書籍詳細 一覧へ戻る

恋の焚書には断固負けられません! 本好き転生令嬢はロマンスに堕ちる

すずね凜 / 著
金ひかる / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/07/26

電子配信書店

  • Amazon kindle
  • コミックシーモア
  • Renta
  • piccoma
  • どこでも読書
  • booklive
  • ブックパス
  • ドコモ dブック
  • ebookjapan
  • DMM
  • honto
  • 楽天kobo
  • どこでも読書

内容紹介

あなたこそ、ずっと探してきた人だ
司書の資格を持つ茉莉奈が異世界転生してマリーナとして目覚めたのは、女性が読み書きを禁じられ、許可がないと発言すらできない男性優位の国だった。マリーナが反発すると、なぜか第二皇子ランベルトが求婚してきて!? ランベルトは古いしきたりを次々打破し「才能ある女性を埋もれさせるのは損失だ」と奮闘していた。「誰にも渡したくない」無事結婚式を挙げた初めての夜、官能の悦びを教えられる。しかし結婚後も彼への想いが日々膨らむ中、同志として尊敬するけど、夫でいてくれるのは、同志としての想いだけ? 不安が募りはじめて……。自由に本を読める世界を作るため奔走する!! 舶来かぶれの有能皇子と型破りな令嬢の異世界転生ラブ!!

立ち読み

 序章


 今朝から降り続いた雨は、午後になって強風を伴う豪雨となった。
 しかしそんな天候と裏腹に、N市の役場に向かう路線バスの最後列の席で、花(はな)園(ぞの)茉(ま)莉(り)奈(な)は夢と希望に胸を熱く膨らませていた。
 隣の席に腰掛けていた地元の住民らしい老婆がニコニコしながら話しかけてきた。
「お嬢さん、なんだかとても楽しそうだねえ」
「え? わかります?」
 茉莉奈は頬を染めた。ひとりでに顔がニマニマ緩んでいたのかもしれない。
「私、春からこの街の図書館に勤めることが決まったんです。今日は、その手続きに行くんです」
「図書館かい。本が好きなのだね?」
「はい! 子どもの頃から本を読むのが大好きで、大人になったらぜったいに図書館関係の職に就きたいと思ってきたんです。そのために、大学で図書館司書の資格を取って、必死に就職活動もして――やっと、この街の図書館で働くことが決まって、もう嬉しくて嬉しくて……」
「そうかいそうかい。夢が叶って良いことだねえ」
 人の良さそうな老婆は、我が事のように喜んでくれる。
「あんたみたいに美人で頭の良さそうな娘に恵まれて、さぞやご両親も鼻が高いだろうねえ」
 茉莉奈は睫毛(まつげ)をわずかに伏せて答える。
「――母は私が生まれた時に、父は先年この世を去りました。でも、二人共天国でとても喜んでくれていると思います」
 老婆は心から気の毒そうな声を出す。
「悪いことを言ってしまったね。でも、きっとその通り、ご両親はあんたを見守ってくれているよ。そうだ、近所の農家からいただいたんだけど、甘くて美味しいよ、お食べ」
 老婆が買い物袋から蜜柑(みかん)を出して、食べるよう勧める。
「ふふ、ありがとうございます」
 蜜柑を食べながら、茉莉奈と老婆はしばしおしゃべりに興じていた。
 と、突然、バスが急停止した。
「きゃっ」
 ガクンと身体が前のめりになって、茉莉奈は悲鳴を上げた。老婆が床に転げそうになったのを、茉莉奈は危ういところで抱き止めた。
 運転手がマイクを使い、緊迫した声で乗客に告げた。
「この先の道路が、土砂崩れで塞(ふさ)がれて通行不可能です。雨がさらにひどくなりそうなので、ここは危険です。皆さんバスを降りて、近くの停車場に一時避難してください」
 客たちは顔色を変えて席から立ち上がった。
 運転手はバスの前ドアを開けて先に降り、乗客たちの降車に手を貸している。最後列の席にいた茉莉奈と老婆は、一番後に降りる順番になってしまった。
「おばあちゃん、早く、一緒に降りよう」
 茉莉奈は老婆の手を取り、前のドアに急いだ。
 先に老婆を下車させる。
 雨風がバスの中に激しく吹き込んでいる。
「急いで、百メートル先に屋根付きの停車場があります。そこまで避難してください」
 運転手が切迫した口調で促す。乗客たちは暴風雨に吹き飛ばされそうになりながら、必死で停車場へ向かって急ぐ。
 最後にバスを降りた茉莉奈は、老婆の身体を支えるようにして歩き出す。ちらりと振り返ると、バスの前の道路は土砂崩れで埋まってしまっている。左右の崖はさらに崩落しそうだ。
 老婆は足が不自由なのか、足元がおぼつかない。
「道が悪いから気をつけて、転ばないように」
「ああすまないねぇ、お嬢さん、私がのろいからびしょ濡れに――」
「何言ってるの、こういう時はお互い様よ」
 茉莉奈は老婆を励ましながら進んだ。目の前に停車場が見えてきた。
「あと少し、頑張って」
 その時、老婆が狼狽(うろた)えた声を上げた。
「いけない、バスの中に買い物袋を忘れてきてしまったよ」
 老婆が取って返そうとしたので、茉莉奈は慌てて引き止める。
「ダメよ、危険だわ!」
「でも、でも、あれには私の大切なものが入ってるんだ。カードも病院の診察券も、孫娘のくれたお財布もある。あれがないと生きていけないよ」
 老婆は今にも泣き出しそうだ。
「わかった。私が取ってくる。私の方が足も速いし、まかせて。おばあちゃんは、先に行ってて」
 茉莉奈は老婆を停車場の方へ促した。
「気をつけておくれよ」
 老婆が気遣わしげに背中に声をかけてきた。
 茉莉奈は踵(きびす)を返した。最後に避難してきた運転手とすれ違いになり、彼が驚いたように茉莉奈の腕を掴もうとした。
「お客さん、危ない! 戻っちゃダメだ!」
「一分だけ、バスに大事な忘れ物をしたの!」
 茉莉奈は運転者の腕を振り解き、バスに向かって走った。ドアが開いたままのバスに飛び乗り最後列の席に向かうと、座席の上に置き忘れられた買い物袋が見えた。
「あった」
 買い物袋を鷲(わし)掴(づか)みにし、素早く前ドアに向かおうとした時だ。
 ごごごと地鳴りがしたかと思うと、バス全体がぐらりと大きく傾いた。
「ああっ?」
 茉莉奈は床に倒れ込み、椅子の手すりに掴まって必死に身体を支えようとした。窓越しに、土砂が恐ろしい勢いで迫ってくるのが見えた。
 次の瞬間、道路が陥没し、バスが真っ逆様になった。
「きゃああっ」
 茉莉奈の身体が一瞬、宙に浮く。そのまま、ジェットコースターに乗った時のように、恐ろしい速度で落下していく感覚があった。
 直後、茉莉奈は気が遠くなり、奈落の底に意識が沈んでいった――。
 意識を失う直前、過去の記憶が頭の中を通り過ぎていった。
 茉莉奈の父は、作家だった。それも、女性向けの恋愛小説が得意分野であった。父は気恥ずかしかったのか、娘には恋愛小説を書いていることを隠していた。だが、茉莉奈は父の書いているものに気がついていた。
 父の仕事場である書斎には、大きな書棚がいくつもあり、ぎっしりと本で埋め尽くされていた。そこには父の書いた恋愛小説も数多く並んでいた。
 茉莉奈は父の影響もあり、幼い時から本を読むのが大好きだった。もの心がつくようになると、父の書いた恋愛小説も読み漁り、密かにファンになっていた。
 父の仕事場に入り浸って、お気に入りの本を繙(ひもと)きながら、たくさんの本に囲まれて過ごすのはとても幸せだった――。
 そこで記憶がぼやけ、すべてが暗転していく――。


 第一章 異世界に転生しました


 プラチナブロンドの美少女が、ヨーロッパ風のお城の中で迷子になっている。
 建国記念日に、皇帝陛下主催のお食事会に両親が招かれ、幼い少女もお供して生まれて初めて皇城に来たのだ。広く豪華なお城に目を奪われ、うろうろしているうちに帰り道を失ってしまった。
「お父様、お母様――」
 長い廊下を彷徨(さまよ)っていると、柱の陰に狭い地下への階段があり、そこからかすかに光が漏れていた。誰かいるかもしれない。おそるおそる階段を下りていくと、ふいに広い部屋に出た。
「あ――?」
 薄暗い部屋一面に古めかしい書棚が並んでいて、数えきれないほどの書物が収められている。
 地下の天井に吹き抜けの小さな明かり取りがあり、そこから一条の光が差し込んでいた。
 こんなにたくさんの本を見たのは、生まれて初めてだった。
「わあ……」
 羊皮紙の独特な香りが静(せい)謐(ひつ)な部屋の中を満たしていた。
 少女はうっとりと本棚を見上げ、深呼吸する。
 少女は字が読めない。だから、一度も本を読んだことがなかった。でも、なぜかずっと本に対する憧(しょう)憬(けい)があった。
 ふいに、書棚の陰から一人の少年が姿を現した。音もなく現れたので、少女は驚いて声を上げてしまう。
「きゃっ……」
 年の頃は十歳くらいか。ひょろりと背が高く、さらさらしたハニーブロンドの髪に深い海のような青い目、ハッとするほど整った容姿であった。着ている服は見るからに高級で、きっと身分の高い家の子息だろう。彼は右手に一冊の本を携えていた。
「お前は誰だ? なぜ、ここにいる?」
 少年は警戒した顔で誰(すい)何(か)した。年若いのに、ひどく威厳のある口調だ。
 女子は男子から発言を許可されるまでは無言でいるのが慣わしだ。少女は押し黙っていた。
 すると少年は、少し苛(いら)立(だ)たしげに言った。
「好きに話していい、遠慮するな」
 少女はほっと息を吐き、小声で返事をした。
「わ、私――今日、お父様とお母様についてお城に上がったの。道に迷ってしまって……そこの扉が開いていたから――」
「ああ、今日は食事会があったな――私がうっかり扉を閉め忘れたのか。ここに入ったのはお前一人きりか?」
「はい」
「そうか――」
 少年が合点がいったようにうなずいた。彼の表情が解けたので、少女は少し安堵(あんど)した。
「ご本を読んでらしたの?」
 少年は自分の持っている本に目をやった。
「そうだ。詩の本だ」
「詩の、本?」
 それは禁制の本ではないだろうか。
 この国では、聖書や実用書や学問関係や辞典以外の本を出すことは禁じられていたはずだ。
「そうだよ。素晴らしい詩がいっぱい載っている」
 少年は悪びれる様子もなく、本を開いた。
「この世に ただひとりの人に心を捧げた
 この恋をその人に打ち明けることはしないが
 この世界の女性の誰よりも彼女に幸あれと 
 誰よりも願っているのは
 私だけ」 
 少年は澄んだボーイソプラノですらすらと詩の一節を読み上げた。
 まだ少女には恋のなんたるかはわからなかったが、その詩の言葉はじんわりと心に沁(し)みた。
「素敵だわ……」
 うっとりと聞き入り、その詩を復唱した。
「この世に ただひとりの人に心を捧げた」
 少年が白(はく)皙(せき)の顔をわずかに赤らめた。
「覚えがいいね。私の好きな詩だ。君もこの詩を気に入ってくれたのかい?」
「ええ、とても。いつか私もこんなご本が読めるようになれたらいいのに……」
「そうか。なんなら、もっと読んであげようか?」
「聞きたいわ」
「よし」
 少年はゆっくりと近づいてきた。
 目の前に立たれると、少年のあまりの美麗さに少女は圧倒されてしまう。心臓がドキドキして、息が止まりそうだ。
「次はこの詩を――」
 少年が読み上げようとした時、階段の上から女性の声が聞こえてきた。
「マリーナ、マリーナ、どこに行ってしまったの?」
 少女はハッとする。
「お母様だわ、私を探している」
 少年は素早く本を閉じると、促すように手を振った。
「早く上に行くといい。ここは秘密の場所だから、ぜったいに誰にも言わないでくれ」
「わ、わかったわ。秘密ね」
 少女は急ぎ足で階段を上がった。背後から少年が声をかけてくる。
「そうだ、君と私だけの秘密だ。守れるかい?」
「もちろんよ」
 少女は最上段で振り返り、強くうなずいた。
 少年がにっこりと笑う。
 その眩(まぶ)しい笑顔に、少女の胸はときめきで破裂しそうになった。
 扉から廊下に出ると、向こうから母が息せききってやってきた。
「マリーナ、勝手にお城の中を歩き回ってはいけません」
 強い声で叱(しっ)責(せき)され、少女はしゅんとしてうつむく。
「ごめんなさい……」
 謝りながら、ちらりと肩越しに振り返ると、扉があった箇所はぴっちりと閉まっていて、どこに地下への階段があったのか見当もつかなかった。内側から少年が閉めたのだろうか。
 まるで、最初からそこに扉などなかったかのようだ。
「さあ、急いで戻りましょう」
 母に手を引かれ、少女は歩き出す。口の中でつぶやく。
「――この世に ただひとりの人に心を捧げた」
「え? なにか言った?」
 母が不審そうに振り返る。
「いいえ、なにも――」
 少女は首を振った。
 少年との約束だ。誰にも言うまい。
 二人だけの秘密。
 甘い感情が心を満たす。いつかまたあの少年と出会うことがあるだろうか。会いたい、と強く思った。
 それが自分の初恋だと気がついたのは、ずいぶん後になってのことだった。
 その後、少女は病気がちで臥(ふ)せっていることが多くなり、お城に出向く機会もなかった。
 あの少年と再会することは叶わなかった――。

「……っ」
 ふいに呼吸が戻った。肺が押し潰されるように苦しい。心臓がゆっくりと鼓動を開始する。
「ああっ、息が戻ったわっ」
「おお神よ、奇跡だ」
「マリーナ、目を覚まして、マリーナ」
 周囲から涙交じりの声が聞こえてくる。
 瞼(まぶた)が重い。のろのろと目を開いた。
「……ぁ?」
 口(くち)髭(ひげ)を生やした紳士、品の良い婦人、ハンサムな十四、五歳くらいの少年、メイドの格好をした女性たちが顔を覗き込んでいる。全員外国人で、映画でしか観たことのない時代的な服装をしていた。
 彼らはいっせいに歓喜の声を上げた。
「マリーナが目を覚ましたわ!」
「娘が生き返ったのだ!」
「姉上に奇跡が起きた!」
「マリーナお嬢様が蘇(よみがえ)ったのだ!」
 日本語ではないのに、言葉は理解できた。
 手を取り合って喜ぶ彼らの姿を凝視する。
 彼らは家族なのか?
「!?」
 なにがなんだかわからなかった。
 辺りをそっと見回す。蒲(かま)鉾(ぼこ)形(がた)で古めかしい絵が描かれた天井、大理石風の壁は細かな植物の紋様が彫り込まれ、大小の絵画で飾られてあった。四柱に支えられた天(てん)蓋(がい)のついた、ふんわりした羽布団のベッド。
 なにもかも場違いだ。
 バスごと崖下に転落したという記憶はある。
 長いこと、混乱した夢の中にいたような気がする。これが夢なのか、それともバス転落の方が夢なのか。
 品の良い婦人が、涙ながらに抱きしめてくる。
「マリーナ、あなたは呼吸困難になって、一時は心臓が止まってしまったのよ。お医者様はもう助からないと言ったけれど、お父様も私も、屋敷中の者があなたのために必死で祈り続けて――ああ、神様は私たちを見捨てなかったのだわ」
「……」
 この婦人が母なのだろうか?
 ぼうっとした頭の中で、まだ夢の中にいるのかと思う。
 おかしい。私は花園茉莉奈ではないのか?
 こんな世界、知らない。
 でも、どうしてこの世界のことをなんとなく理解しているのか?
「あ、の……」
 乾いた唇から、掠(かす)れた声が出た。か細いが鈴を振るような綺麗な声だ。
「なぁに? お水を飲みたいの?」
 母らしき婦人が聞いてくる。
「あの、鏡を……見せて」
「顔が気になるの? ――鏡をここへ」
 母らしき婦人が、そばの侍女に目配せした。侍女が素早く手鏡を持ってきて、婦人に手渡す。婦人が手鏡をかざしてくれた。
「ほら、ご覧なさい。ずいぶん顔色が良くなってきたわ」
「!!」
 そこに映っているのは。
 プラチナブロンドの長い髪、透き通るような白い肌、つぶらなすみれ色の瞳、まだあどけなさの残るお人形のように整った美貌――日本人要素がまるでない。
 花園茉莉奈はどこに行ってしまったのだ?
「これが、私?」
 呆然とする。母らしき婦人は、優しく諭(さと)す。
「生き返ったばかりで、頭が混乱しているのね。そうよ、あなたはエーベルト侯爵家の娘、マリーナ・エーベルトよ。この間、十八歳のお誕生日をお祝いしたばかりでしょう? 覚えていない?」
「――」
 目をぎゅっと瞑(つぶ)る。
 夢にしては、何もかもがリアルに感じられる。
 だが、これ以上彼らと接していては、混乱が増すばかりだ。
 とにかく、頭の中を整理したい。
「す、少し休みたいわ、ひ、一人に、して……」
 震え声で言うと、婦人がそっと頭を撫でた。
「もちろんよ。好きなだけお眠りなさい。そして、早く元気になるのよ」 
 彼女がベッドから離れると、口髭の紳士が厳しく言った。
「よし、アニエス、ウォルフガングも、皆部屋を出よう。マリーナを休ませてあげるんだ」
 彼は茉莉奈に優しく声をかけてきた。
「マリーナ、私からジグムント第一皇太子殿下にお前が持ち直したことを報告しておくよ。お前はゆっくり休みなさい」
 ハンサムな少年も話しかける。
「姉上、私も弟として、姉上の奇跡の生還を学校や社交界で広めるよ」
 それから、口髭の紳士を先頭にその後にハンサムな少年、女性たちが続き、ぞろぞろと部屋を出ていく。
 侍女の一人が、ベッドの天蓋幕を下ろしてから退出した。
 部屋の中が静まり返る。
「――どういうこと?」
 茉莉奈はつぶやく。
 いやもう、自分は茉莉奈ではなくマリーナなのか?
 ここはまったく知らない異世界だ。
 バスが転落した時――茉莉奈は命を失ってしまったのかもしれない。
 そして、同時刻に異世界で病気のため命を落とした、このマリーナという乙女の身体に蘇ってしまったのか。頭をふるふると振る。
「そんな小説みたいなこと……でも……」
 茉莉奈が愛読しているライト系小説には、異世界へ転生してしまうシチュエーションも多い。けれど、まさか自分の身にそんなことが起きたなんて――。
 両手で顔を覆う。
 白く細い手。滑らかな肌と小作りの顔。
 そろそろと両手を下ろし、首や肩、胸、お腹から腰の辺りまでまさぐってみる。
 小柄だ。ほっそりした首、華奢な肩、まろやかな乳房、薄い下腹――。
 なにもかも、以前の茉莉奈の肉体とは違う。
 茉莉奈は長身で、運動好きで普段からジムで鍛えていて、がっちりとした体型だった。
「私は、マリーナという子に生まれ変わってしまったということ?」
 信じられない。
 おそらくバス事故で大怪我を負い、意識不明な状態で、頭の中が混(こん)濁(だく)しているのだ。
「そうよ、今度目覚めたら、元の世界にいるに違いないわ」
 茉莉奈は自分に言い聞かせ、再び目を閉じた。
 病み上がりらしい肉体は疲労感が強く、すぐに眠りが襲ってきた。
 大丈夫、眠って起きたら――きっと。
 ゆっくりと深い眠りの中に落ちていく。

 するするとベッドの天蓋幕が巻き上がり、差し込んだ朝日の眩しさに、茉莉奈はふっと目を覚ました。
「ん……」
 気だるく意識が戻ってきた。
 次の瞬間、ハッと目が覚めた。
「あっ?」
 寝る前と同じベッドの上だった。
「――」
 茉莉奈は声を失う。
 顔を横に向けると、ベッドの脇でメイドのような制服を着た侍女が頭を下げていた。いつまでもそのままじっとしている。
 茉莉奈はどうしていいかわからず、気まずくもじもじしていたが、やがて遠慮がちに声をかけてみた。
「お、お早う……」
 侍女はすぐに答えた。
「お嬢様、お早うございます。お目覚めでしょうか?」
「――変わらない」
 昨日と同じ場所だ。
 呆然としていると、侍女がけげんな顔になる。
「お嬢様? まだご気分がお悪いですか」
 侍女が心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「お医者様をお呼びしますか?」
 今の精神状態で、誰かに身体に触れられるのは耐えられない。
「い、いえ、大丈夫……」
「そうですか。では、朝食を召し上がりますか?」
 侍女はベッドの上に木製の簡易テーブルを設置すると、運んできたワゴンから食器を載せる。繊細な陶器のボウルの中には、ほかほかと湯気の立つお粥のようなものが入っていた。その香りに、俄(にわか)に空腹を覚えた。
 とにかく、お腹になにか入れて気力を取り戻そう。
「いただくわ」
「かしこまりました」
 侍女は茉莉奈の首の回りに白いナプキンを巻くと、銀の匙(さじ)でお粥のようなものを掬(すく)って口元に差し出した。
「どうぞ、まだ熱いですので気をつけて」
 茉莉奈は戸惑う。
「あ、いえ、一人で食べられるから」
 侍女は驚いたように目を丸くしたが、黙って匙を手渡してくれた。
 茉莉奈はゆっくりと粥を口にした。甘く煮たパン粥のような味だ。
「美味しい……」
 温かい料理は気持ちを和ませる。
 ぱくぱくとあっという間に食べ尽くしてしまい、まだ物足りない。
「あの――お代わりはある?」
 侍女にそう言うと、彼女は先ほどよりさらに目を見開いた。
「は、はいっ、すぐにお代わりを――」
 侍女はそそくさとワゴンを押して部屋を出ていった。かと思うと、入れ替わりのように昨夜の母らしき婦人が血相を変えて飛び込んできた。
「マリーナ、あなた、お代わりを求めたんですって? ああ、なんということ――」
 婦人はぎゅっと抱きしめ、頬を擦り付けて啜(すす)り泣く。
「あんなに好き嫌いが多くて、少食だったあなたが――きっと神様が生き返ったあなたに生命力をお与えになったのだわ。ずっと神様にお祈りしていたかいがあったわ。なんて嬉しいの」
「あ……」
 婦人の身体は柔らかくいい香りがした。胸がじんわりと熱くなった。
 母は茉莉奈が赤ん坊の時に病気で死んでしまった。茉莉奈は母の顔も、母の感触も知らない。
 こんなふうに自分のことを心から心配してくれる婦人に、強い親近感が湧き上がる。生前のマリーナの心が、まだこの身体のどこかに宿っているのかもしれない。思わず、言葉が口をついて出た。
「お、お母様、泣かないで。これからは、もりもりなんでも食べて元気になりますから」
「おおマリーナ、いい子ね。愛しているわ」
 母たる婦人は何度も茉莉奈の頬に口づけした。
 とにかく、今は一刻も早く元気を取り戻し、これからどう生きるか考えよう。
 もしかしたら、ひょんなきっかけで元の世界に戻れるかもしれない。
 茉莉奈は希望が湧き、気持ちが幾(いく)分(ぶん)軽くなった。
 その日、侯爵夫人や侍女たちや顔を見せた侯爵や弟との会話で、少しだけこの世界のことがわかった。
 今生きている国は、ブルクハルト帝国といい、皇帝が政治を取り仕切っている。この国は三百年前から一部の地域を除き鎖国に近い形をとっているらしい。十八世紀頃のヨーロッパの風俗と似ている文化のようだ。
 現在ブルクハルト帝国は、三年前に逝去した皇帝陛下の代わりに皇太后が政務を取り仕切っている。
 女性が皇位に就くことは許されていないが、特例として皇子が規定の年齢に達していない場合だけ、臨時に女帝の地位に就くことが許されていた。ブルクハルト帝国では、皇子は二十五歳にならないと皇帝の座に上れない。現在、第一皇太子ジグムントは二十四歳である。
 来年には第一皇太子ジグムントが皇帝の座に就くことになっていた。
 マリーナの生まれたエーベルト侯爵家は、由緒正しい家系で、皇帝家の親戚筋に当たるという。
 そして、驚いたことに――皇帝は代々、親戚の家系から妻を娶(めと)る慣わしであり、次期皇帝になる第一皇太子ジグムントとマリーナは、生まれながらに許嫁の関係だという。しかも、結婚は決定事項で、皇帝家の慣わしで、結婚までは会う必要もないのだという。ジグムント皇太子とはまだ一度も顔を合わせたことがないらしい。
 初め、その話を聞いても茉莉奈にはまるでぴんとこなかった。
 なにしろ、その許嫁の皇子とやらの顔も見たことがないのだ。
 自由恋愛の世界から来た茉莉奈は、こういう結婚形式に従う気には到底なれなかったが、まだこの環境を把握するだけで精いっぱいだ。この件は、後で考えるしかない。
 それともうひとつ、とても気になったことがあった。
 どうもこの国では、男性優位の身分制の社会のようだということだ。
 エーベルト侯爵夫人は気立ての良い人だが、侯爵や弟の前では一歩も二歩も後ろに下がり、おとなしく控えめにしている。そういえば、昨夜部屋を出ていく順番も、男が先だった。だが、もしかしたらこれはエーベルト侯爵家だけのしきたりなのかもしれない。
 侍女や使用人たちは、エーベルト侯爵家の人が話しかけるまでは、じっと無言で待機している。どうやら、身分の低い者はみだりに身分の高い人に話しかけてはいけない決まりらしい。
 信じられない差別社会なのだ。
 こんな世界でやっていけるのだろうか。
 不安しかなかったが、とにかく元気を取り戻すことが第一だと、自分に言い聞かせた。

 翌日のことである。
 昼食の魚の揚げ物がとても美味しくて、ベッドの上でお代わりをぱくついていると、侯爵夫人が慌ただしく部屋へやってきた。
「マリーナ、お食事はもう切り上げて、身支度を整えなさい。皇帝家からのお見舞いに、皇子様がおいでになったのよ」
 茉莉奈は慌てて口の中のものをごくんと飲み込んだ。
「え? あのジグムントとかいう人?」
 侯爵夫人は眉を顰(ひそ)める。
「なんですか、その失礼な口のきき方は。あなた、生き返って元気になったのはいいけれど、少しものの言い方がぞんざいになったわ。あ、いえ、おいでになられたのは第二皇子のランベルト様よ。ジグムント様の代理でいらしたということよ」
「ランベルト――様?」
 どちらにしろ、馴染みのない人物だ。
 侯爵夫人は少し厳しい声で言う。
「くれぐれも失礼のないようにするのよ。病気とはいえ寝たまま男性をお迎えするのは、失礼極まりないわ。起きてきちんとしたドレスに着替えて。いいこと、家族以外は男性が言葉をかけるまでは女性は無言でいることを、忘れないでね?」
「え、なにそれ――」
「とにかく、早く支度を。皆、入りなさい」
 侯爵夫人の合図で、侍女たちがぞろぞろ現れ、ベッドから引(ひ)き摺(ず)り出された。化粧台の前に立たされ、シュミーズ一枚の姿にされ、侍女たちがかさばるドレスやパニエやコルセットを運び込み、着替えをさせられる。
 鎧(よろい)のようなコルセットには息が止まりそうで閉口した。
 だが、繊細なレースやリボンで飾られたスカートが大きく広がったボリュームのあるドレスに着替え、首周りをすっきりとさせ前髪を豊かに膨らませたヘアスタイルに髪を結い上げられ、病み上がりを隠すためにほんのり薄化粧をほどこされると、鏡の中に見事な貴婦人が現れた。
「こ――これが私?」
 自分でも見惚れてしまうほどの美女ぶりだ。
 だがゆっくり感動している暇もない。侍女に手を引かれて応接間に導かれる。
 第二皇子とかいう人とどう接していいのか、皆目見当もつかない。後ろから侯爵夫人があれこれ注意事項を話してくるが、緊張している茉莉奈の頭にはろくに入ってこなかった。
「皇子様がお座りになるまで、お部屋の隅できちんと頭を下げたままで立っているのですよ。それと、皇帝家の男性の方々とは気安く口をきいてはなりません。相手の方から口をきいてよいとお許しが出るまでは、絶対に無言でいなさい」
 侯爵夫人はそう言い置いて、茉莉奈一人を残して侍女たちと退出した。
「ど、どうしよう……」
 茉莉奈は応接間の隅で立ち尽くした。花の紋様の入ったオリーブグリーンの壁に同色の重々しい調度品、毛織りの絨毯、大理石の暖炉、格式高い部屋の作りに圧倒される。侯爵家はかなり裕福なのだな、と思う。
 ほどなく扉がノックされた。
「あ、どうぞ」
 と答えると、侍従が呼びかけた。
「お嬢様、ランベルト・ブルクハルト第二皇子殿下のおいででございます」
 茉莉奈はとっさに侯爵夫人に言われたように、頭を低く下げて待った。他にできることがなかった。
 扉が静かに開く気配がし、かつかつと小気味のよい靴音が近づいてくる。息を詰め、声がかかるのを待つ。
「エーベルト侯爵令嬢、この度、瀕死(ひんし)の病から奇跡の生還を果たされ、無事にご快癒に向かわれているとのこと、心よりお慶び申し上げる。兄が多忙につき、私が代理でお見舞いに伺ったことを、どうかご容赦いただきたい」
 背中をぞくりと擦り上げていくような、蠱惑的(こわくてき)な低音ボイスであった。思わず顔を上げそうになり、危ういところで押し止まった。
「病み上がりの女性を立たせるなど、あまりに非道だ。どうか、お座りください」
「え……」
 反射的に口をききそうになり、侯爵夫人の注意を思い出した。無言のままで、どう対処していいのかわからない。すると、目の前にすっと相手の手が差し出された。指がすんなり長く手入れの行き届いた大きな手だ。
「どうぞ、ソファまで手を貸しましょう」
「――」
 思わずその手に自分の右手を預けていた。温かく包み込むような男の手の感触に、鼓動が速くなる。
 ランベルトにゆっくりとソファまで導かれる。
「お座りなさい」
 茉莉奈は顔をうつむけたまま、ソファに腰を下ろした。侯爵夫人にあれほど皇子様がお座りになるまで、お部屋の隅できちんと頭を下げたままで立っているよう言われたのに、一人で座ったりしていいのだろうか。
「そんなに遠慮しないで、顔を上げてください」
 誘うように言われ、おずおずと顔を上げた。
 身を屈め、気遣わしげに覗き込んでいるランベルトと、まともに視線が合ってしまう。
「っ――」
 その瞬間、茉莉奈は息が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
 年は二十三歳と聞いていたが、大人びて落ち着いた雰囲気がある。すらりと背が高い青年だ。
 艶(つや)やかなブロンドに切れ長のサファイア色の瞳、高い鼻(び)梁(りょう)に形の良い唇。男らしい精(せい)悍(かん)な美貌の持ち主だ。
 仕立ての良さそうな襟の金の縫い取りがある濃紺で裾の長い上着に、脱色した膝丈のズボンにピカピカに磨き上げた革のブーツを履いていた。
 まるで外国の映画俳優のような美しさに、茉莉奈は魅了されてしまう。
「おお、思ったより顔色も良さそうで、安心しました」
 ランベルトは目を細めた。
 容貌も魅力的だが、なんといってもその深みのある艶っぽい声は、聞いているだけで心が掻(か)き乱(みだ)されるようだ。茉莉奈は心臓がドキドキ高鳴るのを感じた。
「あ、あの……」
 思わず声をかけてしまい、慌てて言葉を呑(の)み込(こ)む。すると、ランベルトがゆったりと微笑んだ。
「私の前では、好きにお話ししてかまいませんよ。私は、女性をあれこれ束縛するのは好みませんから」


この続きは「恋の焚書には断固負けられません! 本好き転生令嬢はロマンスに堕ちる」でお楽しみください♪