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竜帝陛下とつなぎの側妃

水上涼子 / 著
南国ばなな / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/07/26

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内容紹介

我が妃、我が唯一
言霊が強い特別な存在として、訳も分からないまま竜人と人間が共存する異世界に召喚された古都葉。辿り着いた先で偶然倒れていた男・ヴァルグレイを助ける。知らずに古都葉が介抱した彼はなんと、この世界で上位の存在とされる竜人の国の皇帝だった! 「逃げられないくらい大事にするから」強引ながらも優しい彼に気に入られ、ヴァルグレイに番が見つかるまでの『つなぎの側妃』として竜人国に連れていかれ、側に置かれることに。大切にされる日々を送りながら、自分は彼の番ではないという事実に苦しむ古都葉だったが……。「黙ってオレに愛されていろ」番という運命に翻弄される二人のすれ違いラブ!

立ち読み

裏切り


「やってらんないわ」
 きらびやかなネオン街を外れ、音(おと)無(なし)古(こ)都(と)葉(は)はフラつきながら裏通りを歩いていた。寝不足状態で酒を飲んだせいで、たった二杯で酔ってしまったようだ。
 ここ一週間、ろくに睡眠を取れていない。開発部の自分の仕事に加え、三か月前から彼氏になった営業部の同期、健(けん)一(いち)の仕事を手伝っているせいである。プレゼン用の資料作りを「手伝って」と言われ、二つ返事で引き受けた。初めは一緒に仕事をするのが楽しくて、知識を総動員して頑張った。それがよかったのか悪かったのか。高評価を得ると、彼は何のかんの理由をつけて、丸投げしてくるようになってしまったのだ。今日は重大なプレゼンを控えているにもかかわらず、母親の見舞いに行くと言ったきり。おかげでこちらは、土曜にもかかわらず自宅でずっと仕事をしていた。
 やっとできあがった資料を確認してもらおうと電話をすれば、全くつながらない。こんな時間まで病院にいるものなのか。何度か一緒に行ったバーで時間を潰したものの、一向に折り返しの連絡はない。
「メールで送らなくて正解だったかな」
 寝不足の体に鞭(むち)打って巻いた髪を一房とり、溜息をつく。映画の主人公に憧れて染めたシルバーブロンドにかかる白い息が侘(わび)しい。わざわざメモリスティックに入れて持ってきたのは会いたいという気持ちからだが、今となっては簡単に渡してしまわなくてよかったと思う。
 ふと顔を上げた時、親友の赤(あか)羽(ばね)美(み)優(ゆ)の姿が目に入った。小柄で華奢な体型なのに、彼女は雑踏でもよく目立つ。背筋をピンと伸ばしたきれいな姿勢のせいだろう。生粋のお嬢様である彼女には、一般人にはない上品さがあった。途端に沈んでいた気持ちが急浮上する。
「おーい、美優!」
 大声で呼ぶ古都葉の声に反応し、ショートボブの艶やかな黒髪からのぞくプラチナのピアスが大きく揺れた。小さな顔の半分はあろうかと思うほどの瞳が、こちらを向く。
 だが、破顔して駆け寄った古都葉とは対照的に、美優は幽霊にでも会ったかのような表情になった。
 そこがホテルの入り口だと気づいたのは、美優の目の前まで来た後だった。
(ああ、またやっちゃった)
 考えるよりも先に言葉が出てしまう古都葉は、こうやって後悔することが多い。自分の意見がしっかり言えるように『言の葉』を名前の由来にしたせいだと、亡くなった母がよく嘆いていた。ついでに、二番目に出るのは行動。考えるのはいつも後回しだ。
 こんなところで声をかけてしまい、気まずいことこの上ない。こういう時は見ないふりをするのが礼儀だろう。
(……ううん。今回ばかりは、声をかけて正解だったかも)
 古都葉は美優の隣に立つ人物に気づき、初めて考えなしに行動する自分を褒めたいと思った。
「え!? 古都葉?」
 声を発したのは、美優ではない。病院にいるはずの人だ。
「健一……何やってんの?」
 美優の肩を抱き、ホテルに入ろうとしているところだと分かってはいるが、一応聞いてみる。
 いつも二枚目然としている彼が、酸欠の金魚のように口をパクパクさせた。
「お母さんの具合が悪いんじゃなかったっけ?」
 古都葉は腕を組み、たたみかける。
「あ、いや、その……偶然……」
「偶然?」
「いや、古都葉は忙しいと思って……」
「ふーん。私は仕事で忙しいから、美優を誘ったんだ。で? 家にいるはずだから、こんな近場でも見つからないと思ったわけ?」
「……」
 彼はスッと視線を逸らし、ポリポリと頬をかいた。仕事で利用されているとは薄々分かっていたが、さすがにこれはひどい。罪悪感のかけらもない態度がまた腹立たしかった。
 沈黙を破ったのは、美優のすすり泣きだった。
 可愛い自慢の親友。誤解されやすいけれど実は真面目で、誰よりも信頼していた。大好きだった。
 だけど……。
「なんで、あんたが泣くの? 人の彼氏を寝取ったのはそっちでしょ?」
「……っ!」
 冷たく突き放され、美優は傷ついた顔をする。人を裏切っておきながら被害者ヅラをする態度に、沸々と怒りがこみ上げてきた。
「そ、そんな言い方ないだろ。美優に謝れよ」
 開き直ったのか、健一は取り繕うのもやめたらしい。あからさまに美優の味方についた。
「はあ? 事実を言っただけで、なんで謝らなきゃいけないの」
「いや! 美優は悪くない。悪いのは俺なんだよ。美優に会って、惹(ひ)かれるのを止められなかったんだ!」
 確かに、初めて美優を紹介した日、惚けたように彼女を見つめていた。けれど、彼女を見た男性は大抵そうなるため、気にも留めなかった。まさか、まさか……。
「信用してたのに。馬鹿みたい!」
 大きな声を出せば、周囲の人が足を止めてこちらを見る。他人の修羅場はおもしろいのだろう。遠巻きに野次馬ができ始めた。
「おい、大声出すなよ。そんなつもりじゃないから……」
 健一が呻(うめ)くように声を絞り出す。
「じゃあ、どういうつもり? せめて私と別れてからにすればよかったのに」
「そうするつもりだった」
「つもり、ばっかり。禁断の恋ってやつで、上手く美優の気を引けたわけ? 私はいい当て馬だったってことか」
「そんな……つもりは……」
 後が続かない。そんなつもりだったということだろう。
「まあ、これもあったしね」
 古都葉はバッグからメモリスティックを取り出した。
「これをもらってから別れるつもりだった?」
「それは……」
「頼まれてたプレゼン資料。あんたに見せようと思って連絡したのに……。まあ、連絡がつかないのも当然か」
 怒りと情けなさで息が苦しくなる。呼吸が浅くなり、目の前がくらくらしてきた。
「こんなに早いなんて、さすがだな! ありがとう。この埋め合わせは必ずする。なんでも欲しい物を言ってくれ」
 古都葉の様子など気にもせず、健一は手を伸ばしてくる。その手をパチンと払いのけ、一歩後ずさりした。
「欲しい物なんてないわ」
 古都葉はメモリスティックをくるくると手の中で弄(もてあそ)ぶ。しばらくそうした後、健一の不満げな顔の前に拳を突き出した。そして笑顔を作ると同時に、手の平を開く。重力に引かれ、カツンと乾いた音がアスファルトに響く。
「おい!」
 衆人の前で地面に落とされた物を拾うなんて、プライドの高いこの男にできるはずもない。
「ひどい……! こんなことするなんて」
 美優が涙声で抗議の声を上げる。その姿はまぎれもなくヒロイン。古都葉の方は悪役にしか見えないだろう。野次馬からもやりすぎだと非難の声が上がった。
「ひどい? 何が? 自分の仕事を彼女に押し付けて浮気に励む男の方がよっぽどひどいと思うけど」
「自分の……? それは彼の仕事なの?」
「そう。これは私の仕事じゃないわ」
「古都葉は彼を頼ってばかりいるから、別れられないって……。今回、一人でやれれば、別れるからって……」
 美優が健一に不審の目を向ける。誤解だ何だと一生懸命言い訳しているが、もうどうでもよかった。そんな言葉を彼女が信じたということがショックだった。
 ぜいぜいと呼吸がさらに乱れ、思わず胸元を押さえる。
「ねえ、謝るから、落ち着いて。また過呼吸になるよ」
 慌てた様子で伸ばされた手を振り払う。今更気遣われるのもわずらわしかった。
「私にかまわないで! あんたとは金輪際関わりたくない!」
 古都葉は一つ深呼吸をしてから、健一へ視線を移す。そして、メモリスティックにブーツの踵(かかと)をのせた。
「何をするんだ! やめろ!」
 制止を無視してぐっと踵に力を入れる。パキッと勢いよく割れる音がした。
「お前、なんてことするんだ!」
 健一は蒼白になって怒鳴り散らす。それはそうだろう。プレゼンは月曜日なのだ。
「嘘つきで仕事のできない男が、お前呼ばわりしないでくれる? だいたい、これは私個人の物だよ」
「だから壊してもいいと言うのか! ほんとに野蛮な女だな!」
 あー、なるほど。ずっとそう思っていたわけか。
「そんなこと言っていいの? せっかく会社の共用サーバーにもデータがあるって教えてあげようと思ったのに」
 しまった、という表情で健一が息をのむ。
「パスワードロックがかかっているけどね」
「……」
「再作成するのとロックの解除、どっちが早いかしら。まあ、頑張ってね」
 平静を装って捨て台詞を言うと、古都葉は振り返りもせずその場を後にした。

 ふらつく体を無理やり動かし、古都葉はひたすら歩いた。あれぐらいの仕返しでは、全く腹の虫が収まらない。この怒りをどこに向ければいいのか。乱れた呼吸のまま歩き続け、ふと我に返ると、辺りには誰もいなくなっていた。
 足を止め、深呼吸を繰り返す。なんとか息を整えて、改めて辺りを見回した。見慣れない風景だ。こんな場所まで来るほど歩いただろうかと首を傾げる。人どころか猫の子一匹見当たらない。街灯の先にポツンと赤い鳥居が見えた。
「こんな所に神社なんてあったかな……?」
 夜の神社は少し不気味だ。いつもの古都葉なら来た道を戻っていただろう。だが、このあまりにも理不尽な状況に、たまには神頼みでもしようかと思い立った。
 寂れた鳥居をそろそろとくぐる。境内はうっそうとした大木に取り囲まれていて、ここは本当に東京かと思うほど静かだった。灯りは小さな灯(とう)篭(ろう)が二つだけ。足元がよく見えない。参道を慎重に進んだ。
 拝殿の周りは開けており、月光のおかげで周囲がよく見えた。小さいが、なかなか由緒ありそうな雰囲気だ。十段ほどの石段を上り、賽(さい)銭(せん)を投げ入れてからお参りをする。
(素敵な恋ができますように)
 十秒ほど手を合わせ、石段を下りようとした。しかし、足元がふらついて立っていられない。思わず石段にしゃがみ込んだ。
「はあ。情けない……」
 下を向くと気持ち悪くなったので、石段に腰かけて上を向く。すると、満天の星が飛び込んできた。オリオン座がちょうど目の前だ。
「きれいな星空! 東京でもこんなに星が見えるんだー」
 できるだけ明るい声を出し、すーっと息を吸いこんだ。冷気が肺に入り、体の中がひんやりとする。少しだけ目眩(めまい)が治まり、頭の中も冷静になってきた。
「そうだ。資料のパスワード、先輩に伝えておこう」
 健一の上司に、古都葉の大学の先輩がいる。会社のメールアドレスは自社のドメインだから、フルネームが分かればメールを送ることができるのだ。データの場所とパスワードを教えておけば、フォローしてくれるだろう。さすがに会社に迷惑をかける気はなかった。
 メールの送信を終えると、二人から言い訳のメッセージが次々と送られていることに気づいた。うっとうしいので、電源を落とす。今更何も聞きたくない。
 暗くなった画面に疲れ切った女の顔が映る。目の下には大きなクマができ、鼻はテカテカ、唇はしわしわだ。必死で巻いた髪は肩の上でうねるだけ。おしゃれで染めたシルバーブロンドの髪もブラウンのカラコンも、似合っていなかった。眉間に皺(しわ)を寄せて睨(にら)む女は、可愛げのかけらもない。
 先ほどの美優との落差に愕然とする。自分にはキス一つしてこなかったのに、美優とはホテルに行こうとするのも当然かと、乾いた笑いがもれた。
「はあ、こんな願掛けしちゃったせいかな」
 バッグから浅紫色のメモ帳を取り出す。亡くなった母がくれたもので、メモ帳と呼ぶにはもったいないほど上質な和紙でできていた。これに願いを書き込むと叶うことが多いと教えられ、愛用してきた。
 一番古いものは、『さんすうのテストで百てんをとる』だった。小三ぐらいの字だろうか。このように小さな目標を一つずつ立て、クリアしてきた。
 最後の目標は『素敵な彼氏を作る』だ。これも達成できたから、今のところ達成率は百パーセントである。残念ながら、素敵なのは見た目だけだったが。目標設定が曖(あい)昧(まい)だったと、少しだけ反省した。
 メモ帳とスマホをコートのポケットにしまい、ハーッと大きく息を吐く。白い息が目の前に広がり、一瞬だけオリオン座の三つ星が見えなくなった。すぐに視界は晴れ、再び現れた三つ星を見ながらぼんやり考える。
 健一から告白されて付き合い始めたが、利用されているだけだというのは最初からなんとなく分かっていた。古都葉にしても彼氏というものが欲しかっただけだから、お互い様と言える。
 ショックだったのは、親友の裏切りだ。
 小学生の頃から可愛かった美優は、女子にいじめられやすかった。陰湿なことが大嫌いな古都葉は彼女を庇(かば)い、いじめっ子に注意した。そんなことが重なるうちに、自然と一緒にいるようになっていった。
 おしとやかな美優と負けん気の強い古都葉。すべてが真逆なのに、彼女とは妙にウマがあったのだ。
 中学生になっても二人は一緒にいた。古都葉が空手に夢中になれば、美優は空手部のマネージャーをした。美優をいじめれば古都葉の制裁を受けると噂が広がり、いじめはなくなった。一方で、忙しい母親に代わって具合の悪い時には看病に来てくれたりと、古都葉が助けられることも増えた。
 高校生になると、美優の美少女ぶりにますます磨きがかかり、その評判は他校にも広がった。スカウトされたりナンパされたりは日常茶飯事。当然のように、古都葉の好きになった人もみんな美優を好きになった。
 このまま一緒にいては卑屈になりそうだと思い、大学はあえて別のところを選んだ。必死で勉強し、難関と言われる学校に進んだことで、古都葉は自分に自信が持てるようになった。
 けれど、恋に関しては相変わらずで、いいなと思った相手はみんな彼女に恋をした。空手大会の応援に来た美優にストンと恋に落ちた主将の顔は、今でも鮮明に覚えている。
 それでも、彼女はその誰とも付き合うことはなかったから、気まずくなることもなかった。本当に困った時はお互いを一番頼りにしたし、悩み事も相談した。母が病気で亡くなって過呼吸で倒れた時、助けてくれたのも彼女だった。親友だと、本気で思っていた。
「なんで、健一とは付き合っちゃったのかな」
 信用していたのだ。美優を。
「美優も彼に恋して……じゃないな。自分の方が女として上だって見せつけたかったのかな」
 声に出してしまえば、それが真実のように思える。急に今までの日々が偽りに思えてきた。
「みんな、あんな子のどこがいいんだか」
 酔いに任せ、次々と悪態が浮かぶ。吐き出す白い息で、オリオン座がすっかり見えなくなった。
「勉強だってスポーツだって、私の方がいい成績だった」
「私は自分の力で頑張った」
 自分はこんなことを思っていたのだろうか。自分の方こそ偽りの親友だったのだろうか。
「あんな子と仲良くしなければよかった」
「あんな子といなければ、引き立て役にされることもなかった」
 これは本音だ。彼女の可愛さの前には、自分の存在価値など無に等しい。それがずっと心の澱(おり)になっていた。
 目の前のもやがどんどん濃くなっている。
「もう顔も見たくない」
 もやが急に黒くなった。白かったはずなのになぜだろうと思いながらも、口は止まらない。
「あんな子、消えればいいのに!」
 叫んだ瞬間、黒いもやがぶわっと広がった。腕のようなものが何本も伸びてきて、古都葉に絡みつく。
「やだやだやだ! 何これ!」
 いつの間にか足元にぽっかりと穴が開いているのに気づき、古都葉は驚愕した。絡んだ腕がその穴に引きずり込もうとする。抵抗するものの、すさまじい力で引っ張られた。
「やだ! やめて、きゃあ!」
 古都葉を飲み込むと同時に穴は閉じ、完全な闇の世界に閉じ込められた。
 何も見えず、何も聞こえない。
 奇妙な浮遊感の後、全身が押し潰されそうなほどの圧迫感に襲われる。
「うぅぅ……」
 声を上げることもできない。
 もがけばもがくほど圧迫感は増し、とうとう古都葉は意識を失った。

赤い双月


「いたぞ。あそこだ!」
 男の怒鳴り声で古都葉は意識を取り戻した。パッと目を開くと、目の前には草が生えている。古都葉は地面の上に寝ていた。
 急いで起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。
 かすかな月明かりの中、生い茂る木と湿った空気で、ここが森の中だと認識した。ホーホーと梟(ふくろう)のような鳴き声も聞こえる。木立の隙間から近づいてくる二つの白い人影が見え、助けを求めようと手を上げた。
「ひ……!」
 その姿をはっきり認識すると、古都葉は悲鳴を上げて逃げ出した。
 処刑人のような布袋をかぶった男たちが、剣を手に迫ってくるのだ。何かのカルト集団か。どう考えても友好的な相手ではない。
「待て!」
(いや、待てと言われて誰が待つもんですか!)
 必死に走るが、徐々に距離が詰まってくる。足の速さには自信があったのに、木の根に足を取られてうまく進めない。
(ここはどこ? なんで追われてるの!?)
 このままでは追いつかれてしまう。逃げながら、必死に隠れる場所を探した。
 後ろの男たちが数メートルの距離に近づいてくる。
「や、やだ! 来ないで!!」
 反射的に叫ぶと、願いが通じたかのように男たちが派手に転んだ。
「うわああ」
 木の根にでも躓(つまづ)いたのだろうか。この隙に逃げようと、古都葉は全力で走り続ける。全く状況が掴(つか)めない。神社で黒いもやに飲み込まれて……それから?
 ふいに視界が開け、辺りが明るくなった。森を抜けたようだ。だが、目の前の光景に愕然として足を止めてしまう。
「何……あれ。月が……月が……二つ!?」
 広い草原の向こうの夜空に、赤い満月が二つ、双子のように並んで浮かんでいるのだ。ゴシゴシ目をこすっても二つは一つにならない。大きさも倍以上あるだろう。
「ゆ、夢だよ。きっと。いや、酔ってるのかな……」
 月明かりに照らされた草原は淡く発光し、赤い絨(じゅう)毯(たん)のように広がっている。幻想的な美しさに現実逃避しかけるが、男たちの声で引き戻された。
「いたぞ!」
 古都葉は再び走り出す。今は逃げるのが先だ。あんな物騒なやつらに捕まったら、絶対に無事では済まない。
「はぁはぁ、どこかに隠れて、一一〇番すれば……」
 しかし、広い草原には隠れられる場所などどこにもない。フラついていた足は、とっくに限界を迎えている。追いつかれるのも時間の問題だ。
 その時、正面から馬の嘶(いなな)きが聞こえた。
「馬? 東京に!?」
 古都葉は助けを期待して視線を向ける。
 しかし、期待はあっけなく裏切られた。赤い月を背に近づいてきたのは、警察でも、正義のヒーローでもなかった。もちろん、白馬の王子様でもない。後ろの男たちと同じ白い布袋をかぶった男だった。古都葉は行く手を阻まれ、立ち止まるしかなかった。
 呆然と男を見上げれば、相手も黙って古都葉を見下ろす。明らかに追ってくる輩(やから)のリーダー格だ。言いようのない威圧感がある。
 男は無言のまま馬を下り、古都葉に近づいた。黒いケープ付きローブを纏(まと)い、白いズボンを穿(は)いて、ゲームに出てくる聖職者のような服装だ。
 ロザリオのようなものを首から下げているが、十字架ではなく、三角形をしている。手には鈍く光る銀の首輪。やっぱり何かのカルト集団なのだろうか。かぶった布袋から黒髪がのぞく。唯一見える目も黒。長身の割に細身で腕力はあまりなさそうだが、強い相手だと本能的に分かった。
 後ろから男たちが追い付き、古都葉は取り囲まれてしまう。
「私に何の用!?」
 虚勢を張って強気な口調で問いかけるが、答えはない。リーダーの男は後ろの二人に視線を向け、中からくぐもった声を発した。
「取り押さえろ」
 地獄の底から響くような声だ。ゾクリと背中に寒気が走る。もしかすると、ここは地獄なのか。この男は人間ではなく、悪魔か冥王……いや魔王かもしれない。だが、掴まれた腕の感触は現実だった。
「やだ! 触らないで!」
 古都葉は反射的に腕を振り払う。すると、パチンと何かに弾かれたように男たちの手が離れた。
「こいつ! やっぱり言(こと)霊(だま)が強いな」
「くそ!」
 古都葉はこの隙に逃げようとしたが、今度はリーダーの男に捕まってしまう。振り払おうと男に顔を向けた瞬間、バシッと頬を張られた。
「きゃあ!」
 地面に倒れ込むほどの衝撃。手加減など一切ない。受け身を取ることもできず、まともに肩を打ってしまった。
(初対面の女をいきなり殴るなんて……)
 痛みとショックで体が凍りつく。黒い瞳に宿る残忍な光を見て、この男は暴力を振るうことに抵抗がないと理解した。抵抗すれば躊躇(ためら)いなく殺そうとするだろう。
 抵抗をやめた古都葉を見て、リーダーの男はクククと嫌な笑い声を立てた。
「そうやっておとなしくしていれば、手荒なことはしない」
「どうしてこんなことをするの?」
「咎(とが)人(にん)だからだ」
「とがにん……!?」
 全く意味が分からない。余計に頭が混乱する。しかし、それ以上質問することはできなかった。髪を掴まれ、グイッと引き起こされたと思ったら、男の手が首にかかる。恐怖で息が止まった。
 ぎゅっと目を瞑(つぶ)り、ここまでかと覚悟する。しかし、カシャンと金属の触れ合う音が聞こえた後、手は離れていった。首にひんやりとした感触だけが残る。そろそろと目を開けると、男の手にあった首輪がない。あれを首に嵌(は)められたのだと理解した。
「……っ!」
 抗議をしようとしたが、声が出ない。
「……っ! …………!!」
「無駄だ。それは言霊を抑える魔術を施してある。諦めて罪を贖(あがな)うことだけを考えろ」
(コトダマって何よ。魔術って何よ。罪って何よ! 私が何をしたって言うのよ!!)
 呆然と地面に座り込む古都葉を、後ろの男たちが無理やり立たせる。
「まったく手間かけさせやがって」
「ほら、こっちだ。さっさと歩け!」
 抗うこともできず、古都葉はそのまま引きずられるように歩いていった。
 不思議なゲートをくぐると景色は一変し、大きな建物が目の前に現れる。ローマのパンテオン神殿のような外観の豪奢な建物だ。赤い月光に反射して輝く様は息をのむほど美しい。内装も華やかで、竜の置物があちこちに飾られている。これが旅行だったら、さぞかし感激しただろう。だが、そんな景色も今の状況では何の慰めにもならない。
 人気のない建物の中を進み、最奥と思われる場所に辿(たど)り着く。
「友に呪(じゅ)詛(そ)をかけたお前は重罪人だ。罪を贖うために祈り、シファール様のお役に立つことを考えるがいい」
 男は古都葉を部屋に押し込めると、そんなセリフを吐いて立ち去った。全く意味が分からないし、身に覚えもない。
(呪詛なんてかけてないし。だいたい、シファールって誰よ!)
 心の中でひとしきり悪態をついた後、古都葉は改めて部屋の中を見回した。すると、不意に頭がくらくらして床に倒れ込んでしまう。
(あれ……?)
 目を閉じれば治まるが、開くと、再び目眩がする。どうやら視界が真っ白なせいらしい。
不思議な部屋だった。六畳ほどの部屋に窓はなく、壁一面が真っ白。家具はベッド、テーブル、一脚の椅子だけ。どれも真っ白で、自分以外は白しかない空間である。
古都葉は部屋の隅に蹲(うずくま)って目を瞑り、状況を整理することにした。ここにきてようやくここが異世界と呼ばれるものではないかと検討をつける。
(そんな非現実的なこと、ありえる?)
 だが、その非現実的なことが実際に起こっている。殴られた頬の痛みも、首に嵌められた枷(かせ)の冷たさも夢ではない。しばらく経ってから目を開くが、そこにはやっぱり白い空間があるだけ。いつの間にか元の世界に戻っている、なんて都合のいいことは起こらなかった。
 まる一日放っておかれ、翌日の夜になってようやく食事が運ばれてきた。白パンに白シチュー、食器も白という徹底ぶりに感心してしまう。意地を張っても空腹には勝てない。ありがたく食事を一口食べようとして……手を止めた。
 ニオイを嗅(か)いだだけで、頭がクラッとしたのだ。
(何か入っている!)
 湯気を上げるシチューを睨みながら、古都葉は考えた。お腹は空いているし、喉もカラカラだ。でも、これを食べては駄目だと、本能が言っている。諦めて溜息をつき、再び部屋の隅で蹲り目を瞑った。
 次の日の朝も同じような食事が運ばれてきた。布袋をかぶっているのではっきりしないが、昨日と同じ子のようだ。背は古都葉と同じぐらいで、まだ年若い少年のように見える。残された食事を見ても何も言わず、新しいものと取り替えて出ていった。試しにニオイを嗅ぐが、やはり何か入っている。本気で脱出する方法を考えないと、餓死してしまいそうだ。
 改めて真っ白な部屋を見渡す。こんな部屋に閉じ込めた目的は何だろう。まるで古都葉が正気を失うのを待っているかのようだ。
(あ、そうか。私をおかしくさせたいのか)
 それに気づけば、相手の目的がなんとなく見えてくる。『シファール様のお役に立つこと』と言っていたから、何かやらせたいことでもあるに違いない。いったい古都葉に何ができるのかは分からないが、ろくでもないことだけは確かだ。
 一つ心当たりがあるとすれば、『言霊が強い』と言われたことか。追いかけてきた二人の男が同時に転んだり、掴まれた腕を弾き返せたりしたことを思い出し、ある結論に辿り着く。
(言ったことが現実になる……とか? そんな馬鹿なことがあるのかな?)
 しかし、現実にそれは起こった。言葉を封じられたことを考えれば、ますますそれが正解に思える。
(そうだ! 美優のことを『消えればいい』なんて言っちゃったんだ)
 それを言った途端、古都葉は黒いもやに引きずり込まれた。『友に呪詛をかけた』とも言われた。もしかすると、あの人たちの言う罪とはそのことかもしれない。
 古都葉はサーッと青ざめた。
(本気で言ったわけじゃないのに……! 美優に何かあったら、どうしよう。あんなこと言わなきゃよかった。消えろなんて、ひどいことを言っちゃった!)
 スマホの存在を思い出し、立ち止まってポケットを探る。コートはずいぶん汚れてしまったが、ポケットの中は無事だった。
 ブーッ
 縋(すが)る思いで電源を入れてみるが……。
(馬鹿馬鹿馬鹿! 当然圏外じゃない)
 がっくりと肩を落とし、無意識に画面をスクロールさせた。日本語を見たら、少しだけ混乱が収まってくる。美優と健一の言い訳メッセージですらうれしいと思ってしまった。
 これを見る限り美優は元気そうである。だが、問題はその後どうなったか……だ。古都葉がこちらに来てからの着信は、当然ない。
(冷静になれ。相手の誘導に引っかかるな)
 空手で培(つちか)ってきた戦いの鉄則を心の中で唱える。
(日本にいた時には、言霊なんて力は持っていなかった。あの言葉が美優に届いているはずはない)
 古都葉の吐いた言葉が闇となって、古都葉を飲み込んだ。つまり、美優のところへは行ってないということだ。古都葉の心を折るために、罪の意識を植え付けようとしているだけに違いない。
(第一、あの人たちに私を裁く権利はない。私は私のもの。絶対に思い通りになんてなるもんですか!)
 古都葉は心に誓い、脱出するための行動を起こすことにした。
 まずはメモ帳を取り出し、目標を定める。ペンがついていて幸いだった。
(ひとまずここを無事に出るには……)
 武器を持つ相手と戦っても勝ち目はない。助けも来ない。
 少し悩んでから、“見つからずに逃げる”と、やや消極的な目標を書いた。
(さて、脱出の準備をしなきゃ。扉が開くのは食事が運ばれてくる時だけ。その時がチャンスだわ)
 古都葉は立ち上がり、使えそうなものを物色する。ベッドのシーツに目をつけると、それを引き裂き、数本の紐を作った。それを握りしめて再び部屋の隅に蹲り、食事が来るのを待つ。色も音もない空間は、時の流れすら分からなくなりそうで怖い。先ほどと同じように目を瞑り、ひたすら時が過ぎるのを待った。
 永遠とも思えた静寂を破り、キィッとドアの開く音がした。前と同じ少年だったことに、ほっとする。一つ目の賭けは、古都葉に吉と出たのだ。
(大丈夫。うまくいく!)
 自分に言い聞かせ、集中した。
 少年は古都葉にチラリと視線を向けてから、背を向けてテーブルに向かう。古都葉はそっと立ち上がり、音もなく少年に近づいた。迷っている暇はない。トレイから手を離したタイミングを見計らって布紐を少年の首に回すと、一気に引いた。
(ごめん、ごめん!!)
 バタバタと少年は暴れるが、ジムに通って鍛えている古都葉の敵ではない。すぐにクタッと倒れ込み、動かなくなった。
(死んでないよね!?)
 鼻に手を当てて息を確認する。心臓の音も確認し、ほうっと息を吐いた。
 気を取り直し、衣服を脱がせて後ろ手に縛り上げる。人を縛ったことなどないから、加減が分からない。とりあえず、うっ血しない程度に縛り上げた。
 靴も脱がし、足を縛る。最後に布袋を取り去ると、想像以上に若い少年だった。おそらく十二、三ぐらいだろう。後でお咎(とが)めがあるかもしれないと思うと、胸が痛んだ。
 迷いを振り払うように、ぶんぶんと頭を振る。
(人のことを心配している場合じゃないでしょ!)
 古都葉はコートを脱ぎ、自分の服の上から少年の服を着た。少しきついかと思ったが、ゴムのように伸縮性がある素材で、難なく着ることができた。靴も同じように伸び縮みする。異世界の素材はすごい。
 布袋をかぶれば、バレないはず。カラコンをしているので、彼と同じ薄いブラウンの瞳なのも幸いだ。余った布紐で髪を括(くく)り、はみ出ないように注意しながら布袋をかぶる。コートを折りたたんで胸に抱えれば、胸も目立たないだろう。
 支度を終え、急いで部屋を出ようとドアに手をかける。だが、ガチャガチャとノブを回そうとしても全く動かない。
(あれ? 鍵を閉めた様子はなかったのに)
 オートロックだろうか。いや、少年はいつも普通に部屋を出て行っていた。
(どうしよう。なんで開かないの!? 早く逃げなくちゃ、誰かが様子を見に来る……。考えろ、考えるんだ)
 魔術のある世界だから、開けられる人間を限定しているのかもしれない。それなら……。
 古都葉は気を失ったままの少年をずるずる引きずってくると、拘束した腕を解き、彼の手を使ってドアノブを回してみた。
 カチャリとドアが開く。
(やったわ)
 靴を脱いでドアに挟み、少年の腕を再び縛る。ベッドに寝かせて布団をかければ、時間稼ぎになるだろう。
(少年よ、ごめん!)
 心の中で詫びてから、そっと廊下に滑り出た。
 部屋の外は、薄暗い廊下が長く続いている。美しい竜の絵やオブジェが飾られているが、のんびり鑑賞している暇はない。とにかく建物の外に出ようと、足早に歩き始めた。辺りに人の気配はなく、妙に静かだ。この神殿に人はあまりいないのだろうか。
 だが、角を曲がったところで二人の男に出くわす。布袋から見る視界が狭いため、気づくのが遅れた。相手もこちらに気づき、向かってくる。
「おい」
 声をかけられ、古都葉は戦(せん)慄(りつ)した。古都葉を殴った男の声だ。目を見られないよう慌てて頭を下げる。冷たい汗が背中を流れていった。
「あの女はまだ食事をしないのか」
 どうやらバレていないようだ。古都葉は頭を下げたまま頷いた。
「そうか。強情だな」
 獲物をいたぶるようにクククと笑う。頭を下げたまま古都葉は相手が立ち去るのを待ったが、その場で男は話を続けた。
「単なる反発かと思ったが、薬の混入に気づいたのかもしれないな」
 下を向いたまま首をわずかに傾けると、背後の男が会話に加わってきた。
「シファール様も物好きですね。あんな女など、ちょっと拷問にかければすぐに言うことをきくでしょうに」
(あのリーダー格の男がシファールっていうのね!)
 古都葉は心の中で納得する。それにしても、拷問という言葉が出てくるとは。人権などないに等しい世界なのだろう。
「何度も召喚をかけて、やっと落ちてきた女だ。相当な精神力がある。力でねじ伏せようとすれば、屈服する前に死んでしまう」
「確かに、死なれちゃ困りますね」
(……この世界に来たのは、こいつらに召喚されたからだったのか。何が咎人よ。何が罪人よ。やっぱり言いがかりじゃない!)
 古都葉は心の中で悪態をつく。
「悠長にもしていられんが……。竜人側に知られたら面倒だ」
 古都葉はげんなりした。魔法の存在だけでいっぱいいっぱいなのに、竜人まで出てくるとは。どこまでファンタジー要素が広がるのか。
 シファールは腕を組み、何やら考え込んでいる。
(考え事は、向こうへ行ってからにしてほしい)
 古都葉はひたすら耐えた。恐怖で震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、姿勢を保つ。
「そろそろ恐怖心がピークになっているだろう。今夜あたり行ってみるか。逆に甘い言葉を囁(ささや)けば落ちるかもしれん」
「救世主よろしく情けをかけるってわけですね。犯(や)ったらどんな具合か教えてくださいよ」
(な……! 犯る!? 犯るって……!)
 そんなことまで考えていたとは。聖職者のくせに、そっちの方がよっぽど罪人ではないか。いや、そもそも聖職者と思ったのは誤りで、犯罪者集団なのだろうか。
「神に仕える身で、そんなことを言うな」
「ハハハ!」
(やっぱり聖職者だった! うわあ、ひどい。ひどすぎる!!)
 この時ばかりは声が出なくて正解だったかもしれない。枷がなければ、絶対に男たちを罵(ののし)っていた。
「後で浄化の魔法をかけておけ。小汚い女も少しはマシになるだろう」
 古都葉に向かってそう言うと、やっと男たちはその場を後にした。ホッと全身の緊張が緩む。
(小汚いって何よ! そりゃ、汚いわよ。地面の上に転がされたし、化粧は崩れてどろっどろだし、お風呂にも入ってないし。悪かったわね!)
 さっさと部屋を抜け出してきて正解だった。あのまま部屋にいたら、とんでもないことになっていた。
 しかし、男たちに会って、古都葉は大変なことに気づく。
(布袋なんてかぶっていなかった。あれは対私用ってこと? こんなのをかぶってたら、見つけてくださいって言っているようなもんだわ)
 古都葉は走り出し、空き部屋を探すことにした。出口なんて探していられない。その辺の窓から脱出しようと思ったのだ。
 突き当たりに茶色い扉を見つけ、恐る恐るノブに手をかける。施錠されておらず、カチャリと扉が開いた。中をのぞき込むと、ものすごく眩(まぶ)しい。一瞬クラッとしたが、二、三度瞬きをして落ち着くと、ただ太陽の光が差し込んでいるだけだと分かった。ずいぶん久しぶりに太陽の光を見たような気がする。
 高そうなテーブルとソファが置いてあるところを見ると、どうやら応接室らしい。誰もいないと判断し、中に入った。
 テーブルの上にクッキーとりんごがのっている。空腹は限界に近い。古都葉は迷わず食べ物をポケットに入れた。
(泥棒になるかな……。これぐらい許してほしいけど)
 窓の外には、明るい太陽が輝いている。月と違い、太陽は地球と同じく一つで、大きさも同じだ。太陽だけを見れば、戻って来られたのかと勘違いしてしまいそうである。
(ダメダメ! 悲しむのも怒るのも後。とにかく逃げなきゃ。今度こそ捕まったら無事じゃ済まない)
 窓の高さは1メートルほど。窓枠に足をかけて飛び降りると、布袋を投げ捨て、一目散に走り出した。

出会い


 建物を抜け出せば、塀を乗り越えることは簡単だった。警備はそれほど厳重でないらしい。
(とりあえず、人がいない方へ行こう)
 首に嵌められた枷を見られれば、通報されてしまうだろう。古都葉はコートを着込んでボタンをきっちり締め、人の少ない方へ向かって歩き始めた。
 道幅は広いが、舗装されていない。馬車が通り過ぎると盛大に土(つち)埃(ぼこり)が舞い上がる。文明のレベルはあまり高くないようだが、魔法があるおかげか、街灯らしきものはきちんと立ち並んでいた。
「カアカア」
 鳴き声が聞こえ、足を止めてそちらに目を向けると、雀のような姿の鳥が木に止まっていた。
(烏(からす)の声で鳴く雀って何よ……)
 すべてのものがここは異世界だと物語っているようだ。じわりと涙が滲(にじ)んできたが、ゴシゴシと袖で拭(ぬぐ)って再び歩き出す。
 これからどうするのか。アテなどない。少しでも神殿から離れたくて、ひたすら歩き続けた。
 陽が傾く頃、森の入り口に辿り着く。木の種類が違うから、捕まった森ではないようだ。少し奥にログハウス風の小屋が見え、思わず駆け寄る。幸いにも人の気配はないようだ。長年使われていないのか、雑草が玄関口にまで生い茂り、ドアや窓も薄汚れている。恐る恐るドアノブを回してみると、驚いたことに施錠されていなかった。
(誰も住んでないのかな)
 気力も体力も限界に近かった古都葉は、ちょっと休ませてもらうだけのつもりで中に入った。内鍵をかけると、ほっと大きく息を吐き、埃をかぶったベッドに倒れ込む。今になって手の震えが止まらない。
(大丈夫、大丈夫。逃げて来られたんだから。よくやったわ!)
 古都葉は震える手で体を抱きしめ、きつく目を閉じた。
 小屋での生活は思ったより快適だった。他に行くアテなどない古都葉はもう一日もう一日と過ごすうちに、すっかり居着いてしまった。
 人に迷惑はかけるな。
 人の役に立つ人間になれ。
 祖母にそう言われて育った。母が未婚のまま古都葉を産んだため、ことさらまっとうな人間に育てようとしたのかもしれない。
(この状況でもおばあちゃんは怒るかなぁ。でも、他にどうしようもないもんなぁ)
 住人が戻ったら誠心誠意謝ろう。そして、できるだけの償(つぐな)いをしよう。段々開き直り、三日目にはタンスからワンピースを借りて着替え、四日目にはベッドを借りた。すっかり不法占拠している。
 食料は何もなかったが、庭にたくさん木の実がなっているので、とりあえず生きていく分には困らない。
 いそいそとベッドから下り、外に出て柿のような実をむしり取る。キュッキュと服で磨いてから、皮ごとかじりついた。甘味はあまりなく、大根に近い味だ。
(日本の果物は、改良されて甘くなってるんだっけ。これが本来の味なのかもね)
 シャリシャリかじりながら、辺りを見回す。
 日本でいえば、秋の気候だろうか。植物は元の世界とよく似たものばかりで、トマトやピーマンが野生状態で生い茂っている。芋もあるが、さすがにこれは生では食べられない。焼き芋を食べたいが、火が使えないので諦めている。大きな暖炉があるのに、着火するものが何もないのだ。せめて火打石でもあればいいのに。 
 古都葉はふうっと息を吐き出し、裏手にまわった。そこに井戸があるのだ。そして昨日、その近くですごいものを見つけた。
(ふっふっふー! 我ながら大発見だわ)
 井戸のそばに生えているマメのような植物が泡立つのだ。天然の界面活性剤を多く含む植物なのだろう。それで顔を洗ったら、驚くほどすっきりした。今日は、太陽が出ているうちに髪を洗うのだ。
 服を濡らさないように前かがみになり、慎重に洗った。なんとか洗い終え、拝借したタオルで拭う。髪をとかすと、きしきしと嫌な音を立てた。
(石鹸で髪を洗うときしむんだっけ……)
 オーガニック化粧品にはまっていた時に、一度だけ石鹸シャンプーを使ったことがある。髪がきしんでごわごわになったため、その時は一度で使うのをやめた。だが、今は贅(ぜい)沢(たく)を言ってられない。
(臭いよりマシだもんね。あとは……)
 もう一つ洗いたいものがある。パンツだ。
 さすがに下着を借りるのは抵抗があるから、替えはない。
(干しておけば、今日中に乾くよね。どうせ、誰にも会わないし)
 木の枝に通しておけば、風で飛ばされることもないだろう。古都葉は洗い終えると、一仕事終えた気分で家に戻った。
 ずっと家にいるのは退屈なものである。元々、古都葉はじっとしていられるタイプではない。空腹も疲れもなくなると、途端にソワソワし始めた。
(ちょっと探検に行ってみるかなー。誰かに見られたらまずいから、首と髪は隠しておこう)
 カラコンは外したが、この髪の色と枷は絶対に目立つ。遠目からでもすぐに古都葉だとバレてしまうだろう。大きめの布を拝借し、すっぽり覆って真知子巻きをした。
 森の奥に向かって歩いていくと、小鳥のさえずりが降ってくる。鮮やかな紅い葉を見つけ、古都葉は一枚手に取ってみた。もみじとは違い、葉の形はイチョウだ。
 清涼な空気をすーっと吸い込みながら、さらに奥に進む。仕事に追われていた日本の暮らしと比べれば、かなり贅沢な環境だ。
(そうでも思わなくちゃ、やってられないわ)
 日本で自分はどうなっているのか、これから自分はどうなるのか……。
 そんなことを考えたら、心が押しつぶされそうなほど不安になる。生きる術も頼れる人もいない。ここにいたって、火が使えない環境では、無事に冬を越すことはできないだろう。
 考え事をしながら歩いていた古都葉は、大きな鳴き声で我に返った。猿のような動物がキィキィと騒ぎ立てている。
(獣でもいるのかしら)
 東京の感覚ですっかり油断していたが、森には狼や熊がいても不思議ではないのだ。もしかしたら、虎やジャガーなんかもいるかもしれない。
 だが、鳴き声を上げる動物に逃げる様子はない。まるで助けを求めているかのようだ。
(何かあるの……?)
 恐る恐る歩み寄り、古都葉は絶句する。
(何、これ)
 大きな翼が地面を覆っていたのだ。羽毛はなく、蝙蝠(こうもり)の翼のように薄くて黒い。だが、蝙蝠とは全く違い、紫や赤などの美しい粒子がキラキラと輝いている。まるで美術品のように美しい。
 よく見ると、翼を持った男の人がうつ伏せで倒れていた。身長は二メートル近くあるだろう。線は細いが、華奢ではない。フェンシング選手のようにしなやかな体躯だ。
(大変だわ!)
 現実で目にしたこともない姿に戸惑ったが、男の肩口に傷があるのを見つけ、慌ててそばまで寄ってみる。何日か経っているのだろう。血がこびりついて赤黒く変色していた。息はあるようだが、軽く叩いてみても何の反応もない。
 抱き起こして顔をのぞき込むと、息をのむほどきれいな顔立ちをしていた。細い絹のような銀の髪、彫りが深い目鼻立ち、薄く引き締まった唇。尖(とが)った耳は見慣れないものだが、それすらも彼の美しさを引き立てて見える。しかし、血の気がない肌は青白く、閉じた瞼(まぶた)はぴくりともしなかった。


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