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身代わり婚 ~替え玉のはずが王子様に見初められてしまい、逃げ道を探しています~

立花実咲 / 著
なおやみか / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/08/30

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内容紹介

約束どおり、君を迎えにきた
素敵なドレスを作りたいと、城下町で夢のために努力する乙女リュシーは、突然現れた瓜二つの貴族令嬢エマから「身代わりに花嫁候補の舞踏会に出て欲しい」と懇願される。貴重な生地の調達が出来るとの言葉に引き受け、花嫁候補のふりをすることに。煌びやかな王宮で、目立たないよう過ごしつつ珍しい生地やデザインに目を奪われていると、見目麗しいセルジュ王子から「面白い女だ」と逆に興味を持たれてしまい!? 替え玉なのに王子様と結婚なんて絶対無理!! 思いとは裏腹に、身分不相応で官能的な生活に振り回されて!? クールな王子様と明るく天真爛漫な乙女の濃密ラブ。

立ち読み

プロローグ 罪と罰


「どうしても罰が欲しいというのなら、甘い罰をあげるよ」
「ごめんなさい。許して……セルジュ様」
「そう簡単に許されると思ったら大間違いだ、リュシー。君は特別な存在なのだからね」
「……っ」
「君はもう檻(おり)の中から出られないと思うといい」
 それを望んでしまっていると知ったらあなたは、どんなふうに罰を与えるのだろう。特別な罰以上の甘い罰を与えてくれるのだろうか。こんなふうに期待してしまっている自分はなんて浅ましくそして業腹で欲深いのだろう。
「罰してください、セルジュ様」
「……君って子はっ」
 まるで獣のように組み伏せるセルジュは、普段の煌(きら)びやかな王子の様子とは違った色香を滲(にじ)ませて、リュシーの唇を奪った。
 無防備な首筋へ、白い喉へ、豊かな双丘へ、そして蜜に濡れた花園へ……次々にリュシーの秘められた罪を暴いていったのだった。


1 替え玉作戦


 薔薇(ばら)の甘い香りが風に乗って漂いはじめる春から初夏へと移ろう季節になると、大陸の西南に位置するフィルレイン王国の王都ミラベルでは西海岸の港町ルノーが活気に溢(あふ)れるようになる。
 港町ルノーは、海の幸や瑞々(みずみず)しい果物などが並ぶマーケットや美食通を唸(うな)らせる名シェフの店のあるマルシェ通りがいちばん賑(にぎ)わいを見せる観光地だが、その裏手の石畳のブラノア通りはまた一風変わった落ち着いた雰囲気の雑貨屋や服屋などが立ち並んでいた。
 そのブラノア通りの中の一つに、oiseau(幸せ) bleu(の) de(青) bonheur(い鳥)という看板を掲げた青い屋根の店がある。そこは老舗の仕立屋で、こぢんまりとした店舗の裏には古い工房が併設されており、店主とその娘、そして数名の職人が働いていた。
 来客の手でドアが開かれると、その拍子にカランとドアベルの軽やかな音が響き渡った。
 仕立屋の三代目の仕立職人ロイク・アングラードは工房で作業を手伝っていた娘に声をかけた。
「すまないが、店の方に出てくれるかい?」
 ロイクに呼ばれた少女はすぐにひょっこりと顔を出した。鳶(とび)色のふわふわした髪に、煌めく海のような青い瞳。人形のように愛らしい顔立ちをした彼女は亡くなった妻にそっくりの、ロイクの自慢の娘リュシーだ。
「ええ、わかったわ」
 父に言われるままにリュシーが店に出ると、ちょうど受付カウンターの前に目深に帽子をかぶった女性が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ。ご用件は――」
 リュシーが言い終える前に、帽子をかぶった女性がいきなり声を上げた。
「やっと見つけたわ!」
「……え?」
 唖然としているリュシーをよそに、女性は鬼気迫る勢いで手を握ってくる。
「もう、あなたしかいないわ」
「あ、あの……?」
 一体何事だというのか。まったく話が見えてこない。ただわかるのは、目の前の女性が切羽詰まった様子であることだけ。淑(しと)やかな佇まいからだいぶ年上の女性に見えたのだが、よく見ると十九歳のリュシーとそんなに変わらないような気がした。
「ここには少々込み入った用件で来たの」
 こちらの訝(いぶか)しげな表情で我に返ったのか、彼女は声を潜めた。店内には他にぽつぽつと客がいる。
「何か特別なご注文でしょうか?」
「そうね。とても大事な相談があるのよ。できたら、奥の方であなたと話せないかしら?」
 リュシーは困惑したものの、人によってはサプライズのための秘密のオーダーを依頼することもある。そういった類だろうか、と思案する。父のことを避けている様子からすると、女性相手にしか話せない内容なのかもしれない。
 そのときまた別の客がドアベルを鳴らして入ってきた。ようやく手が空いたらしい父がそちらへ気をとられている間に、リュシーは帽子をかぶった女性を中へと案内することにした。
「かしこまりました。それでは、こちらへどうぞ」
 帽子をかぶった女性はホッとしたように胸を撫(な)で下ろし、リュシーの後についてきた。
 案内した店舗の奥には、特別なオーダーをとる応接室、完成品を並べたドレッサー室、試着室などが設えられている。さらに一つ扉の先へ行くと、そこは実際に作業をする工房の入口へと繋がっていた。普段は来客があったらすぐに出られるように開いたままにしてあり、仕立て職人の父以外に、他にも職人が数名働いている。
 ひとまずパーテーションに区切られた応接室へと案内し、女性の話を聞いてみようとリュシーは思った。
 ところが、振り向いた瞬間、帽子をとった女性の姿を見たリュシーは言葉を失ってしまった。なぜなら、目の前の女性の顔が、まるで鏡を見ているかのように、リュシーに瓜二つだったからだ。
(……えっ!)
 顔のパーツだけではなく、肩から胸にかけて伸びたふわふわの鳶色の髪、海の水面に空を映したような青い瞳、その雰囲気までそっくりだ。まるで双子の姉妹といわれても納得してしまうほど。
「ふふ、驚いた? 私もびっくりよ」
 女性は目(め)敏(ざと)く試着室を見つけ、呆(ぼう)然(ぜん)としているリュシーの手を引っ張った。そして鏡の前に二人で並んで見せる。見れば見るほど、二人はお互いにそっくりだ。
「ね? 髪も瞳も顔もそっくり。こんなことってあるのね」
 女性は声を弾ませていた。リュシーは声にならないままにこくこくと頷(うなず)いた。
 世界には自分にそっくりな人が必ず一人や二人はいるという話を聞いたことがある。もう一つの説としては死期を予兆させる存在、ドッペルゲンガー……死が近づくと自分にそっくりの人間が現れるらしい。それらを思い出し、リュシーの顔からは血の気が引いた。
「嘘(うそ)でしょ。私、もうすぐ死ぬの? ……叶(かな)えたい夢がまだあったのに……」
 目の前の人がお客様であることを一瞬にして忘れかけた。
「しっかりして。そんなはずあるわけないでしょう? 現実よ」
 女性に身体を揺すられ、今にも気絶しそうになっていたリュシーはハッと我に返る。
「し、失礼しました。お客様の前でこんな……そ、それで、ご用件というのは何なのでしょうか?」
 動揺しつつ、近くに備えてあったオーダーシートへと手を伸ばそうとするリュシーに、よくぞ聞いてくれました、と女性は微笑(ほほえ)む。
「私はエマ・マルゴワール。マルゴワール伯爵の娘よ。いつも父がお世話になっています」
 帽子の女性……エマ・マルゴワールは上級貴族である伯爵令嬢らしく品のある微笑みを見せた。
 マルゴワール伯爵家ならばリュシーも当然知っている。何故ならここの港町ルノー一帯を領地として治めている家でもあるし、何度か伯爵にも服や靴を仕立てているのだ。今度は革製品の鞄(かばん)を頼みたいという話をしていたことを思い出した。裏方の作業がメインのリュシーはもちろんマルゴワール伯爵に直接対面したことはないが。
「こちらこそ大変お世話になっております。とすると、マルゴワール伯爵の名代でいらっしゃったのでしょうか?」
 それなら対応は父でないと難しいかもしれない。リュシーは店の方へと目をやった。父の声が聴こえる。まだ来客の対応をしているようだ。しかも常連さんらしくまだまだ話が終わりそうにはない。彼女……エマにはしばらく待ってもらうしかないだろう。
「いいえ。リュシー・アングラード、あなたに特別なお願いがあって、お忍びでここに来たの」
 エマは神妙な表情を浮かべると、首にぶら下げていたロケットペンダントを外した。その中の扉を開いてはため息を落とす。そして、別のあるものをリュシーの前に差し出した。
「素敵なブローチ……これは?」
 花形に象(かたど)られたきらきらと輝く白銀製のそれは、アメジストの粒が縁を囲うように彩ってあり、まるでそれが意思を持っているかのように凜(りん)とした気品が漂っている。見ただけで、一般市民が買えるようなものではない高級な代物であることはリュシーにもわかった。
 じっくりと観察すると、ブローチの真ん中には少し窪みができていて、どうやら別途、大きめの宝石を填(は)められる仕様らしい。リュシーには想像することしかできないが、きっと宝石が填められたブローチはまた別格の美しさで彩られることだろう。
「これはね、セルジュ王子の花嫁候補七人にだけ贈られる特別なブローチよ」
「セルジュ王子の花嫁候補ですって……!?」
 リュシーは貴族の生まれではないが、花嫁候補にまつわる話だけは知っていた。今年の春に二十二歳を迎えたセルジュ王子がデビュタントを済ませた貴族の令嬢の中から花嫁を探していて、王室の側近らに厳選された花嫁候補七人には、王宮から招待状と贈り物が届けられるのだとか。王宮に上がったあと王子に見初められた一人が最終的に妃として迎え入れられる。それは、市井の年ごろの女性の間でも夢物語のように噂(うわさ)されている話だった。
 ということは、目の前にいるエマは王子に選ばれた一人なのだ。凄いわ、とリュシーは興奮してしまう。しかし、とても光栄なことであるはずなのに、エマはなぜか浮かない表情をしていた。
「リュシー、あなたがもし花嫁候補に選ばれたら、素直に喜ぶかしら?」
「いえ、まさか。凄いことだなと思っただけです」
 そもそも一般市民のリュシーには選ばれる資格なんてないのだから。
「そう。私があなたで、あなたが私だったら……よかったのにね」
 エマは重々しくため息をつくと、その理由について打ち明けてくれた。
「セルジュ王子はたしかに素敵な御方だわ。見た目麗しく、怜(れい)悧(り)な雰囲気が漂っていて、一目で恋に落ちる女性だって多くいるでしょうね。でも、私には好きな人がいるの。だから、花嫁候補に選ばれてしまって困っているのよ」
「好きな人……?」
「ええ」
 エマの好きな人は、コート男爵の次男でノエルという二つ年上の男性だという。家柄が不釣り合いという理由でマルゴワール伯爵からは結婚はおろか交際も許されていないらしい。しかしエマはどうしてもノエルのことが諦められず、隠れて付き合っているということだった。
「花嫁候補の七人はいずれ王宮に呼ばれるのよ。王宮では色々な試験を行うらしいわ。要するに花嫁に本当に相応しいのかを見定められるっていうことね。そうして最終的に王子から求婚されると、ブローチの中央に花嫁の証として王家の秘宝と言われるアメジストの石が埋められることになっているの。一方、選ばれなかった者のブローチは王宮から帰るときに没収されるというわけ」
「選ばれた方が辞退することはできないのでしょうか?」
「できないわ。まぁ、ほとんどの女性が辞退なんてとんでもないって思うでしょう。だって、あの美しいセルジュ王子と結婚なんて誰もが夢見ている……そうでしょう?」
「夢物語でしかないので、私には想像がつかないけれど……きっと舞い上がって頷(うなず)いてしまうかもしれません」
「それに、親としてはどうしたって結婚させたいのよ。家にとってこれ以上ない名誉あることだから」
 貴族には貴族の悩みがあるのだな、とリュシーはエマを気の毒に思った。
 なんて声をかけていいかわからなくて言葉に詰まっていると、エマがリュシーの顔をじっと見つめてきた。
「ねえ、あなたと私ってすごく似ているわよね。親近感がわいて仕方ないのよ。言葉を崩して、私のことはエマでいいわ。私たち友達になりましょうよ」
 エマは屈託なくそう言う。貴族の女性らしい品格がありながらも、どこか気さくな感じがするのは、やはりお互いがそっくりであると共鳴する部分があるからだろうか。
 でも、恋愛相談のために彼女がわざわざここに来たわけではないのだということは薄々感じられる。
「それで、エマ、私に相談したいっていうのは……?」
 なかなか本題に入らないので、じれったくなって問いかけると、待っていましたといわんばかりにエマが目の前で両手を合わせた。
「私の身代わりになってほしいの」
「……えっと?」
 すぐにはその言葉の意味を受け止められず、リュシーは目をぱちくりとさせた。
 すると、エマはじれったそうに早口で説明した。
「要するに替え玉作戦よ。少しの間だけエマはリュシーに、リュシーはエマに入れ替わるっていうことよ」
「ええっ!?」
 リュシーは思わず大声を出してしまう。
「しっ。変に思われてしまうわよ」
 エマに口を押さえられてしまった。目を白黒させながらリュシーは息をつく。
「お願い! 身代わりは一日だけでいいの。いずれ私はセルジュ王子が相手でなくても政略結婚することが決まっているわ。お父様がセルジュ王子との結婚が決まらなければ、箔がついている間に、他の人との結婚を進めると言っているの。でも、私はノエルの傍(そば)にいたい。あまりにも急すぎて気持ちの整理がつかないのよ。少しの間でいいから、ノエルとの時間が欲しいの。ノエルと離れたくない……」
 エマはそう言い、瞳に涙を浮かべた。王子との結婚を拒むくらい、好きな人がいる。その人への想いが諦められないのだと、必死に訴えていた。
「エマ……あなたの気持ちは伝わってくるけれど」
「だから、あなたには身代わりになってもらって、できれば王子に嫌われるように仕向けてもらいたいのよ」
「そ、そんな」
「もちろん、タダでなんて言わないわ。見返りには何がいい? 工房はだいぶ古くなっているみたいだし修理……いえ、新しく建て直す資金なんてどうかしら? 或いは、あなたが欲しいと思っている貴重な生地の調達だってできるわよ」
「貴重な生地……!」
 資金と言われても動かないつもりが、入手困難な生地をチラつかせられてしまうと、職人魂に火がついてしまう。一般市民では手に入れられない貴重な生地を、リュシーは触ってみたかった。食いついたリュシーをエマは見逃さなかった。
「じゃあ、決まり」
 エマはにっこりと微笑み言うと、リュシーの手を握ってぶんぶんと振る。リュシーはハッとした。
「ちょっと待って。私、一言もいいだなんて言ってない……!」
「ブローチはあなたが預かっていて。連絡用に伝書鳩を送るわ。そして、私の大切なペンダントを約束の代わりに置いていく。必ず、事が済んだらちゃんと元通りにするって誓うわ」
 どうしよう。このままではどんどん話が進められていってしまう。なんとか食い止めなくてはいけない。そう思うのに、エマを論破するアイデアが何も出てこない。リュシーは一人あわあわして狼狽(うろた)えるだけだった。
「で、でも、考えてみて。身代わりになるっていうことは、私、マルゴワール伯爵のおうちに行かなければならないということよね? その間、エマはこちらの工房にいるわけでしょう? お城に行く前にそこでボロが出ちゃうと思うの」
「安心して、そこは大丈夫。近々、家には王宮から迎えに来るの。その日にあなたと入れ替わればいい。そして、工房の仕事に関しては、仮病を使わせてもらうわ。私、演技は割と得意なのよ」
 さてはこれまでも抜け出すために色々としていたのかもしれない、と察せられた。
 いや、エマが得意だとしても、リュシーの方はそうではない。ただ、彼女と瓜二つというだけだ。ああ、そういうことか、と今さら理解した。エマは身代わりを頼めるような、自分に似ている女性を探していたのだ。そして瓜二つのリュシーを見つけた。
「一年かけて探したのよ。これが最後のチャンスなの。助けて、リュシー」
「……っ」
「それじゃあ、よろしくね。あとで伝書鳩を飛ばすわ」
 そう言うやいなやエマは帽子をまた目深にかぶってそそくさと出ていってしまった。
「リュシー、お客様どうしたんだい?」
 父のロイクが不思議そうに尋ねてくる。リュシーは目の前に置いてあったブローチとペンダントを慌てて掴み後ろ手に隠した。こんなものが見つかったら大騒ぎになってしまう。
 今度連絡をすると言うのなら、そのときまで持っていてほしかった。一般家庭のリュシーの家には頑丈な金庫のようなものはないし、たとえあったとしても父ロイクに見つかったら意味がない。一体どこに隠しておけばいいというのだろう。
「な、なんでもないの。また今度、ご依頼に来たいっていうことだったわ」
「そうか。ちょうどいい。そろそろ休憩していいぞ。お腹が減っただろう。ご婦人にパンをいただいたからよかったら食べなさい」
 リュシーはホッと胸を撫で下ろす。とにかく一旦、裏手にある自分の家の部屋に戻って、この宝物を隠してこねばなるまい。
(身代わり……つまり、エマに成り代わるということだ。替え玉作戦だなんて、どうしよう――)


2 七人の花嫁候補


『その日』はすぐにやってきた。
 エマと初めて会って替え玉作戦をお願いされた夜、眠れずにベッドで転がっているリュシーの元に鳩がやってきた。
 二階のリュシーの部屋の窓に羽音と共に影が現れた。コツコツと叩く音がしたので窓辺に近づきカーテンを開くと、銀灰色の美しい羽をもった鳩が円(つぶ)らな目を向けながら首を傾げた。肢(あし)を見て、という仕草のようだ。リュシーは階下にいる父ロイクを起こさないようにそうっと窓を開いた。
「エマのところから来たのね」
 クルックーと小さく鳴く。可愛らしい鳴き声だが、今は気付かれたら困る。
 しっと唇に人差し指をとんと乗せてから、リュシーは鳩の肢に括(くく)られた紙を開いた。
『ごきげんよう、リュシー。鳩は無事に手紙を届けたみたいね。名前はシハルっていうの可愛い子でしょう。よろしくね』
 送り主はやはりエマだった。夢なんかではなかったのだ。
『さっそくだけれど、作戦決行は明後日。王宮から迎えの馬車が夕方にうちにくるの。それまでにあなたと私は入れ替わるのよ。いいわね?』
「あ、明後日!?」
 思わず声を出してしまい慌てて手を唇に持っていく。
(嘘でしょう? 心の準備も何も整っていないというのに、まさかの明後日だなんて)
 リュシーは愕(がく)然(ぜん)とする。
『明後日の朝八時に、ティアー街中央通り噴水広場前。大切なもの忘れないでね』
 ティアー街はマルゴワール伯爵の邸をはじめ貴族たちが暮らしている地区だ。そこの手前にある中央通りの噴水広場は港町に住む人の待ち合わせ場所に使われることが多く、ちょうど様々な通りの分岐点になっているため、常に人通りが多い。そこで紛れる予定なのだろうか。想像したら手に汗が滲んできた。
 鳩のシハルはじっと大人しく待機している。返事の手紙を括るまでは離れないらしい。
 エマは彼女に似ている人物を探していた。ただ似ているだけではなく本当に瓜二つのレベルの相手を入念に調査していたことだろう。つまりこの作戦も拒まれることを見越して断る隙を与えないようにギリギリまで計画したのかもしれない。
 エマの事情には同情するし理解もできる。けれど、王子を騙(だま)すような真似をして、万が一バレたらタダでは済まないことくらい想像ができる。
 リュシーは思わず手鏡で自分の顔を見た。だから瓜二つのリュシーにしかできないことで、遂行できる可能性が極めて高いと判断したからこその作戦実行だということもわかる。
「どうしよう」
 いやです、と返したらどうなるのだろう。このまま無視をするわけにはいかないだろうか。でも、リュシーの引き出しにはエマから預かった大切なブローチとペンダントがあるのだ。そしてそれらを持ってティアー街の中央通りに行かなくてはいけないという。きっと返しに行かなければ、理由をつけてリュシーは連れ出されることだろう。逃れることはできない。ここまでのところはリュシーの完敗だ。
『明後日の朝八時、ティアー街中央通り噴水広場前。わかりました。必ず大切なものを持っていきます』
 リュシーはそれだけ記した。シハルの肢に括りつけると心得たように颯爽と銀灰色の鳩は空を翔(か)けた。
 ああ、私があんなふうに逃げ出せたらいいのに。明日なんとかエマを説得することはできないだろうか。すっかり眠気は去ってしまった。早鐘を打ったままの鼓動が、後戻りできない現実を告げていた。


 そして、約束の日――。
 マルゴワール伯爵のご令嬢・エマの元へ王宮から使いがやってくるという当日の朝。リュシーはエマから預かったブローチとペンダントを鞄に忍ばせ、外(がい)套(とう)のフードを目深にかぶった姿で外へ出た。
 工房の朝は早い。既に職人たちが動きはじめている。父は朝食を済ませると店の準備をしはじめた。リュシーは父に「マーケットがセールの日なので、開店前に買い出しに行ってくる」と、一声かけて家を出た。ロイクは疑いもせずに「気をつけて」と返事をくれた。
 約束の朝八時まであと二十分ほど。緊張しながら歩き続けると、ティアー街中央通りが見えてくる。その噴水広場前に向かっている途中、リュシーは一旦立ち止まって深呼吸をした。
 まずは、エマを説得してみることだ。
 噴水広場は朝から既に多くの人が行き来していた。リュシーはきょろきょろとエマの姿を探す。ベンチが均等に並んだ噴水の前に、ひと際輝くような、美しく着飾ったエマを見つけた。彼女は初めて出逢った日のように帽子をかぶっていた。
 エマもリュシーの存在に気付いたらしい。こちらにやってくる。リュシーもそろりと彼女に近づくことにする。対面するやいなやエマがぷっと噴き出した。
「なぁに、あなたの格好。仰々しすぎるわよ。笑いをこらえるのに大変だったじゃない」
「そ、そう? 目立ったらいけないと思ったのだけれど……」
「そんなにおどおどしていたら、逆に目立って仕方ないでしょう」
 ちらちらと人の視線がこちらに向けられていることに今さら気付いた。あまりに緊張していたせいで全然気にしていなかった。
「ごめんなさい」
「いいわ。これをとって。さっそく入れ替わっちゃいましょうよ」
 エマは言うが早いか、リュシーの羽織っていた外套をさっと引き剥がす。そして代わりに彼女の帽子をリュシーの頭に載せた。さっそく入れ替わろうとするエマの素早い行動に、リュシーは焦ってしまう。
「あのね、エマ。私、あなたに言おうと思って。やっぱりこんなことはよくないと思うの。もう少し何か別の方法がないかどうか、一緒に考えてみない?」
 ここに来るまでにエマを説得できないかずっと考えていた。その用意していた言葉を伝えると、エマはかぶりを振った。
「たくさん考えたわ。その上でこの作戦しかないって思ったの。あなたには悪いと思ってる。でも、私に瓜二つの人なんて他にはもういないわ。それに、もう時間がないのよ」
「でも、要するに殿下に見初められないようにするだけなら、何も入れ替わらなくてもできることでは? 嫌われるように仕向けるとか……」
 エマなら演技は得意そうだ、とリュシーは想像する。すると、エマはショックを受けた表情を浮かべたあと、あからさまに嫌悪感を露わにした。
「ノエル以外の人に手を握られたり、キスを迫られたりするかもしれないのよ。そんなの絶対に無理よ」
「……手を握られ……キ、キス!?」
「ないとは言えないわ。だって花嫁候補として呼ばれるわけですもの。セルジュ王子がどんなふうに見定めるかはセルジュ王子次第。案外、身体の相性でなんてことだってあるかもしれないわ」
「まさか。王位継承者の王子がそんな理由で選ぶなんて……」
「ありでしょう? だって世継ぎのためには。まあ、それは例えばの話。ひょっとしてリュシーにも好きな人がいるの?」
「い、いないけれど」
 そこまで口走ってから、どうして今いないと言ってしまったのか、リュシーはさっそく後悔してしまった。嘘でもいると言えば、エマは考え直してくれたかもしれないのに。
 すると、エマがふふっと愉(たの)しそうに笑う。
「あなたのそういう正直なところが好きよ、リュシー。それに、約束を守ってちゃんと大事なものを携えてここに来てくれたわ」
「はぁ。私の方こそエマの性格が羨ましいわ」
 リュシーはくったりと項(うな)垂(だ)れた。
「今日と明日の二日間だけ。私もちゃんと約束を守るから」
 小指を出されてしまい、リュシーが躊躇(ためら)っているとエマが強引にその指をリュシーの小指に絡めてしまった。
「邸に案内するわ。ボロが出ないように王宮の使いが到着するギリギリに戻るようにするわね。その間に、工房のことやあなたのお父様のことを教えてくれる? 私は具合が悪くなったことにしてなんとかやりすごすわ。家から『私』への連絡のやりとりは許されているから、伝書鳩のシハルなら王宮にも飛ばせるはずよ」
 心細いリュシーと違ってエマは何度も策を練って考えてきたのだろう。そして彼女が想いを寄せているノエルへの愛が確かなものだということが感じられた。一方でエマは一時的な逃避行でしかないこともしっかりと受け止めているのだ。いつかは誰かと結婚しなくてはならない。時間がないということも。
 それに比べて、リュシーが王宮に身代わりとして滞在するのは一週間や一ヶ月というわけではない。たったの二日……その間なんとかやりすごせばいいだけ。それで彼女の気持ちが少しでも晴れるのならば。
「わかった。頑張ってみる」
「ありがとう。リュシー! いつかあなたに好きな人ができたら、私も全力で応援するから」
「それよりも私はどうしても欲しい生地があるの」
 目を輝かせて訴えると、エマは若干引いていた。
「え、ええ。もちろんあなたの希望にも応えるわ。約束だもの。工房の資金だって援助させてもらうわ。それくらいは容(た)易(やす)い御用よ」
 うんうんとリュシーが頷く。欲しい生地が手に入れば、作れる衣装の幅が広がるのだ。夢は広がっていくばかり。想像を膨らませていると、エマがすっかり引いていた。
「あなたって変わってるというか、本当に衣装作りが好きなのね」
「ええ。大好きよ。生地を触るのも見ているのも、服や靴や鞄が仕立てられていくのも好き。新しく作ることもだけれど、お客さんが大切にしていたものを修復することもどちらも大事。完成したものを見て、お客さんが笑顔になってくれるのが嬉しいわ。今はお手伝い範囲内だけれど、自分でも色々なものをデザインをして、いつかドレスを作ってみたい。私の夢なの」
「そう。夢があるっていいわね」
 エマは微笑ましいというふうに表情を和らげた。
 リュシーの母はずっと前に病気で亡くなった。だからリュシーの作ったドレスを着せてあげられなかった。それでも母が手がけた素敵な衣装の数々と、母の笑顔やお客さんが喜ぶ姿は今でもたくさん目に焼き付いている。
 母が言っていた。自分の手の届く範囲でいいから、衣装作りで沢山の人を笑顔にしたい、幸せにしたい。父も同じ気持ちでいるようだ。母が亡くなって意気消沈していた日々はあったが、父は母が残してくれた思い出を胸によりいっそう工房を守り立てようと頼もしくなった。側にいる職人たちも懸命に支えてくれている。
 問題なのは老朽化した工房、オンボロになった機械や機材、道具。それらを新調するとなるとけっこうな費用がかかる。大口の取引が決まれば、と父が密かに零していたことをリュシーは知っている。
 夢を叶えるためには必要なものが多くある。気持ちは大事だが、現実的な部分だって無視はできないのだ。
 リュシーは不安や緊張よりもいつの間にか工房や衣装のことを考えてしまっていた。
(そうよ。割り切ってしまえばいいんだわ)
 エマほど強くて大胆な性格はしていないけれど、前向きな思考はどこか彼女に似ているのかもしれないとリュシーは自分で思ったのだった。


 マルゴワール伯爵邸の前に、立派な王家の紋章のついた六頭立ての馬車が停まった。
 使いの人間が邸の玄関へと訪ねてくる。マルゴワール伯爵は心待ちだったようで、娘の『エマ』をさあと差し出すように前へとやった。その娘の『エマ』が入れ替わったリュシーであることなどまったく気付かずに――。
(なんとか一段階目はクリアだわ)
 ご令嬢らしい品のある青いドレスに身を包んだリュシーは内心そんなことを思っていた。ドレスはリュシーが好きなものを選んだ。いつもとは違う清楚な色をお選びになるんですね、とメイドに言われてドキリとしたが、それは花嫁候補としての心意気だとか、好意的な意味だったようで、とくに今のところ疑われるようなことはない。
 ほっと胸を撫で下ろしたとき、使いの者が前へと出てきたことに、リュシーはぎくりとする。
「失礼させていただきます」
 そう言い、『エマ』の顔をまじまじと検(あらた)めた。何か手帳のようなものを見て、本人に間違いないか確認しているのだろう。リュシーは顔が引き攣りそうになるのを懸命にこらえて上品な表情を心掛けた。
「それでは、エマ様こちらへ」
(心臓に悪い……)
 馬車の中に入って扉が閉められた。
 やっとリュシーはため息をつく。顔面が石膏で固められたのではないかと思うくらい表情が強(こわ)張(ば)っている。もう既に生きた心地がしないのだが、大丈夫だろうか。
 今日と明日の二日間だけ。生地。工房。その三つを繰り返し念じ続けることでなんとか気持ちを保っていた。
 港町ルノーのティアー街にあるマルゴワール伯爵邸から王都ミラベルの最奥にあるエルザ王宮まではおおよそ三十分ほどで到着するということだった。
 大陸の西南に位置するフィルレイン王国は、西は海に東は山に挟まれた縦長の地形だ。国を分ける山脈の麓には青々とした丘と、空を映す美しい湖があり、その先の切り立った場所に白亜の城エルザ王宮があり、民の暮らす市街地や海を見下ろしていた。
 当然、ただの平民のリュシーが王宮を訪れたことは一度だってない。せいぜい知人のぶどう畑やオリーブ畑の収穫を手伝いに丘へと行くくらいで、近いようで遠くにある幻のような白亜の城をただ夢のように眺めるだけだった。
(まさか私が王宮に……連れていかれるなんて)
 それこそ夢にも思わなかった。
 無論、リュシーとしてではなくエマの替え玉としてだ。意識すればするほど罪の意識は強くなり、後ろめたさで胃がキリキリしてくる。そして鼓動は不安定に脈を打つばかり。そうして落ち着かないまま馬車に揺られていると、いつの間にか白亜の城が間近に迫っていた。
 切り立った崖の先にある王宮に入るには堅強な石造りの城壁に架けられた跳ね橋を渡ることになる。昔、敵勢に攻め込まれそうになったときにこの跳ね橋のおかげで、白亜の城は無事に守られたらしい。万が一誤って跳ね橋が動いてしまえば、真っ逆さまに谷底へと落ちていくことだろう。想像したらぞっとしてしまった。
 物珍しさにつられてリュシーが色々と思考を巡らせている間に、正門の一つ前の門に待機していた門番によって書状を確認されると、正門にたどり着き、そこからさらに王宮の玄関に続くアプローチへと馬車は進んだ。
 王宮の中に入るとそこは物々しい外観からは想像がつかないほどの美しい別世界だった。
(凄いわ。こんなふうになっているのね)
 リュシーの唇からは感嘆のため息が零れる。
 左右対称に整えられた立派な庭園の中央には初代の王を模したと思しき彫像が青々とした空を仰いでいる。庭園の周りにはアーチ状に飾り付けられた赤や白やピンクの薔薇が咲き零れ、高貴な香りを漂わせていた。
 馬車はそこで停車し、扉を開かれる。足元に巻き絨(じゅう)毯(たん)が広げられ、白い手袋を填めた王宮の使いが『エマ』にどうぞと手を差し出した。
(そうよ、私はエマ・マルゴワール)
「ありがとう」
 品格を損なわないように媚びない凜とした空気を保ちながらリュシーはドレスを蹴った。ドレスは蹴るようにしないと動けないことくらい仕立て職人の娘だから知識としては知っていたけれど、実際に着てみると、貴族の女性のお召し物は想像以上に重たく、蹴るのも歩くのもちょっとしたコツが要った。
 リュシーを見つけるのに時間がかかったのかもしれないけれど、断る隙を与えないために時間をかけなかったのがエマの策略なら正解かもしれない。でも、やっぱり付け焼刃ではできることが限られる。もう少し準備させてほしかったとリュシーは思う。
「謁見の時間まで控室にてお待ちくださいませ。ただいまご案内いたします」
「ええ」
 白い円柱が等間隔で並んでいる静謐な回廊へと進んでいく。今どこを歩いているかなんてわからない。時々、お仕着せの服を着たメイドが立ち止まって恭しく頭を垂れる。至るところに衛兵が配置されていて、常に人の目に晒(さら)されていることに、リュシーは身を硬くしてしまいそうになる。控室に行けば少しは楽になれるかと思ったが、それは大間違いだった。
 入った瞬間に、足がすくんだ。
 なぜなら、その場に『エマ』以外の六人の女性がいたからだ。
(彼女たちが……花嫁候補の人たち?)
 こんなに一挙に高貴な女性が集まる花園にお目にかかることはなかなかない。リュシーは煌びやかな世界に気圧されてしまう。
 彼女たちは皆、緊張したりどこか落ち着かなかったり、或いはツンとしていたり誇らしげであったり様々だ。あどけなく可愛らしい人、凜とした知的な空気を持つ人、などなど……雰囲気の違う女性が揃っている。やはりここにいるのは七人の花嫁候補ということだろう。今さらだが、エマの言っていたことは本当だったようだ。
 腹の探り合いのような視線を感じながら、最後に入ってきたのが自分だと気付いたリュシーは末席にそろりと座った。自己紹介のような挨拶はとくに必要なさそうだった。
「それでは皆様、謁見の時間が参りましたので、順にご案内させていただきます」
 先ほどの王宮の使いとはまた別の、上品な燕(えん)尾(び)服(ふく)を着た白髪の男性が現れた。
 襟につけられた高貴な紋章から察するに、侍従の中でも上位に位置する人物だろう。
「申し遅れましたが、私は王宮執事を務めております、レイモン・カルメと申します。何かお困りのことがございましたらお気軽にお声がけくださいませ」
 リュシーをはじめ令嬢たちの視線を感じとったのか、王宮執事と名乗ったレイモンは粛々と礼をとると、さっそく案内しはじめた。
 ドアに一番近い席に座っていた女性がまず呼ばれた。とするとリュシーは最後なのだろう。待っている時間が長ければ長いほど、どんどん胃がキリキリしてくる。でも、考え方によっては最後でよかったのかもしれない。きっと女性たちは自分を売り込むために必死にアピールするだろう。そして最後のリュシーが残念な女性だと思われればそれが正解だ。
 エマと相談したのだが、令嬢らしくない振る舞いをしたりセルジュ王子の話を聞いていないふりをしたり……とにかく気に入らないポイントを増やしていくことが大事だ。
 ――そう思っていたのに。
「君には一番会いたいと思っていた。だから最後にしたんだ。エマ。王宮へようこそ」
 輝かんばかりの爽やかな笑顔を向けられ、リュシーは目が潰れるのではないかと思った。
(ま、まぶしっ……キ、キラキラ……王子様……)
「ご、ごきげんよう、セルジュ殿下。此度は候補の一人としてお招きくださり……大変光栄ですわ」
 すっかりセルジュの麗しい雰囲気に気圧されて、リュシーは慎ましくドレスを摘まんでしまった。するとセルジュはその完璧で端整な表情を少し歪(ゆが)めた。
「君、以前に会ったときとは少し雰囲気が違うな」
 急な指摘にどきりと鼓動が跳ね上がる。顔が引き攣って唇が震えてしまいそうになった。
「そう、でしょうか。ドレスの雰囲気のせいかしら?」
 当たり障りなくとぼけてみる。ここでさっそく違和感を抱かれては先々困ることになる。なんとか話題を逸らしたい。
「そうかな。それより、馬車に揺られて酔いでもしたか」
「す、少しだけ。でも、もう大丈夫ですわ」
「そう。ならいいけれど。君になら本音を言ってもいいよね。さっきから様式美のような質疑応答には疲れた。少し外に出たいんだ。付き合ってくれるかな」
「え、あの……」
 雲行きが怪しい。リュシーが想像していた通りの展開にはならないようだ。
「殿下の仰せのままに」


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