書籍詳細
女性を愛せないと言った侯爵が人が変わったように溺愛してきます ~偽りの悪女の小説より奇なる初恋~
定価 | 1,320円(税込) |
---|---|
発売日 | 2024/04/26 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序章
「知っているか、アシュレイ。私たちは恋仲だったらしい」
「……は?」
「確かに私は信用できる宰相としてお前を好いているが、この気持ちが恋心だとは気づかなかったよ」
涼しい顔で同性相手にそんなことを飄(ひょう)々(ひょう)とのたまう主を前に、アシュレイ・オーランド侯爵はハッと我に返る。
危ない。徹夜続きの体にくらったあまりにくだらない発言に意識が飛びそうになっていた。どうやら自分の脳は現実逃避をしたくなるほど疲れているらしい。
――落ち着け。どうせまた陛下の悪ふざけに決まっている。
ひと呼吸したアシュレイは凛と背筋を伸ばす。そして、椅子に深く腰をかけて楽しそうにこちらの反応を窺(うかが)う主と向き合った。本音を言えば「くだらない冗談に付き合っていられるか」と今すぐ踵(きびす)を返したいところだが、あいにくそうもいかない。
なんせ目の前の男――レイモンドはこの国で最も尊き人物。リニカリア国王その人なのだから。
リニカリア王国は、ゼノ大陸の中央から北にかけて縦に伸びる大国である。
それを統べるレイモンドは現在男盛りの三十六歳。
十六年前、父王の逝去に伴い弱冠二十歳にして即位した彼は、淡い金色の髪と榛(はしばみ)色の瞳の持ち主で、温厚な人柄と確かな政治的手腕も相まって民衆からの支持も厚い。
アシュレイにとっても自慢の主なのは間違いないが、一つだけどうしても好きになれないことがある。レイモンドときたら、事あるごとにアシュレイをからかってくるのだ。
「陛下。そのような戯(ざれ)言(ごと)を言うために呼ばれたのでしたら今すぐ失礼します。今日こそ屋敷に帰って休まなければ体が持ちませんから」
こういう時は冷静に対処するに限る。むきになったら負けだ。
「わざわざ屋敷に帰らずとも王宮の自室で休めばいいだろう。どうせ帰ったところで待っている妻や子がいるわけでもないのだから。なんせお前はリニカリアの独身貴族男子筆頭だからな」
なんだそれは。
独身なのは間違いないが、自分はそんな集まりの先頭に立ったつもりはない。
「……王宮だと休んだ気がしないんですよ。一歩自室の外に出ればどこに他人の目があるかわかりませんから」
「ああ。ご令嬢方に声をかけられるのが面倒なのか。だが仕方ないだろう。我が愛しの宰相はリニカリア一の美男子なのだから」
「やめてください。『愛しの』ってなんですか、気色悪い。だいたい三十路前の男に『美男子』はないでしょう」
「仕方がない、事実だからな。お前だってモテる自覚がないわけではないだろう?」
「それは――」
否定できなかったのはレイモンドの言う通りだったからだ。
アシュレイは自分が目立つ容姿をしている自覚がある。
艶のある蜂蜜色の髪やサファイヤブルーの瞳、弓形の眉、すっと通った鼻筋、形の整った唇。それらはかつて傾国の美女と謳(うた)われた元王女の祖母に生き写しらしい。
侯爵家当主かつ宰相を務めながらも日々の鍛錬は欠かさず行っているから、体もそれなりに引き締まっている自負もある。その上、現在未婚で婚約者もいない。
となれば女性にモテないはずがないのだ。たとえ、アシュレイ自身がそれを望んでいなくとも。
「我が国の社交界では、もう何年もの間お前が誰と結婚するのかという話題でもちきりだ」
「……陛下。私は回りくどいのは嫌いです。私が結婚しない理由は陛下もご存知でしょう。それなのにあえてその話題を持ち出すということは、何かあるのですか?」
アシュレイはため息混じりに問う。
「さすが私のアシュレイ、正解だ」
レイモンドはにこりと白い歯を見せるが、あいにくアシュレイは笑えない。
「ならば先ほど『私たちが恋仲だ』なんて馬鹿げた話を持ち出したのにも理由があると?」
「それも正解。だが馬鹿げてなどいないぞ。今の社交界では『宰相は国王の愛人だ』という噂がさも事実のように囁かれているらしいからな」
愛人?
「誰が、誰の愛人ですって?」
「だから、お前が、私の」
「……は?」
「私とお前はもう十年以上前から愛人関係にある。私が自国と関わりのない東大陸出身の娘を王妃に据えたのも、お前がいまだ独身を貫いているのも、全ては私たちの関係を隠すため。オーランド侯爵は王の愛人だから宰相の任に就いたのだ――そういう噂が広がっている。これは冗談ではなく、確かな事実だ」
言い切ったレイモンドは、先ほどとは打って変わって真剣な面持ちをしていた。
その様子を見る限り彼が嘘をついている可能性はない。となれば実際にそんなありえない話が社交界に流れているのだろう。
代々国王の忠臣として仕えてきたオーランド家を継ぐ者として、アシュレイは物心つく前から王家への忠誠を叩き込まれてきた。王立学院を卒業後、前宰相であった父の補佐官として王宮に仕官し、レイモンドの人柄に触れてからは自らの意思で彼に仕えている。
だがそれは純粋なる忠誠心だ。惚れた腫れたの類ではけしてない。
――それを、愛人だと?
「随分と舐められたものですね」
主はもちろん己の忠義を汚されたようで心底腹立たしい。レイモンドも同感だったのか「本当にな」と頷く。だが彼は次いで思いも寄らない言葉を口にした。
「だが、この噂が広がった原因はお前にもあるんだぞ、アシュレイ」
「私に?」
「多忙で仕事一筋の宰相は、めったに社交界に顔を出さないことで有名だ。それなのにお前ときたら、珍しく舞踏会に出席しても、ろくに踊らず男とばかりつるんでいるそうじゃないか」
「……一度は踊るようにしています」
「親族や知人の姉妹、踊ったところでお前と噂が立つ可能性のない女性とだけはな。お前は、自分に少しでも好意がありそうな令嬢とは必要以上に関わり合いを持とうとしない。話しかけられれば丁寧に相手はするが、それだけだ。そのくせ男とは楽しそうに話している。それを不思議に思う者が今回の噂を聞けばどう思うか……お前ならわかるだろう?」
『宰相は男が好きなのではないか』
『ならば、陛下の愛人だというのも本当なのでは……?』
「そう考える者が出てくるのも無理はない話だ」
「それは……でも、私は同性愛者ではありません」
「だとしても、だ。とにかく、この馬鹿げた噂をいつまでも放ってはおけない。少なくとも私の耳に入るほどには広がっているのだからな」
本来なら「ありえない」と一蹴できるはずの噂に真実味が帯びる要因の一端には、確かにアシュレイの行動もあるのだろう。
「ですが、だからといって一人一人に『事実ではない』と弁明して回ることもできないでしょう。そんなことをしたらかえって噂を煽ることになる」
「ああ。そこでだ、アシュレイ」
「はい」
「結婚してくれないか?」
「……はい?」
「ああ、もちろん私とではないぞ。私には愛する妃がいるからな」
「そんなことはわかっていますよ。よくこの状況で冗談が言えますね」
「冗談くらい言わないでやっていられるか。とにかく、こんな馬鹿げた噂がまかり通るのもお前に女の気配がまるでないからだ。それならお前が結婚してしまえばいい。とはいえ今日明日で結婚できるわけもない。ならばまずは婚約者を作り、早急に社交界でお披露目をしろ。『宰相には愛する婚約者がいる』と知らしめることでこのくだらない噂を払拭するんだ」
レイモンドの言いたいことはわかるし、理にかなっている。けれど――
「お待ちください! 私にはそれが難しい理由も陛下はご存知でしょう!?」
「もちろん知っている。だが、これ以外に方法はない」
「ですがっ――」
「アシュレイ・オーランド」
レイモンドは厳かに言い放つ。
「これは、王命だ」
一章
「見ろよ、悪女が来てるぞ」
脚立の上で目当ての資料を探していたエステルは、耳に飛び込んできた下品な言葉にぴたりと動きを止める。声の方を見ると、二人の男子学生がにやついた顔でこちらの様子を窺っていた。
「学生でもないのに我が物顔でいるのがありえないだろ。学院の図書館は悪女が男探しするための場所じゃないっての」
ネクタイの色は赤。ならば最上級生の四年生だ。
――こんなところで男探しなんてするわけないでしょう。
喉元まで湧き上がった言葉を手のひらを握ってグッと飲み込む。
時刻は正午。エステルは、翻訳の仕事に必要な資料を探すためにリニカリア王立学院の図書館を訪れていた。この時間帯の学生たちは食堂で昼食を取っている。今ならば人目につくことなく自由に資料を探せると思っていたのに、思いも寄らない邪魔が入ってしまった。
「こんなところに一人でいるなんて何をしてたんだろうな」
「どうせ男と逢引してたんだろ。昼休みの図書館は人気がないから、男好きの悪女には都合がいいんじゃないか」
図書館にいるのだから本を探しているに決まっている。それなのに「逢引」なんて発想が出てくるのは、彼らの目が節穴なのか、それとも頭が残念なのか。
――きっとその両方でしょうね。
エステルは心の中で嘆息する。そして、何も聞こえないふりをして視線を書棚に戻した。
こういう時は無視に限る。少しでも反応したら逆効果なのは経験済みだ。
だがそれが気に食わなかったのだろう。学生らはわざとらしい口ぶりで会話を続けた。
「あんなのがいたら王立学院の名前に傷がつくよな。先生方もさっさと出禁にすればいいのに」
「それができるならとっくにしてるだろ。できないのには理由があるんだよ」
「ああ。あの女は学長の愛人だもんな」
「そういうこと」
話しているうちに楽しくなってきたのか、二人の声はますます大きくなっていく。
――うるさい。
心の底からうんざりする。
それに、こんな会話を楽しむような子たちが最上級生なんて……と情けなくもあった。
創立二百年を誇る王立学院はリニカリア王国の教育の要だ。
十四歳から十八歳までの四年制で、もともとは王族や貴族の男子の教育目的で設立されたこともあり、長らく女子は入学対象外であったが、レイモンドが即位するとがらりと変わった。
『優秀な人物に性別や身分は関係ない。国の発展に繋がるのであれば、男・女、貴族・平民問わず積極的に官吏登用すべきである』
レイモンドの方針に沿うべく王立学院もまた女子や平民にも門戸を開いたのだ。入学には厳しい試験が課され、女子や平民の学生の数はいまだ少ないものの確実に増えてきている。
卒業した貴族令息の多くは国の官吏になるか、領地の運営に携わる。
一方、令嬢の多くは婚約して結婚するのが自然な流れだ。
官吏として働いている令嬢もわずかにいるが、その数はまだ少ない。かくいうエステルも子爵家の娘で学院の卒業生だが、官吏の道も結婚の道も選ばなかった。
選べなかった、と言う方が正しいかもしれない。卒業後の今は教師寮の一室を間借りして、言語教師として教鞭も執る学長の助手を務める傍ら、翻訳業や写本業も行っている。
だからこうして学生と顔を合わせる機会も多いのだけれど、彼らからの評判は最悪だった。
「でも、そんなに男好きなら一度くらい相手を頼んでみてもいいかもな。娼館の女より満足させてくれるんじゃないか?」
「もう二十五歳の行き遅れだぞ? いくら見た目があれでも……なあ?」
「確かに! 十八の俺らが相手にするにはおばさんすぎるよな!」
げらげらと笑う声が館内に響き渡る。
そのあまりのうるささにエステルは無視することを諦めた。このまま放っておくことも考えたが、これ以上近くでぎゃあぎゃあ騒がれたのではたまったものではない。
――私だって十代なんてごめんだわ。というか、男自体に興味がないわよ。
しかし、そんな内心を正直に話すつもりはない。
「ねえ、あなたたち」
その代わり、エステルはわざと脚立の上から二人に向けてにこりと微笑んだ。
「私に相手をしてほしいと聞こえたけれど、本当に?」
まさか笑顔を向けられるとは思わなかったのか、二人はぎょっとしたように目を見開く。
「何をしてほしいの?」
「は……?」
エステルはすうっと目を細める。
「どうして答えないの? もしかして、口では言えないようなことかしら?」
二人の頬に朱が走る。一人がごくんと喉を鳴らし、もう一人が口をはくはくとさせるのをじいっと見つめながら、エステルはゆっくりと唇の端を上げた。
「いけない子たちね」
窘(たしな)めるような口調でふふっと小さく笑う。
「っ……!」
「が、学生を誘惑するなんて、やはり噂は本当だったんだな!」
「誘惑? 私はただ笑っただけよ?」
「言い訳をするな! もういい!」
途端に二人はエステルに背中を向けて走り去る。その姿が若干前屈(かが)みだった理由なんて考えたくもない。これくらいで逃げるなら初めから関わってこなければいいのに。
それにしても、とエステルは自身の体を見下ろした。
動きやすさを重視して選んだ簡素なドレスは首元や手首までぴったりと覆っているし、ドレスの裾は足首まである。
少し癖のある赤毛は後頭部で一つにまとめ、化粧だってほとんどしていない。それにもかかわらず「誘っている」なんて言われてしまうのは、やはり顔と体つきのせいなのだろう。
きつい印象を与えがちなキリッとした眉や猫のようにぱっちりした緑の瞳。ぷっくりとした唇は紅を差さずとも赤々としている。そして何よりも、飾り気のない簡素なドレスを着ていてもなお目立つ豊満な胸。
「……もう少し小さければよかったのに」
そう思ったのは二度や三度ではない。
「悪女、ね……」
もう誰に何度言われたかもわからないその呼び名を口にすると、自然とため息が漏れる。
先ほどの学生たちは考えもしないだろう。もう何年もの間リニカリア王国の社交界で「悪女」として名を馳せるエステル・アルカン子爵令嬢が、実は異性と手すら繋いだこともないなんて。
この続きは「女性を愛せないと言った侯爵が人が変わったように溺愛してきます ~偽りの悪女の小説より奇なる初恋~」でお楽しみください♪