオーレの血を色濃く継いだミリアと違って、父親である侯爵に全く似ていない。フィオーレの特徴である、鋼色の髪に青緑の瞳の、どちらも弟は持っていないのだ。社交界では、弟は侯爵の子供ではないのではないか、などという噂(うわさ)もあるくらいである。
 そんなところに、明らかに侯爵家の血筋とわかるミリアが国の魔導師として活躍しているとなれば、庶子とはいえミリアを次期当主にという声も上がらざるを得ない。だからこそ侯爵は、ミリアの婚約者であるイリヤの叙勲を阻んだのだ。
 侯爵との取引は、予想以上にあっさりまとまった。
 ヴァドヴィセール公爵の説得もすると頷(うなず)かれ、途中でミリアも、イリヤの叙爵を阻む全ては、ミリアを追い詰めて侯爵家の相続権を放棄させるために、侯爵が仕組んだことだったのだとさすがに気付いたが、今や侯爵家のことなど、ミリアにとってはどうでもよかった。
 母親のために侯爵を見返すという決意も、イリヤとの未来の前では、もはや重要ではなかったのだ。
 しかし。
 これまでの功績に対してイリヤが叙勲、叙爵されることが決まったその日、何故か蒼(そう)白(はく)な顔でイリヤが静かにミリアを詰(なじ)った。
「……全部聞いた。俺のために、お前は自分の夢を諦めたんだな」
「別に、諦めたわけじゃないわ」
 ミリアの犠牲で出世するのだと思われたくなくて、イリヤには侯爵との遣(や)り取りについて話していなかったのだが、事情を知っている上長が話してしまったのだろう。
「それに、私たちは家族になるんだから、あなたの活躍は私の活躍でもあるわ」
 気にするなと、気にしなくていいと、言ったつもりだった。
 だが、微笑むミリアに、イリヤが白い顔をますます白くして黙り込んだ。
「イリヤ……?」
「確かに過去、出世のためにお互い協力しようとは言った。……だが俺は、こんなことは望んでいない」
「え……?」
「お前は……」
「……」
「…………いや、いい」
 その日を境に、イリヤが酒を飲むことはなくなった。
 同時に、これまでが嘘のように、イリヤの活躍が始まった。
 だがそれは、手段を選ばずにイリヤが手を回した結果でもある。以前は酒には溺れてもミリア以外の女に手を出すことはなかったイリヤが、出世のために女と寝るようになったのだ。
 イリヤはもともと非常に整った外見である。黒髪に赤目は、この国では不吉なものとされていて、イリヤもこれまで悪魔の子と囁(ささや)かれてはいたけれども、ヴァドヴィセール公爵家由来のものとなれば、それも魅力でしかない。その上騎士として活躍目覚ましいとなれば、貴族の夫人やご令嬢の間で話題になるには、十分すぎるほど条件は揃(そろ)っていた。
 己の実力のみでのし上がってきたこれまでと違い、陰で有力貴族の夫人と愛人関係になったイリヤは、愛人たちの口利きで着実に貴族階級の中でも力をつけていった。
 そうやってイリヤは、あれよあれよという間に副長まで上り詰めた。
 しかしその頃には、皮肉なことに、イリヤとミリアの仲は冷え切っていた。
 いくら出世のためだとしても、裏切りは裏切りだ。イリヤが女のところに泊まっていると知ったその日から、ミリアは眠れなくなった。
 それでも最初は、静かに涙を流すミリアにイリヤも狼狽(うろた)えて、出世のために仕方ないのだと、ただ利用するためだけの関係で、全てはミリアとの未来のためなのだと必死に弁解していた。だが次第に、当時同棲中だった家にイリヤが帰って来ることは間遠になり、最後はミリアを一人家に残して自分は別に家を借りるようになっていた。
 もちろんミリアも、ただ黙ってその状況を眺めていたわけではない。何度も抗議し、宥(なだ)めたりすかしたりして、必死に女と寝るのをやめさせようとした。
 だけどある日連絡もなくイリヤの家を訪ねて、イリヤと女の密会に出くわしてしまったミリアは、自分たちの関係はとっくに終わっていたことを、絶望と共に気付かされた。
 だが、頭ではわかっていても気持ちが受け入れられるはずもない。別れを切り出されて、ミリアは激しく抵抗した。
「どうしてっ!? 結婚するって、家族になるんだって、約束したじゃないっ!!」
「ああ」
「お互い出世して、そしたら結婚するって言ったのにっ!! なのになんで別れるとか言うのっ!? 私がこれまでどんな思いで側(そば)にいたのか、今更知らないなんて言わせないからっ!!」
 イリヤのために、ミリアがこれまでどれほどの犠牲を払ってきたと思っているのだ。
 イリヤとの未来のために、ただそのためだけに、遺言ともいえる母親の願いに背を向けて、ミリアはフィオーレの相続権を放棄したのではなかったのか。
「嘘つきっ!! 今更別れるなんて許さないっ!! 絶対に、別れないからっ!!」
 悲鳴のようなミリアの叫び声に、イリヤが静かに顔を背ける。
 その顔からは、何の感情も読み取れない。
 愛情など、とうの昔に消え失せたとわかる冷たいイリヤの横顔に、ミリアは絶望した。
「嫌よ……嫌っ……! 別れるなんて、絶対に嫌っ!! お願いだから別れるなんて言わないでっ!! 別れるくらいなら、あなたと他の女の人のことも我慢するっ!! もう何も言わないからっ……だから、お願いっ……!」
 髪を振り乱して縋(すが)りつき、涙を流して懇願する。
 多分今、きっと自分はひどい顔をしているだろう。みっともないことをしているのはわかっていても、止められない。
 しかし、捨てないでと泣いて縋るミリアを引き剥(は)がして、イリヤは一言、「すまない」とだけ言い残して去っていった。
 呆(ぼう)然(ぜん)とする毎日を、どう過ごしていたのかさえ覚えていない。
 別れてからは、仕事でもイリヤとのコンビは解消され、赤の騎士団に居続けることに意味を見出(みいだ)せなくなったミリアは、しばらくして騎士団も辞めてしまった。すでに二十六を過ぎたミリアは世間では年増と呼ばれる年齢で、にもかかわらず長年尽くしたイリヤに捨てられたことを、二人を良く知る団員たちが憐(あわれ)みの視線で見てくるのが煩わしかったというのもある。
 何より、徹底的にミリアを無視するイリヤと同じ職場にいることに、耐えられなくなったからだ。
 それでも、ざらざらとした砂を噛むような空虚さを、胸の痛みと共に堪(こら)えていられたのは、家族のように過ごしたイリヤが、本当の意味でミリアを捨てることはないという希望に縋っていたからだ。
 いつかは必ず、戻ってきてくれると。
 ミリアにはイリヤだけのように、イリヤにとっても全てを許せる存在はミリアだけなのだと。
 しかし一年後。イリヤを待ち続けたミリアの儚(はかな)いその希望も、イリヤの婚約の知らせで完全に打ち砕かれた。
 相手は、十歳年が離れたこの国の王女。
 副長であるイリヤが、今年十七歳になったばかりの王女の専属護衛を任されて、まだ半年も経っていない。
 だが世間は、不遇の近衛騎士と王女の切ない恋の話に夢中だ。
 イリヤがヴァドヴィセール公爵の隠し子で、公爵に認められるためにひたすら努力していたのだということも、世間の共感を得るに一役買っていた。
 王女と結婚するためには、それなりの爵位が必要である。可愛い末の王女の頼みで、国王直々にイリヤは陞(しょう)爵(しゃく)し、赤の騎士団の団長に任命された。
 公爵もすでに、イリヤを認知したという。
 イリヤの華々しい話を聞くたびに、ミリアは心が壊れていくのがわかった。
 イリヤがミリアに会いに来ることは、二度とない。
 だってもう、イリヤにミリアは必要ないのだから。
 あんなにも、尽くしたのに。
 全てを捧げて、尽くしたのに。
 利用するだけ利用して、捨てたのだ。
 婚約発表のその日、幸せそうに王女と笑い合うイリヤを遠目に眺めて、ミリアは静かに会場から背を向けた。
 そしてその足で、魔塔に向かった。
 禁じられた術に手を出すために。




「――お姫様はまだ、目を覚ましませんか?」
「そうだな」
「もう一ヵ月ですか? この光景も大分見慣れたものになりましたね」
「ああ」
 遠くで、話し声がする。
 低く落ち着いた男の声は、どちらも聞き慣れないものだ。
 だが、どこかで聞いたことがあるような気もする。
 一体どこだったか。
 思い出せない。
 それでも思い出そうとして、しかし思い出そうとすればするほど頭上の声が遠のいていく。
 ぐるぐると渦を巻いて、暗闇に吸い込まれていくかのようだ。
 気持ちが悪い。
 その時。
 ひやりと何かが額に当てられて、そこから清涼な気の流れのようなものが流れ込んできた。
 すっと、気持ちの悪さが引いていく。
 徐々に体が温かくなって、ほかほかと毛布に包(くる)まれているかのようだ。
 ほっとして、温かな温もりに全てを明け渡す。
 すると、再び先ほどの声が頭上から聞こえてきた。
「あ。顔色が戻りましたね」
「うん」
「……こうして見てると、これがあの赤の魔導師だとはとても思えませんね」
「……」
「寝顔は可愛い――て、なんで隠すんです?」
 それきり、心地よいふわふわとした感覚のまま意識が遠ざかる。
 それにしても。
 ほぼ相槌だけのこの声は、やはり覚えがある。
 何故か、長い間この声を近くで聞いていたような気も。
 不思議と安心する声だ。
 しかしまとまった思考は、長くは続かなかった。
 その後は微睡(まどろ)みの中の取り留めない世界で。
 脈絡のない映像が流れたり、暗闇に沈んだり。
 その間ずっと、温かで心休まる何かに包まれていた。
 この感覚は。
 子供の頃、たまに機嫌の良い時に母親が抱きしめてくれた感じに似ている。
 泣き出したいほどの安心感。
 母親のような柔らかさはないけれど、頬を寄せれば代わりに、すべすべと滑らかな感触がある。
 心地よい。
 懐かしさに、ふと、涙がこぼれる。
 優しく頬を拭われる感触で、ますます涙が溢れて止まらなくなった。
「……何故泣く」
 わからない。
「どこか苦しいのか?」
 苦しくはない。
 優しくて温かいから、涙がこぼれるのだ。
 人の温もりを感じるのは、いつ以来だろう。イリヤが触れてくれなくなって、久しい。
 でもずっと、イリヤにこうして触れたかったのだ。
 イリヤがいなくなってしまったら、誰がミリアの涙を拭いて抱きしめてくれるというのか。
 ミリアには、イリヤしかいないというのに。
「……イ……リヤ……、ずっ、と……一緒……に……」
「……」
 優しく髪を撫でられる感触で、急速に再び意識が遠のいていく。
 でも、もう寂しくはない。
 イリヤが側にいてくれるのだから。
 微かに微笑みを浮かべて、ミリアは柔らかな微睡みに沈んだ。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 随分と長い間、暗闇を揺蕩(たゆた)っていた気がする。
 時々暗いどこかに吸い込まれてしまいそうなほど冷たくなる時があったけれども、凍える場所に取り込まれないよう、ずっと側で温もりを与えられていたのは知っている。
 まるで、母親の胎内にいるかのようだった。
 お陰で今、とても穏やかだ。
 温かな羊水の底から緩やかに浮上して、水面から顔を出すように瞼が開く。
 視界に映る見慣れない景色をぼんやり眺めて、ゆっくり覚醒したミリアは混乱した。
「……?」
 執務室のような部屋で、今ミリアの目の前には、うず高く書類が積まれた机がある。
 でもこれは、ミリアの机ではない。第一こんな部屋、知らない。
 というか。
 何故机が目の前にあるのか。座っている……にしては、身動きが取れない。見れば、毛布で頭まで包まれているではないか。
 どういった状況なのかわからず激しく混乱していると、その時。
 ミリアの頭上から声が聞こえてきた。
「目を覚ましたのか?」
 驚いて顔を上げると同時に、ミリアを覗(のぞ)き込む誰かが。
 見開いた目に、鮮やかな青い二つの瞳が飛び込んできて、ミリアは息を呑んで固まった。
「体の感覚はあるか?」
「!?」
「…………もしかして、喋(しゃべ)れないのか?」
 澄んだ湖面のような瞳の上で、冷たく整った眉が心配そうにひそめられる。
 さらには、無造作に額に手を当てられて、ミリアは呆然としたまま動けなくなってしまった。
 人は、驚きがすぎると声が出ないらしい。
 そして唐突に、ミリアは今の自分の状況を理解した。
「なっ……なんっ……!?」
 視点の高さから、勝手に椅子に座っていると思っていたが、とんでもない。実際は椅子ではなく、ミリアは毛布で全身を包まれて、まるで赤子のように抱き抱(かか)えられた状態で、目の前の男の膝に乗せられているのだ。
 しかも彼は。
「急に動くな。動くにはまだ血が足りていない」
「……っ!!」
 動くなと言われても、この状況で驚かない人間なんていない。
 けれども、喉からは掠(かす)れた呻(うめ)き声が出るばかりで、言葉らしい言葉が出てこない。
 そうこうするうちに、視界が霞んでミリアの意識が再び朦(もう)朧(ろう)としてきた。
「あっ! 彼女、目を覚ましたんですか!?」
「いや、また気を失ってしまった」
 どうやら、部屋に誰かやって来たらしい。
 ぐったりとした体はピクリとも動かせないが、声だけは聞こえてくる。
「あー……。まあでも、命が助かっただけでも奇跡ですよ」
「そうだな」
「それも全て、団長が今日までずっと魔力を分け与えていたからですがね」
 “団長”ということは、やはり。見間違いではなかったのだ。
 それにしても、何故彼が。
 そもそも、どうしてこうなった。
 薄れゆく意識の中、必死に記憶を探る。
 暗闇に沈む直前に、そこでミリアは思い出した。
 イリヤを呪い殺して道連れにするつもりで、禁じられた黒の魔法陣を描いていたこと。
 でも結局、最後にイリヤの名前を書けなかったこと。
 そして死の直前に、イリヤではなく、青の騎士団の団長、ユアン=バティスト・マスィーフが訪ねて来たのだ。


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