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帝都令息の不器用な恋路 明治執愛婚姻譚

木陰侘 / 著
カトーナオ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/05/31

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内容紹介

お前のことが、この世で一等好きだ
文明が花開く時分。貿易商の父を持つ女学生の立花百枝は、生家が百貨店を営む石動正一から縁談を申し込まれる。兄の帝大の同窓生でもある正一からは、昔から「お前は本当に、大福そっくりだな」と憎まれ口を叩かれ、嫌われているとばかり思い込んでいたのだが……。百枝の反対も虚しく、しばらく立花家に正一を下宿させることが決まる。「いつでも断ってくださって結構ですので」「どうすればわかってくれる? 俺はお前のことが、この世の中で一等好きだ」二人の攻防が続く中、ついに悋気を爆発させた正一。過剰な独占欲に、息もできないほど貫かれ――

立ち読み

    ツンデレなら許されると思うなよ

 帝都は文化の中心である。街を行き交う人の中には軍人、書生、背広を着た会社勤めの人に、モダンガールな職業婦人までが入り乱れている。
 女学校の授業を終えた立花(たちばな)百(もも)枝(え)は石造りの街角を走る路面電車から外の風景を眺めていた。
 銀(ぎん)座(ざ)の時計台の赤屋根に短い秋の日が照りつけていて、電車の窓から入る冷たい風に身を震わせる。早く邸(やしき)に帰らなければと、膝上の巾着袋を握りしめた。
 向かいの席の男性や着物を着たご婦人がそんな百枝の姿をちらりと見て、訝(いぶか)しげに眉を顰(ひそ)める。正直な人は、あれっという顔をした後でその顔をじろじろと眺める。
 家族の暮らす邸や、卒業も間近で慣れた人間の多い女学校にいると気がつかないが、こういう時、百枝は自分が『異物』だということを思い知らされる。
 緩く波打つ明るい茶色の髪に、蜂蜜を煮詰めたみたいな焦げ色の瞳。兄妹や父に比べれば落ち着いた容姿の類(たぐい)だが、肌の色については家族の中でも抜けるように白い。
 もっとも、我が道をいく兄や弟妹たちであれば、百枝のように他者の視線なんて気にも止めないだろうけれど。
 チン、と電車のベルが一度鳴って、速度が落ちる。
 黄昏(たそがれ)時、太陽は赤屋根の遥か向こうに落ちようとしている。
 車内の人目から意識を逸(そ)らし、往来をいく人の顔が翳(かげ)っていくのを見ていた百枝は、士官学校の学生だろうか、浮かれたような男子学生の一団が停車場にいるのに気がついた。
 年若い少年たちは教官の愚痴(ぐち)だの、お互いを揶揄(やゆ)するような軽口だのを口にしながら路面電車の階段を跳ね上がってきた。
「――立花は来ないのか」
 その中の一人に自分の名字を口にされて、どきりと心臓を跳ねさせる。
 眼鏡をかけた一人が答える。
「いつもの仏頂面で『俺は行かん』の一言だよ。まったく付き合いが悪い」
 帝都の人口を考えれば、立花という家名の者くらいそこら中にいくらでもいるだろう。
 けれど彼らが身につけているのは、すぐ下の弟が盆の休暇の折に着ていたのと同じ制服に見える。もしかしたら士官学校の寮に入っている弟の同窓生なのかもしれない。
 残念ながら輪の中に弟の姿はなさそうだ。そんなふうにぼんやりと眺めてしまったのが悪かった。
 車掌が夜(や)行(こう)の仕様に切り替えたのか、客車の電気灯がぱっと点る。
 薄暗い車内は途端に明るくなって、顔を上げたまま目をちかちかさせていると、話し込んでいた集団の一人と目があった。
 頭を下げて急いで俯(うつむ)いたが、いかにも士官学生らしいピカピカの軍靴が、すぐ前の板床を踏み締めた。
「君、混血か?」
 不躾(ぶしつけ)な言葉に氷水を浴びせかけられたような気持ちになる。
 発車のベルが二回鳴ったが、電車はなぜか動き出さなかった。
 路面電車ではそんなことは日常茶飯事だったが、その束の間の空白を始まったばかりの見せ物で埋めるように、車内の衆目が集まっていた。
「おいおい、軟派な奴だな。ちょっとは我慢しろよ」
「迷惑だろう。可哀想に」
「なに、俺はただ気になっただけで……」
 同窓生たちの言葉にはその建前とは裏腹に、囃(はや)し立てるような色があった。珍しい混血の女学生さんにちょっかいをかけるのは、浅草(あさくさ)までの暇つぶしにちょうど良い、とでもいうような雰囲気だ。
 その一方で話し掛けた当の本人は、自分が意図せず百枝を揶揄(からか)う形になったことに戸惑っているようだった。
「困ったな」
 困惑しているのは百枝も同じだ。縁もゆかりもない男性にこんなふうに話しかけられて注目を浴びるなんて酷い迷惑で、自分だけならともかくとして、長女である百枝に『身持ちが悪い』、『生意気だ』なんて評判が立てば、妹たちに要らぬ苦労をかけることになる。
 電車はまだ出ない。どうやら乗り遅れた誰かを待っているらしい。
 車内の注目は駆け込んできたばかりのその誰かに幾分削がれたらしいが、それでも半分以上は士官学生と百枝の方に向いている。
 頬が熱くなるのを感じながら、百枝はたまらず席を立った。
「失礼いたします」
 これ以上見せ物にされるのはたくさんだ。声をかけてきた青年には悪気はなかったのかもしれないが、面と向かって混血呼ばわりされるのも、揶揄いの的にされるのも、家畜か何かの品評のようで好きではない。
「待て、お嬢さん。俺はただ、知り合いに――」
 慌てた様子の青年の手が百枝の肩を掴もうとした。
 けれどその手は届くことなく、すんでの所で割り込んできた男に捕まえられた。
「君、俺の許婚(いいなずけ)に何か用件でもあるのか?」
 今日はとことん厄日らしい。
 聞き覚えのある声に助け舟を出されたはずの百枝は絶望的な気持ちで顔を上げた。
 果たして予想通り、そこには帝大生らしい詰襟にマントを羽織った巻き毛の青年がいた。彼は百枝の視線に気がつくと、つり気味の眉をほんの少し上げてみせた。それから意地の悪そうな顔立ちの上に、心底学生連中を見下し切ったような冷笑を貼り付けた。
「士官の学生諸君は揃いも揃って暇人ばかりらしい」
 呆気にとられる彼らをよそに続ける。
「どうやら乗る電車を間違えたようだ。迷惑料にとっておいてください」
 そう言って百枝の腰の辺りをやんわりと押した男は二人分の運賃以上の金額を車掌に押し付けると、強引に停車場に降りてしまった。
 まだ現状をのみこめない車内の人間をよそに、ようやく発車した路面電車を青年の後ろから見送る。
「あの、ありが……」
「全く。何を考えているんだ?」
 人気の無くなった停車場でこちらを振り向いた男は、間髪容れずに口を挟んだ。
「いつもは車で帰っているだろ? なんで一人でぶらぶらと出歩いてるんだ? 巽(たつみ)はどうした? 使用人の一人でも迎えに来させればよかっただろう?」
 怒(ど)涛(とう)の質問責め。まるで百枝の夫君か何かのような口ぶりだが、この男――石動(いするぎ)正一(しょういち)は百枝にとっては赤の他人。時々顔を合わせる兄の同級生にすぎない。こんなふうにお説教をされるような筋合いはない。
 けれど助けてもらったのは事実。面倒をかけたのも本当なので、百枝はしょんぼりとした気持ちで彼の話を聞いていた。
「ごめんなさい」
「ぐっ……」
 傾聴の姿勢を見せているのに、何が気に食わなかったのか。男はぷいっと視線を逸らした。歯切れ悪く続ける。
「……お前のような綿飴が、こんな黄昏時までふわふわ出歩いているのを見た時の俺の気持ちがわかるか? 目を疑ったぞ」
(この男……)
 もう始まった。ちょっとは良い人なのかと思ったらさっそくこれだ。
 自身の容姿を揶揄するような『綿飴』呼びに、心がささくれ立つ。
 不機嫌だからとか、怒っているからとかではない。この男はいつもこうなのだ。顔を合わせればこちらの外見を揶揄するようなことばかり言ってくる。
 そりゃあ、百枝は容姿でいえば目の前の男には一つも敵わないだろう。
 特別選び抜いたみたいに綺麗な線を描く美しいつり目に、右目の下の泣きぼくろ。顎(あご)の辺りまで伸びたくるくると自由奔放に捩(ね)じくれた巻き毛の黒髪。薄い唇は少し酷薄そうだが好む人間もいるだろうし、長身で手足の長い、西洋服を着るためのマネキン人形そっくりのすらりとした体躯。どれも百枝とは正反対だ。
 まあ、こういう類の青年に熱を上げる世の女子はそれなりに……もしかしたら結構いるかもしれない。
 だとしてもだ。毎度毎度容姿弄(いじ)りがしつこすぎる。
 本当になんなのだろう。帝大生とはそれほど暇なのか?
 この男が本当に学校に通っているのかどうか、本当のところ少し疑っている。だって、あまりに遭遇回数が多すぎるのだ。
 例えば、女学校の帰り道に偶然遭遇する。百貨店に出かければ居る。上(うえ)野(の)の公園にも居る。実家の近所にもたまに出没するし、弟妹にせがまれて洋食屋に出かけた時もやっぱり居た。
 絶対に暇人だと思う。日頃からよっぽど帝都をうろうろしているのだろう。大学に行け。
「こんな時間にお前みたいな大福がころころと、一人で、あんなものに乗ったりするから、あんなくだらないやつらに絡まれるんだ。とって食われたらどうする?」
 文節ごとにくどくど言い聞かせるような口ぶりに、むっと唇を尖らせた。
「……その顔はやめろ」
 そんなふうに言われていよいよ腹が立ってくる。
(みっともないってこと?)
 確かに自分は器量良しとは言えない。肌の色はちょっと驚かれるくらいには白いし、寸胴、人様より多少ふっくらした体型や顔つきかもしれないが、たかが兄の同級生に容姿のことで揶揄われるいわれはない。
 百枝の体積が大きいことが、何かこの男に迷惑をかけただろうか。ここまで静かに聞いていたのだから十分義理は果たしただろう。
「助けていただいてどうもありがとう。許婚だなんて嘘までついていただいて」
 その点は合理的な判断だと思う。このご時世、年頃の男女が連れだって歩くには兄妹か、許婚くらいの建前は必要だ。
 そう言うと、男の肩がぴくりと身じろいだ。
「許婚……そうか……そうだな」
 ぶつぶつ呟き始めたが、彼の挙動が不審なのはいつものことなので百枝は気に留めないことにした。
「じゃあ、失礼しますね」
 ぺこりとお辞儀した彼女の前に男が立ち塞がる。
「どこへ行く」
「家に帰ります」
「こんな時間にひとりで帰せるわけないだろ」
 言うなり、男が手を挙げる。すると黒い自家用車があっという間に停車場のそばに乗りつけた。
 運転手だろう、お仕着せを身に纏(まと)った男性が申し訳なさそうに百枝に会釈している。
「送る」
 面食らう百枝にそれだけ言って頑として譲らないので、二、三の問答の末に百枝は結局後部座席に乗り込むはめになった。
 車があるならどうして電車に乗ろうとしていたのだろうとか、そういうことには気がつかなかった。

 瓦斯(ガス)灯の明かりが車窓の向こうで飛ぶように流れていく。隣に乗り込んだくせに、そばに寄るのは絶対に御免だとばかりに大袈裟に百枝から距離をとっていた男は、大仰(おおぎょう)な咳払いをして、彼女の注意を窓の外から自身に向けさせた。
「そ、その、だな、さっきの話だが」
「さっきの話?」
「許婚とか、なんとか、言っていただろう」
 ああ、とうなずく。何か改めて問いただされるような内容だっただろうか?
「俺が言いたいのはだな……今日のようなことは、まあ、今後も起こりうることだし? つまり、お前は本当に、なんというか――その――、あー……」
 なにやら真剣な様子なので要領を得ない男の言葉を静かに待つ。
「お前は……」
「私?」
 小首を傾げた百枝に、ぎゅっと眉を顰めてみせた後で、ようやくしぼりだした。
「お前は本当に、大福そっくりだな」
「……なんですって?」
 こめかみに青筋を立てる百枝に気づいていないのか、彼はさらに言い募(つの)る。
「そうだ! 顔の丸みなんかがよく似ている! 手なんかも、そっくりだと、俺は常々思っているんだが……どうだ?」
「どうだ……?」
 どうだもこうだもない。
 なんだこの男は。どういうつもりなのか?
 どうだ? とは? そんなことを言われたら嫌に決まっているのですが? の回答しかできないのだが?
 誰かからこんなに丁寧に侮辱(ぶじょく)されたのは生まれてはじめての経験で、百枝の頭の中は怒りを通り越して混乱でいっぱいだった。
 誰の顔がまんまるで、誰の両手を握ってお皿に乗せれば、双子の大福そっくりだというのか。ありえない。なんて人だろう。
 被害妄想まで入り乱れる中、男はまだ続ける。
「あと、綿飴にも似ている」
「あと綿飴にも似ている?」
 オウム返しにすると、男はなぜか頬を赤らめた。
 なぜ赤面する? どういう感情だ。それは。
「丸くて――、あー、丸いだろう? 白いし、ふわふわもしている」
 こう、と両手で見えない綿飴を撫でるような動きをする男。
「…………」
 黙りこくった百枝に、男はどこかやり遂げたような表情で言った。
「そういうわけで、必要なら今後とも許婚として振る舞うのも、まあ、やぶさかではないし、迎えに行ってもかまわない、という話なんだが……つまり、俺にとって、お前は大福で、余所の者にとって食われるのは我慢がならない、というか」
「結構です」
「え?」
 百枝は睨(にら)みをきかせるべく、男のすぐそばまで顔を寄せた。
 許婚? 冗談ではない。この男の新しい遊びに付き合ってなどやるものか。
「な、なんだよ」
 車はいつの間にか停まっていた。窓の外には住み慣れた立花の邸が見える。
 百枝が睨むように見つめていると、男はなぜかしきりに自身の巻き毛を撫でつけはじめた。
「送ってくださってどうもありがとう。後でお詫びの品をお送りしますわ」
「いや、そんなことはどうでも、」
「それと。許婚のふり? でしたか? お断りさせていただきますね。間に合っていますので」
「まにあっている……待て、それはどういう――」
「大嫌いです。あなたなんて」
 呆然とした様子の男を振り返ることもなく、百枝は車を降りると、足を踏みならして邸に駆け込んだ。


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