書籍詳細
亡国の王女は灰色の騎士の腕に抱かれる
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/01/27 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序章
人々の悲鳴が響き渡る。
その悲鳴に床を踏み鳴らす、いくつもの荒々しい足音が四方八方から重なり、もはやどこからどんな音が聞こえてくるのか判(わか)らない有様だ。
常ならば一つの汚れや傷も許さぬよう丁寧に磨き上げていた大理石の柱も、要所ごとに繊細な彫刻が施され、優美な絵画が飾られていた壁も、今や見る影もない。
価値のある調度品は持ち去られ、持ち運びができないものは砕かれたり破られたりと、原型を留めていないものが殆(ほとん)どだ。
この日、大陸の南西に位置する王国、エルライヒがその歴史の終わりを迎えていた。
王のため、国のため、城を守ろうとする者はもういない。
否、最初からいなかったのかもしれない……少なくとも、今のエルライヒには。
現在この城に残っている王族は、亜麻色にほんの少し赤みを足したような不思議な色の髪と、ヘーゼルの瞳を持つ、十四歳になったばかりの王女ただ一人である。
色合いこそ素朴でまだ幼さが残るものの、母である王妃の美貌を受け継いだ、先が楽しみになる愛らしい容姿の持ち主だ。
この王女へ、国内外から多くの縁談の釣書が日々その山の高さを増していたことは城の人間ならば誰もが知っている。
しかし、それももう過去のこととなるのだろう。
そのエルライヒ王国、第一王女であるグラシエラは、自ら城外へと続く隠し通路を開放し、城内に残った人々の脱出を誘導していた。
我先にと通路へなだれ込む人々を見つめながら、恐れ多いと戸惑いの声を漏らしたのはまだ若い女官だ。
「姫様、この隠し通路は王族の方しか存在を知らされていないはず……」
「城が落とされる今、隠し通路の秘密を守ったって仕方ないわ、それよりもあなたも急いで」
国王である父も、王太子である兄もとっくに逃げ出した。王女の母は王妃としての役目は終えたと数年も前に城を出て、今はどこにいるかも判らない。
西の隣国、ノーザンがエルライヒの王都にまで攻め上がり城を包囲した戦の原因を作ったのはこちらの方である。
父も兄も、王家や貴族ばかりを優遇し、国の土台を支える多くの国民を蔑(ないがし)ろにしていた。
年々税率は上がる一方で、国民は食べるのがやっとという生活を強いられていたが、昨年の夏の干(かん)魃(ばつ)が状況を一層悪化させた。
多くの民が厳しい冬を超えられずに飢えて死んだ。これ以上民から搾り取れるものはないと判断した父王が選んだ手段が、ノーザンへの侵略である。
王は兵士に略奪を許した。
結果、徴兵に応じた民の多くは飢えた獣のようにノーザンの国境付近の村や町を襲い略奪の限りを尽くした。当然そのような暴挙をノーザン王が黙って許すわけもない。
すぐさま派遣されたノーザンの訓練された正騎士達と、食い詰めて武器を握るしかなかった平民とでは最初から結果は見えていた。
もちろんエルライヒにも騎士は存在したが、練度や忠誠心、愛国心のいずれにおいてもノーザンの騎士に遙(はる)かに劣る。
前線が崩壊するのはあっという間だったと聞く。
エルライヒ兵を退けた後もノーザンは進撃を止(や)めようとはしなかった。これまで幾度も国境を侵し、自国の民を苦しめた好ましからぬ隣人のエルライヒに、ノーザン王はこの機会に引導を渡すことに決めたらしい。
そのノーザンの猛追を前にあっさりと逃げ出したのは、そもそもこの戦の原因となる略奪を命じたエルライヒの王と、その後継である王太子だった。
それがグラシエラの父であり、兄である。
せめて二人には戦を起こした張本人として責任ある振る舞いをしてほしかったが、そんな誇りがあればそもそも無茶な戦など仕掛けてはいないだろう。
結果グラシエラは父や兄に代わって自ら城に残り、せめて自分の手の届く範囲の人間は逃そうと、最後の責任を果たそうとしていた。
「さあ、早く急いで! もう時間がないわ」
「姫様……!!」
ふいに床を削るような金属音がやけに近くで響いて聞こえたのは、その場にいた使用人達の半数が通路の向こうに消えた頃である。
「いたぞ、こっちだ!」
背後から響いた声にハッと振り返れば、自国のものとは違う鎧(よろい)に身を包んだ多くの騎士達がこちらに駆けつけてくる。
彼らはあっという間にグラシエラの元まで辿(たど)り着くと彼女達の周囲を取り囲み、その手を伸ばす。その手に乱暴に押さえ込まれて悲鳴を上げたのは、先ほどの女官である。
「無礼な! 触れないで!」
「乱暴は止めて!」
訴えるグラシエラもまた騎士の手に取り押さえられ、あっという間に後ろ手に床に跪(ひざまず)かされてしまった。
これまでか、と唇を噛(か)みしめて伏せた彼女の視界に、使い込まれた鉄靴が見えた。
「閣下、おそらくこの者です」
何者かを促す声と共に髪を掴(つか)まれて、強引に顔を上げさせられる。
頭皮を引っ張り上げられる痛みに顔を顰(しか)めながらも、目前の鉄靴の持ち主を見上げて理解した。騎士達が一目でグラシエラを身分ある者と判断したように、グラシエラも一目でその人物が敵軍の将であると。
顔色を青ざめさせながら悲鳴を呑み込む。
今この場で首を落とされても不思議ではない空気に、奥歯を噛みしめるグラシエラの前で告げられた最初の言葉は、けれど彼女が想像していたどれとも違った。
「……誰が手荒な扱いをしてよいと言った?」
低く地を這(は)うような不機嫌な声だった。
明らかに婦女子に対する自国の騎士の手荒な扱いを咎(とが)める声に、髪を掴んでいた騎士が慌ててその手を離した。
途端、よろめくように床に両手をついたグラシエラの目前で、彼は被(かぶ)っていた兜(かぶと)を脱いでその顔を晒(さら)す。
「あなたがエルライヒ王女、グラシエラ姫に間違いないか」
周囲の騎士達よりも頭半分は高い背と、甲(かっ)冑(ちゅう)に包まれた逞(たくま)しい体つきからどんな厳つい男かと身構えたが、意外にもその下から現れた男の顔は宮廷貴族にも劣らぬほど優美に整っている。
だがグラシエラが驚いたのはその容姿以上に、彼の銀髪と、薄い緑色の瞳だ。その特徴を持つ者が、一軍を率いる将の地位に就くなど、おそらく他の周辺国ではあり得ない。
が、すぐに思い直す。ノーザン王が重視するのは実力であって、生まれや容姿ではないと聞く。ならばこの人物は王にそう認めさせるだけの実力の持ち主なのだろう。
そして、その条件に当てはまる人物の名に、一人だけ心当たりがあった。
年の頃は二十代半ばほどだろうか。
切れ長の目に通った鼻筋。薄い唇は意志の強さを示すように引き結ばれ、頬から顎のラインも無駄なく引き締まっている。
同時に男らしい精(せい)悍(かん)さも加わって、きっと十人中九人は彼の美貌を認めるだろう。
だがその顔に浮かぶ表情は険しい……というよりも無表情に近く、灰色にくすんでも見える銀色の髪が人には慣れない野生の獣のような印象を与える。
鋭い眼差しは抜き身のナイフのようで、グラシエラの身を恐怖で強ばらせた。
きっとこの騎士は、自分の身に剣を突き立てることを一瞬だって躊躇(ためら)わないに違いない。
それが判っていても、今グラシエラができる返答は一つだけだ。
「……確かに、私が第一王女グラシエラです」
周囲の騎士達から殺気じみた鋭い視線を感じたのはきっと気のせいではないだろう。
どうやら我が国はグラシエラが思う以上にノーザンの憎しみを買っているらしい。
殺伐とした雰囲気と、絶体絶命と言ってもいい状況に隣にいた女官は既に腰を抜かしそうなほど震え怯えている。
できることならグラシエラもそうしたいが、こうなった以上、恐怖を押し殺してでもこの騎士に伝えなくてはならないことがあった。
「あなたは、ジェラルド・エイデン将軍でいらっしゃいますね」
敵将の眉間に不快そうな皺(しわ)が寄る。名を言い当てられた驚きよりも、初対面のグラシエラですらそうだと気付いた理由を承知しているからだろう。
それだけ彼の持つ容姿と、身体に流れる血筋は独特なものだ。
銀髪の敵将は、そうだとも違うとも答えなかったが、構わず続けて告げた。
言葉を遮られては、二度と続きを口にする機会がなくなってしまう気がする。
「我が身はどうしていただいても構いません。ですがもはや戦う力も、抵抗する力も持たぬ者達はどうかお救いください」
深くひれ伏すように頭を下げた。恐怖で勝手に震え出す身体を抑え込むように全身に力を込めるも、震えは止まらない。
怖い。戦に負けた国の王女がどんな扱いを受けるかくらい、グラシエラも過去の歴史から学んでいる。
けれど……それしか、今の自分にできることがない。一人でも多くの民が救われるのならば、たとえこの騎士の鉄靴に口づけろと言われても従うつもりだ。
「強欲で傲慢なエルライヒの王族が、いまさら民を守るフリなど誰が信用するものか」
こちらを侮蔑する言葉を吐き出し、忌々しげに睨(にら)み付けてくるのは、敵将とはまた別の騎士だった。これまでのエルライヒの行いを思えば反論することもできず、低頭したまま微動だにしないグラシエラを、敵将は黙って見下ろしている。
彼はすぐに口を開こうとはしなかった。
沈黙がどれほど続いた頃だろう。
「……あなたは……」
敵将が何か言おうとした時だった。
「ご報告します。先ほど、エルライヒ国王並びにエリック王太子を発見! 捕縛を試みましたが、激しく抵抗したためその場で討ち取ったとの報(しら)せが入りました!」
駆けつけてくるなり告げたノーザン兵の言葉は、グラシエラの耳にも届いた。
頭を殴られたような衝撃に、ハッと大きく目を見開いて敵将を見上げる。
そしてその、薄緑色の瞳を目にした直後、フッと身体から力が抜け落ちた。
父と、兄が死んだ。
身体が傾(かし)ぐ。止めようもなく視界が暗くなる。
その報せは、グラシエラの張り詰めていた心の糸を容易(たやす)く断ち切った。
倒れる身体が床に叩き付けられる寸前、誰かが支えてくれたような気がしたが、確かなことは判らない。
すぐ傍らにいたはずの女官の泣き叫ぶような悲痛な声を聞きながら、グラシエラの意識は遠くなる。
その日、落城と共にエルライヒ王国は滅びた。
そして残されたエルライヒ王室最後の王女は、ノーザン王国の手に落ちることとなったのである。
?
第一章 囚われの王女
その女は泣いていた。
まだ幼い我が子の傍らで、子に覆い被さるようにして泣いている。
声を殺すような女の泣き方はひどく悲痛で胸が痛くなる。できれば見たくないのに、真っ暗な闇の中でその女と少女の姿だけがやけにはっきりと浮かび上がって見える。
女の涙はいつまでも止まず、グラシエラは彼女達の姿を見つめながら、ただ絶望的な気分で立ち尽くしていた。
彼女自身泣きたいのに、涙も声も出ない。全身の感覚さえなく、自分一人が奈落の底へ沈んでいくような気がしてひどく恐ろしい。
ああ、止めて。どうか泣かないで。
どうすればいいのかも判らず途方に暮れる彼女の目前で、女が不意に顔を上げる。
そして……目を真っ赤に充血させながら、女は告げた。
『王族の責任を忘れないでください』
その一言がグラシエラの胸の内に太く抜けない楔(くさび)を打つ。
まるで心臓を貫かれたような、重く激しい痛みを伴いながら。
「姫様、姫様……! グラシエラ様!」
泥に沈むように落ちていた意識が浮上したのは、どれほどの時間が過ぎた頃だろう。
幾度も目を瞬いて、ようやく開けることができたけれど、自分の今の状況がすぐには呑み込めない。
グラシエラの顔を覗(のぞ)き込むのは、女官服に身を包む一人の若い娘だ。
この娘をどこかで見た気がするとぼんやり考えて、思い出した。隠し通路から逃そうとして、結局間に合わずにグラシエラと共に騎士に押さえつけられていた、あの時の女官だ。
汗で濡れた額を、差し出された手ぬぐいで押さえながらやっとのことで身を起こしてようやく、自分が馬車の座席に身を横たえていたのだと知る。
見慣れない、鉄格子がはまった窓を厚いカーテンで覆った馬車だ。
唯一の出入り口である扉は鉄の拵(こしら)えで内側に鍵がない。
内部はいくつかのクッションや毛布で衝撃を和らげる工夫と配慮が見られるので、手荒に扱う意思はなさそうだが、この馬車がどんな用途で使用されるものなのかを想像するのは容易い。
それにしても自分はともかく、この女官はどうしたことだろう。
「あなたも捕らえられてしまったの?」
「捕らえられたと申しますか……姫様のお世話をする者が必要だということで、僭(せん)越(えつ)ながら私がそのお役目を賜りました」
青ざめたその表情と口ぶりから彼女が自ら進んで引き受けた役目ではないことは確かだ。
きっとあの場にたまたま居合わせたというだけの理由で、半ば強引に命じられたのだろう。
「そうだったの……巻き込んでごめんなさい」
「いいえ、そんなこと。姫様お一人でノーザンに行かせるなんてできませんし……仮にエルライヒにいても、どうなるか判らないのは同じですから」
確かに今のエルライヒに残っても、彼女が家族と上手く合流できる保証はない。
城に奉公にあがった貴族の娘だろうに、親元に帰ることもできず、突然敵国へと連れて行かれることとなってその不安はどれほどのものだろうと思うと、より一層申し訳なさが募る。
せめてグラシエラが守ってやりたいけれど……自分だってどうなるか判らない身では、どれほどのことができるか。
せめてもと、ぎこちない笑みで問いかけた。
「……あなたの名前を教えてくれる?」
「ライラと申します。拙く未熟な身ではございますが、精一杯お世話させていただきます」
「ありがとう。ライラ、あれからどれくらい時間が経(た)ったか判る?」
「半日ほどです。なかなかお目覚めにならないので、心配しておりました。……このたびは、お悔やみ申し上げます……」
言いにくそうに告げられた追悼になんと答えればいいのか判らなかった。
話をはぐらかすようにライラにグラシエラが意識を失った後のことを問えば、速やかにエルライヒ城を制圧したノーザン兵は翌日の早朝には少数の部隊編成で出立したそうだ。
捕らえた王女をノーザンへと護送するために。
「……私は、捕虜になったのね……」
意識を失う前の出来事が鮮やかに蘇(よみがえ)る。
踏み荒らされた城内、逃げ遅れた人々、放たれた炎に、物々しい有様で踏み込んできたノーザンの騎士達と、彼らを率いていた銀髪の敵将。
眉一つ動かさず城を制圧したあの騎士は、その力量など何も判らないグラシエラの目にもただ者ではないと思わせる迫力があった。
その美貌は宮廷貴族にも劣らないほど優美なのに、使い込んだ剣を下げ、数え切れないほどの細かな傷が刻まれた鎧に身を包む姿は独特の威圧感を生み出していた。
直感的に思った。
逃げられない、と。
たった十四の世間知らずな王女が太刀打ちできるような相手ではない。グラシエラだけでなく、あの時城に残っていた誰も、銀髪の敵将には敵わなかっただろう。
「……逃げ遅れた人達はどうなったの?」
まさか殺されてしまったのでは、と半ば覚悟しながら尋ねたグラシエラに、ライラは答える。
「捕らえられはしましたが、エルライヒ城に留め置かれています。大人しく従えば手荒な真(ま)似(ね)はしないと……その言葉を信じるなら、無事でいると思いますが……後のことは私も判りません」
「……そう」
あの時城にいた者は殆どが戦う力のない者だ。あの敵将の印象からして暴力的な扱いはしないと思うけれど、敗戦国の人間はどうされても文句が言えない。
グラシエラをその場で殺さずにノーザンまで護送するということは、ノーザン王に目通りする機会もあるかもしれない。
ライラのことも含め、国に残してきた人々についてもなんとしても温情ある扱いとしてもらえるよう、繰り返し頼まなくては。
そのためなら、どんな境遇に落とされたとしても甘んじて受け入れるつもりで覚悟を決めて、グラシエラは泣き出しそうになる己の心を抑えつける。
それは十四の少女にはあまりにも重く悲愴な覚悟だったが、他に代わってくれる者はいない。
「他に何か気付いたことはある? ノーザンの騎士達はどんな様子? エイデン将軍はこちらの話に耳を貸してくれそうかしら」
「申し訳ありません、私もあまり……姫様は銀髪の騎士と面識がおありなのでしょうか?」
「いいえ。あの時が初めてよ。多分そうだろうと思っただけ。ノーザンに優れた騎士として王の信頼厚い、若い将軍がいるって話をあなたも聞いたことはない? 何でも昨年のユノスとの戦いでも、敵将を幾人も討ち取ったとか……」
「それは確かに。でもその将軍はローアンの蛮族の血を引いていると……ああ、だからお判りになられたのですね。いくら腕が立つからって、そんな野蛮人を将軍にするなんて……」
汚らわしい、といわんばかりにライラが嫌悪の表情を浮かべる。
その声も明らかに彼に対する侮蔑の感情が含まれているのが伝わってきた。彼の持つ銀髪と薄い緑色の瞳、という特徴を持つ一族がこの周辺の国々には蛮族として忌避されているからだ。
だからこそ、グラシエラも最初にジェラルドの素顔を見た時は驚いた。
だが、それだけだ。
「口を慎みなさい。今の私達はたった一言の失言で命を落としても不思議ではない立場よ」
「……も、申し訳ございません」
一見厳しく聞こえるグラシエラの言葉に何を想像したのか、ハッとするライラを黙らせてから、続けて考える。
ノーザンはそれほど大きな国ではないが、大陸のほぼ中央に位置し、豊かな穀倉地帯を所有している。そのため軍事的にも商業的にも重要な拠点となり得ることから、エルライヒだけでなく周辺国から幾度となく攻撃を受けている。
昨年のユノスとの戦いも、そのうちの一つ。ユノスはエルライヒとノーザンの南に隣接する国であり、ノーザンはユノスを含めこれまでの周辺国からの侵略行為を全て退けている。
それを可能としているのは、高い武力と統率力を保有する騎士団にそれらを指揮する将軍達、そして優れた政治力を発揮するノーザン国王、マーカス一世の存在だといわれている。
ジェラルドはマーカス一世の騎士の中でもここ数年特に名を馳(は)せるようになった勇将だ。
具体的にどんな人物であるかまではグラシエラの耳には届いていなかったが、いくらエルライヒ兵の士気が低かったとはいえ、国境から一気に最短時間で王城まで攻め入ってきた手腕を思えば、その実力は本物なのだろう。
再びぶるっと身が震える。
怖い。できることならどこかに隠れてしまいたい。
きっとグラシエラが王女ではなくただの貴族令嬢であったなら、泣きじゃくって助けを乞うても許されたかもしれない。
でも自分にそれはできない。少しでも逃げたいと考えると、頭の中に蘇る言葉がある。
『王族の責任を忘れないでください』
つい先ほどまで見ていた夢でも告げられた言葉だ。
あれは夢だ。けれど現実にあったこと。
きっとグラシエラは、夢に見た嘆く女の姿を生涯忘れられない。
「エイデン将軍とはお会いできるかしら? できればもう一度会って、話したいわ」
「それはどうでしょう……面会を申し出ても受け入れていただけるかどうか……」
表情を曇らせるライラの話によれば、当たり前かもしれないが、ノーザンの騎士達の自分達に対する言動は決して友好的とは言いがたいという。彼らにとってエルライヒは横から自国の土地や実りをかすめ取ろうとする盗人も同然で、その心証が冷ややかな態度にも表れているようだった。
「……そうね、無理に申し入れるよりも機会を待った方がいいかもしれない」
知らぬうち、深い溜息がこぼれ落ちた。絶対失敗はできないのに、何をどうすることが最善なのかがグラシエラには判らないのが辛(つら)い。
長い長い一日がやっと終わりに近づき、野営地へと到着した時には、とにかく揺れず振動のない場所で、静かに身体を横たえたくて仕方なかった。
幸いノーザン兵はグラシエラとライラのために、天幕を一つ用意してくれた。
馬車の外では手足に枷(かせ)をかけられることも覚悟したが、そんなこともない。もっとも枷がなくとも逃げられるはずがないけれど。
「大丈夫ですか、姫様。顔色が青いですわ」
「あなたこそ。……大丈夫よ、少し休めば良くなるから」
とはいえあんなに静かな場所で横になりたかったのに、いざそうしてみても妙に意識が冴えて、眠れない。当たり前だ、つい昨日家族を失い、城を落とされ、今は周囲を敵に囲まれているのだ。
天幕の外から聞こえてくるのは騎士達の声と、足音、そして動くたびに鎧がぶつかる独特の音。
どれをとっても落ち着かない。先のことを考えると不安と恐怖ばかりが募る。
隣からライラの小さくすすり泣くような声が聞こえてきて、それがまたグラシエラの心を重たくさせる。
これから先ずっとこんな日々が続くのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えていた時だった。
ばさりと、かすかな物音が聞こえた。
静まりかえり、ホウホウとどこかで鳴いているフクロウの声や、虫の羽音だけが響く中、その物音はやけに大きく聞こえた。
それは一度だけでは終わらない。布がめくられる音、そして押しのけられる音。
それらが天幕の入り口の方から立て続けに聞こえてきた。
何事かと鉛のように重い身体を反射的に起こそうとした時には、開かれた天幕の入り口の向こうから、かがり火に照らし出された複数の男達が次々と踏み込んでくる姿が見えた。
「な……!?」
全く状況が掴めない。そうした中でグラシエラが真っ先に感じたのは命の危機だ。
王都に護送するという話だったが、途中で気が変わってノーザンの騎士が殺しに来たのかと思ったのだ。
だがそうではない。殺すだけならすぐさまこの胸に剣を突き立てればそれで済む。
なのに、男達はまるでこちらが悲鳴を上げることを恐れるかのように身を硬直させているグラシエラの口を塞ぎ、地面に押さえつけるようにのし掛かってくる。
誰かが「早く閉めろ!」と小声で命じる言葉が続いた。
「ん、んんっ……!?」
天幕の入り口は既に下りて、もはや外から入ってくる明かりもない。
何も見えない暗がりの中で、男のやけに荒い息づかいがすぐそばで聞こえた。それこそ、その呼気が顔に触れるほど近くで。
「静かにしろ。騒ぐな。大人しくしてりゃ、すぐに済む。お姫様も、無駄に痛い思いはしたくないだろう?」
何のことだろう。何がすぐに済むというのか。
混乱した頭では男達の目的が上手く理解できなかったが、自分達にとって良くないことであるのは判った。
隣から、多分ライラのものと思われる、くぐもった声が聞こえてくる。
間を置かず、パシッと軽い打(ちょう)擲(ちゃく)音が空気を震わせた。
ライラが殴られたのだと判ったが、そちらを気にしていられる余裕はない。
不(ふ)埒(らち)な手つきで男の一人が、未熟な王女の身体の輪郭をたどり始めたからだ。
「ひ……っ……」
この段階になってやっと判った。
この男達は自分達を穢(けが)しに来たのだ。
悲鳴を上げようとしてもろくに声は出ず、仮に出せたとしても救いに来てくれる人はいない。
「エルライヒの女がどれほどのものか、確かめさせてもらうぜ」
ざらついた下卑た不快な声で男は笑うように囁(ささや)く。
戦ではよく気が高ぶった男達の情欲を晴らすために、捕らえられた女達が犠牲になることがあると聞く。あるいはこの行為もエルライヒに対する復(ふく)讐(しゅう)の一つなのかもしれない。
でも、だからといって大人しく受け入れられるわけがない。死ぬ覚悟はできていても、女としての尊厳を砕かれる覚悟などできていなかった。
「ん、んんっ!! んーっ!!」
「うるせえな、大人しくしろって言っただろうが!」
「おい、でかい声を出すな、外に聞こえるぞ! 早く済ませろ!」
全身がガタガタと震える。もがいた両足がバタバタと寝具を蹴る。声を塞ぐように口を押さえ込む男の手の温度も、湿った感覚も、匂いも全てが気持ち悪い。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
こんなのは嫌だ、誰か助けてと心が悲鳴を上げる。
男の手の下で、グラシエラは半ば恐慌状態に陥りかけた、その時だ。
バサッと、先ほど以上に大きな音を立てて、天幕の布が開かれる。
暗闇に慣れた視界に、突然ぼうっと燃え上がるたいまつの炎が飛び込んできて、グラシエラの目を眩ませる。
咄(とっ)嗟(さ)に目を閉じた直後、押さえつけられていた身体が急に軽くなった。と同時に、何かが叩き伏せられるような鈍い音を聞いた。
何度も瞬きを繰り返しながら、なかなか視力が戻らない目を強引に開けば、両手で我が身を抱きしめるように小さくなっているグラシエラを、一人の騎士が見下ろしている。
彼の背後で掲げられたたいまつの炎が、端正に整った容姿と、逞しい身体、そして輝く銀髪を照らし出していた。
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