書籍詳細
交際0日初恋婚
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/06/30 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 結婚相手は苦手な男と猫一匹
悪魔の顔ってどんなものだろう。
子供の頃、よくこんな夢を見た。
真っ暗な場所を、誰かと手をつないで走っている。
走っても走っても、その暗闇には終わりがない。ただ背後から、まがまがしい足音がずっと追い掛けてくる。
それは悪魔だ。
振り返ったことがないから、それがどんな顔をしているのかは分からない。
でも、悪魔だ。どうしてだか分からないが、悪魔に追い掛けられている。
と、突然目の前に夜空が現れる。宝石のような星。燦(さん)然(ぜん)と輝く満月。さあっと吹いてくる風。怖いのに気持ちだけが研ぎ澄まされて、この世でできないことなど何ひとつないような、ひどく不思議な高揚感に満たされる。
足元には何もないけど、きっと上手に飛び越えられる。
「大丈夫」
私は、手をつないでいる誰かに声をかける。
「大丈夫、絶対に私が助けてあげるから」
そこで世界はいつも終わる。
後は——そこから後は——
「……子、凛子(りんこ)、返事をしなさい!」
はっと間宮(まみや)凛子は目を見張った。
あれ、ここどこ? 私、今、何やってた?
『凛子っ、あんた起きてるの? 寝てるの? 何やってんの?』
明け方の青い闇。矢継ぎ早に聞こえる声。耳から……いや、手にしているスマホから。
数度瞬(まばた)きした凛子は、がばっと跳ね起きてスマホを耳に当て直した。
「お母さん?」
『ようやく起きたの? 眠ったまま電話に出るなんてすごい特技ね』
スマホのスピーカーから、呆(あき)れたような母親の声がする。
多分それは本当のことだ。着信音の鳴るスマホを半分寝たまま取り上げて、その状態でタップして耳に当てた。学生の頃から「真面目すぎ」とよく言われるが、こういうところがそうなのだろう。
「こ、こんな早くにどうしたの?」
今も凛子は、母と話す時の癖で、慌ててベッドの上で正座している。
『明日のことよ。あんたの恋人と、ほら、一緒に食事に行く約束』
そうか——今日はもう金曜日。約束の食事会は明日だったか。
『悪いけど、あんたに恋人ができたなんて、どうしても信じられなくて。新幹線の切符を買う前に、再確認しておこうと思ってね』
「ほ、本当だから安心して。それに今度は、お母さんの気に入る人だと思う」
『どうなんでしょうね』
鼻で笑うような声は、たとえどんな男でも私は認めませんよと言っているようだ。
「都内で会社をやってるの。名前は佐々木(ささき)さん。年収は一千万で、すごく真面目な人」
『へぇ』
「多分、私より真面目な人。明日会った時に話すけど、私と価値観がぴったりなの」
『そりゃ随分変わった男ね。あんた、騙(だま)されてるんじゃないの?』
母の言葉はにべもない。多分、今度も反対されると凛子は思った。
この人はどこまでいっても、自分の決めた男と娘を結婚させたいのだ。
『そんなことより、送った見合い写真はちゃんと見たの?』
「……うん、見た」
『悪いことは言わないから、私の決めた人にしときなさい。あんたが一人で決めたことで、今まで上手くいったこと、ひとつでもあった?』
「……仕事は上手くいってるよ」
嘘(うそ)をつく時のいつもの癖で、言い始めに一秒の間が空いている。
『どうせ失敗して痛い目に遭うわよ。これまでだって、ずっとそうだったじゃないの』
うつむいた凛子は、右膝の辺りを手で撫(な)でた。
十歳の時に大怪我(けが)をした足には、ひどく醜い傷痕がまだ生々しく残っている。
そのせいで、中学校まで足に補助具を着けていたし、ずっと母に送り迎えをしてもらっていた。車の中で延々と繰り返された言葉は、今でも耳に残っている。
本当に情けない。なんて馬鹿な子なんだろう。だから私は反対したのよ。
とどめの一言は、全部、あんたのせいだから。
それらは今でも母の口癖で、聞いただけで自分の何かが萎縮する。
久しぶりに見た『悪魔』の夢と、怪我の因果関係は不明だが、怪我をした時の恐怖や不安が、そんな夢を見させるんだということはなんとなく分かっている。
「と、とにかく会えば分かるから、明日、東京駅まで迎えに行くね」
それでようやく通話を切ると、今度はスマホがけたたましく鳴り響いた。
六時にセットしたアラームだ。一息ついていた凛子は、心臓が止まるほど驚いている。 金曜なのに目覚めは最悪。——その上、もっと最悪な一日が今日も始まる。
◇
「おはよっ、凛子ちゃん。今日もいい尻してるね」
ぞぞっと鳥肌が立つのを感じながら、凛子は素早く身をかわした。
行き場を失った男の手が、すかっと虚(むな)しく空を切る。最低のセクハラ。未(いま)だ一度も触られていないのは、もはや奇跡と言っていい。
工事用フェンスの中。組み上げられた鉄骨の上からは重機と工具の音が響いている。
ここは、東京郊外にある分譲マンションの建設現場だ。凛子が、二ヶ月前から出向を命じられている場所である。
「いい加減にしてください。それはセクハラだし、犯罪行為だって言いましたよね」
「可愛(かわい)くねぇなぁ。こんなの朝の挨拶じゃん。仕事に必要なスキンシップ」
凛子は胸に抱いたクリップボードを抱え直し、引きつった笑顔で後ずさった。
「可愛くなくて結構です。それに仕事は、そんなスキンシップがなくても」
そこまで言った凛子はひっと息を引いた。今度は横に立つ別の中年男が、両手を前に突き出して、胸を揉(も)むようなジェスチャーをしたからだ。
ぎゃははっと堰(せき)を切ったような笑いが、重機とフェンスに囲まれた現場に巻き起こった。
「冗談だよ、冗談。俺たちが一度でも凛子ちゃんに触ったことあったかぁ?」
「言うな言うな、凛子ちゃんは男に免疫がないんだ。クソ真面目なお嬢ちゃんだからな」
我慢、我慢、ここは我慢だと、凛子は自分に言い聞かせる。
相手は十も二十も年上の親父ばかり。自分とは生きてきた世界が違いすぎる人たちだ。
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