書籍詳細
冷酷参謀の夫婦円満計画※なお、遂行まで十年
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/09/30 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
1 君が一番まともそうだから
止まっていた歯車が、何かの拍子で急に動き出す。——それは大抵、何気ない日常を送っていた時に前触れなくやってくる。
この日がまさにそうで、ベアトリスはいつも通りの休日を過ごしていたはずだった。
給金が支給されたあとの休日は、決まって町の本屋に足を運ぶ。気になった数冊の本を購入したあと自分用の菓子を買い、最後はお気に入りの見晴らしのよい公園に立ち寄るところまでが、毎月の習慣となっていた。
芝生の上に座り目下に広がる景色を眺めながら、ゆっくりと流れる時間に浸る。心地よい風が吹いて、肩にかかる長さでそろえられた金茶色の髪とリボンを揺らした。
丘の中腹にある公園からは、このカルタジア王国の首都の町並みを眺めることができる。
ベアトリスは間違い探しのように、町並みから新しい発見をすることが好きだ。
建築中の時計塔についに大きな時計が取り付けられたこと、サーカスがやってきてテントが張られたことなど……どれも平和が訪れた証拠だと思える。
大陸のこの百年間は「暗冬時代」と呼ばれ、どこかで絶えず戦争が起きていた。
カルタジア王国は建国から十五年の新興国で、昨年ついに隣国との和平が成立し、曖昧だった国境が定められた。戦禍に見舞われる心配がなくなった首都では新しい建築物が次々に建てられ、町は賑(にぎ)わいをみせている。
そんな町の様子を前に誇らしい気持ちになるのは、平和をもたらした功労者の一人が、ベアトリスが仕えている主人だからだ。
ベアトリスは気難しい主人の顔を思い浮かべながら、芝に寝転んだ。まだ夕暮れまでは時間があるから、昼寝をするのも悪くない。でも空は青く、眠るには日差しが強すぎた。
まぶしさに目を細めていると、ベアトリスの頭上に突然日陰ができる。
「——ベアトリス、こんなところで何をしている?」
足音も気配もなかったのに、前触れなくベアトリスの視界に入ってきた人物がいたのだ。
「ご主人様!」
ベアトリスは地面に寝そべっていたことを恥ずかしく思い、慌てて起き上がる。
そこにいたのは、とても不機嫌そうな顔をしたベアトリスの主人——ラウノ・ルバスティだった。
年齢は、ベアトリスより十歳年上の三十二歳。この国の軍で参謀長を務めている人物だ。ベアトリスは十二歳の時に、奴(ど)隷(れい)として売られそうになっていたところを彼に助けられ、生きる場所を与えてもらった。
もし主人がいなかったら、ベアトリスは家族を失った悲しみと復(ふく)讐(しゅう)心を抱えながら、きっと今頃奴隷として酷(ひど)い生活をしていただろう。
主人はベアトリスの恩人だが、この国にとってもなくてはならない人物だ。国王の右腕であり平和の立て役者でもあるが、どうもその功績と世間の評判には差がある。
彼の銀色の髪は鉄の色と似ている。
緻(ち)密(みつ)で容赦のない行動と相まって「鉄の参謀」などと呼ばれている彼は、カルタジア王国の闇の部分を背負ってきた人物としても有名だった。
「どうしてご主人様がここに?」
彼は滅多に徒歩で町を歩かない。ましてわざわざ丘を登らないとたどり着けない公園に、用事があるとは思えなかった。それに今日の予定では、夕方まで軍の任務で帰宅しないはずだった。予定通りを好む主人が、休暇でもないのに昼のうちに帰宅するのは珍しい。
ベアトリスが質問をすると、主人は凍えるような瞳でじっと見下ろしてくる。
「こちらが質問している。君はここで何をしているんだ?」
老若男女問わず、大抵の人はこの冷たい瞳に睨(にら)まれるとひるんでしまうが、ベアトリスは慣れのせいか気にならない。
世間では冷酷と恐れられている人だが、ベアトリスは知り合ってから十年間、一度も彼を怖いと思ったことがない。
「町を眺めたあと、昼寝をしようとしていました」
「一人の時に外で昼寝などするな。危険で愚かな行動だ」
注意を受けてしまうが、確かに主人が正しい。いくら平和な世になったとはいえ、眠っていたら財布を盗まれることもあるだろう。
「……はい。次からは、気をつけます」
「わかればいい。……戻るぞ。下で馬車を待たせている」
主人は短く告げ、さっさと踵(きびす)を返そうとする。
「あの……」
態度から、ベアトリスにも同行しろと言っているのだとわかった。でも、素直についていってよいのか迷う。使用人は主人と一緒の馬車に乗ったりしない。ベアトリスだけでも、歩いて帰るべきなのだ。
ベアトリスはまだ少女と言える年齢だった頃から彼に仕えている。そのため主人はベアトリスのことを子ども扱いし、保護者のように振る舞う時がある。それは他の使用人と平等の扱いとは言えないので、成長してからは甘受しないよう、ベアトリス自身が戒(いまし)めていた。
しかし、主人の意思を無視するのも抵抗がある。どうすべきかわからず戸惑っていると主人は振り返り、ついてこないベアトリスに呆れたような視線を向けてくる。
「急ぎの用があるから言っている。あまり待たせるな」
「……では、お言葉に甘えて」
理由があるのならしかたない。そもそもここは、彼が偶然通りかかることのない場所だ。わざわざ迎えにきてくれたのだと理解した。
ベアトリスが立ち上がり主人のあとをついていくと、彼の言った通り丘を下ったところに馬車が待機していた。
馬車に乗り込む時、ベアトリスの身体は硬くなる。主人が手を差し出してきたからだ。
女性が馬車を乗り降りする時に手を貸すのは、男性のマナーとして一般的なものだが、主人から貴婦人のように扱われることに関してベアトリスには苦い思い出がある。きっと主人もそのことを忘れてはいないだろう。
自然と馬車の中は気まずい空気になり、主人がどうして迎えにきたのか、その用件を話してくることもなかった。
間もなく見えてきた建物は、主人が身ひとつで手に入れた、功績の象徴のような立派な建物だ。
「ご主人様、乗せていただいてありがとうございました。荷物を置いてすぐにご用をうかがいに参ります」
ベアトリスは馬車を降りて、そのまま屋敷の裏手から使用人専用の扉を使って中に入っていく。
荷物を置いて、土や埃(ほこり)がついてしまった服から支給されているお仕着せに着替えて、主人の書斎へ向かう。
急な用件とはいったい何のことだろう? 怒られるようなことをしてしまった記憶はない。
考えながらも、ベアトリスは騒音を嫌う主人の機嫌を損ねないよう、軽く扉をノックしたあと静かな足取りで入室した。
「遅い」
主人は椅子に座りもせずに、書斎机の奥にある窓際に立っていた。
西に傾いている光を背負った主人の銀髪は、今、太陽をそのまま溶かしたような色に見えとても綺麗だ。
「ご主人様、ご用とは何でしょうか?」
ベアトリスが問いかけると、主人はなぜか身体の向きを変えて窓のほうを向いてしまった。それから咳(せき)払(ばら)いをひとつして言い出す。
「仕事を理由に人からの誘いを断るのはやめろ。おかげでルバスティ家はどれだけ使用人を酷使しているのかと、悪評が立っている。男という者は勘違いしやすい。今度からは完(かん)膚(ぷ)なきまで叩き潰せ」
まるで自分の行動すべてを見てきたような口ぶりに、ベアトリスは冷や汗をかく。
カルタジア王国は今、空前の結婚ブームとなっている。戦いにかり出される心配がなくなったことで、家庭を持とうとする者が多い。政府もそれを推奨していて、大規模な祭りを開催したり、新婚夫婦に対して税の免除を行ったりしている。
その流れからか、ベアトリスもここ最近男性に言い寄られることがあった。
十代で結婚する女性も多い中、二十二歳で恋人もいないベアトリスにはお手頃感もあるのか、今日もよく立ち寄る商店の男性から「一緒に祭りに行こう」と誘われた。
主人が言うように、無難に躱(かわ)そうと仕事を理由に断ってしまったのだが……それがルバスティ家の評判を落とすことになるとまでは、考えが至らなかった。
確かに遊びにも行けないほど労働環境が劣悪だという噂(うわさ)が流れたら大変だ。主人の評判をさらに落としてしまうし、新しい使用人を雇いにくいという問題も発生する。
(でも……)
彼には「鉄の参謀」だけではなく、「千の耳と目を持つ男」というふたつ名があった。
かつて暗部に所属し、今も影の者達を支配下に置く主人の情報の多さと速さは恐るべきものだということはベアトリスも知っているが、いくらなんでも一介の使用人に過ぎない人間のことを、把握しすぎではないだろうか。
不満はあるが、反抗しても勝てないことはわかっている。
ベアトリスは主人の視線がこちらを向いていないのをいいことに、一度口を尖(とが)らせてから、反発を隠して謝罪する。
「……それは申し訳ありません。次からは別の理由を使えるよう考えておきます。それにこの屋敷はとてもお給金がよいという噂も流しておきますね。あと、支給されている備品も素晴らしいです。おかげで私の髪も肌もサラサラです」
ベアトリスは、得意気になって自分の髪に触れた。年齢と共に濃い色になっていった髪だが、庶民にしてはよく手入れが行き届いていて、今でも褒められることが多い。これもルバスティ家から支給されている高価な洗い粉や整髪油のおかげだ。
主人が冷酷で気難しい人物だということで使用人の応募は少ないが、実際に働いてみれば待遇はよく、皆快適に過ごしている。
「今は使用人の数は間に合っているから、無駄なことはするな。ところで……」
用件は他にあったのか、主人は話題を切り替えてきたが、時間を惜しむ彼にしては珍しく間を持たせてきた。
ベアトリスはただじっと待つだけだ。背筋を伸ばして待ち構えていると、主人は背を向けたまま再び口を開く。
「私は今度、結婚することになった」
「……ご結婚ですか? ご主人様が?」
ベアトリスは耳を疑う。
主人はかつて「結婚とは終わりのない拷(ごう)問(もん)だ」と平気で口にしてしまうほどの、完全なる独身主義だったはず。急にどうしたというのだろう。
「そうだ。その準備を君に任せたい」
「…………!」
ベアトリスは動揺を悟られぬよう、平常心を装う。でも、自分の中で長らく封印してきたはずの感情が、湧き出ているのがわかった。
使用人として忠誠心を見せることができるか、ベアトリスは今、試されているのかもしれない。
(まさに鬼畜の所業ですね……ご主人様。人の気も知らないで……)
皆は主人のことを怖い冷たいと言うが、ベアトリスにとっては優しい主人だ。
住む家と食べ物を与えてくれただけでなく、一番の願い事を叶えてくれた人でもある。
独身主義の主人が年老いてよぼよぼになった頃、偏屈すぎて他の使用人に逃げられてしまっても、自分だけはそばにいようと思っていたくらいだ。
一人で勝手に裏切られた気持ちになるが、ここはぐっと堪(こら)えるしかない。
「……かしこまりました。では、必要なことは書面に記していただければ、万全の態勢で奥様をお迎えいたします」
そっけない口調でそう返したが、主人は咎(とが)めてくることはしなかった。
「では今、口頭で伝える。メモは必要か?」
主人は一瞬振り返り、書斎机の上にある羽根ペンと紙に視線を移していた。
ベアトリスがそれらを拝借し準備が整うと、主人は窓際をゆっくりと右に左に歩きながら、伝達をはじめる。
「——花嫁の名前は、ベアトリス。婚礼の衣装は花嫁の要望通りに。挙式は準備が整い次第最短で、できるかぎり簡略化。招待客は必要最低限……こちらはあとで私がリストを制作する。以上だ」
ベアトリスが最初の一文字しか書けなかったのは、彼があまりに早口だったからだけではない。自分の名前が出てきたからだ。
世の中にベアトリスという名を持つ女性は、たくさんいる。特別珍しい名ではない。主人に選ばれた花嫁が自分だなんて……もしも勘違いして否定されたら立ち直れない。
ベアトリスが羽根ペンを持ったまま固まっていると、主人は立ち止まり、ようやく視線を合わせてきた。
「顔が酷いことになっているぞ」
おかしな顔にさせているのは、他でもないこの人だ。ベアトリスはどうしたものかと悩みながら、慎重に確認をはじめる。
「あの……ご主人様のお知り合いに、ベアトリスという名前を持つ者は何人いらっしゃいますか?」
「生きている人間では、目の前の一人しかいないな」
「…………!」
これは、勘違いではない可能性が高くなってきた。
「り、理由を……なぜ突然結婚しようと思ったのか、その理由をお聞かせ願います!」
突然の主義変えに至った経緯がわからず真剣に問うと、主人は珍しく少し考え込んでからぽつりと言い出した。
「どうやら平和な世に、私のような参謀は不要らしい」
「そんな!」
ベアトリスは彼がこの国のために尽くしてきたことを知っている。戦乱が終わったからもう不要だなんて酷い話だ。
「いつまでも独り身で仕事ばかりしていると、策謀を巡らせているのではないかと人を怯(おび)えさせてしまうそうだ」
「あ……うっ」
世間での評判は確かにその通りなので、はっきり否定できないのが悔しい。ただ主人はそんな評判を気にしてはいないようで、淡々と説明を続けてきた。
「そこで、人に与える印象を変えろという王命が出た。最近推し進めている国策の一環でもあるし、新しい任務にも妻役が必要だ。私はこれから仕事より妻子を優先する愛妻家となり、夫婦円満で穏やかな生活を送っていることを世間に知らしめなければならない。そして君を選んだ理由は、長時間一緒にいることに耐えうる人間の中で一番……」
一番? そのあとに続く言葉は何だろう。ベアトリスはつい、特別な言葉がもらえるのではないかと期待してしまう。
しかし、しばらく待っていると主人はベアトリスに背を向け、窓のほうを見ながらこう言った。
「君が一番まともそうだからだ」
「…………お褒めに与(あずか)り、光栄です。純粋な任務なんですね……納得いたしました」
思わず肩を落とす。
よく考えてみると、今まで女性に冷たく接する主人を散々見てきたはずだった。期待するほうがどうかしていた。
つまり主人は国王の命令で妻帯することになり、おそらく面倒だからという理由で、勝手知ったる相手であるベアトリスを選んだのだ。「妻」ではなく「妻役」。これは偽装結婚という解釈で合っているのだろうか?
「新しい任務について、お聞きしてもよろしいのですか?」
「ああ。スヴァリナ総督に着任する内示が出ている。結婚後は軍を退いてすみやかにスヴァリナ州に赴任することになる」
「それは!」
スヴァリナ州と聞き、ベアトリスは驚く。
平和になったこのカルタジア王国内で、現在唯一不安要素を抱えている地域がスヴァリナ州だ。十年前まではスヴァリナ公国というひとつの小国だったため、併合された現状をよく思わない人が多くいる。もともと言語も文化も違う国だったから無理もない。
そしてベアトリスには、その地の名を聞いて内心穏やかでいられない理由があった。
「あの……ご主人様、スヴァリナが私の故郷だということも含めて、この提案をなさったのですか?」
ベアトリスはスヴァリナ生まれだ。家族を失いあの場所を脱出して以来、一度も帰郷していないが、今も故郷に対しては複雑な思いを抱いている。
彼はどこまで狙って、ベアトリスをスヴァリナに連れていこうとしているのか。主人の本音を読み取ろうと見つめてみたが、ただ睨み返されるだけだった。
「言っておくが強制しているわけではない。選択権は君にある。断るなら他の相手を考えなければならないが……」
それは、ベアトリスにとって脅しのように聞こえた。
決断できないなら主人は他の人と結婚してしまう。それはどうしても嫌だった。
「いえ、お引き受けします。でも……本当に私でよろしいのでしょうか? いろいろ……不都合はございませんか? 生まれとか、身分とか……そのいろいろ。使用人と結婚したなどと笑われないでしょうか」
「問題ない。地元出身の妻……一番の適任者だ。それに、君は器用だから、その気になればなんでもこなせるだろう? 結婚後は、私の妻として印象操作に協力してもらうことになる。なんせスヴァリナでは、私は死ぬほど嫌われているから」
確かに、主人のスヴァリナでの評判はこちらよりさらに悪いはず。
主人は十年前の混乱時にカルタジア王国軍で活躍していた。当時敵同士だったスヴァリナにとって、ラウノ・ルバスティは仇(かたき)のような存在なのだ。
それでも主人が総督に任じられるのは、十年たっても安定とはほど遠いスヴァリナの現状を打破するためなのだろう。
「ご主人様の好感度上昇のため、全力で取り組む所存です」
ベアトリスは見よう見まねの軍隊式の敬礼をしたが、ただ顔をしかめられただけだった。
「まあいい。私から結婚の打診をし、君はそれを引き受けた。交渉は成立したな? あとから撤回はできないぞ」
「はい! ようやくご主人様のお役に立てそうで、嬉しいです」
「結婚に関する雑務はすべて任せる。細かいことは家令と相談してくれ。もう下がってよい」
「ご命令、承りました」
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