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ホテル御曹司は最愛の妻を愛し続ける

泉野ジュール / 著
笹原亜美 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-671-3
サイズ 文庫本
ページ数 328ページ
定価 880円(税込)
発売日 2024/05/27

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内容紹介

君を取り戻しに来た
乃木ゆりえの前に突然現れたのは、高級ホテル乃木グループの御曹司であり、五年前に離婚した一馬だった。祖父を看取るまでの二ヶ月、夫婦のフリをして欲しいと頼まれる。五年前、彼があっさりと離婚を承諾した心の傷は癒えないが、ゆりえの心を溶かすのも彼だけだった。「俺は、君を求めている、ただの男だ」彼の熱い抱擁に、気持ちが揺れるゆりえは、その腕を手放せなくて……。
ふたりの運命が再び廻り出す、溺愛を抑えない御曹司×健気に生きる元妻のセレブリティラブ!

人物紹介

乃木ゆりえ

五年ぶりに突然現れた元夫の一馬に戸惑う。

乃木一馬

高級ホテルの御曹司。祖父のため、夫婦のフリをして欲しいと言ってきて……。

立ち読み

   プロローグ


 冬の孤独はどうしてこんなに身に染みるんだろう。
 手袋をしていても悴(かじか)む指先に白い息を吹きかけながら、乃(の)木(ぎ)ゆりえは冷たかった雨が大粒の牡(ぼ)丹(たん)雪(ゆき)に変わっていく都心の夜空を見上げた。
 雪が嫌いだと思ったことはなかったのに、その夜だけは舞い降る雪の花が酷く心を刺した。
 はらり、はらり。
「ねえ、ゆりえちゃん、二次会も来るよね? こことは雰囲気を変えてもっと気楽なところで飲もうって話なの。ゆりえちゃんのこと狙ってる男性社員、結構いると思うよ。ね?」
 エントランスのネオンから少し離れた薄闇にひとりぽつねんと佇(たたず)んでいたゆりえに、背後から声がかかる。
 肩越しに振り返ると、レストランから出てきたばかりの高(たか)田(だ)がこちらに向かってきていた。ゆりえのひとつ年上の、フロント担当仲間だ。
 ゆりえは軽く首を左右に振った。
「ごめんなさい。せっかくだけど、わたし車通勤だから飲めないんです。明日早番だし、今日はもう帰ろうかと思って」
 ゆりえの返事に高田は「えー」という気の抜けた声を漏らした。
「そういえばゆりえちゃんって車で通勤だったね。終電、気にしなくていいのは羨(うらや)ましいけど、確かに飲めないねえ」
「そうなんですよ」
 すんなりと高田が納得してくれたことに胸を撫で下ろしながら、ゆりえは薄く微笑んだ。高田にも狙っている相手とやらがいるのかもしれない……。ライバルは少ないほうがいいのだろう。
「そっか。やっと大きなイベント終わったところだから、打ち上げもかねて盛り上がろうって話なんだけど」
「皆さんと一緒にお食事できただけで十分楽しかったです。また今度誘ってください」
「ゆりえちゃんって真面目だよねぇ」
 ゆりえの勤める東(とう)堂(どう)ロイヤルガーデンホテルは、首都圏に三つの支店を展開する中規模なホテルチェーングループだ。
 派手ではないが充実した設備と行き届いたサービス、顧客のニーズに合わせた臨機応変な宴会プランなどが功を奏して、着実な成長を遂げている。
 ゆりえも高田もそこの花形……フロント担当のレセプショニストとして働いていた。
 今夜は数ヶ月前から準備していた大きなコンベンションのホストが終わり、一階のイタリアンレストランで小さな打ち上げが行われていた。
 ホテルの利用客でなくても入りやすいように、入り口がホテルエントランスとは別になっているレストランだ。
 その入り口から、先刻まで同じ大テーブルで食事していた十数人の男女がわらわらと出てくる。だいたい二十代後半から三十代の比較的若いグループで、よく考えてみると既婚者は見当たらない。
 ──ゆりえちゃんのこと狙ってる男性社員、か。
 そういう意図のある集まりだったのだと、ゆりえは今になってやっと気がついた。社内合コン。当然、二次会は勤めているホテルではなく別の場所を探す必要があるのだろう。
「じゃあ、お先に失礼します。お疲れさまでした。また明日」
「えー、乃木さん帰っちゃうの?」
 出てきた男性陣のひとりが、すでに酔っているような声を出す。
「車なんです。お酒飲めないし、雪積もっちゃうと運転怖いから……。皆さんも気をつけてください」
 いくら一月後半とはいえ、ここ首都圏で、運転できなくなるほど雨の後の雪が積もることはないだろう。しかし、ゆりえはそう言い訳した。
 高田はすぐに納得してくれたが、誰かに食い下がられたらゆりえはなかなか断れない。そういう性分なのだ。
 社員用の駐車場は地下にあるので、ゆりえは急いで浅く一礼すると仕事仲間達に背を向けて歩き出した。

 薄いベージュ色のコートを着たゆりえの後ろ姿が建物の裏手に入っていくのを眺めながら、ひとりがささやいた。
「ゆりえさんって美人だけど素っ気ないっていうか、なんていうんだろう、高嶺の花だよな。男に興味ないのかな」
 高田とは別の女性がその横に現れて、ゆりえの消えていった方向を一緒に見つめる。
「野(の)口(ぐち)君、知らないの? ゆりえさんって実は結婚してたんだってよ。離婚したんだって。若いけどバツイチなの」
「ええ!?」
「ゆりえさん本人は、このことあんまり話したがらないけどね。わたし、ゆりえさんが途中入社してきた年に人事部にいたから知ってるの。確か乃木って苗字も旦那さんの姓のまま変えてなかったと思うよ。もっと詳しくは上司しか知らないけど……」
「ふええ……そうだったのか。すげえ意外」
 野口と呼ばれた営業部の三十代の男は、スポーツマンっぽく短く揃えられた髪を片手でくしゃくしゃさせながらそうぼやいた。
「真面目そうだし、お嬢っぽいからそんなふうには見えないけどなあ」
「そういえば社長の口利きでの途中入社らしいし、なにか事情とかあるのかもね」
「ふーん、美人には色々あるのかな」
 野口のつぶやきは、白い息とともに冬の夜空に吸い込まれていった。

     * * * *

 地下二階にある社員用駐車場は、外と同じくらいひんやりとしていた。
 肩にかかった雪を落としつつ、バッグの中の鍵を探す。ゆりえの几帳面さはもちろんバッグの中身にも現れていて、鍵類、化粧ポーチ、手帳、スマホ……すべてがあるべき場所に入っている。
 だから鍵自体はすぐに見つかった。
 しかし、ドアロック解除のボタンを押そうとすると、悴んだ指先が滑ってキーホルダーごと地面に落としてしまう。コンクリートの上に落ちた鍵束を見下ろしながら、ゆりえは深いため息をついた。
 かがんで鍵を拾うという単純な動作も、仕事上がりの体にはそれなりに重く感じる。鍵束を拾って立ち上がると愛車のドアを開け、運転席に滑り込んだ。
 そして座席に背中を預け、安堵に息を吐く。
 ああ……『彼』がゆりえに残したのはいいものばかりではなかったけれど、この車にだけは感謝したい。
 アメリカ育ちの彼は満員電車を毛嫌いしていて、ゆりえが乗る必要がないようにとこの車を買ってくれた。国産の新車SUVで、いわゆる高級車ではないかもしれないが決して安物ではなく、ゆりえひとりで乗るには贅沢すぎるくらいだ。
 あのときのことを思い出すとすぐに涙が溢れてくる。
「……ふ……っ」
 自分が去ったあと、仕事仲間が噂話をするのをゆりえは知っている。
 ゆりえさん、リコンしてるんだってね。へー、イガイだな。どうしてだろう……まさかカテイナイボウリョクとか……。
 そんな会話をもう数え切れないほど聞いてきた。まだ五年と経っていないのに。いや、五年近くも経ったのに、心の傷は癒えないどころか深まっていく。
(忘れなくちゃいけないのに……。彼はあんなにあっさり諦めてしまったんだから、きっととっくに他のひとを見つけて先に進んでいるはず……)
 バッグを助手席に移して、ゆりえは手の甲で涙を拭った。
 もう自分の隣にはいないひとを思って流す涙はじわじわと心を穿(うが)つ。
 胸にぽっかりと穴が開いているのに、塞ぐ方法が見つからない。なによりも始末に負えないのは、幸せだった日々の思い出が大切すぎて、本当はこの傷さえ手放したくないのだ。
 忘れたくない。
「馬鹿みたい……」
 はじめてこの車が納車された日のことを覚えている。『洗礼だ』と言って、彼はバックシートでゆりえを抱いた。長身の彼が狭い車内で上になるのは難しくて、あの日ゆりえは座った彼に跨(また)がるようにして彼の情欲を受け入れた。
 熱い……胸を焦がすような思い出。
 記憶の中に存在するだけでも、彼はゆりえの心を溶かすことができる。実際に彼の存在を確認したら心が壊れてしまうのがわかっていたから、ゆりえはSNSの類は一切覗かないようにしていた。だから彼の現状はまったく知らない。
 きっと知らないままでいいのだろう……もし新しい恋人の存在を知ってしまったら耐えられない。
 暖房をつけるためにも、ゆりえはイグニッションに鍵を差し入れるとエンジンをかけた。車体が小刻みな振動をはじめる。
 そのときだった。
 後部座席のドアが開く音がした。どきりと心臓が跳ねて、恐怖に体が動かなくなる。──まさか変質者?
 後ろを振り向くことができなくて、助けを求めるようにフロントガラスから地下駐車場を見渡した。
 灰色のコンクリートと自動車しかない空間はひと気がなかった。出入り口に警備員がいるのは知っているが、車内からの悲鳴が届くかどうかはわからない……。
 どうしよう……誰か……。
「久しぶりだな」
 バタンと後部ドアが閉まる音とともに、低い男性の声が車内に響いた。
 ゆりえはヒュッと短く息を吸い、さっきまでの恐怖とは別の意味で固まった。
 この声を知っている。
 この声をずっと忘れられなかった。涙を流すたびにこの声を思い出した……。
 そっとバックミラーに視線を移す。
 後部座席には大きな黒い影が座っていた。我が物顔で……まるで五年近い乖(かい)離(り)の年月など存在しなかったかのように平然と、後部シートにもたれかかっている、スーツ姿の黒い影。
「一(かず)馬(ま)さん……どうしてここに」
 ミラー越しに視線が合ったが、後ろを振り返ることはできなかった。
 後部座席に侵入してきたその男は、ゆりえの反応に臆することもなければ、遠慮するということもなかった。ただ落ち着いた様子で胸の前で腕を組み、バックミラーに映るゆりえの瞳をまっすぐに見つめている。
「君を取り戻しに来たんだ」
 一馬は静かに宣言した。
 乃木一馬──日本を拠点にしつつ、主に北米と欧州で超高級ホテルチェーンを展開する乃木ホテルグループの創設者の孫にして後継者である男だ。
 五年前に別れた、ゆりえの元夫でもある。
「ど……どうして今さらそんなこと……。わたしが別れたいって言ったのをなんの反対もせずに受け入れて、連絡さえしてこなかったくせに」
 閉ざされた車内に、ふっという一馬の声なき笑いが響く。
 ゆりえのうなじが粟(あわ)立(だ)った。いつもそうだ。このひとのやることなすことすべてに、ゆりえは反応してしまう。どれだけ年月が経ってもそれは変わらなかった。
「それはつまり、反対して欲しかったんだ?」
 一馬の低い声は、狭い車内でさらに男らしい色香を増した。座っていなかったら膝からくずおれてしまったかもしれないくらい、一馬の声や喋り方は魅惑的だった。
 でも、ゆりえにだってプライドや誇りがあった。事情が。そうですと認めて惨めに泣くわけにはいかない。
「違います。ただ……」
「連絡もして欲しかったんだ?」
「だから、違うって言ったでしょう? ただの事実の確認です。あなたが今さらわたしのところに来る理由なんてないはずですから……」
「ところが俺は今ここにいる。どうしてだろうな」
 どうして……。
 それは今、一馬自らが説明したばかりだ。ゆりえを取り戻しに来たと。
 わざわざそれを反復して彼を問い詰めるほど、ゆりえは非生産的ではない。質問には答えず、後ろを振り向きたくなるのを必死で堪えながら、ぎゅっとハンドルを握った。
「と、とにかく、あなたはあっさり離婚を受け入れて反対さえしなかった。もう会わないという約束もしたはずです……それだってあなたは一切反対しなかった」
「気づいていないようなのでお知らせするが、『反対しない』と『賛成する』は似て非なる行動だよ」
「それは……。でも、約束は約束です」
 自分で口にしながら、これはなんて脆(もろ)い言葉なんだろうと思った。約束。幸せだった頃、一馬とゆりえはたくさんの約束をしたのに、それらはすべて破られてしまっている。
 一馬はまるでそんなゆりえの心情を察したように、薄く微笑んでみせた。優しいとさえいっていいような表情だった。
 そしてささやく。
「気が変わったんだ」


   第一章 追憶


 一馬と別れてからこのかた、朝、ゆりえが目を覚ますといつも最初に願うのは、
『これが夢だったらいいのに』
 ということだった。
 ゆりえの実家を襲ったあの事件も、それに伴う離婚も、すべてただの悪夢だったらと。目を覚ましたゆりえの隣には眠たげな顔をした一馬がいて……微笑みながら優しく彼女を見つめていると……。
 ピー、チチチチ。
 小鳥のさえずりに鼓膜をくすぐられながら、ゆりえはベッドから体を起こした。
 喉がカラカラに乾いていて、飲んでいないのに二日酔いのように頭が重い。それを追い払うようにゆりえは頭を振った。
「朝……」
 夢と現実の境界線を引くように、そんなわかりきったことをつぶやく。
 でも今朝だけはいつもと少し違った。
(あれは夢じゃなかったのよね……?)
 ふらふらと立ち上がり、スマホを充電器から外して画面を開く。日付は当然昨日より一日進んでいて、時刻は朝の六時だった。
 今朝のシフトは七時からだから、感傷に浸って呆けている時間はない。寒さに震えながら歯磨きと着替えをさっと済ませ、トーストと果物だけの簡単な朝食をとる。ゆりえは目鼻立ちがくっきりしているので、化粧にはあまり時間がかからない。六時半にはすでにマンションの駐車場でハンドルを握っていた。
 エンジンをかける。
 すると昨晩の出来事が否応なしに思い出された。

「気が変わったんだ」
 と一馬は言った。
 ゆりえを取り戻しに来たと宣言し、かつてゆりえのために購入し、体を重ねたことさえある車の後部座席に悠然と座って微笑んでいた。まるで五年の歳月などなんでもないと言いたげな平然さに、ゆりえの胸は締めつけられた。
 こんなに……。
 ゆりえはこんなに苦しいのに。
 後ろを振り向いて直接彼を見たらきっと泣いてしまう。それがわかっていたから、ゆりえはバックミラー越しに彼をキッと睨(にら)んだ。
「あなたと話すことはなにもありません。ヨリを戻すつもりもあ……ありません。か、帰ってください」
 ゆりえの声が震えたのを、一馬が気づかなかったはずはない。しかし彼はなにも指摘しなかった。ただじっとゆりえを見つめて、わずかに口元を引き締めただけだった。
「本当に?」
 一馬は静かに確認した。
「本当です。当たり前です……」
「そうか」
 あっさりとそう受け入れた一馬は、短いため息を吐いて、座席シートから背を離した。彼の身長は百八十センチを優に超えるのに、その動きはいつも優雅で無駄がない。こんなときでもそれは変わらなかった。
 あっという間にドアを開け、入ってきたときと同じように颯(さっ)爽(そう)と外に出る。
 ゆりえは彼を止める時間さえなかった。
「わかったよ。ただ、諦めたわけじゃない。また来るよ」
 かがみ込んで半分開いた後部扉の隙間からそう告げると、一馬はバタンとドアを閉めた。
「え」
 拍子抜け、なんていう言葉でそのときのゆりえの気持ちを表すことはできない。自分からすげなくしたというのに、ゆりえは一馬がさっさと諦めてしまったことに落胆した。
 彼が車内からいなくなってやっと、ゆりえは後部座席を振り返った。
 そこには座席だけのがらんどうの空間があって、なにも残されていなかった。
 慌てて背後のリアガラス越しに駐車場内を探すと、一馬はすでにゆりえの車を離れてホテル上階に繋がる出入り口に向かっていた。
 ゆりえは彼の後を追えなかった。追ったとして……どうすればいいんだろう? 結局ゆりえはエンジンのかかった車内でしばらく身動きできずにいた。
 それが昨夜の出来事だ。
(でも『また来る』って……)
 一馬は、言ったことは実行する男だ。
 彼がなにかを宣言して、そうならなかったためしがない。いつになるのかはわからないけれど彼はきっとまた現れる。ゆりえの元に。
 かつて永遠の愛を誓った元妻である、ゆりえの前に。

     * * * *

 日(ひ)野(の)ゆりえが一馬に出会ったのは六年前だった。
 季節は春。
 短大を卒業したゆりえは、乃木ホテルグループの総本店兼最古である東京都心のホテルに就職したところだった。
 ゆりえは世間で言うところのお嬢様である。流通事業で成功した実業家の祖父と、開業医の父。医療の道を志した父は祖父の事業を継がなかったわけだが、父の兄……つまりゆりえの伯父が社長として祖父の後釜に座っていた。
 創業者の孫にあたるゆりえのふたりの弟達も、将来的には祖父の会社に入ることを目指している。息子のいない伯父と父の関係は良好だ。
 そんなわけでゆりえは、それなりに資産のある安定した家庭の長女として、恵まれた子供時代を過ごした。
 しかもふたりの弟がいるため、「お家のため」といったプレッシャーもない。両親はゆりえに、好きな職業につき、好きな相手と結婚しなさいと言ってくれていた。
 そんなゆりえが選んだ就職先は、家族でよく利用して心に残っていた乃木ホテルだった。
 乃木は数ある高級ホテルチェーンの中でも、他社とは一線を画していた。
 客室数は多くない。落ち着いた外観はホテルというより美術館か迎賓館を思わせ、宿泊客は常連が多く、その卓越したサービスと最高級の施設、そしてプライバシーの守られた空間に信頼を寄せている。
 数年に一度両親に連れられて泊まりにきた乃木ホテルを、日常と切り離された夢のような場所だとゆりえは思っていた。就職活動中にダメ元で応募した新人採用に受かったときは、興奮でひと晩眠れなかったくらいだ。
 ゆりえの学生時代は終わった。
 これから大人としての人生がはじまるのだと、意気揚々と仕事に邁(まい)進(しん)しだした……そのたったひと月後に、一馬はゆりえの前に現れた。

「ねえ、ゆりえさん、もう乃木部長見た? すっごい格好いいよねぇ。最初、あんまり背が高いから外国人のお客様が紛れ込んできたのかと思っちゃった」
 従業員用の控え室で、同期入社の沙(さ)織(おり)に話しかけられる。
 乃木、という苗字を不思議に思ってゆりえは首を傾げた。
「部長? 社長じゃなくて?」
「えー、ゆりえさん知らないんだ? もう従業員の女子の間ではこの話題で持ちきりだよ。アメリカから社長の甥っ子さんが来たんだよ。今年三十歳! 超美形! 未来の社長候補!」
「へえ……そうなんだ」
 ゆりえは噂話の類に疎いので、曖昧にうなずいた。
 それでも経営者一族の人間関係くらいは仕事の一環として把握していた。
 創業者の乃木相(そう)馬(ま)はすでに引退している。相馬のふたりの息子が跡を継ぎ、長兄が北米を主とした海外部門を、次男が日本国内を統括していた。
 ふたりの言う「社長」はこの次男を指している。
「乃木社長にはお子さんいないからね。やっぱりアメリカの甥っ子さん達のどっちかが継ぐのかなぁ」
 乃木社長は既婚だが、不幸にしてひとり娘を幼い頃に亡くしているという話だった。対してアメリカの長兄にはふたりの息子がいる。沙織の言う通り、時期が来れば長兄の息子のどちらかが日本で社長の役目を引き継ぐのが自然だろう。
「でも部長なんだね。社長補佐とか支配人じゃないんだ」
 ゆりえは制服を正し、持ち場につくために身嗜(みだしな)みを整えた。
 ゆりえはホテルの顔……フロントのレセプショニストとして配属されている。まだ先輩について業務を学びながらの見習いの身だが、実際にフロントデスクに立つのだ。いつも身の引き締まる思いだった。
「そうなの。そこも部長の格好いいところなんだよ。きちんと実地でこっちの経営を学びたいから、特別扱いしないでくれって言って、すごく気さくだし仕事熱心でね」
「なんの部長? 沙織さんと同じところ?」
「そうそう、企画営業部」
「そっか、じゃあわたしはあんまり接点ないかな……残念」
 ゆりえは沙織に挨拶して持ち場に向かった。
 ──アメリカからやってきた長身美形の社長の甥っ子、将来の社長候補のひとり、か。
 ゆりえだってそれなりにお嬢様育ちだったから、それが雲の上の出来事だとは思わない。実家に似た状況に、どちらかというと親近感さえ抱いた。もちろん規模はかなり違うだろうけれど……。
 その甥っ子とやらのハイスペックさには人並みの関心を抱いたけれど、どうしてもその彼を見てみたいとか、お近づきになりたいという発想にはならなかった。
(うん。仕事、仕事!)
 長女なせいかゆりえは責任感が強く、生真面目で、仕事中に浮ついたことを考えるのは抵抗があった。
 おそらく他の女子社員が必死でその社長の甥っ子を追いかけるのを、遠くから眺めるだけになるのだろうと思っていた……その朝。

「わしの部屋がまだ用意できていないだと?」
 美しい生け花が飾られたフロントのカウンターに辿(たど)り着いたとき、ゆりえの指導係にあたる先輩が、八十絡みのスーツ姿の男性客の対応をしていた。
「山(やま)田(だ)様、チェックインは午後三時からになっております。お荷物だけならお預かりできますので、どうぞこちらに──」
「知ったことか! さっさとわしを部屋に案内せんかい! 嘆かわしい、いつからこのホテルはこんなに格が落ちたんじゃ!」
 山田と呼ばれた高齢者は、手にしていた杖を振り回すようにして怒鳴り散らした。本当に杖など必要なのだろうかと疑いたくなるほど矍(かく)鑠(しゃく)とした動きだった。
 ゆりえの先輩は対応に四苦八苦している。
 エントランスに他の人間がいないのをいいことに、山田はさらに語気を強めてあれこれと文句を言っている。中には支離滅裂な暴言まであった。
 しかし、どうしてだろう……なぜかこの老人には憎めない愛嬌のようなものがある気がした。祖父に雰囲気が似ていたからかもしれない。
 ゆりえは先輩である山(やま)梨(なし)友(とも)香(か)に近づいた。
 友香は、助けてくれと言いたげな作り笑顔をゆりえに向ける。ゆりえはサッと友香の手元にある予約客一覧に目を通した。
 山田太(た)郎(ろう)。
 書類見本の代表のような名前に、プッと吹き出したくなる口元を片手で押さえた。本名だろうか?
「申し訳ありません、山田様。ただいま支配人に連絡を取りますので、少しお待ちを……」
 友香はマニュアル通りにホテル内線をかけはじめた。こういった事態ではすぐに支配人を呼ぶよう指導されている。
『山田様』はまだ怒ったフリをしながら友香の対応の仕方を観察している。
 そう……これはフリだ。
 祖父にそっくり。
 友香が内線で通話しているのを横目に、ゆりえはカウンターから離れ、山田に近づいてにっこり微笑んだ。
「山田様。支配人が参るまで、どうかこちらで足をお休めくださいませ。すぐにお茶をお持ちいたします。お水のほうがよろしいでしょうか?」
 エントランス横には外国からの迎賓を迎えても恥ずかしくない広々としたラウンジがあり、和モダンの内装にアンティークの長椅子が程よく調和して並んでいる。
 ゆりえはそこに山田を案内した。
「ふむ……君はなかなか見込みがある」
 山田はじろじろとゆりえを頭のてっぺんから爪先まで眺めながら言った。
「そうでしょうか……。ありがとうございます」
「落ち着いていて物怖じしないところがいい。客を迎えるのに慣れた人間だな。家は客商売をしているだろう。違うかい?」
 長椅子に腰かけると、山田太郎は杖の先で自分の隣をトントンと叩いた。
「ここに座りなさい。君の話を聞きたい」
 さっきまでの怒りはどこへやら。すっかり好(こう)好(こう)爺(や)の顔つきになった老人にそう促される。
 基本的に、客からの要望にはすべて応えろと指導されている。
 が、もちろん常識の範囲内での話だ。セクハラに該当することならきっぱり断っていいと言われている。しかし老山田にそんな嫌な雰囲気はなかった。
 友香に目を向けると、まだ内線でなにかボソボソと話しながらこちらを見ているところだった。
「わかりました」
 ゆりえは素直に山田の隣に腰をかけた。もちろん、適切な距離を置いて。
「山田様。お部屋がご用意できておらず、申し訳ありませんでした。すぐに対応いたしますので、お待ちくださいませ」
「構わんさ。別に本気で怒っていたわけじゃないからな」
 にこにこと表情を崩した山田は整った顔をしていた。若き日はかなりの美男だったのではないだろうか。この年代の男性にしてはかなり背も高い。
 山田は意気揚々と、ゆりえにいくつか個人的な質問をした──主に、ゆりえの仕事について。そしていくらかゆりえの家庭事情について。
 警戒してもよかったのだろう。ゆりえは職務とかけ離れていることをしているのかもしれない。でも、会話をはじめると山田はかなり話し上手で、ゆりえはすっかりこのひとときを楽しみはじめていた。
 いつのまにか、青い顔をした支配人とスーツ姿の長身の男性が近づいてくるのに、気づかなかったくらいに。
「爺さん……まったく、なにをやっているんだ?」
 ぞくりとするくらい低い声が上から聞こえて、ゆりえは驚いて顔を上げた。
 そこには、首を反らして見上げないと顔が見えないくらい背の高い男性がいた。
 完璧な着こなしのグレイのスーツ。短めに揃えられた黒髪。瞳は涼しげな奥二重だが、顔の作りは外国人かと思うほど深くはっきりしている……稀(まれ)に見るほどの偉丈夫だ。
 そんな彼と目が合った。
 息を呑んだのはゆりえだけではなかった……と思う。呆けた顔をしてしまったかもしれない。彼もちょっとおかしな顔をしていた。
 それでもその瞬間、ふたりの運命は廻(まわ)り出した。
 ふたりはしばらく金縛りにあったように見つめ合っていたが、横にいる支配人がごほんと乾いた咳をして、ゆりえは我に返った。
 そして気がつく。
 目の前の長身男性の胸元には、このホテルで働いている者全員がつける銀色のネームプレートがある。
 ──乃木一馬。
 乃木! まさか……噂に聞いたあの……!
「わしは少しばかりこちらのお嬢さんの話を聞いていただけだ。なかなかよい子だ。給料は弾んでおるだろうな?」
「余計なお世話だよ」
 乃木一馬はクイッと顎を引き、客であるはずの老人、山田にそう言い放った。
 ゆりえは卒倒しそうになった。
 いくら創業者の孫とはいえ(そして相手は常識外れのクレーマーとはいえ)、客に向かってなんという口の聞き方。
 話してみるといいひとだったとはいえ、山田はおそらく癇(かん)癪(しゃく)持ちで、いきなり若造に生意気な口を利かれて黙っているとは思えなかった。
 ゆりえはさっと立ち上がって、支配人に頭を下げた。
「持ち場を離れて申し訳ありませんでした」
 しかし、ゆりえに答えたのは支配人ではなく、乃木一馬のほうだった。
「君が謝る必要はないよ。どうせこの爺さんが無理に君を呼んだんだろう」
 山田が乃木一馬に向かって鋭く目を細めてみせる。ゆりえはさらに慌てた。
 多少エキセントリックなところはあるものの、山田はいいひとだ。杖をついた高齢者でもある。アメリカからやってきたばかりの次期社長候補に、このホテルから追い払われてしまうようなことになって欲しくなかった。
 海外ではクレーマーに対する対処が日本より厳しいと聞く。
 ゆりえは一馬に向き直った。
「いいえ、違います。わたしが進んで山田様をこちらにご案内したんです。ここで一緒に座ってお話しさせていただいたのも、わたしの意思です。出すぎたことをしました。申し訳ありません」
 ゆりえがそう頭を下げると、山田は横でニヤニヤと微笑んでいる。
 乃木一馬はわずかに片眉を上げて、顔を上げようとするゆりえを見下ろした──ゆりえは小柄ではなく、百六十センチ弱ある。それでも乃木一馬の前にいると見下ろされる形になった。
(う……わ……)
 視線に、飲み込まれてしまうのではないかと思った……。
 そのくらいまっすぐに見つめられる。
 もしかしたらせっかくの職場を失ってしまうかもしれない状況だというのに、ゆりえの頭の中は乃木一馬の端正で精悍な顔つきでいっぱいになって、彼から目が離せなくなった。
 なんて綺麗なひとなんだろう……。
 いや、綺麗というのは違うかもしれない……。とにかく男そのものの迫力と色香がある……。格好いい、と沙織は言ったが、それはこのひとを表すには安っぽすぎる表現な気がした。
「なかなか見込みのあるお嬢さんだと言っただろう、一馬」
 山田は長椅子に座ったまま、すらりと足を組んだ。
 杖をついて歩く必要のある人間の動きには見えなかった。
 ──一馬? よ、呼び捨て?
「そうやって従業員を試すのはやめてくれと言っただろう、爺さん。あんたはもう引退したんだ。いつから山田なんていう名前になったんだ。しかもその杖はなんだ」
 爺さん? 引退?
 ヤマダタロウはやっぱり本名じゃなかったの?
 まさか……。まさか……。
「堅苦しいことを言うな、孫よ。お前もわしくらいの歳になれば理解するようになるだろう。自分の築いたホテルがどう動いているか、知りたかっただけさ」
 山田……もとい乃木相馬……世界の乃木ホテルグループ創始者はそう言って不敵に微笑んだ。
 ゆりえはその場で、生まれてはじめて失神した。

 その日の夕方、シフトを終えて帰ろうとするゆりえの元に、乃木一馬が現れた。
 イケメン御曹司の登場に騒然とする従業員の控え室で、一馬はゆりえをカフェに誘った。お詫びだ、と言って。
 ……ディナーではないところが可愛い。
 夕食ともなるとハードルが高いが、カフェであれば仕事帰りの格好でも気楽に入れる。会ったばかりの男性が相手でも抵抗は少ない。
 断る口実も見つからなくて、ゆりえはその誘いを受けた。
 きっと明日は仕事仲間から質問攻めにあうだろうけれど……後悔はない。
 そんなわけで、ふたりは夕暮れのオフィス街の片隅にあるガラス張りの洒落たカフェで、向き合っていた。
 ゆりえはトールサイズのラテ。一馬はエスプレッソと、目を疑いたくなる量のスイーツを注文していた。
「今朝はすまなかった。爺さん……いや、祖父のイタズラが過ぎたな」
「いえ……大丈夫です。気にしないでください。わたしよりも、どちらかというと友香さんのほうがかわいそうでしたから」
 ゆりえは自分のラテを啜(すす)りながらそう指摘する。
「友香?」
「最初にお祖父様に対応したフロントのレセプショニストです。わたしの指導係で、先輩です」
「へえ。祖父の話によれば、君の先輩はマニュアル通りの対応しかしなかったが、君は臨機応変に頑固ジジイをもてなしてくれたとのことだった」
 頑固ジジイ発言に、ゆりえはラテを吹き出しそうになった。
「お祖父様については、仕方ありませんよ。少しくらい頑固で変わり者じゃないと、一から事業を育てるなんてことはできないんだと思います」
 カップをテーブルに置き、そっと一馬に視線を向ける。
 一方、一馬は遠慮などどこ吹く風で、じっとゆりえを見つめていた。
「まるで知っているようなことを言うんだな」
 一馬の口調はやんわりとしていて優しかった。
「わたしの祖父も創業者なんです。運送業で、トラック二台から今のそれなりの大きさの会社に育てました。なんとなく乃木部長のお祖父様に雰囲気が似ています」
 ゆりえは説明した。
「……だから、わたしは慣れていただけなんです。友香さんが劣っていたとか、そういうことじゃないんです、きっと」
 一馬はゆりえの言葉を注意深く聞きながら、ゆっくりとカップを口元に運ぶ。テイラーメイドのスーツは一馬の動きに合わせて優雅に伸縮して、銀の腕時計がちらりと覗いた。パテック・フィリップ。
 このスマホ時代にあっても、一馬はしっかり腕時計に金をかけている男だった。
 もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれない。
 でもなんとなく、この事実が一馬のひととなりを表している気がした。男らしくてちょっと保守的で、真面目なひと。
 例えば他のメーカーの高級腕時計だったら、ただの成金だと思ったかもしれない。でもパテック・フィリップは本当にこだわる通だけが顧客になるスイスの老舗だ──まるで乃木ホテルみたいに。
「君は面白いな。堂々としているかと思えば控えめで。面白いコンビネーションだ」
「そうでしょうか……?」
「ああ。爺さんの前で俺に立ち向かってきたとき、きっとこれは気の強い女なんだろうなと思った。でもいきなり気絶してしまうし」
「あ、あれは……できれば忘れちゃってください」
「はは」
 微笑んだ一馬はちょっと反応に困るくらい魅力的だった。
 涼しげな目元が細められて、肉感的な唇が大胆に広がる。完璧な歯並びの白い歯がちらりと現れた。
 堂々とした仕草や、少し大袈裟に手や顔の筋肉を動かしながら喋るところは、彼が噂通りアメリカ育ちであることをうかがわせる。
「忘れないよ。あれは多分、一生忘れられないだろうな」
 その言葉の意味を──ああ、この言葉にどんな意味があったのかを。
 ゆりえはあとになって思い知ることになる。
 でもその夕暮れ、二種類のドーナッツとチョコチップ入りのスコーンをまるで息をするようにサラッと平らげてしまった一馬と、それをからかうゆりえとは、ただ笑い合って満ち足りた時間を過ごした。
「ここのスイーツ、すごいカロリーだって聞きましたよ。いつもそんなに食べるんですか?」
「たまにね。これからジムに行くし、俺くらいのガタイになると消費カロリーも多いからいいんだよ。それに、少なくとも俺のエスプレッソにはひと粒も砂糖が入ってない。その無垢そうな君のラテに、いくら砂糖が入ってるか知ってるかい? これから運動する?」
「む……むむ、それは……」
「ほら」
 一馬に惹かれる要素はたくさんあった。
 容姿、声、世界に名だたるホテルチェーンの御曹司でありながら、それをひけらかさないところ……。
 でも一番惹かれたのは笑顔だった。
 そして笑い声。
 この笑い声をいつまでも聞いていたかった。彼が笑顔を向ける、唯一の女になれたらいいのにと願った。
 そしてふたりでいつまでも微笑み合って、生きていけたら、と……。

 お詫びという名目だった一回目のカフェデートは、二回目、三回目へと続いた。
 カフェでのデートはいつしかレストランでのランチに進み、出会ってから二週間後には、夜のディナーに誘われた。
 その晩、一馬はまるで当然のように当時実家住みだったゆりえの自宅まで車で迎えに来て、「しなくていい」とゆりえが止めたにもかかわらず、両親に挨拶していった。
 たまたまお茶を飲みに来ていた祖父までが玄関先に出てきて、ちょっとした騒ぎになったものだ。
 はじめてのキスはこの夜だった。


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