書籍詳細
愛していると言えたなら 御曹司は身代わりの妻に恋をする
ISBNコード | 978-4-86669-658-4 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 368ページ |
定価 | 880円(税込) |
発売日 | 2024/03/25 |
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内容紹介
人物紹介
鈴倉千景(すずくらちかげ)
家具メーカーの創業者一族で、営業として懸命に働く。隼への思いを必死に抑えて…。
佐山隼(さやましゅん)
ワーカホリックな建築会社の御曹司。元々千景の従姉妹の婚約者だったが…。
立ち読み
プロローグ
『鈴(すず)倉(くら)千(ち)景(かげ)さん。俺と結婚してくれますか?』
まるでつまらない会議の原稿を読み上げるような淡々としたプロポーズ。
目は時に言葉以上にその人の気持ちを物語る。私を見つめる佐(さ)山(やま)隼(しゅん)の瞳にはなんの感情も浮かんでいなかった。彼の中には私に対する興味は欠片もなかっただろう。
私という存在は彼にとって「駒」にすぎない。同じ姓を名乗ろうと、お飾りの妻である私は彼の人生のパートナーにはなり得ない。
それでもよかった。
私は、彼が好きだったから。心の底から好きで、好きで、たまらなかったから。
出会った時からずっと私の中には彼がいた。
初めはただ気になるだけだったのに、いつしか彼に対する想いは私の心のほとんどを占めていた。
気づいた時にはもう後戻りできないほどに、彼への恋心は成長していたのだ。
それでも、この気持ちを伝えることはしないと決めていた。
彼には婚約者がいたから。
そしてその人は、私が逆立ちしても敵わないほど魅力的な人だった。
初めからこの恋は実らないと決まっていたのだ。
何度も諦めようと思った。しかし、どうしても彼の存在は私の中から消えてくれない。
苦しかった。辛かった。切なかった。
それほどまで恋い焦がれた人からのプロポーズ。
本当はその場で泣き崩れそうだった。形式だけの空虚なプロポーズとわかっていても、「彼に求められている」ことが嬉しくてたまらなかったのだ。けれど私はそれを隠した。
そんなことをしたら彼の負担にしかならないとわかっていたから。何よりも、書類上の妻しか求めていない彼に「面倒だ」と思われたくなかったのだ。
だから私は、彼と同じように淡々と返事をした。
『はい。よろしくお願いします』
私もあなたのことはなんとも思っていないと思われるように、あえて無表情でプロポーズを受け入れた。その時の私が本当はどんな気持ちでいたか、彼が知ることはないだろう。
惨めだと思う。あさましいと、不毛な恋だとわかっている。
それでも私は彼の隣にいたかった。偶然手に入れた「妻」という立場をどうしても手放したくなかったのだ。だから私は隠すと決めた。
『好き』
その、一言を。
1
三月末日。久(く)瀬(ぜ)商事の決算月である今月は、営業はもちろん会社全体にとっても勝負の月である。その締め日である今日一日をなんとかやり終えた鈴倉千景は、六畳ほどの給湯室兼休憩室でほっと一息ついていた。
「お疲れ、鈴倉」
「古(ふる)田(た)さん」
「さっき所長から聞いたぞ。今期も同期の中で一番の売上成績だったんだって? 元指導係として鼻が高い」
ご褒美をやるよ、と自販機で買ったばかりだろうホットココアを手渡される。
「ありがとうございます。ちょうど甘いものが欲しかったので助かります」
四歳年上の古田圭(けい)人(と)は、同じ営業所で働く先輩で千景の元指導係だ。
昨年、新人の千景は彼によって営業のノウハウを徹底的に叩き込まれた。
古田自身が社内でも五本の指に入る優秀な営業マンだからだろう。よく言えば熱心、悪く言えば厳しすぎる彼の指導に千景は何度も泣かされた。当時は古田を本気で嫌いになりかけたこともあるが、社会人二年目も終わりを迎えようとしている今となっては感謝している。指導係を終えた今も、こんな風にさりげなく労(ねぎら)ってくれるのだからなおさらだ。
「疲れた時には糖分ってのは本当だよな。甘いものはあまり好きじゃないけど、今日だけはすっげえ甘いケーキが食べたい気分」
「同感です。……さすがに忙しかったですね」
「このところずっと残業続きだったもんなあ」
千景はシンクに、古田は給湯室のドアにもたれかかりながら、どちらともなくため息をつく。言葉にしなくともわかる。今、お互いの心を占めるのは「疲れた」の一言だろう。
「こんな風に仕事に疲れた時は、可愛い女の子に癒やしてほしいよ」
「可愛い女の子って、古田さん彼女いましたよね? この前、写真を見せてきて自慢してたじゃないですか。合コンで知り合ったっていう、受付嬢の」
「ああ、それなら別れた」
あっさり言い放つ姿に愕(がく)然(ぜん)とする。
「別れたって、またですか?」
「またってなんだ。失礼なやつだな」
「だって、その前の彼女とも数ヶ月で別れてましたよね。今回だってまだ三ヶ月も経ってないのに」
「色々事情があったんだよ」
女遊びもほどほどにした方がいいのでは、と喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。
古田がモテる理由はわからなくもない。厳しいところはあれど面倒見はいいし仕事もできる。
飛び抜けてイケメンというわけではないが顔立ちは整っているし、バスケ部出身ということもあり身長も高い。それでも、三ヶ月に一度恋人が変わるのはさすがにサイクルが早すぎるのではないだろうか。
(先輩としては尊敬してるけど……なんていうかチャラいのよね)
そんな心情が表情に表れていたのだろうか。
古田はわざとらしく眉根を寄せて「そういうお前はどうなんだよ」と千景に話を振る。
「私ですか? 今は仕事で手一杯ですよ」
「仕事、ねえ」
「含みのある言い方ですね?」
「いや、普段はすっかり忘れてるけど、鈴倉は正真正銘創業者一族だろ? そんな必死になって働かなくてもいいのになとふと思ってさ。実際、社長の一人娘は働いていないって言うし。何か理由でもあるわけ?」
改めて問われると難しい。それでも強いてあげるなら、
「久瀬の家具が好きだからでしょうか」
「うちの家具が?」
「はい」
幼い頃から木の温もりが好きだった。
家族団(だん)欒(らん)の時に囲むダイニングテーブル、リビングで過ごす時間をより居心地良くしてくれるソファ。絵本や漫画、小説がたくさん並ぶ本棚。小学校入学を機にプレゼントされた学習机。体の成長に合わせて大きさを変えられるナチュラルテイストのベッド—。
自宅にあるそれらは全て国産の天然木で造られていて、不思議な温かさがあった。
初めは傷一つなかったピカピカの学習机は、千景が歳を重ねるにつれて少しずつ光沢のある飴(あめ)色に変わっていった。最初はその理由がわからずにいた千景に「経年変化だよ」と教えてくれたのは、祖父の久瀬康(やす)隆(たか)だった。
『こうして形を変えて家具になっても、少しずつ時間をかけて色も変化するんだ。面白いだろう?』
祖父はそう言って、細かい傷のたくさんついた千景の机を愛おしそうにそっと撫でた。
『大量生産が可能になった今では安価で質のいい家具が簡単に手に入る。便利な世の中になったと思うし、それはけして悪いことじゃない。それでも私は工業製品ではない、こういう無(む)垢(く)材(ざい)が好きだ。使い捨ての家具ではない。その人の人生にそっと寄り添うような家具を作るのが私の仕事だからね』
普段は寡黙な祖父は、家具や仕事の話をする時だけは饒(じょう)舌(ぜつ)になった。その横顔は仕事に対する責任と自信に満ちていて、幼心にもとても格好良く見えた。それと同時に、
『人生にそっと寄り添う』
それらの言葉がとても印象的で、今振り返ればあの頃にはもう、祖父が代表取締役を務める久瀬商事で働くことを漠然と意識していたのだと思う。
久瀬商事は創業八十年を超える老舗家具メーカーである。
昭和初期に「久瀬木工所」として創業したことに端を発し、その後は家具製作事業を展開。戦後は「久瀬商事」と社名を変更し、今日では自社で製造から販売までを手掛けている。
「世代を超えて人々の生活に寄り添える家具」をコンセプトに品質にこだわった天然木を使用しているのが特徴で、かつては日本全国に事業所やショールームを展開していた。しかしそれも過去の話。質の良さは折り紙付きではあるものの、けして安くはない価格帯や近年のファストインテリア台頭の波に久瀬商事は抗えなかった。
この十年でショールームの数は最盛期の半分以下に削減した。
創業以来品(しな)川(がわ)に置いていた本社も、元々工場のあった群(ぐん)馬(ま)県(けん)高(たか)崎(さき)市(し)に移し、都内には営業所をいくつか残す形を取った。それ以外の営業所は関東を中心に絞り、ショールーム削減の穴を埋めるべくネット販売にも力を注いでいるものの、かつての隆盛からは程遠い。
あらゆる経費削減や天然木と品質の良さのこだわりに対する信頼、ネームバリューによりなんとか会社は存続しているものの、もう何年も厳しい経営状況が続いている。
就職について考えた時、久瀬商事よりも条件の良い会社はたくさんあった。けれど千景は久瀬商事に入社することを迷わなかった。そのきっかけを与えてくれた祖父は高校在学中に他界したけれど、家具に対する愛情や子供心に祖父を「格好いい」と思った気持ちは、何一つ変わらなかったから。
祖父の後を継いだ伯父に配属先の希望を聞かれた千景は、営業職を志望した。社内でも多忙で知られる営業をあえて望んだのは、既に「縁故入社」という特別切符を使っていたからだ。
母は久瀬商事の副社長、父は関連企業の役員を務めており、伯父は代表取締役。
苗字こそ父方の姓「鈴倉」であるものの、創業者一族だと隠し切れるはずがない。
とはいえ経営陣に親族がいるだけで、千景自身は特別扱いされるような存在ではない。
「久瀬」に連なる生まれというだけで上司に気を遣わせたり、遊びで働いていると思われるのは嫌だった。コネ入社だからこそ、それを理由に甘えてはいけないと思ったのだ。
そうしていざ配属されたのは、東(とう)京(きょう)東営業所。都心を営業エリアにしている、社内でも激務と知られる部署で、千景はまずルート営業担当となった。既存の取引先であるインテリアショップや家具販売店を訪問し、久瀬の家具を置いてもらうよう営業するのが主な仕事だ。
一年目は、ただただ必死だった。
接客のアルバイト経験はあったものの、実際に自分で企業を訪問して売り込むのとではわけが違う。慣れない社会人生活に加えて、なかなか目標の数字が達成できない日々に挫(くじ)けそうになったことは一度や二度ではなかった。二年目の今でこそ、それなりの営業成績をあげて仕事にやりがいを感じているものの、繁忙期には「休みたい」と後ろ向きな気持ちになる時だってある。
それでも「辞めたい」と思ったことはない。
「それに、従姉妹はともかく、私は『お嬢様』って柄でもありませんしね。社会人として働くのは自然の流れです」
肩をすくめると古田は「それもそうか」と苦笑する。
「でも、今となってはお前が入社した時のことが懐かしいよ。『社長の姪っ子が入社してくるから面倒見てやれ』って言われた時は冗談じゃないと思ったけど、いざ蓋を開けてみれば下手な男よりも根性があって驚いたのを覚えてる。見た目は大人しそうなのに意外と頑固だし、それに、失敗しても怒られても食らい付いてくるのがいい」
「なんだか今日はやけに褒めてくれますね」
嬉しさ半分照れ隠し半分で返すと、古田は「たまには飴もやらないと」と肩をすくめて笑う。
「ちなみにその従姉妹って久瀬社長の娘のことだろ? 鈴倉と似てるの?」
「私と麗(れい)華(か)ですか? 全然! 似てるなんて一度も言われたことありません。むしろ真逆かも。綺麗で、可愛くて、スタイルも抜群の正真正銘のお嬢様です」
「身内を褒めすぎじゃね?」
「事実ですから。会えばわかりますよ」
「社長の娘と会う機会なんてそうそうないだろ」
その時、「鈴倉さん!」と不意に給湯室のドアが開いた。顔を覗(のぞ)かせたのは一年後輩の多(た)原(はら)だった。多原は古田にペコっと軽く頭を下げて挨拶をすると、千景に「鈴倉さん宛に外線です」と告げる。
「こんな時間に?」
腕時計に視線を落とすと現在時刻は午後八時。この時間帯に得意先がかけてくることはあまりない。どの会社からかと問うと、多原は困惑したように眉根を寄せた。
「あの……会社ではなさそうです。『麗華と言えばわかるから早く千景を出して!』って」
多原の言葉に目を見開いたのは千景だけではなかった。
「麗華って」
「……私の従姉妹です」
驚く古田に千景はため息混じりに答えると、「失礼します」と多原と一緒に給湯室から自分のデスクに戻り、電話の保留を解除する。
「お電話代わりました、鈴倉です」
『もしもし、千景? 何度携帯に電話しても出ないから会社にかけちゃったわ』
受話器越しにも伝わる涼やかな声の持ち主は、従姉妹の久瀬麗華に間違いなかった。
「ごめん、今日は忙しくてほとんどスマホを見てなくて。どうしたの?」
『婚約が決まったわ』
「婚約……誰が?」
『私が言ってるんだから私に決まってるでしょ』
麗華の呆れる顔が目に浮かぶような物言いだった。しかし彼女の明るい声と、疲労感と達成感の漂うオフィスの雰囲気はあまりに乖(かい)離(り)していて、すぐには理解が追いつかない。すると受話器を握ったまま固まる千景に焦(じ)れたように、電話口の麗華は『もう、聞いてるの?』と甲高い声が返ってくる。
『それで、今その人と食事をしてるの。紹介したいから千景も来て。詳しい場所はこの後メールするわ』
「ちょっと待って、今からなんて急に言われても無理よ!」
『どうして? 久瀬商事の終業時刻は午後六時って父から聞いてるけど。もう八時じゃない。まだ終わらないの?』
「終わってはいるけど……」
だからこそ給湯室で一息ついて古田とも雑談していた。とはいえ、今日はまっすぐ帰宅するつもりでいただけに、突然の誘いをすぐに受け入れられるはずもない。だがそんな千景の都合などお構いなしに、『なら決まりね』とさらりと言われてしまう。
「決まりね、じゃなくて! だいたい婚約って誰と……?」
『それは会うまでのお楽しみ。そこそこ有名な企業の御曹司とだけは言っておくわ。きっと驚くと思うわよ。とにかくそういうことだから。じゃあまたね』
「まっ……麗華!?」
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