書籍詳細
婚約破棄から人生好転!? 引き籠もり公爵が溺愛系とは聞いていない
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/03/31 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 婚約破棄、からの婚約
——これほどの屈辱を覚えるのは生まれてはじめてだ。
休憩室の扉を開け放ったレベッカは、湧き上がる悔しさといらだちにギリッと奥歯を噛みしめた。
怒りの表情を隠しもしない彼女に対し、休憩室の長椅子にのんびり寝そべっていたユージーンが、わずかに口元を引き攣(つ)らせる。
「レ、レ、レベッカ……!?」
「ここでなにをやっているの、ユージーン」
婚約者である彼に対し、レベッカは地を這うような声で問いかける。
だがそれに答えたのはユージーンではなく、彼の腰にまたがるようにして座っていた赤毛の美女のほうだった。
「あらぁ。そんなこと、聞かなくても見ればわかるじゃない? ユージーンはこのわたしとお楽しみの真っ最中だったのよ。ねぇ?」
美女が首をかしげるのと同時に、たっぷりとした赤毛が肩から滑り落ちる。
今(こ)宵(よい)開かれた王室主催の舞踏会はほかの舞踏会に比べてドレスコードが厳しく、女性は髪を結い上げ、まとめておくのが規定となっている。
だから、彼女のように髪を下ろしているのはマナー違反だ。
ついでに言うと、ドレスの前ボタンを外して、コルセットからあふれんばかりにこぼれ出る胸を露(あら)わにするのも、スカートの裾を太腿まで上げているのも……もはやマナーというよりモラル違反に値する。
対するユージーンの格好もいただけない。整髪剤で固めたはずの髪は乱れ、タイはほどかれ、上着もシャツも前がだらしなく開いていた。
下半身に関しては美女のドレスのおかげで見えないものの……ベルトが床に落ちていることから、どうなっているかは一目瞭然である。
レベッカはわなわなと震える両手でこぶしを作る。感情が抑えきれず、思わずドンッと扉を殴りつけてしまった。
「王室主催の舞踏会で婚約者を放っておくどころか、こんな誰が通るともわからない場所でそんなことをやっているなんて! 最低だわ、ユージーン!!」
「ちょっ、レ、レベッカ、扉を開けたままそんな大声を出すな——」
「それに、アデライト! あなたもひとの婚約者となにをやっているのよ!? 見つかっても悪びれる態度すら取らないなんて!」
ユージーンの抗議をきっぱり無視してレベッカは赤毛の美女に怒鳴る。
アデライトという名の彼女は、あわてるユージーンとは対照的に余裕の笑みだ。
「婚約者という割に、あなたは彼を満足させてあげていなかったじゃない、レベッカ? 殿方は女のぬくもりを恋しがる生き物よ。あなたがそれを与えていなかったから、かわいそうなユージーンはわたしにそれを求めたんじゃない」
ねぇ? とアデライトに笑いかけられたユージーンは、急にへらっとした笑みを浮かべて、こくこくと勢いよくうなずいた。
「そ、そ、そうだ、そのとおりだ! すべては僕にかまおうとしなかったレベッカが悪い!」
「そうでしょう? わたしはそんなかわいそうなユージーンを慰めてあげただけ。いったいどこが悪いの?」
「……どこが、って……」
こてん、と首をかしげて尋ねてくるアデライトを前に、レベッカの堪(かん)忍(にん)袋(ぶくろ)の緒(お)がブチィッと切れる。
彼女はかたわらに置いてあった花瓶を取り上げ花を投げ捨てると、中に入っていた水を二人に思い切りぶちまけた。
「きゃあっ!」
「わぷっ! お、おい、なにをする——!」
「——なにをするとはこっちのせりふだわ! 花瓶で殴られないだけありがたいと思いなさい!」
空っぽになった花瓶をテーブルにどんっと置いて、レベッカは大きく息を吸い込んだ。
「あなたとは婚約破棄よ、ユージーン! もう顔も見たくない。——アデライト! あなたとも絶交よ。二度と話したくないわ!」
きっぱり宣言したレベッカは踵(きびす)を返す。
騒ぎを聞きつけてか、休憩室の前を通った何人かが「なんだなんだ?」と首を伸ばして部屋の中をのぞこうとしていた。
わざわざ説明してやるほどレベッカは親切ではないので、会場に戻ろうと足早に廊下を歩く。
その途中で、誰かが「君……」と言いながらレベッカの肩にふれようとした。
レベッカは腕を大きく払って拒絶する。
「急ぎますので失礼します!」
そして脇目も振らずに大広間へと戻り、知り合いと談笑していた両親を捕まえて「先に帰る」と宣言した。
せっかくの王室主催の舞踏会だというのに……心の中は屈辱と怒りでいっぱいである。
(わたしが見つけたときのユージーンのあの驚いた顔……! ああああ、思い出すだけで腹が立つー!)
なぜあんな男と婚約などしていたのか! ……両親に命じられたからだけど。
(とにかく! あんな男との婚約は破棄よ、破棄!)
あまりに腹が立って、屋敷に帰るまでの道中、レベッカは頭の中でひたすらユージーンをボコボコに殴り続けたのであった。
しかしレベッカがどれほど意気込んでも、婚約破棄というものは彼女の一存だけではできないものである。
翌日の昼近く。のんびり起床し、ようやく身支度を整えた両親を家族の居間に呼び出したレベッカは、昨夜見た一部始終を説明し、自分の希望——すなわちユージーンとの婚約破棄を伝えた。
しかし、まだまだ眠気が抜けきらない両親は「なにを馬鹿なことを言っているんだ?」という顔で娘を見返すばかりである。
「なにを言い出すかと思えば……。レベッカ、この婚約は我がイアーズ伯(はく)爵(しゃく)家にとって、なくてはならないものだとわかっているだろう? ユージーンの家からはすでに多額の援助をしてもらっているんだ。今さら婚約破棄なんて……」
とは、レベッカの父であるイアーズ伯爵カールの言葉である。
困り切った父の横で、眉をキッとつり上げているのは母サリーだ。
「そうよ、わたしたちを路頭に迷わせる気なの? 結婚前の女遊びくらいで騒ぐなんて、みっともない……。そもそも、どうしてユージーンがそういうことをしている場所へ乗り込んでいくことになったの」
「ど、どうしてって。エスコートしてくれるはずの婚約者が会場に着いた途端にパートナーをほったらかしにして、どこかへ行ってしまったのよ? マナー違反でしょう? だから彼を捜し回って、あの休憩室に行き着いたのよ」
レベッカは冷静に答えたが、いざ言葉にするとユージーンの不実さがより露わになった気がしてイライラした。
(ほんっとうに、会場入りしてすぐに『じゃあ適当にやっていて』なんて言葉を残して姿をくらますなんてあり得ない……。どこかへ行くにしても、せめて二人で顔見知りに挨拶して、ダンスを一曲でも踊って、わたしを両親に引き渡してから行くべきなのに)
しかし怒り狂うレベッカに反し、両親はそう思わなかったらしい。
「男には男の付き合いというものがあるんだ。その程度で目くじらを立てるものじゃないぞ、レベッカ」
レベッカは思わずピクリと目元を引き攣らせてしまう。
「……まぁ、お父様、婚約者を放ってどこぞの女としっぽりやるのが、男の付き合いというものなんですか?」
怒りのあまりつい俗な言葉で答えると、母がぴしゃりとテーブルを叩いて咎(とが)めてきた。
「お父様に対して口が過ぎますよ、レベッカ! まったく……そんなふうに可愛げなく反論するから、ユージーンに愛想を尽かされてしまったのではないの? ああ、気の毒なユージーン。こんなに頭でっかちで口の減らない娘に束縛されて……っ」
(どうして実の娘じゃなくて、浮気男の肩を持つのっ)
——ユージーンの家から多額の援助をしてもらっているからでしょうけどね! とレベッカは内心でギリギリと奥歯を噛みしめる。
悲しいことに、このイアーズ伯爵家には財産と呼べるものはほとんどない。代々の当主が身の丈に合わない散財をくり返し、財産を目減りさせてきたからだ。
当代の父でさえ、残念なことにその傾向がかなり強い。稼ぐ才能はないのに散財が大好きという最悪の気質は、悲しいことに母にも備わっていた。
そんな両親のおかげで、我が伯爵家の家計は常に火の車だ。使用人すら満足に雇えず、執事のほかは家政婦長とメイドが二人、料理人と馬番しか置いていない。
つい最近まで、舞踏会に着ていくドレスの一着も買えないという状況だったのだが……。
(新興貴族のエッカル男(だん)爵(しゃく)が、息子のユージーンとわたしの結婚とを引き換えに多額の援助を約束したことで、家計は上向いてきたのよね……)
エッカル男爵が提示した援助は破格のもので、お金を使うことが大好きな両親は一も二もなく飛びついたのだ。……娘のレベッカになんの相談も報告もなく。
気づけば彼女はユージーンの婚約者となっていたわけだが……まぁ、子供の結婚は親が決めるものだし、援助のおかげで生活できているのは事実だ。
ほかに好きなひともいなかったから、家が救われるならそれでいいか……と思って、レベッカも黙って婚約を受け入れたのだ。
だが、婚約者となったユージーンとの相性がよかったかどうかと言われると、自分でも渋面にならざるを得ない。
商売が軌道に乗って、各所に多額の寄付をくり返したことで新興貴族として成り上がったエッカル男爵だ。その息子のユージーンは生まれたときから贅沢と散財に慣れており、女性を顎(あご)で使うことも、奉仕させることも当然のように行っていた。
だから、はじめての顔合わせのとき、ユージーンがレベッカに茶を入れさせようとしたり、自分の言うことはなんでも聞いて当たり前、という態度を取ってきたことに彼女は違和感しか覚えなかった。
反論すると「貧乏人のくせに生意気な」とか「誇れるものは爵位しかないくせに」などと言われる上、その後もブツブツと文句をささやき続けられるので辟(へき)易(えき)したが……。
(とはいえ、そこはわたしも『親の金で遊び暮らしているくせに』とか『おつむの足りない坊っちゃんめ』とか思っていたから、それなりに相(そう)殺(さい)できるとして)
レベッカを婚約者ではなく、遊び女のように扱おうとしたことは断じて許せなかった。
『どうせ結婚するんだからいいだろう?』
という文句で寝台に誘われたことは一度や二度ではない。
レベッカはそのたびに『結婚前に不謹慎です』と断り、ときに『婚約者として節度を守ってください』とお願いすることもあった。
そのたびにユージーンは不機嫌になり、自分を尊重していないだの感謝の気持ちが足りないだのとわめいてきた。
なんと言われても、レベッカは貞操だけは頑として譲らないという姿勢を貫いた。貴族令嬢として当たり前のことだと思ったからである。
(——ま、それがユージーンにとっては不満の種だったんでしょうけど)
だからといって、王室主催の舞踏会という権威ある催しの最中、婚約者を会場に放ってほかの女と仲良くやっているというのはよろしくない。社会的な基準で言えば、完全にアウトだ。
婚約破棄には充分すぎる事(じ)由(ゆう)だろう。援助してくれたことは心から感謝しているが、だからといって、なにをやってもいいわけではない。横暴に耐えないといけないとはならないはずだ。
……しかし、男爵家からの援助で贅沢を覚えた両親にとっては、この程度のことは些(さ)末(まつ)すぎるものらしい。
それどころか、女遊びごときで婚約破棄を言い出した娘のほうがおかしいと言わんばかりに、レベッカにくどくどと説教を続けていった。
「男はむしろ浮気して一人前くらいに思っていなければ、貴族の奥方など務まらんぞ。愛人を囲うことなどよくあることだ。それを婚約の段階でピーピー言うなど、器が小さいと言われてもしかたがないぞ」
「お父様のおっしゃるとおりよ。とにかく、すぐに男爵家に行ってお詫びをしてきなさい。向こうから婚約破棄だと言ってきたらどうなると思っているの!」
「わたしにとっては渡りに船ですが」
しれっと答えるレベッカに対し、両親は「馬鹿なことを言うんじゃない!」とテーブルを叩いて怒りを露わにした。
「だいたい本当に婚約破棄になんてなってみろ。一度ケチのついた娘をもらってくれる物好きなど、そうはいないのだぞ!? これを逃せば安泰になるはずの将来も逃すことになる。そんなことに耐えられると思うか!?」
(耐えられないのはお父様たちだけでしょ?)
こちらは女遊びの激しい金持ちのボンボンに苦労させられる未来しか見えないのだ。婚約破棄できなかった未来のほうが、どちらかと言えばお先真っ暗である。
「とにかく、わたしから謝るなんて絶対にいやです。お父様もお母様も男爵家からの援助ありきの暮らしではなく、ご自分の身の丈に合った暮らしをすることに注力なさいませ。収入がないわけじゃないんですから」
「なにを言う! 領地からの上がりだけで、どうやって贅沢しろと言うんだ!」
——そもそも贅沢をするなと声を大にして訴えたい。
いや……訴えるだけならもう何年も前からやっている。家計を管理する執事が毎月がっくりと肩を落としているのを見て以来、レベッカも家の収支には目を通し、両親が散財していたときには「控えてください」と注意し続けてきた。
執事や家政婦長と連携して、とにかく節約に励み、ほかに削れるところはないか……とやりくりに必死になってきたのである。
しかしレベッカたちがどんなにがんばっても、少しでも浮いたお金があれば両親はパーッと使ってしまう。
その結果、この現状があるわけだ。レベッカは徒労感のあまり、がっくりと肩を落とした。
(ああ、もうお父様たちの顔も見たくなくなってきたわ)
レベッカは無言のまま立ち上がり、家族の居間を出ていこうとした。
「——あ、レベッカ。どこへ行くつもりなの? 男爵家に謝りに行くんでしょうね?」
「そんなわけないでしょう。建設的な話し合いができないなら時間の無駄なので、お二人と少々距離を取ろうと思います」
「まあ! 勝手なことを言うんじゃありません! 早く男爵家に謝罪に……こら、レベッカ!」
父も母もあわてて追いかけてこようとした。
だが、男爵家からの援助で買った宝石を首にも腕にもじゃらじゃらつけているだけに、すばやく動くことができない。
対するレベッカは飾り気のないシンプルなデイ・ドレス姿で、宝飾品もべっ甲の髪飾りを一つつけているだけだ。身軽さは比べられるものではなく、彼女はさっさと屋敷の玄関へ歩いて行った。
「——おや、お嬢様、お散歩ですか?」
ちょうど通りがかった執事が声をかけてくる。レベッカは「ええ」とうなずいた。
「ちょっと頭を冷やしてくるわ。お父様たちと話していると煮え上がりそうで……」
「ああ……お察しいたします」
執事は悲しげな顔をしつつ、頭を下げてレベッカを見送った。
外に出ると、初夏にさしかかる日差しが全身を容(よう)赦(しゃ)なく貫いてくる。
(思った以上に日差しがきつかったわ。帽子を被ってくればよかった)
取りに戻ろうかと思ったが、そこで両親とはち合わせてもおもしろくない。レベッカはしかたなく歩き出すことにした。
「はぁ、まったく……。お父様たちの散財好き、本当にどうにかならないかしら」
婚約破棄は絶対に叶えるつもりでいるが、男爵家からの援助が途絶えるのは確かに大きな痛手なのだ。
援助がはじまった三ヶ月前から家計も少しは潤いはじめて、生活は格段に楽になった。
とはいえあまったお金は両親が使ってしまうので、レベッカや執事たちはあいかわらず質素倹約を続けているのだが。
(それでも明日の食事に事欠かなくなっただけ、ありがたかったのよねぇ……。それがなくなるとなると……。うーん……)
……考えるだけで頭が痛い。
「でも、あんな浮気野郎と結婚するなんて絶対にいやだもの。なにか別の金策を考えるしかないわ。いっそ、わたしが働きに出るとか……?」
貴族の令嬢ができる仕事となると……裕福な家の子の家庭教師とか? 二十歳を過ぎていれば、若い令嬢の介添え(シヤペロン)あたりにもなれそうなものだが。しかし、その給金だけでまかなえるだろうか……。
そんなことを考えながら、ひたすら歩いていたときだ。脇を通り過ぎていった馬車がすぐうしろで急停車する気配がした。
同時に「待ちたまえ!」という気取った声が聞こえてくる。
振り返ったレベッカは、思わず「げっ」と声を漏らしていた。
「レベッカ! 散歩に出ていたのか。すれ違わなくてよかった。今、君のところに行こうとしていたところだよ」
馬車から降りてきたのは軽薄浮気男……もとい、婚約者のユージーンだった。なぜだか一抱えもある花束を手にしている。
彼は挨拶もそこそこにレベッカに花束を押しつけると、なにやらべらべらと語り出した。
「昨日は舞踏会の会場に一人にしてしまってすまなかったね! せっかく僕を探しにきてくれたのにすぐに対応できなくて申し訳なかった。これはそのお詫びの花束だ。馬車の中にはほかにも贈り物を山ほど用意しているよ! これだけあれば君も機嫌を直してくれるよね? ね?」
「……はあ?」
レベッカは思わず地を這うような声を漏らしてしまった。
「ひっ……、や、やだなぁ。そんな怖い顔をしないで。……まさか昨日見たアレを怒っているんじゃないよね? あーんなの一時の火遊びに決まっているじゃないか! 伯爵令嬢たる君のことだ、未来の夫のそういう困ったところも、もちろん寛大に許してくれるはずだよね?」
「……」
(……もう『はあ?』って聞き返すことさえ馬鹿馬鹿しくなってきたわ)
どうやらユージーンは、レベッカの怒りの原因が浮気現場を見られたことではなく、会場に置き去りにされたことにあると思っているらしい。
(いや、まぁ……それも確かに原因ではあるけれど。浮気のほうを軽く見ているあたり、本当に救いようがないわね)
レベッカがなにも言わないのをいいことに、ユージーンは「僕は君だけが本命だよ」とか「やきもちを焼いたんだよね? 可愛いなぁ」などと、的外れなことをべらべらとしゃべり続けている。
「『本命』ねぇ……そのわりに大切にしてもらった記憶もないけど」
思わず腕組みしながらつぶやくと、ユージーンは意外なことを聞いたとでも言いたげな顔をした。
「え? だって君は強いひとだし、僕がそばについていなくても全然平気でしょ? だから僕は安心して君のもとを離れて好きにできる。それが、君といることのなによりの魅力なんだ!」
「……」
それのどこが魅力なんだと怒鳴ってやりたい。……いや、ユージーンとしては手のかからない相手が婚約者で、遊びまくれるから最高だということだろうが。
(結局、自分が自由にできるからいいというだけで、わたしのここが好きというところは別にない、というわけね)
なんとなくわかっていたことではあるが、改めて認識するとより腹立たしい。
(薄っぺらいことしか言わないその口を今すぐふさいでやりたいわ)
と、物騒な内容を大真面目に考えはじめたときだ。
また違う馬車が道を通りがかり、二人の近くでぴたりと止まった。
前から降りてきた御(ぎょ)者(しゃ)が馬車の扉を開けると同時に、中から穏やかな声が聞こえてくる。
「——やぁ、お取り込み中だろうか」
杖(つえ)を手にゆったりと降りてきたのは、自分たちより十歳くらい年上に見える品のいい紳士だった。
いきなり割って入ってこられたせいか、ユージーンはぎょっとした面持ちで紳士をじろじろと眺め回しはじめる。どうやら知り合いではないらしい。
レベッカも彼のことは知らなかったので、ひとまず軽く膝を折って挨拶した。
「ごきげんよう。いいえ、大丈夫です。なにかご用でしょうか?」
「ええ、お嬢さん、今こちらをお届けに上がるところでした」
紳士が懐から取り出したのは、薄ピンク色の小物入れ(レティキュール)だった。
「——あっ! これ、わたしの……」
レベッカはびっくりして小物入れ(レティキュール)を受け取る。
貝殻の形をしたこれは祖母の形見で、レベッカが持つ唯一の小物入れ(レティキュール)だった。昨日の王宮舞踏会にも持参していったものだ。
中身を開けると、ハンカチや香水瓶などがそのままきちんと入っていた。
(きっとユージーンの浮気現場を見つけたときに落としたんだわ。その前に化粧室に寄ったときには、きちんと持っていたもの)
ショックのあまり落としたことにすら気づかず帰ってきてしまったのだろう。
大切なものなのに今の今まですっかり忘れていた。
(それだけ……ユージーンとアデライトの現場を見たのがショックだったのかしらね)
わたしったら意外と感傷的なところがあったのね……と心のどこかで冷静に思いながら、彼女は小物入れ(レティキュール)を胸元で握りしめた。
「ありがとうございます。お気に入りだったので助かりました」
「いいえ。拾った時点でお渡しできればよかったのですが、なにやら急ぎの様子で手を振り払われてしまったので」
「あ……」
そういえば、広間に戻る前に誰かに声をかけられたような気がする。
「あなただったのですね……。すみません、あのときは頭に血が上っておりまして。大変失礼いたしました」
「いいえ。こうして届けることができましたから、よかったです。それに、わたしこそお詫びしないといけません。あなたのお名前がわからなかったもので、手がかりになるものはないかと中身を改めさせていただいたのです。ハンカチに刺(し)繍(しゅう)があったので助かりましたが……若い女性の持ち物を探るような真似をして本当に申し訳なかった」
「あ、いいえ。謝らないでくださいませ。そのおかげで、こうして届けていただけましたし」
「そう言っていただけると助かります」
山(やま)高(たか)帽(ぼう)の陰で紳士がほほ笑む。大人の余裕を感じられる鷹(おう)揚(よう)な笑みに、レベッカは大きな安心感を覚えることができた。
が、端で見ていたユージーンにとっては気に入らない光景だったらしい。彼は不機嫌な面持ちを隠すことなく、紳士の前にずいっと立ちはだかった。
「用が済んだのなら下がっていただきたい。今、彼女は僕と話している最中だったので」
「ちょっと、そんな言い方——」
せっかく親切にしてくれたのにとレベッカは眉をつり上げるが、紳士は気にした様子なくユージーンに目を向けた。
「それは失礼を。ところで君は……?」
「なっ、僕を知らないだと? エッカル男爵家のユージーンと言えば、社交界でも今やすっかり有名人だというのに!」
(……有名なのはどちらかと言えば、一代で成り上がった父親の男爵のほうよ)
息子のあなたはおまけよ、おまけ、とつい胸中でつぶやいてしまう。
だが紳士はやはりゆったり構えたまま「そうでしたか」とうなずいた。
「失礼、あまり社交会に出ないもので、流行や話題に疎(うと)いのです。で、ユージーン君、君はこのご令嬢とどういった関係で?」
「はあっ? それも知らないのか? 僕は彼女の婚約者だ!」
ユージーンが堂々と答える。なにを当たり前なという態度にカチンときて、レベッカはつい声を張り上げた。
「昨日、婚約破棄だと言ったのが聞こえなかったの? あなたのような浮気症で軽薄で年上の方への礼儀もなっていないような方と、結婚なんて絶対にしないわ!」
「んなっ……! ま、まさか、昨日の言葉は本気だったというのか? やきもちにしてはちょっと度が過ぎるぞ、レベッカ!」
「やきもちなわけないでしょ、この不誠実男! わたしがなにに怒っているかもわからないようなひとと結婚したところで幸せになれるわけもない。宣言どおり、この婚約は破棄させていただきますから!」
「そ、そそ、そんなことをしたら、僕の家から君の家への援助は即刻、打ち切ることになるぞ……!」
「そういう、お金をちらつかせて脅すやり方も最低ね! もともとあなたとは合わなかったのよ。お互い不幸になる前に、さっさと婚約なんて破棄しましょう、破棄!」
「そ、そんな……パパに怒られちゃう……っ」
……この期(ご)に及んで『パパ』ときたかと、レベッカは脱力しそうになる。
(そういえばエッカル男爵は、財産はないけど歴史はあるイアーズ伯爵家と姻(いん)戚(せき)関係になりたくて、子供同士の結婚を持ちかけたんだったっけ)
格式ある家と付き合うことで、商売に箔(はく)をつけたいとかなんとか……。
(親も親なら子も子だわというか、なんというか……)
思わず頭を抱えたくなるレベッカだ。
が、言い争う二人をのんびり眺めていた紳士が、不意に「それはよかった」と一つうなずいた。
「え? よかったって?」
目をぱちくりさせるレベッカに、紳士は優しくほほ笑みかけた。
「実はあなたの家に行こうとしていたのは、その小物入れ(レティキュール)を届けるだけではなく、あなたに求婚しようと思っていたからなのですよ、お嬢さん。——いえ、レベッカ嬢」
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