書籍詳細
王太子殿下は籠の鳥の姫と愛おしき逢瀬を重ねる 〜やり直しの花嫁〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/10/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序章
小鳥の声が聞こえた。
いつもとは違う鳴き声だった。
侍女のアルマが起こしに来るより先に寝床を離れたのはそのせいだ。
城の森は緑豊かで、たくさんの生き物たちの住処(すみか)となっている。
夫であった先王クラウディウスが崩(ほう)御(ぎょ)してからというもの、森の奥のこの小さな館(やかた)でひっそりと暮らしているユーディットにとって、時折やってくるこのかわいらしい来訪者たちはささやかな心の慰めでもあった。
ユーディットは夜着の裾(すそ)を翻(ひるがえ)しながら窓辺に歩み寄る。
二階の窓からは森の梢(こずえ)が広がっているのをすぐ目の前に見ることができた。
季節はようやく冬から春に変わったばかり。
とても美しい朝だ。
陽(ひ)射(ざ)しも、森の梢も、風さえもがきらきらと輝いている。
春はまだ浅く、ユーディットの肌を震わせるほどに風も冷たいが、館を取り囲むようにして立ち並ぶ大樹は、あたたかくなる日など待ちきれないとばかりに芽吹き、梢は細い枝の先までもやさしい淡緑に包まれていた。
その若葉に埋もれるようにして震えているのは、一羽の小鳥の雛(ひな)だ。
「まあ。大変」
とても小さな雛だった。見たところ、まだ羽毛も生えそろっていない。
おそらく、巣から落ちてしまったのだろう。
ユーディットは窓から身を乗り出し手を伸ばしてみたが、あとわずかなところで届かなかった。
「どうしよう……」
もうちょっと、あと、もうちょっとで助けられそうなのに……。
ためらいは一瞬だった。窓枠に膝を乗り上げさらに大きく身を乗り出したその時、背後で悲鳴が上がる。
「陛下! 早まってはなりません!!」
侍女のアルマの声だった。起きる時刻になったので、ユーディットの朝の支度(したく)のためにやってきたのだろう。
「陛下は大国ガレアの王(おう)太(たい)后(ごう)であらせられるのですよ! 王太后陛下のそのようなお振る舞いを知れば国民たちが嘆き悲しみます!!」
どうやら、アルマはユーディットが世をはかなんで二階の窓から身を投げようとしていると思ったらしい。
とんだ勘違いだった。
いくらユーディットが名ばかりの『王太后』であり、今はなんの力も持たない未亡人でしかないからといって、そんな誤解をするなんて。
思わず噴き出しそうになった。
(アルマったら、ほんとうに心配性ね)
アルマはユーディットがパゴニアの王女として生を受けた時からずっとユーディットの侍女を務めている。そのせいもあって、アルマの目に映るユーディットは今でも『小さな姫さま』のままなのかもしれない。
一方、ユーディットにとっても、アルマはもうひとりの母も同然の存在だった。
たったの十三歳で先のガレア王クラウディウスに嫁いできた時も、そして、わずか一年ばかりの結婚生活ののち、未亡人となってこの小さな館に移り住んでからも、アルマは、ユーディットの身の回りの世話をひとりでこなし、ユーディットの心に寄り添い続けてくれている。
それを少しくすぐったく感じながら、ユーディットは振り向かずに答えた。
「小鳥がいるの! 雛よ! 巣から落ちたみたい。助けないと、このままでは危ないわ!」
小さな館とはいえ、二階の窓はかなりの高さだ。下を見ると目がくらむ。
なるべく目線を上に向けるようにして手を差し伸べると、驚いたのか、小鳥の雛が枝の上をじりじりとあとずさった。
ユーディットは、微笑みを浮かべ、小鳥の雛にやさしく語りかける。
「大丈夫よ……。大丈夫。怖いことは何もないから、お願い、逃げないで。こっちにいらっしゃい」
指先が小枝に触れた。
いっぱいに伸ばした手をさらに伸ばして小枝を手繰り寄せ、震える雛をそっと掌(てのひら)で包む。
あたたかい。
こんなに小さいのに、健やかな命のぬくもりが伝わってくる。
「よかった……」
ほっとして、気が抜けた。
と同時に、膝からも力が抜ける。
「……っ……!」
落ちる、と思った時には、既に落ちていた。
あわてて木の枝を再びつかんだけれど、いくらユーディットが華(きゃ)奢(しゃ)なほうだとはいえ、人ひとりの身体を支えるにはその小枝では細過ぎる。
淡緑の梢がどんどん遠く小さくなっていく。幾(いく)重(え)にも重なっているその隙間から見えているのは、透き通るような春の空。
ふわり、と風が吹いた気がした。
やさしくて、あたたかい風だ。
気がついた時には、身体は、もう、落ちてはいなかった。地面に叩きつけられることなく、がっしりと力強い何かに受け止められている。
何が起こったのかわからなかった。
「お怪我はありませんか? お嬢さん」
問いかけられ、ぽかんと見上げた目に映ったのは、心の奥底まで突き抜けていくような青。
どんな高価な宝石よりも、清らかに澄み渡り、まばゆい輝きを放つ、青い青い瞳。
(なんてきれいな瞳なのかしら……)
きっと、その瞬間、ユーディットは恋に落ちたのだ。
誰にも言えない秘密の恋に。
?
邂(かい)逅(こう)
窓の外から、侍女のアルマが御(ぎょ)者(しゃ)と話す声が聞こえてきた。
どうやら、馬車の用意ができたらしい。
ユーディットは鏡を見ながら急いで黒いベールを被った。
薄物の絹が小作りの顔を半ば覆い隠すように深い影を落とす。
見えているのは、やはり小さな唇と、細い顎(あご)。そして、抜けるように白い肌の中、そこだけほんのり色づいたなめらかな頬と、伏し目がちの紫(むらさき)の瞳が作る長い睫(まつげ)の影くらいだ。
背中を覆う豊かな銀色の髪は、きっちりと結い上げられ、後頭部で小さくまとめられている。
襟(えり)の詰まったドレスの色は黒。遠目ではわからないほど控えめなレースと刺(し)繍(しゅう)で申し訳程度に飾られてはいるが、そのほかには、首飾りも、耳飾りも、化粧もない。
やはり黒い手袋を手に取った時、アルマが部屋に入ってきた。
「王太后陛下。王宮から迎えの馬車が参りました。いつでも、お出かけになれますが、いかがいたしましょう」
「すぐに出かけるわ。殿下たちをお待たせするわけにはいかないもの」
手袋をはめながら答えたあと、急いで階段を下り、馬車に乗り込むと、馬車はすぐにゆったりとした速度で動き出す。
ガレアの王城は驚くほどに広い。特に、宮殿裏手に広がる森は広大で、その中にいくつもの離宮が点在していた。
夫であった先王クラウディウスの死後、ユーディットが賜(たまわ)ったのはそのうちのひとつ。
瀟(しょう)洒(しゃ)ではあるけれど、ごぢんまりとした建物は、お世辞にも離宮と呼べるような規模ではなく、周囲からは『館』と称されている。
その館で、ユーディットは、ひとり、暮らしていた。
ユーディットの終(つい)の棲家(すみか)である。
ユーディットに仕えているのは侍女のアルマのみで、ほかには、下働きの老夫婦が離れに住んでいるが、料理番と掃除や洗濯をする使用人たちは通いだった。
小国ながら温暖な気候と地下資源に恵まれたパゴニアの王女であったユーディットが、大国ガレアの王クラウディウスに嫁いだのは、十三歳の時のことだ。
夫のクラウディウスはユーディットの祖父よりも高齢だった。
昔、世は常に戦乱の中にあった。
国境は度々書き換えられ、いくつもの国が地図から姿を消し、それ以上にたくさんの王が王座から退(しりぞ)いた。
百年近くにも及ぶ国同士の争いがようやく終わりを告げたのは、ユーディットが生まれるほんの少し前のことだ。
地には平和が訪れた。
そのはずだったのに———。
火種はユーディットの生(しょう)国(こく)パゴニアの東部ヒルシュタール地方にあった。
ヒルシュタール地方には岩塩と銀の鉱山がある。
通貨として使用される銀はもちろん、岩塩には金と同じほどの価値があり、小さな国パゴニアにとって、どちらもたいせつな産業だ。
ところが、南方の国コラキスの王ゲオルグが、突如、ヒルシュタール地方はコラキスのものだから返せと言い出したのである。
コラキスには、ユーディットの大伯母にあたる人が嫁いでいて、当時の王の妃(きさき)となっているが、大伯母はパゴニアのヒルシュタール地方の出身だった。
ゲオルグによれば、大伯母の結婚と同時にヒルシュタール地方の領土権もコラキスのものになったそうだが、もちろん、そんな事実はない。ただの詭(き)弁(べん)である。
にもかかわらず、ゲオルグは、ヒルシュタール地方をコラキスに返さなければパゴニアに攻め入ると、パゴニアの王であるユーディットの父を脅した。
もともとコラキスは好戦的な国だが、ゲオルグは歴代の国王の中でも群を抜いて野蛮で残忍だと言われている。欲しいものを力ずくで奪い取ることにいささかのためらいもない。
それまではなんとかコラキスとの友好関係を保つべく努力を重ねていたパゴニアも、今度ばかりは、やむなく、大国ガレアを頼った。
そして、ガレアとパゴニアとの間に同盟が結ばれたことを世に知らしめるため、パゴニアの王女ユーディットと先王クラウディウスの結婚が決まったのだが、それは、ガレアにもパゴニアにも、ほかに未婚の王族がいなかったからだ。
クラウディウスは二番目の王妃を亡くして以来独(ひと)り身(み)だったし、パゴニアの未婚の王女で一番年(とし)嵩(かさ)なのはユーディットだった。
結婚が決まった時、父はうなだれ、母はユーディットの手を取って泣き崩れた。ふたりとも、自分の祖父よりも年上の男の許(もと)に嫁いでいかなくてはならないユーディットに申し訳ないと己の無力を嘆いた。
豪(ごう)腕(わん)。傲(ごう)慢(まん)。傲(ごう)岸(がん)不(ふ)遜(そん)。
クラウディウスが語られる時、その名に必ず冠(かん)される言葉だ。
若いころは戦争に明け暮れ、各国からは残忍な王として今のゲオルグ王と同じくらい恐れられていたのだという。
内政においては、いっさいの不正を許さず、厳格を貫いた。従わぬ諸侯からは容赦なく領地を召し上げ国家のものとし、それに不服を唱える者には、時には重過ぎるほどの罰を与えた。
そうやって、領土を拡大し、ガレアをいっそう強大にしたのが先王クラウディウスだった。
ユーディットも最初はつらい婚姻だと覚悟した。ガレアには行きたくないと、夜、ひとり、枕を濡らしたこともある。
しかし、王女として生まれたからには、国家のため我が身を犠牲にしなければならない時もあると気持ちを奮い立たせ、震えながらもガレアに向かったユーディットを迎えてくれたのは、やさしい青い目をしたおじいちゃんだった。
クラウディウスのことを思い出すと今でも胸が痛む。
たった一年だったけれど、クラウディウスはユーディットのことをとてもたいせつにしてくれた。
クラウディウス亡きあともこのガレアに留まっていられるのは、その思い出があるからだ。
自分は、この先も、クラウディウスの墓を守り、その死後の安らぎを祈り、生きていく。
そして、いずれはこのガレアで土に還(かえ)るのだ。
馬車は一(いち)分(ぶ)の隙もなく幾何学模様に整えられた庭園の中を進んでいく。
やがて、庭園の向こうから視界を埋め尽くすほどに大きな建物が見えてきた。
ガレアの王宮だ。
大きなバルコニーを中心にして作られた正面部分から、前庭を囲うようにして左右対称に両翼の建物が延びていた。
奥側には、広間や、礼拝堂、王の執務室などが並び、それぞれに意(い)匠(しょう)を凝(こ)らした回(かい)廊(ろう)がそれらをつないでいる。
最も奥まったところにあるのが王族の居室だ。
四季それぞれに目を楽しませることができるよう配慮された花園を隔てた向こうには表側の喧(けん)噪(そう)はほとんど届いてはこず、とても静かで、穏やかな空気が流れていた。
以前はユーディットもそこに住んでいたからよく知っている。
長い時間をかけて、増築と改築を繰り返した結果、このような形になったのだと教えてもらったけれど、いったい、どのくらいの広さなのか、どんな形をしているのか、ユーディットには見当もつかない。
この城の全部を目にした者がいるとすれば、それは、きっと、空を飛ぶ翼を持った鳥くらいだろう。
馬車が停まった。
「ディーさま!」
ユーディットが馬車から降りるなり、飛びついてきたのは、現在のガレア王であるヘルマンのただひとりの王子フェリクスだ。
ユーディットは、腰をかがめ、フェリクスの小さな手を取り、そっと微笑む。
「お久しぶりでございます。フェリクス殿下」
フェリクスはそのかわいらしい薔(ば)薇(ら)色(いろ)の頬をふくらませて言った。
「ディーさまはどうしてもっと会いに来てくださらないんですか?」
「殿下……」
「ディーさまが会いに来てくださらなくて、ぼく、淋しいです」
ユーディットの夫であったクラウディウスの死後、ガレア国王となったのはクラウディウスの長男であるヘルマンだ。
ヘルマンは三人の王子をもうけたが、上のふたりは流行(はや)り病(やまい)であっけなく亡くなってしまった。
その後、やっと授かったフェリクスは、まだ幼い上に病気がちで、普段はたいてい部屋でひとりおとなしく本を読んだり絵を描いたりして過ごしている。
ほんとうだったら、外で一日中はしゃぎ回っているような年ごろなのに。
そう思うと、こんなかわいらしいわがままもひどくせつなく胸に染み入ってくる。
咄嗟(とっさ)に言葉に詰まったユーディットより先に、歯切れのよい声がフェリクスをたしなめた。
「こら。フェリクス。王太后陛下がお困りだぞ」
王太子のアーデルベルトだった。
ユーディットの黒衣の下の胸で、ドキリとひとつ、鼓(こ)動(どう)が大きく弾む。
「いいか。フェリクス。紳士たるもの、ご婦人にわがままを押しつけてはいけないぞ。第一、王太后陛下にきちんとご挨拶申し上げたのか?」
アーデルベルトの声は、明るく朗らかで、どこまでも響き渡りそうなほど伸びやかだ。
厳しい言葉ながらも口調にはあたたかみがあり、おおらかで飾りけのない性質が伝わってくる。
長身。広い肩。ぴんと伸びた背中。長くしなやかな手足。
優れた剣士でもあるとの噂どおり、細身ではあるけれど、脆(ぜい)弱(じゃく)なところは少しも見当たらない。
アーデルベルトの腕がとても力強いことを、ユーディットはもう知っている。
その肌の下を流れる瑞々(みずみず)しい生命の脈動も。
どこか落ち着かない気持ちになるのを感じながら、ユーディットは、それを押し隠し、頭を下げ、小さく膝を折った。
「王太子殿下。お会いできてうれしゅうございます」
アーデルベルトは、一瞬、きょとんとして、それから、すぐにぱっと笑顔になる。
「そうでした。私が王太子でした。何せ、思いがけず王太子となったものですから、いまだに慣れなくて」
ユーディットの夫であったクラウディウスにはふたりの男子がいた。
現在のガレア王である長男ヘルマンと、次男のコンラートである。
温厚なヘルマンとは裏腹に剛勇な気質であったというコンラートは、まだ若いころにクラウディウスと仲(なか)違(たが)いをしてガレアから出(しゅっ)奔(ぽん)し、今は西方の国リンドベルグの将軍家の入(い)り婿(むこ)となっている。
そのコンラートの次男アーデルベルトが現在のガレアの王太子だ。
へルマンにとっては甥であり、フェリクスとは従兄弟同士ということになる。
アーデルベルトは、ユーディットよりも少し年上で、フェリクスとは十(とお)は離れているが、そうして並んでいると、ふたりはとても仲のよい兄弟にしか見えなかった。
医師は国王夫妻に告げたそうだ。『フェリクス殿下は大人になるまで生きられないかもしれない』と。
コラキスの王ゲオルグは梟(きょう)雄(ゆう)である。
ガレアは大国であり、いくらゲオルグが好戦的とはいえ、簡単に攻め込むことはできないだろうが、だとしても、備えを怠るわけにはいかない。
ガレアには王太子が必要だった。それも、早急に。
ヘルマンはアーデルベルトをリンドベルグから呼び寄せ自らの後継者とすることを決意した。国王として、病弱な我が子フェリクスではなく、健康な甥アーデルベルトにガレアの未来を託すことにしたのだ。
アーデルベルトが膝を折った。右手を胸に当て、ユーディットに向かって深くこうべを垂れる。
アーデルベルトの隣ではフェリクスがアーデルベルトの真似をして膝を折り頭を下げている。
「王太后陛下。ご挨拶が遅れました。私のほうこそ、王太后陛下のご尊顔を拝する栄誉を賜り恭(きょう)悦(えつ)至(し)極(ごく)に存じます」
落ち着かない気持ちが増した。ガレアでは王太后のほうが王太子よりも位が高い。なので、これは挨拶の作法としては正しいが、名ばかりの王太后である自分には分不相応だとユーディットには思えた。
「ふたりとも顔をお上げになって。私にそんな堅苦しいご挨拶は不要ですわ」
フェリクスが先に頭を上げた。先ほどアーデルベルトに叱られたせいか、その顔は、しゅん、としている。
「ごめんなさい。ディーさま。ぼく、紳士ではありませんでした」
その姿があまりにもかわいくて、ユーディットは思わず微笑んでしまった。
「よいのですよ。フェリクス殿下」
一方、アーデルベルトは少し怖い顔をフェリクスに向けている。
「よくはありませんよ。王太后陛下。フェリクスはガレアの王子なのだから。いつでも、紳士であらねば」
「まあ。王太子殿下は随分厳しくていらっしゃるのね」
ユーディットがそう言うと、アーデルベルトではなくフェリクスがなぜか得意げに胸を張って答えた。
「王太子殿下は立派な紳士だから厳しくて当然なのです。ぼくも王太子殿下みたいにかっこいい紳士になりたいと思っています」
「こいつめ」
アーデルベルトが立ち上がりフェリクスを抱き上げる。
「そんなことを言われたら、怒れなくなるじゃないか」
アーデルベルトの瞳からは、すっかり険しさはなくなっていた。今は、明るくはじけるような笑みでいっぱいだ。
アーデルベルトは、フェリクスをぐるぐる回してから下ろすと、フェリクスの右手を取った。
ユーディットは左手だ。
フェリクスを真ん中に挟んで、三人で、今度は、ゆっくりと歩く。
フェリクスが、くふふ、と笑いながら言った。
「今日はね、アネモネに乗せていただく約束なんですよ」
アネモネというのは、アーデルベルトの愛馬だ。
美しい葦(あし)毛(げ)で、賢く、風のように速い、とアーデルベルトの従者のマンフレートはいつも自慢しているらしい。
「昨夜は楽しみで楽しみでなかなか眠れませんでした。だってぇ、お外に出られるだけでもうれしいのにぃ、大好きな王太子殿下とぉ、大好きなディーさまとぉ、三人で遊べるなんて最高です」
その言葉に胸が詰まった。
こうしていると、とても元気そうに見えるのに。
(これからは、もう少し、フェリクス殿下のお顔を拝見しに王宮に来よう)
この先、どんなことが起こるとしても、フェリクスには少しでも楽しい思い出を作ってあげたい。
いつの間にかそんなふうに考えている自分に、ユーディットは少し驚く。
ユーディットが王宮にあまり足を向けなくなって久しい。
わずか一年の結婚生活を経て、突然の病によってクラウディウスが崩御したのちは、表舞台からは極力距離を置き、最低限の公式行事も遠慮させてもらっていた。最近では、国王であるヘルマンほかごく限られた者以外とは顔を合わせることもない。
もともと、華やかなことや派手なことは得意ではなかったし、嫁(か)しては夫に尽くすものだと幼いころから躾(しつ)けられてきた。
夫が亡くなった今は、その魂が安らかであるよう祈ることが自分の務め。
アルマは『まるで世捨て人のようだ』と嘆くが、ユーディット自身はそれでいい、いや、むしろ、そのほうがいいと思っていたのに……。
ユーディットはフェリクスとじゃれ合っているアーデルベルトをそっと見つめる。
アーデルベルトは、愛馬アネモネの手綱を握り、ゆっくりと歩かせていた。鞍の上では、フェリクスがとても楽しそうにはしゃぎ声を上げている。
この異国からやってきた王太子は、聡明で思慮深い一方、気さくで物(もの)怖(お)じせず誰にでも人当たりがよい。
アーデルベルトを知る者は皆が口をそろえて言うそうだ。
『王太子殿下がいらしてから王宮はなんだか明るくなった』
フェリクスもそうなのかもしれない。こんなに明るい顔をしているフェリクスを見るのは初めてだった。
そして、きっと、ユーディットも……。
(王太子殿下はほんとうに不思議な方だわ……)
まるで出会った人の心を明るくする魔法を知っているみたい。
今日だって、もし、『フェリクスが王太后陛下に会えなくて淋しがっている』と、切々と訴えかけるアーデルベルトからの丁重な書状が届かなかったら、ユーディットが重い腰を上げてフェリクスに会いに来ることはなかっただろう。きっと、いつものとおり、自分は喪に服す身だからと断っていたに違いない。
やがて、はしゃいで、はしゃいで、はしゃぎ疲れたフェリクスが眠ってしまうと、アーデルベルトはフェリクスを侍従たちに預け、本日はお開きとなった。
侍従に抱きかかえられて去ってゆくフェリクスを見送っていたユーディットは、ふと、視線を感じて振り向く。
青い青い瞳がユーディットを見つめていた。
落ち着かない気持ちが戻ってくる。
その青があまりにもまばゆく美しいせいだろうか。
アーデルベルトの瞳を見ると、なぜか胸がざわめく。
「王太后陛下はいつも黒いドレスをお召しになっているのですね」
何かたいせつな秘密でも打ち明けるかのような、ひそやかな声だった。
「そうしておいでだと、初めてお会いした時とは別人のようだ。あの時は、まだあなたが王太后陛下だと知らなかった」
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