書籍詳細
私を愛してくれたのは、ひたむきな魔公爵様でした
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/06/30 |
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内容紹介
立ち読み
【序章:虐げられた者】
目の前で、ずっと空の食器を子ネズミが突いている。
マリカは壁にもたれかかり、棒きれみたいな二の足を投げ出しながら、ぼんやりとその様子を眺めていた。
もう視線を動かすことすら億劫(おっくう)だった。
——死……にた……い。
願うのは、永久の安楽。
痛みも苦しみもない世界へ行きたい。
地獄があるのなら、ここがそうなのだ。
四肢を拘束する枷(かせ)が重たく感じられるようになったのは、いつからだろう。動かすたびにじゃらじゃらと鳴る不快な音が嫌いになったのは——。
始まりが分からない。
自分がどれくらいの時間、閉じ込められているのかも、薄汚れたドレスも、手入れをしなくなった髪も、今はどうでもよかった。
(も……う、いらない……もの)
マリカの命を刈り取らんとする者たちの足音が聞こえてきた。
しばらく来訪がなかったから、やっと死ねるのかと思っていたのに。
(まだ求めるの——)
人の皮を被った化け物は、手にしたナイフでマリカの皮膚を切り裂き、血を奪っていく。最低限の衛生は保たれている薄暗い地下牢(ろう)に閉じ込められていると、どんどん記憶が零(こぼ)れ落ちていく。
残っているのは、かつて自分は、マリカ・モルニエと呼ばれていた子爵(ししゃく)令嬢だったということくらい。
家族も、帰る家もあった……はずなのに、今はみんなの顔すら思い出せない。
(……全部どうでも、いい……)
だって、自分には生きる価値すらない。
「あ……あぁ——ッ!」
誰か……助けて。
私を死へと導いて。
マリカはありったけの声を張り上げた。驚いた子ネズミが、慌てて巣穴の壁へと逃げ込む。
咆哮(ほうこう)とも雄叫(おたけ)びとも呼べる、到底人間が出す声とは思えない本能に突き動かされた音が薄暗い地下牢に木霊(こだま)する。
(血を……奪いに来る)
滴(したた)る鮮血を見て、男は下膨れした防護面の奥で笑うのだ。まるで至宝を目にしたような恍惚(こうこつ)としたくぐもった笑い声は、ただただ恐怖だった。
(私が化け物だから……っ)
人の皮を被った化け物は、マリカこそが「化け物」だと言った。
この身に宿す魔力が、人を魅了し、死に至らしめる。
この世でただ一人しかいない、おぞましい生き物なのだと。
そう笑いながら、マリカを切り刻み続けた。
ときには観客を呼び、目の前で残虐な光景を披露させた。人が死んでいく様子を、防護面をつけた彼らは熱っぽいまなざしで見ていた。
まるで最高の見世物を見ているかのように。
白目をむき、泡を噴いて苦しみ悶(もだ)えながら死んでいく者たち。死をもたらしているのがマリカ自身であるという抗(あらが)いようのない現実は、どうしようもなく怖かった。
『いやぁぁ——っ、もうやめて!!』
マリカが悲痛な声で嘆くほど、男は喜悦(きえつ)を浮かべた。
それが、唯一マリカの持つ魔力を発現させる術だからだ。
毒香(どくこう)。
男は、マリカの魔力をそう呼んだ。
マリカが恐怖を感じたときに出す強烈な刺激臭は、魔力が具現化したものだ。
かつて、存在していた魔族だけが放つ香りだというそれを、どうして自分が発することができるのだろう。なぜ人間であるはずなのに魔力を有しているのか、自分は何者であるかすらもあやふやになってしまったマリカにとって、目にするもの、聞き知るものすべてが恐ろしく、不安をかき立てた。
数分で命を落とすほどの猛毒を体内で作り出すようになったのは、いつの頃からなのか。
(何も思い出せない——)
男は、自分のおかげで、マリカが生きながらえているのだとも言った。
何のために?
誰が生かしてくれと乞(こ)うた?
毒を吐くしかできない化け物など、生きていたって仕方がない。
男がマリカの血をどうしているのかなど知りたくもなかった。
(もう誰も殺したく、ない——)
だから、マリカは心を凍らし、死を望むようになった。
何も感じなければ、毒香は現れない。
自分が死ねば、誰も死なずにすむ。
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