書籍詳細
渋澤先輩は愛おしくて厄介で 御曹司の忘れられない初恋
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/02/24 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章
一話「俺だよ、久しぶり」
しっとりとした夏の空気がノースリーブの肌を撫(な)でる。
『麻(ま)琴(こと)の肌、ほんとすべすべだよな』
ふと、指先が触れた感触とその時の彼の声を思い出し、胸の奥がざわついた。
今週別れたばかりの男は去年の夏、そう言って麻琴のノースリーブの腕を褒めてくれた。今日のように少し蒸し暑い夜だったはずだ。
恋人に褒められることなどめったになかったから、その時はとても嬉(うれ)しかったことを麻琴はよく覚えている。
だが今は、そんな言葉を素直に受け取り喜んでいた過去の自分に、はらわたが煮えくり返りそうになる。
(ムカつく……!)
桐山(きりやま)麻琴は手にしていたグラスの中身を、発作的に喉に流し込んでいた。
普段はあまり飲まないビールが一気に胃に落ちていくのが、少しだけ気持ちいい。それほど飲めるタイプではないが、飲んで憂さ晴らししたいと思う世間の気持ちが、少しだけわかった気がした。
「おっ、飲むね〜! うんうん、飲んじゃえ!」
正面に座っている同期で友人の藍(あい)子(こ)が煽(あお)り立てる。
強(こわ)張(ば)ってあまり動かない顔をなんとか笑顔に変えて、麻琴は「そうだね」とうなずいた。
「すみません、お代わりくださーい!」
空になったグラスを持ち上げると、店員が「かしこまりましたー」とオーダーを取っていく。
金曜の夏の夜ということもあって、メインストリート沿いにあるスペインバルのテラス席はすべて埋まっていた。本来なら友人と過ごす楽しい週末のはずだが、いくらアルコールをあおっても、麻琴の気分はまったく晴れそうにない。周囲はとても楽しそうだというのに、自分たちが座っているテーブルだけ、まるでお通夜だ。
「なんていうか……その……ずっとへこんでてごめんね」
こんな状況に、大事な友達を巻き込んでいると思うと申し訳なくなる。
麻琴が誤魔化すようにへらっと笑うと「いいんだよ。っていうか、当たり前でしょ」と藍子は唇を尖(とが)らせた。それから少し困ったように、「ねえ、ほんとにいいの?」とどこか気まずそうに目を伏せる。
「いいもなにも……仕方ないじゃん。さすがに私ひとりだけ結婚式に出ないって……おかしいし……ね」
「いやいやいやおかしいのは二年も付き合った彼女に内緒で、社長の娘と結婚を決めちゃう、あんたの彼氏だってっ!」
藍子は眉間にぎゅうっとしわを寄せ、プルプルと震え始めた。
「なにが営業部のエースだよ、いくら仕事ができたとしても、人として終わってるっつーの!」
そして持っていたビールのジョッキの底をドンッ、とテーブルの上に叩(たた)きつけるように置くと、鼻息も荒く麻琴の顔を覗(のぞ)き込む。
「結婚式なんて出る必要ないからねっ! あたしだって絶対行かないしっ!」
「うん……」
藍子の言う通り、麻琴は付き合っていると思っていた恋人に、自分のあずかり知らないところでほかの女性と婚約をされて失意のどん底にいた。
しかも結婚式には、部署内全員が招待されている。彼女だったはずの自分もだ。
事の起こりは今週の月曜日のことだ。麻琴が勤める玉(たま)伊(い)商事の、営業部の朝礼の最後に、部長が麻琴の恋人である高添(たかそえ)浩(ひろ)史(し)を前に呼びつけ、『高添君が結婚することになったよ』と、高らかに告げたのである。
(あれ、私結婚するんだっけ……?)
そう思ったのは麻琴だけではない。同じ営業事務の藍子も、麻琴と浩史の顔を見比べ、あんぐりと口を開けていた。
『お相手はなんと我が社の社長令嬢だよ、さすがイケメンは違う! ガハハ!』
部長はそう言いながら、バシバシと浩史の背中を叩いていて、周囲は『そうなんだ〜』と素直に拍手をする。
そこでようやく麻琴は、自分が恋人だと思っていた男の裏切りを知ったのだ。
麻琴から気まずそうに目を逸(そ)らす浩史を見てやっと、自分の置かれた状況が理解できた。付き合っているつもりだったのは、どうやら自分だけだったということらしい。
「そろそろプロポーズされるかなと思ってたら、まさかの失恋だもんね……」
そうつぶやいた瞬間、麻琴の目から、ぽろりと涙が零(こぼ)れ落ちた。それを見て藍子の眉がしゅんと下がる。
「ちょっ、ちょっと麻琴〜っ……泣かないでよ……うっ、あたしまで、悲しくっ……ううっ……」
さっきまでプリプリと怒っていた藍子が、つられたようにくしゃっと顔を歪(ゆが)める。
自分たちが座っているのはテラス席の端のほうだ。あたりはわいわいと賑(にぎ)わっていて、少々騒いだところで人目を引くことはないが、申し訳なさが募る。
「藍子……」
麻琴はテーブルの上のペーパーナプキンを取り、藍子に差し出した。藍子はそれを受け取り、目元を拭きつつ、
「うっ、うっ……ありがと……ちょっとメイクなおしてくるねぇ……」
と、立ち上がった。
「ひとりで歩ける?」
「だいじょおぶ……麻琴は飲んでて……うっ……」
そして藍子はスタスタと店内のトイレへと行ってしまった。フラフラしているようならついていこうと思ったのだが、意外にも足取りはしっかりしていた。とりあえず大丈夫そうだ。
それから間もなくして、麻琴のもとに新しいビールが運ばれてきた。なんとなく気乗りせず、水が入っていたコップを手に取り唇をつける。
(せっかく藍子が付き合ってくれてるんだから、あまり落ち込まないようにしなきゃ)
そう思うが、どん底まで落ち込んだ気分は、なかなか上昇してくれそうにない。
「はぁ……」
どれだけ息を吐き出しても、胸の奥が、鉛(なまり)でものんだかのように重くて苦しい。
付き合っていた彼が、ほかの人と結婚する。裏切られた理由も正直わからない。付き合っていると思っていたのは自分だけで、本当は浮気相手でしかなかったのかとか、自分を否定する気持ちしか浮かんでこない。
どうしたら楽になれるんだろう。
この苦しみはいつ消えてくれるのだろう。
同じ職場ということは、結婚式が終わればはいさよなら、ということにもならない。これから先もずっと、なにかにつけ麻琴は傷つくことになるかもしれない。
仕事を辞めるしか手段はないのだろうか。だがこんなことで逃げるように職場を去らなければいけないなんて、とても納得できなかった。
(辞めたら思うつぼだ。そんなの、やだ……ムカつく……うう……! くやしいっ……!)
わーっと叫びたい気分を抑え、唇を一文字に引き締めていると、
「さっきから、ため息ばっかだな」
背後から低いがよく通る、甘い声がした。
「え?」
一瞬、自分に向けられた言葉かどうか判断できず、戸惑いつつ顔を上げると、背後にいた男は藍子が座っていた席に回り込んで、ドカッと腰を下ろす。
いきなりの展開に麻琴は茫(ぼう)然(ぜん)としてしまった。
(なにこれ……テレビのドッキリ!?)
そう思うのも無理はない。
麻琴の目の前に座る男の姿かたちが、異常なまでによかったからだ。
(眩(まぶ)しい……光って見える……!)
こちらを物おじせずまっすぐ見つめる目は、目尻が少しだけ吊(つ)り上がったパッチリした二重瞼(まぶた)で、黒目が大きい。鼻筋は細く高く、唇は自然と口角が上がっている。精(せい)悍(かん)な美貌ながら、どこか上品さを感じさせる、不思議な雰囲気だ。
年は二十七歳の麻琴と、そう変わらないくらいだろうか。
だが一目でそんじょそこらのサラリーマンでは手が出せないとわかる、上等なスーツを身にまとっている。
絵に描いたような極上の男が、テーブルの上に頬(ほお)杖(づえ)をつき、ゆるい黒髪のくせ毛の奥から、きれいな目を細めつつ、微(ほほ)笑(え)んでいるのだ。
これはおかしい。絶対におかしい。
「あの……席、間違ってますよ」
麻琴はおそるおそる口を開く。
これはきっと、若手の人気俳優がいきなり一般人の席に相席したらどうなるか——みたいなテレビの企画に違いない。この席は隠しカメラで監視されていて、麻琴の反応が、全国のお茶の間に面白おかしく放送されるのだ。
そうとしか考えられない麻琴は、早いところ立ち去ってもらおうと、真面目にそう口にしていた。
「間違ってないって」
だが男は引かない。クスクスと笑った後、テーブルの上のオリーブの実をつまんでひょいっと口の中に放り込む。図(ずう)々(ずう)しすぎて驚いてしまったが、同時に行儀の悪い仕草も妙にさまになるのが不思議だった。
(なんだか上品なんだよね……って、いやいや、それどころじゃない……!)
一瞬見とれてしまったが、さすがに付き合いきれない。
「えっと、テレビのドッキリですか? ほんと今、それどころではないので……すみません」
真面目に頭を下げたところで、男は信じられないと言わんばかりに、大きな口を開けて笑い始めた。
いきなり爆笑された麻琴はポカンだ。だが青年はしばらくそうやって笑った後、目の端にうっすらと浮かんだ涙を指でぬぐいつつ麻琴を見つめる。
「いや、なんでテレビ? 普通、ナンパとか思うんじゃねえの?」
「ナンパって。いやいや……それはないでしょう」
麻琴は首を振って、自嘲する。
麻琴は自分のことをよくわかっている。
髪は肩を覆(おお)う程度の長さで、目鼻立ちはいたって普通。やせ気味で、つられたように胸は小さい。平均、平凡、地味を絵に描いたような容姿の二十七歳だ。そして長年付き合った彼氏にあっさりと捨てられるような、つまらない女でもある。
モデルか俳優級の美男子に声をかけられるなんて、自分の人生に起こるはずがない。これがドッキリでないのなら、そうは見えないけれど彼は泥酔していて、正常な判断能力が欠けているのだ。
「その席は友達の席なので」
とりあえず立ち去ってもらおうと、彼のほうに手を伸ばす。
「ほんとに気づかないのな」
男は頬杖をついていた手を下ろすと、そのまま麻琴の手首をつかんで引き寄せた。
「俺だよ、麻琴ちゃん。久しぶり」
そして男は、麻琴の手首の内側あたりに顔を寄せ唇を押し付ける。
甘やかな声と、艶(あで)やかに光る眼(まな)差(ざ)し。自分の魅力を知り尽くしている、この傲慢にも思える態度——。
(えっ、まさか……嘘(うそ)でしょ!?)
脳裏にひとりの男の存在が鮮やかに蘇(よみがえ)る。
こんな男、麻琴の地味で堅実な人生の中でふたりといない。
「えっ……あの……もっ、もしかして……。渋澤(しぶさわ)……春雪(はるゆき)先輩……?」
胸の奥からなにかがせり上がってきて、体が内側からひっくり返るような、訳のわからない気持ちになった。
戸惑いながら懐かしい名を呼ぶと、
「たった五、六年会わなかっただけで忘れるとはな。俺はすぐにわかったのに冷たすぎだろ」
彼はクックッと喉を鳴らすようにして笑い、それから麻琴の手をするりと撫でた。
「いえ……びっくりして。まさかここで会うなんて」
今更だが、緊張のあまり声がかすれてしまった。
「俺こそ、通りすがりにお前のこと見かけて、ビックリしたよ」
春雪は切れ長の目を穏やかに細める。
渋澤春雪。彼は麻琴の、高校と大学のふたつ上の先輩だった人だ。といっても麻琴は彼と特に親しかったわけではない。春雪は交友関係が広く、どこにいても場の中心になるような男で、たまたま麻琴も彼の視界に入る、その他大勢の女子だった。その程度の関係だ。
(それにしても……昔からすごくかっこよかったけど……)
目の前の男は、さらにその色男ぶりに拍車をかけているようだ。
彼は今二十九歳のはず。仕事に余裕もでき、男としての余裕も生まれ始める。それが春雪の美貌に箔(はく)をつけているのかもしれない。何気なく彼の左手を見たが指輪ははまっていなかった。
(でもまぁ先輩に恋人がいないわけないし……)
つかまれた手首を手元に引きながら、どこか楽しそうに微笑む春雪にはっきりと言い放つ。
「もう……私で遊ばないでもらっていいですか」
「遊ぶって……なんだそれ」
春雪が子供っぽく目をぱちぱちさせる。
(そういうところですよ……って、言わなくてもわかってるくせに。相変わらずなんだから)
麻琴は言葉に出さないまま、ため息をついた。
彼は昔からこうだった。別に麻琴のことなんかなんとも思っていないのに、相手が女性だとみれば、甘い言動を取らずにはいられない。華やかな容姿と人懐っこい性格で、周囲の人間をみんな自分の虜(とりこ)にしてしまう。
花と花を行き交う蝶(ちょう)のように、あっちでひらひら、こっちでひらひらと飛び回り、甘い蜜を吸う男。それが渋澤春雪という男だった。
(ちょっと遊ぶにはいいけれど、本気になってはダメな男ナンバーワンって高校の時から言われてたっけ)
麻琴自身は、彼にひどい目にあわされたわけではないが、彼に恋をしてあっけなく袖にされ、泣いていた女の子たちをたくさん見てきた。
「相変わらずお堅いな、麻琴ちゃんは」
「春雪先輩が柔らかすぎるんです」
だが麻琴の言葉に春雪は気分を害することもなく、「俺にそっけないのはお前くらいだよ」と、少し肩をすくめただけだった。
(この人の、こういうのらりくらりとしたところが、私は昔から苦手だったんだ……)
頭の回転は恐ろしく速いくせに、暖簾(のれん)に腕押しというかなんというか、いまいちつかみどころがない。
こちらの意図がわかっているはずなのに、気づかないふりをされている。
(困った……)
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