書籍詳細
俺を好きだと言ってくれ 不器用御曹司の求愛はわかりにくい
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/05/26 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章
1
「ねえ、聞いたっ? 橋(はし)下(もと)さん」
休憩室に飛び込むように入ってきた先輩社員の山(やま)口(ぐち)美(み)由(ゆ)紀(き)に尋ねられ、ふみは不動産鑑定士試験の教材から顔を上げた。昼食の弁当はすでに食べ終わっている。
「なにをですか」
時刻は、午後十二時五十分。
もうすぐ、昼休みが終わろうとしている。
「宮(みや)間(ま)副社長が、午後から視察に来るんだって!」
「……はあ」
「はあって」
反応の薄いふみに、美由紀はもどかしそうだ。
しかしふみに言わせれば、社長が視察に来るかもしれないと言われたときだって、美由紀はもっと落ち着いていた。それなのに副社長なら大騒ぎするというのはどういうわけだと、不思議でならない。
「——やばい、やばいって」
今度は午後一時から昼休みに入るはずの園(その)田(だ)ひかるが、化粧ポーチを手に、早足で休憩室に入ってきた。
丸顔でショートカットのひかるは、見るからに活発そうだ。緩いウェーブのかかった明るめの髪を肩の下まで伸ばしている美由紀とは、タイプが違うようで、案外仲がいい。ちなみにふみは三人のなかで一番地味な顔立ちで、髪型は肩までのストレートの黒髪だ。
三人は、中堅デベロッパーである宮間不動産が現在建設中の新築マンション、インプレス桜が丘のモデルルームに勤めている。モデルルームは現地から二十メートルほど離れているが、大きな公園に面していて、緑の多い環境はここからでも来客にわかってもらえる。
「化粧直さなくちゃ」
「そうだった、私も」
ふたりは真剣な顔で鏡を覗(のぞ)き込んだ。
ただごとではない雰囲気のふたりに、ふみは首を傾(かし)げた。
「副社長って、そんなにすごいひとなんですか? たしか、社長の息子さんでしたっけ」
大学を出て新卒で宮間不動産に入社して五年になるふたりとは違い、高卒のふみはフリーターを二年したあと、派遣社員を経て契約社員としてこの会社に入った。そこから正社員になって、一年とちょっと経ったところだ。
ずっとモデルルーム課にいるので、課内の社員たちのことはさすがに知っているけれど、会社の上層部のひとたちのことはよく知らないし、さして興味もなかった。
「すごいひとっていうか、すごいイケメンっていうか」
美由紀が言った。
「あ、すごいって、そういう」
ふみは納得した。
「いや、仕事もすごいひとなんだけどね。この『インプレス桜が丘』を企画したのも副社長だし」
ひかるが慌てたように付け足す。
「そうだったんですか」
「ただ、バツイチなんだよなあ」
と、美由紀は残念そうだ。
「なに、いいじゃない、バツイチ。完璧すぎない感じが」
「たしかに。付け入る隙がありそうな気にはなるよね」
化粧を直しながら盛り上がるふたりを尻目に、ふみは教材と弁当箱を鞄(かばん)にしまい、ロッカーに入れた。
そろそろ昼休みが終わる時間だ。
化粧直しは、弁当を食べ終わったときに軽くしたので、それでよしとする。
少しして、モデルルームの入り口から、男性たちの談笑する声が聞こえてきた。
三人いっぺんに休憩に入っていたと思われてはまずいので、急いで休憩室を出る。ひかると美由紀もそれに続いた。
「いらっしゃいませ」
ひかると美由紀が声を合わせて言い、お辞儀をした。ついさっきまで休憩室で大騒ぎしていたとは思われない、美しいお辞儀だ。
入ってきた男性は、三人いた。
ひとりは見慣れた、モデルルーム課の吉(よし)川(かわ)課長。四十代の恰幅のいい男性だ。
吉川課長の他には、知らない男性がふたり立っていた。
どちらが宮間副社長なのかは、ひかると美由紀の熱視線、そして外見ですぐにわかった。
なるほど。これは、かっこいい。
キャーキャー言われるのも無理はない。
まず身長が高い。恐らく百八十センチはある。顔立ちはモデルか俳優のように整っていて、口元には人当たりのよさそうな笑みが浮かんでいる。
副社長というからには、四十代の吉川課長と同じかそれ以上の年齢だと勝手に想像していたが、思っていたよりずっと若い。二十四の自分と、せいぜい五、六歳しか離れていないのではないだろうか。
男の人にこういう表現が適切かはわからないが、ハッとするほど綺麗なひとだ。薄いブルーの宝石のようだけれど、内部に小さな傷がありそうな。バツイチだと聞いていたから、そんなふうに思うのだろうか。
「急にすまないね」
顔の作りがいいと、声もいいらしい。優しいテノールが、胸に沁(し)みるようだ。
「近くまで来たものだから、わが社が誇る営業社員の顔を見ていこうかと思って」
宮間副社長がニコッと笑った。その顔が完璧すぎて、ちょっとだけうさんくさく見える。
「橋下さん、前へ」
吉川課長に促されて、一歩前に出る。
え、という感じで、宮間副社長の目が見開かれたのがわかった。
完璧な笑顔にピシッとひびが入ったのを、内心痛快に思う。
「きみが、先月のマンション新規成約数全国ナンバーワンの、あの橋下ふみさん?」
たしかにその橋下ふみさんなので、「はい」と返事をした。
「そ、そうか」
露骨に驚かれてしまったが、べつに気を悪くしたりはしない。
自分は美由紀みたいなパッと華やかな美人でもないし、ひかるのように体育会系のはつらつとした感じもない。ここでは一番地味で愛想もない自分がトップ営業社員だと聞けば、驚くのが普通だ。
「……きみが、お客さまに接するとき、大切にしていることは?」
「お客さまのことを一番に考えることです」
そう答えると、なにかすごい営業哲学でも出てくると思ったのだろうか。拍子抜けしたような顔をされた。
「普通だな」
「普通です」
「今度、全国の優秀な営業部員が集まる場で、前に立って話をしてもらおうと思ってたんだけど……」
「お断りします。一番になれたのは、物件の力がほとんどなので」
ふみはスパっと断った。
たいして頭もよくなければ、卓越したトーク力があるわけでもない自分には、普通の接客しかできない。四月はたまたま調子がよかったが、必ず成約してもらえる魔法があるなら、こっちが教えてもらいたいくらいだ。
「ちょっ、橋下さん……」
ひかると美由紀が、ハラハラした様子でこちらを見ている。吉川課長も、気が気じゃなさそうだ。
しかし宮間副社長は、顎に指を当て、おもしろそうに口角を上げている。
「——オコトワリシマス、か」
「失礼でしたか」
もしや、拒否権はなかったのだろうか。
いまさらながら、少々心配になる。
「いや、いい」
宮間副社長が、歩を進め、ふみの目の前に立った。二十センチ以上身長差があるため、ふみはかなり見上げる感じになる。
好奇心いっぱいの少年のような瞳が、ふみを見下ろしてくる。
目力が強い。
思わず目を逸(そ)らしてしまいそうになったが、耐えた。
「——副社長、そろそろお時間が」
部下らしき男性が、遠慮がちに声を掛けてきた。
宮間副社長は残念そうに肩をすくめた。
「また来る」
「はあ……」
帰るぞ、と部下の男性に声を掛けて、宮間副社長は去って行った。
ふみ以外の三人が、どっと疲れたように姿勢を崩した。
「橋下さんさあ……お断りします、はないよ……」
ひかるはまるで自分が失言してしまったかのような顔をしている。
「いや、だって、私がそんな、講演会の講師みたいなまねできるわけないじゃないですか」
「わかるけど、せめて日を置いて熟考したふうにして、メールで返すとかさ」
美由紀の意見もピンとこない。
「それ時間の無駄ですよね?」
「合理的なのは、橋下さんの長所ではあるんだけどなぁ……」
吉川課長が、遠い目をしている。
「それにしても、えげつないほどイケメンだったね」
美由紀が言うと、ひかるが何度も頭を縦に振った。
「あそこまでだと、逆にモテないんじゃないかって気がしてきた」
「わかる。自分の顔面と偏差値違いすぎて、隣に立つのつらい。ねえ橋下さん、至近距離で向き合うのつらくなかった?」
「つらくはありませんでしたけど、目力すごいなって思いました。あと、意外と気さくなひとでしたね」
「気さく……うん、まあ、そうだね」
それからすぐにお客さまが続けて来たため、このときのことはうやむやに終わった。
2
「また来る」という言葉の通り、宮間副社長はまた来た。今度はひとりで。
翌日に。
五月の半ばで、業界的に繁忙期ではないとはいえ、副社長という立場のひとが二日連続で自分のようないち営業社員に会いに来るなんて、ふみもびっくりだ。
しかしフラッと来られても、当然ながらお客さま優先なので、相手をする時間があるとは限らない。
その日は、結婚を控えたカップルがテンション高くやってきたため、モデルルーム内を案内し、住宅ローンのシミュレーションも作成した。宮間副社長は、ふみが接客する様子をただ見ていた。
翌々日にも、宮間副社長はやってきた。
今度はふみの昼休みに合わせたらしく、十二時ちょっと前に。
十二時半まで落ち着いた熟年夫婦の接客をしたあとランチに誘われたので、弁当があるからと断ったら、すぐそこのコンビニでおにぎりを買ってこられた。
休憩室で、副社長と向かい合って、昼食を摂る。
これはいったい、なんの罰ゲームだろうと、ふみは思う。
一緒に昼休みを取るはずのひかるは、チラチラとドアの向こうからこちらの様子を窺うばかりで、入ってこようとしない。
弁当箱の隣に、いつものように不動産鑑定士試験のテキストを置いてはみたが、さすがに勉強する気にはなれなかった。
「いやあ、コンビニのおにぎりなんて久しぶりに食べるよ」
宮間副社長は楽しそうだ。
ぺりぺり、というおにぎりのビニールをめくる音が、これほど似合わないひともそうはいないだろう。
ふみ自身は着るものにお金をかけるタイプではないが、営業という仕事柄、相手の着ているものの価格帯はだいたいわかる。高い服を着ているからお金持ち、安い服を着ているから貧乏だと単純に言えるものではないことも知っている。
そして宮間副社長は間違いなく、高い服を着ているお金持ちだ。
「そうですか……」
ふみは弁当箱のふたを開けた。
手の込んだおかずが詰まっているのを見て、宮間副社長が驚いた顔をする。
「弁当、すごい美(う)味(ま)そうだね。料亭の仕出しみたいだ」
「昨日の残り物です」
嘘ではなかった。
根菜の炊き合わせも、ほうれん草の胡麻(ごま)和(あ)えも、白身の西(さい)京(きょう)焼(や)きだって、昨晩の残り物だ。
「……本当に、めちゃくちゃ美味い」
炊き合わせの里芋を摘(つま)んで口に放り込んだ宮間副社長が、うんうん頷(うなず)いている。
「食べていいって言ってませんが!?」
気さくを通り越して、これはなかなかの図々しさだ。
お金に余裕がある家で育ったひとのおおらかさを感じる。
きっとこのひとは、他人のおかずに手を出そうものなら流血沙汰になるような世界があるなんて、考えたこともないのだろう。
そして、このくらいのことならすべての女性は自分のことを許すと信じ切っている傲慢さを、かすかに感じる。
これだけのかっこよさだ、周囲の女性たちに甘やかされてきたに違いない。
「橋下さん、店が出せるよ、これ」
当たり前だろうと思いながら、ふみはこれ以上おかずを取られないよう、テキストで弁当箱をガードした。
「それ、論文式のテキストだね。短答式の一次はもう受かったの?」
ふみは頷いた。
「たぶんですが」
「あ、合格発表まだか」
ご飯が口に入っていたので、黙って頷く。西京焼きの漬け加減はちょうどよく、ご飯が進む。
「さっき、重要事項の説明してたね。宅地建物取引士は、もう持ってるんだ?」
「はい」
三十五条書面とも呼ばれる重要事項説明書を交付して、マンションを買おうとしている相手にその物件の情報を説明するのは、宅地建物取引士にしかできない。
ひかると美由紀はまだ資格を持っていないため、彼女たちが契約を取った場合には、重要事項の説明だけふみが代わって行うことになる。
「他にもなにか資格を?」
「ファイナンシャルプランナー二級を持ってます」
「お、やるな」
「不動産鑑定士が取れたら、次は司法書士を取りたいです」
「勉強熱心だね」
いままさにふみの勉強を妨害しておいて、感心したように言う。
「お客さまの質問に答えられないことがないようにと思って……マンションは、だいたいのお客さまにとって、人生で一番高価な買い物ですから」
そう言った気持ちに嘘はないが、宮間不動産をクビになったり、倒産したりしても食べていけるようにというのが本当は一番大きな理由だった。それに、たとえずっといたとしても、資格手当が出て給料が増えるのは大きい。
「昨日、今日と仕事ぶりを見学して、なぜ橋下さんがうちのトップセールスマンになれたのか、なんとなくわかった気がしたよ」
宮間副社長は鮭のおにぎりを、がぶりと三分の一くらい一気に食べた。大きな口だなと思いながら、ふみはチマチマと昆布巻きにかじりつく。
「物件や金融に対する豊富な知識、押しつけがましくない営業スタイル、それでいて次回の約束を必ず取り付けること」
「……どれも普通のことです」
「そう、普通のことだ。でもその普通ができている社員が、いったいどれだけいるか」
嘆かわしい、という感じで、宮間副社長が両手を天に向けた。
「極力残業をしていないのもいいね。メリハリのある働き方には好感が持てる」
「ありがとうございます」
残業をしないのは、就業時間のあとに予定が詰まっているからなので、ちょっとだけ後ろめたい。
気がつけば、宮間副社長はコンビニのおにぎりをすべて食べ終わっていた。
長い脚を優雅に組んで、ふみがお弁当を食べているのを眺めている。
ふみは居心地の悪さを感じた。
用はもう済んだと思うのだが、なぜ帰らないのだろう。
ひかるは休憩室に入ってこない。もうドアの隙間から覗いてもこないところをみると、外へ食べに行ってしまったようだ。
「橋下さんさあ……」
「はい」
「俺のこと、嫌いでしょ」
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