書籍詳細
愛していると言えたなら 御曹司は身代わりの妻に恋をする
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/03/31 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
佐山との見合いは翌週末に決まった。
流石(さすが)に急すぎるのではと困惑する千景に伯父は申し訳なさそうにしつつも日程の変更をしなかったのは、それだけ時間がなかったからだろう。
麗華と佐山の結婚式は既に会場や日取り、招待客リストも決まっている。
不幸中の幸いだったのは、招待状の発送がまだだったことだろう。
結婚式の予定は八月第一週の土曜日。
既に結婚式までに四ヶ月を切っている。伯父が焦るのも無理はない。
佐山との婚約を受け入れるにせよ断るにせよ、タイムリミットは迫っている。
伯父を通じて両家で話し合った結果、見合いは都内の某老舗ホテルで両家の両親は同伴なしの二人きりで行うことにした。これを提案したのは佐山側で、正直なところほっとした。
佐山に会うだけでも緊張するのに、親同伴なんてとても上手く立ち振る舞える自信がなかったからだ。いずれにせよ、婚約を承諾すれば佐山社長と会うことになるとしても。
そして、見合い当日。
ホテルのロビーラウンジの席に着いた千景は、二杯目になるコーヒーを前に身を硬くしていた。もう一時間近くもここにいる。
本当なら十五分前くらいに到着するのがちょうどよかったのだろう。それにもかかわらずこうして一時間も前に早く来てしまったのは、ひとえに緊張していたから。
少しでも早く来て、落ち着いて見合いに臨みたいと思ったのだ。しかしこの行動がかえって裏目に出てしまった。待ち時間が長すぎて落ち着かないのだ。到着してからもう何度時計を見たかわからない。
とにかく一度気持ちを整えようと、残りわずかとなったコーヒーカップに手を伸ばす。するとそれより先に背後から「鈴倉さん」と声をかけられた。それが誰かなんて顔を上げなくてもわかった。その低くて心地よい声を、千景の耳は既に記憶していたから。
「佐山さん」
視線を向けると、彼は「久しぶり」と小さく笑う。その姿はやはり抜群に格好よくて、それだけで千景の心臓は激しく音を奏で始める。しかし気づかれるわけにはいかない。
——落ち着かなければ。
「お久しぶりです」
自分自身に言い聞かせて微笑む。典型的なビジネススマイルになってしまった自覚はあるが、こればかりは仕方ない。一方の佐山は、ロビースタッフにコーヒーを注文すると対面のソファに腰を下ろした。
「早いんだな。もしかしてだいぶ待たせた?」
「いえ。私も少し前に着いたばかりですから」
見合いに前のめりだと思われるのがなんとなく恥ずかしくて、正直に答える勇気はなかった。
そんな千景に佐山は「そう」と小さく頷くと、来たばかりのコーヒーカップに手を伸ばす。
長い足を組んで優雅にコーヒーを嗜(たしな)む姿はそれだけで絵になった。
「こんな形で再会することになるなんて、君とは不思議な縁があるのかもな」
「縁、ですか?」
だってそうだろう、と佐山は苦笑する。
「この間までお互いに別の相手がいたのに、今はこうして見合い相手として向き合っているんだから」
なるほど、不思議な縁とは言い得て妙だ。けれどそれを喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか、今の千景にはわからない。しかし佐山にとってはこうして千景と見合いをしていること自体が不本意な事態なのではないだろうか。千景は本当の意味で麗華の代わりにはなり得ない。見合い相手や婚約者の立場にはなれても、見た目やスタイルは変えられないのだから。
「鈴倉さん?」
「あっ、はい!」
一瞬、暗い気持ちになりかけたところを呼ばれてはっとする。
「大丈夫か?」
「え?」
「女性にこんなことを言うのは失礼だと思うが……だいぶ痩せたな。あんなことがあった後では無理もないけど」
佐山は心配そうに千景を見つめる。その瞳からは労りの気持ちが感じ取れて、千景は曖昧に微笑み返す。お互い、恋人を失ったという点では立場が同じ。むしろ一度も体を重ねたことがなかった千景と古田に対して、麗華曰(いわ)く「情熱的に愛し合っていた」彼の方が喪失感は大きいはずだ。それにもかかわらずこうして心配してくれる。
(優しい人)
心から、そう思う。
「ありがとうございます。確かに少し体重は落ちましたけど大丈夫ですよ」
古田と麗華の密会現場を目撃した後、体重は三キロ落ちた。多分、船上パーティーの時から比べると五キロ以上減っている。これが一、二キロであれば喜んでいたかもしれないが、こうも体重が減ると「痩せた」と言うより「やつれた」という方がしっくりくる。
ただでさえ豊かとは言えなかった胸はいっそうささやかになってしまった。女性らしい丸みを失ったことは悲しいけれど、今はそれをどうにかしたいと思う気力も食欲も湧かなかった。もちろん、そんなことは言わないけれど。
それよりも伝えておくことがある。
「もう、終わったことですから」
そう自分自身に言い聞かせる。
「『終わったこと』か。——そうだな。君の言う通り、麗華と君の恋人がしでかした事実は変わらない。大体、今はどこにいるかもわからない元婚約者のことを考えても仕方ない」
突き放すようなその物言いに千景は驚かずにはいられなかった。まさか、同意されるとは思わなかったのだ。それが表情にも表れていたのか、「どうかしたのか?」と問いかけられた千景は本音を零していた。
「随分あっさりしていると思って……。佐山さんはショックではなかったんですか?」
この問いに対して佐山は淡々と千景を見つめ返す。
「君はショックだった?」
質問に質問で返すのはずるい。内心そんなことを思いながらも小さく頷くと、佐山は「そうだろうな」と平然とした様子で同意する。
「そうじゃなければ寝込んだりするはずがない。でも俺は、呆れはしたけどショックというほどではなかったな」
「……どうしてですか?」
「以前から麗華の男癖が悪いのは知っていたから。実際、俺との婚約中も他の男と関係が続いていたし、他の男とセックスしたと聞いたところで特に驚かなかった。むしろ『やっぱりな』という気持ちの方が大きかったよ。とはいえ、まさか従姉妹の恋人を寝取って海外に飛ぶとは思わなかったが」
最低だな、と吐き捨てる姿を前に口を開きかけるが言葉が出なかった。
——彼は何を言っているのだろう。
それが、真っ先に浮かんだ正直な気持ちだった。麗華が佐山以外の男性と関係を持っていたというのもそうだが、何よりも驚いたのは佐山がそれを知った上で婚約関係を続けていたことだ。
(どうして……二人は愛し合っていたんじゃなかったの?)
自ら婚約破棄を申し出た麗華の気持ちはわからない。しかし、少なくとも佐山は今でも麗華を愛しているのではないのか。だって、麗華からは何度もそう聞かされた。時に言葉で、時に体で、いかに情熱的に麗華を愛していたかを語られた。それにもかかわらず、彼の物言いからは元婚約者への愛情は微塵も感じられなくて、当惑する。
「佐山さんは、麗華を愛していたんですよね?」
「……愛、か」
佐山は小さく呟(つぶや)く。そして、千景を静かに見据えた。
「それって、そんなに大切なものかな」
「え……?」
吐き捨てたわけでも、感情を露(あら)わにしたわけでもない。それなのにその言葉は酷く冷たい響きを伴って千景の耳に届いた。
——愛が必要か、否か。
なんと答えるのが正解かわからず言葉に詰まる。
「俺と麗華が婚約したのは互いの利害が一致したからだ。好意の有無は関係ない」
その冷たい雰囲気に、麗華とのことはそれ以上聞けなくなる。その時、ラウンジが一瞬にしてざわめいた。周囲の人々の視線が一方向に向けられ、二人も自然とそちらに目を向ける。
そこには、純白のウェディングドレスを纏った花嫁がいた。
このホテルは結婚式場としても人気が高い。ラウンジ一つとっても高級感とエレガンスさが調和していて写真映えするのだろう。挙式開始前なのか、花婿と腕を組んだ花嫁は、カメラマンに向けて花が綻ぶような笑みを浮かべている。その姿は本当に幸せそうで、まるで花嫁はスポットライトが当てられたように輝いて見えた。
「綺麗……」
自然とため息が漏れる。その一方でなんとなく気まずさも感じた。
今、千景は見合いの最中だ。そして仮に婚約が成立すればいずれ挙式することになる。つまりあの花嫁の立ち位置は未来の自分でもあるのだ。にもかかわらず千景たちは今、「愛が大切なのか」なんてやりとりをしている。目の前の幸せに満ちた光景と自分たちの現状。それらはあまりに乖離していて、居心地の悪さを感じてしまう。
「——場所を変えようか」
その時、不意に佐山が立ち上がる。
「確か、このホテルはイングリッシュガーデンが有名だったと思う。せっかくだから行ってみないか? 続きはそこでゆっくり話そう」
ここだとなんとなく落ち着かないしな、と佐山は手を差し伸べた。
千景が勝手に抱いた気まずさを感じ取ったのか、そうでないのかはわからない。けれど、少なからず居心地の悪さを感じていた千景は、ありがたくその手を取ったのだった。
このホテルのイングリッシュガーデンは、季節を問わず一年中花々を楽しめることで知られている。特に有名なのは薔薇で、敷地内では千種類以上の薔薇を育てているらしい。今もたくさんの薔薇が咲き乱れ、その色彩の豊さに見惚れてしまう。
四月の現在、暑すぎず寒すぎず、春真っ盛りのとても気持ちのよい季節だ。
真っ青な空からは柔らかな陽光が降り注ぎ、可憐に咲く薔薇を優しく照らしている。
ふんわりと漂う甘い香り、ときおり花弁を揺らす柔らかな風。それらに囲まれて自然とほっとするのを感じる。ガーデン内は、宿泊客や利用者が行き交うラウンジに比べれば人はまばらだった。二人が話の続きをする場所に選んだのは、東(あずま)屋(や)。庭園の最奥に位置しているからだろうか。千景たちの他に人気はなく、隠れ家(が)的な雰囲気を醸し出している。
「そこ、段差になっているから気をつけて」
「はい」
人一人分の間を空けて隣り合って座る。そうしていると千景からは佐山の横顔しか見えない。それにもかかわらず、ロビーで向かい合っていた時より彼をずっと近くに感じた。
「ここなら落ち着いて話ができそうだ」
千景の方に体を向けて、佐山は言った。
「引き延ばすことでもないから、単刀直入に言わせてもらう。俺は、君がこの婚約を受け入れてくれることを望んでいる」
見合いという体裁を取っている以上、返答は後日するのが一般的だ。千景もそのつもりでいたし、当然彼もそうだと思っていた。だからこそこんなにもストレートに言われるとは思わず、絶句する。
「理由は麗華と婚約した時と同じで、それが両社にとってプラスになると考えたからだ。むしろ業務提携が軌道に乗ってきた今、麗華と婚約した時以上に久瀬との関わりを失いたくはない。多分それは、久瀬側も同じだと思う」
唖然と目を見開く千景とは対照的に、彼はまるで業務連絡をするかのように淡々と続けた。
「……それが、伯父に『麗華にはこだわらない』と言った理由ですか?」
声が震えそうになるのを堪えて問えば、すぐに「ああ」と肯定される。それは、佐山に必要なのは千景ではなく単に久瀬家との繋がりなのだと言われたも同然だった。
千景「が」いいと千景「でも」いいのでは天と地ほどの差もある。
(そんなの、当然なのに)
感情の読み取れない佐山の瞳に胸が痛むのは、ただただ千景の都合だ。
佐山を好きな千景が勝手に傷ついて、勝手に痛みを感じているだけ。彼は、何も悪くない。
「でも、これはあくまで俺の都合だ」
奇しくも佐山は千景が考えていたのと同じ言葉を口にした。
「君には俺と結婚するメリットはない。第一、俺は君の理想とは真逆の男だ。話し上手でもなければ、一緒にいて居心地がいいわけでもないからな」
「そんなことは——」
「無理しなくていい」
否定するより前に慰めるように言われてしまう。
「愛のない結婚なんて、嫌だと思っても仕方ない」
「っ——!」
愛のない結婚。それは、仮に結婚したとしても彼が千景を愛することはないということを意味する。告白するつもりだったわけではない。けれど、想いを告げる間もなく可能性を摘み取られた千景は何も言えずに言葉をつぐむ。
「だからこそ、君が見合いを引き受けたと聞いた時は正直驚いたよ」
断られて当然だと思っていたから、と佐山は言った。
「俺は会社のために君と結婚したい。でも、君は違う。……君は、どうしてここに来てくれたんだ?」
——あなたが好きだから。
——どんなに忘れようと思っても、忘れられなかったから。
そう素直に伝えられたら、どんなによかっただろう。
「今回の一件は久瀬側の一方的な婚約破棄である以上、今後何らかの影響は出てくると思う。でも、俺は君に結婚を強要するつもりもないし、できるとも思っていない。だからもし久瀬社長に無理強いをされたのなら——」
「違います」
考えるよりも先に否定していた。
「……無理強いなんてされていません」
——何か。何か言わなければ。
佐山がこの結婚に求めているのはビジネスライクな関係だ。ならば千景の想いは彼にとって邪魔なものでしかない。それがわかってしまった以上、本当のことを言えるはずがなかった。
「私も、佐山さんと同じです」
「俺と?」
「佐山さんにとって佐山工業が重要であるように、私にとっても久瀬商事は大切なんです。あなたとの婚約が会社の発展に繋がるのならそうしたい。それに……今の私は、恋愛するのには少し疲れました。それでも、この先の長い人生を一人で生きていくのは少し寂しい。そんな時に伯父からこのお話をいただいて、お会いしようと思いました。佐山さんは私と同じ立場だし、初対面というわけでもなかったから」
半分本当で、半分嘘。
祖父の愛した会社を大事に思っているのも、そのためにできることをしたいのも、恋愛に疲れたのも本当だ。けれど今自分がここにいる理由は他にある。
好きだから。会いたかったから。
ただ、それだけ。
「私にとってもこのお話は渡りに船なんです。安心してください。私は結婚に愛は求めません」
けれどそれを伝えることはしない。その代わり、本音を笑顔の下に隠して千景は言った。
「それは、つまり——」
「このお話、お受けします」
口元には笑みを湛(たた)えながらも、千景の心臓ははち切れんほどに激しく鼓動していた。
今の自分はうまく気持ちを隠せているだろうか。好きな気持ちが溢れていないだろうか。
佐山は千景をじっと見つめる。まっすぐな瞳からは感情の揺らぎは微塵も感じられなくて、今の彼が何を考えているのか千景にはわからない。千景にできるのは、ただ見つめ返すことだけだ。
「ありがとう」
そして、佐山は言った。
「鈴倉千景さん。俺と結婚してくれますか?」
愛情の欠片もない淡々としたプロポーズ。
それに対する答えは、決まっていた。
叶わない恋だとわかっていたからこそ、こうして訪れたチャンスを逃すつもりはなかった。
——私は、汚い。ずるい。浅ましい。
従姉妹の婚約者に横恋慕しただけでなく、今度はその立場に成り代わろうとしている。
この時頭に浮かんだのはなぜか、初めて彼を紹介された時に交わした麗華との会話だった。
『勘違いしないで。別に強制されたわけじゃないわ。この婚約は、私が、自分で決めたの』
あの時は気圧されただけだった。でも今なら麗華の気持ちがわかる。
今回のきっかけを作ったのは麗華だ。でもここから先は、千景の選択。
「はい」
好きです。
初めて会った時から、ずっと。
「よろしくお願いします」
本当に想い合う二人ならここでキスを交わすのだろう。
(でも、私たちは違う)
千景の答えに返ってきたのは握手。その手のひらは大きくて、温かかった。
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