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氷の伯爵の償い婚

イチニ / 著
蜂不二子 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/09/27

電子配信書店

  • piccoma

内容紹介

ずっと……ずっと、愛していた
「僕は前世で君を殺したんだ」父親が詐欺に遭い、家族が路頭に迷いかけた男爵令嬢・サラは、自らの結納金に一縷の望みをかけ、結婚を決意する。結婚相手を探しに出かけた夜会で、眉目秀麗だけれど冷淡だと有名な伯爵・フェリクスと出会う。初対面にもかかわらず、彼は涙ながらに前世の夫だと言って求婚してきて……。戸惑うサラに「どうか今世で罪を償わせてほしい」と懇願してくる。結婚生活が始まってもなお、彼の話を信じられないサラだったが、やがて想像を越える「前世」の全貌を知ることになって……。

立ち読み

「……君は優しいね……」
 フェリクスは僅かに目を伏せ、感じ入ったように呟(つぶや)いた。
 どこか熱っぽい眼差しで見つめられ、ドキリと胸が弾む。
(…………これって……もしかして……)
 フェリクスはサラに好意的なものを抱いているのではなかろうか。
 手入れの行き届いた広大な庭。城のごとく大きな屋敷に、華やかな大広間。
 今サラが座っているソファも、肌触りが良く高価そうだ。
 容姿にこだわりはないけれども、フェリクスの外見は思わず見蕩れてしまうほどに素晴らしい。
 性格も冷淡だという噂とは違い、寛容で優しそうだ。
 目の前の男性は結婚相手として、これ以上ないほど優良な相手であった。
 密室に二人きり。彼を『落とす』絶好の機会なのかも……と思ったが、さすがに無謀すぎると我に返る。
 フェリクスの外見や立場からして、結婚相手などより取(ど)り見(み)取(ど)りだ。
 そんな人が身分の釣り合わない、それも出会ったばかりのサラに靡(なび)くわけがない。
 結婚などあり得ない。せいぜい一夜だけの遊び相手だ。
 そう自嘲したのだが――。
「サラ……サラと呼んでもよいだろうか?」
「あ、はい。どうぞ」
「サラ、僕と結婚してくれないか」
 フェリクスが真面目な顔で求婚してくる。
「………………え?」
 サラは驚いて、フェリクスを見返す。
「決して不自由な暮らしはさせないと約束する。だから……どうか僕と結婚してほしい」
 聞き間違えではない。確かに彼は、サラに求婚している。
(奇跡だわ……!)
 騒動を起こしてしまい、理想の結婚相手を見つけるのは無理だろうと諦めかけていた。
 それが、衆目を浴びたおかげでフェリクスと出会い、見初められたのだ。
 サラは自分に絡んできたあの令嬢に、感謝したくなる。
 興奮し、浮かれかけたサラだったが、ふと先ほどフェリクスが口にした言葉を思い出す。
『あの女が君に言いがかりをつけているところを僕は見ていた』
 見ていた――聞いていたのならば、タンジェ男爵家が負債を抱えていることを知っているのだろうか。
 令嬢の言葉を、最初からは聞いていなかったのかもしれない。それとも本当に『言いがかり』で、根拠のない話で令嬢から喧嘩を売られていたと思っているのか。
 知ったうえで、サラに求婚してくれているならばいい。けれど、もしも知らずに求婚しているのだとしたら、タンジェ男爵家の金銭問題を理由に、求婚を撤回される可能性がある。
 サラが求める結婚相手は、多額の結納金と融資が期待できる、金払いのよい男性である。
 どちらにしろ、良い雰囲気になった男性には、あらかじめ負債があることを明かすつもりだった。
 先に求婚されてしまったが、負債についてはきちんと話しておかねばならない。
「……あの……お申し出は大変嬉しいのですが、私には少し事情がありまして……実は、私の父は詐欺に遭い、多額の負債を抱えているのです」
 サラの言葉にフェリクスは驚いた様子もなく頷く。
「借金を肩代わりしてくれる結婚相手を探しに来た……とあの令嬢は言っていたね」
 どうやらすべて聞いたうえで、サラに求婚してくれているらしい。
 ホッとしたが、お金目的だと知っているのに平然と求婚しているフェリクスに違和感も覚えた。
「負債の金額は?」
「え……」
「嫌ならば話さなくてもいいが、あまりに巨額な場合はバイヤール家の資産に手をつけなければならなくなる。そうなると少し時間が必要になるんだ」
「……正確な金額ではないのですが、おおよそ……」
 隠すつもりはない。いや、結婚相手の候補になった男性には、負債金額を話す予定でいた。
「その程度ならば僕の個人資産で払える。すぐに……明日にでも用意して、君の家に届けよう」
 サラが金額を明かすと、フェリクスは軽く笑んで頷いた。
(その程度……。その程度って……。結構な額だと思うけど……。個人資産で、払えるの? というか明日にでも用意して届けるって……)
 負債を返済してくれる、ということなのか。
「とにかく負債に関しては心配しなくていい。君のご両親の都合がよいなら、明日にでもご挨拶に伺おう」
 驚いているサラをよそに、フェリクスはどこか興奮気味に話を続けた。
「あ、あの……待ってください」
「明日はいきなりすぎるかな。都合のよい日を教えてほしい」
「いえ、そうではなく……」
「ああ……そうか。君の返事がまだだった。君の家の負債は僕が全部払うし、結婚後の君に決して不自由な思いはさせない。贅沢な暮らしができると約束する。もちろん君の嫌がることもしない。君の幸せのために僕のすべてを捧げると、この命に賭けて誓う。だから、どうか結婚してほしい。結婚してください」
 フェリクスはたたみ掛けるように言って、サラを見つめた。
(女っ気のない堅物だって噂だったけれど……実は惚(ほ)れっぽい人なのかしら……?)
 けれど、いくら惚れっぽいからといって相手のことをよく知りもしないのに求婚、そのうえ借金の肩代わりまでするだろうか。
 サラの目当ては結婚後に発生する結納金だ。それを返済にあて、あわよくば工場の融資をしてもらいたいと思っていた。
 だがフェリクスは、負債の返済をしてくれると言っている。
 サラは困惑した。もしかしたら、自分も詐欺に遭っているのかもと疑った。
「……僕と結婚するのは嫌か?」
 考え込んでいると、フェリクスが眉尻を下げ訊いてくる。
「嫌なわけではないのですが……」
「ならば、結婚しよう」
 期待に満ちた眼差しを向けられ、サラは顔を引き攣らせた。
「いえ、あの……バイヤール卿、なぜ、負債を返済してくださるのか……お訊きしてもよいですか?」
「なぜって、君は借金を肩代わりしてくれる結婚相手を探していたのだろう?」
「肩代わりというか……結納金と、結婚というご縁から、融資をお願いできたらと……」
 サラは正直に答える。
「もちろん結納金はきちんと納める。融資も喜んでさせていただくよ」
 ちゃりん、ちゃりん、と頭の奥で金貨の音がした。
 重なり散らばっていく金貨の幻影に目が眩(くら)むが、父のことを思い出し我に返った。
 父も、きっとこんなふうに上手い話をされて騙されたのだ。
「いえ! そこまでしていただくわけには」
「結婚したら結納金を納めるのは当然だ。義父が困っていたら、融資もする。妻のご家族が負債を抱え困っているのを、見過ごすことなどできない」
「……つ、妻……」
「すまない。まだ、君に結婚の許可をもらっていないのに……」
 フェリクスは申し訳なさげに言う。
「いえ、あの……そもそもどうしてですか? 身分も違いますし……。バイヤール卿はなぜ、私に求婚をしてくださるのですか?」
 結婚詐欺を疑ったものの、夜会場でのみなの反応からして彼がフェリクス・バイヤールなのは間違いない。
 それにバイヤール伯爵家の当主が、サラを騙す理由も思い当たらなかった。
(……高位貴族の中でこういう遊びが流(は)行(や)っているのかしら)
 初(うぶ)な令嬢をからかって遊んでいるのか。
 タチの悪い遊びに巻き込まれるのはごめんだと、サラはフェリクスの青い瞳をじっと見据えた。
「僕が君に求婚している理由が知りたいのかい?」
 サラは頷く。
「君を愛しているからだ」
 フェリクスは真っ直(す)ぐサラを見つめて言った。
「僕は君を愛している。愛している人が困っているならば、助けたいと思うのは当然だろう」
 曇りのない真摯な眼差しを向けられ、サラの心臓がとくんと大きな音を立てた。
 愛の告白をされるのは初めてだ。それも相手は、見蕩れてしまうほど素敵な容姿なうえに、身分まであるお金持ち。
 恋愛にそれほど興味はないとはいえ、サラも一応は年頃の女性である。『愛している』という言葉に、落ち着かない気持ちになった。
 しかし、すぐに頭の奥にいる冷静なサラが突っ込みを入れてきた。
(いえいえ待って。……愛してるって……ついさっき会ったばかりなのに……?)
 フェリクスは嘘を吐いているようにも、からかっているようにも見えない。
 やはり異常なくらい惚れっぽくて、そのうえ言葉が大げさな人なのか。
「僕は……君を探していた。ずっと……ずっと、愛していた。愛していたんだ」
 フェリクスは苦しげな表情で、さらに愛を告げてくる。
 ずっと、という言葉が引っかかった。
 もしかして彼とは今夜が初対面ではなく、以前どこかで会っているのだろうか。
(でも、彼は私の名前を知らなかった……)
 だとしたら過去に会ってはいるものの名乗らずに別れ、サラの出自がわからず探していたのか。
 けれど……サラには心当たりがない。
 フェリクスは美形だ。物覚えはよいほうではなかったが、さすがに彼のような美形と過去に出会っていたならば忘れるわけがない。
「先ほどお会いしたばかりだと思っていたのですが、もしかして以前……過去にお会いしたことがあるのでしょうか?」
 念のために問うと、フェリクスは遠い昔に想いを馳(は)せるように、両目を細めた。
「……過去。そうだね、僕たちは遠い昔。過去で、出会った」
 幼少時ならばフェリクスの外見も今とはずいぶん違うはずだ。
 サラも幼ければ、忘れてしまっている可能性が高い。
「……どこでお会いしたのでしょう?」
「前世だよ」
 サラの問いに、フェリクスはさらりと答えた。
「ぜんせ」
 サラは呆然と彼の言葉を繰り返す。
「そう前世。前世で僕たちは夫婦だった。僕は今世で前世の記憶を思い出してから、君をずっと探していた。だが……どれだけ探しても見つからなかった……君とはもう巡り会えない。それが運命なのだと……、君に会えないことが、愚かな僕への罰なのだと。そう思っていた。しかしもう一度、こうして君と出会えた」
 フェリクスは自身の胸を押さえ、声を震わせて言った。
「…………ぜ、ぜんせ。前世……。前世……? 前世、ですか……?」
「……君には前世の記憶がないみたいだね……何も思い出せないのかい?」
「え……ええ」
「そうか。そうだね……君に前世の記憶があったとしたら、こんなふうに無防備に僕に接してはくれなかったはずだ」
 フェリクスは自嘲するように薄く笑んだ。
「真実を明かさず君に求婚してしまった。僕は前世と同じく、卑(ひ)怯(きょう)で卑劣な男だ。――僕は……僕はね、前世で君を殺したんだ」
「……こ、殺した…………」
 物騒な言葉に一瞬驚くが『前世』である。
 前世で殺したと言われても、ピンと来ない。
「そう、殺したんだ。そして前世の僕は、そのことをとても後悔していた。……どうか、どうか、その罪を今世で償わせてほしい。愚かな僕に、どうか償う機会を与えてください。もちろん、己の罪を金で解決するつもりはないよ。負債の返済をしたあとも、生涯をかけて君に償う。許してくれなくてもいい……ただ……今世では、君に幸せになってほしい。君の幸せを守りたいんだ」
 フェリクスはせつせつと訴えるように言ってくる。
 青い目が潤み、溢れかえった滴がはらりと頬に流れ落ちた。
 涙だけでなく、唇まで小刻みに震えている。
 これが演技ならば、彼は名役者である。
 サラにはフェリクスが本気で、前世を信じているように見えた。
(…………彼が今まで未婚だったのって……もしかして)
 この妄想癖のせいなのか。
 心の病なのか、夢見がちな性格が起因しているのかはわからない。
 けれどフェリクスは、自身の前世を妄想し、それが事実だと思い込んでいるらしい。
「……あの……あなたが前世で殺した妻というのは、本当に私なんですか?」
 妄想癖があるにしても、なぜ妄想の前世妻が自分なのか。
 選ばれた理由がわからず、サラは恐る恐る問う。
「君だよ。間違いない。どうしてわかったのか、説明するのは難しい……だが心が君だと訴えかけてくる。今まで、多くの人と会ったけれどこんな気持ちになったのは初めてなんだ」
 どこを気に入ってくれたのかは不明だが、おそらくサラに一目惚れをしたのだろう。
「ちなみに、前世について明かしたのも君が最初だよ」
 惚れっぽい、というわけでもなさそうだ。
 フェリクスのような男性が自分に一目惚れするのか、という疑問は置いておくとして、サラにはなぜフェリクスが前世の贖(しょく)罪(ざい)をしようとしているのかも理解できなかった。
「……前世のことでしたら、お気になさらずとも……。生まれる前の出来事の責任など取る必要はないかと思います」
 仮に本当に前世が存在していたとしても、その罪を今世で背負うのはおかしい。
 記憶を持たない人がほとんどなのだし、『君は前世で殺人者だったので罪を償え』と言われたところで、それが事実なのか確かめる方法はない。
「責任を取りたいわけではない。責任を取れるとも思っていない。僕はただ君が困ったり、苦しんだりしているのを見過ごせない。君に償いたいだけなんだ。どうか償わせてほしい」
 フェリクスの青い瞳からぽろぽろと涙が零れている。
 容姿が整っているので、泣いている姿まで様になっていた。
(……よくわからないけれど……ここまで償いたいって言っているんだし。この際、ご厚意に甘えちゃってもいいんじゃないかしら……。でも――)
 前世話はフェリクスの妄想だ。その妄想の原因が彼の精神的外傷なのだとしたら。
 お金目当てで、フェリクスの弱点につけ込むのは良心が痛む。
「あの……償いならば、お気持ちだけで充分です」
「誰か他に結婚相手がいるのかい? それとも……やはり君を殺害した僕との結婚が嫌なのか?」
「そ、そういうわけではないのですが」
「僕に君を……君のご家族を救わせてくれないか?」
 痩せこけ青白い顔をした父と、塞ぎ込んでいる母の姿が脳裏を過る。
 家の者たちの不安げな顔が次々と浮かび、最後に無邪気なニコラの顔が浮かんだ。
(こんな好条件の相手と出会う機会なんて二度とない……それに)
 妄想に付き合ってあげているうちに、彼の心の傷を癒やすことができるかもしれない。
 結婚すれば、医者に行くよう促す機会だってある。
 自分のためだけではなく、結婚は彼のためにもなる……かもしれない。
 サラは自身の行動を正当化して、口を開いた。
「記憶はまだ思い出せませんが、あなたのお気持ちはわかりました。結婚のお話、私でよければお受けいたします」
「本当に? 本当に僕と結婚してくれるのか?」
 フェリクスが目を瞠(みは)って聞き返してくる。
「はい。……ぜ、前世のやり直しをしましょう」


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