書籍詳細
獄門先輩の愛が重い インテリジェンスな彼の理解しがたいストーカー行為
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2022/11/25 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
プロローグ
例えば、一人暮らしのアパートの玄関前に人影がある。
(来年の学費、臨時収入(アレ)を合わせればなんとか間に合うか……)
学費、家賃、公共料金に通信費。
ぬくぬくと親元で暮らしていた頃は想像もしていなかった出費に押しつぶされそうになりながら、単発バイトとホテルのレストランの掛け持ちで毎日をやり過ごす。
家出のように母親の元を飛び出してから、一度も実家に戻っていない。子役時代の些細な貯金は入学金や生活を整える資金に消え、親から受け取るべき書類なども手元にないから奨学金は借りられなかった。
(眠い……)
今時、苦学生なんて笑えてくる。これも、子供じみた衝動で母親との対話を拒絶した報いだと言い聞かせ、家賃四万二千円、共益費三千円の古アパートへと足を引きずっていた。
都内でも下町、駅から徒歩三十分以上となれば随分家賃は下がる。
木造アパートの一階。隣人の生活音が聞こえてくるような狭いワンルームが、今の私にとっては唯一の居場所だ。
(お腹すいた……)
ぶらさげた買い物袋の中身も代わり映えがなく、たかが知れている。半額シールのついたお惣菜がある日は豪勢で、残りは豆腐に豆苗(とうみょう)に納豆、もやしの豆づくしだ。
お金があったら食べたいものを思い浮かべながら、とぼとぼ歩いていた私は玄関前に佇(たたず)む人に声をかけた。
「――先輩、何してるんですか」
「こ、こまちちゃん! ごめん。今帰るところだから!」
私の呼びかけにぱっと顔を上げたその表情からは、今まさに鍵穴から引き抜いたばかりの、私非公認の合鍵に対する罪悪感などまるで感じられない。
「えっと、そうだ、これ、今日、友達とビーフシチュー食べたいって言ってた、から……ドアノブにかけて帰ろうと思ってたんだけど」
この友達、というのは先輩の友達ではない。付け加えて言うなら、私がバイト先の友人とその話をした場に先輩はいなかった。盗聴である。
「変なものは、」
「入れてない!」
「……なら、ありがとうございます」
「っ、うん!」
ビーフシチューという名の不審物と、晩御飯の豆地獄とを天秤(てんびん)にかけた私は、誘惑に負けて前者を取った。
感極まったように口元を隠す先輩の様子は、少女漫画なのか、ヒロインなのかと言いたいところだが、生憎(あいにく)今日はバイトで疲れ切っていて先輩の接待をする暇はない。
「じゃあ」
片手を差し出すと、おろおろとたっぷり時間をかけた後、震えた右手が乗せられる。
違う。
「合鍵を渡してください」
「えっ、あ、ああ! あ、そうだよね! 違うよね……」
どことなく先輩に似た、相変わらず目つきの悪い熊のキーホルダーがついた合鍵がすんなりと渡される。いたちごっこなのはわかっているが現場を押さえてしまった以上、回収しないわけにはいかない。私は圧力に屈しただけで、ストーカー行為を容認しているわけではないのだぞ、と抵抗の意志を示す数少ない機会でもある。
「きょ、今日も異常なかったよ! 歯ブラシ、取り換えておいたからね」
歯ブラシ。不穏な単語に眉をひそめる。
「先輩」
「ごめん、寒いよね? 俺、もう帰るから!」
仕立てのいいコートを翻(ひるがえ)らせた先輩は私の追及をするりと躱(かわ)して、いつの間にかアパート前に待っていた黒塗りの車に乗り込んで、行ってしまった。その左手にはしっかりと今日の戦利品の詰まった袋を抱えている。私の家から持ち帰った私物の数々である。もちろん先輩の私物ではない。文字通り、私のものである。
先輩は、その美麗な見た目に反して獄門(ごくもん)正宗(まさむね)なんて厳(いか)めしい名前をしている。
そしてその名字に違(たが)わず、先輩のお家(うち)はヤのつく職業だ。私の前では滅多に見せないが、無表情の時は威圧感が禍々(まがまが)しい。けれど私にも大学の人にも乱暴をしたことは一度もない。
先輩は、私のストーカーだ。
先輩の車が遠ざかるのを確認した私は、自分の鍵を取り出すのも面倒で、受け取ったばかりの合鍵をそのまま鍵穴に差し込んだ。
合鍵にぶら下がる目つきの悪い熊は、先輩の組のフロント企業のマスコットで、女子高生の間で中々人気らしい。知らぬが仏とはまさにこのことだ。
私は溜息をつくと、下駄箱の上のグラスに三十三本目の合鍵を差した。
グラスからあふれ出したマスコットたちは、鮭(さけ)だの桜だの熊のくせに笹だのと、無駄にバリエーションのあるものを抱えて、侘(わび)しいアパートの一室をにらみつけている。
ビーフシチューをレンジで温める間に、冷蔵庫を開ける。しばらく買い物に出かけていなかったからめぼしいものはない。
オレンジジュースに卵に、マヨネーズが二本。豆づくしの食糧を詰め込んだ私は、行儀よく並んだそれを見て再び溜息をついた。温まったシチューを持ってまだ冷たい炬(こ)燵(たつ)に潜り込む。
「……美味(おい)しい」
ほろほろと崩れる牛すじと、ほどよい大きさの野菜たち。先輩は料理も上手い。ついでに言うなら掃除も洗濯も完璧だ。先輩の定期的な襲来のおかげで、私の部屋はいつも完璧に居心地がいい状態を保っている。
(『居心地がいい』は毒されすぎか……)
絆(ほだ)されるな。相手は成人男性のストーカーだぞ。日課の反省会を心の中で繰り広げながら、スプーンでニンジンを両断した。このスプーンも、万事をコンビニの割りばしで済ませる私を見かねて先輩が買ってくれたもので、柄には高級そうな模様が彫られている。
先輩は私のストーカーで、私はそのビジネス被害者である。そういう複雑な関係だから、警察に通報などはしていない。
この奇妙な生活の始まりは、大学の入学式の日だった。
◇ ◇ ◇
某武道館での入学式を終え、オリエンテーションのためにキャンパスに戻ってきた私は、山のように押し付けられたサークル勧誘のチラシをごみ箱に放り込んでいた。
入学式というものは上級生も浮かれるものなのだろうか、キャンパス中のアスファルトには、学生の手から零(こぼ)れ落ちたチラシが桜の花びらと一緒にへばりついている。新入部員を獲得するため、のお題目を得た学生たちは仮装をしたり、ひっきりなしにおしゃべりをしたりと、お祭り騒ぎでスーツの人影を見つけてはその手に紙切れを押し付けて回っていた。
要らないものを大量に押し付けられた時はこんな気持ちか、と職業病から感情のストックをしそうになっている自分に気づいてうんざりしていると、肩に手をかけられた。
「あ、あの!」
「すみません、サークルに興味はないので……」
また勧誘かと、うんざりした気持ちで振り向く。それからすぐに身構えた。
第一印象は大きな人だった。
平均よりも少し高い身長の私でも、目の前の人物の胸元までしかない。山盛りのチラシを持っていないところをみると、新入生ではなく大学の先輩なのかもしれない。
「あ、あ、あ、う」
見開きすぎて三白眼が四白眼になっている人物は、ひたすら母音を漏らしている。
どうしよう変な人だ。イケメンだけど。
芸能生活のおかげでそれなりに身につけた危機管理能力から、そう直感する。とりあえず、目の前のやばい人物から少しでも距離をとろうと、私はゴミ箱と男の人の間から抜け出そうとした。瞬間、片方の肩に手がかけられ身動きが取れなくなる。まずい。
「き、君! こまちちゃんだよね!? こまちちゃんだ!」
「そ、う、ですけど……」
「ゆ、夢みたいだ! 実在、したんだ……いや、わかってたけど……夢じゃなかった……」
厳つめな見た目の成人男性が初対面の女性をちゃん付けしてはしゃぐ姿は、普通ならやばい人を通り越して関わってはいけない人認定をしても許される状況だが、残念なことに私には心当たりがあった。
「俺! 君の大ファンで、ほんと、子供の頃からずっとファンで、ファンレターも毎月送ってるし、マヨネーズもミカサのやつしか使わないし、あと、えっと、その」
興奮したようにしゃべりまくる男性を前に私は酷く焦っていた。まさか初日から私を判別する人間がいるなんて。
どうにかしなくてはと、私の顔色も、好奇心旺盛(おうせい)に私たちを観察し始めた周囲の空気も読まない、目前の男の人の腕を掴(つか)む。
「へっ……?」
「先輩! 少しお時間いいですか? 私、あそこのカフェのプリンがすごく食べたいのですが!」
少しだけ有名だという大通り向こうのカフェを指さし、母が見れば赤点をつけるだろう下手くそな笑顔を作る。そんな笑顔でも、首から額までじわじわと赤くなった男は言葉もなく何度も頷(うなず)いた。
にわとりの入れ物に入った店自慢のプリンはなめらかな舌触りで、惜しみなく使われたバニラビーンズが嬉しい。ちょっとブラックユーモアを感じる見た目だけど、噂(うわさ)通りの逸品だ。
「こまちちゃんがプリン食べてる……か、かわいい……」
簡単な自己紹介の後、運ばれてきたプリンにうっかり夢中になっていた私はそのうっとりとした呟(つぶや)きに現実に戻された。プリンくらい食べる。
「先輩、お願いがあるのですが」
「おねがい……」
オウム返しをした先輩は、両手で顔を覆(おお)った。
「大丈夫ですか?」
「ごめん、いま、噛(か)みしめてる……おねがいって?」
「私が元子役だってこと、他の人には秘密にしていてほしいんです」
田(た)山(やま)こまち。本名山(やま)田(だ)こまち。
赤ちゃんの頃におむつのCMに出演して以来、母親の希望で細々(ほそぼそ)と芸能活動を続けていた。小学生の頃にやった、先輩の言うミカサ食品のマヨネーズのCMが一番大きな仕事だった程度の、ごくありふれた売れない元子役だ。
「それから、先ほどもおっしゃってましたが毎月ファンレターをくださる方ですよね。いつもありがとうございます。すごく励みになっていました」
「に、認知……」
私の言葉に、先輩は壊れたおもちゃみたいに何度も頷いた。
後でわかったことだが、先輩は私にファンレターを出す時、万が一にもヤクザとバレないように、構成員さんの苗字を借りた偽名を使っていたらしい。
売れない元子役の私に届くファンレターは、いつも毎月一通だけだった。芸能活動中、そのたった一通にどれだけ勇気づけられたかわからないけれど、まさかこんなところに本人がいたとは。そして同じ大学の学生だなんて。まさに天文学的確率といってもいい。
このことは先輩と私の間に起こる、唯一にして最大の純粋な『偶然』だった。そして、当の先輩は今となってはこれを運命と呼んでいる。
「先輩がファンでいてくださったことは嬉しいのですが、もう事務所も辞めていて、静かに暮らしたいんです」
芸能界は華やかで、厳しい世界だ。情熱を持たない私がそこで生きていくには、資格も実力もなかった。だから貯めこんだ小金を使って、やっとの思いで母の元を逃げ出したのだ。それをこんな初日から壊されるわけにはいかない。
「本当だったんだ。辞めたって……」
先輩が呟いた。その憂いを帯びた表情は街角に置けば映画のワンシーンにでもなりそうだ。
「こまちちゃんはあの世界が好きじゃなかったんだね」
さっきまで子供のようにはしゃいでいた人に穏やかな理解を示されて面食らう。こんなふうに自分の心を覗(のぞ)かれるのは初めてだった。感傷に浸る思いで私は首を振った。
「そこにいる自分が好きじゃなかったんです」
「……そっか。でも俺は好きだから。それは覚えていて」
寂しそうに笑った先輩は店員さんを呼び止めるとプリンを注文した。
「こまちちゃんのお願いなら死んでも守るよ。誰にも言わないし、ばれないように協力する」
それは先輩がまともだった最後の瞬間で、私をときめかせた最後の瞬間でもある。
私はこの後二年の歳月をかけて、嬉しそうにプリンを頬張る目の前の先輩が、熱狂的な私のファンというだけではなく、実は関東では有名なヤのつくお家のご出身で、しかもその中でも若頭という立場で、こうして私と出会ってしまったことで、純度百%の厄介なストーカーに進化するのを知ることになる。
……受け止めきれない。
第一章 夜の目
よくわからないが先輩のストーキングには彼の中で厳格なルールが決まっているらしく、それが私が先輩を放置してしまっている理由の一つである。
まず、定期的に供給される食糧には変なことはしていない、らしい。
それから、お風呂場やトイレには監視カメラはない、らしい。
私の家から持ち帰った戦利品の扱いも非常に丁重である、らしい。
これらは全て、大学一年生の晩春、先輩のストーカー行為に勘づき始めた私に、ビジネス被害者の話を持ちかけてきた悪い大人からの情報である。
ようするに、先輩はストーカーとして一線を越えていない、と主張したいらしい。
ストーカーが守るべき一線とはなにか。一線を越えたから人はストーカーになるのではないか。
「それに、歯ブラシはギリギリのラインを余裕で飛び越してると思いますが」
「いや! 若は純粋な気持ちで見ているので! ご神体のような扱いです! 決して舐(な)めてません。舐めるように見るだけです」
「ご神体なら見ないでください」
そう言うと、悪い大人――先輩の世話役である穂(ほ)高(たか)さんは口籠った。
国立大学の設備は古い。世間一般の人々が描く、キラキラとした美しい大学生活とは程遠いと言ってもいいくらいだ。一部のオープンキャンパス用の、大学の威信となけなしのお金が詰まった設備だけは例外だけれど。
とはいえ生態的に、見栄えというものにほとんど興味がない私たち理系学生は、ネット環境と電源設備さえ良好であれば、時たまぶつぶつ言うくらいで反乱を起こすこともない。
お昼休みからは少し遅いこの時間、いつもは満員の食堂も今は、青い顔で自習をする学生や、サークルか何かの集団がまばらに集まっている程度。穂高さんに話しかけられるまで、私もこの風景の一部になって、資料を読みながら行儀悪く昼食をとっていた。
一応自己弁護をしておくと、大学の方も利用者に食事だけに集中してほしいとはまるで考えてないらしく、食堂には電源タップの備えられた席や、ちょっとしたランチミーティング用の会議室、OBが寄贈した書架なんかも用意されている。
頭を抱えている男子学生を見て、私もそろそろ授業の実験レポートを進めなくてはいけないな、と嫌なことを思い出しながら、私は穂高さんに視線を移した。学食の真っ白なテーブルで向かい合わせに腰掛けた穂高さんは、今日も三つ揃(ぞろ)えのスーツを嫌味なくらいビシッと着こなしている。
『単刀直入に言うと、お察しの通り、若はあなたのストーカーです』
穂高さんとの初対面。あまりにも先輩との『偶然』が重なることに、違和感を抱き始めていた私に爆弾を落としたことは記憶に新しい。
先輩の世話役で獄門組でも実は偉い立場らしい穂高さんは、そのまま、これで何卒(なにとぞ)ご容赦を、と硬直する私に袖の下を渡してきた。それからとても優しく、極めて丁寧に、よく噛み砕いて、時にはやんわりと遠回しな脅迫をかけながらプレゼンテーションをしてくれた。内容は以下の通りである。
いかに先輩が私に執着しているか。
一歩間違えるとどれだけ大変なことになるのか。
先輩がどのくらい厄介な交友関係と権力を握っているか。
獄門組の屋敷にはいくつの地下室があるか。
たくさんのリスクを並べ、これから結ぶビジネス関係がいかに私にとって安全で、利があるものか熱弁を振るった穂高さんに丸め込まれ、流れ流されて私の今の状況が完成してしまったというわけだ。彼が諸悪の根源といってもいいかもしれない。
「持ち帰った品も、日々欲望と闘いながら自室の祭壇に収めてるんです。若の涙ぐましい努力だけは信じてやってください!」
色々と胡(う)散(さん)臭いけれど、先輩に対する忠誠心だけは本物らしい穂高さんが必死に庇(かば)い立てる。
「そもそも、私物を持ち帰るのをやめてほしいのですが」
「誓って生(なま)ものには手を出してません! 私の小指をかけてもいいです……!」
「いりません」
小指の活用法なんてない。私には世の中のヤのつく人たちがこぞって他人の小指を欲しがる理由がわからない。主人が主人なら部下も部下だ。
この話はここまでにしよう。精神を摩耗するだけだ。
どうせならとストーカー被害の代償に穂高さんから渡される臨時収入(バイト代)ももらってしまっているし、先輩の暴走が怖いので逃げたり、警察署に駆け込む気は少なくとも当面の間はない。
それに、先輩の人当たりの良さと清潔感、ついでに顔の良さのせいだろうか、日々のストーカー行為に対して私が抱くのは生理的嫌悪ではなく、ただひたすらに何やってんだ先輩という脱力感ばかりだ。
「それはそうと田山さん」
「山田です」
仕事以外で呼ばれる芸名ほど恥ずかしいものはない。
「もうすぐ若の誕生日ですね」
穂高さんはわくわくと顔を輝かせる。
「大学生活最後のお誕生日ですね!」
わくわく。にこにこ。
「……そうですね」
電球にしたらさぞ眩(まぶ)しいだろう笑顔で穂高さんが頷いた。
「では、私はこれで失礼します! そろそろ十五分を超えてしまうので、若に怒られます」
「お疲れ様です……」
あからさまな圧力をかけて、穂高さんは手近な物陰に身を潜めた。曰(いわ)く、一日に十五分以上私と口を利くと怒られてしまうらしい。
あれで誰にも声をかけられないのだから、大学の人というのは学生たちがする変なことに慣れているし、みんな他人に関心がないのだな、と思う。二十代半ばでスーツの穂高さんはそれでもかなり不審者に見えるけれど。
物陰に隠れた穂高さんを横目で眺めながらそんなことを考えていると、遠くからこちらに向かって手を振りながら近づいてくる人影に気がついた。
「こまちちゃん!」
すんなりとのびた腕をぶんぶんと振って、眩しいほどの笑顔で近づいてくるのは言うまでもない、正宗先輩だ。背後に大きくて賢い犬の幻影が見えた気がした。左手には何か紙袋のようなものを提げている。持ち前の足の長さであっという間に目の前に辿(たど)りついた先輩は、身だしなみを気にするようにぱたぱたと自分の服の埃を払った。
「ぐ、偶然だね……!」
「……そうですね」
照れたように笑う先輩だが、三日に一度は『偶然』を経験している身では素直には頷けない。たまに『奇遇』の時もある。
「………………」
控えめ、という感覚に致命的なバグがある先輩は、それ以上声をかけてくることもなく、私をじっと見下ろしていた。
「――座らないんですか?」
にこにこと隣に立たれているとやり辛(づら)いことこの上ない。人に見下ろされながら昼食の続きをとる趣味もないので、席を勧める。
「す、座る……?」
先輩はまるで目の前に隕石でも落ちたかのように、驚いた顔をした。
「嫌なら大丈夫です」
「ぜんぜん! 全然嫌じゃない! 俺、座るの大好きだから!」
正直、このまま帰ってくれたらそれが一番いいのに、そんな気持ちで別案を出すと、先輩はいそいそと私の隣に腰掛けた。こういう時は普通向かいに腰掛けるものではないだろうか。
「こまちちゃんが蕎麦(そば)食べてる……」
「好きなので」
蕎麦くらい食べる。なぜなら学食のメニューの中で一番安いから。
「蕎麦……好き……」
先輩に構っていると麺(めん)が伸びる一方なので、出汁(だし)の香りのする丼にさっさと箸をつけた。穂高さんとも話をしていたから、ただでさえコシの弱い冷凍麺の蕎麦は既にふにゃふにゃになっていた。
「何かあったんですか?」
先輩(ストーカー)の基本的な行動選択は見守りと見守り、そして見守りだ。視界に入る位置にいても滅多に話しかけてこない先輩なのに、今日はどうしたのかな、と思う。
「えっ……、ほら、偶然……、学食でも寄ろうかと思って」
あくまでスタンスを崩す気はないらしい。わたわたと言い重ねた先輩は、じっと見つめる私に観念したのか、少しして紙袋を目の前に置いた。
「そ、そういえば、こまちちゃんの今度の制作に必要そうな文献を見つけたんだ。研究室のやつ」
家の事情もあり、将来に不安しかない私は二年のこの時期から研究室に所属していた。
専攻である電気電子工学科も含め、理系の大学生が卒業研究のために研究室に所属するのは三年生くらいからが普通だから、これはかなり早い。
選んだのは回路の効率化――簡単にいうとワイヤレスイヤホンやスマホなどの小型電子機器の研究をしている研究室で、研究室の主である海原(うなばら)教授はその分野では有名な人だった。
課題はキツイけれど、研究室には大手企業からのスカウトが毎年来ているし、海原教授に認められれば、先生の推薦で優良企業に入ることもできる。それになにより、小さくて便利な機械は昔からわくわくするので大好きだった。
そして、この海原研究室では先週、二年生向けに十センチ四方に収まるガジェットの自由設計が課されたばかりだった。小さくて面白い機械を自分で自由に考えて作ってみてね、ということだ。
「すごく悩んでたみたいだから。最近、夜も遅いみたいだし」
研究室内で出された課題の内容をなぜ知っているのか、などとは考えたら負けである。空になった丼を脇に寄せた私が紙袋を覗き込むと、参考になりそうな専門書が五冊ほど入っていた。中には気になっていたけれど高くて手が出なかったものもある。私はついぱっと顔を輝かせてしまった。
「お借りしていいんですか?」
専門書は高い。買う人が少ないから一冊五千円はくだらないし、売っている本屋さんも少ない。図書館で順番待ちをして借りるくらいしか読む方法がない、定価以上に価格の釣り上がった絶版本もある。
正直本当に嬉しいし、喉から手が出るほど持って帰りたい。いつまで借りていいものか、と聞いてみると先輩はなんでもないように首を振った。
「あげるよ。読んだことあるからもう覚えてるし」
「覚えてるって……」
難解な記述が山ほどある分厚い本に目を落とす。資料に、とは言ったものの、そもそもこういう本は徹頭徹尾読破するものではない。
「使えそうなところはリストアップしておいたから」
「……お借りします。リストも、助かります。ありがとうございます。とても嬉しいです」
「! うん!」
食べ物の誘惑には負け倒しているが、あまり借りを作りすぎるのはよくない。あくまで借りるだけです、という意味を込めてそう言うと、先輩は目を輝かせて頷いた。見た目だけは好青年な先輩にそんな顔をされると、警戒心が解けそうになってしまってこれもよくない。
「ほ、他にもあるんだ」
底の方に入れたんだけど、と言われて紙袋の中の本を脇に寄せてみる。
もこもことした感覚が触れて引っ張ってみると、ずるり、と音がしそうなほどに念のこもった長いものが口から姿を現した。
「マフラー、編んでみたんだ。よかったら、なんだけど」
「……なるほど」
(――重い)
いや、濃い群青色の毛糸に金糸の交ざった、星空みたいな色のマフラーは素人が編んだとは思えないほど目が揃っていて軽い。だが、その気持ちが重いのだ。
なぜか? このマフラーが、高校生カップルの間で贈られる甘酸っぱいそれなんかではなく、メイドインストーカー、私に異様な執着をみせる先輩のお手製だからである。
何だかもじもじしている先輩をちらりと見上げる。窺うようにこちらに視線を向けていた先輩は、私と目が合うと眦(まなじり)を赤くしてさらに俯(うつむ)いてしまった。
ストーカーなのに顔がいい。ストーカーなのに純情だ。ストーカーなのに。
「ありがとうございます」
二年でそれなりに親しみも湧いてしまった。先輩のこの顔を見て、要らないとあっさり言えるほど私の心は強くなかった。
ちょうど今寒かったし。防寒着も欲しかった。先輩に絆されたわけでは断じてない。
「受け取ってくれるの?」
巻いてみるとマフラーは本当に軽くて暖かかった。ぬくぬくとした感触にうっとりと目を細めてしまう。
「あったかいです」
編み物までできてしまうなんて先輩はやっぱり器用だ。
ワンフロアを抜いて造られた学食は暖房が入っていても冷えるので首の後ろで結び目を作ってしっかりと巻きつけると、先輩が黙りこんでいることに気がついた。
「先輩?」
いつものパターンでは先輩は巨大な小動物のように感激した様子を見せるか、ちょっとどうかというくらい褒め言葉を並べ始めるのだが。
「えっ、血が出てません……!?」
すらりとのびた、けれどごつごつと節くれだってもいる長い指。その間から何か赤いものが見えているのに気がついて、慌ててポケットの中を探る。
「だ、大丈夫! ただの鼻血だから」
「大丈夫じゃないですよ……!」
ティッシュは見当たらなかったけれど、最低限の身だしなみとしてハンカチだけはあったので、それを先輩の鼻先に押し当てる。血がついてしまうけれどそんなことは言っていられない。どうせアイロンをかけてくれたのも先輩だ。
「っ!?」
穂高さんがまだいないだろうか、と先ほどの物陰の方に目をやっても見当たらない。
なぜかどんどん広がる染みに慌てながら、ハンカチ越しに鼻筋の辺りをぎゅっと摘(つま)むと、しばらくしてようやく止まってくれた。先輩は鼻筋もびっくりするほど通っているからとても摘みやすい。ちょっと憎たらしいくらいだ。
「のぼせてしまったんですかね」
「あの、あの、さ」
「先輩? 大丈夫ですか?」
美形というものはたとえ鼻血を出していても美形だからずるい。熱でもあるのではとおでこに右手を当ててみる。
「こまちちゃん、手、いいにおいするね……」
先輩が顔が良くても許されないようなことを口にしたので、早々に右手を引き上げた。
「ただの鼻血は止まりましたか?」
「うん……ありがとう……」
嬉しそうに笑う先輩。全く、心配して損した気分だ。
「ハンカチ汚しちゃったね」
「あげます」
「それは、ひょっとしてプレゼント交換、的な」
「違います」
どこの世界に手編みのマフラーと血のついたハンカチを交換する怪しげな儀式があるのか。
控えめながら図々しいという矛盾を抱えた先輩は、それでも嬉しそうにハンカチを畳むと、ジャケットの内ポケットに大切そうにしまいこんだ。その爽やかな顔面は、ほんの数分前まで鼻を赤く染めていたとは思えない。
どっと疲れた気分で、食器だけでも片付けようと返却口に返しにいく。
二分もたたずに戻ってくると席に座ったままの先輩が、私のレポート用紙をめくっていた。
「あ、勝手に見てごめんね」
長い足を持て余すように組んだ先輩が申し訳なさそうに言う。こういうところは律儀だ。
「これ、今度の学会用のデータ?」
私は素直に頷いた。ちょうど行き詰まってしまっていたところなので、アドバイスでももらえれば、と考えたからだ。
学会は、電子工学や建築学など、その分野の研究者たちが集まって自分の研究成果を発表する場で、それぞれ一年に一回程度の頻度で開催される。理系の学生は研究室に所属すると学会に参加するようになるのだが、参加の実績次第で奨学金が免除されたり、就職活動で有利になったり、人によっては人脈拡大の場にもなる。将来にとっても重要な場所だった。
海原研究室に所属したての私も研究室の先輩の手伝い、という名目で今度、京都(きょうと)で開かれる学会に参加することになっていた。手伝いと言っても学部二年生にできることはたかが知れているから、実態はほとんど邪魔をしているようなものだった。
大学は学部の四年制を卒業すると、大学院修士課程の二年、さらにそれを修了すれば博士課程の三年間がある。私は修士一年の先輩に、単純な実験の実施方法やデータのまとめ方なんかを教わっていた。
修士課程はマスター、博士課程はドクターと言われることもあるが、大学に入るまでは全く知らない言葉だった。私たち学部生――学士課程は英訳のバチェラーでは呼ばれないのに、略したB呼びはされるので、慣習とは不思議なものだ。
学校によって違うのかもしれないけれど、それぞれの頭文字のB、M、Dに、学年の数字をつけた略し方が一番一般的なので、私はB2、正宗先輩はB4、修士一年の先輩はM1とそれぞれ学年の呼び方が分かれることになる。
そもそも思い返してみれば、大学院という存在すら入学するまで薄ぼんやりとしか知らなかった気がする。随分ぼんやり生きてきたのだな、と思う。
「この研究、五十鈴(いすず)のやつだよね」
「わかるんですか?」
先輩は私が指導を受けている相手を簡単に言い当てた。
「聞いてたから。それにあいつの癖が出てる」
さらりと盗聴の事実を口にしながら、先輩はほとんどメモ書きに近い私のレポートをめくっていく。
「必要以上に詰めてから始める。詰め切れなければ手を出さない。あいつの性格と同じ」
言いたいことを言いたいタイミングでずばずば言う、暴君のような五十鈴さんの態度を思い出して、私は内心首を傾(かし)げた。そんなに慎重な人だとは思っていなかった。
「上手くまとめられなくて。何をどこまで言っていいのか」
ここは一つ、頭脳明晰(めいせき)な先輩にアドバイスでももらえないかと、水を向けてみる。先輩は少し迷った後で、長い指先をレポート用紙の上に置いた。
「実験手順のまとめ方はわかりやすくてとても上手いと思う。考察は……、他にデータが必要かもしれないね」
こういう時の先輩はとても頼り甲斐のある顔をするので、困る。
「実は途中で失敗してしまって……」
実験にはもちろん失敗がつきものだ。教授も五十鈴先輩もそれ自体を叱ったりはしない。
簡単にやり直せるものならすぐにもう一度実験をしてデータを取り直せばいいけれど、施設の関係で間に合うかどうか微妙なところだった。
「異常値が出ている場所と原因はわかる?」
私は頷いた。それから、なんとなくこうだと思うという話をすると、先輩は丁寧に聞き取りながら、逸(そ)れそうになる論点を上手に整理してくれた。
いくつかの点を除いて完全無欠と言ってもいい正宗先輩は、当然のごとく学業の成果もめざましい。学部四年生の身でありながら参加した学会では学生賞をもらい続けているのもあり、お家事情のことを知らない教授陣からの覚えは大変めでたい。海外の雑誌にも既に何本か論文投稿をしているらしいし、その気になれば難関の博士課程だって簡単に修められるだろう。
「俺が昔集めた先行研究の資料が使えると思うから、後で送っておくね」
「いいんですか? ありがとうございます」
先輩の言葉に私はほっと胸を撫で下ろした。かなり絶望していたけれど、どうにか五十鈴さんに絞られなくて済みそうだ。
心の底からお礼の言葉を口にすると、先輩は照れた様子ではにかんだ。
「全然! 大したことじゃないから! えっと、学会まで忙しいと思うけど困ったらいつでも電話してね。何(なん)時(じ)でもいいから。ほんと、何時でも、嬉しい……」
正宗先輩は本当に変わっている。
なんでもできて、優しいと思ったそばから怖いところもある。先輩が私に執着するのは恋愛的な意味なのか、単なるファンの人としてなのか、正直まだよくわからない。
芸能活動のせいでまともな交友関係も築いてこなかった私は、衝動から実家を飛び出して、なんとか大学に入って、本当に独りぼっちだった。
いいお値段のバイト代が出るからだとか、辛い時期にファンレターを送ってくれた人だからだとか。色々と理由は上手くつけているけれど、とどのつまりは寂しくてたまらなくて、こんな奇妙な関係を享受してしまっているのだろう。
(だからといって、先輩との間に何かが起こるはずなんてないけれど)
ストーカーに恋するなんて、そんなことあるはずがない。
にこにこと嬉しそうな先輩を覗き見ながら、私は誕生日の贈り物をするなら何がいいだろうと考えていた。
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